yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.4 石川丈山造営の史跡詩仙堂は凸凹を活かした名園も見事

2018年09月30日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 3日目 ③詩仙堂

凸凹の土地を活かした詩仙堂は名園も見事
 京阪本線は鴨川に沿って北上する。といっても地下を走っているので風景は見えない。終点の出町柳駅で叡山鉄道に乗り換えになる。地下でも連絡しているが、地上に出て風景を眺める(写真は叡山鉄道改札口)。
 鴨川に賀茂大橋が架かっていて、賀茂大橋から右の上流が高野川、左が鴨川に分かれる。高野川と鴨川に挟まれた三角州デルタに糺の森、下鴨神社が位置する。
 2016年5月、鞍馬寺から貴船神社を歩き、叡山鉄道で出町柳に出て、賀茂大橋を渡り、今出川通を歩いて相国寺を拝観した。そのときの記憶と重なり、地理が何となく分かってくる。地図を確かめ、公共交通で実感しないと、地理はなかなかつかめない。


 11:00過ぎの叡山鉄道に乗り、出町柳駅から3つ目、5分ほどの一乗寺駅で降りる。2010年11月、土日を挟んで息子夫婦と紅葉の京都を歩いた。詩仙堂も訪ねたが、人気のスポットのようで、道路まで人があふれていて、参観は諦めた。今回は4月終わりの平日だから空いていると予想しての再挑戦である。

 駅を出て、曼殊院道を東に歩く。一乗寺駅、曼殊院道など、古都らしい名前がいい。白川通という大通りを渡ったあたりから上り坂になる、かなりの勾配になって間もなく詩仙堂に着いた(写真)。予想通り、空いていた。
 徳川家康に仕え、大坂夏の陣で功名を立てた石川丈山(1583-1672)は、その後、文人を目指し、1641年、59才のときに隠居所として詩仙堂を造営した。
 詩仙堂の名は、中国の漢晋唐宋の詩家36人の肖像を狩野探幽(1602-1674)に描かせ、詩を書き加えて四方の壁に掲げ、詩仙の間と呼んだことに由来する。

 パンフレットにもweb情報にも凹凸窠と書かれている。凹凸窠は凸凹した土地に建てられた草庵=住居の意味だそうだ。この言葉は初めて聞く。
 確かに来るときは急勾配の坂道だったし、門からの石段が一直線で上れないのも凸凹の影響のようだ(前掲写真)。丈山は庭造りの名手でもあり、凸凹の庭や建物を10の景色=凹凸窠10境に仕立てていて、史跡に指定されている。

 凹凸窠10境の第1が前掲写真の「史跡詩仙堂」の碑のある山茶花の樹影の下の小さな門で「小有洞の門」と名付けられている。
 石段を左に折れさらに石段を上った先に老梅が植えてあったそうでここが第2境「老梅関」になる。老梅関の門の先に詩仙堂が建っている(写真)。開け放しの間と雲形の窓を開けた土壁を組み合わせ、屋根の高さ、勾配を変えて表情を豊かにしている。
 屋根には楼閣が空に向かってそびえている。楼閣に登り月を見上げて朗吟したそうで、第5境「嘯月楼」の名が付いている。丈山の自由闊達さを感じる。

 拝観入口はかまどのある土間(前掲写真左奥)に設けてあり、500円の拝観料を払って屋内に入る。座敷に上がると、開け放たれた先に庭が広がっていて、明るい庭に目が行く(写真)。
 座敷から見る限り、庭の先は木立で終わっているように見えてしまうが、実は斜面が下に広がっていて、趣向をこらした造園を回遊することができる。

 座敷の一つが、中国の詩家36人の肖像に詩を書き加えて壁に掲げた第3境「詩仙の間」である(写真、web転載)。隣の部屋は第4境「至楽巣」という読書室、その脇に深い井戸の第6境「膏肓泉」、侍童の間である第7境「躍淵軒」が続く。
 庭に下りると、左手に第8境「洗蒙瀑」と名付けられた滝がある。その水が流れ込む池が第9境「流葉はく」になる。回りには斜面を活かした百花の植え込み第10境「百花塢」がつくられている。
 凹凸の多い斜面地のため平地が区切られてしまうが、それを逆に活かして小さな景色を小径でつなぎ奥行きのある庭に仕立てている。その小さな庭ごとに、四季折々にふさわしい植栽を配置して楽しんだようだ。
 藤棚の下にベンチがあった。座ると、静寂に包まれる。ときにはこうした緑の静寂に包まれる時間も必要である。詩仙堂の人気は庭にあるようだ。

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2018.4 三十三間堂境内で豊臣秀吉寄進の南大門、太閤塀を見たあと、本堂内陣で1001体の観音菩薩に圧倒される

2018年09月28日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 3日目 ②三十三間堂
三十三間堂/境内を歩き→60年ぶりに観音菩薩に再会

 本堂入口は大型バスから降りてきた生徒でごった返していたので、先に境内を歩いた。
 本堂には濡れ縁が巡っている(前掲写真)。江戸時代、三十三間堂の縁側の北端に的を置き、南端から矢を射る「通し矢」が競われたそうだ。
 前掲写真からも想像できようが、およそ118mの先は肉眼ではもうろうとしている。当時の武士はよほど遠目が効き、118mを射通す力があったことになる。
 いまは成人式に現代版通し矢が行われているが、前庭に設けられた射場は60mだそうだ。パソコン、スマホ、テレビで目を酷使し、身体を昔ほど鍛えていない現代人は、60mでも的が定まらず、矢も届かないかも知れない。


 境内東中ほどに夜泣泉と書かれた井戸がある。説明には本堂建設の翌年、僧が夢のお告げで清水の泉を掘り当てたそうだ。
 このあたりは東山からの伏流水が流れていて、水脈を見つければ井戸を掘ることができると思うが、夢のお告げの方が仏のありがたさを感じさせる。
 泉の湧き出す音が子どもの夜泣きに似ていることから夜泣泉と呼ばれるようになり、いつのころからか夜泣き封じの願をかける地蔵が置かれたらしい。


 夜泣泉あたりに東大門があるが、三十三間堂パンフレットにもwebにも東大門に触れていない。
 そのまま南外れまで歩くと、塀の外に堂々たる南大門が見える(写真)。塀が巡っていて出られないので、鉄格子扉の隙間から眺めた。
 豊臣秀吉(1537-1598)が、南大門、西大門、築地塀=太閤塀を寄進したそうで、秀吉らしい豪壮な構えである。切妻瓦葺き屋根、柱間3間の八脚門で、桃山時代の遺構を残していて重要文化財に指定されている。
 西大門は明治時代に東寺の南大門として移築され、やはり重要文化財の指定を受けている・・東寺を訪ねたとき南大門も見ている。重要文化財の指定も受けていて、説明板も読んだはずだが、三十三間堂西大門だったことは意識に残っていない・・。
 ただし、南大門には1600、豊臣秀頼と記されているそうで、再建のようだ。

 南大門に続き三十三間堂の南には豊臣秀吉が寄進した築地塀=太閤塀が残っている(写真、web転載、左が南大門)。鮮明な黄土色で、末広がりに少し傾斜していて、瓦屋根を載せ、瓦には豊臣秀吉の桐紋が焼かれている。高さは5.3mもあり、堅牢なつくりをうかがわせる。
 修復のとき、1588と刻まれた桐紋の瓦が見つかったことから、南大門、西大門、築地塀=太閤塀ともに1588年築造と推定されている。いずれも桃山時代の遺構で、重要文化財である。

 境内の西側に回る。三十三間堂の東正面は中央に向拝が伸び出している(前掲写真)が、西背面は向拝が無いのでおよそ118mの長さが実感できる(写真)。境内を歩いている人は少ない。生徒は本堂の仏像に圧倒されてしまうのか、境内までは足が向かないようだ。

 拝観口に戻る。ちょうど一団の生徒が出てきたところだった。生徒たちは、1001体の観音菩薩像に興奮させられたのか、みんな上気しているように見える。
 三十三間堂の観音菩薩群はテレビや美術書などで何度も見ている。しかし、いくら詳細で鮮やかな画像でも画面、印刷物は本物とは実感が異なる。本物は仏堂という厳かな空間と一体になって拝観者に迫ってくる。だから、いくら画像に見慣れていても、本堂での再会は生徒たちのように興奮を感じるに違いない。
 本堂に入る。一瞬、1001体が宙に舞い上がり、私に穏やかな顔を向けたような錯覚にとらわれた(写真、堂内撮影禁止、web転載、出口側からの眺め)。いきなり足が止まり、目が釘付けになる。
 観音菩薩の正式な名称は、十一面千手千眼観世音である。実際に11面、1000手、1000眼があるということではなく、無心に手を合わせると11面1000手1000眼の法力を感じることができるということであろう。

 入口側からは全体の構成が分からないが、中央下段の中尊を中心に左右それぞれ10段、50列に観音菩薩立像が並んでいる。
 中尊とその他の観音菩薩あわせて1001体、さらに、左右両端の高みに風神と雷神、最前列と中尊の四方に28部衆と呼ばれる仏像が配置されている。
 観音菩薩をゆっくり眺めながら、東側の廊下を進む。一般の拝観者も多い。ガイドから説明を受けているグループもいる。10段に重なって並んでいるので後の方の観音菩薩は見えないが、先頭の観音菩薩は10体分の迫力を感じさせる。

 南北桁行は35間118mだから、観音菩薩は単純計算で118÷35間×33間÷100列≒1.1m間隔で並んでいることになる。少し小股の2歩ごとに観音菩薩と相対しては、顔を拝観した。
 中尊の前では、混雑しているので立ったまましばし合掌する。出口側までゆっくり拝観して、もう一度始めから拝観しようと人混みを縫って入口側に戻ろうとしたが、新たな生徒の一団が入ってきた。とても戻れないので、中尊に再度合掌し、出口側に戻った。

 観音菩薩は桧材の寄木造り+漆箔で、124体は三十三間堂創建時の平安時代作、800余体は鎌倉時代の再建時の復興で、中尊は仏師運慶の長男の湛慶(1173-1256)の作だそうだ。中尊は国宝、1000体の観音菩薩は重要文化財だが、観音菩薩1000体も2018年中に国宝指定の予定だそうだ。
 雲にのった躍動感のある木彫の風神・雷神は鎌倉時代復興期の作で、寄木造り+彩色で玉眼であり、国宝である。俵屋宗達の風神雷神図のモデルともいわれる。いかめしい顔をした28部衆も、寄木造り+彩色で玉眼であり、国宝である。
 出口側から振り返ると、もう行くのか?、よくよく仏教に帰依せよ!、といわんばかりの観音菩薩群の視線を感じた。
 仏像1体でも厳かさを感じるのに、中尊+100体+28部衆+風神雷神はベートーベン交響曲第9番の大合唱に勝るとも劣らない迫力で拝観者を包み込んでくる。60年ぶりぐらいになる再会だったが、初めての拝観のような感動を覚えた

 およそ60分の拝観を終え、10:50ごろ七条駅から京阪本線に乗る。

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2018.4 後白河上皇の院政庁に平清盛が寄進した三十三間堂は観音菩薩が33身に変化することに由来

2018年09月26日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 3日目 ①三十三間堂

後白河上皇の院政庁に平清盛が寄進した三十三間堂へ
 2018年4月27日・金曜、三井ガーデンホテル京都四条でゆっくりと朝食を取る。ビュッフェ式の場合、連泊する人、食習慣の異なる国からの観光客、アレルギーやベジタリアン、食の禁忌への対応で、いろいろな取りそろえてあるし、毎日少しずつ変えてあることが多い。昨日とだいたい同じようなおばんざいを選び、仕上げにヨーグルトとコーヒーをいただいた。

 今日の15:00に修学院離宮参観予約が取ってある。大学生のころ、科目名は思い出せないが、夏期休暇を利用して京都の歴史的な寺社仏閣を現地見学する実習があった。原則、庭園研究の第1人者といわれた森蘊博士の「庭園学」・・科目名は記憶が怪しい・・を学ぶことになっていた。
 お忙しい先生のため、講義は隔年で開講され、このときも海外から帰国間もない2日間?、大講堂での集中講義になった。50数年前のことだからスライドを使いながら、桂離宮や修学院離宮も講義された。
 桂離宮では森博士も同道されて、独特の空間構成の見方を助言してくれた。ところが京都の地理、交通に不慣れだったため修学院離宮への電車の乗り換えが大幅に遅れ、現地集合時間に間に合わないことが分かり、見学できなかった。
 だから今日の修学院離宮参観は大学生時代の失敗の再挑戦になる。
 
 修学院離宮は叡山電鉄修学院離宮から徒歩20分ほどに位置する。叡山電鉄は出町柳駅発で、出町柳駅は京阪本線に接続している。京阪本線はいまは地下鉄東西線三条駅、またはJR奈良線東福寺と接続している。大学生のころは東西線は開通していないから、乗り換えがよく分からず、遅れたようだ。
 晴天だが、念のため折りたたみ傘とペットボトルをショルダーバッグに入れておいた。9時過ぎ、キャリーバッグを引きながら地下鉄烏丸線四条駅に向かい、京都駅でキャリーバッグをコインロッカーに預けた。JR奈良線東福寺駅~京阪本線出町柳駅~叡山電鉄だが、修学院離宮参観は15:00の予約なので、途中、京阪本線七条駅で三十三間堂、叡山電鉄一乗寺で詩仙堂に寄ることにした。

 9:50ごろ、京阪七条駅で降りる。京阪七条駅は鴨川の東側で、七条通は東に向かって上っている。三十三間堂は東山の麓に位置するようだ。
 坂道を6~7分上ると、長い土塀が巡らされていて、北西の角に入口があり、三十三間堂の門標が付けられていた。広い駐車場には何台もの大型バスが止まっていて、デザインの違う制服を着た生徒があちこちでグループを作っている。修学旅行コースの定番のようだ。
 普門閣と書かれた受付で一般600円の拝観料を買う。シルバー割引は無い。高校中学生は400円で、団体になれば350円になる。一般の窓口は並ばずに拝観券を買うことができるほど空いているが、大型バスで乗り付ける修学旅行生から想像するとかなりの収益になりそうだ。

 入場口は高校生、中学生でごった返していた。静かな拝観は望めなさそうである。記憶が怪しいが、中学3年、工高3年とも修学旅行は奈良、京都で、たぶん中学3年のときに三十三間堂を見学したと思う。
 まだ日本の歴史、平城京や平安京の造営、神社や仏教について知識は不十分のうえ、修学旅行の興奮で一般の拝観者に迷惑をかけたかも知れない。時代は回る、である。こんどは修学旅行生を見守る番になった。
 三十三間堂の正式名称は蓮華王院である(写真、東外観)。1158年、後白河天皇(1127-1192)が譲位する。後白河上皇は平安時代に創設された法住寺を院政庁とするべく東山の麓から鴨川まで、南は八条坊門あたりから北は六条大路までの広大な土地を造営し、1161年に移り住み、以来、法住寺殿と呼ばれた。
 1164年、平清盛(1118-1181)が蓮華王院を寄進する・・上皇が清盛に寄進させたのであろう・・。当初の蓮華王院は焼失し、1266年に再建され、その後の大修理はあるものの、再建時の姿がいまに残されていて、本堂=三十三間堂は国宝に指定されている。
 三十三間とは仏像を安置してある本堂内陣の南北方向の桁行の柱間が33あるからで、33は観音菩薩が33身に変化することに由来するらしい。
 東西方向梁間の柱間は3間で、内陣の回りに柱間1間の回廊が巡らされているので、本堂の柱間は南北35間、東西5間になる。
 堂の南北桁行の長さはおよそ118mなので、118/35≒柱間は3.5mほど、東西梁間の長さはおよそ16mなので16/5≒柱間は3.4mほどになってしまう。南北桁行と東西梁間の尺度が異なることはあり得ないから、私の読み間違い?勘違い?かも知れない。
 屋根は入母屋本瓦葺きで、高さは16mほどもある。南北に長いから気づきにくいが、現代的な箱形のビルなら5階建てに相当する高さで、平清盛は後白河上皇の権威にふさわしい巨大な建物を寄進したようだ。

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司馬遼太郎著「箱根の坂」下で早雲は「百姓の持ちたる国」を目指し伊豆、三浦半島、そして箱根を越える

2018年09月23日 | 斜読

book471 箱根の坂 上中下 司馬遼太郎 講談社文庫 2004  (斜読・日本の作家一覧)

下巻
 早雲は「百姓の持ちたる国」と考えているため、年貢が四公六民である。百姓は暮らしが楽になり、早雲は慕われていた。
 反面、早雲と家族の暮らしはつつましく、家臣も薄禄で、財政は逼迫していた。一方、伊豆の農民は貧窮していて、興国寺城領に逃げ込んでくる者も少なくない。
 早雲は「百姓の持ちたる国」を目指し、伊豆を手に入れ、三浦半島の三浦氏を滅亡させる。戦国時代の始まりである。そしてついに箱根を越え、小田原城を攻め落とし、相模を支配下に置いて「百姓の持ちたる国」を実践する。

伊豆の山
  早雲の考える百姓の国には四公六民が基本だが、領地はわずか12郷しかなく財政が逼迫していた。早雲は伊豆を支配下に置こうと考えた。ここで司馬遼太郎は伊豆の歴史、地形、勢力を解説し、後段で金にも触れる。

 伊豆の堀越には公方足利政知がいる。伊豆の百姓は伊豆公方を養わなければならない。伊豆の守護職は関東管領山内の上杉顕定で、山内上杉は扇谷の上杉定正と戦を繰り返していて、戦費のため重税をかけていた。そのため、興国寺城領への逃亡が続いていた。
 早雲58才のとき、次男氏時が生まれる。早雲60才のとき、北川殿=千萱が病没する。
修善寺の湯
 
  堀越の伊豆公方足利政知には病没した夫人の生んだ長男茶々丸、後妻の子である次男義遐、末弟がいた。公方・後妻は茶々丸を退け、義遐を跡継ぎとして育てた。
 長男の茶々丸は公方に就こうとして、父政知、義母、末弟を殺してしまう。義遐は逃げだし、早雲に助けを乞う。
 早雲は茶々丸を倒すべく、堀越の検分に向かう。途中、修善寺でおじの禅僧隆渓に会う。隆渓は「公方は百姓のために何もなさらなんだ、ただ搾るのみ」「天下は天下の天下なり」と怒り、早雲の援助を引き受ける。

出帆
 
早雲は小川法栄から船20艘、今川氏親から武者200を借りる。朝比奈太郎は手勢50で加わる。「百姓の持ちたる国」を目指して伊豆に向かう。

襲撃
  早雲の襲撃で茶々丸は逃げだし、三浦半島の三浦氏の保護を受けた。三浦氏は山内上杉方である。一方、伊豆の国人、地侍、百姓は、「百姓の持ちたる国」を標榜する早雲を待ちかねていた。

三浦半島
  早雲は「時という人の知恵や力ではどうしようもないものがある」と、三浦攻めの機会を待った。

 三浦半島は西の大森氏頼と東の三浦時高が二大勢力だった。三浦時高は跡取りに扇谷上杉の出である義同を養子をもらったが、年老いて実子高敦が生まれたので、義同を亡き者にしようとする。義同はいち早く母の出の小田原城主大森氏頼を頼って逃げる。
出陣
 
三浦義同は信望する兵を集め、新井城にこもる三浦時高を攻める。時高とともに茶々丸も自刃する。

秋の涯
 扇谷上杉と山内上杉の戦いに古河公方が登場する。

高見原
  またも扇谷上杉と山内上杉の戦線が開かれた。早雲は扇谷上杉軍として善戦するが、扇谷上杉定正は落馬し首がはねられる。早雲はしんがりを務めながら、敗走する。

三島明神
  早雲は早急な財政を立て直しが急務だった。敗者の扇谷上杉氏、勝者の山内上杉氏ともに地頭、地侍、国人たちは連年の戦いに嫌気がさしていた。小田原城大森氏も跡継ぎに統率力が無く、衰退していた。早雲は大森氏攻略を練る。

箱根別当
  早雲は箱根権現別当海実に会い、相模を百姓の持ちたる国にするべく、大森氏攻略を明かす。

坂を越ゆ
  早雲は箱根の地勢を読み解き、戦略を立て、一気に小田原城を攻め落とす。

早雲庵
  早雲は本拠を韮山に置きながら、小田原城の普請を進め侍を城内に常駐させた。相模の東半分を領する三浦勢は戦力がしのいでおり、秋の収穫時に攻めてきて麦、稲を刈り取るも、早雲は戦わず17年も待ち続ける。機が熟し、酒匂川で三浦軍を壊滅させ、岡崎城まで落とす。三浦氏を滅亡させて相模を支配下に置き、四公六民とともに士農へ日常規範の訓育を進める。

 1519年、早雲87才で病没、長男氏綱が後を継ぐ。のち、氏康、氏政、氏直と栄え、豊臣秀吉の小田原征伐で後北条家は終わる。
 早雲自身は北条を名乗らず、氏綱から北条氏になったというのが定説である。鎌倉幕府の執権を務めた北条氏と区別するため、後北条氏と呼び分けている。

 京の伊勢新九郎=早雲は妹分千萱、その子ども竜王丸=のちの今川氏親を助けるため駿河国に向かう。このときすでに時代の変化を読んでいて、これからの日本を考えていたのかも知れない。興国寺城主になったころから生涯の生き方である「百姓の持ちたる国」を目指す。四公六民がその表れであるが、財政が逼迫してしまう。財政難解消のためには領地を広げなければならない。早雲の周辺で起きる跡継ぎ紛争、勢力争い、民を顧みない公方、管領を理由に伊豆、東相模、西相模に進出していく。司馬遼太郎は、早雲を民のための戦いとして描いていく。美化しすぎとも思えるし、早雲が現れなくても戦国時代が到来しただろうが、北条氏を興した早雲が江戸時代に続く武家社会の先駆けであることはよく理解できた。(2018.9)

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司馬遼太郎著「箱根の坂」中は、早雲が守護を狙う敵を倒し竜王丸=今川氏親を駿府城に迎えるまで

2018年09月20日 | 斜読

book471 箱根の坂 上中下 司馬遼太郎 講談社文庫 2004  (斜読・日本の作家一覧)

中巻
  伊勢新九郎、千萱はそれぞれ伊勢氏の支流の庶子だが血縁ではない。千萱は8代将軍義正の弟義視家に奉公することになった。義視は千萱を申次衆の新九郎の妹分にした。新九郎、千萱は惹かれながらも形の上の兄妹のため自制する。
 室町幕府は政治的に混乱しているうえ、相続の駆け引きが渦巻いていた。8代将軍義正は駿河国の守護今川義忠を上洛させる。義忠は千萱と臥所をともにする。千萱は駿河国で竜王丸を生むが、義忠は戦死する。
 駿河国の守護を狙う陰謀から千萱、竜王丸を守ろうと、新九郎=早雲が駿河に向かう。ここまでが上巻で、中巻は、早雲が竜王丸に仕え、興国寺城主となり、守護職を狙う陰謀を打ち砕き、竜王丸が駿府城主となるまでが描かれる。しかし、早雲はもっと広い世界を見通していた。

征途 
 早雲は田原郷を訪ね、大道寺太郎、小次郎、兵馬を家来とし、小川法栄の蔵がある伊勢の津で新たな家来を探す。司馬遼太郎の博識が上中下に渡って披露されるから、話はあちらに飛び、こちらに飛び、物語はゆっくり展開する。

富士が嶺 
  早雲以下7名は、法栄の船で伊勢から駿河国小川湊に入る。駿府城には今川新五郎範満が守護然として構えていて、跡継ぎの竜王丸と母の北川殿=千萱は法栄の別屋に住んでいた。

 関東は箱根以東の相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸の8ヵ国で、室町幕府は伊豆と甲斐を加えた10ヵ国の支配を鎌倉を政庁とする関東公方に任せていた。ところが関東公方も跡継ぎ紛争がこじれ、足利成氏が古河に移り古河公方を称した。8代将軍義正は紛争を抑えるため弟足利政知を送ったが、政知は現在の韮山にとどまり堀越公方と呼ばれた。つまり関東に2人の公方がいる。
 公方には兵力が無い。実質は関東管領の名門上杉氏が武力を持つが、いまや扇谷の上杉定正と山内の上杉政憲が競い合っていた。
 駿河国の跡継ぎに目を付け、堀越公方足利政知の派遣した上杉政憲軍と上杉定正家臣太田道灌軍が駿府近くに駐屯してきた。
 早雲は「物事は心を虚しくして」、時代の流れと関東の情勢を読み、駿河国を公方、管領の支配ではなく駿河に住むすべての人の国にしようと決意する。
太田道灌
  早雲は駿河国の守護然としている今川新五郎に挨拶にうかがうも、たたき出されてしまう。早雲は、竜王丸、北川殿を法栄の館から山あいの朝比奈太郎の館に移す。

 早雲が農業に詳しいことから次第に国人≒在地領主の信望を得ていく。あわせて司馬遼太郎は当時の農業を語る。
 早雲は堀越軍に出向き、跡継ぎについて一任を受ける。ところが、
今川新五郎の母が扇谷上杉出身のため、扇谷上杉軍は虎視眈々である。その扇谷上杉定正の軍を率いているのが江戸城などの普請で知られた太田道灌であった。早雲は太田道灌と会い、竜王丸成人までは今川新五郎を後見人とすることで話が付く。
興国寺城
  守護今川義忠に仕えてきた譜代衆・国人は、戦いに出るのは自分の所領を守護に守ってもらうためと考えていて、嫡子竜王丸が守護になることを期待したが、北川殿の兄早雲=竜王丸の叔父の判断である竜王丸成人まで今川新五郎の後見を了承した。

 早雲は竜王丸の家来になり、駿河国の東=関東からの箱根越の要衝に位置する興国寺城主となる。北川殿と竜王丸は防備にかなった泉谷に館をつくり、移る。
 今川新五郎は密かに京に使いを出し、守護職になる工作を始める。国人たちの多くも今川新五郎の顔色をうかがうようになる。1467年、司馬遼太郎いわく無益な応仁の乱が終わる。
 早雲は今川新五郎に加担する勢力に何度か襲われた。早雲を亡きものにすれば竜王丸、北川殿はもろい。今川新五郎が守護になれば、玉突きのようにおこぼれが回ってくる。早雲は戦いを決意する。
伊勢の弓
  伊勢流は室内の礼、小笠原流は弓馬の礼を得意とするが、早雲は小笠原流も会得していて、流鏑馬も得意であり、敵方の洞弾正次を弓矢で倒す。

歳月
 小笠原 早雲は質素な格好で領内を見回り、さらには密かに箱根を越えて関東も見て歩く。

 早雲に縁談が起きた。京の公方の御番衆小笠原備前守の息女真葛で、夫が討ち死にし、家に戻っていた。竜王丸=今川氏親が書状をしたため、縁談がまとまる。
空よりひろき
 
真葛が興国寺城に入ったとき、早雲は関東の情勢を確かめるため留守だった。帰城後、ただちに婚礼となった。

 扇谷の上杉定正には太田道灌がいたが、上杉定正は自分より実力、声望とも際立つ太田道灌を上意討ちにしてしまう。今川新五郎は上杉定正の加勢も頼んでいたから、早雲は危険を感じる。 
丸子と駿府 
  早雲は今川氏親に「駿河一国は地侍、国人、小百姓の持ちたる国」と諭す一方、氏親の館の防御を固める。応じて、今川新五郎も駿府館の守りを固める。

 今川範忠・義忠に仕えた茶阿弥は今川新五郎に嫌われ、いまや駿府館の掃除番にされていた。茶阿弥は氏親を義忠様の忘れ形見と考えていて、駿府の館の内情を早雲に報せていた。
 真葛が男児を生み、早雲は氏綱と名付ける・・のちに2代北条・・。
急襲
  早雲は興国寺城での籠城の準備を進める一方、兵を小川に集結させていた。そんなとき、茶阿弥が殺され、辻に放置された。願阿弥が現れ、茶阿弥を辻で火葬にする。早雲軍は葬列の一行に紛れ、機をうかがう。火葬を止めさせようと門が開いた瞬間、早雲軍がなだれ込み、ついに今川新五郎を討ち取る。

 早雲は今川氏親を駿府館に迎える。
面目の都や
  早雲は京で時代の変化を確信する。

 今川氏親が駿河国の守護になるまでが中巻である。

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