yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.11 アール・デコの生き証人東京都庭園美術館=旧朝香宮邸

2019年09月30日 | 旅行

2018.11 目黒を歩く 旧朝香宮邸=東京都庭園美術館   <日本の旅・東京を歩く>

 目黒線不動前駅から目黒駅に戻る。昼時である。
 落語の目黒のサンマが広まり、目黒商店街では毎年9月早々の日曜に目黒のさんま祭りを開催する。数万人の人出になり、テレビでも報道される。我が家では隣のYスーパーで買ったサンマもよく食べるが、目黒のサンマも気になる。
 庭園美術館に向かいながらサンマの看板を探したが、見つからなかった。サンマだけでは商売にならないようだ。カレー店、ラーメン店、洋食レストラン、カフェ、居酒屋・・、・・寿司屋があった。食べ終わった客が出てきた。にこにこおしゃべりしているから、味も期待できそうだ。席に着き、握りを頼む。次々と客が入れ替わる。値段も手ごろで、評判がいいようだ。目黒の寿司もお勧めである。
  1906年、久邇宮朝彦親王の第8王子鳩彦親王が朝香宮家を創設する。鳩彦親王が留学中、フランスで交通事故に遭い、看病のため渡仏した允子妃と2年余りパリにいた。1925年にパリで開催された「アール・デコ博覧会」を見た夫妻は感銘を受け、帰国後、アール・デコ様式を採り入れた邸宅を建てた。それが朝香宮邸で、1933年に竣工する(写真)。

 アール・デコart decoを復習する。ヨーロッパの建築はロマネスク様式、ゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式、ロココ様式、新古典様式と変遷してきた。様式には技術の発展を背景に、社会の主導者の思惑が大きく影響していた。主権者のもとで発生した様式は文化交流によって広まるから時間的にズレながら、地方の独自性が加味されていく。
 新古典様式は18世紀中ごろから19世紀初頭、主に公共建築で採用されたが、個人的な建物では新しい技術である鉄とガラスを用いた自由なデザインが好まれた。
 その代表がアール・ヌーヴォーart nouveauであり、1890年ごろから1910年ごろに、植物模様、自由な曲線を装飾に用いたデザインで人々を魅了した・・2019年1月、新宿・小田急百貨店で開催されたミュシャ展を見た(写真)、アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は現チェコ=当時のオーストリア帝国生まれのデザイナーで、アール・ヌーヴォーを代表する一人である・・。
 アール・ヌーヴォーは華やかだが、曲線が複雑である。時代は工業化、大量生産化に向かっていて、単純化されたデザインが指向された。
 1925年、パリで開かれた「現代装飾・工業美術国際展=略称してLes Arts Décos=アール・デコ」では、アール・ヌーヴォーに比べ直線的、機能的、シンプルなデザインが追求された。
 デザインには古代エジプト、アステカ、日本や中国などの東洋美術のモチーフの影響も見られる。朝香宮夫妻は、アール・デコ展でヨーロッパ最先端のデザインのとりこになったようだ。  
 ミュシャとルネ・ラリックは同い年で、女優サラ・ベルナールの冠をミュシャがデザインしルネ・ラリックが作製するなど、親交が深かった。アール・デコはアール・ヌーヴォーを引き継ぎながら、時代に応じて発展した、ととらえればいいようだ。

 朝香宮家が皇籍離脱後、旧朝香宮邸は吉田茂外相・首相公邸となり、国賓・公賓の迎賓館を経て、1983年、東京都庭園美術館として一般公開された。私が訪ねたのは、この一般公開後間もなくであるが、記憶が怪しいので、初めての訪問に等しい。
 特別展を兼ねた入場料・シルバー割引600円を購入し、入場する。 
 朝香宮邸の全体設計は宮内省内匠寮で、内装設計にフランス人装飾美術家アンリ・ラバン(1873-1939)が起用され、ガラス工芸家ルネ・ラリック(1860-1945)が玄関扉のガラスレリーフやシャンデリアをデザインした(写真)。くじゃくのような翼を広げた女性のガラスレリーフは訪れた人の目を奪う。
 いまでも人の目を釘付けにする魅力的なアール・デコのデザインは、1933年の竣工当時、日本人に衝撃を与えたのではないだろうか。
 ほかにも、フランス人彫刻家・画家レオン・ブランショ(1868-1947)、フランス人鉄工芸
家レイモン・シュブ(1893-1970)、フランス人画家・ガラス工芸家マックス・アングラン(1908-1969)が室内装飾、レリーフ、タンパンなどのデザインを手がけている。

 外観は四角いシンプルな表現である(前掲写真)。明治~大正の建築デザインでは、ヨーロッパのゴシック様式、バロック様式、新古典様式などを手本にし、彫刻を多用した重厚、荘重な表現が主流だった。
 大正~昭和初期、新たなデザインである近代建築が建ち始めた。朝香宮邸のシンプルな外観は近代建築のいぶきを感じさせる。
 ところが中に入ると近代建築のシンプルなデザインが一転して、華やかで柔らかなデザインに変わる。外観がシンプルだからこそ、華麗さが際立っている。宮内省内匠寮とアンリ・ラバンを始めとするアール・デコ派のコラボレーションの成功例といえよう。

 ルネ・ラリックデザインのガラスレリーフ(前掲写真、玄関から撮っている)は、玄関と大広間のしきりに使われていて、車寄せ・玄関ポーチから玄関に入ると真っ正面に見える。
 大広間からガラスレリーフを見ると、玄関からの明かりが長身の女性を優雅に浮かび上がらせる。ルネ・ラリックは玄関からの明かりでレリーフが神秘的に浮かび上がることをもくろんだに違いない。
 大広間の壁面はウォールナット材で仕上げ、天井は格天井を連想させながら円形の照明を整然と並べ、落ちついた雰囲気で、気品を感じさせる(写真)。
 中央階段右横はレオン・ブランショ作の大理石レリーフである。階段のジグザグはアール・デコで多用されるデザイン、手すりにはめ込まれたブロンズ、手すりのブロンズの意匠もアール・デコの特徴である(写真)。
 この日は「アール・デコと異境への眼差し展」が開かれていて、室内各所に展示品が置かれていた。アール・デコの意匠を丹念に眺め室内写真、階段意匠を撮り、続いて壁上部の意匠を撮ろうとしたら、飛んできたスタッフから展示中はすべて撮影禁止と強い口調で注意された。
 旧朝香宮邸のアール・デコを撮りたいときは、展示会のない時がお勧めである。

 ユニークな香水塔が置かれた次室、幾何学的にデザインされた花をモチーフにした大客室、果物をモチーフにしたルネ・ラリックの照明、ガラス扉の大食堂を眺め、2階に上がる。
 左官職人が腕を振るった2階広間、ヴォールト天井の殿下居間、妃殿下居間、白黒の大理石が市松模様に敷かれた南側ベランダなどを見る(写真、中央2階が南側ベランダ、1階中央列柱は大客間ポーチ、1階左円形部分は大食堂)。
 各部屋にはラジエータ暖房が設置されていて、鋳物のカバーがつけられている。カバーデザインは各部屋で異なり、2階広間は青海波、殿下の部屋は噴水、妃殿下の部屋は百合の花をモチーフにしたアール・デコデザインである。室内の構成・素材・意匠・配色、照明器具、さらにはラジエータカバーなど、細部までアール・デコでデザインされていた。
 アール・デコは1930年ごろに新しいデザイン思潮に変わっていく。日本でも事務所建築などは、より機能的なデザインが主流になっていった。
 旧朝香宮邸=庭園美術館は、貴重なアール・デコデザインをいまに残している。当時の皇族の煌びやかな暮らしはそのころの社会情勢から見て不問にし、貴重なほかでは見られないアール・デコデザインに絞って庭園美術館を訪れてはどうだろうか。

 本館に続く新館にカフェ庭園が設けられていて、庭を眺めながらアール・デコの余韻に浸ることもできそうだが、私たちは日本庭園と茶室に足を向けた(写真)。
 茶室「光華」は1936年に建てられた。朝香宮鳩彦親王の希望で、日本の伝統建築を基調にしながら、アール・デコの本館の優美で明るい雰囲気に調子を合わせて、天井の高い、開放的な意匠にしたそうだ(写真)。
 いまは重要文化財の指定を受けている。茶席がないときの見学は自由である。
 茶室を出て、日本庭園を巡り、広々として手入れの行き届いた芝庭、西洋庭園を歩く。緑の庭園にクリーム色の旧朝香宮邸が映える。目にも心地いい。
 庭園のみの入場料は200円である。乳児を連れたママが散策していた。安心して子どもを遊ばせることができそうだ。

 正門横に近年建てられたレストラン・デュパルクがある。道路から直接入ることができ、本格的なフレンチ料理を楽しめるそうだ。
 目黒の寿司も良かったが、本格フレンチもよさそうだ。都心の喧騒を忘れさせてくれるほど静かな雰囲気で珈琲をいただき、帰路についた。
 帰宅後の歩数計は12800歩、健康に良し、新しい発見、記憶の復習にもなった。(
2018.9)

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2018.11 東京・目黒を歩く 五百羅漢寺~円仁=慈覚大師開創の目黒不動尊~たこ薬師

2019年09月26日 | 旅行

2018.11 目黒を歩く 五百羅漢寺~目黒不動尊~たこ薬師  <日本の旅・東京を歩く>

 東京港区白金台に建つ旧朝香宮邸が東京都庭園美術館として一般公開されたのは1983年である。会館間もなく、ルネ・ラリック展?が開かれたとき訪ねた。
 ルネ・ラリック(1860-1945)はジュエリー・デザイン、ガラス工芸で著名であり、朝香宮邸=庭園美術館の正面玄関のガラスレリーフにまず目を見張らされた。アール・デコの室内とルネ・ラリックのガラス工芸が印象的だった。
 ・・話が飛ぶ。2019年7月、西武池袋店でルネ・ラリックコーナーを見つけた。裸婦が浮き彫りされた花瓶、スピード感のあるボンネットマスコット、ガラスのオブジェ、グラスなどを、美術館では絶対に触れないが、デパートのショップなので手に取って眺め、ルネ・ラリックを堪能できた。浮き彫りのガラス工芸は神秘的である。
 話を戻し、2017年に読んだ篠田真由美著「美貌の帳」(book434参照)に朝香宮邸が登場したが、外観も間取りもかつての記憶がおぼろである。庭園美術館を再訪しようと調べたら、改修工事?展示入れ替え?で休館していた。
 2018年11月、フッと思い出し調べ直したら開館していて、「アール・デコと異境への眼差し」展を開催していた。企画展のテーマも興味深い。
 アクセスマップを確認する。庭園美術館はJR山手線目黒から東に徒歩7分ぐらいである。地図の西、目蒲線不動前・・いまは目黒線と呼ぶが私の記憶はまだ目蒲線である・・近くの目黒不動尊はよくテレビに登場する。目黒不動尊は不動前から歩いて12分ぐらいである。
 昼前に目黒不動尊、目黒でランチ、午後、庭園美術館+コーヒータイムをイメージして家を出た。

   現目黒線のプラットフォームは目黒駅の地下にあり、都営三田線、東京メトロ南北線が相互乗り入れている。便利になったが、かつての目蒲線の記憶が残っていて、まごつく。
 目黒線目黒駅の次が不動前駅である。不動前駅で下りるのは初めてになる。目黒不動尊の方向がつかめないので、アクセスマップをにらむ。
 住宅が建ち並んだ入り組んだ道を北東に歩けばいいらしい。10分も歩かないうちに寺社林が見えたが、「五百羅漢寺」案内板があったので、先に五百羅漢寺に寄った。
 現代的な建物が建ち、入口左の「苦しさに負けずいつも心あかるく」と刻まれた坐像、右の天恩山五百羅漢寺と浮き彫りされた石柱が無ければ通り過ぎそうである(写真)。右手の上階はマンションのようにも見える。多角経営かも知れない。
 階段を上ると中庭の奥に馬蹄形の大屋根をのせた本堂が建つ。合掌し堂内を見ると、住職が講話中で、右手に五百羅漢が講話に耳を傾ける仕草で並んでいた(写真、撮影禁止、web転載)。
 江戸元禄時代、松雲元慶禅師(1648-1710)が発願し、10数年かけて500体以上の羅漢像を彫り、現在の江東区大島に創建された五百羅漢寺に安置、江戸庶民の信仰を集めたそうだ。
 その後の地震、火災、暴風、明治維新の混乱で荒廃し、仮住まいののち、1908年、現在地に五百羅漢寺が建てられ、残った羅漢像も移された。1981年、新たな堂宇がつくられ、305体の羅漢像のおよそ半数が本堂、残りが羅漢堂に安置された。
 本堂中央の本尊釈迦牟尼仏は高さ356cmと大きく、穏やかな顔で彼方を見つめている。対して、右段に並んだ羅漢たちは参拝者に近い78~90cmの坐像で、表情は様々だが厳しい顔立ちが多い。仏道修行の厳しさを表しているのであろうか。住職の講話を真剣に聞いているようにも見える。修業を積み、悟りが開ければ釈迦牟尼のような穏やかな顔になるに違いない。
 本尊釈迦牟尼仏と羅漢像に一礼し、門を出る。
   五百羅漢寺から左に戻り、塀沿いに進むと、目黒不動尊の仁王門になる朱塗りの堂々たる楼門が現れる(写真)。1階左右に仁王像がにらみを効かせている。
 仁王門脇に渋谷と五反田・恵比寿を結ぶ東急バスの停留所があった。このあたりは住宅街で利用者も多そうだし、なにより目黒不動尊がよく知られているからであろう。
 由緒を調べる。円仁=のちの慈覚大師(794-864)はいまの栃木県下都賀で次男として生まれ、父が没した9才のとき、大慈寺の僧広智に預けられる。
 すぐに才覚を現したらしく、808年、15才のとき、最澄=伝教大師(767-822)に弟子入りしようと広智に連れられ比叡山に向かう途中の当地で夢に不動明王が現れ、「我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん」と告げた。
 円仁は夢で見た不動明王を彫刻し、この不動明王を本尊とした寺院建立を決意、法具の獨鈷(=金剛杖)を投げたところに湧水があったのでその泉を「獨鈷の瀧」と呼び、建立された寺を霊泉にちなみ「瀧泉寺」と称した。
 ・・15才で、まだ比叡山での修業も始まっていない円仁に寺院建立が可能か疑問も残るが、信じることにしよう。伝承では、瀧泉寺開創は808年とされている。
 比叡山に上った円仁は最澄のもとで修業を重ね、21才で得度し、24才で最澄とともに布教に出、大慈寺で灌頂を授かる。最澄入滅後、巡礼、布教を重ね、唐に渡ったあと比叡山に戻り、天台座主につく。
 ときの清和天皇は、860年、円仁開創の瀧泉寺に「泰叡」の勅額を贈る。以来「泰叡山」と称した。通称「目黒不動尊」の正式名は「泰叡山護国院瀧泉寺」である。
 円仁は没後、清和天皇は最澄、円仁に日本で初めての大師号を贈る。以降、最澄は伝教大師、円仁は慈覚大師と呼ばれる。
 由緒はまだ続く。江戸寛永年間、徳川3代将軍家光(1604-1651)が目黒で鷹狩りをしたとき、お気に入りの鷹が行方不明になる。家光が目黒不動尊で祈願したところ、本堂前の松の梢に鷹が戻ってきた。家光は瀧泉寺の霊験に報い、堂塔伽藍を新たに造営した。
 瀧泉寺は大願成就の霊験ありと歴代の将軍が参詣し、江戸庶民の信仰も集めたそうだ。由緒には、二宮尊徳、西郷隆盛、東郷平八郎の名前も挙げられているほど、霊験あらたかと信じられたようだ。
 仁王門をくぐる。境内は広々している(写真)。毎月28日には大縁日が開かれる。縁日の賑わいはよくテレビでも取り上げられる。正面のこんもりした寺社林の右手前の松が家光ゆかりの「鷹居の松(たかすえのまつ)」だが、代替わりしたようだ。
 前掲写真左に池があり、石垣の奥に据えられた竜の口から水が流れ落ちている(写真)。円仁ゆかりの「獨鈷の瀧」である。手前には不動明王の石像が魔を伏すような顔でにらんでいる。  
 こんもりした寺社林のあいだの石段を上り、屋根型をのせた鳥居で一礼し、さらに石段を上って本堂で参拝する。
 墓地にはサツマイモの栽培を広めた青木昆陽ほか、著名な人の墓もあるらしいが墓地は寄らず、目黒不動尊をあとにする。

 不動前駅に向かう途中、不老山薬師寺成就院、通称たこ薬師に寄った(写真)。由緒によれば、円仁=慈覚大師が眼病を患ったとき薬師仏を彫り、入唐の帰り海が荒れたのでその薬師仏を海神に捧げた。
 のちの巡礼で備前に行ったとき、その薬師が蛸に乗って現れた。目黒不動尊を訪れたとき、その薬師を胎内秘仏とする薬師如来を彫り、成就院を開山し、本尊とした。
 病気平癒とともに福を吸い寄せる御利益があるそうなので、本尊薬師如来に参拝する。(2018.9)

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2019.5 連休に新宿・野鳥の森公園~おとめ山公園~甘泉園を歩き、都電に乗る

2019年09月22日 | 旅行

2019.5 おとめ山公園~甘泉園を歩き、都電荒川線に乗る  <日本の旅・東京を歩く>

 JR京浜東北線王子駅近の東京都北区の複合施設・北とぴあ17階に展望ロビーが設けられている。3月末、1階受付でもらった北区の観光ガイドマップと照合しながら、徳川吉宗8代将軍に始まる飛鳥山公園の桜や副都心の遠望を眺めた。
 観光ガイドマップには北区各地の見どころが案内され、JR線、都電荒川線、地下鉄、バス路線も記載されている。
 都電から発想が飛んだ。子どものころ品川発の都電に乗り・・60年も前になるかな、そのころはチンチン電車と呼んでいた・・東京タワーに出かけるなど、何度も都電を利用したことがある。
 その後、次々と都電が消えていった。いまは都電荒川線しか残っていない。
 都電荒川線は、三ノ輪橋と早稲田を結ぶ12.2kmをおよそ1時間で走る。春には途中の桜並木が楽しめるということでたいへんな人出になることから、近年、東京さくらトラムという愛称がつけられた。
 その荒川線にはまだ乗ったことがない。都電荒川線の散策を練った。

 連休中日、天気良し、高田馬場駅近くのおとめ山公園から甘泉園まで歩き、早稲田から王子まで都電荒川線に乗り、王子駅前で下りて、北とぴあ17階展望レストランでランチを食べる計画を立てた。
 高田馬場駅はめったに利用しないので、まず、駅前の地図をにらむ。駅の北におとめ山公園、左に野鳥の森公園がある。直線で700mぐらいのようだ。
 早稲田通りを渡り、商店街を抜けると、神田川に出る。神田川をはさんで東京富士大学のキャンパスが広がっている(写真)。
 名は体を表す、キャンパスから富士山が見えることから命名されたのであろうか。将来を担う若者よ、学問の高みを目指せ、という期待だろうか。
 西武新宿線、新目白通りを渡った先に氷川神社があった。境内は小さいがよく手入れされていた。参拝する。
 そのまま先に進むと、下落合野鳥の森公園の案内板があった。狭い坂道を上ると、新宿区立下落合野鳥の森公園の石碑があり、傾斜地にケヤキ、コナラ、モミジなどの新緑・・浅学でどの木がどれかは見分けられない・・が目にまぶしいほどに広がっている(写真)。
 池も整備されている。湧水であろう。鳥のさえずりも聞こえ、のんびりした気分になる。周りは住宅地なので、憩いの場になりそうだ。

 野鳥の森公園を抜け、そのまま坂道を上がる。左手が薬王院らしいが塀が巡らされていて入口が見つからない。塀に沿って進むと下り階段になり、下りたところが真言宗豊山派薬王院の入口だった。
 野鳥の森公園を下れば薬王院の入口に出たようだが、坂道を一回りしたことになる。いい散策になったと思えばいい。
 薬王院は鎌倉時代の創建で、本山は奈良長谷寺のため、東長谷寺の別称もあるらしい。本山長谷寺から牡丹100株を移植し手入れを加えて、いまや40種・1000株まで増えたそうだ。
 4月中~下旬の見ごろには大勢が訪れて牡丹を楽しむことから、牡丹寺とも呼ばれる。
 本堂に向かう斜面地は花の終わった牡丹の緑で埋め尽くされていた(写真)。見ごろのころは圧巻の景色になりそうだ。
 本堂まで上り、本尊薬師瑠璃光如来に合掌して、薬王院をあとにする。

 住宅地を東に歩き、おとめ山公園の案内表示を見つける。相馬坂と書かれた坂道を上ると、右手に新宿区立おとめ山公園の案内板があった。
 話が飛ぶ。室町後期、武蔵守護代・扇谷上杉の武将で江戸城を築城した太田道灌(1432-1480)が狩の途中雨になり、簑を借りようと農家を訪ねたところ娘が山吹の花一枝を出し、「七重八重花は咲けども山吹の実の(=簑)一つだに無きぞ悲しき」と詫びた話は学校教育で習った・・太田道灌や扇谷上杉は司馬遼太郎著「箱根の坂」に登場する(book471参照)・・。  
 話を戻す。太田道灌が狩をしたのがこのあたりらしく、江戸時代には将軍家の狩猟場となり町民の出入りが禁止されたことから御禁止山あるいは御留山(いずれもおとめ山)と呼ばれたそうだ。
 明治に入りおとめ山の東側は近衛家、西側は福島の相馬家の所有となり屋敷が建てられ、相馬家は傾斜地を庭園に整備したらしい。
 太平洋戦争前後に分割売却されたが、庭園は地元の保存運動でおとめ山公園として残り、その後に拡張・整備され、いまは区民ふれあいの森として開放されている。
 おとめ山は将軍家狩猟場=御禁止山・御留山、相馬坂は相馬家に由来する。地名も歴史の証人である。
 おとめ山公園は相馬坂の入口側がもっとも高く、林間広場、みんなの原っぱと名付けられた広場で子どもたちが走り回っていた。泉の広場から流れた水は斜面を下り上の池、中の池に流れていく。みんなの原っぱから樹林のあいだを林間デッキが伸びていて、ふれあい広場に下りられるらしい。
 私たちは、上の池から斜面の樹林のあいだを下り、中の池に出た。デッキや樹林のあいだから家族連れの声が聞こえる。
 このあたりは斜面からの湧水が豊かで、湧水が水源の神田川や妙正寺川に流れ込んでいるらしい。公園の池や水路にはコイ、メダカ、サワガニ、ザリガニ、亀などが生息していて、網を持って水をのぞき込む子どももいる。
 身近な自然は子どもの教育の場になり、感性も豊かにするはずだ。
 中の池を過ぎると、ホタル舎がある。このあたりはかつて蛍の名所だったらしい。蛍の復活も期待したい。
 管理事務所の先で北から下ってくるおとめ山通りを渡ると、対面に公園の続きの谷戸のもり、水辺のもり、下の池=弁天池がある(写真)。
 こちらは比較的平坦で、池を回遊できる。
 樹林は武蔵野の特徴であるケヤキ、カエデ、コナラ、クヌギ、スダジイ、シラカシなどが多いそうだ。いまは新緑が鮮やかだが、春、秋も彩りを楽しめそうだ。
 都心には、断片的だが、自然を楽しむ場が少なくないことが実感できる。

 おとめ山公園から新目白通りに出て、東に歩く。10分ほどで神田川、明治通り、都電荒川線を渡る。
 目指すは、都電荒川線面影橋の少し先、新目白通り南側のマンションの裏手の甘泉園である。  
 ここは、江戸時代、尾張徳川家の拝領地となり、その後、清水家の江戸下屋敷が置かれた。たぶん、そのころに湧水を利用した庭園がつくられたのであろう。
 明治以降、相馬家の所有となり、庭園が整備され(写真)、湧水が清冽で、涸れることがなく、茶にも適していたことから甘泉園と呼ばれた。
 戦後?、早稲田大学付属甘泉園となり、1969年から区立公園として開放されている。ツツジ、アジサイ、新緑、モミジ、冬の雪吊りなど、四季折々に楽しめる庭園として親しまれ、日本の歴史公園百選にも選ばれている。
 園内はけっこう広く、起伏もあり、湧水や樹林を見ながら散策を楽しめる。
 ベンチで一息していたら、打ち掛け、羽織袴の若いカップルがカメラマンとともに現れた。確かに甘泉園は記念写真にもふさわしい。祝辞を伝え、甘泉園を出た。

 甘泉園からは都電荒川線面影橋が近いが、早稲田の停車場も見えているので始発から乗ろうと、早稲田に向かった。
 停車場で待っていると、次々と人が並ぶ。外国人が多い。ヨーロッパではトラムが健在で市民の足になっている。私たちもヨーロッパの旅でしばしばトラムを利用する。街中を走るトラムは乗り降りが便利だし、街の様子を楽しむこともできる。外国人も都電が使いやすく、風景が楽しみなのであろう。
 ほどなく懐かしいチンチン電車が来た(写真)。大人になってからの初めての利用である。しかし、きょろきょろする間もなく、ぎゅう詰めになった。
 面影橋、学習院下、雑司ヶ谷・・・・と停車場ごとに乗り降りがあるものの、ぎゅう詰めは変わらず外の風景が見えない。連休+外国人観光客で都電は大盛況のようだ。
 およそ30分、都電を体験し、王子駅前で下りた。仕上げは北とぴあ17階のレストランで展望を楽しみながらのランチである。
 都心に残る緑地を散策し、都電を体験して休日を楽しんだ。家に着いたときの歩数計は14000歩、ほどよい散歩になった。(
2019.9)

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2014.11 中部イタリアの旅 ミラノの領主ヴィスコンティとスフォルツァの墓所 パヴィアの僧院

2019年09月17日 | 旅行

2014.11 中部イタリアの旅  パヴィアの僧院    <異文化の旅 イタリアを行く

 中部イタリア2日目・水曜、朝8:15、Bergamo Grand Hotel del Parcoのロビーに集合する。ツアー参加者は23名と多い。今回の中部イタリア・ルネサンス芸術巡りの人気がうかがえる。
 小雨のなか、バスが動き出す。
 ベルガモBergamoはミラノMilanoの北東40kmに位置し、目指すパヴィアPaviaはミラノの南30kmで、途中、ミラノに向かう大渋滞に巻き込まれた。ミラノを過ぎるとスムーズに流れ、10:10過ぎ、パヴィア修道院の駐車場に着く。
 パヴィアもときおり小雨がぱらつく。18℃ぐらいだろうか、空気がひんやりしている。

 パヴィア Paviaを調べる。
 イタリア共和国ロンバルディア州にある人口7万人ほどの基礎自治体=コムーネで、パヴィア県の県都である。
 ローマ時代以前からティキウム川=現在のティチーノ川の岸に町があり、ローマ帝国時代にはムニキピウムと呼ばれた重要な軍事的要所だった。東ゴート王国時代にパヴィアとなり、シタデル=要塞化された。ロンゴバルド族征服後、パヴィアはロンゴバルド王国の首都となった。  
 カール大帝は774年、ロンゴバルド王国の王座を獲得した。パヴィアは王国の首都として残り、12世紀に帝国の宗主権が失せるまで戴冠式の地となっていた。
 12世紀、コムーネとして自治権を獲得し、教皇派と皇帝派の対立時にはギベリン=皇帝派であった。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対して、ミラノ率いるロンバルディア同盟は皇帝に対立した。
 1359年、パヴィアはミラノ領主であるヴィスコンティ家に町を明け渡した。ヴィスコンティ家のもとパヴィアは、学問と芸術の中心となり、1361年からパヴィア大学が設置された。
 教皇派と皇帝派の対立は、教皇と同盟関係にあるフランス派とスペイン王を兼ねるカール5世支持派との間で争われることになった。ヴァロワ家とハプスブルク家の間で争われたイタリア戦争で、パヴィアは皇帝派=スペイン派=ハプスブルク家につき、1525年、フランス派が負け、スペイン支配になり、ナポレオン・ボナパルトに占領される1796年までオーストリアの支配を受けた。
 1815年、ナポレオン没落後に再度オーストリア行政下に入り、1859年の第2次イタリア独立戦争で解放され、1861年にイタリア王国に統合された。
 ・・ヨーロッパの都市はどこも激動の歴史があるようだ。
 パヴィアの僧院=パヴィア修道院La Certosa di Pavia(写真)は、1396年、ミラノ領主ヴィスコンティ家のジャン・ガレアツッオGian Galeazzo Visconti(1347-1402)が廟堂のためカルドジオ会修道院を建てたことに始まる。
 カルドジオ修道会とは、1084年、ケルンのブルーノほか6人の修道士により始まったカトリックの修道会だそうだ・・堂内の左右には7人で始まったカルドジオ修道会を象徴する7つのチャペル=小礼拝堂が並んでいる、
 ・・ガレアツッオとカルドジオ修道会のつながりについて資料は触れていない・・。
 ヴィスコンテイ家フィリッポ・マリオ(1395-1447)は世継ぎがないまま没し、娘婿のフランチェスカ・スフォルツァFrancesco Sforza(1401-1466)がミラノを支配する。そのスフォルツァ家もパヴィアの僧院を菩提院とした。

 ミラノの支配者ヴィスコンティ家とスフォルツァ家の菩提院であるから、潤沢な資金をもとに壮麗な僧院がデザインされた。
 当初はヴィスコンティ家からの依頼で、建築家ジュニフォルテ・ソラーリGuiniforte Solari (1429-1481)が建築を進めたようだ。
 たぶん、スフォルツァ家に代わったときから、ルネサンスを代表する建築家の一人ジョバンニ・アントニオ・アマデオGiovanni Antonio Amadeo(1447-1522)に交替して1507年に修道院が完成する・・ファサードは1560年完成の説もあるから、1507年は献堂式と思う・・。
 ジュニフォルテ・ソラーリもジョバンニ・アントニオ・アマデオもミラノ大聖堂=ドゥオーモ(1386着工、1570献堂式、19世紀完成、イタリアの旅2004-44 7日目ドゥオーモ参照)の建築にかかわったそうで、資料にはミラノ大聖堂と類似するとの記述もある。
 しかし、同時代の建築は様式や意匠が共通することが多いし、見学ではパヴィアの僧院の荘重さにも圧倒されて、ミラノ大聖堂との類似点を探そうという気分は飛んでしまった。
  想像をたくましくし、ジャン・ガレアツッオ・ヴィスコンティ家から建築を依頼されたジュニフォルテ・ソラーリがゴシック様式で建築を始めたが、力づくでミラノを支配したフランチェスカ・スフォルツァが権威付けをしようと、新しい様式であるルネサンス様式を得意とするジョバンニ・アントニオ・アマデオに建築を依頼したのではないだろうか。

 ジュニフォルテ・ソラーリによる教会堂平面は、奥行き81m、翼楼幅61mで十字の奥行きと翼楼幅が近似するラテン十字形である。
 教会堂、回廊は赤レンガを基調としたゴシック様式を基本に建築されていて(写真)、重厚であり、修道士の修業にふさわしい静謐な雰囲気を感じる。
 建築を引き継いだジョバンニ・アントニオ・アマデオは、上写真手前や前掲写真ファサードに見られる大理石を用いて華麗な表情をつくりだし、新しい時代を予感させる。ヴィスコンティに代わりミラノを統括しよともくろむスフォルツァは、新時代を予感させるデザインにさぞかし喜んだに違いない。
 その後の改修では、ファサードの表情豊かな人物像の浮き彫りに見られるバロック様式も採り入れられている(写真)。
 建築は分かりやすい表現である。とりわけ教会、庁舎、城館などは為政者の思想を反映しやすい。財力があれば、先進文化を建築で表現し、為政者の権力を誇示しようとする。建築は歴史の証言者でもある。

 堂内に入る。撮影禁止が残念だがやむを得ない。床は大理石のモザイク仕上げ、柱にはコリント式オーダーを乗せ、リブヴォールト天井はラピスラズリを用いた青みで仕上げてある。青みの天井から、「青の聖堂」とも呼ばれている。
 側廊を備えた3廊平面で、側廊のステンドグラス、身廊上部のハイサイドグラスから光が射し込むが、明るさも遠慮するほど静まりかえり、厳粛な雰囲気が漂っている。
 主祭壇手前の聖歌隊、高位聖職者席は古びた寄木細工で、歴史を感じさせる。祭壇に向かって右の翼楼にヴィスコンティ、左翼楼にスフォルツァの石棺が安置されていた。
 修道士の案内で回廊に進む。回廊は、中庭を囲んだ125×100mの矩形で、122本の半円アーチをのせた円柱が並んでいる(写真)。
 かつては36の僧坊があり、修道士は回廊を巡りながら修業に励んだそうだ。修道士が僧坊に並ぶ食堂に案内してくれた。石とレンガの簡素なつくりである。食道壁面には「最後の晩餐」が描かれていた。
 凡人には修道士の質素な暮らしを想像してしまうが、修道士は神に近づく歓びを感じているのかも知れない。
 12:00少し前、修道士に一礼し、外に出る。厳粛な雰囲気に包まれたせいか、みな無言でバスに乗り込む。(
2019.9)

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シェートリッヒ著「ヴォルテール、ただいま参上!」はヴォルテールの私生活とフリードリッヒ2世との交流が語られている

2019年09月03日 | 斜読

book498 ヴォルテール、ただいま参上! ハンス・ヨアヒム・シェートリヒ 新潮社 2015  (斜読・海外の作家一覧)
オーストリアの予習の本を探そうといくつかのキーワードで検索していて、この本もヒットした。タイトル「ヴォルテール、ただいま参上」が興味を引いた。
 どんなキーワードでこの本がヒットしたのかおぼえていない。たぶん、マリア・テレジア(1717-1780)がハプスブルク家を相続した1740年、フリードリッヒ2世が神聖ローマ帝国領のシレジア=シュレージエン(現ポーランド南西部からチェコ北東部)に攻め込み、領有してしまう歴史があり、オーストリア→ハプスブルク→マリア・テレジア→フリードリッヒ2世、そして「ヴォルテール、ただいま参上」に関連付いたのかも知れない。
 ヴォルテールは教科書で啓蒙主義者として学んだ記憶があるが、著作や思想については知識がない。
 裏表紙の書評に・・どうしてこんなに笑えるのだろう・・人間とはかくも矛盾した生き物かと気づかされる・・とあった・・。表紙の椅子に座り、青の衣装をまとった人物がプロイセン王フリードリッヒ2世(1712-1786)、赤い服が「ヴォルテール、ただいま参上」と口上を述べるヴォルテール(1694-1778)のようだ。
 書評を話半分としても、ヴォルテールもフリードリッヒ2世も矛盾を抱えながら生きたようだ。ただし、読み終えて笑えるところは私にはなかった。

 第1部の冒頭で、ヴォルテールが1732年に上演した戯曲「ザイール」は評判が良かったとあり、1733年に出版した「趣味の神殿」ではヴォルテールの批判で作家、芸術家を敵に回し、1734年出版の「哲学書簡」では教会や国の権威を担う人を痛烈に批判したため、出版は禁じられ、焚書となり、ヴォルテールは逮捕、投獄されることになったなど、ヴォルテールの優れた文学的才能を例示しながら、革新的で自由な思想を歯に衣着せず表現する正義漢として語っている。
 冒頭でも金の話が出ていて、全編にわたってヴォルテールの金銭感覚が挟み込まれている。荘園、農奴を抱える貴族の時代ならいざ知らず、18世紀のフランスで豊かな暮らしを営もうと思えば、金銭の裏付けが必要であろうから、私にはヴォルテールの金銭感覚はさほど気にならない。
 冒頭から、ヴォルテールが恋するガブリエル・エミリー・ル・トヌリエ・ド・プルトゥイユが登場する。
 エミリーの夫シャトレ・ロモン公爵はシレイの領主でもあり、当時陸軍少将だった・・シレイがどこかは分からなかった・・。エミリーとは親が決めた結婚だったせいか若い愛人がいて、エミリーにも愛人を持つ権利があると伝えてきた。エミリーは、ゲブリアル公爵と付き合ってすぐ別れ、ヴァンセンヌ伯爵と付き合いまた別れ、リシュリュー公爵の愛人になり、1733年にヴォルテールと出会ってからはヴォルテールこそ理想の男性と感じ、助け合って暮らすようになる。
 ところが、P74・・もっとも愛しく思っている恋人はヴォルテールさま、残りの生涯を歩んでいきたいのですが、目下の恋人はサン・ランペール公爵・・と手紙に記している。
 一方のヴォルテールも、エミリーと付き合いながら、姪のルイーズを愛人にし、パリに家を買って与えている。  
 自由な男女関係はフランス人の特質なのであろう。親が決めた政略的な結婚が当たり前だったため、自らの自由な意志で愛を探すことと、快楽的なまさに浮気の気分でつきあうことが同時に起きるようだ。人間の性格に潜む矛盾であろう。
 エミリーは優れた科学論文をまとめている。その一つ、1740年の「物理学序説」ではエネルギーと質量と速度の関係を論じているそうだ。
 アルベルト・アインシュタインによる物体のエネルギーは質量×光の速度の二乗という法則は1905年である。アインシュタインより160年も昔にエネルギーを論じたのだから、いかにエミリーが科学に造詣が深かったかが分かろう。
 そのエミリーが対等に論じあえるのはヴォルテールしかおらず、ヴォルテールはエミリーを「神のような恋人」と呼んだほどである。しかし、1749年、エミリーはランペールの子どもを産み、その出産で命を落としてしまう。

 フリードリッヒの父プロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王と呼ばれるほどプロイセンの強大化を目指し、子どもの養育も厳しく、文化を楽しもうとしたフリードリッヒ王子には暴力的なしつけだったようだ。
 父に反発し宮廷から脱出した話は訳者あとがきに紹介されている。連れ戻され、恭順を示し、ラインスペルク城をもらう。
 その城の改修で、等身大のヴォルテールの肖像画を飾ったほどフリードリッヒはヴォルテールとフランス文化に傾倒していて、ドイツ文学を見下し、そのせいかドイツ語が苦手だったようだ。
 1736年、シレイ城で隠遁のような生活をしていたヴォルテールに、フリードリッヒ王子からヴォルテールの著作をすべて送って欲しい、できれば会いたいとの手紙が届く。その後、フリードリッヒとヴォルテールの書簡が往復することになり、再三、ヴォルテールに訪ねてくるよう要請する。
 1740年、父王の死でプロイセン王に就いたフリードリッヒ2世は、ヴォルテールに詩を贈り、ヴォルテール来訪を促す。その年、ヴォルテールはモイラント城に滞在していたフリードリッヒ2世に会いに行く。ヴォルテール45才、フリードリッヒ2世28才のときである。
 その年、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)が死去する。カール6世には男子が生まれなかったため、長女のマリア・テレジア(1717-1780)にハプスブルク家を相続させるように段取りしていた。
 ところが、カール6世の死で周辺国がハプスブルク家の領土を狙って動き出す。フリードリッヒ2世もシレジア=シュレージエンを攻撃し、それを聞いたヴォルテールは「プロイセン国王は耽美主義者の薄い外皮の下に大量殺人者の魂が眠っている」と思ったそうだ。
 にもかかわらず、ヴォルテールはフリードリッヒ2世に一時仕える。人間は矛盾を感じながらも矛盾した行動をするようだ。

 第1部はエミリーの死で終わり、第2部は、フランス王ルイ15世をはさみながら、ヴォルテールとフリードリッヒ2世との交流が書簡を下敷きに語られていく。
 私はさほどヴォルテールや啓蒙主義に深い関心があるわけではないが、そのころのフランス、プロイセン、ハプスブルク家を中心としたヨーロッパの貴族社会、政治、国際関係を理解する傍証となった。
 話がそれるが、マリア・テレジアはロートリンゲン公国のフランツと恋愛結婚する。その当時の貴族の恋愛結婚は、この本の男女関係でも分かるように、大変珍しかったようだ。さらにテレジアは16人の子どもを産み、周辺強国と渡り合い、オーストリアの政務をこなしたのである。
 「ヴォルテール、ただいま参上」には数行しか登場しなかったが、マリア・テレジアの国が楽しみになった。
  (2019.8)

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