yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2022.5日光・霧降高原を歩く

2022年10月31日 | 旅行
栃木を歩く>  2022.5 日光・霧降高原を歩く


 2022年5月、中禅寺湖畔ホテル湖上苑で、湖+山を見ながら朝食を済ます。
 快晴である。霧降高原を目指した。第 1 いろは坂=国道 120 号線=日本ロマンティック街道を下り、東武日光駅・JR日光駅の少し手前で県道169号線=霧降高原道路に左折する。林のなかを右に左にハンドルを切りながら山道を上る。
 9:50ごろ、霧降高原レストハウスに着いた(写真手前)。
 霧降高原は赤薙山(標高2010m)、丸山(標高1689m、写真後方)、小丸山(標高1601m)の斜面に広がる高原で、約26万株のニッコウキスゲの群生地として知られる。見ごろは6月下旬~7月中旬なのでキスゲにはまだ早いが、霧降高原レストハウス(標高1345m)から小丸山展望台(標高1582m)まで1445段の階段が整備されていて、40分で上れると紹介されている。
 天気はよし、山の風景を楽しみながら上ることにした。ルートマップを見ると、直線の階段と交差しながら斜面を緩い勾配で上るつづら折りの散策路も整備されている(図web転載、右下がレストハウス、左上が小丸山展望台、右下から左上の茶色が階段、つづら折りの灰色が散策路)。


 まずは足慣らしでつづら折りの散策路を歩く。フデリンドウ、トウゴクミツバツツジなどはピークを過ぎたそうだ。キスゲはまだである。ときおり小さな花が見える。咲き始めたベニサラサドウダンらしい。広々とした空を見やりながらゆっくり上る(写真)。
 つづら折りの散策路は階段と何度か交差する。それぞれの交差地点には階段・散策路の略図に現在地が記され、たとえばC地点では標高1372m、キスゲ平340m、小丸山展望台710m、高原ハウス110mなどが表示されていて(写真左手前)、どのくらい上ったか、あとどのくらい上るのかが分かる。
 あわせてC地点にはニッコウキスゲ、E地点にはツツジ、H地点には霧降高原スキー場といった紹介がされていて(写真右手前)、一息しながら霧降高原の特徴を知ることができる。


 散策路には、何カ所かベンチが置かれていて花を眺めたり山並みを遠望しながら休憩できるし、谷わたりや寝ころび広場が設けてあって、散策を楽しむ工夫も仕掛けられている。G地点あたりからキスゲの群生地のようで、略図にキスゲが描かれている。
 つづら折りの散策路はN地点までで、ここから階段だけになる。N地点あたりの標高は1466mで、散策路は勾配が緩いが120mほど上ったようだが、展望台までは半分の120mほど残っている。
 見上げると彼方まで階段が上っている(次頁写真)。階段には700段/1445段中、頑張れなどが記されている。気分は励まされるが、息が切れ、足が重くなる。階段設置者は疲れ具合も予想しているようで、O地点、P地点、Q地点それぞれに展望デッキを用意してくれている。
 O地点=955段の展望デッキで一息する。P地点=1184段の展望デッキでまた一息する。風は心地いい。彼方まで見通せる風景を眺めていると元気が回復してくる(写真)。Q地点=1360段の展望デッキでも一息する。
 元気のいい若者グループが抜いていった。疲れ切って階段途中で休んでいる人を抜いた。小学校低学年と高学年の子どもを連れた家族と抜きつ抜かれつになった。
 などなどをしながら、ようやく小丸山展望台=1445段に到着した。つづら折りの散策路を歩いたためか、案内板に書かれた40分より10分ほど多い50分ほどかかった。その分、山の散策を楽しんだことになる。


 大きく息をしながら、「男体山太郎山などは火山が噴火したとき粘り気の強い溶岩が流れ出て盛り上がったため丸い山になり(溶岩円頂丘)、その後の風雨によって一つだった丸い山が浸食され3つの尖った赤薙山、女峰山、帝釈山になった」などの説明を読む。
 日光三山は男体山=夫、女峰山=妻、太郎山=子を指す。中禅寺湖や戦場ヶ原から見える男体山は確かに丸い形だが、溶岩円頂丘の説明はなかった。小丸山展望台で補習ができた。解説を読んでいるうち息が整ってきた。
 小丸山展望台から遠望する(次頁写真)。正面が東で、彼方に栃木県・茨城県境となる八溝山地が小さく見える。その向こうは太平洋であろう。晴れ晴れとした遠大な風景を眺めていると、気分が大きくなる。
 足も元気を回復したようなので階段を下る。長大な階段を見下ろすと、よくぞ上ってきた、という気分になる(写真)。下りは楽だが、足、膝への負担は大きいので急がず下りる。それでも30分ほどで下りきった。
 だいたい11:30、霧降高原レストハウスの1階は休憩、展示、売店、2階は喫茶、軽食スペースになっているが、県民割りクーポン券を扱っていない。2000円分のクーポン券が残っているのでスタッフに聞いたら、大笹レストハウスで使えるはずと教えてくれた。


 県道169号線=霧降高原道路を上り大笹レストハウスを目指す。高原の山道で、風景が明るい。途中、深い谷にかかる六方沢橋を渡った。紅葉のころは絶景を楽しめるらしい。霧降高原レストハウスから20分ほどで大笹牧場に建つ大笹レストハウスに着いた。
 野外では大勢がバーベキューを楽しんでいる。演奏舞台を設営している。イベントがあるらしく賑わっていた。
 レストハウスの売店で栃木の地酒を見つけ、県民割りクーポン券を使い切った。まだ12:00前なので、県道169号線=霧降高原道路を下り、日光ICを目指す。
 日光宇都宮道路から東北道に入り、鬼平犯科帳をモデルにした羽生PAでランチを取り、15:00ごろ帰宅した。のべ330kmぐらいのドライブになった。日光は比較的近く、温泉があり、風景もよし、ハイキングにもよしである。
 (2022.10)

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2022.5中禅寺湖畔を歩く イタリア大使館別荘・英国大使館別荘

2022年10月28日 | 旅行
栃木を歩く>  2022.5 中禅寺湖畔を歩く イタリア大使館別荘 英国大使館別荘


 2022年5月、14:00ごろ、日光東照宮参拝後、第2いろは坂=国道120号線=日本ロマンティック街道を上る。明智平を過ぎて間もなく二荒橋前の交差点に出て、第1いろは坂=国道120号線=日本ロマンティック街道と合流する(明智平は2022.10訪問、別項に紹介予定)。
 大鳥居の立つ次の立木観音入口交差点で左折し、中禅寺湖の東縁=県道250号線を南に走る。このあたりは西に中禅寺湖が広がり、北に男体山を望める景勝地で、明治中ごろ~昭和初期に、景勝に優れた避暑地として外国大使館別荘や外国人別荘が多く建てられた。
 イタリア大使館別荘はだいぶ前から一般公開されていて、近年英国大使館別荘が改装され一般公開されたので訪ねた。
 それぞれに見学者用の駐車場はなく、歌ケ浜第2駐車場に車を止めて湖岸沿いの遊歩道を歩く。遊歩道は林に包まれていて散策には心地いい。木々の隙間から見える中禅寺湖を眺め、鳥のさえずりを聞き、のんびり歩くこと10数分で英国大使館別荘に着く。さらに数分歩くとイタリア大使館別荘である。


 イタリア大使館別荘アントニン・レーモンド(1888-1976)の設計で1928年に建てられた(写真web転載)。
 レーモンドはチェコ出身で、アメリカに渡りフランク・ロイド・ライト(1867-1959)のもとで設計活動を進め、ライトが帝国ホテル設計(1923年完成)のため来日したときに同行し、ライト帰国後、日本に設計事務所を開いた。軽井沢タリアセンに建つペイネ美術館は、1933年に建てられたレーモンドの別荘兼アトリエの移築である(長野を歩く「2021.11 塩沢湖・軽井沢タリアセン」参照)。レーモンドは軽井沢の聖ポール教会(1934)、群馬県高崎市の群馬音楽センター(1961、群馬を歩く「2022.4群馬音楽センター」参照)、新発田カトリック教会(1965)など数多くの作品を残している。
 イタリア大使館別荘は湖岸に沿って北西・南北軸とし、1階は湖側の広縁に続いてワンルームの食堂、居間、書斎を配置している(写真web転載)。2階も湖に面して寝室を並べていて、中禅寺湖の景観がデザインの基本になっている。
 レーモンドは木の質感を大事にする。イタリア大使館別荘でも木を現しにし、内外装に杉皮を市松模様に張っている。和を基調にした斬新なデザイン、中禅寺湖を見晴らす開放的な空間は居心地がいい。イタリア大使も喜んだのではないだろうか。
 1997年までイタリア大使と家族の別荘として使われたのち栃木県が買い取って修復し、一般公開した。観覧料は300円だが、英国大使館別荘共通観覧料は450円になる。
 イタリア大使館別荘では、コーヒーを飲みながらイタリア大使の気分で中禅寺湖の風景を楽しんだ。


 遊歩道を数分戻り英国大使館別荘を見学する(写真)。観覧料300円はイタリア大使館別荘共通観覧料を購入すれば450円になる。
 別荘のパネルを見てアーネスト・サトウSir Ernest Mason Satow(1843-1929)を知った。現在のドイツ・ヴィスマール生まれ、父はドイツ人、母はイギリス人で、ロンドンで学びイギリス外務省の通訳生となる。
 日本にあこがれ、1862年、19歳のときイギリス駐日公使館通訳生として着任する。日本語を習得して通訳官となり、幕末~明治維新の表舞台に登場する徳川慶喜、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、勝海舟、明治天皇といった要人たちと会ったそうだ。
 1866年に泉岳寺前に英国公使館が建てられ、アーネスト・サトウは近くに住み、日本人の女性とのあいだに子どもをもうけている。
 1895年、52歳のときに駐日英国公使になる。この間、日本各地を旅していて、1872年に日光を旅し、「日光案内」を刊行している。1896年、中禅寺湖畔に別荘を建てた。この別荘がのちに英国大使館別荘となり、2008年まで利用された。のちに栃木県に寄贈され、改装されて一般公開された。
 湖岸に沿って北・南軸とし、1階、2階とも中禅寺湖側に広縁を設けている。部屋は展示室に改装されているのでアーネスト・サトウが別荘としたときの間取りは不明だが、サトウの時代の家具調度品が置かれていて、英国文化の雰囲気を感じることができる(写真)。
 2階の英国文化交流室で、広縁を通して中禅寺湖を眺めながら紅茶をいただいた。
 湖の向こうの黒檜岳?、中山?、大岳?などの山並みを霧が過ぎていく(写真)。夕方は湖面に霧が出やすいそうだ。霧の動きは速い。風景が刻々変って見える。サトウや大使館員は雄大な風景を楽しんだのであろう。


 今日の宿は中禅寺湖北東の湖岸に建つホテル湖上苑である。宿に向かう途中、湖畔沿いのベルギー大使館別荘、フランス大使館別荘を通り過ぎる。両別荘とも、現在も使用されていて非公開である。
 最盛期には中禅寺湖畔に40棟ほどの大使館別荘、外交官別荘が建てられたそうだ。今日の宿、ホテル湖上苑は外国大使別荘の跡地に建てられ、その趣を生かした客室で寛げる、と紹介されていた。湖に面して立地し、北西・南東を軸にした木造2階建てで、客室、レストラン、露天温泉は目の前が中禅寺湖である。
 南西向きになるので、やや左にイタリア大使館別荘+英国大使館別荘記念公園、正面に八丁出島、その右に半月山(標高1753.2m、2022.10半月山を歩く、別項に紹介予定)が見える(写真左側、凹みが半月峠、峠の手前湖に突き出しているのが八丁出島と思う)。かつてのここの主だった外国大使はこの風景を楽しんだのであろう。
 まずは露天温泉から湖を眺める。波のひたひたが目の前で、水に浮かんでいる気分になる。2階の部屋でイタリア大使館別荘+英国大使館別荘あたりを眺めながら風呂上がりのビールを傾ける。おぼろげだが桟橋も見える。ここの主はイタリア大使が出かけた、英国大使館別荘に客人が来たといった情報収集をしたかも知れない、などを妄想する。
 夕食は箸で食べるフランス料理で、日光湯葉、ニジマス唐揚げ、栃木牛ステーキなどを、夕闇に揺れる波を見ながらいただいた。
  (2022.10)  

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2021.12+2022.5日光東照宮を歩く5 奥社 カフェふじもと

2022年10月12日 | 旅行
栃木を歩く>  2021.12+2022.5 日光東照宮を歩く5 奥社/坂下門・銅鳥居・拝殿・鋳抜門・宝塔 カフェふじもと・明治の館

 本社廻廊の潜門を出ると奥社に向かう石段が始まる。石段数段目に坂下門が建っている(写真web転載、重要文化財)。坂の下に立つから坂下門と名づけられたらしい。
 坂下門は1636年、徳川3代家光(1604-1651)による大造替時に建てられた。後述するが家康の神柩を埋葬した奥社・宝塔は1622年、徳川2代秀忠(1579-1632)により建立された。そのときに門も建てられただろうから、家光が坂下門として1636年に再建したのではないだろうか。
 坂下門は、薬医門形式で親柱と控え柱の中心に銅瓦葺き切妻屋根をのせている。手前=西面の桁上に白色顔料の胡粉と思える鶴と牡丹の彫刻、門の天井に牡丹、菊が描かれている。家光による大造替時に共通する装飾に華やかさを感じる。

 華やかさは坂下門までで、杉林のなかを上る石段は森閑とし、幽谷を感じさせる。江戸時代、奥社参拝は将軍に限られていたそうで、石段を上るうち東照大権現の神霊を受け継ぐ心構えが整えられたのではないだろうか。
 坂下門に、奥社への石段は207段、と書かれていた。坂下門あたりの標高は660mぐらい、奥社拝殿あたりが700mぐらい、標高差40m、40m/207段≒19cmで、蹴上げはさほどきつくないが40mはマンション13階分に相当する。途中、石畳の坂道もあり、一息して深山に漂う東照大権現の神気を感じる。
 廻廊の潜門、坂下門は東西軸で、石段も始めは東に上るが、やがて北向き、続いて北西向き、さらに西向きに向きを変える。奥社は本社の北の斜面に立地し、奥社への参道は本社を東から西に回り込むようにつくられている。
 西向きの石段を上りきると銅鳥居が立っている。一礼する。もともとは石造で、1683年の地震で倒壊し、同年、銅製で立て替えられた。1622年、徳川2代秀忠によって鳥居が立てられ、徳川3代家光が石造に立て替え、1683年の地震倒壊後、徳川5代綱吉(1646-1709)が銅製で立て直したのではないだろうか(写真web転載、重要文化財)。
 銅鳥居の北に建つのは銅神庫である(前掲写真左、重要文化財)。朝廷からの文書などが収蔵され、宝蔵と呼ばれたそうで、黒漆塗りの銅板で覆い、銅瓦葺き寄棟屋根をのせている。1654年に建てられたとされるから、徳川4代家綱(1641-1680)の代になる。

 奥社参道は将軍だけの参拝路のためか狭い。いまは一般の参拝者に公開されているので、写真を撮る人、向かう人、戻る人が錯綜する。日光山から吹き下ろす風は冷たく、参拝の気分を引き締める。
 参道は銅神庫の先で北に直角に折れ、石段になる。石段左右の寄進された狛犬がにらみをきかせている。
 石段の上に奥宮拝殿が南向きに建つ(写真web転載、左が南正面、重要文化財)。間口5間、奥行き3間、銅瓦葺き入母屋屋根で南面、北面を唐破風としている。
 拝殿も徳川2代秀忠によって1622年に建てられ、徳川3代家光によって1636年に建て替えられたようだ。外壁を黒漆塗りの銅板で覆い、渋い金飾りで縁取りしていて、重厚な感じである。
 二礼二拍手一礼の表示があったので、屋外でもあるし、二礼二拍手一礼をする。

 拝殿を東に回り込むと、拝殿の真北の石段の上に建つ鋳抜門が見える(写真、重要文化財)。鋳抜門の奥に東照大権現の宝塔が建つ。将軍は鋳抜門を抜けて宝塔に参拝したのであろうが、一般参拝者は立入禁止である。
 1622年、徳川2代秀忠によって石造で門が建てられたが倒壊し、1650年、徳川3代家光が金、銀、銅の合金である唐銅で門を再建した。唐銅を鋳型に流したあと、鋳型から抜き取ることから鋳抜門と名づけられた。

 鋳抜門を左に見ながら、石段を上ると奥社宝塔を東側から見ることができる(写真web転載、重要文化財)。宝塔には家康の神柩が祀られている。
 徳川2代秀忠(1579-1632)により1622年に木造の宝塔が建てられ、1641年、徳川3代家光(1604-1651)が石造に建て替え、地震倒壊後の1683年、徳川5代綱吉(1646-1709)が唐銅製で建て直した。八角形9段の基壇の上に、方形の屋根を乗せた円形の宝塔が凜として立つ。
 一般参拝者は宝塔の周りを東~北~西に進む。北側には銅製の鶴、花瓶、香炉が置かれている。仏具の三具足のようなので、北側から宝塔に向かい合掌する。
 少し先に樹齢600年で上部を切り落とした叶杉が立っている。幹の中が洞のように空洞になっていて、洞に向かい願い事をすると叶うと伝えられている。
 宝塔の西側を進み、拝殿西側の石段を下りて、奥社参拝を終える。拝殿で一礼し、207段の石段を降りる。坂下門で一礼し、潜門を抜け、陽明門から本社に一礼する。鍵型の参道を戻り、表門で一礼、石鳥居で一礼し、東照宮参拝を終える。

 2021年12月の日光東照宮参拝を終えたのは15:00近かった。マイカーを止めた輪王寺東側の駐車場に戻る。駐車場先に洋館風の「カフェレストランふじもと」が目に入ったので、ここでコーヒータイムにした(写真)。
 「ふじもと」の地続きで洋館風の西洋料理店「明治の館」も建っている。「ふじもと」+「明治の館」には駐車場もあり、東照宮参拝の地の利がいい。
 2022年5月はこの駐車場にマイカーを止め、「明治の館」でランチを取ろうとしたが混み合っていたので、「ふじもと」でゆばパスタを食べたてから東照宮参拝に向かった。

 話は飛んで、1890年、アメリカで円盤式蓄音機が考案され、1902年に商品化された。日本には1903年に輸入され、1906年、輸入商F.W.ホーンが横浜で蓄音機の輸入販売を始めた。蓄音機は順調に売れ、ホーンは1910年に川崎で日本蓄音機商会を設立し、コロンビアを商標として蓄音機、レコードの製造販売を始めた。日本蓄音機商会が日本コロンビアの前身になるらしい。
 子どものころ、家に手回しの蓄音機があったので「ペルシャの市場」など子どもにも分かりやすいレコードをよく聞いた・・にもかかわらず音感は鈍い。音感は天性のようだ・・。ラッパ型のスピーカーがついていた記憶がある。手回しを十分にしないと途中でふ~~~と音がダウンしてレコードが止まってしまう。
 その蓄音機がコロンビアかどうかは記憶にないが、ホーンは蓄財し日光に別邸を建てた。東照宮、輪王寺のすぐそばに別邸を建てたのだから相当財をなしたようだが、ホーンについては生没年も不明で、記録もほとんど残っていないそうだ。
 別邸を改装したのが現在の明治の館で、鉄板屋根、石造3階・地下1階、ガレージ棟を改装したのがカフェレストラン・ふじもとで、鉄板屋根、石造+木造2階建てである。
 ガレージ棟は石造の1階が駐車、馬車?スペース、木造の2階が運転手?、使用人?の居住スペースのようで、2階が改装されカフェレストランになっている。落ち着いた雰囲気でコーヒーやランチを楽しむことができた。

 2021年12月はコーヒータイム後、帰路についた。2022年5月はゆばパスタを食べたあと日光東照宮を参拝し、その後第2いろは坂を上り、中禅寺湖に向かった。
 (2022.10)  


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2021.12+2022.5日光東照宮を歩く4 本社 眠り猫

2022年10月11日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12+2022.5 日光東照宮を歩く4 本社/拝殿・石の間・本殿 眠り猫

 日光東照宮唐門本殿に向かって一礼し、透塀を眺めながら右に進むと本社と祈祷殿のあいだに屋根をかけた本社参拝の出入口がある。下足箱にスニーカーを入れ、参拝順路に従って歩く。
 国宝の本社は北側奥の本殿、あいだの石の間、南側の拝殿からなる権現造で、参拝者順路は石の間の東側を眺めながら拝殿南側に折れ、階段を上って拝殿に入り、拝殿から階段を下った先の石の間、石の間の向こうの階段を上った本殿に参拝し、順路を戻ることになるが、撮影禁止なので記憶がやや不確かである。
 参拝者順路から拝殿の床組みを眺めることができる。床は持ち送りの木組みで支えられていて、木組みはすべて金箔で縁取りした黒漆で仕上げられ、彩色豊かな彫刻で埋められている。
 2022年4月に埼玉県妻沼の国宝聖天山歓喜院を参拝した。歓喜院も権現造で、ガイドが日光東照宮建立で腕を振るった棟梁、職人たちの子孫、弟子が妻沼聖天山に再結集し歓喜院を完成させた、と説明していた。日光東照宮本社に比べ聖天山歓喜院の規模は小さいが、東照宮に倣った床組み、彩色豊かな彫刻は見応えがある。写真撮影もできる。日光東照宮の予習・復習にお勧めである(HP埼玉を歩く「2022.4桜を歩く3・国宝妻沼聖天山歓喜院」参照)。

 日光東照宮に話を戻す。拝殿、石の間、本殿はいずれも徳川2代秀忠(1579-1632)による東照社造営の1617年に創建され、徳川3代家光(1604-1651)により1636年に建て替えられた。
 拝観順路からは部分的しか見えないが、資料によると拝殿は間口9間、奥行き4間、銅瓦葺き入母屋屋根、石の間は間口3間、奥行き1間、銅瓦両葺き下ろし屋根、本殿は間口5間、奥行き5間、銅瓦葺き入母屋屋根である。
 拝殿に向拝がつけられているうえ、階段を上るので足下に気を取られて上部を見損なってしまったが、拝殿千鳥破風下に、唐破風下に家康の干支である寅にちなむと対の雌虎のイメージのが描かれ、向拝を支える海老虹梁に、柱上部の頭貫にの頭が彫刻されていたらしい。
 拝殿は畳敷きの63畳と広い。天井は折り上げ格天井で格子ごとに狩野探幽を始めとする狩野派の絵師による異なった龍が描かれ、「百間百種の龍」と呼ばれているそうだ(写真web転載)。大名たちの参拝は拝殿までとされた。いまも参拝者は拝殿までだったと記憶している。
 拝殿の右に18畳の「将軍着座の間」、左に18畳の「法親王着座の間」と呼ばれる別室が続いているらしい。非公開で扉が閉まっていたのか、記憶にない。天井は折り上げ格天井で、将軍着座の間の天井中央に葵紋が描かれ、将軍はこの真下に着座したそうだ。

 拝殿から数段下りると石の間で、わずか1間先の階段の上が本殿になる。石の間は畳敷きで、折り上げ格天井には狩野派の絵師による(らん)と呼ばれる鳥が描かれている。
 本殿は手前から外陣、内陣、内々陣に分けられているらしいが、本殿の扉は閉められていて、神職でも神事や煤払い以外は入れないそうだ。一般参拝者は拝殿までで、拝殿から石の間を通して本殿扉を眺めた記憶がある。本殿扉は黒漆を下地にして、金飾りで覆い尽くされていた。石の間左右=東西に花頭窓が設けられていて、朝夕の光を受け金飾りが輝く仕掛けになっている。
 祭神は東照大権現で、のちに源頼朝、豊臣秀吉も祭神として祀られたそうだ。神事なら二礼二拍手一礼になるが大勢が静かに参拝しているので仏事の合掌をし、拝殿を出て参拝者出入口に戻る。

 本社参拝者出入口の東に祈祷殿(写真web転載、重要文化財)が建つ。1635年、徳川33代家光(1604-1651)による大造替時に建てられた。間口3間、奥行き3間、銅瓦葺き入母屋屋根で南を正面とし、1間の向拝が延びだしている。結婚式、初宮詣、七五三詣などの祈祷が行なわれ建物である。

 祈祷殿の東は奥行き1間、銅瓦葺き切妻屋根、朱塗りの東廻廊で行き止まりになる。廻廊には奥社に通じる間口1間、屋根を唐破風にした潜門が設けられていて、門の唐破風下には波と鶴が彫刻されている。国宝「眠り猫」を初めて見に来た人は「眠り猫はどこ?」と探すかも知れない。神職は、門の手前に「眠り猫はこの先」の案内板を立てている。実際、国宝「眠り猫」は廻廊の向こう側の屋根組を支える蛙股に彫刻されているので、廻廊に入らなければ見ることはできない。廻廊に入ると、「眠り猫は上」と書かれている。神職の気遣いである。
 国宝「眠り猫」は左甚五郎作と伝えられ、豊かな彩りの蛙股のなかで牡丹に囲まれ猫が眠っている(写真)。
 日の光を浴びてうたた寝する猫のイメージだそうで、日の光=日光にちなんだといわれている。立体感があり、本物の猫が寝ているように見える。左甚五郎の力量であろう。
 「眠り猫」は頭上の蛙股に彫刻されているのでじっくり見たい人、写真を撮りたい人が立ち止まってしまい、間口1間の潜門の左右を入る・出るに分けているが、混みあってしまう。
 潜門を出ると奥社に上る石段が始まるので眠り猫の裏側の蛙股に気づきにくいが、潜門東側の蛙股には竹林とが彫刻されている(写真web転載)。
 猫が起きていれば雀は襲われてしまうが、猫が寝ているので雀は餌をついばむことができ、眠り猫と雀を裏表に彫刻してあるのは平和共存を表しているとの説もある。左甚五郎は、徳川家康により社会が平和になったことを蛙股の彫刻に託したようだ。  (2022.10)

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2021.12+2022.5日光東照宮を歩く3 ~陽明門~唐門

2022年10月03日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12+2022.5 日光東照宮を歩く3 鼓楼・鐘楼 廻廊 陽明門 神輿舎 神楽殿 唐門

 二之鳥居の正面の石段を上ると左右に鼓楼鐘楼が建っている(写真web転載、手前が鼓楼、参道を挟んで向こうが鐘楼、いずれも重要文化財)。陽明門は次の石段の上にそびえるように構えていて目は陽明門に釘付けになるが、参道左=西側の鼓楼、右=東側の鐘楼も極彩色の彫刻に彩られ、銅瓦葺き入母屋屋根、袴腰で目を引く。1635年、徳川3代家光(1604-1651)による大造替のときに建てられた。
 鼓楼、鐘楼ともに間口3間、奥行き3間、高さ12.6mと同じ大きさで、つくり方も同じだが、龍、麒麟、波などの彫刻は鼓楼が38に対し、鐘楼は78と多いそうだ。
 鼓楼の西奥には輪王寺薬師堂が建っている。遠足?修学旅行?で薬師堂の鳴き龍をを見学したことがある。東照宮参拝後に寄ることにし、鼓楼、鐘楼を眺めたあと石段下で陽明門を見上げる。

 陽明門の左=西に長さ9間、右=東に16間の廻廊が延びている(写真web転載、重要文化財)。本社の四方を囲む廻廊のようだが、石段下からは奥に延びる廻廊は見えない。
 1636年、徳川3代家光(1604-1651)による大造替時に創建された。柱間ごとに一枚板の透かし彫りで、花鳥の彫刻が施され、極彩色で仕上げられている。立体感のある彫刻で、いまにも鳥が飛び立ちそうな勢いを感じる。狩野理右衛門の作だそうだ。

 石段の上に国宝の陽明門がそびえている(写真、2022.5撮影、右の廻廊は修復中)。子どものころ、遠足、修学旅行で陽明門を見て壮麗さに大騒ぎした。その後、何度も参拝しているが、壮麗の印象は変わらない。
 徳川2代秀忠(1579-1632)が家康の改葬にあわせ1617年に東照社を造営したとき本社の門もつくられたが、1636年、徳川3代家光(1604-1651)による大造替でいまの陽明門に建て替えられた。
 2代秀忠は、家康の遺言による日光山改葬まで1年しかなく、東照社造営は何とか形にすることが急務だったと思う。3代家光は、父秀忠が造営した東照社は祖父家康による天下統一の偉業を表すには小作りすぎると思ったに違いない。徳川3代を継ぎ、父秀忠を芝増上寺に埋葬したあと東照社建て替えに着手、家康21回忌の1636年、家康の偉業を天下に示す新しい東照社が完成する。・・東照宮は宮号の宣下を受けた1645年以降の呼び方になる・・。
 本社の玄関口になる陽明門は、参道を上ってきた全国の大名に家康の偉業を誇示する格好の場所であり、壮麗さが群を抜く。
 間口3間の八脚門に、ぐーと迫り出した楼閣をのせ、その上に四方を軒唐破風にした入母屋屋根をさらに大きく迫り出した楼門である。参拝の大名は陽明門の壮麗さに圧倒され、自然に頭を下げたのではないだろうか。
 家康の権威を象徴するように、正面唐破風下には後水尾天皇(1596-1680)宸筆による東照大権現の扁額が掲げられている(このころ天皇と徳川家で諍いがあり1629年に譲位したので実際には後水尾上皇)。
 陽明門の名は、平安京大内裏に設けられた12の門のうちの東の陽明門に由来するらしい。日光山東照社・東照大権現が江戸のみならず平安京大内裏の東を鎮護する、との説がある。後水尾天皇の宸筆も陽明門の名も徳川家の権威の表れであろうが、後水尾天皇は徳川家の思い上がりに反発して譲位したようだ。

 陽明門の南側正面左右には、弓を持った随神が置かれている。しかし、随神よりも飛び出しそうな迫力のある彫刻、彩り鮮やかな彫刻に目が行ってしまう。彫刻の下絵、彩色は狩野探幽(1602-1674)で、中国の故事逸話、子ども、聖人賢人、霊獣、植物、鳥、雲、水波などを題材にした508体もの彫刻が飾られている。
 陽明門の南側正面上部、東照大権現の扁額の両脇には極彩色の麒麟が彫刻されている(写真、麒麟麦酒の麒麟とは違う、狩野探幽の想像であろう)。その下には彩色豊かなの顔と(いき?、そく?)と呼ばれた龍とはやや異なる動物の顔がずらりと並ぶ。
 中段には白色顔料である胡粉(ごふん)で仕上げられた頭が龍、足が馬の龍馬が並び、中央には目を完成させていない目貫の龍が彫刻されている。その下には彩色された獅子の顔と金に縁取りされた黒い斗栱が並び、下段に胡粉で白く仕上げられた獅子が彫刻され、あいまに中国の故事逸話をもとにした聖人、賢人たちの彫刻が彩色されて挿入されている。
 黒い屋根の水平線、黒を基調に金で縁取られ彩色された彫刻の水平線、胡粉で仕上げられた白い彫刻の水平線、黒を基調に金で縁取られた彫刻の水平線、胡粉による白い彫刻の水平線が重なり、上に行くほど迫り出していて、圧倒する壮麗さを演出するようだ。
 龍が目につきやすい要所に配置されているのは、徳川家康の干支のためであろう。
 
 一礼して陽明門に入る。通路の天井にも狩野探幽による昇り龍降り流が描かれている。
  門の奥、随身の奥側左右には阿吽の狛犬が置かれている。大正時代の作らしい。
 陽明門を出る。陽明門は間口3間=7mほど、奥行き2間=4.4mほど、高さ11mの楼閣をのせた八脚門である。八脚とは、中央に並ぶ4本の柱と、前後の控え柱4本ずつで支えるので、柱は12本になる(八脚は控え柱8本を指す)。
 柱はすべて貝殻をすりつぶした白色顔料の胡粉で塗られ、「グリ紋」と呼ばれる渦巻紋様が隙間なく彫られている。11本は上向きの渦巻だが、北側の2本目は下向き渦巻で、逆柱と呼ばれている(写真)。
 古来、完璧、完全は魔が差す、魔を呼ぶと考えられていて、魔除けのため1本だけを逆さ紋様=非完璧にしたそうだ。
 門南側中段の目を完成させていない「目貫の龍」も魔除けのため未完成にしたようだ。

 陽明門の先は玉石が敷かれた本社前庭で、あいだに敷石の通路が設けられている。陽明門の正面は左右に透塀を延ばした唐門が構え、前庭左=西に神輿舎、右=東に神楽殿が建つ。
 陽明門から唐門までは10数mで空間密度が高い。何度も石段を上り、壮麗な陽明門を通ったところで空間密度を高め、参拝者の緊張感をいっそう高める演出のようだ。
 神輿舎は廻廊を背にして、東向きで建つ(写真、重要文化財)。創建は徳川3代家光(1604-1651)による大造替時の1636年である。間口3間、奥行き3間、銅瓦葺き入母屋屋根、正面妻側は千鳥破風に軒唐破風をつけている。
 扉は開放され、春秋渡御祭=千人武者行列に使われる3基の神輿、中央に徳川家康を祭神とする神輿、左に源頼朝を祭神とする神輿、右に豊臣秀吉を祭神とする神輿が納められている。

 神楽殿は廻廊を背にして北向きに建つ(写真web転載、左の平側が北向き正面、重要文化財)。
 徳川2代秀忠(1579-1632)による東照社創建時に神楽殿も建てられたが、徳川3代家光(1604-1651)による大造替時の1636年に建て替えられた。間口3間、奥行き3間、銅瓦葺き入母屋屋根で北向きの平側を正面になる
 鼓楼、鐘楼も同じ形で参道の左右に並んでいた。神輿舎、神楽殿もほぼ同じ形で参道の左右に並んでいる。東照大権現を祀る本社への軸性を高める仕掛けであろう。

 陽明門正面に南向きの国宝唐門が建つ(写真)。創建は徳川2代秀忠(1579-1632)による東照社創建時で、徳川3代家光(1604-1651)による大造替時の1636年に建て替えられた。
 間口1間、奥行き1間、銅瓦葺き四方を唐破風にした屋根を乗せている。本社への正式な門になるが、通常は使用されない。
 屋根の左右=東西先端の彫刻は(つつが)と呼ばれる唐獅子である。柱は貝殻をすりつぶした白色顔料の胡粉で塗られ、右の柱には昇り龍、左の柱には降り龍が黒檀、紫檀で彫刻されている。龍は昼を守護し、恙は夜を守護するそうだ。
 唐破風下の妻壁も胡粉で塗られていて、南側正面、上段は七福神、八仙人、七賢人など、下段は「舜帝朝見の儀」と呼ばれる中国の伝承が彫刻されている(写真)。彫刻は611体で陽明門よりも多く、唐門の重要性をうかがわせる。
 唐門から左右に延びる透塀は本社の四方を囲む瑞垣のようで、柱間は花模様を透かした花狭間格子とし、上部に植物と鳥、下部に波と水鳥を彫刻している。透塀の色調を抑えることで、唐門の象徴性を高めているようだ。  (2022.10)

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