yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.3静岡 浜松城を歩く

2024年01月24日 | 旅行
日本を歩く>  2023.3 浜松城を歩く

 伊良湖岬の宿を9:00過ぎにチェックアウトし、太平洋=遠州灘に沿った国道42号線を浜松に向かって走る。90分ほどで静岡県に入り、間もなく国道1号=東海道に合流する。ナビに従い走っていると国道1号は浜名バイパスになり、また東海道に戻り、そのうち東海道は国道257号、ほどなく国道152号=飛龍街道と名を変える。
 道路名が変わるが、気にせずナビの案内で走っていると風景が市街地になり、車の流れが悪くなってきた。ナビを見ると先に浜松市役所があり、市役所の北がゴールの浜松城である。左車線はノロノロで、どうやら浜松城の駐車場に入ろうとする車の大渋滞のようだ。
 伊良湖岬を出てからおよそ120分かかった。時計は11:00過ぎ、人出の多い時間帯である。浜名湖・舘山寺温泉に泊まっていれば渋滞の前に着けただろうからこれも旅の反省にしなければならない。浜松城駐車場を諦め、右車線に移り、六間道路を右折し、浜松城から少し離れた駐車場を探して車を止めた。
 浜松城に向かって歩いてるとき元城町を通った。後述するが、元城町は徳川家康が浜松城を築く以前の城跡で
、東照宮が建立されている。帰りに寄ることにした。塞翁が馬、遠回りのお陰である。元城町を西に歩くと、国道152号=飛龍街道に出る。駐車場の先の丘の上に浜松城がそびえている。市街地の標高は4~5m、元城町あたりの標高は10~m、浜松城の建つ丘の標高は42.2mなので勇壮さが目立つ。

 15世紀ごろ、現元城町あたりに曳馬城=引馬城が築かれていた。築城者は不明らしい。1514年、今川氏配下の飯尾氏が城主になる。1560年の桶狭間の戦いで今川義元は織田信長軍に討ち取られ、今川氏は衰退する。信長と同盟を結んでいた松平元康=徳川家康(1542-1616)が曳馬城を攻略する。1570年、家康は武田軍の侵攻に備えて岡崎城を嫡男信康に譲り、曳馬城に移って城を西南に拡張するとともに曳馬=引馬は縁起がよくないので浜松城に名を改める。
 1573年、家康は三方原で武田信玄軍に敗北し、浜松城に逃げ戻る。武田軍は浜松城まで追撃してきたが引き返し、三河に侵攻するも間もなく武田信玄が病没する。危機を乗り越えた家康は浜松城の拡張、改修を進め、城下町も整う。家康は1586年に駿府に移る。
 家康以後の浜松城は家臣、譜代大名の居城になる。もともとの天守は17世紀に消失したらしく二重櫓?が代用されたが、明治維新後の1873年に出された廃城令で解体された。その後、三の丸、二の丸の宅地化が進む。1950年、天守台、天守曲輪、本丸の一部が浜松城公園となり、1958年、天守台に鉄筋コンクリート造の復興天守が建てられた。

 浜松城公園は大勢の来訪者で賑わっていた。大河ドラマにあわせイベントも開催されている。枝振りは細いが桜も見ごろである。人混みを縫って天守を目指す。
 天守曲輪の石垣は野面積みで、威圧感はない(写真)。武田軍に備え、大急ぎで築いたためだろうか。発掘調査で石垣高さは3.2m、石垣の上に土塀を築いていたと推定されている。
 石垣を回り込み、2014年に復元された天守門(写真web転載、天守曲輪からの眺め)から天守曲輪に入る。天守門は瓦葺き入母屋屋根の楼門である。軽快な印象である。
 天守曲輪は東西56m、南北68mとあまり広くなく、一隅に1辺21mのいびつな四角形の天守台が築かれている。もともとは天守台にあわせて天守が建っていたが、復興された天守は天守台の2/3ほどに縮小されて建てられたそうだ(写真)。
 瓦葺き入母屋屋根で、石垣の中に地下1階があり、天守台の上に地上3階が建ち、2階3階は白漆喰壁、1階は黒板壁でこぢんまりしているがどっしりとしている。
 3階の展望台に上る。外に回廊が設けられていて、天守曲輪の満開の桜、その先の浜松城公園、さらにその先の浜松市街を遠望できる(写真)。いまは高層ビルが所狭しと並んでいるが、家康の時代は遠くまで見晴らすことができただろうから、浜松城は城としては小さくても戦略的に有利だったようだ。家康に先見の明ありということであろう。
 2階は歴代城主などの解説、1階は家康の足跡などの解説、地下に展示されている井戸を見て、天守曲輪に出る。

 天守曲輪の北側の石段を下り、日本庭園を抜け、国道152号=飛龍街道を渡る。国道152号より1mほど高い横道を上ると、石垣が残っていて、元城町東照宮の表示板の横に石の鳥居が建っていた(写真)。鳥居の扁額にも元城東照宮と記されている。
 鳥居で一礼する。境内の正面に銅板葺き入母屋屋根に唐破風をのせた小柄な本殿が建つ(写真)。祭神は徳川家康、事代主命=恵比寿、大国主命=大黒天である。二礼二拍手一礼する。
 境内には、2015年に製作された豊臣秀吉と徳川家康のブロンズ像が置かれていた。前述したが、15世紀ごろ、ここに曳馬城が築かれた。1514年、今川支配下の飯尾氏が城主になる。木下藤吉郎=のちの豊臣秀吉(1537-1598)は、16歳のころに曳馬城の支城の城主・松下氏に仕えたそうで、曳馬城に来たとき猿舞?を演じたとされる。藤吉郎は2~3年で松下氏を離れ、1554年に織田信長に仕え、のちに天下を統一する。
 今川氏衰退後に曳馬城を攻略した松平元康=徳川家康は、1570年に曳馬城に移ると現天守曲輪を本丸とした城に拡張整備する。家康は、秀吉没後に天下を統一する。曳馬城は2人の天下人にゆかりがあるということで秀吉+家康のブロンズ像が製作されたようだ。
 家康が浜松城に移ったあと、曳馬城跡は米蔵として利用された。明治維新後、浜松城代だった井上氏が曳馬城跡に東照宮を建てる。当初の東照宮は地域との縁はなかったが、元城町に神社がなかったことから井上家から移管してもらい、地域の神社として崇敬を集めた。1945年の砲火で本殿が焼失し、1958年に鉄筋コンクリート造で再建され、いまも祭礼行事が行われているとのことだった。
 時計は12:00少し前である。昼食には早いので、次の目的地である龍潭寺を目指す。 
 (2024.1)

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2023.3愛知 渥美半島を走る

2024年01月13日 | 旅行
日本を歩く>  2023.3 渥美半島を走る


 地理で、愛知県渥美半島は冬でも温暖で春の訪れが早いと習った記憶がある。まだ訪ねたことはなかったので、伊良湖岬に加え大河ドラマにあわせて整備された浜松城、中間の浜名湖・舘山寺温泉泊の旅を計画した。旅を終えて、伊良湖岬~浜名湖~浜松城はドライブが長くなり反省した。
 行程が長いので豊橋駅でレンタカーを借りることにし、初日、昼ごろに豊橋駅に着く。駅ビル・カルミアでランチを取りレンタカーに乗る。
 ナビに蔵王山展望台を入れ、豊橋駅前通りから国道259号線に右折する。市街は車が多かったが、市街を出ると流れはスムーズになる。国道259号線から田原街道に枝分かれし、県道28号線、県道399号線を経て、坂道を登ると標高250mほどの山頂に展望台が整備された蔵王山に着く(写真)。
 最上階の展望台に上る。ガラス張りの展望室で、360度の眺望が開けている。北西を眺める。渥美半島が暖かいせいか、今年は温暖なためか、桜が咲き誇り、その先に三河湾、その向こうに知多半島が遠望できる(写真)。西を見ると伊良湖岬、南~東には太平洋が広がっている。家族連れも多い。床に書かれたマップと照らし合わせながら360度の風景を眺める。
 途中階の四季が体感できるモーショングラフィックやエコロジーへの取り組みの展示などを見てから車に戻る。

 ナビに菜の花まつり会場の伊良湖菜の花ガーデンを入れ、蔵王山を下る。伊良湖菜の花ガーデンは渥美半島の南西になるので、渥美半島を横断して太平洋側の国道42号線に向かう。
 国道42号線は太平洋に沿った道路だが、海と道路のあいだは開発されていて海は見えない。温室がいくつも並ぶ。温暖、日当たりを活用した野菜、花卉の栽培だろうか。空地には菜の花が咲いていて、会場が近づいたことを予感させるが、風景は単調である。
 菜の花まつり会場の案内板を見つけ、道路の右=南に整備された駐車場に車を止める。駐車場は混雑はしていない。道路の左=北側が菜の花まつり会場で、スタッフの誘導で道路を渡る。入口アーチ横の受付案内で、スタッフが申し訳なさそうに菜の花の盛りは過ぎましたと言う。今年は暖かすぎたようだ。そういえば来場者も少なく、出店も引き上げてしまったようで数店が残っているだけだった。
 菜の花ガーデンを遠望する。勢いづいた緑の合間あいまに菜の花の黄色がパラパラと見える(写真)。パンフレットでは黄金色がまぶしいほどに一面が黄色に輝いている。盛りのころは壮観のようだ。
 菜の花のあいだの散策路を歩く。菜の花を背景にしたブランコや写真スポットが用意されていて、カップルが笑顔で記念の写真を撮っていた。菜の花が少なくても楽しめる若さを感じる。
 緩い勾配のなっちの丘に上る。芝すべり台が設けられていて、子どもに交じり若い女性がキャーキャー言いながらそりで滑っていた。なんでも笑える若さがある。そんな光景を見ていると、期待の菜の花が乏しくても元気になる。
 菜の花ガーデンを一回りしてから、海への小径を歩き、浜辺に出た。太平洋の波が押し寄せている(写真)。砂浜が伸びているが釣り人もサーファーも見当たらない。海辺の地形が釣りやサーフィンに向かないのだろうか。
 コーヒータイムなので太平洋を眺めながらコーヒーを飲みたいところだが、カフェはない。菜の花会場には菜の花ジェラートの出店はあったがコーヒーはなかったので、伊良湖岬に向かった。

 国道42号線を西に走り、伊良湖岬に通じる恋路ヶ浜の駐車場に車を止める。ホテルや魚介料理の店が並んでいるが、カフェはない。コーヒーは諦め、伊良湖岬灯台まで遊歩道を歩く。岬は隆起した岩が何層にもグシャッと重なっている(写真)。隆起する力はよほど強いようだ。
 岩場の上に高さ14.8m、白亜の伊良湖岬灯台が建つ(前掲写真)。1929年に建てられ、2002年に改築された。青い空を背景にした白い円形の灯台として人気があり、日本の灯台50選に選ばれているそうだ。灯台内は非公開のようで扉は閉まっていた。
 遊歩道を歩きながら、図解された解説板を読む。伊良湖岬は沖を流れる黒潮で平均気温が16℃と暖かく、黒潮が南方から運んできた種子が根付き、南方起源のハマナタマメ、ハマゴウ、ネコノシタなどが生育しているそうだ。
 別の解説板には、伊良湖岬を経て琉球列島、さらに東南アジアまで移動するタカ、ヒヨドリなどの渡り、渥美半島を中継基地にして紀伊半島、四国、九州、南西諸島、琉球列島、遠く台湾まで飛ぶアサギマダラの渡りが図解されていた。目の前に咲いている草花、ひらひらと飛んでいるアサギマダラ、空を飛ぶタカやヒヨドリの想像を超える遠大な旅に驚かされる。

 ふっと思い出し調べた。小学校で歌った「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷の岸を 離れて なれはそも 波に幾月・・」は、島崎藤村(1872-1943)の叙事詩「椰子の実」であり、藤村のこの詩はここ伊良湖岬・恋路ヶ浜を舞台としていた。
 実際に伊良湖岬で椰子の実を見つけたのは民俗学者柳田国男(1875-1962)で、柳田は「海上の道」を構想するのだが、藤村に黒潮に乗って流れ着いた椰子の実のことを話し、それを聞いた藤村が叙事詩を創作したのである。
 椰子の実を見つけて海上の道を構想する柳田、その話を聞いて叙事詩を創作する藤村、2人の異能ぶりには驚かされる。伊良湖岬の解説板から柳田、藤村を思い出すことができた。解説板に感謝である。駐車場に戻り、今日の宿に向かった。


 宿は国道42号線を少し戻った高台に建つ。部屋からも露天温泉からも恋路ヶ浜と伊良湖岬を見下ろすことができる(写真、翌朝)。灯台は丘に隠れて見えないが、太平洋をはるか彼方まで見通せる。
 ここを流れる黒潮に乗って椰子の実が流れ、ハマナタマメなどの実が根付き、黒潮に沿ってタカやアサギマダラが南を目指して渡ると思うと、遠大な気分になる。いい気分で地元の野菜、魚介の料理、地酒を堪能した。
 翌朝、黒潮を見下ろす(前掲写真)。潮の透明度が高いため青黒く見え、黒潮と呼ばれたことが実感できる。
 チェックアウト後、太平洋=遠州灘に沿った国道42号線を東に走り、静岡県に入り、浜名湖を過ぎ、浜松城を目指した。
 (2024.1)

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「居眠り磐音 陽炎の辻」斜め読み2/2

2024年01月10日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book560 居眠り磐音01 陽炎の辻 佐伯泰英 文春文庫 2019

第4章 大川火炎船 
 磐音は黒岩と天童を訪ねた源念寺で、毘沙門の統五郎に出会う。黒岩と天童に会いに来たようで、統五郎は匕首で磐音を襲い脇腹をこそぐ。なおも突っ込んできたところを磐音が斬り上げ、統五郎は絶命する。統五郎の持っていた結び文には「今宵にも今津屋吉右衛門を始末せよ 伊」と書かれていた。
 磐音は吉右衛門を警固して勘定奉行を訪ね、両替屋行司阿波屋有楽斎の背後にいたのは先任の老中備後福山藩阿部正右だったことを知る。帰り道に黒岩、伊勢屋、3人の浪人が現れる。3人が磐音に斬りかかるが、磐音は正面の浪人を深々と斬り、反転して1人の首を斬ると、もう1人は逃げる。黒岩が気配もなく磐音に斬りかかり、磐音が黒岩の剣を弾き返すが、黒岩は肩に脇腹に小手に眉間に変幻して襲ってくる。一瞬静止した黒岩の眉間を磐音の剣が断ち割る。伊勢屋は川に飛び込み、おぼれ死ぬ。

 磐音は今津屋で南町奉行所同心竹村に会う。江戸市中の南鐐は小判相当で1万両流通していて、伊勢屋は南鐐10枚を1両で買い取り4万枚の南鐐を集めていた。それを今津屋に持ち込めば南鐐8枚で小判1両だから5000両で兌換になり、阿波屋は1000両の儲けになる。放っておけば田沼意次の新貨幣政策、金銀相場統一はついえてしまう。
 今津屋は伊勢屋の通夜に出るので、阿波屋を始めとする敵対する両替屋と会うことになる。磐音は品川に指示を出してから、今津屋に同行して浅草妙高寺での伊勢屋の通夜に向かう。伊勢屋没後、伊勢屋の株は習わしでは一番先に申し込んだ越後屋の老分加三が引き継ぐが、阿波屋有楽斎は魂胆があるようで手元預かりにする。
 今津屋たちの帰りは屋形船で大川を下る。今津屋に南鐐が大量に持ち込まれた場合、1両8枚で兌換すると2枚の損が出るが、5000両までなら耐えられると話しているところに、天童と浪人が乗った2隻の緒牙舟が近づく。
 磐音は竿を切って8尺余の竹槍にし、飛び移ろうとした浪人の1人を川に落とし、2人目の腹を突き刺し、3人目も川に落とす。天童は松明を投げてきて、屋形船に火がつく。そこへ品川が船で駆けつけ弓矢で剣客2人を射る。天童たちは逃げ、今津屋一行は助かる。

第5章 雪下両国橋
 今津屋に女が南鐐8枚で1両への両替に来る。女は切賃=手数料20文も払う。南鐐は本物なので両替する。次々と客が南鐐8枚を1両に取り替えに来る。磐音は異変に気づき品川たちに両替した客のあとをつけさせる。その日の両替は小判に換算して357両、南鐐2856枚に達した。いよいよ敵対勢力の嫌がらせが始まった。吉右衛門は持ちこたえられるだけ頑張るという。
 尾行した5人が戻り、両替した客はみな浅草寺の隅の地主稲荷にお参りし賽銭を入れていたことが分かる。磐音たちが地主稲荷を調べていると、芝居小屋の木戸番がやくざの黒崎常五郎の三下もお参りしていたことを教えてくれた。磐音たちが黒鷲一家を見張っていると、裏口から出てきた番頭が駕籠に乗り、番頭に常五郎が重い包みを渡し、浪人2人が駕籠の左右についた。駕籠をつけると、本両替町の能登屋に入って行った。

 翌日は勘定奉行所金座方日村たちも見張りに来てくれていた。品川たちは最初に両替をした女をあとを長屋までつけ、黒鷲親分の手下に30文もらって両替をしたことを聞き出す。ほかの両替をした客にも仔細を聞き出し、書類にする。
 両替に来た青物売りの梅吉の南鐐が怪しいので日村が調べると、4枚は偽だった。梅吉は黒鷲一家に30文の手間賃で頼まれたと白状し、書類に署名する。磐音はとっさに策を考える。
 この日はおよそ400人が両替に来て、778両が交換された、持ち込まれた南鐐二朱銀は6224枚、うち651枚が偽金で、日村たちはその全員を取り調べ、書類に残した。

 磐音は、梅吉に「二朱銀4枚は偽物、証拠を買ってくれ」との文を書かせ、黒鷲一家に届けていた。丑三つ時、梅吉の住む裏長屋に浪人を含む黒鷲一家8人が現れ、梅吉に襲いかかる。が、寝ていたのは磐音で天秤棒で1人を倒し、もう1人も倒す。表に出た磐音に正面の浪人が八双に構え、もう1人の浪人が横に回る。磐音は正面の浪人の胴を叩き、腰骨を折る。横の浪人が突きの構えで襲ってくるが一瞬早く胴打ちにして倒す。子分は逃げ出す。磐音は残った常五郎を峰打ちして気を失わせ、今津屋に運び込んで勘定奉行所に引き渡す。
 今津屋での南鐐の両替は35720枚、支払った小判は4465両に上った。巷の闇値では1両=南鐐11枚まで値崩れしていて、阿波屋は1両=南鐐12枚まで下がったら買いためた南鐐を今津屋で両替しようともくろんでいるらしい。南鐐12枚で1両の交換なら今津屋は1両交換で南鐐4枚の損になる。田沼の改革を死守しようとするがどこまで持ちこたえられるか。
 それを聞いた磐音は相場を一気に下落させ、反撃に出ようと奇策を提案する。吉右衛門は奇策に不敵な笑みを浮かべる。その夕刻、江戸市中に「南鐐二朱銀大暴落・・新貨幣市場に流通せず・・」という闇の読売が撒かれた。磐音は、能登屋が読売を読んで阿波屋に入るのを見届ける。

 翌日、阿波屋の店に魚河岸の問屋月番行司千束屋らが現れ、1万両を南鐐に交換し、今津屋に持ち込んで南鐐8枚で1両に変えると話す。阿波屋は5000両を南鐐13枚相当に交換する。続いて芝居小屋中村座の座元が阿波屋に現れ3000両の交換を頼み、南鐐13枚相当で交換する。
 次に吉原の花魁髙雄が主の三浦屋と来て小判と南鐐の交換が始まったとき、勘定奉行川井、金座方日村の一行が船で乗り付け、南鐐を改めたところ偽南鐐が見つかる。実は前日、磐音が由蔵と魚河岸月番行司、中村座座元、吉原の三浦屋を訪ね千両箱を預けておいたのだった。川井が、偽南鐐を混ぜたうえ、南鐐二朱銀8片=小判1両の相場を下落させた咎は重い、有楽斎を捕縛し阿波屋の店は停止と言い渡したところ、有楽斎は逃げ出し行方をくらます。

 幕府の老中会議で、田沼意次が備後福山藩主阿部に両替屋行司阿波屋有楽斎が屋敷に駆け込んだという噂を聞いたが、いかがかと問う。その夜、備後福山藩中屋敷から密かに誰かを乗せた屋形船が大川を下る。磐音と品川が猪牙船であとをつけると、江戸の海に出て間もなく屋形船で悲鳴が上がり、誰かが海に落とされる。浮き上がった死体は阿波屋だった。
 南鐐二朱銀騒動が決着する。磐音と品川は今津屋から南鐐二朱銀を8枚もらい、用心棒の仕事が終わる。今津屋は1両13片で買い取った南鐐143000枚を1両8片で両替できるのだから6875両の儲けになるのに意外とケチと話ながら磐音と品川が帰る道に、天童が待ち構えていた。
 間合いは3間、天童が磐音の喉元に狙いをつけて襲いかかり、磐音が天童の突きを払う。脇腹に変化した天童の剣を磐音が防ぐと、天童は八双で磐音の眉間を狙い、磐音がその剣を跳ね上げると天童は袈裟斬りで襲う。磐音が小手斬りで応え天童の右手首の関節を斬るが、磐音も肩を斬られる。激痛に耐えながら磐音は上段撃ちで天童の眉間を割る。
 磐音の傷も深く、品川が磐音に肩を貸し医師源斎を訪ねる。手際よく傷口を縫合して止血してくれたが、なんと治療代は貰ったばかりの南鐐二朱銀2人分16枚で、2人は無一文になり幕が下りる。 

 人がらもよく誰からも好かれ、居眠り剣法の腕が冴え、機転が利いて南鐐二朱銀騒動を解決に導いた磐音の時代活劇といった展開である。田沼意次の財政再建策は教科書でも習い、映画やテレビドラマでも登場する話題だが、小判1両=南鐐二朱銀8片や江戸の両替の仕組み新たな知見になった。展開にハラハラドキドキの盛り上がりやスリリングな行き詰まる場面は少なく、物足りなく感じたが、肩の凝らない時代活劇だから51巻も続いたのであろう。 (2024.1)

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「居眠り磐音 陽炎の辻」斜め読み1/2

2024年01月09日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧> 
book560 居眠り磐音01 陽炎の辻 佐伯泰英 文春文庫 2019
 webで、佐伯泰英著「居眠り磐音 江戸双紙」シリーズが累計2000万部を超えるベストセラーになり、加筆修正を加えた決定版「居眠り磐音」シリーズが2019年から刊行されているのを知った。佐伯氏の筆裁きは歯切れがよく、検証を重ねた知見が織り込まれ、テンポのいい活劇に仕立てた物語が多い。「居眠り磐音01陽炎の辻」を読んだ。

 居眠り磐音こと坂崎磐音は豊後関前藩士で、江戸で高名な佐々木道場で修行した剣の達人である。冒頭に主な登場人物の紹介と、豊後関前藩地図、江戸地図が見開きで挿入されていて、磐音の行動が理解しやすい。
 第1章 向夏一石橋、第2章 暗雲広小路、第3章 騒乱南鐐銀、第4章 大川火炎船、第5章 雪下両国橋と展開する。「第1章 向夏一石橋」の舞台は豊後関前藩で、主人公・磐音が佐々木道場でともに修行した幼馴染みを斬ることになった話が描かれる。
 第2章~第5章の舞台は江戸で、浪人になった磐音が両替商の用心棒を頼まれ、田沼意次が進めようとしている財政再建、上方の金と江戸の銀相場の統一のため南鐐二朱銀=1両に反対する勢力の騒乱に巻き込まれ、気持ちの優しさと凄腕の剣と機転の利く動きで騒乱を解決する話である。

第1章 向夏一石橋 
 明和9年1772年4月下旬、幼馴染みの坂崎磐音、河出慎之輔、小林琴平が前後して江戸への勤番、留学をし、佐々木道場で剣術修行を終え、いっしょに豊後関前藩に戻った。藩士・琴平には舞と奈緒の2人の妹がいて、舞は御手先組頭・慎之輔の妻、奈緒は磐音との祝言が控え、幼馴染みの3人は縁戚になろうとしていた。
 磐音の剣は、日向ぼっこをしている猫のように手応えのない構えで相手の攻撃をかわし続け、相手が根負けすることから居眠り磐音と呼ばれた。慎之輔は真っ正面から押していく剣技で、攻撃の予測がつきやすい。琴平は変幻自在の剣捌きで波状攻撃を繰り返すが、相手を見くびり反撃されることもあった。
 城下に入った3人はそれぞれの屋敷に向かう。磐音の帰国祝いで豊後関前藩の財政立て直し、外様大名の生き残る途が語られる・・徳川幕藩体制160年余、世の中の主導権は江戸と上方の商人になっていたことは歴史小説でよく語られる。佐伯氏も田沼意次が南鐐二朱銀で財政再建を進めようとする話を物語に織り込む・・。

 話は前後する。慎之輔の妻・舞と妹で磐音の許嫁である奈緒、岩根の妹・伊予は仲がよく、磐音たちが江戸勤番で不在のとき、先祖の墓参りをしそのあと料理茶屋で食事を終えたところに御番組頭山根家の次男・頼禎が奈緒に一目惚れしたと言い寄る。その後も反物、紅白粉などを贈って奈緒に面会を強要したので、舞が慎之輔の叔父の案内で頼禎に会い強く断った。間もなくして、舞が頼禎と密会しているとの流言が流れ始めた・・叔父の嫌がらせらしい・・。

 話を戻して、磐音たちと分かれた慎之輔を酒癖の悪い叔父が酒屋に誘い、舞と頼禎の密会を真実のように話す。真に受けた慎之輔は酒の勢いもあって、屋敷に戻るなり問答無用で舞を手討ちにしてしまう・・これは無謀すぎる・・。
 妹・舞の死を聞いた琴平が慎之輔の屋敷に向かうと、酔っ払った叔父が舞の不義の証人といいながら刀に手をかけたので、琴平は袈裟懸けに斬り倒す。舞の遺骸を運ぼうとした琴平に慎之輔が斬りかかり、琴平は慎之輔も斬り倒す。
 豊後関前藩国家老、目付頭は、琴平を捕らえて処罰し事態を収拾しようとする。琴平は山根家に侵入し頼禎も斬り倒す。上意討ちの命を受けた目付配下の武士5人が山根家に向かうが、逆に琴平に斬られる。
 駆けつけた磐音に琴平はもう後戻りはできないと言い、磐音と空しく視線を交わしたあと、2人の勝負が始まる。ひたすら攻撃する琴平の剣を磐音はかわし続けるが、琴平の刃が磐音の右手首を斬り、左肘、内股をえぐり、脇腹を斬る。磐音は居眠りの体勢に入り、琴平が八双で斬りかかった一瞬、磐音の剣が伸びきった琴平の胴を薙ぐ。琴平は事切れ、磐音も気を失う。

 第1章の紹介が長くなった。居眠り磐音シリーズは51巻も続いたそうで、佐伯氏は豊後関前藩での出来事や財政立て直し、許嫁・奈緒のことなどを「居眠り磐音」シリーズのほかの物語で登場する予定だったで、仔細に語ったのではないだろうか。

第2章 暗雲広小路 
 磐音は琴平に斬られた傷でひと月余り熱にうなされ、回復したあと、豊後関前藩に暇乞いし、ほぼ無一文で江戸に出てきて、大川に架かる新大橋の東の金兵衛長屋に住んでいた。
 江戸は1772年2月の明暦の大火以来の大火事で、大名屋敷169、寺社382を焼失、死者15000余、行方不明4000余の被害を出した。磐音は火事場の後片付け人足でなんとか暮らしてきたが、その仕事も終わってしまった。大家の金兵衛は磐音に鰻屋宮戸川の鰻割きの仕事を紹介する。磐音は、宮戸川2代目鉄五郎の前で豊後関前流の鰻の薄造りをつくる。江戸では鰻の蒲焼きを食べるので薄造りは向かないが、鉄五郎は磐音の包丁捌きを認め、のちに鰻捌きを手伝うことになり、日に70文を稼ぐようになる。

 老中田沼意次は、南鐐二朱銀8枚で小判1両とする財政再建、上方・江戸の相場統一を進めようとしていた。両替商今津屋吉兵衛は幕府の意向に沿って南鐐二朱銀を流通させようとしたが、金相場が崩れ利鞘で稼いでいた両替商が反発し、今津屋は脅されていて用心棒を探していた。金兵衛の娘おこんは今津屋の奥向き女中をしていたので金兵衛に用心棒のことを話し、金兵衛が稼ぎのない磐音を今津屋に連れて行くが、すでに丹石流市村道場の5人が雇われていた。
 帰ろうとしたとき、やくざ毘沙門の統五郎が南鐐二朱銀80枚を小判に両替してくれと現れる。今津屋が南鐐が偽と見破る。もめごとに市村道場の用心棒の1人が顔を出すと、いち早く統五郎が匕首で腹を刺す。市村道場師範代が剣を抜くがやくざの用心棒種市が師範代の胴を切り抜く。市村道場の竹村武左衛門と品川柳次郎は手が出ない。
 居合わせた磐音があいだに入ると、種市が八双の構えで磐音に斬りかかる。磐音は居眠りの構えで躱し、種市の次の剣を柔らかく跳ね返し、種市の先手を取って首筋を刎ねる。磐音の腕を目の当たりにした吉右衛門は磐音に用心棒を依頼する。
 市村道場主市村集五郎は竹村と品川を破門にし、やくざのような黒岩と天童を今津屋の用心棒にする。黒岩、天童の素性が怪しいとみた磐音は、破門になった竹村と品川に2人を尾行してもらい、2人がやくざ五大の力五郎の博奕場に出入りし、南鐐二朱銀と小判を交換していたことが分かる・・磐音は剣も立つが、直感も鋭い・・。

第3章 騒乱南鐐銀 
 話が前後する。金銀相場は本両替町の金座会で両替屋3組から派遣された手代12名で決める。手代12名の代表の両替屋行司は阿波屋有楽斎で、為替組と越後屋三井に通告、為替組から勘定所、御金蔵に書類をあげる決まりである。
 江戸の両替商は600株=600人で、両替商は基本的に利を追う商人なので南鐐二朱銀には反対だが、上方、江戸の金銀相場統一は国政上重要である。今津屋は幕府の南鐐二朱銀8片で小判1両とする政策を守ろうとするのに対し、反対勢力は密かに賭場などで南鐐二朱銀10片で1両に交換し、今津屋で1両を南鐐二朱銀8片と交換して南鐐2片を儲け、幕府の政策に逆らおうとしていた。
 ・・磐音が父の借金の形に女衒に連れて行かれそうになる娘を剣捌きで助ける話が挿入されるが、割愛する・・。
 用心棒の黒岩、天童は、両替商伊勢屋丹兵衛の口利きで伊勢屋の菩提寺である厳念寺の離れに住んでいた。2人の部屋代も伊勢屋が払っていた。伊勢屋は相場に失敗して、阿波屋に使われたらしい。さらに、有楽斎の背後で田沼に対抗する幕閣が動いているようだ。

 黒岩と天童を尾行していた竹村が、尾行がバレて斬られるが、名医厳原湖伯の手当で命は助かる。磐音は源念寺に出向き、黒岩と天童に今津屋の用心棒解雇を通告する。 
 続く

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