yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

斜読「まぼろしの王都」は18世紀の回想録をもとに謎を解き明かす物語で読み応えあり

2016年03月24日 | 斜読

b412 まぼろしの王都 エミーリ・ロサーレス 河出書房新社 2009 /2016.3読

 図書館のスペイン文学コーナーでこの本を見つけた。まぼろしの王都というミステリーじみたタイトルが気になった。目次を開けると、1 見えないまち、2 ナポリ 「見えないまちの回想記」より・・4 ヴェネツィア 「見えないまちの回想記」より、・・6 マドリード 「見えないまちの回想記」より、・・8 サンクトペテルブルク 「見えないまちの回想記」より、・・10 サンクトペテルブルク 「見えないまちの回想記」より、・・12 マドリード 「見えないまちの回想記」、・・と歴史的+魅力的な町が並んでいて、興味をそそった。
 
 現代と18世紀の二重構造も、物語の展開をドラマティック+ミステリアスにしている。
 現代の主人公は、スペイン・カタルーニャのエブロ川河口のサンカルラス・ダ・ラ・ラピタで育ったエミーリ・ロセルである。ロセルは子どものころ、サンカルラス・ダ・ラ・ラピタの丘の斜面に埋もれていた見えないまちを遊び場にしていた。やがて大学を終え、友人ソフィアの手引きで、いまはバルセロナの画廊を経営している。そのロセルに「見えないまちの回想記」が届く。誰が送ってきたかが鍵になる。
 
 回想記の主人公は、18世紀、イタリア・アレッツォで生まれ、ローマで建築技術を習得し、のちのスペイン王カルロス3世=ナポリ王カルロ7世(1716-1788)の新都構想を担当するアンドレ・ロセッリである。
 物語は、現代のロセルがロセッリの回想記の見えないまちを解き明かし、ジャンバッティスタ・ティエポロの絵を探し当てる展開である。
 カルロス3世は、ロシアのピョートル大帝が新都サンクトペテルブルク=ピョートルの都を建設したことを念頭に、スペインの新都をサンカルロス=カルロスの都と名づけ、ロセッリにサンクトペテルブルクの調査を命じる。
 このころ、ロセッリは師であるサバティーニに隠れて夫人のチェチーリアと愛を育んでいた。サンクトペテルブルク行きはサバティーニがチェチーリアとロセッリを引き離すためだったかも知れない。ロセッリとチェチーリアの愛の行く末は??、これも物語の見せ場になっている。

 現代のロセルは、かつての恋人のアリアドナに会いに行き、ロセルはアリアドナと回想記の謎解きに挑む。
あとは読んでのお楽しみ。久方ぶりに読み応えを感じた。

 

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2005年名護市庁舎を訪ねる、その土地の歴史や文化や生活を読み解くことの大切さを学ぶ

2016年03月21日 | 旅行

 2005年 沖縄県名護市庁舎を訪ねる /2005.6記

 沖縄を訪ねるたび、可能な限り、名護市庁舎に寄っている。設計はコンペで選ばれた象設計集団+アトリエモビルで、1981年に完成した。
 なぜ可能な限り寄ろうとするか?。

 那覇空港でレンタカーを借り、高速道許田ICを降りて国道を走ると、右手・北側に名護市庁舎が現れる。
 3層の壁面は、4本柱のリズミカルな構成に支えられ、花ブロックが豊かな表情をつくっていて、軽やかである。この壁面の構成は、民家を台風から守る福木の屋敷林に似た守り方とも思える。
 壁面には海を見張っているかのようにシーサーが飾られている。これは沖縄らしさの強調というより、沖縄の文化を支えてきた瓦職人の手仕事の伝承と考えた方がいい。
 もともとの市街は市庁舎のさらに右手・北側に広がる。一般の民家は木造に瓦をのせた平屋が多い。
 道路側の3層壁面に対し、市街側はスキップ状に階数を抑えてあり、市街に接するところは1層で町並みにとけ込んでいる。
 市庁舎外周には吹き放しの回廊とゆったりとしたアサギテラスが花ブロックに縁取られて、設けられている。
 いずれも心地よい風を通し厳しい日射を遮る沖縄伝統手法の応用である。
 室内は4本柱に支えられた開放空間で、これも民家平面に共通し、風通しがいい。
 4本柱の上部には南北方向のダクトが設けられていて、これが室内の熱気を排出する装置になっていた。完成当初はこの装置のお陰で、夏でも空調なし+自然の風で過ごせたが、その後、パソコン、プリンターなどのIC器機が普及し、その発熱のため空調機が導入された。発熱しないIC器機が登場すれば、自然の風が復活するかも知れない。

 名護市庁舎は市庁舎のあり方を提案した優れた建築であるが、同時に、その土地の固有の環境のもとで育まれた歴史や文化や生活を読み解いていくことの重要性をじっくり学ぶことのできる建築でもある。
 だから可能な限り寄り道をして、歴史や文化や生活を読み解くことの大切さを再確認しているのである。
 今帰仁中央公民館も象設計集団の設計で1975年に開館、福木で包まれた備瀬の街並み、世界遺産に登録された今帰仁城も近い。あわせて訪ね、歴史や文化や生活を読み解くことの大切さを理解されることをおすすめする。

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2006年、富弘美術館を訪ねた「・・悲しいこと・・うれしいこと・・柔らかく包みこんで・・日日草」

2016年03月20日 | 旅行

2006 富弘美術館を訪ねる /2006.5記

 星野富弘氏は、20代半ばで中学校のクラブ活動指導中に頸髄を損傷、手足の自由を失ってしまった。
 絶望の淵から彼を導いたのはお母さんの献身的な介護であり、やがて口に絵筆をくわえ詩や絵を書き始めた。
 「今日も一つ悲しいことがあった 今日も一つうれしいことがあった 笑ったり泣いたり 望んだりあきらめたり にくんだり愛したり・・・そしてこれら一つ一つを 柔らかく包み込んでくれた 数え切れないほど沢山の 平凡なことがあった/日日草
  旧館が手狭になり、コンペで選ばれたヨコミゾマコト設計の新館が2005年に開館した。よく2006年、電車を乗り継ぎ、わたらせ渓谷線神戸駅から路線バスに乗り継ぎ、ヨコミゾマコト氏のデザインと富弘氏の詩画を見に行った。
 
 ヨコミゾ氏は「事象を平均化し、抽象化し、画一的に捉える無意味さ」を星野氏の作品から教えられ、「自然を含め存在するすべてのものの固有の属性やコンディションのばらつきを許容する」ことをコンセプトに、「絶対性と相対性、柔軟性と強靱さ、抽象性と具象性、単純さと複雑さといった相反する性質」をあわせもったシステムとして、大小異なる円が接しながら平面を構成し、全体が正方形として完結するプランを提案している。正方形については、「まったく異なるプログラムでも成立しえるユニバーサル性、汎用性をもった建築を目指した」と述べている。

 半円形のエントランスは南側中央にあり、小円の風除室を通り、大円のロビーに入る。
 南東に半中円のミュージアムショップ、続いて四分大円のカフェになる。
 ロビーの北側には小円前室1、北西には小円前室2が続く。前室1はさらに、小円展示室1、中円展示室2、大円展示室3が、前室2は大円展示室3、中円展示室4が続く。
 つまり作品の鑑賞の仕方は見る人が思いのまま構成できるプランになっている。
 およそ100ほどの富弘氏の詩画をじっくりと鑑賞した。
 「生きる」ことがひしひしと伝わってくる。

 星野富弘著「愛、深き淵より」を読んでおくといい・・1人で読むこと、涙が止まらないので・・。

 

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2006年の盛夏、広隆寺で弥勒菩薩半跏思惟像と対面、観自在菩薩、南無阿弥陀仏、無心になる

2016年03月13日 | 旅行

2006 京都・滋賀を行く3 三井寺・廣隆寺 /2006.8記

 比叡山ドライブウエェから戻り、レンタカーを返そうと膳所に向かって走っている途中で、国宝の三井寺を見つけたので寄ることにした。
 まず仁王門(1452、重要文化財)、下層の本体に対し屋根が大きく、軒先の跳ね上がりが強調され、居丈高である。俗人を圧倒する。
 仁王門の右手に釈迦堂が建つ。室町初期の建築だそうで、中世初期の食堂(この場合はじきどうと読む、しかし、じきどうと打ってもワープロでは食堂に変換しない、じきどうはよほど特殊な用語のようだ)の様式を伝え、重要文化財である。が、いまは釈迦如来をまつっていて、食堂の様式は分かりにくい。南無阿弥陀仏。
 釈迦堂を出て少し上ると国宝・金堂になる。本尊は弥勒菩薩、建物は1599の再建で桃山時代を代表する名建築だそうだ。残念ながら修復中で覆いがかぶさり建物はまったくうかがうことができない。足場板を渡って中に入る。覆いがあるため薄暗く、弥勒菩薩は定かに見えない。観自在菩薩の言葉もある、南無阿弥陀仏。
 境内には鐘楼(重要文化財)、閼伽井屋(重要文化財)、霊鐘堂(重要文化財)、一切経蔵(重要文化財)、唐院(重要文化財)、毘沙門堂(重要文化財)と、そうそうたる建築物が建ち並ぶ。
 唐院は開祖・智証大師(814-891)の廟所で、唐院の名は智証大師が唐での修行から持ち帰った経典類を納めていることに由来する。
 隣接する一切経蔵には高麗版の回転式に経を納める八角輪蔵があるそうで、仏教を学ぶために朝鮮、中国との交流が盛んに行われていたことをうかがわせる。
 唐院右手に建つ三重の塔は室町初期で、高さと横のバランスがとてもよく、見とれるほど見事である。
 左手の大師堂は1598の再建で、国宝・智証大師像をまつっているそうだが、立ち入り禁止である。
 階段をのぼると、西国十四番札所・観音堂(県指定文化財)に出る。本尊は如意輪観音(平安時代・重要文化財)だそうだが秘仏で、33年ごとに開扉されるとか。またも、観自在菩薩、南無阿弥陀仏。

 膳所でレンタカーを返し、湖西線を使って、雄琴温泉に向かい、ここに泊まった。翌朝は、京阪電車、地下鉄、山陰線を乗り継ぎ、太秦の広隆寺に向かった。

 広隆寺での目当ては、霊宝殿の国宝・弥勒菩薩半跏思惟像である。
 やや小柄だが、思惟にふけながらも柔和な顔立ちで半跏する姿は、これまで大勢の人魅了してきた。像の前には特別の縁台が置かれていて、正座しながらじっくりと対面することができるようにしつらえられている。ジーと見ていると吸い込まれていくような気がする。
 仏像はあくまでも像にしか過ぎない。そこに仏教的感動が生まれるとしたら、霊宝殿に安置された千手観音、吉祥天、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩などなどの像、あるいはここ数日に見た像のすべてに共通するが、像を見る人の信じようとする心が仏教的感動を高めているのであろう。
 仏像を通しながら、観自在菩薩、我が身の信心を振り返り、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えると無心になることができるのではないだろうか。

 2泊3日の京都・滋賀の旅、しばし、無心になる。

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2006年の盛夏、比叡山を参拝する、根本中道の本尊は目線がそろう「仏凡一如」のつくり

2016年03月11日 | 旅行

2006 京都・滋賀を行く2 延暦寺 /2006.8記

 2006年8月、京都・滋賀の2日目、京都駅から滋賀県の膳所駅まで電車で行き、膳所でレンタカーを借りて、比叡山延暦寺の参拝に出かけた。
 最澄は、788年、比叡山寺を建立し、804年に中国・唐へ留学、いまの浙江省天台山脈に建てられていた天台宗総本山の国清寺で修業し、帰国した翌年に比叡山寺で天台宗を開こうとしたが旧勢力の反対にあい、延暦寺として独立が認められたのは823年、没後の翌年である。
 比叡山の大講堂では、大勢の若者が僧侶の話を聞き終わり、礼儀正しく挨拶をしているところだった。大講堂から聞かれる若者の礼儀正しさ、その後境内で出会った少年少女のはつらつさは、早くからの信仰心が身を引き締めているように思えた。

 延暦寺の総本山である根本中堂は国宝で、1640年の再建、間口11間、奥行き6間、入母屋造りである(写真禁止)。
 回廊が巡らされていて、入口で下足を脱ぎ、左手の回廊を進む。板葺きの床が心地いい。根本中堂にはすでに大勢の参拝客がいて、僧侶の話を聞いていた。天台宗の基本や信仰することの意味などを話していたようだ。
 内陣をのぞくと中陣、下陣よりも低い。説明では、本尊や法灯が参拝者の目の高さになり、仏も人もひとつという「仏凡一如」を形に表した形式で、その後回った西塔、横川も同じ形式なっていて、これを天台様式といっている。
 根本中堂の本尊は薬師如来で、最澄が788年に薬師如来をまつたことに由来するが、最澄が彫った薬師如来も安置されていて、その前には開創以来1200年間灯されてきた不滅の法灯がゆらいでいる。
 参拝の中陣や下陣は板張りだが、内陣は土間のままで、座して合掌していると、ほの暗い内陣からあがってくる冷気を感じる。こうした荘厳さが密教に欠かせないのかも知れない。

 このあと、延暦寺の総門=文殊楼、法華総持院東塔を見てから、車で西塔、横川を参拝したあと、比叡山ドライブウェイのロテル・ド・比叡で一休みし、琵琶湖の眺めを堪能した。

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