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2023.3静岡 方広寺を歩く

2024年02月10日 | 旅行
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 龍潭寺の参拝を終えたのが14:00ごろ、宿は浜名湖に面した舘山寺温泉なので時間に余裕がある。龍潭寺の北西7kmほどの山あいに位置する臨済宗方広寺派大本山方広寺に向かった。
 県道303号を北西に走り、県道68号に右折して大本山方広寺・奥山半僧坊大権現と書かれた朱塗り鉄柱の大鳥居を抜けた。狭い通りに民家、商店が並ぶ。門前町のようだが、ほとんど閉まっていて、人通りはない。
 瓦葺き切妻屋根、四脚門の総門=黒門が構えていた(写真web転載)。扁額には「池自有霊」と書かれているらしいが崩してあり読めない。黒門を抜けた先の駐車場に車を止める。

 旧字の方廣寺受付があり、無人で、拝観4時まで、拝観料500円と書かれている。参道の左の池の中島に朱塗りの弁天堂が祀られていたので、一礼する(写真)。弁天堂=弁財天は仏教の守護神とされるから、少し先に本堂があると思ってしまった。
 池の先に瓦葺き入母屋屋根、楼門形式の朱塗りの堂々たる山門=赤門が構えている(写真)。山門=三門=三解脱門、気を引き締めて一礼する。
 参道の右=北・東も左=南・西も急斜面で、木々がスクッ、スクッと空に伸びている。右の斜面に急な階段が上っているが、正面の踏みしめられた参道を歩く。
 山あいの谷筋が参道になったようで、脇に細い川が流れている。水の流れる音、葉のこすれる音を聞きながら、緩やかな参道を上る。人気はない。本堂も見えない。一心に歩けということだろうか。
 分かれ道で「←拝観順路 方広寺」と書かれた左を選ぶ。哲学の道と書かれた石柱が立っていて、赤い帽子を被った小さな石地蔵が斜面にいくつも置かれている(写真)。
 朱塗りの大鳥居が建っていた。神仏混淆時代の名残だろうか。
 谷が深くなった。雄河龍王の幟の立った祠を過ぎる。龍王は仏法を守護する神だそうだ。参道は緩やかな勾配だが、なかなか本堂にたどり着かない。すれ違う人もいない。代わりに斜面に置かれた五百羅漢石地蔵が厳しい顔、苦しい顔、和やかな顔、笑い顔で励ます。参道を上ることが修行なのであろう。
 
 谷筋が開けた。参道正面の石垣の上に堂宇が見える(次頁左写真、左が本堂、中ほどが鐘楼、左端が宿坊)。左に折れた参道の先に朱塗りの橋が見える。人の声も聞こえる。左斜面の参道を上り、谷に架かった朱塗りの亀背橋(きはいきょう、次頁右写真)を渡ると、右斜面に開かれた方広寺本堂に着く。黒門、赤門から10数分の道のりだった。
 1323年、96代後醍醐天皇に皇子=のちの無文元選(むもんげんせん1323-1390)が生まれた、とされる。後醍醐天皇崩御の翌年、1340年、18歳のときに建仁寺で出家、1343年?1345年?、中国=に渡る。1350年に帰国し、各地を巡り、その間に井伊氏の外護(げご)を受け、1371年、当地を治めていた豪族奥山朝藤に招かれ、方広寺を開く。無文元選はここが中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、方広寺と名付けたそうだ。
 伽藍は焼失再建を繰り返し、1881年の大火後、本堂(写真web転載)、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔などが再建された。
 境内各所の石仏、五百羅漢は、無文元選が中国天台山方広寺で修行中に羅漢が現れたとの故事にちなみ、江戸時代の拙厳和尚が発願して作り始め、いまも信者から石仏、羅漢が奉納されているそうだ。
 無文元選が中国からの帰国するとき、海が荒れて遭難の危機にあったが、異人の半僧坊が現れ海難を免れることができたと伝えられ、方広寺を護る鎮守として半僧坊大権現が祀られたなどが、受付でもらった方広寺案内に記されている。
 拝観は4時までなので大庫裡の受付に急ぐ。大庫裏は本堂の東に、西を向いて建っていて、桟瓦葺き切妻屋根、中央に唐破風、その左右に千鳥破風をつけたユニークなデザインである(写真)。大正7年1918年の再建で、有形登録文化財に登録されている。
 拝観料500円を払い、左=西に折れて本堂に向かう(前掲写真)。前庭からは2階建てに見えるが、斜面に建ち前面を支柱で支えた間口32m、奥行き27mの平屋で、瓦葺き入母屋屋根である。大庫裡と同じ1918年に再建された。中央の扁額に書かれた「深奥山」は山岡鉄舟の書だそうだ。
 本尊は釈迦牟尼坐像(高さ104.2cm)、左脇侍は文殊菩薩坐像(高さ56.8cm)、右脇侍は普賢菩薩坐像(55.6cm)の釈迦三尊像、いずれも木造寄木造、金泥盛上彩色、南北朝時代1352年作で、国の重要文化財に指定されている(写真web転載)。もともとは茨城県城里町清音寺の仏殿に祀られていて、明治時代後期に当山に移された。光背裏に徳川光圀が修復したと記されているそうだ。1881年の大火で本尊を焼失し、清音寺から移してもらったようだ。合掌。
 
 本堂の裏=北に寄進された石仏が並ぶ「らかんの庭」が整備されている。中ほどの楕円の石碑には、与謝野晶子が1936年に参拝したときに詠んだ歌の一つ「奥山の しろがねの気が 堂塔を あまねくとざす 朝ぼらけかな」が刻まれている(写真)。
 与謝野晶子は各地を訪ねるごとに歌を詠んでいて、それぞれの地に歌が残されている。凡人は、同じ風景に接しているのに歌が浮かばない。才がないのか、修行が足りないのか。
 本堂裏=北の廊下に続いて渡り廊下が延び、階段を上がると上天台舎利殿が建つ。スリランカの仏歯寺から釈迦の歯の一部が奉納された納骨堂、などの説明が書いてあった。スリランカには何度か訪ねていて、キャンディに建つ仏歯寺で釈迦の歯を拝観したことがあり、懐かしく思い出した(写真、2017.7撮影)。
 上天台舎利殿は高台に建っていて、方広寺の堂宇の屋根がいくつも重なり、その先に山並みが遠望でき、清々しい気分になる。納骨堂にふさわしい風景である。
 本堂に下り、枯山水の涅槃の庭を眺め、庫裡に戻って外に出る。

 本堂の西に勅使門が建つ(写真)。凹形に後退し石垣上に建ち、銅板葺き切妻屋根に唐破風がついた四脚門で、重厚な構えである。奥に開山堂が建っていて、歴代天皇の尊牌を安置しているそうで、開山堂の表構えとして1904年に建てられた。登録有形文化財である。
 開山堂の西に半僧坊真殿が建つ(写真)。無文元選を海難から救った異人の半僧坊を大権現として祀る鎮守である。1881年に焼失し、同年に再建された。石垣を積んだ高台に建ち、瓦葺き入母屋屋根に唐破風と千鳥破風を重ねていて、拝殿の奥に中の間、本殿が続く権現造で、登録有形文化財である。
 半僧坊真殿の南の崖沿いに参道が上っている。急な坂道を上っていくと平地になり、三重塔が建っている(写真)。第1次世界大戦中に京都の繊維問屋が財をなしたが方広寺第2代管長の忠告で、好景気にもかかわらず商売を手控え停戦後の倒産続きのなかでも難を逃れて社が発展したことから、1923年に寄進したそうだ。倒産除けの塔として参拝する人が多いらしい。
 三重塔の平地には駐車場がある。別の道からアクセスすることができようだ。黒門から山道の参道を上り、方広寺を参拝し、三重塔に着くまで参拝を含めおよそ60分かかった。足に自信のない人やベビーカーを押した人の参拝はこちらの駐車場がお勧めである。
 三重塔をあとにして、亀背橋を渡り、山道の参道を下る。下りだし、勝手が分かっているので歩きやすい。崖に並ぶ地蔵、羅漢も笑っている。車に戻り、今日の宿である舘山寺温泉に向かう。
 (2024.2)

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