yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

フィールドサーベイの七つ道具=足でかせぐ、見つける目、触る+測る手、ペン、野帳、コンパス、コンベックス

2016年10月31日 | studywork

1992+2004 「フィールドサーベイ覚え書き その2」/(1992.6記+2004.9補)

 10月17日のブログで「フィールドサーベイ覚え書き」を紹介したが、その続きである・・次回は続々報のその3を紹介する・・。
 ホームページには「3 七つ道具を使いこなせ、4 調査用具のいろいろ」をまとめてあるが、長文なので、七つ道具の項を以下に記す。カメラのように時代の発展が早く古くさいところもあるが、基本は変わらない、フィールドに出る参考になれば幸いである。

3 七つ道具を使いこなせ
 実際にフィールドに出てサーヴェイを行うときの要点について述べよう。調査地についたとき、集落を歩き始めたとき、屋敷の前に立ったとき、民家に入りいよいよ間取りを調べようとするときなどを想定すると理解が早い。
 サーヴェイの基本となるのが七つ道具である。ゼミ生はすでに何度か実践しているので、後輩への伝え方のつもりで復習して欲しい。

七つ道具の1=足
 サーヴェイに向かう足。犬も歩けば棒にあたる、の諺どおりフィールドに出ることが最初であり、そのためにはおっくうがらず歩き回る足が第1にあげられる。
 足は同時に、歩測機能をもつ。通常、歩幅は一定している。何度も何度も歩きながら歩幅を測定し、一定の歩き方のリズムをつかんでおく。人によっては58cmとか、64cmとか、端数がでる歩き方になっている。もし練習で調整がつくようならば計測のしやすい50cm、60cmなどのリズムをつかんでおくと、全長の計算に都合がよい。
 例えば、道路側敷地長さが48歩ならば、48×60cm=28.8mとして測定できる。さらに門の位置は南側境界点から6歩目で始まり9歩目までと測定できれば、門の位置が野帳に図示できる。
 まさに、サーベイは足でかせぐ、のである。

七つ道具の第2は目
 漫然と風景を眺めるのではなく、見つける目、発見する目が欲しい。
 まずは現象として目に映った事柄をそのまま見つめる。見えている状態を野帳に写すと、自分は何を見ているかがはっきりする。
 もっとも、実際に見ているはずなのに、野帳に描くときには目で見る→脳→手で描くと脳で変換されるせいか、見ている状態とは違った図を描いている人がいる。要注意。
 次に自分の記憶ファイルを大急ぎでめくり、目に映っている図と自分の記憶との違いを見つけ出す。その意味では、調査員はいつも旅人の目になる必要がある。
 さて違いを見つけたらこれからがポイント。どうしてそのような違いが生じたか、想像力を思いきり働かせなければならない。
 へ理屈でもいいから違いの理由、根拠を野帳に日付を入れてメモる。さらに誰かに話してみる。彼が答えを知っていることもあるし、もし2人とも疑問と感じるのであれば、かなりの確率で新しい発見になる。
 地元の人も答が分からなければ、これは是非とも解明し、地元に還元すべき大発見かも知れない。
 サーベイは眼力が成果を左右するのである。

七つ道具の3は手
 手の働きは多い。まず触ること。建築素材の材質感、木肌、テクスチャを知るには触って触って触りまくって、体で素材感を理解したい。
 暖かい素材は保温性が高いことになるし、冷たく感じれば熱伝達率が高いことを示す。ともかくさわることから始める。
 手の働きのもう一つは、記録することである。測ったもの、見つけたもの、触った感じ、自分の考えを野帳に日付を入れて記録する。日付はあとで整理するときの手がかりになるし、思考の進化が分かる。
 手は、ものの大きさを測ることもできる。手を広げたとき、私の場合、親指から小指までだいたい23cm、親指と人差し指の広さは19cmになる。
 両手を広げたときの長さ(一尋ひとひろ)はだいたい身長ぐらいになるといわれている。
 そもそも、人間が生活する空間の計画では人間の大きさを考慮するのはしごく当然であり、足や手など、体を使って空間の大きさを理解することは誰もが無意識にしていることであろう。
 研究者、計画者は意識して、空間を身体的に理解する必要がある。大いに、手を使って触ったり、測ったり、メモって欲しい。

七つ道具の第4=野帳
 省略

野帳とくれば次は筆記用具、七つ道具の5は鉛筆
 省略
 
七つ道具6はコンパス
 民家は原則として南面を志向する、といってほぼ間違いない。生活に日照は欠かせないし、とくに冬の寒さをしのぐには日照が不可欠である。
 ところが、すべての民家が正確に南面しているわけでもない。敷地形状、接面道路、等高線、風向きなどの影響が民家の配置を左右することがある。
 信仰が影響することもある。たとえば、中国・韓国の風水、沖縄のニライカナイ、バリ島のナワサンガといった方位概念もある。
 民家を見たらまず方位を確認したい。アナログの時計は、太陽が出ていれば南を知ることができるので磁石を忘れたときは代用することができるが、雨・雪・曇では使えないので、コンパスをいつもポケットに入れておく。

七つ道具の最後はコンベックス
 略・・・ともかくおっくうがらず、遠慮せず寸法を取っていく姿勢が大切だ。
 

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現代女性作家8人が新たな解釈をした「グリムの森へ」は子どものころ読んだグリム童話と五十歩百歩

2016年10月29日 | 斜読

book428「グリムの森へ」 高松・松本ほか 小学館文庫 2015 /2016.10読 
グリム童話は子どものころに何度も読んだが、子ども向けにアレンジされた童話集は同じような内容だったから、いつの間にかグリム童話を卒業した気分になっていった。
 2012年ごろドイツの旅をイメージし、予習にいくつかドイツを話題にした本を読んだ。その一冊が桐生操著b310「本当は恐ろしいグリム童話Ⅰ・Ⅱ」である。
 恐ろしさは童話集からも気づかされた。たとえば、赤ずきんちゃんでは、おばあさんと孫娘が狼に食べられてしまい、気づいた猟師が狼の腹を切り開いて二人を助ける展開である。狼などの猛獣に襲われて人がけがしたり命を落とすことは聞いたことがあるが、食べられてしまう、腹を切り開いて助け出される、というのは想像するとすさまじいと思う。
 ヘンゼルとグレーテルでは、食べるものがないので母親が兄妹の二人を森に捨ててしまう、森でお菓子の家を見つけた兄妹は魔女に食べられようとするが、隙を見て妹が魔女をかまどで焼き殺す展開で、子捨て+人食い+人殺しの場面が盛り込まれている。
 桐生氏は初版に戻って検証し、恐ろしいというより残酷さ、横暴さ、破廉恥さを赤裸々に紹介していて、改めて、当時のドイツの社会、風潮、発想を垣間見させられた。
 
 2016年10月に東ドイツ・ロマネスクのツアーに参加することが決まり、東ドイツとロマネスクに関する本を探した。ロマネスクは一冊読み終えたあと、東ドイツに関する本として皆川博子著の「総統の子ら」などを見つけた。
 この本は、ヒトラー・ユーゲントがテーマで、読み出があるし、今回の旅からはかけ離れている。もう少し気楽に、短い時間でも読めそうな本を探したら、皆川博子氏も加わっている「グリムの森へ」を見つけた。
 裏表紙の内容紹介では、8名の日本の現代女性作家が11編のグリム童話を原書に基づいて再話するユニークな一冊と書かれていた。
 童話は短編だから、空いた時間に読めるし、現代女性作家が原書に基づきながら新たな解釈を試みるのだろうと、期待して旅の友に持参した。
 8名による11編は以下の通り。
高村薫 ブレーメンの音楽隊
松本侑子 カエルの王様、そして忠臣ハインリッヒ
阿川佐和子 いばら姫
大庭みな子 ラプンツェル
津島侑子 めっけ鳥
松本侑子 兄さんと妹
中沢けい 赤ずきんちゃん
中沢けい つぐみひげの王様
大庭みな子 ヘンゼルとグレーテル
木崎さと子 星の銀貨
皆川博子 青髭
上田萬年 おほかみ
エッセイ 橋本孝 野口芳子 岩井方男 阿部謹也

 結論からいえば、期待を外された。11編はこれまで読んだグリム童話とさほど変わらなかった・・改めて読まなくても良かった・・。
 選ばれた11編も特別な脈絡は見られなかった・・たとえば、当時のドイツ、あるいはヨーロッパでは飢饉による食糧不足の場合、子捨て、姥捨てが当たり前だったので、子捨ての童話、姥捨ての童話を収録、次いで、当時、魔女の存在が信じられたので魔女に関する童話を収録し、機転で魔女の力を封じ込める展開を収録など、編集に工夫が欲しかった・・。
 さらには、桐生著の恐ろしいグリム童話ほどではなくてもいいが、こうした童話が生まれた背景、あるいはグリムたちがこの童話集に込めた思いなどにも触れて欲しかった。
 結局数編読んだだけでスーツケースの中にしまい込んだ。帰国後、返却日が近づいたので一気に読み終えた。
 新たな収穫は上田萬年の「おほかみ」で、1889年=明治22年、赤ずきんちゃんを下敷きにした日本の子ども向けの童話である。
 明治のころ、グリム童話を知った人々が日本の子ども向けの説話として書き換えたのであろう。明治維新後、欧米の先進文化を吸収しようとする意気込みが感じられる。
 その一方で、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲は、「怪談」で知られるように日本各地に伝承される伝説、幽霊話を収録して小泉流に再話している。
 文化交流が進み、それぞれ国に伝承される民話、伝説を通して国民性、文化の違いを理解しようとする気運の高まりであろう。
 やはり、改めてグリム童話を取り上げるのだから、現代的な視点から編纂されべきだったのではないだろうか。
 もちろん、忘れかけていたグリム童話を改めて読みたい方には、子どものころの思い出とともにグリムの森を楽しむことができる。
 

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2016京都を歩く 最終回⑳醍醐寺の登場人物=平安時代では天皇、桃山時代には秀吉・秀頼が醍醐寺造営にかかわっていた

2016年10月28日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑳醍醐寺の登場人物のまとめ &帰路へ 

 醍醐寺の登場人物・出来事を整理する。
 空海(774-835) 真言宗の開祖、嵯峨天皇時の817年高野山を開く
 822年東大寺で嵯峨天皇の兄・平城天皇に灌頂を授ける
 823年嵯峨天皇から東寺を賜り、真言密教の道場とする
 921年醍醐天皇より大師弘法の諡号

 聖宝(832-909) 空海の孫弟子、875年醍醐寺開祖
 876年如意輪堂(1613年再建、重文)、准胝堂(焼失)創建
 899年東大寺?東寺?で宇多天皇に授戒
 907年醍醐天皇が醍醐寺を御願寺とする
 911年弟子が御影堂建立、焼失後、豊臣秀頼(1593-1615)が開山堂(重文)を再建
 913年醍醐天皇により薬師堂・五大堂(昭和再建)創建
 1707年東山天皇より理源大師の諡号

 宇多天皇(867-931) 897年醍醐天皇に譲位、899年東寺?東大寺?で聖宝から受戒後、仁和寺の法皇

 醍醐天皇(885-930) 醍醐寺に帰依し、907年醍醐寺を御願寺とする
 913年醍醐天皇の御願堂として薬師堂(国宝)、五大堂(昭和再建)創建、926年金堂(国宝)創建

 朱雀天皇+村上天皇  951年醍醐天皇の菩提を弔う五重塔(国宝)

 豊臣秀吉(1537-1598) 1115年創建の三宝院(国宝の唐門・表書院ほか重文)を1598年に再建、秀吉設計の庭園は特別史跡、特別名勝
 1598年醍醐の花見

 豊臣秀頼(1593-1615) 1605年仁王門=西大門再建、1606年開山堂(重文)再建

 上醍醐から下醍醐に下り、唐門を眺め、総門を出る。地下鉄東西線・醍醐駅まではおよそ10分のはずだが、足が棒になり道のりがかなり長く感じた。
 山科駅から琵琶湖線に乗り換え京都駅へ、1時半ごろ着いた。コインロッカーから荷物を出し、駅ビルのレストラン街に向かう。
 前にも利用したことのある田ごとに入った。窓際の席からは京都の北側の景色が見える。斜め右の東寺の五重塔が優美な形で伸び上がっている。
 かつての京都人は、平時は相国寺、醍醐寺、東寺、御香宮神社などの町なかの寺社へ詣で、ことあるごとに山間の石清水八幡宮、鞍馬寺、貴船神社、上醍醐に参拝したに違いない。京都人なら、神仏にもハレとケを使い分けたはずだ。
 生ビールを飲みながらミニ懐石をいただき、15:18発東京行きのぞみに乗って帰路についた。この日はなんと25000歩を越えた。足よ、ご苦労様。
 思い違い、記憶違い、資料の読み違いなどの誤記があると思うが、ご容赦を。

 わずか2泊3日の京都歩きだったが紀行文はA4サイズ20枚を超えた。初めての寺社が多かったが、何より歴史が奥深く、対して日ごろの不勉強で、あっちを調べ、こっちをまとめているうちに長文になり、3ヶ月に及んだ。
 フルページの「2016京都を歩く」はホームページで検索できる。写真はブログより多い。
 皆さんのいい旅を!

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2016京都を歩く ⑲上醍醐の山道を登り始めて1時間、醍醐寺の始まり開山堂に着く、秀頼の再建で重文

2016年10月27日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く⑲五大堂 五大明王 崖造り 重文・如意輪堂 重文・開山堂 豊臣秀頼再建 

 国宝の薬師堂の先は坂道が大きく曲り、突き当たりに簡素な屋根を架けた鐘楼があって、その先は崖らしい。
 左=東の坂道を選ぶ。上ると五大堂が建つ。醍醐寺ホームページには913年、醍醐天皇の御願堂として創建されたと記されている。となると、薬師堂といっしょに建てられたことになる。
 こちらはその後火災にあい、昭和15年に再建されたので、国宝、重文の指定はない。しかし、端正な形は原形の再現であろう。堂内には五大明王が祀られていた。
 下醍醐の不動堂にも不動明王を中心とした五体の明王が祀られていたが、五大堂も同じく不動明王を中心として5体の明王が祀られていた。いずれも木彫で、重文である。
 中心の不動明王は座しているが、いまにも動かんとする迫力を感じる。

 堂前に3体のブロンズ像の中央が聖宝=理源大師だそうだ。ここでも護摩が焚かれるようで、護摩道場がしつらえられていた。
 
 坂道を戻り、鐘楼の先の坂道を登ると、崖に床に組んだ崖造り=懸崖造り如意輪堂が姿を見せる。
 876年、聖宝による創建で、准胝堂といっしょに建てられたが焼失し、醍醐寺ホームページでは1613年に再建されたそうだ・・1606年、後述の開山堂と同時に再建されたとの説もある・・。
 それでも400年の歴史があり、桃山時代のつくりを残していることから重文に指定されている。本尊は如意輪観音だが、拝観はできなかった。
如意輪堂に向かい合う形で開山堂が建っている(写真)。こここそが、聖宝が醍醐に登り山頂に堂を建てた場所である。
 聖宝没後の911年、弟子がここに聖宝を奉安する御影堂を建立した。その後焼失し、1606年、豊臣秀頼によって再建された。それがいまの開山堂である。
 如意輪堂と同じく400年の歴史があり、桃山時代のつくりを見せることから重文に指定されている。
 本尊は聖宝=理源大師で、隣に空海=弘法大師、観賢僧正像が奉安されているらしいが、格子からのぞいても拝観はできなかった。

 山頂から山並みを見渡す。広々として気持ちが大きくなる。参拝者の一人は弁当を広げていた。時計は12時を少し過ぎていたから確かに昼時である。
 弁当は持参していないし、まだ下りがあるので気を引き締めて、持参の一口羊羹を食べる。甘みが口に広がり、元気になったような気がする。

 成身院=女人堂からほぼ1時間で登ったことになる。受け付けで聞いた1時間半~より早めのペースだったことと、昨日の鞍馬~貴船の疲れが残っていて、足はよれよれである。
 ゆっくりと山を下りる。如意輪堂を見上げ、鐘楼の横を通り、薬師堂からはそのまま先に進んで坂道を下る。
 下に准胝堂跡の空地が見え、石段を下りると醍醐水に出る。清瀧宮拝殿からは登りと同じ参道を下った。十四丁、十三丁・・の道標があるので、下りはあとの距離が推測しやすい。
 九丁・不動の滝・・五丁・醍醐の花見・・、休み休みしながら下り、成身院=女人堂には1時過ぎに着いた。下りもおよそ1時間だった。

 醍醐寺の総門に着いたのが9時半、下醍醐と呼ばれる醍醐寺の境内を参拝して仁王門=西大門に戻ったのが10時半だから、下醍醐の見学+参拝はおよそ1時間、休憩後の11時ごろ、成身院=女人堂から山道を登り、山頂の五大堂、如意輪堂、開山堂に着いたのが12時過ぎ、一息してから下り、成身院=女人堂に帰り着いたのが1時過ぎで、上醍醐の往復がおよそ2時間、休憩を含め3時間半の行程だった。
 印象としてはかなりきつかった。まず、日ごろの足腰の鍛錬が必要である。次に、下醍醐の弁天堂から一方通行の回転扉を抜けて成身院=女人堂から登り始めると、少しショートカットできる。
 下醍醐でトイレを済ませたうえ、飲物と軽食を持参すれば、たっぷりした休憩+ゆったりした参拝でも3時間半ほどで戻れそうだ。醍醐寺=下醍醐+上醍醐の参拝を計画している人の参考にしていただきたい。

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2016京都を歩く ⑱聖宝・理源大師が上醍醐に堂を建てる=醍醐寺の始まり、醍醐天皇の御願堂である薬師堂は国宝

2016年10月26日 | 旅行

2016年5月 京都歩く ⑱国宝清瀧宮拝殿 聖宝 醍醐水 准胝堂 西国十一番札所 国宝薬師堂 薬師三尊像
 上醍醐の山道を登っている。
 山際を大きく回った先に館があった。社務所だろうか。館の土塀に沿って参道がゆるやかに登っていて、やがて左手の木の隙間に館が見えた。
 山腹に沿って建っているらしく樹林に隠れている。石段を上ると、唐破風の小屋根を伸びだした構えが見えるが、柵は閉じられている。
 看板には国宝 清瀧宮拝殿とある。仁王門=西大門でくれたパンフレットを見ると、上醍醐のスケッチに清瀧宮拝殿の奥に清瀧宮本殿(重文)が描かれているから、拝殿の奥に本殿が建つ配置のようだ。
 醍醐寺のホームページよれば拝殿は室町時代の創建、醍醐寺のパンフレットによれば本殿は1097年の建立、16世紀の再建と書かれている。
 拝殿は1088年創建、1434年再建とする資料もある。聖宝が上醍醐に隠遁して間もない時期から堂が建てられ始めたとすれば、創建は平安時代と考えられるし、その方が歴史にロマンを感じる。
 もっともこのときは疲れでロマンどころではなかったが。

 
 清瀧宮拝殿の先に山を背にした堂が建つ。入母屋瓦葺きのつくりで、門の手前の石柱に醍醐水と彫られていた。
 左手の説明板によれば、聖宝=のちの理源大師がここに隠遁していたとき、霊力によってこの泉を発見したとされ、いまでもご利益があると信じられている。
 堂の前の掲示板に醍醐水閼伽井・・閼伽とは仏前に備えられる水・・と書かれていた。掲示板の足もとに蛇口があり、ひねると醍醐水が出てくる。
 疲れた足を清めたいところだが、手を清めた。

 
 醍醐水の横手に石段が登っていた。??、行き先の説明はない。山道で迷ったらたいへんと思い、石段には登らず参道に戻ったが、あとでこの石段は後述の薬師堂の先に通じていることが分かった。
 帰りに石段を下りてきたとき、醍醐水のさらに奥が広場になっているのに気づいた。あとで調べたら、ここには876年、聖宝=のちの理源大師によって創建された准胝堂じゅんていどうが建っていたが、焼失し、再建されたがまた焼失してしまったそうだ。
 いまは復興の準備中らしい。准胝堂には、聖宝が彫った准胝じゅんてい観世音菩薩が祀られていて、西国十一番札所として崇められていたそうだ。
 いまは、醍醐寺の観音堂およびの女人堂で十一番札所の朱印を受けることができるようだ。

参道に戻り、山に沿って左に曲がると堂が現れた。国宝の薬師堂である(写真)。
 醍醐天皇が御願堂として913年に建立したそうだ。再建については触れていないので、1130年の歴史を伝えていることになる。
 5間×3間のこぢんまりとした堂だが、石垣の上に建っているので壮大に見えるし、このあたりは山上らしく空が開けているので、堂も軒先を空に向かってのびのびと広げているように見える。
 
基壇を登り、格子から中を拝観する。薬師三尊像が祀られているが、暗くて判然としない。
 あとで読んだ資料によると、ここに祀られていた薬師三尊像は国宝で、霊宝館に移され、いまは新たにつくられた三尊像が安置されているそうだ。

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