yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「がいなもん 松浦武四郎一代記」斜め読み2/2

2024年07月29日 | 斜読

 book562 がいなもん 松浦武四郎一代 河治和香 小学館 2018

6、武四郎、狙われる
 1884年夏、豊は父・暁斎から、武四郎が陶工・三浦乾也に頼んだ人形・妙楽菩薩像に絵付けをするので長命寺にある窯場に取りに行かされる。乾也に会うと、妹の加代が武四郎の女房だったが10日後に死んだと話す。
 そこに松浦老人が来たので豊がいきさつを聞く。かつて芝居茶屋のスミとお囃子方のあいだに乾也が生まれ、スミが水戸藩に女中で上がったとき水戸公とのあいだに加代が生まれる。スミは姉のマツと陶工・吉六に乾也と加代を預け、間もなく亡くなる。吉六は加代を連れて出奔してしまい、乾也は吉六から習った楽焼を焼いていて西村藐庵に見いだされ、頭角を現し三浦乾也を名乗る。殿の御前で焼き上げる乾也のお庭焼は、諸藩のあいだで評判になった。
 そのころ、武四郎は、蝦夷地探索を「初航蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」計35巻と「蝦夷大概之図」にまとめ、諸侯に献上した。日誌には松前藩のアイヌ人への暴虐、ロシアへの無策がありのままに記されていたので、松前藩の怒りを買うことになる。
 このころ武四郎は水戸藩士・加藤木賞三、三浦乾也と親しくなる。加藤木を通じて水戸藩主・徳川斉昭、藤田東湖にも蝦夷日誌が渡され、武四郎は幕府にも知られていく。
 1848年、ペリーが来航する。三浦乾也は黒船を見学し、対抗するには洋式軍艦が必要と模型をつくる。乾也の軍艦模型と武四郎の書いた建白書が老中・阿部正弘の目にとまり、乾也は(勝海舟に先立ち)長崎へ洋船建造の修行に行くことになる。江戸に戻った乾也に仙台藩が洋式軍艦・開成丸を造らせた。
 同じころ加代が射和の豪商・竹川竹斎の江戸屋敷にいた。武四郎が竹祭を訪ねたとき、加藤木が武四郎に加代を娶るように言い、竹斎も勧めたので、乾也が仙台から戻って祝言になる。
 2人が仲睦ましく過ごしていて10日ほど経った日、武四郎が家を空けたわずかなあいだに、加代は何者かに殺されてしまう。(証拠は無いが松前藩の仕業に違いない)、その後、武四郎の松前藩糾弾は激しくなる。
 ・・勝海舟が登場するが詳しくは描かれていない・・。

7、武四郎、国事に奔走する
 7節では、ペリー艦隊、ロシア艦隊が下田に来航した1853~1854年ごろ、松浦武四郎が奔走した話である。
 7節は、1885年正月、上野・護国寺の大国様の縁日から始まる。豊が護国寺に行き、松浦老人と養子の一雄(加藤木の3男)に会う。一雄の師匠は彫金の加納夏雄で、一雄は大阪造幣寮で発行する貨幣の彫刻を手伝っていた。
 豊の問いに武四郎が、黒船が来航した嘉永6年1853年の記憶を語る。36歳の武四郎を吉田松陰が訪ねてきて、蝦夷地の開拓について話しあい、武四郎は松陰を藤田東湖に紹介する。その後、武四郎は親友・鷲津毅堂から頼まれ、攘夷の勅命の沙汰書が下されるよう藤田東湖、吉田松陰の密書を持って京にり、誓願聴許の内諾を得て江戸に戻る。
 翌1854年、北方事情に詳しい武四郎は幕閣の要人から重視されていて、ペリー艦隊が下田に回ったときは宇和島藩からの依頼で下田での談判状況を調べ、情報屋として暗躍した・・このころ松陰が密航を企てて失敗し、囚人として江戸に送られている・・。
 プチャーチン率いるロシア艦隊が下田に来たときは、武四郎は幕府の要人の配下として下田に向かったが、大地震が起き、下田の町は全滅し、ロシア艦隊は大打撃を受けた、などの体験を豊に話す・・唐人お吉のことが挿入されるが、お吉が下田の領事館に上がったのは武四郎が下田に来た数年後で、接点は無いそうだ・・。

8、・・秘めおくべし
 8節は1885年の早春、武四郎が暁斎を訪ね、伊勢と奈良の国境の大台ヶ原に登る話を始める。武四郎は、旅の計画を立て、準備をし、旅をして、旅の記録を残すことが活力の源になっているようだ。
 話は武四郎の蝦夷地探検に飛ぶ。自力の蝦夷地探検が3回、幕府の御用で3回、計6回蝦夷地を探検している。(伊能忠敬、間宮林蔵は海岸線を踏破し、地図を作成するのが目的だったが)、武四郎は内陸奥深く入り、アイヌ人と交流し、寝食を共にして日誌に記録した。アイヌ人の神の山であるカムイ岳にも登った。樺太には2度渡り、北はツングース系が住むが、南はアイヌ人が住んでいることも見聞した。
 見聞したことはありのままに記録した。松前藩のアイヌ人に対する暴虐には心を痛め、とくに松前藩がアイヌ人を和人化しようとしていること、若い男を漁場に送り、若い女を妾にし、アイヌ人を根絶やしにしていることに悲憤をつのらせ、何度も箱館奉行所、江戸幕府に上申したが、松前藩の圧政、無策は変わることがなかった。
 2度目の蝦夷地探検で見聞した松前藩の現状を「秘めおくべし」として記録し、5回目の「丁巳日誌」、6回目の「戊午日誌」も門外不出とした。誰も信じられない、いつか歴史が明らかにする、という気持ちだったようだ。

9、武四郎、雌伏す
 9節は、1885年に武四郎68歳が大台ヶ原を踏破して、富士山も見えるという雄大な景色に感激し、墓は大台ヶ原に建てると言い出すところから始まる。ところが暁斎に頼んだ涅槃図がなかなかできあがらない。武四郎は豊に、涅槃図に書き込む蒐集品の写生をさせながら、蝦夷地探検の思い出を語る。
 榎本武揚のもとの名は釜次郎で、蝦夷地探索に参加した、桂小五郎=木戸孝允も坂本龍馬も西郷隆盛も蝦夷地開拓を聞きに来たなどなど、を豊に話す。
 箱館で5節に登場したソンに再会したが、ソンはギンと名乗り、アメリカ領事館に通っていて、アメリカ人は和人よりやさしくいい人、武四郎は通り過ぎていくだけ、と言って走り去ってしまった、と話したときの武四郎は遠い目になった。
 武四郎の著した「近世蝦夷人物誌」の板行は軋轢を避けた幕府から許可が下りなかったが、「東西蝦夷山川地理取調日誌」「東西蝦夷山川地理取調図」にアイヌから聞き取った9800の地名をカタカナで表記、漢字を当てて幕閣に提出し、貴重な資料になったこと、井伊大老暗殺後に武四郎が信頼していた堀織部正が切腹し、武四郎は失意のなか「蝦夷漫画」「天塩日誌」「石狩日誌」「知床日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」などの紀行文を書いたことなどを豊に話す。豊、武四郎、武四郎夫人の3人で笹之雪に豆腐を食べに出かけるところでこの節は終わる。

10、武四郎、北加伊道と名付く
 1886年3月、河鍋暁斎が足かけ6年かけた「武四郎涅槃図」を完成させる。松浦武四郎はこの絵を「北海道人樹下午睡図」と呼ぶ。豊が、蝦夷を北海道と名づけたのは武四郎かと聞くと、1865年4月、武四郎は京にいた大久保利通に呼ばれたときの話を始める。
 大久保の推挙で武四郎は箱館府判事に任命され、1869年6月に蝦夷新道開削の建白書を提出、7月に「道名之儀取調候書付」を提出する。武四郎は、アイヌの古くから呼び習わされたカイを入れ北加伊道を提唱し、のち北海道が正式名称になった、と話す。しかし、武四郎に対する開拓史の役人、旧松前藩、各場所の請負人からの反発が強く、1870年に箱館府判事を辞職する。信頼していた箱館府判事・井上からソンの消息が知らされ、武四郎は金子を託したが、ソンの行方は分からなくなり、井上も遭難で消息を絶ってしまった。
 明治新政府は、武四郎の建議に対し松前藩処遇、場所請負人制度には承知しなかったため、官位を返上し野に下った。以降、松浦武四郎は馬角斎を号とした。馬角斎=バカクサイ。 

11、武四郎、終活に邁進する
 1886年5月、松浦武四郎は神田五軒町の屋敷で天神様を祭る菅公祭を開く。河鍋暁斎、豊が末席に座り、貴賓席にジョサイア・コンドル、岩崎弥太郎、川喜多家16代・久太夫9歳が座る(幼馴染みで武四郎のよき理解者だった川喜多崎之助はすでに亡く、跡を継いだ長男も急死し、長男の子が跡を継いだ。崎之助の孫になる)。 宴席には河鍋暁斎による「北海道人樹下午睡図」が飾られ、参加者に披露された。
 武四郎は70歳古希の記念に富士山に登頂、続いて遺言状を書き、遺影用の写真も撮る。武四郎は、親友・鷲津毅堂(武四郎が京に密書を届けたときの首謀者の一人)の娘・永井恒の長男・壮吉(のちの永井荷風)とは遊び相手で、1888年2月、鷲津家に出かけたときに倒れ、大八車で家に戻っ数日後に息を引き取る。
 葬儀を終えた2月の終わり、豊が松浦家を訪ねたとき、家をのぞき込んでいた洋装で異人の夫婦に白いリキ丸が盛んに吠えた。気づいた洋装の女はリキ丸を抱き号泣する。この女性こそソンであった。紳士はヘーツといい函館で診療所を開いていて、ソンは結婚してディジーと呼ばれていた。2人は、新聞で松浦武四郎の訃報を知り飛んできたそうだ。
 武四郎没後のこと、記録のなかに登場した人々のその後、永井荷風のこと、豊が暁翠として東京女子美術学校初の女性教授になったことなどなどが記され、豊が没し、物語は幕になる。

 松浦武四郎が豊=河鍋暁翠の問いかけに記憶をたどって答える展開であり、節ごとの始まりは武四郎、豊の日常の暮らしから書き出されていくので、ほのぼのとした和やかな筆さばきを感じる。
 言い換えると、黒船が来航しロシア艦隊が南下している激動の幕末、松前藩は非業と無策に終始しているさなか、蝦夷地探検6回という偉業をなしとげ、アイヌ人と緊張感に満ちた交流をし、蝦夷地の状況を日誌と地図に残した松浦武四郎の波乱に富んだ生涯が淡々とし過ぎている。
 河治氏は、アイヌ人を救えなかった松浦武四郎の悲憤に同調し、穏やかな筆さばきを選んだのかも知れない。
 「北海道人樹下午睡図」は松阪市の松浦武四郎記念館に展示されているらしい。松阪市を訪ねる機会があれば、がいなもん・松浦武四郎の偉業を振り返ってみたい。  (2024.3)

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「がいなもん 松浦武四郎一代記」斜め読み1/2

2024年07月28日 | 斜読

 book562 がいなもん 松浦武四郎一代 河治和香 小学館 2018

 河治和香著「遊戯神通 伊藤若冲」は構想が独創的で筆さばきも軽快であり、若冲について多くを学んだ。柳の下のどじょう、河治著の「がいなもん・・」を読んだ。
 松浦武四郎(1818-1888)を知らなかったが、幕末~明治の探検家でアイヌ文化の研究に努め、のちに北海道と呼ばれる北加伊道の名を考案し、浮世絵師、著述家、好古家としても知られるそうだ。
 物語は、1、武四郎、世界を知る、2、武四郎、出奔する、3、武四郎、諸国を放浪する、4、武四郎、北をめざす、5、武四郎、アイヌと出会う、6、武四郎、狙われる、7、武四郎、国事に奔走する、8、・・秘めおくべし、9、武四郎、雌伏す、10、武四郎、北加伊道と名付く、11、武四郎、終活に邁進する、と河治氏の筆が踊り、軽快に読んだ。

1、武四郎、世界を知る 
 1883年、東京・湯島新花町に絵師・河鍋暁斎(1831-1889)が娘・豊(1868-1935、日本画家・暁翠)と住んでいた。暁斎を日本画の師と仰ぐジョサイア・コンドル(1852-1920)が訪ねてくる。続いて松浦老人=武四郎が訪ねてくる。松浦老人は饒舌で、話し始めたら止まらない。物語は豊の問いに松浦老人が応えるかたちで展開していく。
 松浦武四郎は、文化15年1818年、伊勢・須川村で生まれる。須川村は伊勢街道の出雲川の渡しの宿場町として栄え、松浦家は紀州和歌山藩の地士として村を治めていた。
 武四郎は7歳のとき、近所の真覚寺の寺子屋で来応禅師から読み書きのほどきを受ける。来応禅師は30余国を放浪していて、さまざまな国の出来事を少年たちに話したので、武四郎は老師のような坊さんになって諸国を旅し、不思議な霊力を身につけたいと、思う。
 伊勢神宮の60年に一度のおかげ年には全国からおかげ参りが押し寄せた。文政13年1831年、武四郎は13歳のときがおかげ年で、松浦家は伊勢街道に面していたのでおかげ参りを目の当たりにしたし、日常的に街道を往来する旅人を見ていたので、武四郎には旅が日常の風景になっていた。
 武四郎は旅人のなかに、飛ぶように歩く男を見つけた。男は、伊勢白粉で財をなした松阪商人発祥の地・射和で両替商を営む豪商・竹川家7代目当主竹川竹斎でだった。武四郎は竹川竹斎から、一日20里を歩く神足歩行術を習得する。
 武四郎は13歳で、津の儒者・平松楽斎のもとに弟子入りし、生涯の友となる川喜多崎之助と出会う。川喜多家は代々津藩銀札御用達を努めた屈指の伊勢商人で、武四郎は川喜多家に頻繁に出入りした。津の豪商・川喜多家と松阪の豪商・丹波屋は江戸店が大伝馬町で隣同士で、川喜多家が縁で丹波屋の長谷川家を武四郎が訪ね、竹川竹斎と再会する。
 武四郎は、竹斎が催す数寄者が名品珍品を持ち寄る物産会に誘われ、楽斎から譲られた羅馬=ローマの小銭を持って参加し、天竺の砂石に驚かされ、竹斎から見せられた新訂万国全図に目を見張り、朱線がキャプテン・クックの航路と聞いて世界を旅したいと思う・・武四郎の育った環境、出会った人々が武四郎の冒険心を育てた・・。

2、武四郎、出奔する
 豊が松浦武四郎に招かれ、伊勢から呼び寄せた武四郎の車夫・松平の人力車に乗って武四郎の家に着くと、武四郎は帝国大学に招聘されていたエドワード・モースが見たいというので蒐集した勾玉を広げていた。
 勾玉の一つは、家出のとき川喜多崎之助から貰ったそうだ。さかのぼって、武四郎16歳のときの12月の晦日、正月を自宅で迎えようと平松楽斎の家を辞し家に帰ろうとすると、楽斎が寒そうだからと頭巾を被せてくれた。武四郎は、帰る途中、道具屋十蔵の店をのぞいて日時計付きの懐中羅針盤が気に入ってしまい、楽斎に貰った小銭と頭巾を渡して懐中羅針盤を手に入れた。
 その頭巾は、楽斎が藤堂家より賜った黒羅紗に金糸の雨龍が縫い取りされた貴重な頭巾で、津では道具屋に楽斎の頭巾が売られていると大騒ぎになった。一方の須川村では武四郎が消えてしまう。行方を捜していると、崎之助が武四郎の「江戸、京、大坂、長崎、唐天竺に行く」との書き置きを持ってきた。勾玉の一つは、崎之助が餞別に武四郎に渡した1寸5分もある高価な碧い勾玉であった。
 崎之助から貰った勾玉を胸に武四郎は江戸に着いたが行く当てがないので、面識のあった篆刻家・山口遇所の家に寄宿し、篆刻を修行、経緯を崎之助に伝えたところ、連絡を受けた松浦家から迎えが来て、津に連れ戻された。連れ戻しに来たのが車夫・松平の祖父・金蔵で、帰りは武四郎のわがままで中山道を通り、途中、戸隠山、御嶽山にも登ったそうだ。
 家出の話の途中にモースが訪ねてきて、勾玉の蒐集品に感激し、ノートに右手で文字、左手で図を書き、喜んで帰って行った。豊も勾玉を写生してると、武四郎が暁翠という画号を考えてくれ、後ほど豊が気に入った翡翠の勾玉を根付けにした落款が届いた。・・16歳で津から江戸まで旅したり、わずかな期間で篆刻を会得したり、中山道を歩くなど、武四郎は図抜けている・・。

3、武四郎、諸国を放浪する
 1883年の初冬、豊が松浦武四郎を訪ねると、武四郎は凮月堂のかるるす煎餅を食べながら、明治に入ってから天神さまを信仰し始め、全国から25の神社を選び、石碑と神鏡を奉納していると話す。
 さかのぼって、武四郎が家出から連れ戻されたあと、平松楽斎に謝罪しに行くと、楽斎は射和の竹川竹斎のところに行くよう勧める。竹斎は農民救済のため潅漑用水をつくり、茶畑を拓き、文庫を建てたりしていて、武四郎に見聞を広めるよう旅に出ろという。
 武四郎は竹行李一つを肩に京、大坂に向かい、学者たちの門を叩いた。大塩平八郎には入塾を勧められその気になったところ、旅の途中で知り合った岩おこし売りの爺さん(=凮月堂の主)が大塩のところは止めなさい、旅を続けなさいと説いた。
 武四郎は本心は見聞を広めるための旅だったので、旅を続けることにして播州、備前、淡路、紀州、熊野、高野山から大和、丹後、若狭を経て越前、金沢、能登に旅し、途中、重病になり山人に助けられ、江戸に出て、凮月堂を訪ねる。・・17~18歳のころ、一人で諸国を歩き通したというから驚きである・・。
 江戸で岩おこし売りの爺さん=凮月堂の主の紹介で水野忠邦の奥向きに奉公するが半年後に追い出され、高野山に登って頭を丸め、四国の八十八ヶ所を遍路し、長崎で疫痢にかかったが蘇生できたので得度して坊主になり、平戸の寺の住職になるが3年ほどで旅に出たくなったなどが語られ、水野忠邦のお庭番などの話が挿入される。
 ・・河治氏の筆は、豊と武四郎のかけあいで話が展開するため柔らかな感じで進む・・。

4、武四郎、北をめざす
 1884年立春、豊が上野・大徳寺の摩利支天で行われる節分に出かけたとき松浦老人=武四郎に会う。豆をたくさん集めた武四郎は、豊を鰻の伊豆栄に誘い、放浪の旅の続きを話し始める。
 武四郎は放浪の折々に家に手紙を出していて、長崎には3年も住んでいたので兄からの手紙が届き、父も母も没していることを知って飛ぶようにして家に帰った。すぐに津から幼馴染みの川喜多崎之助が来て、豪商を継いで若主人になったこと、竹川竹斎の末娘と結婚したことを話す。
 竹斎は、飢饉のさなか、潅漑用水を2つ造り、食べられる草の調理法を記した食草便覧を著し、窮民策に奔走していた。武四郎が会いに行くと、無事を喜び、武四郎の10年はどうだったと聞くので、赤蝦夷=ロシア人が蝦夷地を狙っているので、蝦夷地を測量し、地図を作り物産を調べ、日本国の領土ということを明確にしたい、と答える。
 崎之助は武四郎に、資金を送るから報告として便りを出せと微笑む、などの話をしていうるち伊豆栄に着くと、向こうから漆芸家・絵師の柴田是真がやって来て、蓮玉庵の蕎麦を食べようと武四郎と豊を誘う。柴田是真と河鍋暁斎は犬猿の仲で、豊は暁斎の娘とさとられないようにしながら3人で蕎麦を食べる。是真は弟子たちと東北を旅してあちこちに絵が残されていて、武四郎が蝦夷地を目指し東北を訪ねたときに是真の絵に出会ったなどの話が挿入される。
 ・・摩利支天、伊豆栄、蓮玉庵など上野の名所が登場し、武四郎、豊が親しく感じられる・・。

5、武四郎、アイヌと出会う
 1884年6月、暁斎は根岸の豆腐料理・笹之雪で開かれている絵師、書家が即興で絵を描く書画会に出かけ、豊が家で団扇絵を描いていると松浦老人が訪ねてきて、豊が第2回内国絵画共進会に出品した「狼の断崖に立ちて月に嘯(うそぶ)く」の絵は素晴らしかったと誉める。松浦老人のちょんまげが無くなっているので豊が聞くと、高野山の骨堂に髷を納めたと話し、笹之雪に豊を誘う。
 歩きながら豊の問いに、武四郎は28歳のとき津軽海峡を渡り東蝦夷を旅した話を始める。江差に着いて室蘭、勇払、沙流、釧路、厚岸、根室を歩き、途中、アイヌ人と交流し、知床岬に「弘化2年(1845年)・・松浦武四郎」と大書きした標柱を立てる。
 いったん江戸に戻り、松前藩の警戒が厳しいので、松前藩の医師の従者として西蝦夷から宗谷を経て樺太に渡り、蝦夷に戻ってアイヌ人の案内人と江差、紋別、網走を歩いて知床を周り、江差に戻る。その間、羅針盤で方位を確かめ、高い山から俯瞰して地図を描いた。
 話しているうちに笹之雪に着いた。笹之雪で書画会に加わった武四郎が、2度目の蝦夷地探検のときここで送別会をしてもらい、三樹三郎と詩歌と篆刻の試合をしたことや、数年前から暁斎に「北海道人樹下午睡図」と題する武四郎の涅槃図を依頼していたが、ちょんまげが無くなったので描き直すよう暁斎に頼むことなどが挿入される。
 武四郎の最初の蝦夷地探検ではアイヌ語が理解できず身振り手振りだったが、2度目は積極的にアイヌ語を理解しようと努力した。嘉永2年1849年、3度目の蝦夷地では函館から船でクナシリ、エトロフに上陸した。
 そのころ武四郎は世話係の13歳のソンとソンの白い犬を連れ歩いた。ソンの父、兄は漁場に駆り出されてずーと帰っていない。母は和人の地役人の妾にされ、ソンを産んだあとの行方は分からない。武四郎が江戸に帰るとき、ソンも江戸に行きたいが(アイヌ人が蝦夷から出るのは禁じられていたので)、自分の代わりに白い犬が産んだ小犬を連れて行って欲しい、という。武四郎はソンとの別れにアイヌ人が首飾りにする水色のアイヌ玉を渡す。
 話が戻って、豊の描いた「狼の断崖に立ちて月に嘯く」のモデルはその白い犬だった。・・松前藩が蝦夷を統治していたときの倭人によるアイヌ人への非業さは、井上ひさし著「四千万歩の男」などにも描かれている。武四郎の悲憤はさらなる悲劇へ・・。
 続く

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2024.6 上野deクラシック95 島田璃音

2024年07月23日 | よしなしごと

2024.6 上野deクラシック95 島田璃音 ピアノ

 上野の東京文化会館(写真)小ホールで定期的に「上野deクラシック」が開催されているのを知った。会館内のチケット売り場でもチケットを購入できるがしばらく上野まで出かける用がないので、オンラインで「」のチケットを予約した(ポスターweb転載)。
 いろいろの催しでオンラインチケット予約が広まっていて、便利になった。劇場や映画館では発券機でチケットが発券されることが多いが、東京文化会館のオンラインチケット予約ではいくつか選択肢があり、コンビニでQRコードを読み取り、チケットが発券される方法を選んだ。
 
 島多璃音は第21回東京音楽コンクールピアノ部門第2位及び聴衆賞を受賞している。
 東京音楽コンクールとは、東京文化会館、読売新聞社、花王株式会社、東京都の四者が主催し、芸術家としての自立を目指す可能性に富んだ新人音楽家を発掘し、育成・支援を行うことを目的として実施するコンクールで、あわせて聴衆の投票による「聴衆賞」も贈られる、日本を代表するコンクールだそうだ。島多氏はピアノ部門2位と聴衆賞を受賞した若手である。

 曲目は、リスト作曲 超絶技巧練習曲 第1番 ハ長調 「前奏曲」 S139-1と3つの夜想曲『愛の夢』 S541
 シューベルトによる12の歌 S558より、第7曲 「春の思い」、第8曲 「糸を紡ぐグレートヒェン」、『巡礼の年』 第2年「イタリア」 S161より、第6曲 「ペトラルカのソネット 第123番」、第7曲 「ダンテを読んで~ソナタ風幻想曲~」
 アンコールで、ヴェルディ(島多璃音編曲)オペラ『椿姫』より「乾杯のうた」が演奏された。

 若手・島多氏は、曲のあいまに話を織り込みながら全身でピアノを弾く熱演だった。演奏の技巧については分からないが、およそ60分、若手の熱演に包まれた。若手の活躍は年寄りを元気づけてくれる。拍手。  (2024.7)

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2024.6東京 清澄庭園・小石川後楽園で花菖蒲

2024年07月19日 | 旅行

 2024.6東京 清澄庭園・小石川後楽園で花菖蒲を見る

 6月初旬、花菖蒲が見ごろになった。websiteで調べると、都立庭園の清澄庭園で「花菖蒲と遊ぶ」、小石川後楽園で「花菖蒲を楽しむ」が催されていた。土日には伝統音楽などの催し物もあるらしいが、混雑を避けて平日に訪ねた。
 東京メトロ半蔵門線・清澄白河駅で下りる。地上に出ると、向こうに庭園らしい緑地が見え、2~3分で庭園入口に着いた。65歳以上70円で入園する。
 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡?が、享保年間(1716~1736)、下総国・関宿藩主久世家の下屋敷になり、庭園が作られた(関宿は利根川舟運の要衝で、徳川家の信任の厚い者が関宿藩主に任じられた)。
 明治維新、廃藩置県後の1878年、岩崎弥太郎がこの屋敷地を含む土地を取得して社員の慰安、貴賓の招待のための造園を行う。隅田川の水を引いた大泉水、富士山などの築山に全国から取り寄せた名石を配した回遊式林泉庭園が完成するが、1923年に関東大震災の被害を受けた。翌1924年、被害の小さかった東半分が東京市に寄付され、復旧整備されて、1932年、清澄庭園として開園された。
  庭園は東西200m、南北250m、広さ37,000㎡ほどで、大泉水と呼ばれる大きな池の周りに緑地が配され、散策路が設けられている。
 入口を入ってすぐの緑地に伊豆川石が置かれている(写真)。石には疎いから見ただけではどこの産だとか、どんな種類だとか、どのように鑑賞するのか分からない。運ぶのが大変だっただろうとか、どことなく蛙に見えるなどと思いながら通り過ぎる。ほかにも石が配置されていて産地などが記されていたが、どれも眺めて通り過ぎた。

 大泉水に出る。風景が広がる(次頁写真)。写真右手の池に突き出た青い屋根の建物は涼亭と呼ばれる。1909年、国賓として来日した英国のサッチャー元帥を迎えるために建てられた。1985年に全面改装工事を施し、いまは集会場として利用されている。
 写真中央の築山は富士山と呼ばれる。視点が変わるので風景の変化が楽しめそうである。
 池まで下りると磯渡りと呼ばれる石が並べられていて、水の景色を身近に感じながら歩くことができるようになっている(写真)。踏み面が小さく足下に神経が集中するので水の景色まで気が回らなかった。

 大泉水の西の遊歩道を南に歩き、大泉水を東に回り込んで自由広場を抜けると、花菖蒲園に出る。350株ほどの花菖蒲が水辺に沿って植えられていて、白色、薄い紫色、薄い青色の花を咲かせ(写真)、涼しげな景色を見せている。行きつ戻りつ、しばし花菖蒲を眺める。
 同好会の人たちだろうか、自由広場に一画に集まり、持参の茶などを飲みながら、撮影した花菖蒲の写真を談義していた。

 花菖蒲が途切れた少し先に「古池や かはづ飛び込む 水の音」の句碑が置かれている(次頁写真)。この句は、松尾芭蕉が1685年、隅田川沿いの芭蕉庵で弟子たちと詠んだうちの一句とされる。芭蕉庵は清澄庭園から400mほどと近い。句碑は1934年に建てられたが、芭蕉庵改修の際、敷地が狭かったので東京市に願い出て清澄庭園に移したそうだ。花菖蒲園の風情からは蛙がいてもおかしくないから、あわせて古池も掘っておけば「古池や 蛙飛び込む 水の音」の風景を想像できそうである。
 自由広場を東に歩き、富士山に登り、大泉水東の遊歩道を北に歩いて出入口に戻った。
 東西200m、南北250mのほとんどを大泉水が占めているので、花菖蒲鑑賞を含めても散策は物足りなく感じた。
 清澄庭園を出て食事処を探しながら駅に向かった。駅の少し先に小ぎれいな寿司屋があり、のぞくと満席だったが、ちょうど席が空いた。カウンターでは外国人家族が寿司を握ってもらっていた。にぎり寿司ランチセットは1430円と廉価、ネタは新鮮で美味しかった。人気の店なのかも知れない。

 清澄白河駅から都営大江戸線に乗り、飯田橋駅で下りる。2~3分歩くと小石川後楽園西門(写真)に着く。65歳以上150円で入園する。
 1629年、水戸徳川家初代頼房がここに中屋敷をつくって造園を始め(1657年の明暦の大火後に上屋敷)、2代光圀(1628-1701)が庭園を完成させた。後楽園は光圀の命名で、中国の岳陽楼記に書かれた「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」に由来する。光圀の思想がうかがえる。
 東西、南北とも300m強、広さは70,847㎡で、神田上水から水を引いた大泉水を中心に、築山を築き、川、滝を設け、稲田、花菖蒲田、蓮田、梅林も作っていて、変化に富んだ回遊式築山泉水庭園になっている。のちの大名屋敷庭園の手本になったようで、清澄庭園も規模は小さいが後楽園を手本に造園されたと思える。

 西門から西湖の堤を眺めながら渡月橋を渡り、屏風岩の横の坂を上る。通天橋を渡ると林が深くなり、光圀が史記を読んで感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した得仁堂を過ぎる(写真web転載)。
 小石川後楽園は何度か来ているので、今回は円月橋、神田上水跡、愛宕坂などは行かず、坂を下って大泉水に出る(写真)。写真中央の蓬莱島を見ながら、池に沿って歩くと松原が広がり、松原の北に花菖蒲田(写真)、稲田が作られている。
 花菖蒲田には700株ほどの花菖蒲が面に広がっているので、白色、薄い紫色、薄い青色が遠くまで入り乱れ、見応えがある。花菖蒲の時期には観賞用の木道も設置され、ベビーカーや車いすからも花菖蒲に近づいて眺めることができる。花菖蒲は色合いが淡いせいか風景が静かで、眺めていると気持ちが静まってくる。

 花菖蒲田の北奥は梅林があるが時期ではないのでパスし、松原から大泉水に沿って南に歩き、唐門を目指す。水戸徳川家の上屋敷(当初は中屋敷)は小石川後楽園の東、現在の東京ドームあたりにあったらしい。上屋敷の西の内庭を通り、唐門を抜け、後楽園に入る配置だったようだ。唐門は、光圀が後楽園の造園を完成させた1669年ごろの建造と推定されるが、戦災で焼失し、写真、資料などをもとに2020年に復元された(写真)。これまでの入園では復元工事中だったので、見るのは初めてである。
 徳川御三家の風格を表す華麗な作りである。扁額の後楽園も同時に復元されたそうだ。
 唐門は閉じているので脇を抜けると、大きな池が広がる。池は睡蓮で埋め尽くされ、昼下がりなのに時を忘れた花がポツン、ポツンと咲き誇っていた(写真)。
 水辺の風景に真っ白い蓮、清々しい気分になる。

 小石川後楽園東口から出て、JR総武線水道橋駅に向かう。5分ほどで着いた。総武線を利用するのは久しぶりである。秋葉原駅の乗換では人の流れに合わせながら上野方面に下る。秋葉原駅周辺の再開発はめざましいが、総武線、山の手線、京浜東北線の様子は記憶のままだった。  (2024.7)

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2024.6 熱海五郎一座を観る

2024年07月12日 | よしなしごと

 2024.6東京新橋演舞場 熱海五郎一座を観る

 新橋演舞場で熱海五郎一座の「スマイル フォーエバー ちょいワル淑女と愛の魔法」、6月2日~6月27日に公演されるのを見つけ、初日に近い昼の部の席を予約して出かけた(ポスターweb転載)。
 伊東四朗(86)が「伊東四朗一座」を2004年に興し?、2006年に三宅裕司(73)に座長を譲り、伊東温泉の次は熱海温泉、四郎の次は五郎だから「熱海五郎一座」と名づけた、ということをどこかで聞いた。劇団名まで喜劇的である。

 出演は伊東四朗、三宅裕司、松下由樹、渡辺正行、ラサール・石井、小倉久寛、春風亭昇太、東貴博、劇団スーパー・エキセントリック・シアターで、熱海五郎一座にテレビでおなじみの顔ぶれが加わり喜劇を盛り上げていた。

 幕が上がると、銀行のATMで振り込みをしようとする老人・小倉久寛に気づいた伊藤四郎が振り込み詐欺ではないかと話しかける・・年寄りの振り込み詐欺をネタにしたドタバタ・・。
 そこに都知事に扮する松下由樹と娘が出てくる。続いて2人連れの銀行強盗が拳銃をちらつかせながら現れ、SPともめて拳銃を撃つ。伊東四朗は魔法使いで、時間を止め拳銃の弾の向きを変えるが時間を戻した瞬間、弾が跳ね返って伊東四朗の足にあたり、苦悶する伊東四朗の形相を見た知事の娘は言葉と笑いを失ってしまう。
 伊東四朗は自分のせいで娘が声と笑いを失ったことを自責し、(後半で伊東四朗の初恋の相手が松下由樹の母だったこと、その娘である松下由樹を陰に隠れて見守ってきたことが明かされる)、卒業した魔法学校に入り直して高度な魔法を学ぼうとする・・ハリー・ポッターを下敷きにした魔法学校でのドタバタに舞台は移る・・。

 伊東四朗が入学し直した魔法学校定時制の教師が三宅裕司、クラスメートに渡辺正行、春風亭昇太、小倉久寛らがいて、ドタバタが演じられる。
 魔法学校には全日制もあり、全日制が定時制を小馬鹿にするが、やがて言葉と笑いを失った娘のために勉強し直そうという老人の願いを知り、一致団結していく。
 声と笑いを取り戻す魔法にはたいへんなエネルギーを使うため、年寄りの命取りになる危険性もありみんなが心配するが、伊東四朗は命と引き替えでも笑いを取り戻したいと魔法に励む。
 
 敏腕刑事役の深沢邦之と定年後に再雇用された刑事役のラサール石井が、強盗犯を追いながらも、魔法使いの正体を暴こうとするドタバタも挿入される。
 松下由樹都知事室に、老練なSP役の渡辺正行、秘書役の三宅裕司、弁護士役の春風亭昇太、占い師小倉久寛が出たり入ったりする。魔法学校では先生、生徒なので都知事室の表の顔と魔法学校の裏の顔が錯綜したドタバタが演じられる。
 松下由樹都知事はもともと都政に真面目に取り組んでいたが、占い師の怪しげな霊感に惑わされて占い師の言いなりに税金を浪費し、占い師に貢いでいた。
 松下由樹が占い師に惑わされていることに気づいた伊東四朗が動く。魔法学校の先生、生徒、全日制の生徒が動く。刑事も動く。伊東四朗が松下由樹の母への思いを語り、松下由樹が改心し、占い師が観念し、伊東四朗が愛の魔法をかけて娘が声と笑いを取り戻す。
 ドタバタ、ドタバタ、めでたし、めでたし。
 全員が勢揃いし、舞台裏でのエピソードを披露、万雷の拍手のなか、幕が下りる。 
 たまには喜劇で気分転換もいいね。  (2024.7)

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