1990年代に何度か台湾を訪れた。そのとき、九族に分かれた先住民がいることを知った。さっそく、その歴史を伝える九族文化村を訪ねた。それが下記の後半になる。しかし、台湾各地には九族の歴史を伝える痕跡は見つからない。すっかり現代化したようだ。
1992 台湾を知る・九族の住まい /1996.2 図写真はホームページ参照。
台湾を知る
台湾は北回帰線あたりに位置していて、亜熱帯気候区に属する。・・略・・
台湾の土着の民族はマライ・ポリネシア語系に属する人々で、かつてはかなりの部族に分かれていたらしいが、近年は10数族とされる。台中から山間に入ったところに九族文化村があり、ここにはアタイヤル、サイセット、ツオウ、ブヌン、ルカイ、パイワン、ヤミ、アミ、ピュマの伝統が紹介されている。
彼らは、フィリピンに続く諸島に近いことや言語の区分から、バタン諸島を介して現在のフィリピンやインドネシアの民族と交流があったと推察できる。
・・略・・ 先住の部族は(地図参照)、当初、平地に住み漁労、狩猟を営んでいたと考えられる。しかし、中国大陸に近いことから中国人が少しずつ移り住み始めた。
中国は政変が再三あり、そのたびに漢民族の移動が発生した。・・略・・ 福建省や広東省の中国人が台湾に大挙して移り住むことも少なくなかった。
こうして次第に中国系台湾人が勢力を拡大、対して先住の族は徐々に平地を追われ山地や東海岸沿いに移り住むようになった。
台湾が中国の版図に書かれるようになったのは13世紀初頭、明の時代で、この頃には台南、高雄を中心に中国人の町が形成されていたと推察できる。
・・略・・ ところで台湾はFormosaと呼ばれた。これは16世紀ごろにアジアに進出したポルトガル人の命名で、美しい島を意味している。
・・略・・ 西洋諸国のうち台湾に本格的に上陸したのはオランダで、1624年、台南近くの安平に砦や城の築き、植民地の建設を開始した。植民地経営には人手が必要なことから福建・広東省から大勢の中国人を移住させた。台湾で本格的に農業が経営されたのはこの頃である。
ところで、当時の台湾は日本の和冦や中国系の海賊の基地にもなっていた。明は海賊に頭を悩ませていたこととオランダを追い出したく、国姓爺合戦(近松門左衛門の人形浄瑠璃・歌舞伎)で知られる鄭成功の父で海賊の筆頭である鄭芝竜に官位を与え海賊の討伐を依頼した。
早速、鄭は福兼・広東省から大勢の中国人を移住させ、勢力を拡大、一時は日本からマカオあたりまでを制覇するに至った。
間もなく中国は明から清の時代に代わる。清は明の残軍であり強大な水軍をもつ鄭芝竜を策謀で幽閉、怒った鄭成功は清に対抗すべくまずオランダを撃破、台湾政府を樹立した。時に1662年、オランダは36年で撤退したことになる。
鄭の台湾政府は積極的に福建・広東省からの移住を奨励し、台湾の開拓に努めた。しかし、1683年、清の大軍の前に全面降伏することになる。この間22年、以降、台湾は清の支配下に入るが、北京と離れているためか清は台湾の内情にあまり関心を示さなかったといわれる。
・・略・・ 一方、清は1911年、辛亥革命により崩壊、代わって孫文を臨時大統領とする中華民国が成立した。しかし、1921年には中国共産党が成立、主導権を巡って抗争が続いた。そして、1948年、共産党が北京に入城し、中華人民共和国が成立する。
この間、台湾には、日本の敗戦によって台湾が解放された時期と中華人民共和国が成立する時期に、大陸から再度、中国人が移住している。前者は政治・経済の安定のためで数は少ないが軍人や官僚、財界人が大半であり、後者は中華民国を是とする大勢の人々である。
以上はにわか勉強による台湾略史のため誤りがあればご容赦を。
九族の住まい(九族文化村)
①アタイヤルAtayal族 (写真) 主に台湾の北・東部の海岸から山地にかけて住む。住まいは木造であるが竪穴式と平地式がみられる。竪穴式は木造架構にスレート葺きの屋根、横板張りで、室内は一段下がり、ベットがおかれる。平地式は木造架構にドーム状の草葺き屋根、横板張りでやはりベットがおかれる。
②サイセットSaisiyat族 主に台湾北・中央部の山地に住む。最も人口の少ない部族。木造架構で屋根は板に竹葺き、壁は竹仕上げで、室内は高床の竹簀の子になっている。
③アミAmi族 主に台湾東側海岸沿いに住む。農耕を営んでいるが、都会に出る者も多く、同化が進み伝統的な住まいは少ない。住まいは木造で、草葺き屋根、竹・茅壁である。室内は高床で、竹簀の子である。方位が重視され、男の座、女の座の区別もみられた。
④ブヌンBunun族(写真) 主に台湾東・中央部の山地に住む。住まいは石造と木造がみられる。石造は、壁が石の乱積みで厚さは70cmほど、住まい正面には大版のスレートが張られ、屋根は木造架構にスレートを張る。室内には屋根を支えるための柱が立つ。床は石張りで、前面の庭の石張りと連続する。前面壁際に石台がつく。木造は、屋根、壁ともに板張りである。
⑤ツオウTsou族 (写真)主に台湾中央の山地に住む。住まいは木造架構で草葺き屋根、竹簀の子壁である。集会所は胸ぐらいの高さの高床で、壁はなく吹き放しである。
⑥ピュマPuyuma族 主に台湾南・東部の海岸沿いに住む。住まいは木造架構で、草葺き屋根、土壁である。集会所は背丈より高い高床で、草葺き屋根、竹簀の子壁で、円形平面である。
⑦ルカイRukai族 主に台湾東・南部の山地に住む。住まいの外観は石造だが、集会所は木造架構に草葺き屋根、竹壁である。住まいの壁は石の乱積みで70cmの厚さになり、住まいの正面には大版のスレートが張られる。屋根は木造架構にスレートを張る。室内の床は主にスレートを用いた石張りで、前面の庭の石張りと連続する。前面壁際に石台がつく。間取りは2室が基本で、台所空間と居間・寝室空間に分かれる。室内外に彫刻が施されるが、人間と蛇のモチーフが多い。
⑧パイワンPaiwan族 (写真) 主に台湾南部の山地に住む。一般の住まいは壁、屋根ともに石造だが、頭目の住まいは石壁に板壁が併用され、屋根は草葺きである。いずれも住まい前面は石張りで、石台がつく。室内装飾には人間と蛇が描かれている。
⑨ヤミYami族 台湾東南方のランユー島に住み、半農半漁を営む。住まいは竪穴式で、木造架構に草葺き屋根、一部を石積みとした竹簀の子壁、室内は転ばし根太に板床である。作業場は高床になっていて、草葺き屋根、竹簀の子壁、板床である。室内装飾には魚や波がモチーフに用いられる。
2017.2 コンドルの弟子・片山東熊設計の迎賓館赤坂離宮を見学 ② 2017.2 フルページ、写真はホームページ参照。
花鳥の間
およそ330㎡の長方形の広間で、公式晩餐会や首脳会議に利用される。16世紀後半、フランス・アンリー2世時代のルネサンス様式が基調だが、壁は茶褐色の木曽産シオジ材を張ってあり、重厚な感じである。
壁の中段に、花鳥を題材にした渡辺省亭の下絵を濤川惣助が七宝焼きした楕円形の七宝花鳥図三十額が飾られている。細かな線と鮮やか色合いのいきいきした花や鳥を間近に見ることができる。
天井は格子で36に区分され、フランス人画家による花卉鳥獣画などが描かれている。
欄間には花鳥をデザインしたゴブラン織りが張られているが、七宝や天井画に比べやや暗い印象だった。部屋全体の装飾が花鳥であることから、花鳥の間と名付けられた。
朝日の間
花鳥の間を出た先が広々とした2階大ホールで、東側に朝日の間があるが、修復工事のため見学不可となっていた。
パンフレットによれば、天井に長径8.26m, 短径5.15mの大きな楕円形の「朝日を背にして女神が香車(チャリオット)を走らせている姿」の絵が描かれているそうだ。18世紀のフランス古典様式でデザインされていて、国・公賓用のサロン、表敬訪問や首脳会談などに使われるらしい。写真で見ると、明るくきらびやかである。周囲の円柱はノルウェー産だそうだ。
中央階段・2階大ホール
2階大ホールの東側・朝日の間の扉の左右に小磯良平による大きな油絵が飾ってある。向かって左が「絵画」、右が「音楽」である。写実的な絵で、絵画、音楽の主題が理解できる。
ホールの中央に見学者は立ち入り禁止の階段があり、のぞくと華やかな感じのデザインが見える。賓客、要人は正面玄関から入り、中央階段から大ホールに上がってくることになる。
階段の周りには、イタリア産大理石を使ったコリント式の円柱が並んでいて、華やかさを演出している。
彩鸞の間
大ホールを西に進むと彩鸞の間がある。部屋の両端にねずみ色の大理石で作られた暖炉とその上に半円アーチ型の大鏡があり、暖炉の両脇と大鏡の上に鸞らんと呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りが飾られていて、部屋名になったそうだ。
室内は、19世紀中ごろ、ナポレオン1世時期のフランスではやった室内装飾であるアンピール様式を基調にしていて、壁、天井は白の石膏に金箔が浮き彫りされている。
金箔の浮き彫りのなかには鎧や兜もあり、和洋折衷が工夫されている。この部屋は表敬訪問の賓客の控え室、晩餐会の招待客を謁見する間、条約・協定の調印式や国・公賓とのインタビュー等に使用されているそうで、日本の伝統的な武具である鎧、兜を話題に話がはずんだかも知れない。
壁には10枚の鏡がはめ込まれていて、広々とした華やかな雰囲気になっている。
羽衣の間
大ホールの南側を東に戻ると、羽衣の間がある。天井一面に謡曲の羽衣をテーマにした絵が描かれている。
広さは330㎡で花鳥の間と同じ広さだが、18世紀、フランスの古典様式を基調に、壁は白石膏+金箔浮き彫りで、窓も大きく、花鳥の間の重厚さに対し、明るく華やかである。
金箔浮き彫りは楽器や楽譜がデザインされている。中2階にオーケストラボックスがあり、舞踏会場としても使われたことをうかがわせる。
また、雨天の際の歓迎行事、レセプション会場、会議、晩餐会の招待客に食前酒や食後酒を用意し歓談する間としても使われたそうだ。
一般公開はここまで、非公開の部屋が並ぶ長い廊下を通り、西側翼楼の入館口から外に出て、南側の主庭に向かう。
主庭
全面砂利敷きの主庭の中央に噴水池がある(写真)。説明は無いが噴水には、羽を広げた珍獣やのけぞったいるか?のブロンズが飾られている。
主庭に面した本館中央部は南に大きく張り出してコリント式オーダーの円柱にし、両端とあいだの開廊はイオニア式のオーダーを乗せた円柱を並べ、中心性を強めている。開廊は南の日だまりと主庭の眺めを楽しむための工夫であろう。噴水池の先は崖で、開廊からの見晴らしは良さそうだ。
噴水池を一回りし、西側翼楼に戻り、正面側前庭に出る。南側外観の開放的なデザインに比べ、荘重なデザインである。
中央車寄せのせり出しの屋根部分には鎧・兜をまとった武者姿のブロンズが飾られている。重厚さを狙いながらも、武者を飾るユーモアを感じた。片山東熊は幕末、山口藩の奇兵隊に属していたから、ネオ・バロック様式+武者姿を発想したのかも知れない。
石畳の前庭から、緑庭に建つ旧衛士詰所前を通り、正面門扉から外へ出る。右手・東側に折れ、外堀通りを下ると、切妻瓦葺きの門がある。紀州藩中屋敷の名残だろうか。説明は無い。
外堀通りを横断した先が国史跡「喰違見附」である。外堀の向かって左の土塁を右の土塁まで食い違うように伸ばし、江戸城に向かう紀尾井坂の通りをクランク状にして敵の侵入を防ぐ構造であり、当時の原形をとどめている。
紀尾井坂の向かって右が井伊家=現在のホテルニューオータニ、左手が尾張家、井伊家の先が紀伊家の屋敷が並んでいたため、紀尾井坂と呼ばれ、現在の紀尾井町となった。
坂の手前の細道を入るとホテルニューオオタニの庭園になり、彦根藩井伊家の中屋敷跡の説明板が立っている。ホテルニューオオタニの広々とした庭園を一回りしながら、江戸期の大名の豪勢さに圧倒される。
今も昔も庶民の暮らしは細々だが、自由を楽しむことができる。ガーデンタワーの40階のベッラ・ヴィスタで遠望を眺めながらランチをとった。
2017.2 コンドルの弟子・片山東熊設計の迎賓館赤坂離宮を見学 ①フルページ、写真はホームページ参照。
2016年末に迎賓館赤坂離宮の参観を予約をし、2017年2月の予約日に出かけた。
日本には、赤坂と京都御苑内に迎賓館があるので、迎賓館赤坂離宮、京都迎賓館と呼び分けている。
迎賓館は、外国の元首またはこれに準する者、または三権の長相当の外国の賓客で、国賓として招請することを閣議決定した場合に宿泊、接遇することができ、首脳外交など実務を目的として訪日する外国の元首や首相などに対しては宿泊を伴わない招宴その他の接遇を行うそうだ。庶民には縁の無い空間である。
それでも迎賓館赤坂離宮=旧東宮御所は日本の洋風建築指導の第1人者コンドルの弟子の一人である片山東熊の設計で、近代史に登場する貴重な遺構である。
写真で何度も見たし、正面門扉を通して眺めたこともある。ごく最近、賓客の接遇に支障ない範囲で本館・主庭、および和風別館の参観ができるようになった。
明治初期の欧化主義を実感するいい機会と思い、年末にインターネットで予約をし、予約当日、時間があれば前庭からじっくり眺めようと思い、少し早めに出かけた。JR中央線四谷駅を降りて迎賓館に向ったら、意外と大勢がぞろぞろ歩いて行く。
なんと、予約が無くても余裕があれば参観ができるそうだ。そのまま係員の誘導で荷物検査をし、料金1000円を払い、入場した。
ちょっとおさらい。
1858年安政5年、日本は列強の要求で不平等条約といわれる通商条約をイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、ロシアと結び、箱館=函館・神奈川=横浜・新潟・兵庫=神戸・長崎を開港する。
1868年明治元年、明治新政府は植民地化されないで生き残る道を模索し、富国強兵・殖産興業を目指した。そのため、明治新政府の強力な指導体制のもとで西欧化が進められる。
1870年・明治 3年、工部省を設置し外人技師による徒弟的教育を開始、翌1871年明治 4年、工部省内に工学寮を設け「工部ニ奉職スル工業士官」を養成するための本格的な教育を始めた。
建築分野ではウォートルス(英)、ボアンビル(仏)、カペレッティ(伊)などのお雇い外国人講師に指導を依頼したが、給与は高いが教育の力量を備えておらず、日本を見下した技術教育しかしなかった。
たとえば、1871年明治4年 工部省工学寮で造家学を指導したのボアンビル(仏)だった・・このころは建築という言葉が無く、造家と呼ばれていた・・。
1877年明治10年、イギリス人ジョサイア・コンドル(1852-1920)を招聘する。工部省工学寮造家学科で、コンドル教授による本格的な建築教育(建築様式・構造・製図)が始まる。生徒は4人だった。
1879年明治12年 辰野金吾・曾弥達蔵・片山東熊・佐立七次郎が第一回卒業生となる。辰野は卒業後、イギリスに留学、帰国後の1884年明治17年、コンドルに代わり工部大学校教授に就任、1886年明治19年、工部大学校は帝国大学工科大学と名を改め、のちに帝国大学東京大学となる。
曽根、左立は工部省に入り、のちに民間の設計事務所を開設し活躍、片山も工部省に入り、のちに宮内省に移る。迎賓館赤坂離宮は片山の代表作の一つであり、現在は国宝に指定されている。
迎賓館赤坂離宮
元紀州藩中屋敷跡地に洋風の東宮御所が計画され、片山東熊が設計を担当した。片山は有栖川宮親王のヨーロッパ視察に同行していて、このとき洋風の様式を実地で見ていたから、この知見をもとに東宮御所をネオ・バロック様式でデザインした。着工は1899年、完成は1909年である。
しかし、ネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としては使い勝手が良くなかったことから、皇太子嘉仁親王=後の大正天皇は御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮となり、その名称も赤坂離宮と改められた(写真、北側正面)。
1924年(大正13年)、大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王=後の昭和天皇と良子女王=後の香淳皇后が成婚し、その後の数年間、赤坂離宮は裕仁親王一家の住居たる東宮御所として使用されたが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮となり、またもほとんど使われなくなった。やはり、使い勝手の悪さと維持費が高すぎたようだ。
第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地と建物は国に移管され、国立国会図書館(1948–61)や裁判官弾劾裁判所(1948–70)、東京オリンピック組織委員会(1961–65)などに使用された。
その後、外国の賓客を迎えることが多くなり、それまで迎賓館として使用していた東京都港区芝白金台の旧朝香宮邸=現東京都庭園美術館は手狭で随行員が同宿できなかったため、1967年、赤坂離宮を改修し、外国賓客に対する迎賓施設とすることが決定された。
本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、1974年現在の迎賓館が完成した。2009年に国宝に指定された。2016年から賓客の接遇に支障ない範囲で一般公開が始まった。そしていま、正面門扉あたりから物々過ぎるぐらいの警備員?誘導員?の案内で、一般公開の入場口である西門に着いた。
本館は中庭が二つある目の字型の平面で、北正面側は東、西ともにL字型に翼楼が突き出ている。西門入口でパンフレットをもらい、荷物検査をし、入場券を購入すると、その先が西側のL字型翼楼の入館口になる。
館内にもいたるところに係員が立っていて、写真・携帯はしまいなさい・・、傘や突起物、ペットボトルもしまいなさい・・、壁や調度品に触らないで・・、立ち止まらず・・、大きな声で話さない・・などなどの警告を絶え間なく告げている。賓客接遇+国宝だから物々しいのはやむを得ないだろうが、ヨーロッパの似たような施設の見学では写真も撮れたし、雰囲気がもっと大らかだった。
パンフレットには見学できる部屋の写真と説明が記されているが、平面図は無い。館内にも見取り図が無いのでどこを歩いているか分かりにくい。
たぶん、西側翼楼の入館口から東に進み、正面玄関ホールで中央階段を見上げ、その先の階段を上って最初に花鳥の間の見学になる。次は2階大ホールの南側を西に進んで彩鸞の間を見学、大ホールの北側を東に進み、羽衣の間を見学して、階段を下り、西側翼楼の入館口から退出して、南の主庭を散策し、見学終了だったと思う。
延べ床面積は15000㎡だから見学はごく一部に過ぎないが、接遇で使われる主要な部屋を見ることができ、明治末期の洋風建築を実感できた。
その当時の内外の工芸の粋を集めただけに華麗絢爛の言葉が当てはまり要人の接遇にはかなっていると思うが、住まいとしては部屋が広すぎ、天井が高すぎ、煉瓦石造のため冬は寒々し、夏は蒸し暑そうで、居心地が悪そうである。続く
2007 「埼玉の木の家・設計コンペ」 埼玉県産木材利用推進 /2007.12 フルページ、図はホームページ参照。
コンペ趣旨
「こんな家に住みたい!埼玉の木の家・設計コンペ2007」に大勢の方から応募をいただいた。・・略・・
このコンペは、埼玉県・木づかい夢住宅デザイン事業実行委員会の主催による「埼玉の木の家デザイン事業」の一環として、2004年度から実施している。
このデザイン事業の狙いは、埼玉県内の森林で生産された木材を使用した良質な住宅の普及(木づかい夢住宅デザイン実行委員会規約第2・目的)である。
2004年度は「埼玉の木を使った家づくりの夢」と題し、県民から寄せられた様々な家づくりの夢から5点を選び、それを建築設計のプロにデザインしてもらう形式ですすめた。県民の家づくりに寄せるさまざまなアイデアを拝見し、楽しく審査を進めさせていただいた。
翌2005年度の実施について実行委員会で議論を重ねた結果、建築を志す学生達に県産木材を利用した家づくりのアイデアコンペを行えば、県産木材を利用する建築設計者の育成につながるとの意見に集約された。そこで「埼玉の木の家設計コンペ」と題し、学生の部、一般の部に分けて、設計コンペを実施することにした。
2005年度は市街地に建つ住宅を想定したコンペ、2006年度は里山などの田園景観に配慮した住宅の設計コンペを実施した。
2007年度の設計コンペについて実行委員会で検討した結果、・・略・・ 設計課題は「花と緑の田園都市にふさわしい子育て世帯向け住宅」とした。
・・略・・
審査経過
審査は公平を期すため、応募者を匿名にしたうえで、審査会を公開で行ってきているが、埼玉の木の家の魅力をより広く理解してもらい、あわせて建築を志す学生達に県産木材を利用した家づくりへの関心を高めてもらうため、審査会を11月の日曜日に公開で開くことにし、応募者へ連絡を行うとともに、新聞社等へ記者発表した。
当日は、新聞1社、学生1名、一般4名の傍聴があった。さらに大勢の方に参加してもらうための工夫の余地があるが、参加された方からは、「公平な審査だ」、「さまざまな木づかいのアイデアに触れられ楽しかった」など、好評であった。
・・略・・ 審査基準は、設計課題「県産木材を使った、花と緑の田園都市にふさわしい子育て世帯向け住宅」に的確に応えているか、である。
言い換えれば、県産木材の活かし方、県産木材利用の拡大につながるアイデア、花と緑の田園都市に配慮した住まい、子育て世帯のライフスタイルを提案した住まい、が評価される。とりわけ応募要領には、10才未満の子どもがいる家庭を想定し家族構成を明記、花と緑の田園都市にふさわしいと思われる埼玉県内の地域を選定し場所を明記、第1種低層住居専用地域(建ぺい率50%以下、容積率80%以下)県産木材の使い方やユニークな工夫を表現、などが規定されていて、これらも審査では配慮された。
審査基準のどこに重点をおくかは審査員によって異なる。そのため、全員が合意できるまで議論がくり返されることになる。議論のたびごとに応募案が詳細に検討された。そして、予備審査で選考された作品、および追加選考された作品から、学生の部14点、一般の部4点に絞り込まれた。
・・略・・ 最終選考は、改めて1点ずつ議論を重ねたうえで投票を行った。その結果、学生の部では「森の家の小さな主役たち」が満場一致で選ばれ、「コドモノ遊ビ場」、「花廊の家」が高得点を得た。
その他の作品の得点は低く、この3点について意見を交換し、前者を最優秀賞、後者2点を優秀賞とした。一般の部では「北見の庭の住宅」が満場一致の得点、続いて「埼玉スタイルの家」、次いで「庭的家」と「木と人と樹を結ぶ住まい」が同点となった。これら4点について意見を重ね、最優秀賞を「北見の庭の住宅」、優秀賞を「埼玉スタイルの家」、後者2点を特別賞とすることにした。
2007年度の審査を終えて感じたことは、入賞者を始めとする多くの作品が設計課題を十分に吟味し、県産木材活用のアイデアや花と緑の田園都市にふさわしい住まい、子どもがのびのび暮らす住まいなどについての優れた提案を盛り込み、さらには図面表現にも工夫をこらしていた。
・・略・・
最優秀賞:学生の部「森の家の小さな主役たち」
予備選考で最上位、最終選考では満場一致で最優秀賞を得た作品。設計内容や表現にはまだ未熟な点もみられるが、若々しさが図面全体にあふれ、審査員を引き込んだ。設計課題である木材活用のアイデア、田園都市のとらえ方、子育てライフスタイルの提案のいずれも真摯に読み解き、斬新な発想を提示している。
コンセプトは子どもの五感の触発で、そのために森の家を提案している。そのシンボルが、大きな吹き放しの空間ににょきにょきと立つ4本の皮付きの丸太柱である。
これは大黒柱をイメージさせる構造体でもあり、住まいの安全を暗示させる。子どもたちは森の木を登るようにこの丸太柱をよじ登り、木に寄りかかって安らぎを感じるように丸太柱に寄りかかって安らぐ。
明かりは、森の中の木漏れ日を思い起こさせるような、丸太柱の枝に掛けられた照明からの柔らかな光である。窓を開けるとトトロの森からさわやかな風が入り込み、風にのって鳥の鳴き声が響く。平面を単純化したうえで、庭-デッキ、リビング-ダイニング、子ども部屋-寝室のレベルを変え、ダイナミックな断面空間を演出している。力作であり、今後の発展が大いに期待できる。(講評:I)
最優秀賞:一般の部「北見の庭の住宅」
予備選考で最上位、最終選考では満場一致で最優秀賞を得た作品。これは十分に熟慮された作品であり、模型写真を使った表現も群を抜いていて、審査員の注目を集めた。
埼玉県内の具体的な場所が明記されていないハンディがあったが、優れた提案がハンディを上回った。住まいは東~南の境界線にあわせてL型の平面になっている。
つまり、庭が北・西に配されている。これがテーマの北見の庭である。
樹木は太陽の日を浴びて生長する。一見どこから見ても同じような表情に見えるかもしれないが、樹木には表・裏ができる。
北見の庭の樹木は、住まいから眺めるとまさに意気盛んな樹木の表を見ることになる。樹木の生き生きとした様子から元気を授かる暮らし、ここに提案の真骨頂が隠されている、と思う。
屋根には間伐材の活用を図ると同時に、軽やかな空間を演出するため、小断面の梁を扇状にかけ、剛性を高めるためにシェル構造を採用したうえ、柱をV字形に配置し、軽やかさを強調している。気品に充ちたデザインで、高い評価となった。
しかし、構造を補強するために挿入されているRC柱が気になる。これを、鉄骨などで補強した集成材に置き換えてくれれば、設計課題の意図に合致するのだが惜しまれる。(講評:I)
優秀賞:学生の部「コドモノ遊ビ場」
比企郡小川町に敷地をとり、豊かな自然環境の中に、アスレチック公園のような住宅をつくろうという提案である。平面の中心部分に設置された階段状の遊具的な装置、リビングからバルコニーによじ登れるネット、子供室横の吹き抜けに吊り降ろされたブランコ、屋外にはつり橋やターザン。住宅にこどもたちのためのプレイルームを設けるというよりは、まさにアスレチック公園の一部が住宅になったような大胆さが評価された。
安全性の問題もあるので、遊具としてのディテールをもう少し丁寧な提案、日常生活と子供たちが遊びまわる空間の共存関係をより良いものにするための工夫、全体として明るいメリハリのあるプレゼンテーションなどがあれば、もっと高い評価を受けていたかもしれない。
個人的には、こどもたちが遊ぶ場所が家の中にあることで、家族や遊びに来てくれる友達との関係が充実し、安全性が高まるのは良いとして、自宅から外に出る機会が減ることで、もしかしたら別種の閉塞感をつくりだしてしまわないだろうかという危惧ももった。(講評:R)
・・略・・
book433 杉下右京の事件簿 碇卯人 朝日文庫 2014 /2017.2読
スコットランドを舞台にした本を検索して見つけた。碇卯人氏の本は初めてだし、杉下右京も分からなかったが、杉下右京とは人気のテレビドラマ「相棒」の主人公名だそうだ。
碇卯人も杉下右京シリーズのときのペンネームで、ペンネームの本名?は鳥飼否宇である。テレビドラマの「相棒」ではタイトル通り右京に相棒がいたが、本の中では右京に相棒はいない。一人で事件を解決していく。テレビドラマの「相棒」は見ていないので小説の右京に相棒がいなくても違和感がないが、テレビドラマを見ている人は混乱するかも知れない。
「・・事件簿」には、第1話「霧と樽」、第2話「ケンムンの森」の二つの事件が納められている。第1話の舞台がスコットランドで、第2話は奄美大島が舞台である。第1話ではスコッチ・ウィスキーのうんちくが語られるし、第2話でも奄美大島の特徴的な自然が紹介される。鳥飼否宇=碇卯人は見識が広く深い。ついでながら、奄美野鳥の会会長だそうだ。
見識は広く深いが、物語の展開は平易で、さらさら読める。肩のこらない推理小説である。きっとテレビドラマの展開も平明で、その分かりやすさと右京の実直な姿勢が人気を高めているのではないだろうか。
「・・事件簿」の右京は警視庁特命係係長・警部で、「霧と樽」では休暇でスコットランドに行ったときに事件を解明する。
スコッチ・ウィスキーはp12スコットランドで製造されるウィスキーのことでその多くはハイランドで作られる。
右京はB&Bの主人の紹介でスペイ川河口の蒸留所を訪ねることになった。2016年6月に英国ツアーに参加し、私もスペイサイドの蒸留所を見学し、試飲もした。私は日ごろウィスキーをたしなまないからスコッチ・ウィスキーのことはとんと分からないが、右京は訪ねた蒸留所のスチルマン=蒸留技師からも褒められるほどのスコッチ通である。
スコッチ・ウィスキーはp27ピート=泥炭を燃やして蒸留する。ピートの独特の香りが麦芽に移り、シングル・モルトの個性になる。
スペイサイドには地下に良質のピートが堆積していて、ここの蒸留所ではピートを掘り出し、伝統的な蒸留法でウィスキーを製造している。
さらにp35世界で9割を占めるスコッチ・ウィスキーはトウモロコシを原料にしたグレーン・ウィスキーと混ぜ合わせたブレンデッド・ウィスキーだが、この蒸留所では単一の蒸留所で製造したものをそのまま出荷するシングル・モルト・ウィスキーを製造している。
一般にp29スコッチは3年以上熟成させるが、この蒸留所ではp18林の中に5つの小さな蔵を建て、一つの蔵ごとに10樽を貯蔵して密閉し、10年ごとに10年物、20年物、30年・40年・50年物の蔵出しをしてきた。右京は50年物の蔵出しの機会に恵まれた設定である。
蔵出し前日、右京は現在の当主と話をしていて、10年前、40年物の蔵出しのとき密閉された蔵を開けたところ、先代の当主である父が腹を強い力で圧迫されて死んでいるのが発見されたことを知る。
そのとき、スコッチの神と伝承される巨人が現れたとの証言もあったが、蔵は密室状態だったため事件は迷宮入りした。
50年物の蔵出しの当日、現場を仕切るべきスチルマンが現れない。右京を始め大勢が集まっているので、当主が左端の5番蔵の頑丈な鍵を開けて入ったところ、一つの樽が地面に落ちていて、中に虫の息のスチルマンが押し込められていた。間もなく、スチルマンは息を引き取る。またも密室での事件、しかも前日には巨人が現れていた。
先々代が樽詰めをするとき、1番蔵の樽に101~110、2番蔵は201~210・・・5番蔵は501~510の通し番号をつけていたが、10年前、先代の父が圧死した4番蔵の樽は501~510の通し番号で、今回のスチルマンが窒息死した5番蔵は401~410の通し番号だった。ここから右京の推理が始まり、隣の蒸留所のクーパー=樽職人の証言も取り入れ事件を解明していく。
あちらこちらに伏線が用意してあり、右京の推理で伏線は脚光を浴び事件はあっさりと解明されるのだが、右京の推理を前面に立てているため、無理が無くはない。
たとえば、蔵はレンガ造で地面の上に作られていることになっているが、いくら小規模でもレンガ積みの蔵を持ち上げたらレンガが崩れ落ちるはずだ。壁と屋根と入口扉と付帯設備が一体化されていないと原型のまま持ち上げることはできないなどなど、ときどきできすぎた展開と思うところがあった。
著者は、読者がウィスキーを飲み過ぎ、判断が甘くなるのを見越しているのかも知れない。
第2話「ケンムンの森」は、奄美大島で中国の不審船が座礁し、その船に乗っていた暴力団幹部を警視庁に護送するため奄美大島に出かけたときの事件である。これも伏線が散りばめられている。伝承のケンムンの森も伏線の一つで、ケンムンの森をヒントにこの事件も平明には解決される。