yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「陰陽師」斜め読み

2023年01月31日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book546 陰陽師 夢枕獏 文春文庫 1991


 
だいぶ前、テレビで野村萬斎主演の「陰陽師」を見た。平安時代の陰陽師・安倍清明が怪奇なできごとを陰陽道で解決していく展開だった。現実離れし過ぎていたので、見流した。
 科学が発達していない社会では、陰陽五行思想に基づいて吉凶を占ったり、天文、地相の知識を用いて吉凶を推測したり、印を結んで呪文を唱え悪霊を退散させたり、などがよりどころになったのであろう。
 2023年1月、コロナ渦の行動制限が解かれたので京都に出かけ、初日に晴明神社を訪ねた(写真)。行きの新幹線で予習に夢枕獏著「陰陽師」を読み始めた。怪奇な話が6編収められていて、読み終わらないうちに京都に着いた。訪ねた晴明神社に怪奇さは感じられなかった。「陰陽師」は伝承に基づいた虚構の世界のようだ。


玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること

 夢枕氏は、平安時代、闇が闇として残り、人も鬼ももののけも同じ都に一緒に棲んでいた時代の話、と書き始める。
 今昔物語に記された阿部清明の逸話を紹介し、陰陽師は方位も観れば占いもし、呪詛によって人を呪い殺すこともでき、幻術も使う、運命とか霊魂とか鬼とかに深く通じ、そのあやしさを支配する技術を持っている、と続ける。
 収録されている怪奇な6話は清明の逸話を下敷きにした虚構であり、科学的な合理性を求める読み手は置いていくということらしい。


 (晴明神社あたりに実在した)阿部清明の屋敷に、朝廷の武士である源博雅が訪ねてくる。清明は博雅に一番短い「呪」は名前だと言い、庭の花が残っている藤に「密虫」と名づけ、呪をかけたと話すが、博雅は理解しきれない。
 博雅は清明に、歌あわせで壬生忠見の歌「恋すてふ我が名はまだき立ちにけりひと知れずこそ想いそめしか」が平兼盛の歌「忍ぶれど色に出でにけり我が恋はものやと想うとひとの問ふまで」に負けたことで、忠見は食欲を失い、床に伏せ、ついに餓死同然に死んで、その後、忠見の怨霊が清涼殿に出ると話す。
 忠見の歌も兼盛の歌も百人一首に選ばれていて、記憶にある。この二首は本題とは関係ない。夢枕氏は、怪奇な話の前触れで忠見の怨霊を挿入したようだ。


 博雅は清明に、帝(62代村上天皇926-967)愛用の琵琶・玄象が盗まれ、一昨日、宿直をしているとき玄象の音を耳にした、と話し始める。
 博雅は管弦の道を極めていて、聞き間違えるはずはない。童子を一人連れ、音の鳴る方向に歩く。清涼殿を出て、朱雀門、朱雀大路、物見櫓を過ぎ、羅城門まで来た。琵琶の音は羅城門の上から聴こえてくるが、真っ暗である。
 嫋、嫋、嫋と哀しくも美しい音色である。博雅は、盲目の老法師蝉丸が奏でる琵琶の秘曲の流泉、啄木を聴いたことがあるが、羅城門の上から聴こえてくる音色は流泉、啄木に勝ると感じた・・流泉も啄木も初めて知った。夢枕氏は琵琶に詳しいようだ・・。
 博雅が、その琵琶は宮中より盗まれた玄象だと声をかけると、琵琶が止み、童子のもつ灯りが消えて闇になる。童子が泣き震えるのでその日は帰った。
 昨日も琵琶が聴こえたので、博雅は一人で羅城門に行った。声をかけると琵琶の音が止んだので、羅城門を登り始めると、上から人の腐った眼だまが落ちてきたので、登るのを止め、帰ったと話し、清明に今夜つきあえという。
 
 その晩、戦に出るような姿の博雅、琵琶法師蝉丸と清明が集まる。清明がぽんと手を打つと、藤色一色の唐衣装=十二単衣に身を包んだ美しい女=密虫が現れ、3人を先導する。
 羅城門の上から嫋、嫋と哀しい音色が聞こえる。蝉丸は、異国の旋律と言い、その音に合わせて自分の琵琶を弾き始めた。嫋。嫋。二つの音色がからみ始める。やがて絶妙の音色になる。
 羅城門の上にいる者が、琵琶を弾きながら哭き、声を出す。清明は天竺=インドの言葉で語りかけ、自分の名は正成だという。
 その男は漢多太と言い、旅の楽師で、戦に敗れて国を後にし、唐にたどり着いてそのとき玄象を造り、空海和尚の船に乗ってこの国に着き、128年前、平城京で楽器を造っているとき賊に入られ、首を切り落とされてしまった。死ぬまでに故郷を見たいと思っていて、成仏できなかった。宮中に私の妻スーリヤとそっくりの女官がいる。その女官と一晩契りを交わさせてくれれば、女官も玄象も返し、立ち去る、と話す。
 漢多太は約束を違えぬよう力を見せると言ったとたん、羅城門の上からみどり色の光が密虫の上に落ちてきて、一瞬のうちに光も密虫も消えてしまう。あとに藤の花が舞い落ち、闇に包まれる。 


 翌日の晩、清明、博雅、女官、女官の兄の武士が羅城門に向かう。漢多太は女官を紐で吊り上げ、代わりに玄象を降ろす。
 女官は用意していた小刀で妖物の首を取ろうとしたが失敗し、妖物に喰い殺されてしまう。武士が放った矢が漢多太の額に命中し、全裸の鬼が落ちてくる。次の矢も命中するが、鬼は武士に跳びかかり喉を食いちぎってしまう。
 鬼が「動くな、博雅」と言うと、博雅は動けなくなってしまう。清明にも「動くな、正成」と言うが、自分の名ではないので呪はかからない。清明は「動くな、漢多太」と言うと鬼は動けなくなった。清明は博雅の太刀で漢多太の腹を突きさし、えぐると腹から犬の首が出てきた。
 漢多太の「鬼」が犬に憑いたと見極めた清明は、犬の首に呪をかけて「鬼」を琵琶に憑かせ、この奇怪な話が落着する。
 今昔物語巻第24と付記されているから、夢枕氏は今昔物語から怪奇な構想を発展させたようだ。


 続く2~6話には今昔物語の付記はない。夢枕氏は清明、博雅を主役に着想を自由に飛ばしたようだ。
梔子(くちなし)の女
 清明の屋敷の庭は野山のくさむらのようだが、四季折々の花が咲いている。2話目は庭に梔子が咲いている梅雨時であるが、梔子は枕詞らしく本題との関係はない。
 右大臣の小野宮実次が、大宮大路で油壺の跳ねるのを目撃、油壺はある屋敷の中に跳ねながら入って間もなく若い女が病死する話が挿入されるが、これも本題ではない。
 本題は、元図書寮の役人が寿水という坊主になり、中御門大路にある妙安寺で修行しているとき、ある晩、目が覚めると廊下に口のない女がいて、訴えるような眼をし、消えた話である。
 毎晩口なしの女が現れて消えたが、ある晩、寿水は古今集を読みながら寝ると口なしの女が現れ、古今集の「みみなしの山のくちなしえてし哉おもひのいろのしたぞめにせん」を指さして消える。
 清明と博雅は寿水の僧坊で待ち、夜半、女が現れると清明は「如」と書いた紙を見せる。女は喜びながら消える。
 清明によれば、寿水が般若経を写経しているとき「受想行識亦復如是」の「如」に墨をこぼして「口」の部分が隠れてしまったため「如」が「口なしの女」に化けて出たきたそうだ。清明が「女」の横に「口」を書き加えて「如」に直したあと、女は二度と出てこなくなり、落着する。
 奇想な創作だが奇怪さはない。


黒川主
 鴨川沿いに屋敷を構える鵜匠が鴨川から引いた堀に捕らえた鮎、鮒、鯉などを飼っていたが、獺が堀の魚を荒らすので巣を見つけ、雄は逃げたが雌の獺と子どもの獺を殺す。
 鵜匠は孫娘と二人暮らしだったが、間もなく黒川主と名乗る男が夜な夜な現れ、孫娘に催眠術?をかけて犯し、堀の魚を生のまま食べるようになった。孫娘は朝になると何も覚えていない。
 清明は結界を張り黒川主と名乗る雄の獺を捕まえる。眠ったままの孫娘は獺の子どもを産み、黒川主は子どもを連れて去る。清明はカジカの肝を孫娘に食べさせて目覚めさせ、落着する。
 獺が妖力を持ち、獺の妻子を殺した鵜匠の孫娘を犯して子どもを産ませ、その子を連れて去るというのは奇怪すぎる。



 応天門が雨漏りするので工が弟子と屋根裏に登り、誤って真言を書いた孔雀明王の呪を破いてしまう。その後、蟇蛙の顔をした子どもが出るようになり、ほどなく工は眠ったまま目を覚まさなくなり、弟子は熱を出して死んでしまう。
 清明は博雅と方違えをしながら牛車で応天門に向かう。牛車の外は闇で百鬼が夜行していた。牛車が動き出し、六条大路西外れの荒れ果てた屋敷に着く。
 暗がりに、自分の首を手に抱えた夫婦がいた。100年ほど前、夫婦の子どもが竹の棒で一匹の蟇蛙を刺し、蟇蛙が苦しみ哭くたびに青い炎が立ち、間もなく応天門が焼けて夫婦は犯人にされ、子どもは熱にうなされ死んでしまった、と話す。
 夫婦は首をはねられる前に、応天門を祟ってやろうと蟇蛙を焼き殺し、死んだ息子の灰といっしょに壺に入れ、応天門の下に埋めたそうだ。
 清明と博雅が応天門の下を掘ると壺があり、中から人の眼をした蟇蛙が飛び出してきて、落着となる。
 平安時代は鬼、もののけがうごめき、妖しげな出来事が日常だったようだ。


鬼のみちゆき
 15年前、帝が鹿狩りで供とはぐれ、かつて宮中に仕えた女の家に泊まる。そのとき女の娘と契りを結び、翌日、必ず迎えに来ると言い残し、白と黒の2匹の犬を置いていった。
 娘はそれから毎日いつ帝が来るか待ち続け、母も死に、食べ物も喉を通らず、命の尽きるのを覚悟し、死して帝に会おうと鏡魔法を用い、心を通じた2頭の犬を小刀で突き殺し、自らは鬼になる。
 ・・鏡魔法の詳しい説明はないが、鏡を宮中に向け、鬼になった娘が鏡の道を辿って宮中の帝に会いに行く妖術のようだ・・。
 鬼になった娘は十二単を着て牛車に乗り、黒装束の男と白装束の女を供に、初日の夜は八条大路まで行く。牛車には牛がおらず、軛には黒髪が下げられていた。
 2日目の夜、公家の藤原成平が七条大路近くで、黒装束男と白装束の女を供にした牛車に出会う。成平の供が斬りかかると男は黒犬、女は白犬になり、供に跳びかかり、食べ尽くしてしまう。
 5日目に博雅が帝の写経した般若経を納めようと出かけたとき、女童から「かけたるはうしとこそ思へ たまさかに何の心をかやる」の歌を受け取る。・・これは帝の写経をもっていたため勘違いされたためで、鬼になった娘の歌である。真意は清明が解説している・・。
 6日目の夜、三条大路の手前で成平と供が鬼の乗った牛車を襲うが、成平は鬼に喰われてしまい、怪奇な出来事を帝が知る。
 7日目の夜、清明は帝から一房の髪を預かり、現れた鬼の牛車の軛の黒髪に帝の黒髪を結ぶと、牛車も供の男も女も消えてしまう。清明は博雅と鏡の霊気の道をたどり、娘の死んだ場所を見つける。娘は帝の髪をいただき恨みは晴れたと言って骸に変わり、落着する。
 女の恋い焦がれた思いが鬼を生み出したようだ。源氏物語にも似たような話がある。男よ約束は守れ、鬼が来るぞ、ということか。


白比丘尼
 猫が清明の声で、博雅に5~6人斬り殺した太刀を持って屋敷まで来いと話す。博雅が太刀を持って屋敷に行くと、白い尼僧姿の女が現れ、30年ぶりと清明に挨拶する。
 清明は博雅に、女は300年前に人魚の肉を食べて不死になったが、歳をとらない分が体に溜まり男の精と結びついて禍蛇になり、放っておくと女も鬼になってしまうので、30年ごとに禍蛇を落とさなければならないと話す。
 女は全裸で結跏趺坐になり、清明が女の後頭部と腰に細い針を刺すと、女の股間から蛇が姿を現す。その蛇を博雅が斬ると蛇が消えた。清明が針を抜くと女は起き上がり僧衣をまとい、礼を言って立ち去り、落着する。
 陰陽師は続編もあり、映画化もされたから人気が高かったようだが、奇怪すぎて私の好みとは遠く感じた。 
 (2023.1)
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2009.7九谷焼美術館を歩く

2023年01月27日 | 旅行
<日本を歩く>  2009.7 九谷焼美術館を歩く


 2009年7月、福井県で永平寺、越前大野、三国湊を訪ねたあと、石川県加賀市大聖寺地方町の石川県九谷焼美術館を訪ねた。九谷焼美術館は2005年8月に訪ねていて、2度目である。
 九谷焼は、加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主前田利治が九谷村の鉱山開発で陶石を発見して磁器生産を指示し、17世紀中ごろ、現加賀市大聖寺に九谷窯が開かれたことに由来する。当初、備前有田で技術修得をしたため、色絵に共通点がうかがえる。
 その後、九谷焼が衰退し19世紀に再興されたため、17世紀~の作品を古九谷と呼び、19世紀~を再興九谷として区別している。
 古九谷は、しっかりとした線描の上に絵の具を厚く盛り上げて塗るのが特徴で、色調は紫、緑、黄を主色とする。題材には花鳥風月、山水、風物が多い。とくに、緑・黄・紺青・紫の四彩で仕上げた青手は日本の油絵と称されるほど絵画性の強い表現として知られ、再興九谷でもその伝統が引き継がれている。
 五彩手と呼ばれる焼き物は赤・緑・紫・紺青・黄を使って山水・花鳥風月・人物を表したもので、青手とならび古九谷を代表する。再興九谷で新たに創出された赤絵金襴手も九谷焼を代表する。


 大聖寺を流れる大聖寺川は、福井県・石川県境の大日山(1368m)を源とし日本海に注いでいて、古くから上水道として利用されてきた。しかし、市街地では蛇行しているためしばしば氾濫を起こし、流路の整備、ダムの建設が進められた。
 河川整備にともなう大聖寺の治水公園象設計集団が手がけ、続いて石川県九谷焼美術館がデザインされ、2001年に竣工した(図パンフ転載、右上が九谷焼美術館、右下は図書館)。
 図書館東の駐車場に車を止め、図書館と美術館のあいだを抜けると、南下がりの斜面が広がる。ここが治水公園で、芝生、庭木、低木、喬木の緑の中に水音も聞こえ、気分がすがすがしくなる。
 すがすがしい気分で、治水公園側に設けられた入口を入る。
 パンフレットの見取り図によると、九谷焼美術館は変形四角形平面の中庭を囲んで細長い展示室が配置され、企画展示室、青手の間、色絵・五彩の間、赤絵・金襴の間を回遊するように動線が組まれている(図パンフレット転載)。九谷焼に疎くても、青手→色絵・五彩→赤絵・金襴の展示は理解しやすそうだ。
 入口ホール、企画展示室は吹き抜けで、2階のカフェ、ミュージアムショップの雰囲気が伝わってくる。展示を見終わったあとでカフェで一息しよう、そんな気分にさせる。
 企画展示室の奥の壁は、色違いの土壁が層をなしている(写真)。地層を見上げているようで、大聖寺藩主前田利治による鉱山開発、陶石発見に連想が飛ぶ。象設計集団の巧みさである。


 中庭に面した回廊に入る。変形四角形平面の中庭にも仕掛けが多い(写真)。目を吸い寄せる木の根元の土を盛り上げ、一段下がって石と芝が放射状に並べられ、あいだを砂利の帯が流れていく。
 四方の壁はそれぞれ趣が異なり、小さな矩形の窓、大きな開口、小さなベランダ、おおきなベランダ、鹿威しのような樋、滝を思わせる青い筋、などなどを見ていると思考が解きほぐされていく。自由な発想で九谷焼を鑑賞する、といったメッセージだろうか。
 回廊の突き当たり右が青手の間である(写真)。中庭に向かって天井が緩やかなカーブを描いて延びている。開放的である。
 青手は、器全体を余すところなく、花鳥、山水、風物を題材に緑・黄・紺青・紫の四彩で塗り上げていくのが特徴だそうだ(次頁左写真web転載)。
 
 青手の間の突き当たりを右に折れると色絵・五彩の間である。長流亭上の間出書院が復元されていて、展示室の雰囲気は伝統的な和風に変わる(写真)。部屋のつくりが変わるので、展示品の性質が変化したことに気づく。
 色絵は、器の中央に作品のモチーフとなる山水、花鳥風月、人物などを絵画的・写実的に描くのが特徴だそうだ(次頁中写真web転載)。絵の具に緑・黄・紫・紺青・赤の5色を用いることから五彩とも呼ばれる。
 色絵・五彩の間、続くデジタルライブラリーの北に長方形平面の北庭が設けられている。北庭は和風庭園の趣でデザインされている。


 デジタルライブラリーの先が変形五角形平面の赤絵・金襴の間で、部屋を暗くし、展示品に明かりを当てて浮き上がらせる展示方法である(前頁写真)。ここでも部屋のつくり、展示の仕方を変えて、展示品の性質が変わったことを暗示している。
 赤絵は、にじみにくい赤絵の具の特性を生かして器全体に「細描」と呼ばれる細かい書き込みを施すのが特徴だそうだ。背景を赤で塗り埋め、金で絵付けする手法が金襴手と呼ばれる(下段右写真web転載)。
 どの展示品も華やかな図柄の芸術品である。高価な器に違いない。庶民の暮らしでは、万が一割れたらと思うと手が出そうにない。目の保養にとどめ、2階に上がる。


 2階はカフェとミュージアムショップが連続している。天井は南の治水公園に向かって段々がつけられていて、視線が治水公園に向かうように工夫されている(写真)。
 公園を見下ろしながらコーヒーをいただき、九谷焼の感想を話すのに格好の場所である。
 2階のテラスから治水公園に降りることができる(写真、治水公園からの美術館の眺め)。
 
 公園にはが右に左に重ねられてデザインされていて、水が樋に導かれて流れ落ちている(次頁上写真)。樋のデザインも目を引くが、水の流れたり落ちたりする水の音も楽しめる。
 斜面は凹凸の変化をつけながら下っていく。下りきると大聖寺川から水を引いた池があり、水路が丘を巡っていて、変化に富んだ風景をつくりだしている(下写真)。
 大聖寺川が万が一氾濫しても、図書館の建つ高台に避難すれば安心である。安心、安全こそ治水の目的であり、市民は安心して公園を楽しむことができる。ピクニックのグループもいて、市民にすっかり馴染んでいるようだ。
 1994年、手づくり郷土賞「人々が集い憩う水辺づくり」に選定されている。納得である。象設計集団の仕事の巧みさに感心し、九谷焼美術館をあとにした。
  (2023.1)


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2009.7越前大野・三国湊を歩く

2023年01月24日 | 旅行
<日本を歩く>   2009.7 水の越前大野・三国湊を歩く


 2009年7月、曹洞宗総本山永平寺を訪ねたあと、水の町として知られる越前大野に足を延ばした。
 福井県の東に位置する大野盆地は、豪雪の山間を源流とする盆地東の九頭竜川、九頭竜川に合流する東から順に真名川、清滝川、赤根川が流れ、湧水が豊かである。
 1575年、織田信長より大野郡の2/3を与えられた金森長近(1524-1608)は、大野盆地を東西・南北を碁盤目にした町割を行った(図web転載加工、1586年、長近は飛騨高山に転封、HP「2018.5高山へ、江戸幕府直轄領飛騨を統括する郡代役所=現高山陣屋・・」参照)。現在の越前大野の碁盤目状の町割や、一番、二番、三番などの呼称は長近の町割が原型のようである。
 
 湧水の一つ、名水百選に選ばれているのが、御清水(おしょうず)である(写真)。越前大野城の南東100mほど、一番通りから西に少し入った街中に位置し、周辺は憩いの場として整備されていた。
 かつて城主の炊飯に使われたことから、御清水、殿様清水と呼ばれたそうだ。上手に水神?が祀られている。江戸時代から上流側が飲料用(写真の円形水盤)、中間、下流側が野菜などの洗い場の使い方が守られてきた。
 水温は12℃~14℃、水の硬度は50mg/l前後の軟水で、まろやかな口当たりといわれている。


 街中には古い家並みが多い(写真)。瓦葺き切妻屋根、2階を虫籠窓や格子とした2階建て、平入りが軒を連ねていて、小京都と紹介されている。
 南北の四番通りの、東西の七間大通りと六間大通り=国道476号線のあいだに七間清水がある(写真)。
 石を四角く加工した水盤から水が湧き出ている。古くから酒造りの仕込み水に使われていて、「ふくいのおいしい水」に選ばれている。

 町の南に本願清水(ほんがんしょうず)がある(写真)。もともとこのあたりに伏流水が湧き出ていて、碁盤目状の町割をすすめた金森長近は、ここをさらに掘り下げ、用水の水源として整備したそうだ。
 長近は、新たな町に人を住まわせるためには飲料水、生活用水が欠かせないと考え、碁盤目状の町割整備と同時進行で、用水網を整備したようだ。
 名前の由来は、この近くに本願寺派の寺があった、本願寺派の門徒を使って掘り下げた、などが伝えられている。
 本願清水には、体長5~10cmのイトヨが生息していて、イトヨの里として保全が進められている。魚には詳しくないのでイトヨかどうか分からないが、たくさんの魚が群れながら泳いでいた。


 大野盆地を流れる九頭竜川は永平寺町、坂井市、福井市を下り、日本海に注ぐ。2009年7月、越前の玄関口といわれた九頭竜川河口の三国湊(現坂井市三国町)に足を延ばした。
 古くから、九頭竜川、その支流の足羽川が水運として利用され、河口の三国湊は物資の集積地として栄えた。江戸時代には、北前船の寄港地としてますます栄え、豪商が軒を連ねた。
 明治政府は鉄道開発に力を入れ、東海道線から長浜、敦賀を通る鉄道が1906年に福井、1907年には小松まで開通した。鉄道の開通に伴い流通が鉄道に移行し、三国湊が衰退し始めた。
 九頭竜川沿いのかもめ通りを歩く。ところどころに短冊形の屋敷地や建物が見られるが、建て替えられた大きな倉庫、古めかしいビル、空地が多かった。三国湊の面影は感じられない。
 街中の三国湊きたまえ通りを歩く。こちらはかつての面影を残した商家をいくつも見つけることができる(写真)。
 平入りの1階の庇は緩くカーブしている。当時はモダンなデザインだったのではないだろうか。1階、2階の格子戸は歴史を感じさせる。2階の両側に伸びだした小壁は、豊かさを示すうだつのようだ。
 片流れ屋根の2階は奥行きが短い。ほかでは見られない特徴的なつくりで、「かぐら建て」と呼ばれるそうだ。
 少し先の旧岸名家に解説があった。岸名家は材木商を営んだ豪商だった(写真)。通り側前面の平入りは表屋と呼ばれ、奥に切妻造妻入の主体部が延びている。切妻造り・妻入りの主屋に平入りの表屋を設けたのがかぐら建てと呼ばれるようだ。
 旧岸名家の表屋2階は高さを抑えているので切妻屋根が見えるが、最初に見つけた町屋は切妻屋根が見えないほど、表屋2階が高い。たぶん、2階の使い勝手を考え、2階の天井を高くしたためであろう。
 旧岸名家の壁は赤みを帯びている。弁柄を用いているようで、豪商として栄えた歴史をうかがわせる。


 道なりに歩いた先に洋館を見つけた。旧森田銀行本店である(写真)。廻船業で富を成した森田家の当時の当主が、鉄道開通による廻船業の衰退を予見し、1894年、森田銀行を設立した。先見の明があったといえる。優良銀行として成長し、1920年に西欧の古典主義的な外観の本店が完成した。
 内部は吹き抜けで、天井には漆喰彫刻が施され、イオニア式オーダーを乗せた大理石の円柱が2階の回廊を支えている。人々はこの建物を見て安心してお金を預けたに違いない。
 設計は東京帝国大学卒の山田七五郎(1871-1945)である。山田七五郎は1911年竣工の長崎県庁、1914年の長崎市役所、1917年の横浜市開港記念会館などが知られる。その山田氏に銀行のデザインを頼んだのだから、森田銀行の成功ぶりが想像できる。
 未来の三国湊=坂井市三国町の繁栄、第2、第3の森田を期待したい。 
(2023.1)


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「超高速 参勤交代」三日目~五日目斜め読み

2023年01月15日 | 斜読
三日目  湯長谷藩一行7人は磐城街道から水戸街道を抜け、土浦宿近くの廃寺に着く。亥の刻(夜の10時ごろ)、駈け通しだったので一行は眠りこけていた。
 約束の金10両を受け取った段蔵はそっと起き、霞ヶ浦に面した木原村へとひた走る。5年前に別れた30になる妻・松と6歳の娘・美代が暮らす粗末な家に忍び込む。


 かつて段蔵は酒に溺れ、美代に暴力を振るったことで美代は左目の視力を失っていた。松は美代と実家に帰ったが不幸が重なり、一家は離散して悲惨な暮らしだった。段蔵は松に土下座して罪をわび、10両を渡して出て行こうとする。松に起こされた美代が赤い折り鶴をお守りといって段蔵に渡し、仲良しはいるの?、一人はさびしいよ、私は仲良しがいるよ、と言う。
 家を出た段蔵は、自分の愚かさを自嘲する。突然、湯長谷藩一行の「我らは仲間だ」の声が脳裏によみがえる。懐の小刀に触れ、微笑む政醇の顔を思い出す。段蔵は猛然と駆け出す。青木・高坂の襲撃に間に合うか?・・土橋流筆裁きにハラハラさせられる・・。


 湯長谷藩一行6人は廃寺で眠りこけていた。そこを20人ほどの野盗が襲いかかる。湯長谷藩一行は竹光なので戦えない。逃げ出したところ、公儀隠密の青木・高坂が待ち構えていた。
 挟み撃ち、多勢に無勢、相手の知り尽くした土地、これまでと覚悟したところに、段蔵が現れる。大きな黒布で野盗の放った弓を防ぐ。火炎が袖から5・6mも飛び出し、くさびのように飛び回る紅雀と呼ばれる術で野盗を攪乱、野盗の頭領を棒手裏剣で倒す。


 三日目は、段蔵の取り返しのつかない過去と、湯長谷藩一行のぬくもりに目覚めた段蔵が主軸である。
 馬を走らせ牛久宿・旅籠鶴屋に着いた政醇は飯盛り女お咲が出会う。政醇・お咲の話は四日目に展開する。


四日目  冒頭は湯長谷藩江戸屋敷で、琴姫が沙耶の着物や化粧道具を処分させ、320両になった話、この320両が五日目に役に立つ。
 舞台は牛久宿の政醇に変わる。湯長谷藩一行が約束を過ぎたのに着かない。いらいらする政醇を、お咲が閉所恐怖症を治すといって押入れに押し込む。お咲の優しさを感じながらも、お咲の誘惑を自制する。
 話を飛ばし、夕刻、お咲が政醇に精魂込めた料理を用意する。お咲の生い立ちを聞き、ついに政醇はお咲と床を一緒にする。
 話が戻る。段蔵は湯長谷藩の6人を引き連れ走るが道を誤り、牛久の2つ先の藤代に着いてしまった。湯長谷藩の6人は取手宿に向かい、段蔵だけ政醇のいる牛久に引き返す途中、激しい頭痛に襲われ、休もうとして意識を失う。
 
五日目  政醇はお咲に心を引かれるが、今日の戌の刻(午後8時ごろ)までに江戸城に入らなければならない。後ろ髪を引かれながら取手宿に向かうが、段蔵とすれ違ってしまう。


 取手宿の手前の原っぱで政醇と段蔵の到着を待ちわびていた湯長谷藩6人には、頼んでおいた中間が遅れてきた分の手間賃を払え、金が無いなら行列道具をいただく、といって去ってしまう難題が起きていた。
 殿・政醇が到着しない、行列もできない、切腹もできないとうろたえているところに、磐城平藩の行列がやって来た。頭を下げていた家老・相馬に藩主・内藤政樹が声をかける。老中・信祝の命による5日での参勤を聞いた政樹は、政醇にはいつも世話になっている、200人を超える磐城平藩の行列を自由に使えと話す。
 磐城平藩は上がり藤なので、相馬のとっさの機転で、上がり藤を逆さにして下がり藤とし、取手宿に入る。


 そこへ、仙台藩62万石伊達吉村の行列がやって来た。・・土橋氏は次々と難題を用意する・・。小藩は大藩に道を譲らねばならないが、2000人を超す仙台藩を待っていると刻限に間に合わない。またも相馬の機転で、内藤政樹に行列を頼み、湯長谷藩6人は 褌姿の飛脚に化け仙台藩の行列を走り抜ける。
 仙台藩の行列が通り過ぎるまで止まっていた湯長谷藩を装う磐城平藩・内藤政樹に、伊達吉村は駕籠を止め、政醇は若いころ当藩で武者修行した、秋保の湯にも案内させたなどと話しかける。政醇になりすました政樹は、伊達殿と同じ陸奥の生まれ、幕府は飢饉ののちも陸奥に冷たい、と応じる。
 取手宿を過ぎた伊達吉村は、忍者集団黒脛巾組(くろはばきぐみ)頭領・横山隼人に江戸に行けといくつか指示する。横山は行列に先行して様子を探り、磐城平藩が湯長谷藩を装うからくりを吉村に報告していた。にもかかわらず伊達吉村が湯長谷藩・内藤政醇になりすました磐城平藩・内藤政樹の芝居につきあったのは、老中・松平信祝の仙台藩・一関の年貢取り立てを厳しくとの命に怒り心頭だったからである。


 土橋流筆裁きのハラハラはまだ続く。政醇の思い出に浸っていたお咲を公儀隠密・青木・高坂が捕らえ、政醇の行き先を聞き出そうと手痛く拷問する。お咲の悲鳴を聞きつけた段蔵が駆けつけ、大量に血を吐き、気を失いかけているお咲を医者に運ぶ。
 昼ごろ、取手宿を歩いていた政醇に、お咲から行き先を聞き出した青木と高坂が襲いかかる。政醇は神夢想流の使い手だが二人に一人で苦戦し、苦無を背中に受け危ういところに段蔵が現れる。段蔵は政醇を抱きかかえて沼に飛び込み、火遁の術で逃げ切る。
 青木と高坂は男色で、取手宿近くの納屋で絡み合っていたところに、尾行していた政醇と段蔵が現れる。青木・高坂はお咲を拷問したことを自慢げに話す。怒った政醇は高坂小太郎の腕を切り落とし、首謀者が松平信祝と白状させる。


 雨の中、政醇と段蔵は全力で走り、利根川近くまで来る。政醇は、心から寛げると感じたお咲の生死が気になり、牛久に戻ると言い出す。段蔵は必至に説得し、自分の暗い過去を打ち明け、政醇を思いとどまらせる。政醇いわく「人は弱い者よな」、段蔵「弱くなければ、人の世を生きるとは随分とつまらぬもの」と答える。
 利根川は氾濫し、船も止まっている。段蔵一人なら泳ぎ切れるので政醇は大胆な計画を段蔵に託し、段蔵は川に飛び込む。
 湯長谷藩江戸屋敷に相馬ら6人が倒れ込むように到着する。そこへ裸馬が突っ込み、段蔵が転げ落ちた。段蔵は、下がり藤の懐刀を琴姫に見せ、政醇の秘策である琴姫が政醇になりすまして登城、遅れて利根川を渡った政醇が江戸城で琴姫と入れ替わる作戦を伝える。兄思いの琴姫は不服ながら髷を結い、沙耶の化粧道具などの320両で武器を用意させる。


 琴姫と相馬が出立して四半刻(30分)後、政醇が江戸屋敷に着く。平川御門を目指して馬で走る政醇を、50人の江戸城御庭番が取り囲む。政醇の名刀・和泉守国定が5人を切り倒す。
 政醇とともに屋根を飛ぶように走ってきた段蔵は御庭番に火遁の術を使うが、よろめき膝をつく。御庭番衆が段蔵を襲おうとしたとき、湯長谷藩の武士が武器を手に現れ、御庭番を次々と倒す。仲間思いの強い湯長谷藩の武士に声をかけられた段蔵は、戦闘呼吸法で立ち直り、心の中で「お美代、これがおまえの父ぞ」と叫びながら、御庭番を倒していく。新たに現れた鉄砲隊を、鈴木吉之丞が剛弓で倒す。
政醇、段蔵が一橋門を抜け平川御門に着くと、老中・松平信祝の命を受けた警護隊である鉄砲百人組が待ち構えていた。政醇は「真の刃は小さくとも必ず刺さる、信じてついてこい」と、一直線に切り込んでいく。段蔵も四方八方に手裏剣、撒菱を投げるが、2人と100人では限りがある。
 そのとき伊達藩黒脛巾組・横山隼人が水遁の術の一つ、霧隠の術を用いて現れた。霧が晴れると、横山配下の40人の鉄砲隊がいっせいに銃撃し、警護隊は大混乱になる。
 政醇、段蔵は白鳥堀に面した石垣を登り、石垣のあいだに段蔵が開けておいた横穴に入る。閉所恐怖症の政醇は、段蔵の「お咲」の言葉に奮い立ち、横穴を抜け、大奥の庭にたどり着く。
 大奥から下御鈴廊下を通り、つきあたりの座敷の天井裏に上がり、黒書院の天井まで進む。


 政醇を横穴に入らせたとき、段蔵は夜叉丸の矢を受ける。段蔵は夜叉丸の執拗な攻撃を受け傷を負いながら戸隠流秘奥義・鏡返しで夜叉丸を倒すが、警護隊が追いつく。段蔵は「さらば」と爆死する。石垣には赤い折り鶴と懐刀と白い梅が残されていた。


 五日目は大詰めで話が前後する。老中部屋の松平信祝は夜叉丸からの報告で、登城した政醇は影武者ではないかと疑う。
 政醇(琴姫)は、8代将軍吉宗との謁見の場である総赤松造190畳の黒書院の一番後ろに控えた。まだ吉宗は現れていない。そこに信祝が寄ってきて鼠をなぶる猫のように政醇(琴姫)を愚弄し、うなじの白さに気づく。
 政醇は黒書院の天井板をずらして信祝に嘲弄される琴姫を目にし、段蔵から預かった煙玉を投げつけるが、煙が出ない。そこに将軍吉宗が現れ、上座に座り、政醇(琴姫)に声をかける。
 そのとき、謁見のさなかにもかかわらず信祝が湯長谷藩の参勤は物乞いのような行列だった、武士の規律を守らせる立場の老中首座・松平輝偵にも責任がある、と口をはさむ。
 輝偵は、水戸・徳川宗翰からの書状で、高萩宿での勇ましい行列、愉快な猿舞を話す。なおも反論する信祝に、吉宗が、仙台藩・伊達から届いた2000名を越える整然とした行列の話をし、信祝を大喝した。
 信祝が政醇は替え玉で女と言いかけたとき、琴姫は緊張のあまり失神しそのはずみで煙玉がはじく。黒書院に煙が満ち、吉宗は避難する。政醇は飛び降り、信祝を渾身の力で殴り、女中のかつらをかぶせる。気づいた琴姫は女中の着物を着て竹の廊下へ逃れ、政醇は琴姫が脱いだ裃を着る。
 煙が消え、吉宗以下全員が黒書院に戻る。政醇は吉宗に挨拶し、女中のカツラをかぶった信祝を我欲が尽きないと名指しし、白水村の山から黄鉄鉱が出たが金に似ていて慌て者が金と勘違いしたらしいと話す。
 吉宗が幕府の要職にある者が私利私欲に走るなど許さぬと話し、黒書院は幕となる。
 
 五日目は物語の終演、一日目から四日目までの展開が凝縮され、読み手は一気に読み通す。これが土橋流なのであろう。


六日目  湯長谷藩7人が傷を負いながらも列を組み、帰路につく。そこに吉宗が現れ、信祝の不正の証をつかむため、湯長谷藩を見込んで無理な参勤をしてもらったと告白する。
 湯長谷藩を見込んだのは、政醇の献上した大根の漬け物と笑う。
 六日目は後日譚である。
 
終章 吉宗の享保の改革を紹介したあと、政醇が早馬で牛久に向かい、瀕死の重傷から峠を越えたお咲に会い喜び合ったところで物語の幕を下ろす。
 映画を思い出しながら何度も読み返して物語の展開をまとめているうちに長いあらすじになってしまった。次に映画が放映されることがあれば、この斜め読みを読みながら映画を見ると、映画をもっと楽しめると思う。 
(2023.1)
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「超高速 参勤交代」一日目~二日目斜め読み

2023年01月14日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book545 超高速! 参勤交代 土橋章宏 講談社文庫 2015
 一日目~二日目


 だいぶ前にテレビで放映された「超高速! 参勤交代」を、晩酌しながら見た。権威に執着する老中の企みを陸奥国の小藩が知恵と工夫で乗り切る展開で、痛快だった。年末年始に読む本を探しに図書館に出かけ、同名の本を見つけた。「原因は何だったのか、参勤交代の途中で何が起きたのか、結末はどうなったのか」が曖昧にしか思い出せない。晩酌のせいか?。改めて読むことにした。
 なんと、「超高速! 参勤交代」のおおもとは、2011年、新人脚本家を発掘するために制定された「城戸賞」を受賞した土橋章宏氏(1969-)の脚本で、直ちに映画化に向けて手直しされる一方、土橋氏は同名で小説化し、本は2013年に出版され、映画は2014年に公開されたそうだ。同じ脚本を元にしているとはいえ、映像の展開と文章の展開は大同であっても大異も多い。映画も楽しんだが、小説も楽しめた。
 
序章で、舞台設定と主人公の人となりが描かれる。舞台は、現在の福島県小名浜湾に面した湯長谷藩、1万5千石4の小藩だが領民は明るく、江戸300年のあいだ一度も一揆は起きなかった。主人公の4代藩主内藤政醇は領民の暮らしに気を遣い、慕われていた(実在の内藤政醇は1711-1741、30歳で没しているから、物語には土橋氏の空想が織り込まれているようだ)。


一日目 享保20年1735年、25歳の内藤政醇は、居合い術を極め、名君と誉れが高いが、閉所恐怖症だった・・理由は三日目に詳しく述べられる・・。
 湯長谷藩は貧しく、享保の大飢饉の困窮が続いていて、政醇は麦入りの飯に大根の漬け物、漁師からもらった小さな鯛の塩焼きといった質素な食事を喜んで食べていた。
 政醇は困っている者を見ると放っておけない性分で、大飢饉のとき、北隣の内藤家の本家筋にあたる磐城平藩に金や米を分けたこともあった。
 算盤が得意で几帳面な城代家老・相馬兼続は、享保の大飢饉以来の財政困窮を打開しようと、金、銀の試掘をしていた・・もちろん政醇と相談のうえだが、これが超高速 参勤交代の原因・・。
 
 相馬が政醇に財政の厳しさを説明しているところに、江戸から早駕籠と馬を乗り継いで息も絶え絶えの江戸家老・瀬川安右衛門が、倒れ込むように到着する。瀬川は、5日後の戌の刻までに江戸に参勤せよとの上様=徳川8代吉宗(1716-1745)のお達しを伝える。
 湯長谷から江戸までは60里≒240km、行列を連ねての参勤は急いでも8日かかるのに5日で参勤せよとのお達しである。参勤交代は1年おきが定めで、前年、借金までして参勤交代の勤めを果たしたばかりで、参勤の費用は底をついている。


 老中・松平信祝(実在の信祝は下総古河藩主→三河吉田藩主→遠江浜松藩主、1638-1744、吉宗の享保の改革に参与した実力者)が、湯長谷藩の金山の情報を得て無理難題を押しつけ、湯長谷藩を取りつぶし、金山を我が物にしようと企んでいるらしい。
 政醇は、民の困窮を忘れて私欲にまみれているのは許せん、5日のうちに江戸に行き、老中の肝をつぶしてやる、と激怒する。
 江戸では、老中・松平信祝が御庭番・甲賀流夜叉丸に金山を手に入れたら芋侍には骨になってもらうと話す。土橋氏は、信祝を、弱い者をさらに不幸にすることに興奮する人物、として描いている。
 信祝に金山の報告した公儀隠密・伊賀者の青木虎之助と高坂小太郎が、湯長谷の野湯で、政醇を参勤の途中で殺害する算段を話す。その話を、気配を殺した手練れの戸隠流・雲隠段蔵が聞く。


 家老の相馬は、費用が乏しいうえ正味4日しかないので、高萩宿と取手宿は渡り中間を雇い大名行列の偉容を見せ、ほかは雲隠段蔵の手引きで山間部を野宿しながら走る計画を立てる。
 大名行列に必要な打物、鋏箱、具足櫃などは空にし、竹光の刀、穂先のない槍、二つ折りの弓を携え、野山で猪、兎を捕り料理することにする。
 政醇は享保12年1727年に上野沼田藩主黒田直邦の娘・沙耶と祝言をあげたが、沙耶は政醇と気が合わず、江戸の華やかな暮らしに溺れて散財していた・・沙耶はこの物語に直接関与しない・・。
 江戸屋敷には、政醇とうり二つの妹・琴姫がいる。琴姫はお転婆だが政醇と気が合う・・終盤、琴姫が政醇の身代わりをし危機を救う。
 
一日目は、物語のきっかけ、登場人物、およその筋書きを読み手に伝えるため、盛りだくさんである。映画では盛りだくさんな内容を映像化しにくい。映像と小説は大同・大異にならざるを得ない。


二日目 明け六つ=6時ごろ、湯長谷城表門前に藩主・内藤政醇、家老・相馬兼続、武具奉行・荒木源八郎、膳番・今村清右衛門、側用人・鈴木吉之丞、祐筆・増田弘昌、馬廻・増田弘忠、道中案内・雲隠段蔵の8名が勢揃いする。
 8名で100名を超える行列のどのように演出するのか。読み手を興味津々にさせる土橋流筆裁きが始まる。
 忠醇は閉所恐怖症なので馬に乗る。駕籠のなかは猿の菊千代が乗っている。その8名を、隠密・青木虎之助と高坂小太郎が尾行する。


 磐城街道を進み、高萩宿手前で大名行列のいでたちに着替えたところに、渡り中間の頭・田中を始め50人が集まる。通常は100人の行列だから、まだ50人ほど足りない。知恵者の相馬の作戦は、まず目貫通りを二列で進み、目貫通りが途切れたところで二列は右と左に分かれて脇道を大急ぎで戻り、行列の最後部に合流する、という大芝居である。
 大芝居は成功、と思ったところに徳川御三家・水戸3万5千石藩主・徳川宗翰の行列がやって来る。格上の行列を湯長谷藩の行列が見送っていると、宗翰8歳の駕籠が止まり、政醇の駕籠に声をかけたのである。駕籠のなかは猿の菊千代である。とっさに政醇は山彦の術と呼ばれる腹話術で応答し、難を乗り切る。
 と思いきや、菊千代がキイツと鳴いてしまった。万事休すか。驚く宗翰の前で、相馬がキイッキイッと奇声を発して踊り出した。両家の行列、集まった町民が呆気にとられるなか、相馬は顔を赤くしキイッキイッと言いながら踊り続ける。宗翰が問い詰めると、相馬は幸運を呼ぶとして国許で流行っている猿舞、宗翰様のよき運を願って踊った、と答える。納得した宗翰は相馬をねぎらい、立ち去る。


 難題を切り抜け、高萩宿を出た湯長谷藩の8名は大森宿近くから山に入る。段蔵に手ほどきを受けながら走り、久慈川のほとりで休む。段蔵が捕らえた小動物、山芋を料理し、酒を飲み交わす。
 離れた草むらで青木虎之助と高坂小太郎が、ここで何人か斬ろうと話している。そこに音もなく段蔵が現れ、牛久で道案内の金をもらったら消えるから、それまで手を出すなと伝える。段蔵が裏切ったら参勤は失敗する。土橋流は読み手を心配させるのもうまい。
 野宿の準備をしていた相馬は政醇に馬を用意し、待ち合わせは牛久宿の鶴屋、明後日早朝、と話しているところに段蔵が戻ってくる。
 湯長谷藩の面々は、段蔵に「もう仲間、湯長谷で暮らそう」などと話す。政醇も、「領民のために参勤は成功させねばならぬ、藩の存亡はお主にかかっている」と話し、内藤家の家紋である下がり藤が描かれた家宝の懐刀を渡し、馬で走り去る。・・下がり藤まで伏線とは・・。


 江戸・老中の部屋で、夜叉丸が信祝に、隠密・青木、高坂から政醇の行列が雲隠段蔵の道案内で五日以内に江戸到着の知らせを伝える。信祝は夜叉丸に、飢饉の窮状を訴えた一関の親子を殺せ、一関の年貢取り立てをさらに厳しくせよ、段蔵を殺し湯長谷藩の行列を食い止めよ、と命ずる。
 夜叉丸は、信祝の民の暮らしをみじんも考えない権力への欲に戸惑いながらも、兄・鵜飼鬼丸は雲隠段蔵に敗れ命を落としていて、兄の仇を討とうと決意する。


 二日目は、高萩宿通過の第一難関を乗り越え、どこまでも明るい湯長谷藩の一行と、民の暮らしを考えない信祝、といった善悪の構図を軸に、段蔵(裏切り?)、夜叉丸(段蔵は兄の敵)、青木・高坂の忍びがからむ。政醇夫人・沙耶は実家に戻り、妹・琴姫の武勇も挿入される。 
 土橋流筆裁きは奇想天外、愉快痛快。
 つづく (2023.1)
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