小諸城址懐古園を出て諏訪大社を目指す。千曲川に沿った県道142号線を南に走り、県道44号線を通り、国道142号線を南西に走る。ナビによれば50数km、1時間30分の道のりらしい。国道142号線は中山道と交差したり重なったりしながら、山あいを抜けていく。
12:30近く、和田宿ステーションが目に入った(写真)。
中山道の参勤交代を物語にした浅田次郎著「一路」(book529参照)では和田峠が中山道随一の難所で、大雪の和田峠を越え和田宿に泊まる場面が描かれている。歌川広重画「木曾街道六拾九次和田」でも急峻な山が迫っている。
旧中山道の和田宿、和田峠は国道142号線より北に位置するらしいが、これも何かの縁、和田宿ステーションに立ち寄り、食堂で「天麩羅くるみそば」を食べた。
食後、和田宿本陣、和田峠をパスして、国道142号線を南西に走る。諏訪に近づいた左手に「木落し坂」の立て札が見え(木落しは後述)、ほどなく国道140号線は二股になる。左の諏訪方面を進むと人家が増え始め、山が開けて諏訪湖が見え、ナビに従って曲がったところに諏訪大社下社春宮が現れた(前頁写真)。
諏訪大社は諏訪湖の北西、下諏訪町に位置する下社春宮と下社秋宮、諏訪湖の南西、諏訪町に位置する上社本宮、茅野市に位置する上社前宮の二社四宮からなる(図web転載)。
創建は古事記にさかのぼるとされ、本殿を持たず、下社春宮は杉、下社秋宮はイチイを神木とし、上社本宮と前宮は守屋山を神体山としていて、古い信仰の形だそうだ。主祭神は、大国主神の子である建御名方神(たけみなかたのかみ、男神)と八坂刀売神(やさかとめのかみ、妃神)で、建御名方神が水と風を司り信濃国を開拓した力強い神であることから勝負の神、農業・産業・航海の守り神として、夫婦で祀られてることから縁結び・子授け安産・家内安全に御利益があるとされている。
諏訪大社では、寅と申の年に行われる式年造営御柱大祭=通称御柱祭が平安時代から続いている(干支の寅、申は6年ごとになるが、大祭の年を1年目と数えるため次の大祭は7年目になる)。
御柱祭とは、上社本宮・前宮と下社春宮・秋宮の4つの社殿の前面左右と背面左右に立てられた4本の柱を立て替える式年造営の祭礼である。
柱は長さ約17m、直径約1m、重さ約10トンもあるモミの木で、4月に16本を山から切り出し(=山出し)、5月に上社は約20km、下社は約10kmもの道筋を2ヶ月にわたって曳行する(=里曳き)。
モミの木の「木落し」が最大の見せ場で、傾斜35度、長さ100mの急坂(最大斜度は40度ともいわれている)にモミの木を滑り落とすとき、何人もの氏子がモミの木にまたがって滑り下りていく。救急車が待機し、死者が出たこともある。振り落とされまいとモミの木にしがみつくこの儀式をテレビで見ると、これこそ人の社会に神を招くため人がぎりぎりの限界に挑む儀式性の象徴ではないか、と思わされる。
木落しのあと上社では雪解け水のなかを渡る川越しがある。その後の神社までの里曳きは騎馬行列など華麗に繰り広げられて、下社は5月、上社は6月に遷座祭が行われる。
4本の柱は、社殿右手前が一之御柱、時計回りに社殿左手前が二之御柱、社殿左奥が三之御柱、社殿右奥が四之御柱と呼ばれる。
1998年(寅年)が御柱祭の年で、4月に木落しがテレビで報道された。来場者は190万人、内観衆は150万人を超えた。混み合う遷座祭の前に駆け足で諏訪大社の御柱を訪ね、藤森照信氏設計のユニークな神長官守矢史料館を見学した・・HP日本の旅・長野の旅「1998.5 諏訪を歩く 諏訪大社御柱 神長官守矢史料館」参照・・。
今年=2021年は丑年で、御柱祭は2022年=寅年になる。静かな諏訪大社二社四宮を参拝しようと、前述のように小諸から車を走らせ下社春宮に着いたところである。
下社春宮の参道=大門通りは南北に通っていて、駐車場から出ると大門通りの左=南に下馬橋が架かっている(写真)。
いまは舗装されているがかつては御手洗川が流れていて、橋が架けられ名前の通りここで下乗下馬しなければならなかったことから下馬橋と呼ばれた。現在も橋を通れるのは神輿だけである。
下馬橋は間口3.25m、長さ9.95m、高さ5.35mの屋根付き木造太鼓橋で、元文年間(1736~1740)改修の記録があり、1960年ごろに桧皮葺から銅板葺きに改修されたそうだ。切妻屋根の軒下に飾られている注連縄は風格を表すようにかなり太い。
下社春宮の一之鳥居=春宮大門は下馬橋から600mほど南の中山道との交差点に立っているので一之鳥居は省き、下馬橋から二之鳥居に向かう。
現在の二之鳥居は高さ8mほどの御影石造で、1659年に立てられたと推定されている(前掲写真)。二之鳥居はうっそうとした社林のなかにすくっと立ち上がり、参拝者を迎えている。一礼する。
二之鳥居を抜けると参道左右に狛犬がにらみをきかせていて、正面に神楽殿、その奥=北に弊拝殿、幣拝殿の左右に片拝殿、幣拝殿の奥=北に神木の杉、神木の左右に宝殿が並ぶ配置である(境内図web転載)。
下社は春になると神が山から里に下りて農耕を司り、2~7月は春宮に神が居て、8~1月は秋宮に神が遷座するとされる。訪ねた11月は神が不在のためか境内は静かで、その分、神聖が高まっている気がした。
参道正面の神楽殿は間口3間、奥行き5間、銅板葺き切妻屋根で、参道側=南側に下馬橋の注連縄よりも太そうな注連縄が下げられている(写真web転載)。素朴なつくりだが切妻+注連縄のバランスがいい。
神楽殿を迂回し、幣拝殿で二礼二拍手一礼する。 幣拝殿は、御幣を奉ずる弊殿と礼拝する拝殿が一体になっていて、2階に楼閣をのせた二重楼門造りである(前頁写真)。
棟梁は地元の宮大工柴宮長左衛門(1747-1800)で、秋宮と同じ絵図面を用いて造作を始め、秋宮より1年早い1780年に完成した。1779年完成と記した説明板もあるが、秋宮完成が1781年なので1780年完成が順当であろう。
楼閣は間口1間、奥行き2間、桧皮葺切妻屋根に軒唐破風を付け、二重垂木や破風、胴差しなどを金飾りで装飾し、2階に高欄を回し、腰羽目板に波模様、虹梁上に牡丹と唐獅子、唐破風内に飛龍、内壁に牡丹と唐獅子、扉脇に竹と鶏などの彫りの深い彫刻を施していて(写真、牡丹に唐獅子)、格式の高さをうかがわせる。
幣拝殿は片拝殿とともに重要文化財に指定されている。
幣拝殿の左右には片拝殿が回廊のように延びている(写真)。それぞれ長さ5間、奥行き1間、桧皮葺の片流れ招き屋根で、幣拝殿と同じ宮大工柴宮長左衛門の造作で1780年に完成した。幣拝殿とともに重要文化財に指定されている。
片拝殿の隙間からのぞくと、宝殿が垣間見える。2棟とも、間口3間、奥行き3間、茅葺き切妻屋根の平入りのようだ。
幣拝殿の真後ろ、宝殿のあいだに神木の杉が伸び上がっているらしいが、うっそうとした社林に混じり、見分けは付かなかった。
右の片拝殿の右手前に一之御柱(次頁右写真)、左の片拝殿の左手前に二之御柱(次頁左写真)が空に向かって威厳をただしている。黒ずんだ説明板には、霧ヶ峰高原に続く東俣国有林から伐採された長さ17m、直径1mお樅の木で、数千人の氏子により曳航されたと記されている。
2022年=寅年に新たな樅の木が伐採され、木落し、川越し、里曳きが行われ、いまの御柱がお努めを終えて新しい御柱が遷座することになる。そう思うと、御柱が肩の力を抜いてほっとしているように見えなくもない。
三之御柱、四之御柱を確認したあと、一之御柱、二之御柱に手を置いて一礼し、下社春宮をあとにする。 (2022.4)