yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2021.11諏訪大社を巡る1 下社春宮

2022年04月24日 | 旅行

長野を歩く>  2021.11 諏訪大社を巡る1 下社春宮

 小諸城址懐古園を出て諏訪大社を目指す。千曲川に沿った県道142号線を南に走り、県道44号線を通り、国道142号線を南西に走る。ナビによれば50数km、1時間30分の道のりらしい。国道142号線は中山道と交差したり重なったりしながら、山あいを抜けていく。
 12:30近く、和田宿ステーションが目に入った(写真)。
 中山道の参勤交代を物語にした浅田次郎著「一路」(book529参照)では和田峠が中山道随一の難所で、大雪の和田峠を越え和田宿に泊まる場面が描かれている。歌川広重画「木曾街道六拾九次和田」でも急峻な山が迫っている。
 旧中山道の和田宿、和田峠は国道142号線より北に位置するらしいが、これも何かの縁、和田宿ステーションに立ち寄り、食堂で「天麩羅くるみそば」を食べた。
 
 食後、和田宿本陣、和田峠をパスして、国道142号線を南西に走る。諏訪に近づいた左手に「木落し坂」の立て札が見え(木落しは後述)、ほどなく国道140号線は二股になる。左の諏訪方面を進むと人家が増え始め、山が開けて諏訪湖が見え、ナビに従って曲がったところに諏訪大社下社春宮が現れた(前頁写真)。
 諏訪大社は諏訪湖の北西、下諏訪町に位置する下社春宮と下社秋宮、諏訪湖の南西、諏訪町に位置する上社本宮、茅野市に位置する上社前宮の二社四宮からなる(図web転載)。
 創建は古事記にさかのぼるとされ、本殿を持たず、下社春宮は、下社秋宮はイチイを神木とし、上社本宮と前宮は守屋山を神体山としていて、古い信仰の形だそうだ。主祭神は、大国主神の子である建御名方神(たけみなかたのかみ、男神)と八坂刀売神(やさかとめのかみ、妃神)で、建御名方神が水と風を司り信濃国を開拓した力強い神であることから勝負の神、農業・産業・航海の守り神として、夫婦で祀られてることから縁結び・子授け安産・家内安全に御利益があるとされている。
 
 諏訪大社では、寅と申の年に行われる式年造営御柱大祭=通称御柱祭が平安時代から続いている(干支の寅、申は6年ごとになるが、大祭の年を1年目と数えるため次の大祭は7年目になる)。
 御柱祭とは、上社本宮・前宮と下社春宮・秋宮の4つの社殿の前面左右と背面左右に立てられた4本の柱を立て替える式年造営の祭礼である。
 柱は長さ約17m、直径約1m、重さ約10トンもあるモミの木で、4月に16本を山から切り出し(=山出し)、5月に上社は約20km、下社は約10kmもの道筋を2ヶ月にわたって曳行する(=里曳き)。
 モミの木の「木落し」が最大の見せ場で、傾斜35度、長さ100mの急坂(最大斜度は40度ともいわれている)にモミの木を滑り落とすとき、何人もの氏子がモミの木にまたがって滑り下りていく。救急車が待機し、死者が出たこともある。振り落とされまいとモミの木にしがみつくこの儀式をテレビで見ると、これこそ人の社会に神を招くため人がぎりぎりの限界に挑む儀式性の象徴ではないか、と思わされる。
 木落しのあと上社では雪解け水のなかを渡る川越しがある。その後の神社までの里曳きは騎馬行列など華麗に繰り広げられて、下社は5月、上社は6月に遷座祭が行われる。
 4本の柱は、社殿右手前が一之御柱、時計回りに社殿左手前が二之御柱、社殿左奥が三之御柱、社殿右奥が四之御柱と呼ばれる。
 1998年(寅年)が御柱祭の年で、4月に木落しがテレビで報道された。来場者は190万人、内観衆は150万人を超えた。混み合う遷座祭の前に駆け足で諏訪大社の御柱を訪ね、藤森照信氏設計のユニークな神長官守矢史料館を見学した・・HP日本の旅・長野の旅「1998.5 諏訪を歩く 諏訪大社御柱 神長官守矢史料館」参照・・。

 今年=2021年は丑年で、御柱祭は2022年=寅年になる。静かな諏訪大社二社四宮を参拝しようと、前述のように小諸から車を走らせ下社春宮に着いたところである。
 下社春宮の参道=大門通りは南北に通っていて、駐車場から出ると大門通りの左=南に下馬橋が架かっている(写真)。
 いまは舗装されているがかつては御手洗川が流れていて、橋が架けられ名前の通りここで下乗下馬しなければならなかったことから下馬橋と呼ばれた。現在も橋を通れるのは神輿だけである。
 下馬橋は間口3.25m、長さ9.95m、高さ5.35mの屋根付き木造太鼓橋で、元文年間(1736~1740)改修の記録があり、1960年ごろに桧皮葺から銅板葺きに改修されたそうだ。切妻屋根の軒下に飾られている注連縄は風格を表すようにかなり太い。
 
 下社春宮の一之鳥居=春宮大門は下馬橋から600mほど南の中山道との交差点に立っているので一之鳥居は省き、下馬橋から二之鳥居に向かう。
 現在の二之鳥居は高さ8mほどの御影石造で、1659年に立てられたと推定されている(前掲写真)。二之鳥居はうっそうとした社林のなかにすくっと立ち上がり、参拝者を迎えている。一礼する。
 二之鳥居を抜けると参道左右に狛犬がにらみをきかせていて、正面に神楽殿、その奥=北に弊拝殿、幣拝殿の左右に片拝殿、幣拝殿の奥=北に神木の杉、神木の左右に宝殿が並ぶ配置である(境内図web転載)。
 下社は春になると神が山から里に下りて農耕を司り、2~7月は春宮に神が居て、8~1月は秋宮に神が遷座するとされる。訪ねた11月は神が不在のためか境内は静かで、その分、神聖が高まっている気がした。

 参道正面の神楽殿は間口3間、奥行き5間、銅板葺き切妻屋根で、参道側=南側に下馬橋の注連縄よりも太そうな注連縄が下げられている(写真web転載)。素朴なつくりだが切妻+注連縄のバランスがいい。
 神楽殿を迂回し、幣拝殿で二礼二拍手一礼する。
 幣拝殿は、御幣を奉ずる弊殿と礼拝する拝殿が一体になっていて、2階に楼閣をのせた二重楼門造りである(前頁写真)。
 棟梁は地元の宮大工柴宮長左衛門(1747-1800)で、秋宮と同じ絵図面を用いて造作を始め、秋宮より1年早い1780年に完成した。1779年完成と記した説明板もあるが、秋宮完成が1781年なので1780年完成が順当であろう。
 楼閣は間口1間、奥行き2間、桧皮葺切妻屋根軒唐破風を付け、二重垂木や破風、胴差しなどを金飾りで装飾し、2階に高欄を回し、腰羽目板に波模様、虹梁上に牡丹と唐獅子、唐破風内に飛龍、内壁に牡丹と唐獅子、扉脇に竹と鶏などの彫りの深い彫刻を施していて(写真、牡丹に唐獅子)、格式の高さをうかがわせる。
 幣拝殿は片拝殿とともに重要文化財に指定されている。
 
 幣拝殿の左右には片拝殿が回廊のように延びている(写真)。それぞれ長さ5間、奥行き1間、桧皮葺の片流れ招き屋根で、幣拝殿と同じ宮大工柴宮長左衛門の造作で1780年に完成した。幣拝殿とともに重要文化財に指定されている。
 片拝殿の隙間からのぞくと、宝殿が垣間見える。2棟とも、間口3間、奥行き3間、茅葺き切妻屋根の平入りのようだ。
 幣拝殿の真後ろ、宝殿のあいだに神木の杉が伸び上がっているらしいが、うっそうとした社林に混じり、見分けは付かなかった。

 右の片拝殿の右手前に一之御柱(次頁右写真)、左の片拝殿の左手前に二之御柱(次頁左写真)が空に向かって威厳をただしている。黒ずんだ説明板には、霧ヶ峰高原に続く東俣国有林から伐採された長さ17m、直径1mお樅の木で、数千人の氏子により曳航されたと記されている。
 2022年=寅年に新たな樅の木が伐採され、木落し、川越し、里曳きが行われ、いまの御柱がお努めを終えて新しい御柱が遷座することになる。そう思うと、御柱が肩の力を抜いてほっとしているように見えなくもない。
 三之御柱、四之御柱を確認したあと、一之御柱、二之御柱に手を置いて一礼し、下社春宮をあとにする。  (2022.4)

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2021.11小諸城址懐古園を歩く

2022年04月16日 | 旅行

長野を歩く>  2021.11 小諸城址懐古園を歩く

 2日目、東急ハーヴェストクラブ軽井沢をチェックアウトし、軽井沢バイパス=国道18号線を西に走る。じきに軽井沢バイパスは日本ロマンティック街道と名を変える。
 日本ロマンティック街道は、長野県上田市と栃木県日光市のあいだの国立公園、温泉、宿場、城下町などの観光地を結ぶ全長320kmの街道名で、軽井沢もルートに含まれている。ロマンティック街道の名はドイツのロマンティック街道にあやかったそうで、2007年12月の南ドイツツアーでロマンティック街道を走り、ノイシュバンシュタイン城やローテンブルクなどを訪ねたのを思い出した。

 小諸市に入って間もなくナビの案内で左折し、しなの鉄道をくぐって左に折れ、懐古園駐車場に着いた。軽井沢からは30分ほどの道のりで、意外と近かった。
 駐車場は混み合っていた。マイクロバスからもぞろりと人が降りてくる。着いてから気づいたが、懐古園紅葉祭りが開かれていた。
 200円の散策券を購入する。散策券の呼び方がいい。懐古園は相当に広く、散策路が整備され、見どころが多そうである。
 パンフレットには小諸城址懐古園と記されている。小諸城は1487年、信濃守護小笠原氏の流れをくむ大井光忠が現在の大手門北側に築いた居城が始まりだそうで、別名は鍋蓋城である。
 地形図を見ると、千曲川を挟んで東と西に山並みが延びている。小諸城は千曲川の東側斜面の標高650mぐらいの高台に築かれていて、城下町は斜面のさらに高い標高720mぐらいの北国街道に沿いに発展している。町から小諸城を見下ろすことができるため、鍋蓋城と呼ばれたそうだ。
 1554年、佐久を制圧した武田晴信(1521-1573、のちの信玄)が小諸城を拡張整備し、1591年、小田原征伐(1590年)の戦功で豊臣秀吉から大名に復帰が許され、小諸城を与えられた仙石秀久(1552-1614)が近世の城郭に大改造する。江戸時代に小諸藩庁が置かれ、城主が変わるが、1702年に牧野家が入城して明治維新まで続き、維新後廃城された。
 廃城後、旧小諸藩士たちが資金を集めて城址を払い受け、本丸跡に懐古神社を祀り、花木を植えて公園に整備し、懐古園と名づけた。
 1923年に東宮殿下(のちの昭和天皇)が行啓されて懐古園が全国に知られ、1926年、近代公園に造詣の深い埼玉県旧菖蒲町出身の本田静六氏(1866-1952、1903年設計の東京日比谷公園など多くの公園緑地を計画)の設計で現在の公園が整備された。
 小諸城の遺構としては天守台、石垣、三の門、市街地に残る大手門が現存していて、三の門、大手門は国の重要文化財に指定されている。

 大手門はしなの鉄道の向こう側に建っているので訪ねなかったが、間口五間の櫓門、本瓦葺き入母屋屋根で、仙石秀久が1612年に建立したそうだ(図web転載、大手門は右下)。

 懐古園駐車場から東に回り込むと三の門が構えている(写真)。仙石秀久没後、小諸藩2代忠政下の1615年に建てられたが、1742年の大水害で大手門、足柄門とともに損壊し、1766年に再建された。間口三間の櫓門、桟瓦葺き寄棟屋根である。寄棟屋根のため温和な外観に見えるが、1階分の高さまで積まれた石垣に、骨太の部材を組み、弓矢、鉄砲の狭間を設けていて、堅固さを感じさせる。
 三の門を抜けた右側は2階建てほどの高さの石垣が迫ってくる。二の丸の石垣がそのまま残されたようだ。左手は林の中に屋根が見えるから崖になっているようだ。
 二の丸の石垣の先はL字型に右に折れ、枡形と思える小さな広場があり、挟むように右に北丸、左に南丸の石垣が残っている。
 まっすぐ進むと堀に架けられた黒門橋、橋の先に黒門跡、その先の正面に圧倒するように天守台の石垣の遺構の一部が立ちふさがっている(写真)。左に折れると懐古神社である。

 天守台石垣を右に折れると紅葉ガ丘と名づけられた林で、紅葉がいまが盛りとばかりに見事な色合いを見せている(写真)。
 紅葉をながめながらそぞろ歩きする。

 少し先に奥まって藤村記念館が建っている(写真)。島崎藤村(1872-1943)の「小諸なる 古城のほとり 雲白く 遊子悲しむ 緑なす はこべは萌えず 若草も 籍くによしなし しろがねの 衾の岡辺 日に溶けて 淡雪流る」は教科書でも習った。
 信州馬籠生まれの島崎藤村は1899年から小諸義塾の英語教師として小諸に赴任していて、1890年に「小諸なる古城のほとり」を発表した。教科書で習ったとき繰り返し読んでいて切なさを感じた記憶がある。改めて詩を読み直してもやはり切なさを感じる。詩を介して読み手が作者の感情に共鳴するとすれば、藤村の心情はよほど切なかったようだ。
 設計は谷口吉郎氏(1904-1979)で、1958年に開館した。高さを抑え、水平性を強調した控えめなたたずまいで、藤村記念館にふさわしいと思う。谷口氏のデザインは、1932年の東京工業大学水力実験室(現存せず)、1956年の秩父セメント第2工場、1958年の東京工業大学70周年記念講堂、1966年の帝国劇場、東京国立博物館東洋館、1969年の東京国立近代美術館、1974年の迎賓館和風別館などを見学した。端正なデザインが特徴である。

 藤村記念館の先に武器庫が立ち、その横に対岸に渡る酔月橋が架かっている。下をのぞくとかなり深い谷で、地獄谷と名づけられている。小諸城の北西側は地獄谷が防御線になっているようだ。
 酔月橋の先に、谷口吉郎氏とともによく知られた村野藤吾氏(1891-1984)の設計で1975年に開館した小山敬三(1897-1987)美術館が建っている。
 村野氏の1957年設計の東京有楽町・読売会館(後にそごう、現在はビックカメラ)、1963年・日生劇場、1974年・迎賓館本館(改修)、1975年・京都新都ホテル、1978年・箱根プリンスホテルなどを見学した。日生劇場の幻想的な内部空間、箱根プリンスホテルの優美な外観など、印象深い作品を残している。

 小山敬三美術館は見学したことがあるので酔月橋から南に折れ、馬場跡を造園した樹林を通り、南西端の富士見展望台に向かう(写真)。こちら側も崖で、眼下に千曲川の流れと山並みを遠望することができる。「・・古城のほとり 雲白く 遊子悲しむ・・」風景が広がっている。
 天守台の石垣遺構を歩き、懐古神社に一礼し、黒門橋を戻る。三の門をあとにし、諏訪大社に向かった。  (2022.4)

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2021.11軽井沢を歩く2 千住博美術館+西沢立衛

2022年04月09日 | 旅行

長野を歩く>  2021.11 軽井沢を歩く2 軽井沢千住博美術館+西沢立衛

 軽井沢タリアセンを出て、東急ハーヴェストクラブ軽井沢を通り過ぎ、国道18号線=軽井沢バイパスに向かって坂道を上る。400mほどで塩沢の交差点に着き、国道18号を左=西に折れ、400mほど歩くと軽井沢千住博美術館がある。
 千住博(1958-)氏に詳しくないが、代表作のウォーターフォールが1995年にヴェネツィア・ビエンナーレで名誉賞受賞、2002年に大徳寺伊東別院襖絵、2013年に京都本院の襖絵を完成、2018年には高野山金剛峯寺の襖絵を完成させるなど、国際的に活躍する日本画家で、少し前にテレビで紹介されたらしい。
 千住氏の作品も話題だが、千住博美術館のユニークな設計も話題で当初から訪ねる予定に入れていた。
 国道18号線からは林で隠れて美術館は見えない。素っ気ない美術館入り口のサインに続くアプローチの先に、庇を低く抑えたガラス張りの軽快なエントランスがある。これだけでただならぬデザインを予感させる。

 1500円のチケットを購入して入館したとたん、衝撃が走る。
 床は緩く下っていて、ガラス張りの丸い大小の中庭が見え、適当に配置された平面、曲面の衝立に絵が展示されているではないか(写真web転載)。
 床も壁も衝立も白を基調にして無機質に何も主張しないため、中庭の緑にまず目を取られ、続いて展示された絵の主張が目に入る。不思議な空間体験である。
 設計は西沢立衛(1966-)だった。2018年に金沢21世紀美術館(妹島和世と共同設計)を見学し、新しい概念の展示方法を実感した記憶がある(写真2018.5撮影、ホームページ日本の旅・2018.5金沢を歩く5参照)。
 西沢氏は、千住氏の要望を受け、斜面立地を生かし、劇的な空間を生み出している(平面図web転載)。だからといって西沢氏のデザインがしゃしゃり出ているわけではない。むしろ千住氏の作品と息がぴったり合っているといえよう。
 斜面の下り勾配と中庭の配置と衝立の向きで奥へ奥へと吸い込まれそうになり、踏みとどまりながら作品を眺める。

 今回は「開館10年の軌跡展 日本の四季彩 ときに~冬春夏秋~」がテーマで、第1章 千住博の画業の軌跡 
「ビルシリーズの誕生」①「六月の空」②「月英」③「湾岸」
「自然のモチーフとの出会い」④「朝に向かって」⑤「バンパゴンの雨」⑥「楽園について」⑦「湖畔・ジョアンの樹」
「滝の誕生」⑧「フラットウォーター#14」⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱「ウォーターフォール」⑲「波の詩」
「崖の誕生」⑳「崖#2」㉑「At World's End #16」
「その他の作品」㉒~㊲「星のふる夜」㊳「Mの森」㊴「海と空」㊵「海の幸・山の幸」㊶「富士朝陽」㊷「上空の風(アンリの空)」
第2章 四季4部作
㊸「夜桜満開」㊹「光」㊺「挽歌」㊻「冬の一隅」
第3章 The Fall:世界の日本画として
㊼「The Fall」 の47作品が展示されていた。
 ガラス張りの中庭で空間が遮られ、衝立は自由な向きに立てられているが、㊼The Fall Roomの独立した部屋を除き、展示空間は一部屋である。ところが、展示作品は不連続に配置されていて、たとえば①は入口右奥、②は入口の少し先、③は入口左、④は①の衝立の反対側などに展示されている。解説では、たとえば自分にとって最も自然だと思える風景を発見し・・作品①の背景に描かれたビル群と作品②を比べると・・などと述べられていて、鑑賞者は入口右奥の①を見て、入口の少し先に移動して②を見比べることになる。

 始めは展示マップを参照し、解説順に行ったり来たりしながら絵を見ていたが、そのうち展示された作品を順に見ながら作品解説を探して読むようになり、歩き疲れてきたので眺め回して気になる絵をていねいに見るようになった。
 ウォーターフォールは、解説で「・・宇宙の時間があたかも46億年前の地球創世時を彷彿とさせる光景・・」と述べるように、気持ちが吸い込まれていくような不思議な感覚になった(写真web転載)。
 独立した部屋の㊼「The Fall」はヴェネツィア・ビエンナーレで名誉賞受賞した作品の再現で、地下宮殿をイメージした暗いインスタレーション・ルームの壁面に滝が表現されているように見えたが、fallは落下を意味している(滝はfalls)。展示室の⑨~⑱ウォーターフォールでは気持ちが吸い込まれていく感じだったが、㊼The Fallを見ていると滝が流れ落ちているように見え、滝壺に吸い込まれていく感覚になる。 気持ちの奥底に不安が沈殿して、The fallによって不安が覚醒されたのかもしれない。
 疲れを感じたので、外に出た。

 美術館を出て少し下った隣に三角錐を組み合わせ黒の外装をまとったユニークな形のカフェが建っている(写真)。席の数は少なかった。窓際で日の光を浴びながらコーヒーを飲む。

 日射しで元気を回復し、軽井沢バイパスを東に歩き、塩沢交差点で右=南に折れ、東急ハーヴェストクラブ軽井沢に戻る。
 東急ハーヴェストクラブ軽井沢は広々とした中庭を囲むように宿泊棟、温泉棟がつの字型に配置されていて、部屋からの眺めがいい(写真)。部屋からの眺めは宿の善し悪しを左右する。温泉を楽しんだあと、風景を眺めながらビールを傾けくつろぐ。
 ただ、残念なことにレストランでのディナーが予約時にすでに満席になっていた。代わりにフロントで薦めてくれた和食料理大嶋に季節の会席料理を予約した。
 18:00少し前、軽井沢バイパス沿いの大嶋に向かう。バイパスの多くの店は明かりを消していたので、明かりをともした大嶋はすぐ見つかった。天井の高い、明るい内装で、居心地がいい。
 会席料理に長野の地酒・純米吟醸沢の花をあわせた(写真)。沢の花はさわやかなのど越しで、お造りと相性がよかった。
 
 宿に戻りライトアップされた中庭をながめる(写真)。コロナウイルス感染が収まらないなど世の中には不安要素が絶えないが、ライトアップはいやな出来事を忘れさせてくれる。
 今日の歩数計は12300、寝しなに温泉で足の疲れといやな出来事を癒やし、休む。  (2022.4)

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2021.11軽井沢を歩く1 塩沢湖・軽井沢タリアセン

2022年04月04日 | 旅行

長野を歩く>  2021.11 軽井沢を歩く1 塩沢湖・軽井沢タリアセン

 「心」「身」の刺激を求め、紅葉も期待して、2021年11月、マイカーで軽井沢~小諸~諏訪~蓼科に出かけた。宿は東急ハーヴェストクラブ軽井沢、東急ハーヴェストクラブ蓼科を予約した。初日、圏央道~関越道~上信越道を利用し、横川SAでランチを取り、東急ハーヴェストクラブ軽井沢には13:15ごろ着いた。
 東急ハーヴェストクラブ軽井沢の南隣に、塩沢湖を中心にした総合レクリエーション「軽井沢タリアセン」が整備されている(図web転載)。
 塩沢湖は1961年に用水から水を引き込んで造成された人造湖で、アイススケート場として使用された。1971年に塩沢遊園として整備され、1983年に塩沢湖レイクランドに改称、1986年にリニューアルされ、1996年から「湖畔に広がる自然と文化のミュージアム 軽井沢タリアセン」として開園している。
 東急ハーヴェストクラブの宿泊棟に沿って南に歩くと、敷地続きで軽井沢タリアセン北口駐車場になり、その先に「明治四十四年館」が建っている(写真)。
 明治44年に建てられた軽井沢郵便局だった。川端康成、室生犀星などの別荘利用者にも利用されたが老朽化のため建て替えることになり、1994年に解体され、1996年にタリアセンに移築されたそうだ。
 1階はレストランを併設した入園口、2階は深沢紅子野の花美術館である。1階で入園券800円を購入し、タリアセンに入園する。

 塩沢湖は一周1000mぐらいで、湖をぐるりと回れる遊歩道が整備されている。明治四十四年館は塩沢湖の西に位置している。湖を眺めながら南回りに歩きだす(写真)。
 塩沢湖の西側は環境省里地調査山野草保護区域に指定されていて、塩沢湖の周りも緑地の手入れが行き届いている。
 南回りの遊歩道には「ことりがよぶ道」と名づけられ、タリアセンマップには、カワセミ、鴨、アカゲラ、ムササビ、日本リスなどが図示されている。鳥のさえずりを聞き、紅葉を眺め、歩く。

 塩沢湖の南に旧朝吹山荘「睡鳩荘」が建っている。三越社長などを歴任した実業家朝吹常吉の別荘として、1931年、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で旧軽井沢に建てられ、2008年にタリアセンに移築された。
 アメリカ生まれのヴォーリズ(1880-1964)は、1905年、滋賀県立近江商業学校英語教師として来日、建築家志望だったこともあり近江八幡YMCA会館、軽井沢ユニオンチャーチ、明治学院チャペルなど数多くの作品を設計した。またヴォーリズ合名会社を設立してメンソレータムを普及させたことでも知られる。
 睡鳩荘は木造2階建てでもとの別荘のテラス、ベランダは南向きだったと推測されるが、移築の際、テラス、ベランダを塩沢湖の眺めのいい北向きに配置したようだ(写真、中の島からの眺め)。
 睡鳩荘公開にあたって、「建物だけを移築して中身ががらんどうでは無機質なので、実際に使用された家具を極力元とおりに配置し、移築前の建物の雰囲気を再現した。棚、机、椅子、鏡、ベッド、照明、食器などはほとんどが当時のままのもの」だそうで、そのころの別荘での暮らしぶりが想像できる(写真)。
 ヴォーリズの建築工法もパネルで解説されていて、「地盤の不等沈下を避けるため長さ7mの杭を30本も打ち込んだ」「2階の床下に遮音のためおがくずを敷き込んだ」「建物の風格を表現するため屋根には塩焼き瓦を用いた」「階段は上りやすく、安全のため勾配を緩くし、踊り場を設けて中折れにした」などが図解されていて、分かりやすい。
 
 睡鳩荘を出て、遊歩道=ことりがよぶ道を西に進むと中央ゲートがあり、ショップ、バーガーカンパニー、レストランが並んでいて、何組もの先客がくつろいだり、歓談していた。
 塩沢湖の西側には湖に突き出た中の島がある。先端まで歩き、豊かな緑に包まれた睡鳩荘の風景を眺める。湖面と緑を眺めていると気持ちがのんびりしてくる。
 遊歩道に戻り北に歩くと、ペイネ美術館が建っている(写真)。この建物はアントニン・レーモンド(1888-1976)が1933年に別荘兼アトリエとして軽井沢・南ケ丘に建てた夏の家で、1986年に移築復元され、ペイネ美術館として活用されている。
 レーモンドはチェコ出身で、アメリカに渡りフランク・ロイド・ライト(1867-1959)のもとで設計活動を進め、ライトが帝国ホテル設計(1923完成)のため来日したときに同行し、ライト帰国後、日本に設計事務所を開き、私が訪ねた旧イタリア大使館日光別邸(1928)、軽井沢・聖ポール教会(1934)、群馬音楽センター(1961)、南山大学(1964)、新発田カトリック教会(1965)を始めとして数多くの作品を残している。
 丸太を構造材として現した板張りの木造で、緩やかな勾配で伸び上がる空間が気持ちをおおらかにしてくれる(写真)。
 
 レイモン・ペイネ(1908-1999)はパリ生まれで、愛と平和をテーマにした絵画、リトグラフが世界中で親しまれている。帽子の男と愛らしい女の子を祝福する天使や森の動物たちを描いた「恋人たち」は記憶に残っている(写真)。
 レーモンドとペイネはまったく無関係だそうだが、レーモンドのおおらかな空間とペイネの心温まる絵は呼吸がぴったり合っている。ほのぼのとした気分で表に出る。
 
 湖畔は見事な紅葉で彩られている(写真)。紅葉に目を預け、鳥のさえずりを耳にしながら、湖に沿った遊歩道を西に歩き、明治四十四年館に戻る。
 塩沢湖一周1時間ほどの散策で「心」「身」爽快になった。 (2022.4)

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2010.10安曇野を行く2 ちひろ美術館 ワサビ園

2022年04月03日 | 旅行

長野を歩く>  2010.10 安曇野を行く2 安曇野ちひろ美術館・ワサビ園

 3日目、緑に包まれたさわやかな朝、ホテルの広大な敷地に整備されたおよそ1時間ほどの散策路を歩く。木立のあいだから山並みがみえる。常念岳2857mを中心とした山並みのようだ。すがすがしい気分になる。
 一息してから、安曇野ちひろ美術館に向かう。道の途中には○○美術館、△△アートミュージアムなどの案内が多くみられる。あとで調べたら、20ほどの美術館、博物館が安曇野アートラインとして連携し、活動しているそうだ。豊かな自然での文化芸術も期待したいし、アートラインのような連携活動も賛成であるが、入館料の高いのが玉にきずである。期待はずれの施設も少なくない。比べて安曇野ちひろ美術館は立地環境がいい。建物のデザインは飛び抜けているし、展示も十分に見応えがあり、カフェでゆったりでき、入館料は800円だから申し分ない。今回は2度目だが、さらに展示が充実していた。

 いわさきちひろ=岩崎知弘は1918年福井県武生で生まれ、東京で育った。子どものころから絵が得意だったようだが、最初から画家や絵本作家を目指したのではない。
 1939年、20才の時に親のすすめで結婚し中国・大連に渡るが、夫が自殺したため帰国して絵画や書道を学び直し、自立の道を探ろうとする。1944年、25才の時に満州に渡るが戦況悪化で帰国、間もなく東京の実家が空襲で消失し、母の実家である長野県松本に疎開する。
 やがて敗戦=終戦となり、両親とともに長野県松川村に居を移し、開拓を始める。ここが現安曇野ちひろ美術館(1997年開館)の場所であり、美術館のはずれにはその後、ちひろがアトリエとして建てた小住宅が復元されている。
 再び上京したちひろは戦争反対の思いから共産党へ入党するとともに、埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館で知られる丸木俊(1912-2000)にデッサンを習う。反戦・平和への思いは丸木氏からの影響も強いと思う。
 1949年、30才の時、紙芝居『お母さんの話』を出版、翌年文部大臣賞を受賞し、絵本作家の道を歩み出す。1950年、31才で松本善明(後に衆議院議員)と結婚、長男が生まれる。
 1952年、33才の時に、東京都下石神井の妹の家の隣に家を建て、創作活動に専念する。ここが現ちひろ美術館・東京(1977年開館)の場所になる。
 その後のちひろの活動はめざましく、多くの人に親しまれてきた。ちひろの描く子ども達は何ともいえないほのぼのとした暖かさに包まれている(写真web転載)。ちひろの人をいとおしくみる思いが絵の中の子どもを通して伝わってくるからだと思う。
 機会があれば、下石神井か安曇野の美術館で絵をみて欲しい。それも難しければ、ちひろの絵を使ったカレンダーがあるので、それを飾るといい。大人は子どもをいとおしむ心を育て続けなければいけない、と思う。

 安曇野ちひろ美術館で展示をズーと見ていて、『キンダーブック』を見つけた。私が子どものころ読んだ?読んでもらった?本だ。いい絵本を読んでもらったようだ。
 ちひろは、1974年、惜しまれつつ55才の生涯を閉じる。ちひろの思いを広く後世に伝えようと、1977年、下石神井の敷地に美術館がオープンした。2002年にちひろ美術館・東京が建て替えられる。建て替え後間もなく訪ねたが、展示替えのため休館でちひろの絵には会えなかった。次の機会の楽しみにしたい。
 20年後の1997年に安曇野ちひろ美術館がオープンする。こちらは開館後間もなく訪ねた。
 設計はいずれも内藤廣氏である。内藤氏の設計は好きだ。三重・海の博物館や高知・牧野富太郎記念館なども訪ねている。安曇野ちひろ美術館は、ちひろの思いと息がぴったりと思えるほど、暖かさを感じる親しみやすい空間がデザインされている。
 ちひろ美術館は高瀬川沿いの広大な斜面に立地している。川沿いから見上げると、北アルプスの山並みが青い空を背景に連なっていて、少し目線を下げると、その山並みに歩調をあわせるように切妻の屋根が連続して展示室が配置されている(写真)。風景にたたずんでいるといった感じである。
 美術館の周りは手入れのされた緑地になっていて、大勢が緑地が主役でもあるかのように楽しんでいる。広々とした緑地で駆けまわる子ども達の生き生きした顔こそがちひろの思いであろう。美術館のちひろの絵の中の子どもの顔と緑地の子どもの顔が重なりあう。環境が子ども育て、人々が環境を慈しむ。このような立地のデザインがいい。

 館内の床は木である。少し音が響くが、石張りなどの床よりも音が柔らかい(写真、2000年撮影)。カーペットよりも色合い、歩き心地がいい。ロビー、通路は明るく、広々とし、そこここにイスが置かれている。ちひろの絵を見終わったときのほのぼのとした充実感の余韻を楽しむ場所になる。
 天井は切妻形で集成材が暖かさを演出している。天井の圧迫感はまったくなく、切妻形の天井の先のガラスを通して目線は空に飛び出す(写真)。いつでも自然を感じられる演出がある。
 ちひろの絵の特性もあろうが、絵をみていても疲れを感じないのは空間デザインによるのではないだろうか。

 カフェもいい。とくに庭園にしつらえられたテラスからは北アルプスも、高瀬川に続く緑地の先の聖高原側の山並みもうかがえる。ここで、ちひろが好きだったババロアを食べるのもいい。ミツバチやトンボが軽やかに飛び回っていく。心がくつろいでいく。
 緑地の先にかつてちひろがアトリエとした小住宅が建っている(写真)。窓が大きくとられ、空をみては絵を描き、緑地をみては絵本を書き、創作に疲れたら庭に出て鳥や虫を眺めたであろう雰囲気がうかがえる。

 十分にくつろいだので、松本駅に戻る。途中、ワサビ園に立ち寄った。安曇野には北アルプスの豊かな雪解け水を利用した山葵園が多い。旧環境庁=現環境省の名水百選にも安曇野わさび田湧水群として選定されていて、2000年に水環境調査の一環で調べに来たことがある。
 なかでも大王わさび農場には年間120万人を超える観光客がワサビ田(写真)を観賞しに訪れている。ワサビ=山葵は日本原産の香辛料であり寿司や刺身には欠かせない。一般に使われている練りワサビはセイヨウワサビを元にしているが、日本産ワサビ=本ワサビの香り、食感、味はその比ではない。
 安曇野は浸透性の高い土壌で、そこに北アルプスの雪解け水がつねに補充されるため、ワサビの適地だそうだ。さっそくワサビを買い求め、帰路に着いた。今晩はこのワサビをすって刺身である。 (2011.2)

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