yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

一豊は、才女千代のへそくりで名馬を購入し信長、秀吉に認められ、家康について土佐藩主となった

2017年09月30日 | 斜読

book450 功名が辻1~4 司馬遼太郎 文春文庫 2005
 2017年6月に長浜を訪ねた。長浜城羽柴秀吉(1537-1598)の築城で、1573年に完成した・・1615年の大阪夏の陣後に廃城となり、多くは彦根城に流用されたらしい、いまは天守閣を模した長浜城歴史資料館がかつての面影を偲ばせている・・。
 羽柴秀吉が天下取りに動いたとき、家来に山内一豊(1545-1605)がいて、1583年から長浜城の城番になっている。子どものころ、しがない武士の山内一豊が嫁のへそくりで名馬を購入し、織田信長らに認められ、ついには土佐藩の大名に出世する話を読んだことがある。子ども向けの話で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと時代が大きく動いていくことはかなり省略されていた。
 長浜城歴史資料館で城主一豊のパネルを見ながら、羽柴秀吉から認められ長浜城主になれたのに、なぜ徳川家康に与し土佐藩主になれたのだろうか?、内助の功の妻千代(1557-1617)はどんな人だったのだろうか?、気になった。山内一豊・千代の立身出世を主題にした大河ドラマ「功名が辻」は見なかったが、原作は司馬遼太郎(1923-1996)氏である。長浜から帰ったあと、図書館で2005年版新装文庫本4巻を借りて読んだ。
一巻
嫁の小袖  織田信長が清洲城から岐阜城に本拠を移す大移動で、馬廻役五十石の近衛士官として山之内伊右衛門一豊が登場する。ぼろぼろ伊右衛門の異名をもつが、岐阜の城下の新居に美濃では美人の評判の高い千代を嫁に迎える。千代の父は浅井家の家来で戦死していて、母と千代は母の姉の嫁ぎ先である不破一之丞に身を寄せていた。・・嫁入りのとき、一之丞は金十枚を夫の一大事のときのためにと千代に持たせた。・・新居で、一豊は千代に一国一城の主になると約束する。・・信長が諸城を落とし始める、木下藤吉郎秀吉が登場し、千代は織田第一の出頭人と見抜き、一豊は藤吉郎の配下になる。こうした時代背景、その後の予見のポイントがこの節で紹介される。
戦場  金ケ崎城開城の戦いで一豊は首を取るも重傷を負う。けがをすれば後方送りだが、さらに手柄を立てたいと、金ケ崎城に籠城し、藤吉郎、信長の目にとまり、二百石に加増される。
空也堂  くノ一登場、本筋にかかわらず。
姉川  千代は才女で、上手に一豊をリードする様子が描写される。p111・・妻が陽気でなければ夫は十分な働きはできない、陰気な口から小言をいえば夫の心は萎えてしまう、陽気な心でいえば夫は鼓舞される、陽気の秘訣はあすはもっと良くなると思うこと、と千代の生き方が紹介されている。・・のちに秀吉が天下を取ったころ、千代が唐織りの小切れで作った小袖に秀吉が感心し、後陽成天皇に小袖を見せたエピソードも織り込まれている。・・信長の浅井・朝倉攻めで手柄を立て、四百石となる。
唐国千石  浅井討伐で功績のあった藤吉郎は二十二万石となる。一豊も手柄を立て、唐国千石を与えられる。千代は秀吉が長浜に城を作ることを予見し、長浜に屋敷を構えるよう一豊に進言する。ここにも千代の先見性が描かれている。
長篠合戦
乱世の奉公人
十両の馬  いよいよ千代の金十枚で名馬を買うくだりである。それを聞いた信長は、馬揃えを思い立つ。天子たちが居並ぶ前で一豊は名馬を披露、馬の見事さ=馬は武士の鑑?で信長から二百石を加増される。

二巻
鳥毛の槍  秀吉の大軍とともに、一豊は金十枚の馬にまたがり長浜を出発、高松城を囲む。馬のお陰で敵将を倒し、のちに国宝となる槍を手に入れる。・・本能寺の変が起こる。・・一豊は秀吉とともに引き返し、光秀を討つ。このときはあまり戦功はなかったが三千石に加増され、長浜城の城番になる。ところが秀吉は柴田勝家と手を結ぶため勝家に長浜城を譲り、一豊は播州に移ることになった。・・千代は秀吉の野望を見抜き、一豊に京の屋敷を願い出させ、安土城下に居を構えることになった。・・司馬氏は至る所で千代の策士ぶりをほめている。一国一城の主にふさわしいとも言い切る。一豊は律儀な武将だが、攻防の全体像を読み、差配するのが苦手な人物として描いている。
賤ヶ岳  秀吉は柴田勝家を滅ぼす。
家康  東海には徳川家康がいる。秀吉、家康の初戦は家康が勝った。秀吉は犬山城に入り、奇襲作戦をとるが、家康に知られ、大敗を喫す。一豊は乱戦のなかで金十枚の名馬を見失う。秀吉の裏工作が功を奏し、和睦する。・・一豊は七千石に加増されたが、千代は内心、出世の遅さに不満・・、秀吉が関白になり、一豊は二万石で長浜城主になる・・千代は北の政所と気があう、どうやら長浜二万石は北の政所の口添えだったようだ。ところが天正地震が起き、一人娘のよね姫を失う。・・その後、子どもができず、弟の子ども忠義を養子にし一豊亡き後を継ぐ。
秀吉  聚楽第を話題に、秀吉の遊び好きと家康の実利一点張りが対比的に語られる。よね姫を失った千代も元気を取り戻し、道楽で小袖づくりに励む。北の政所は千代の小袖を喜び、聚楽第で展観させ、秀吉に一豊への加増を進言する。千代の小袖のおかげである。
春日遅々  山之内家の前に捨て子があった。拾と名付け、育てた。・・この節では触れていないが、後に出家し、京都妙心寺大通院第2代住持になる。一豊亡き後、千代は妙心寺近くに移る。・・この節では、家康とともに北条氏を倒そうと小田原攻めをする一豊が語られている。
掛川六万石  北条を倒した秀吉は、関東を家康に与え、東海道に信頼できる武将を配置した。一豊は掛川城主六万石となる。・・秀吉の跡継ぎとなる鶴丸が病死、・・朝鮮出兵が決まる。・・家康は北の守りを理由に残る。・・秀吉は養子秀次に関白を譲る。
伏見桃山  秀吉の第2夫人淀殿が秀頼を生んだので、居城として伏見城が建設された。華麗きわまる伏見城は、家康の代に解体され、遺構は社寺に寄進された。・・城跡に桃3万本が植えられ、桃山と呼ばれるようになった。桃山時代は、秀吉による華麗な文化を指す言葉になった。

三巻虫売り、淀のひと、醍醐の花見、雲満つ、東征で、狂気じみた秀吉、淀殿の横暴、秀吉最後の饗宴醍醐の花見、家康が天下取りに動き出す様子、石田三成たちが大阪に集結し家康討伐の準備に入る様子、千代たち武将夫人が大阪に人質として留め置かれ、細川ガラシャが自決する様子、千代は光成の家康討伐の回状を密かに一豊に届け、一豊は開封せず家康に渡し、家康への忠誠を表すくだりなどが物語られる。


四巻

東征(承前)  駿府城に集まり、光成との戦いを軍議する場で、一豊は掛川城、領地をすべて家康に預ける、と心からの忠誠を示す。一豊に続き、東海道筋の大名が城あけ渡しを申し出た。家康は勝利を確信する。
大戦  一豊は戦功を上げられないまま犬山城の守備隊長を命じられ、悶々とする。関ヶ原では後方になり西軍優勢で戦慄するが、歴史のごとく東軍が勝利する。
再会  大阪入りし、千代に再会する・・p140連れ添う女房の持って運の光で男の一生は左右される・・おれは当代まれな運を持っていると、一豊は述懐する。・・その一方、千代はp174男が自分の技能に自信をもったときの美しさは格別だが、自らに位階に自信をもったときは鼻もちならない、と思う。・・家康は、千代から届いた書状を開封せず渡し、軍議では居城を進呈してくれ、勝利へ導く気運をつくってくれた軍事功績に値する働きに、土佐二十四万石を一豊に与えた。いよいよ一国一城の主となった。
浦戸、種崎浜は、土佐の領民がなかなか言うことを聞かず苦労するが、城を作り、都市計画を進め、いまの土佐の原型が形作られていった話が展開する。
あとがき  1605年、一豊、61才で息を引き取る。跡を養子忠義が継ぎ、土佐藩が幕末まで栄える。千代は京都妙心寺近くに移り、1617年、61才で息を引き取る。
 司馬氏は、一豊を、律儀で一途に功名を目指すが、戦局を読んで戦略、戦術を組み立てるのが苦手な男として描いている。千代は、聡明で先見性があり、手先も器用で、一豊を鼓舞する話術に長けた女として描いている。出世は遅かったが、夫婦が互いの長短を補いなうことで土佐二十四万石の城主になれた、ということのようだ。

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1997.2 初めてのローマ、長径188m*短径156m*高さ49mのコロッセオに圧倒された

2017年09月29日 | 旅行

 1997年2月の初めてのイタリアの旅で、ローマ到着の翌朝、朝の散歩でコロッセオを見て、その巨大さに圧倒された。2004年のイタリアツアーでもコロッセオを見学した。2度目だと細部や仕組みに思いがいく・・イタリアの旅2004-3参照。

1997 イタリアを行く「コロッセオ」colosseo
                             
 ローマは坂が多い。丘が多いという方が正解かも知れない。実際、ローマの地図を眺めると、太字で書かれた丘だけでもパラティーノの丘、アヴェンティーノの丘、カンピドリオの丘、ジャニコロの丘などがあり、それが大きく蛇行するテヴェレ川周辺に分布している。塩野七生著『ローマ人の物語』にはローマ人は丘に街をつくったとあるから、稲作を何千年ものあいだ特技としてきた日本流に考えれば、川の流路に広がる低湿地を避け、洪水の心配のない小高い丘に居を構えたのが街の始まりといえそうである。
 さて、ローマの最初の一歩は1997年2月21日の夜9時半ごろ、テルミナ駅からであった。すでに駅周辺は夜のとばりがおりていて、それはそれで、煌々と明るく照らし出された町並みよりもなんとなくロマンチックな気分にさせる効果があるが、西も東も分からない始めての訪問者にとっては明かりの少ない町並みはけっこう不安な気持ちにさせる。
 街灯の下で地図を広げ、目を凝らしてホテルの位置を見定め、歩こうとしたところゴロゴロ、ゴトン、ギー、ガシッと、スーツケースが悲鳴をあげだした。一面に隙なく貼られた石畳の表面は磨き上げたようにツルツルなのだが、いかにも使い古している感じで、石貼りのあちらこちらが欠けていたりデコボコしていて、ツルンとゴトンが不調和に攻め立ててくる。最初のうちはムキになって力任せにスーツケースを押していたが、ゴロゴロ・ギー・ガシッが、こちらと向かいのビルにこだましあっているのを聞いているうちに、カエサルクレオパトラの昔から馬のひずめや馬車の音が響き合っていたはずだとふっと思ったりした。途端に、スーツケースの抵抗感が歴史の重みのように感じられてきて、納得できたりするから人間なんて不思議なものだと思う。
 幸いなことは、テルミナ駅はやや小高いところにあり、目的のホテルはパラティーノの丘に向かうやや低いところに位置していて、下り勾配であったことだ。下りなので、ツルンのところではスーツケースを前方に早く押し、ゴトンのところでは前輪が浮くようにスーツケースの後ろ側を下に押しつけると、スムーズにスーツケースは下っていってくれたのである。途中、ライトアップされたサンタマリア・マジョーレ教会に感嘆したり、地下鉄の入り口を発見したり、バールをのぞき込んだりしているうちに、目的のパラティーノホテルに到着である。

 翌2月22日の朝7時ごろ、食前の散歩に出る。駅とは反対方向の坂道を下ると、すぐ右に教会がある。ドームの仕上げも凝っていて、丁寧に見ようと歩き始め、写真を撮ろうと振り返ったところ、なんと、反対の坂の先にコロッセオが見えるではないか(写真)。2000年の歴史が巨大に立ちはだかっている。半信半疑に地図を見て確認するが、この巨大さはコロッセオしかない。
 思わず息を飲み、おそるおそるコロッセオに向かった。近づいてみてもう一度びっくりである。なんと、コロッセオは丘の下に建っているではないか。私が巨大と感じていたのは、上の2/3だったのである。それでも圧倒するほど巨大に感じたのであるから、その全貌が見えたときは唖然として声は出ず、カメラに納めようなんていう気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。それでもまだ丘の上から見ているだけに、何とかスケール感覚を保ち得たが、最初からコロッセオのレベルに立っていたら、完全にスケール感覚を失ってしまったのではないかと思う。

 コロッセオが建てられたのはいまから1900年ほど前の、AD72~82年といわれている。古代ローマ最大の建造物で、長径188m、短径156mの楕円形平面。高さは49m弱あり、いまの建物であれば12~13階建てに相当するからいかに巨大か想像できよう。外装や柱にはトラバーチンと呼ばれる大理石が用いられている。日本では大理石を仕上げに使っただけでも豪華なイメージを抱くが、ここでは建物のそのものが大理石なのである。ただただ驚くしかない。
 外側から見上げると、1階の柱頭にはドリス式、2階にはイオニア式、3階にはコリント式のオーダーがついているのが分かる。ドリスはもっともシンプルな作り、イオニア式は中ぐらい、コリントがもっとも手のこんだ細工であり、そのため、下層階は安定感が強調され、見上げるほど華麗さが圧倒するように感じる。

 中に入ると、迷路のような通路が下に見える。レンガ積みの細い通路で、格闘技のときの剣闘士や猛獣のための通り道らしい。あとで調べたところ、当時はこの上に木製の床を張り、さらにその上に砂を敷いていたとのことだ。砂は格闘時の血を吸い込むためのもので、砂を arenaと呼んでいたことからこのような闘技場や円形劇場をアリーナと呼ぶようになったそうである。来る日も来る日も、細い迷路から呼び出され、血みどろに闘う剣闘士や猛獣、それを見てアリーナの上にそびえ立つ観客席から5万人もの群衆がどよめく。記録では毎年100日以上もここで残酷な格闘が開かれ、およそ1万の剣闘士と1万の猛獣が闘わされたという。古代ローマ最大のこのコロッセウムはその殺戮を楽しむために建造された、そう考えると、歴史や巨大さとは裏腹に人間の本能に潜む負の力に背筋が寒くなってくる。   
    

 「フォロロマーノに行きましょう」の声に、我に返る。コロッセオに着いたときは朝早く人影もまばらであったが、気がつくとかなりの観光客が思い思いに記念撮影に熱中していた。みんな屈託がなく、いまを楽しんでいるようにみえる。気落ちしていてはこちらも負になりかねない、過去に学んで明日に活かせばよし、次へ出発である。外に出ると日はまぶしいほど明るい。コンスタンティヌスの凱旋門を過ぎると間もなく矩形の尖塔が端正に輝いていた。めざすフォロロマーノである。

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1997.2初めてのイタリア旅行、アルベロベッロで平面が四角、屋根が円錐の石造トゥルリに感動

2017年09月28日 | 旅行

1997 イタリアを行く 「アルベロベッロのトゥルリ」

 アリタリア航空でおよそ13時間、途中、ミラノを経由してローマ・レオナルドダビンチ空港に到着したのは1997年2月21日の夜になった。通関はスーパーのレジを通るよりも簡単で、呆気にとられるほど早い。長い時間待たされたあげく、始めから犯人のように疑いの眼差しでじろじろ見られるよりははるかに気持ちがいいが、パスポートにまったく痕跡が残らないのはちょっばかり残念である。
 スーツケースを受け取ってから、ローマ・テルミナ駅への直通列車に乗り込む。覚え立てのイタリア語で、セイ・ブリエ・テルミナ・プレファボーレ、クォンテ・コスタと言うと、切符が出てきたから、なんとか通じたようだ。スカイライナーよりは快適な列車でローマ入りする。ローマ・テルミナ駅から歩いてホテルに行き、チェックインする。もう夜がふけっているが、近くのバールへ立ち寄り、ビルラ・ウーノ・ペルファボーレ、初めてのローマの夜に乾杯した。

 翌22日の午前中はホテル近くのコロッセウムを皮切りに、古代ローマ時代の中心地、フォロロマーノなどを見て歩いた。この話しは別の機会にすることにして、昼近くにホテルに戻り、地下鉄を利用してテルミナ駅に向かい、長距離列車を利用して今回の旅の主テーマの一つ、アルベロベロへと出発した。
 最寄り駅のバーリまではおよそ5時間だが、時間を忘れるほど快適である。列車もよし、風景もよし、サービスもよし。たぶん、アッピア街道に沿って進んでいるはずで、シーザーやクレオパトラもこんな風景を見ていたと思うと、ぐっとくるものがある。そのせいか、車内販売のエスプレッソは、これが本場のエスプレッソ!と思えるほどに効いた。

 プーリア州の州都であるバーリに着いたころは、もう暗くなりかけていて、迎えのバスに乗り込んで間もなく夜のとばりが降りた。暗いのでよく分からないが、左手は白い波しぶきがたっているようだ。もし波しぶきならばアドリア海である。北上すればかつての一大都市国家ヴェネツィア、南下すれば、ギリシャ、エジプトである。やはりぞくぞくしてくる。興奮の渦をのせて、バスはアルベロベッロへと夜のとばりの中を走り続ける。ときおり、とんがり帽子のような白い屋根が通り過ぎる、もしや・・・。トゥルリか?、興奮はさらに頂点へ。
 アルベロベッロのホテルに荷物をおろし、まずは腹ごしらえである。イタリアに着いてから始めての正式な食事になるため、ガイドブックを片手にレストラン探しに出る。ところが、言葉の通じない運転手が夜のため道を間違えたらしく、なんと1時間も郊外を走り回ることになって、興奮は冷めてしまった。
 やっと着いた小さなレストランは我々だけで、なまりのある英語によると時間が遅くメニューの料理ができないので任せてくれないか、1人25000リラでどうだ、とのことらしい。破れかぶれの心境で任せることにし、ワインを取り寄せるとなんとこれがこの地で有名なロコロトンドの白だった。なかなかいける。
 気分を回復したころに出てきた第1プレートは、オリーブオイル仕立てのリゾットとアサリがたっぷり入ったスパゲッティであった。日本ではスパゲッティすらめったに食べたことのない私だが、お腹が空いていたとはいえ、思わずうまい、うまいを連発する。オリーブオイルも決してしつっこくないし、スパゲッティも歯ごたえがあって、お代わりをしたいほどだ。第1プレートを食べ終えると、いよいよメインディッシュ、第2プレートはローストラムとエビの塩焼きである。両方ともさっぱりした味付けで、白ワインにあい、胃袋と懐に限界がなければいくらでも入りそうな感じである。大満足でホテルに戻り、休むことにした。

 23日の朝、ホテルのレストランで朝食をとりながらアルベロベッロの資料を復習する。アルベロベッロがいまのような町の形態を取り始めたのは1600年代、当時はナポリ王国に属していて、この地方の領主がトルコ軍(イスラム教国で、すでに長年にわたりキリスト教国とイスラム教国の激戦が続いていた)を撃破したことから新しい領地をもらうことができた。その土地をアルボリベッリ(ラテン語で美しい木、森の女神の意味)と名付けたのが始まりといわれている。その後、跡を継いだ領主がナポリ国からの独立を図り、アルベロベロに強制的に農民を移住させた。だから、周辺の村では石積みの住まいが農村に点在した景観を作っているが、アルベロベッロだけは石積みの住まいが密集することになり、現在に至っている。

 石はすべてこの地に産する石灰石である。人々は石灰岩盤から、大きめの切石、うすい板状のスレート、細かく砕いた砕片を作りだした(写真)。外壁に切石を積み上げた。外壁は、外側と内側の二重に積み、あいだに砕石をつめてある。屋根は切石を内側にせり出して積み上げ円錐状のドームにした。その上に砕石をかぶせ、スレートを重ねて葺きあげ、雨仕舞いにしている。といっても、プーリアは雨の少ない地域であり、雨仕舞いはあまり心配ないらしい。
 その結果、とてもユニークな、平面が四角い直方体屋根が円錐形の石積みの住まいができあがった。屋根は石積みなのであまり大きな平面が作れず、もし大きな平面にすると屋根の円錐の高さが高くなりすぎるので、住まいは比較的小さな平面単位がいくつか連結した構成になり、その一つ一つにとんがり帽子のような屋根がのることから、きわめて特徴的な、木造建築の世界ではまったく想像のできない景観が形づくらることになった。

 このユニークな石積みの住まいをトゥルリ(複数形、通常いくつか集合して住まいになるので、複数形のトゥルリを使う、単数形はトゥルロだったと思う)と呼ぶ。
 ホテルからは歩いて15分ぐらいのところにトゥルリがよく保全されている町並みがある。モンティ地区、アイア・ピッコラ地区と呼ばれ、今年になって世界遺産に登録された。新たに住まいを作るときは、伝統的なトゥルリの形式を守ることが義務づけられたそうだ。
 トゥルリの建ち並ぶ通りは、緩い勾配ときつい勾配にカーブが重なっていて、歩いていくと視界が次々と変化していき、そのどれもが印象的で、いつの間にか町外れまで足が向いてしまう。町並みを振り返ると、強い光線のせいか、さっき見たはずの町並みなのに表情ががらりと変わっていて、新しい町を歩いている気分になる。

 円錐の屋根には、ハートや十字などのおまじないのようなマークがそれぞれの家ごとについていて、それに見とれていたら、たまたまドアを開けおばさんと目があった。すると、おばさん=Mさんは陽気に日本が好きだ、と言いながらなかに入れと手招きする。好意に甘え、なかを見せていただいた(次頁写真)。
 白い漆喰を塗り替えたばかりで、明るくきれいだし、奥の増築には現代風のバス・トイレがあり、清潔な感じであった。言葉はまったく通じないのに、エスプレッソまでご馳走してくれた。隣が土産物屋らしく、一緒に行くと、織物を持って行けと言う。このあたりの名産らしいので、気に入ったのを何枚か買うことにしたら、さらにお土産をつけてくれた。
 いい人に出会えたお陰で、一日中、すがすがしい気分でトゥルリの町を堪能した。仕上げは、トゥルリを改装したレストランでの夕食である。ワインもよし、スパゲッティも肉もエビも魚もよし。ローマが政治的、宗教的な中心とするならば、ここアルベロベロのトゥルリは庶民の生活文化の珠玉ではないか、そう感じたほどである。

 いつかアルベロベッロに再来し、トゥルリに宿泊して実体験をしよう、そう思いつつ、24日の朝、ポンペイに向けて出発した。話しの続きはいずれ。

 余談:アルベロベッロ散策中に日本人女性Yさんに出会った。ご主人がイタリア人でアルベロベッロに住んでいる。2000年、Yさんを頼って、トゥルリに民泊しトゥルリの住み方調査を実施した。そのときに親切なMさんに挨拶に行った。Mさんは、その後見たアルベロベッロを紹介する日本のテレビにも出演していた。元気で陽気な雰囲気が好かれるようだ。

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2016.9 小野川不動滝→レンゲ沼+中瀬沼→桧原湖一周ドライブ、翌朝磐梯山眺め帰路へ

2017年09月26日 | 旅行

2016.9 裏磐梯を行く ④小野川不動滝往復40分→レンゲ沼+中瀬沼散策35分→桧原湖一周ドライブ、磐梯山を遠望し帰路へ  /2016.9裏磐梯を行く①~④フルページ

 裏磐梯の観光案内には、五色沼自然探勝路のほかに、桧原湖探勝路、中瀬沼探勝路、小野川湖畔探索路、小野川不動滝探勝路などのトレッキングコースが図示されている。
 だいたい11時半に近い。小野川不動滝探勝路往復40分で、朝飯前ならぬ昼飯前にもう一汗かけそうだ。車で不動滝麓の駐車場まで行き、往復40分のトレッキングに挑戦した。

 駐車場には工事関係者の車以外は止めてなかった。平日のせいか、空いている。宿で補給した水と、雲行きが怪しいので用心の折りたたみ傘をショルダーバッグに入れ、歩き出す。シナノキ?、ミズナラ?、ブナ?などの木々がうっそうとした林道で、しばらくは上りの坂道である。まだ余裕しゃくしゃくで足取りは軽い。
 10分ほど上ったあたりから石段になった。これがけっこうきつい。ときおり吹き下ろす風は冷たいが、湿度が高く、石段を息を切らしながら上っているうち汗が噴き出してくる。
 それでも5分ほどか?、石段を上りきる。平坦な山道が左右に伸びている。水分を補給し、右手の不動滝に向かう。ところどころぬかるんでいるが避けられなくない。しばらく歩くと左に物置のような祠がある。のぞくと不動明王らしい板の彫刻が掛かっていた。
 祠の先の橋を渡ると滝の音が聞こえ始める。霧混じりの風が吹いてきた。不動滝である。落差は30mだそうだ。岩場の上に小さな祠が置かれているが、扉は閉まっていて本尊は分からない。たぶん、不動明王であろう。
 不動明王は大日如来の化身とされ、厄難除災、煩悩を断ちきる霊験があり、広く信仰されている。雨が続いたためか水しぶきは豪快で、水しぶきを受けながら合掌すると煩悩が断ち切れたように感じる。マイナスイオンをたっぷり吸い込み、同じ道を辿って引き返した。往復で35分の歩きだった。

 次は中瀬沼探勝路+レンゲ沼探勝路に向かった。途中で昼食を取り、裏磐梯サイトステーションの駐車場に車を止めて、レンゲ沼を半周した。この沼は普通の水で、たぶん蓮の花が咲き乱れることから蓮華沼と名付けられたのであろうが、花は終わっていた。水面に映る雲は動きが早い。
 探勝路は平坦で、歩きやすく整備されている。木道になり、小ぶりな沼に出た。姫沼の名が付いている。たぶん、小さな=かわいらしい=姫になったのであろう。姫沼も普通の水のようだ。
 姫沼を抜けると、林がうっそうとしてくる。探勝路も曲がりくねっているから方向を失うが、一本道だから迷うことはない。中瀬沼展望台が見えた。展望台に上ると、こんもりした森の中に中瀬沼が見える。
 このあたりは裏磐梯のほぼ中心になるそうで、中瀬と名付けられたらしい。展望台の正面に磐梯山が位置するらしいが、残念ながら雲に隠れている。展望台を下り、探勝路をさらに進むと、大きく迂回してレンゲ沼に出る。
 8の字のように、レンゲ沼探勝路と中瀬沼探勝路が円を描きながらつながっているようだ。レンゲ沼沿いの同じ道を戻って駐車場に出た。およそ35分の散策だった。

 裏磐梯サイトステーションをのぞこうと歩きかけたとたん、パラパラと降り始め、すぐに大雨になった。サイトステーションはあきらめ、車に飛び乗る。

 散策は棚上げし、桧原湖一周のドライブにした。
 桧原湖は1888年の水蒸気爆発で小磐梯が山体崩壊し、水が堰き止められてできた湖である。もともとここに桧原村があったが、堰き止めで水没してしまったそうだ。桧原湖の名は桧原村に所以するのであろう。
 桧原湖の南に磐梯山が見えるはずだが、すっかり雲に隠れている(写真)。いつの間にか雨は上がった。
 桧原湖の西側に道の駅裏磐梯があったので、一息しようと寄った。見回していたら漆器に目がとまった。いつも使っている味噌汁用の椀の漆がかけ始めていたので、買い換えることにした。地元の手作りだそうで、木目を残した漆塗りである。ちょっと値が張ったが、地元の産業支援につながれば良しである。

 桧原湖を一周して宿に戻った。桧原湖を望む温泉につかる。1888年の爆発では500人を超える犠牲者が出たそうだ。冥福を祈り、自然の脅威を心する。

 夕食は新館=猫間離宮3階のフレンチレストランにした。フレンチでも地元の食材が使われていた。旅先ではじっくり旅先に浸りきることが、旅の醍醐味である。料理法はフレンチでも材料が地元産というのはいい。食前酒も地元の桃ワイン?だった。がワインはフランスだった。惜しい。寝しなに温泉を楽しみ、2日目を終えた。

 9月10日・土、日が射している。部屋も朝食会場も桧原湖に面しているから磐梯山は見えない。
 朝食後、駐車場から磐梯山を見た。左の峰の左の稜線と右の峰の右の稜線を伸ばして交叉した△が有史以前の磐梯山だったことになる。現在の標高が1816mだから、有史以前は3000mに近い?、3000mを越える?山だったのだろうか。噴火によってその△が吹き飛び、土石流となったのだから、堰止め湖や多くの沼、湿地ができたのもうなづける。

 今回は地形、地質、地誌を学ぶ旅になった。国道459号線を下りながら磐梯山東面、磐越自動車道から磐梯山の南面を眺め、帰路についた。

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2017.9 長年世話になったタンスと古いコート・スーツを終活、物を残さない思い出づくりを

2017年09月25日 | よしなしごと

 旧宅に住んでいたとき、タンス3点セットを購入した。
 高さはいずれも180cm弱、奥行き60cmほど、2つはコートやスーツを吊すハンガータイプで幅60cm、1つは引き出しタイプで幅105cmである。
 木目を見せた木製でしっかりできている。その分、重量もある。
 いまのマンションへに引っ越すときも運んできて、北・西の部屋の西壁に置いた。
 通風には気をつかったつもりだが、10年目ぐらいからかび臭さが気になった。タンスを動かしたら、西壁にびっしりカビが発生していた。 
 2つを北・東の部屋に移し、タンスの後ろに風の通り道をつくった。そのため部屋が狭くなった。
 定年後、スーツは着る機会は少なくなった。古いコート、スーツを処分することにした。マンションにはウォークインクロゼットがたっぷり用意されているので、必要なスーツ、コートはウォークインクロゼットで間に合う。
 思い切ってハンガータイプ2つのタンスを処分することにした。
 終活である。
 粗大ゴミ担当に連絡をし、手数料540円×2を購入して、予約前日に運び出した。
 木製でしっかりできているのでかなり重い。高さは180cmあるので、傾けないとドアを通らないしエレベータにも乗せられない。老夫婦2人で11階の部屋から1階のゴミステーションまで、汗びっしょりになりながらなんとか運んだ。
 タンスに長い間お世話になった、と感謝しながら、広くなった部屋でビールを傾けた。
 終活で暮らしの思い出も消えていく。寂しくなる。
 物を残さない、新しい思い出づくりを心がければいいか・・。

 

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