yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

浅田次郎「天切り松闇がたり 第一巻闇の花道」

2021年05月31日 | 斜読

book531 天切り松闇がたり 第一巻闇の花道 浅田次郎 集英社 1999  

 新型コロナワクチン接種が始まったが、依然、収束のめどが立たず、緊急事態宣言、蔓延防止措置が続く。自分の住んでいる国に不満は言いたくないが、二進も三進もいかず気分が滅入る。
 不愉快さを吹き飛ばすには、破茶滅茶、しっちゃかめっちゃか、奇想天外、痛快、人情、任侠道の浅田次郎(1951-)氏の本がいい。「プリズンホテル」(1993出版、book528)、「一路」(2013出版、book529)に続き、「天切り松闇語り」に手が伸びた。
 「天切り松・・」は5巻シリーズである。演劇化、テレビドラマ化、漫画化もされたそうだから人気のほどがうかがえる。

 闇語りとは、p14・・6尺四方の先には届かない夜盗の声音で語ることで、語り手は、刺子を打った藍木綿の単衣に黒の股引の小柄な老人である天切り松こと村田松蔵である。語る場所がなんと雑居房、聞き手は留置人にとどまらず看守に加え署長という設定である。
 ・・子どものころ、駄菓子を買って夢中になって、いま思えば荒唐無稽、奇想天外の紙芝居にかぶりついた。浅田氏の奇想も子どものころの紙芝居が始まりかも知れない・・。

 第一夜 闇の花道  大正6年1917年、博打で謝金まみれの父に連れられた数えで9の松蔵は、いまの東京新宿・抜弁天に屋敷を構える目細の安と呼ばれた杉本安吉親分に目を瞠る。
 父は、p27・・つれあいは医者にも診せず死なす、娘は女郎屋に売り飛ばす、倅を安吉に預け盗人にしようとしていた。
 安吉は松蔵にいい手をしていると言い、父に松蔵を貰い受けた、今生の別れと言って娘を身請けできるほどの金子を渡す。

 安吉は、2000人の手下を束ねる大頭目仕立屋の銀次に12歳から教えを受けた子分である。銀次が検挙され、網走に送られたあとを安吉が跡目を預かっていたが、裏で働きかけ銀次を釈放させる段取りを付ける。
 帝大法科を主席で出たあとドイツ留学をした辣腕検事白井は、銀次を引退させ、安吉に跡目を継がそうと画策する。
 ・・検事が盗賊の跡目を画策するなど、物語は奇想の連続で展開する。奇想だからこそ、日ごろたまったうっぷんが溶けるのではないだろうか・・。

 安吉は、自分は銀次親分の子分であると義理を通し、跡目継ぎを断る。白井検事は2000人を束ねられる器量は安吉しかいないと、銀次の手下の湯島の清六、深川の辰、駒形の天狗屋、溜池の次郎吉に話を付け、巧妙な罠を仕掛けて釈放された銀次を再逮捕する。安吉は生涯自分は銀次の子分と白井の計略に背を向ける。

 その日のうちに、安吉は子分の栄治兄ィ、坊主の寅弥、書生常、振袖おこんの4人に松蔵の全員が盗人装束に改め、抜弁天の屋敷を出て、次々と貧乏長屋に銭を投げ込みながら、夜が明ける壕っ端まで走る。警視庁を見ながら安吉は、金輪際、桜田門と縁を切る、盗られて困らぬお宝を一切合切ちょうだいしようと、見栄を切るところで第一夜の闇語りが終わる。

 第二夜 槍の小輔   闇語り第二夜は松蔵数えで13のときの話で、主役は振袖おこんである。
 おこんは、帯にはさんだ紙入れを真正面から抜き取るゲンノマエ(玄人でも気づかないから玄の前)がピカイチで、4年前山県有朋元帥から明治天皇御賜の金時計をすり取った。金時計は裏取引で警察に返納したが、検事白井はその金時計を銀次逮捕に悪用した。

 おこんは面子を通そうと、元帥に戻された金時計を狙う。場所は隅田川開きの吾妻橋に設営された露台で、周りは警護の憲兵で固められている。松蔵が止めようとするうち驟雨になる。気づくとおこんは、戻ろうとする元帥の前をすり抜け・・このとき金時計をすり抜き・・、髪の手拭いを振った・・松蔵への合図・・。

 元帥は「女」と声をかけ、軍刀の鯉口を切り、「二度までも・・何のためか」と詰問する。おこんは「無益なもんの有難味が分かるか」と応え、金時計を川面に投げ込んでしまう。
 闇語りの舞台は、相模湾を一望する山県有朋の別邸古稀庵に移る。元帥は槍をしごき「女を手にかけるほど無粋な男ではない」と言い、おこんも「命乞いするほど無粋な女じゃあござんせん」と返す。二人は息が合い、おこんは元帥の身の回りの世話をする。二人は惚れあい、幸福を感じたおこんは有朋の命より大事な小輔の槍をもらう。
 第二夜では山県有朋の生い立ちや有朋に対する世間の不評が語られるが、有朋の国葬におこんが駆けつけ、松方正義侯爵、西園寺公望公爵に小輔の槍をお棺に収めるよう願い出て、幕が下りる。

第三夜 百万石の甍  冒頭で、天切り松が署長室で上野池之端・伊豆栄の特上鰻を食べる話が出る。・・囚人が署長室で極上の鰻を食べるという奇想はまだ序の口、第三夜では、加賀百万石の末裔前田侯爵が栄治兄ィにきりきり舞いさせられる奇想天外の展開である。
 数えで14の松蔵がおのぼりのふところを狙って捕まり、背中に橙色の不動明王が彫られていることから黄不動が通り名の栄治が貰い下げに来るところから始まる。栄治は、夜に紛れて屋敷の屋根を抜く素早さが神業ともいわれていた。
 栄治は松蔵を三越に連れて行って身なりを整えさせ、千疋屋で子どもの頭ほどの林檎を買う。栄治は気前も気っぷもいい。面倒見もいい。栄治は、浅草の凌雲閣の上り、遠めがねで様子のいい屋敷や金蔵を物色するこつを松蔵に見せる。

 話は上野精養軒のテラスに移る。安吉親分が栄治に、花井清右衛門の大旦那がひとり息子の栄治に戻って欲しいと貴族院前田侯爵を仲立ちに頼んできたことを伝える。
 清右衛門は日本、支那朝鮮にビルヂングを建てる花井組を仕切っているが、昔ながらの職人気質のため帝大出の入婿とそりが合わない。かつて女中に生ませた栄治を出入りの大工根岸に母子ともども押しつけていたが、実子として戻って欲しいとの頼みである。
 根岸の普請は地震でもビクともしない、と評判である。根岸は義理堅く情にもろい性格で、栄治を実の子以上に可愛がった。

 栄治は、根岸こそが父と筋を通す。返事の代わりに、前田家伝来の家宝である野々村仁清の雉子香炉を狙う・・前田家ゆかりの国宝色絵雉香炉は実在し、石川県立美術館に展示されているが、この物語当時は前田家所蔵ではない。奇想の展開にフィクションが挿入されると話に深みがましてくる。浅田流である・・。
 松蔵は栄治に言われ終電に乗って前田邸を見上げると、大甍の上に三日月を背にしてすっくと立つ黄不動が見え、一瞬にして消えた。
 蟻のはい出るスキのない前田家の蔵の、二重三重の錠を下ろしたつづらの中には雉子香炉に代わって目黒不動の札が置かれ、桐箱には黄不動見参と書かれていた。

 元旦、前田邸と花井邸に、酒十斗、餅十斗を長屋まで持参のうえ雉子を引き取るようにと、御家流の能筆で書かれた年賀状が届く。
 長屋では安吉と子分が前田と花井を出迎える。大勢の病人が横たわる座敷は年末に根岸の頭領が槙で普請を済ませていて、白木の神棚に雉子香炉が人々を慈しむように羽を休めていた。安吉は清右衛門に「血よりも濃い水てえのもある」と話す。
 最後に、栄治が根岸の頭領におとっつぁんと声をかけて第三夜が終わる。

第四夜 白縫花魁は、松蔵が吉原を舞台に姉捜しをする展開で、姉が白縫花魁として現れるまで、第五夜 衣紋坂からでは売れっ子の白縫花魁の身請け話が進むが、姉はスペイン風邪に冒されてしまう。
 松蔵は鳥毛のように軽くなった姉を背負い、吉原の大門を抜け、おはぐろどぶを渡る。衣紋坂を登るうち、姉がずっしりと重くなる。永井荷風が現れ、浄閑寺でねんごろに供養してくれると話し、松蔵に歌を唄うよう勧める。カチューシャかわいや わかれのつらさ・・・・で幕が下りる。
 この結末は予想できなくはなかったが、第四夜、第五夜を読み切ると姉が気の毒で気の毒で、悲しい気分になる。松蔵にかける言葉も浮かばない。松蔵と姉のため、永井荷風と一緒にカチューシャかわいや わかれのつらさ・・・・を唄う。浅田氏の術にはまってしまったようだ。  (2021.5)

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2020.1シチリアの旅19 シラクーサで夕食 シラクーサ予習

2021年05月26日 | 旅行

 2020.1 シチリアの旅 19 シラクーサ着、グランド・ホテル・オルティジア、ディナー、シラクーサ予習 

 シチリアの旅5日目、16:15ごろ、ピアッツア・アルメリーナを遠望した展望台をあとにして、シチリア島東端、イオニア海に面したシラクーサSiracusaに向かう。およそ130km、2時間半ほどの道のりになる。 
 17:30ごろ、サービスエリアで休憩を取った(写真)。山は日が落ちるのが早い。周りの風景は闇にかすんでいる。
 エスプレッソespresso(1ユーロ)を飲む。スタッフがコーヒーマシーン(写真)でコーヒーを入れる仕草はどことなく芝居がかって、格好よく見える。彼らが日本の茶を点てる光景を見たら、やはり芝居がかって格好いいと感じるのではないだろうか。文化、習俗の違いである。
 ・・通によれば、「煎れる」は茶葉を沸騰した湯に入れて煮出すので、コーヒーならパーコレーターやターキッシュコーヒーの入れ方に近く、「淹れる」は茶葉を入れた急須に湯を注ぐ場合になるので、コーヒーならプレス式かドリップ式の入れ方が近いそうだ。コーヒーマシーンのエスプレッソは「淹れる」になるが、「入れる」はオールマイティに使える・・。

 18:30過ぎ、シラクーサSiracusaの駐車場にバスが止まる。ホテルは旧市街であるオルティジア島Ortigiaに建っていて、大型バスは進入禁止である。スーツケースなどの大きな荷物はバンで運ぶ手はずで、私たちはPonte Santa Lucia橋を渡り、徒歩2~3分のグランド・ホテル・オルティジアGrand Hotel Ortigiaに向かった(写真)。
 ホテルは港Porto Grandeに面していて、コリント式オーダーを乗せた列柱やアーチ型窓など古典的なデザインを採り入れた現代的なホテルである。旧市街散策の利便も良さそうである。ロビーもゆったりしていて、居心地がいい。部屋は3階で海が見える。スーツケースを広げても余裕がある。いつものように部屋の照明、空調、湯水・排水、タオル類などを確認する。問題はない。連泊が楽しめそうである。

 19:30ロビーに集合する。夕食は、ホテルから海沿いに歩き、石積みの門を入り、左に折れたカンデライ通りVia dei CandelaiのレストランPorta Marinaである(写真)。
 カンデライ通りは車一台分しか通れないほど狭い。モロッコの旅で、旧市街のロバがすれ違える幅が基準という狭い通りを体験した。この通りも車一台分で道路幅が決まったのではないか、と思えるほどの狭さである。その通りに石積み3階建てがすき間なく並んでいる。
 レストランの石積みアーチ型ドアも店内の石積みドーム天井も、歴史を感じさせる(写真)。天井高もあり、広々としているのは気分がいい。

 前菜にブラータが出た(左写真)。チーズにも疎いので、聞きかじり、読みかじりの知識では、ブラータburrataは南プーリア原産で、モッツァレラチーズを薄く延ばして袋状にし、余ったモッツァレラチーズを細かく切って生クリームと混ぜあわせ、袋に詰め込んだチーズのことだそうだ。
 白い塊にナイフを入れると、モッツァレラ+生クリームがトロッと流れ出す。食べると濃厚なチーズ味の生ミルクといった感じで、シャキッとした食感がある。この味は何度か食べた記憶があるが、南プーリア原産も製法も知らなかった。
 シチリア産白ワインを頼んだらシチリア産グリッロ種(6.5ユーロ)の辛口が運ばれてきた。これがブラータにピッタリで、いい取り合わせに白ワインがすすんだ。

 主菜はフライである(上右写真)。エビ、イカ、イワシ、赤身の魚などのフライがたっぷりと出た。白ワインはブラータで空けてしまったので、ビール(7ユーロ)を追加する(写真)。ラベルはalveriaだった。アルコール度は4.4%で、ホップの効いた軽やかな味だった。
 デザートのチョコレートケーキは私には甘すぎ、多すぎ、半分ほど残す。

 シラクーサの夕食をゆっくり味わい、21:20ごろ、海風を感じながらホテルに戻る。
 部屋から港の夜景を眺める(写真)。パレルモではティレニア海、アグリジェントでは地中海を眺めた。シラクーサの海はイオニア海である。シチリア島のシンボル三脚足のように、三角形の形をしたシチリア島を囲む海を見ながら一巡りしたことになる。ティレニア海も地中海も海の青さが印象に残った。イオニア海の青さが楽しみである。
 今日は午後がバス移動なので歩数計は10700歩だった。念のため入浴しながら足をほぐす。入浴後、パレルモで買ったシラクーサワインColomba Platinaを傾けながら、シラクーサを予習する。

 シチリア東部には原住民シケル人が住んでいた・・西部はエリミ人、中央はシカニ人・・。
 紀元前734年ごろ、いまのシラクーサにギリシアの都市国家コリント(コリントスとも表記)が入植する。シケル人は好意的に迎え、土地が肥沃だったため発展する。ギリシャ人はシュラクサイと呼んだ。シュラクサイの発展とともに、フェニキア人の植民都市カルタゴと衝突するものの、東地中海の商業圏を支配し、繁栄した。
 アテネはデロス同盟の盟主としてギリシアの覇権を握る。地中海にもその勢力を及ぼし、アテネの干渉に反発したシュラクサイはスパルタと同盟するようになる。
 ペロポネソス戦争(紀元前431~404)では、シュラクサイはスパルタに与し、勝利に貢献した。 
 その後、ギリシャ人僭主ディオニュシオス1世のもとでシュラクサイは強大化し、カルタゴに対抗する。・・太宰治(1909-1948)「走れメロス」に暴君ディオニスとして登場する・・。
 紀元前264年~第1次ポエニ戦争でシュラクサイは共和政ローマ側に付いてカルタゴと戦う・・ローマ人はシラクーサと呼んだようで以降はシュラクサイの表記はなくなる・・。
 紀元前242年~第2次ポエニ戦争では、シラクーサはカルタゴに同盟するが、紀元前212年、ローマに降伏する。
 ・・シラクーサ出身のアルキメデス(紀元前287-紀元前212)は、数々の兵器を考案してローマ軍を苦しめたそうだ。彼の非凡な才能を認めていたローマ将軍はアルキメデスを殺すなと厳命したが、ローマ兵によって殺されてしまう・・。 
 ローマに負けたシラクーサは属州シキリア (=シチリア)に組み込まれ、州都となり、通商の重要港として栄え、キリスト教が広まる。

 ヴァンダル族支配ののち、東ローマ帝国=ビザンティン帝国支配になり、シラクーサにコンスタンス2世の宮廷が置かれ、全シチリア教会の首都大司教座がおかれた。 
 827年から、北アフリカ・カイラワーン(ケルアンとも呼ばれる)を都とするイスラム国家アグラブ朝がシチリアに侵入、シチリア首長国(831~1072)が成立して、シラクーサもイスラム支配となる。首都はパレルモに移され、大聖堂はモスクに変えられ、オルティジア島の建物はイスラム様式に沿って再建された。通商は引き続き栄え、文化、芸術が振興する。
 11 世紀、ノルマン人がシチリア島を征服、1130 年、シチリア伯ルッジェーロ 2 世がシチリア王位に就き、シチリア島とイタリア半島南部を統治するノルマン・シチリア王国が成立する。
 以下、シチリア略史で述べたように、神聖ローマ皇帝ハインリヒ 6 世、フェデリーコ 1 世=のちのフリードリヒ 2 世、フランス・アンジュー伯シャルル 1 世=シチリア王カルロ 1 世、さらにシチリア王国はカルロ 1 世のナポリ王国とシチリア島のアラゴン王国に分裂し、シチリアはのちスペイン・ハプスブルク家の支配となる。

 1542年と1693年にシラクーサは破滅的な地震に見舞われる。17世紀以降、地震被害にあった都市はシチリア・バロック様式で再建されていく。 
 1729年にペストが大流行する。
 1734年、スペイン・ブルボン家が統治、代わって分家のブルボン=シチリアが統治の1837年にコレラが大流行し、ブルボン家支配に対する反乱が起き、県都がシラクーサからノートに移される。しかし社会不安は払拭されず、シラクーサ人は1848年にシチリア独立革命に立ち上がる。 
 1860年、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊はシチリア島を占領、両シチリア王国首都ナポリを奪取し、ガリバルディは占領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上する。
 1861年、イタリア王国成立、シチリアはイタリア王国に統合され、パレルモが州都になり、県都はノートからシラクーサに戻る。
 現在は、シラクーサSiracusaは人口約12万人の基礎自治体コムーネである。

 ・・かなり眠くなった。明朝の集合時間8:25や行程を確認し、ベッドに入る。   (2021.5)

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東野圭吾「真夏の方程式」

2021年05月21日 | 斜読

book530 真夏の方程式 東野圭吾 文春文庫 2013   

 東野圭吾氏(1958-)は大学で電気工学を修めたそうだ。この本には、タイトルの方程式、一酸化炭素中毒事件、大学准教授湯川学が小学生の柄崎恭平に科学的実験を披露など、工学士らしい知見が盛り込まれている。
 ・・物理学者湯川学の登場する作品はガリレオシリーズと呼ばれ、真夏の方程式はシリーズ6作目になる。見ていないが、ガリレオはテレビドラマ化もされていて、ガリレオシリーズの人気がうかがえる・・。

 物語は、両親が仕事で留守をするあいだ、小学校5年の柄崎恭平が一人で、父の姉川畑節子と夫重治が経営する玻璃ヶ浦の緑岩荘を訪ねるところから始まる。
 ・・恭平から物語が始まるから、何か重要な役を演じると思えるが、じきに事件捜査の話が主になり、恭平は話の流れから遠のく。・・恭平は知らずに事件の鍵になるが、最後に湯川がみごとに決着をつける。東野流筆裁きは明快である・・。

 玻璃ヶ浦が事件を解く舞台だが、事件の裏に16年前の東京荻窪で起きた仙波英俊の殺人事件、さらに20年前の東京銀座の玻璃料理店がからんでいて、捜査が進み、遠い過去の人間模様が浮き上がる。すさんだ心、思いやる心、耐える心、未来に託す心がなんとかバランスをしていたが、退職した刑事塚原正次が好意でパンドラの箱を開けてしまい、新たな事件が起きてしまった。
 ・・東野氏の本は3冊目だが、事件の背景に過去をからめ、暗い因縁を背負った生き様を描こうとするのも東野流か?・・。

 恭平は、新幹線から在来線に乗り換えたところで、海底金属鉱物資源機構デスメックに専門家として呼ばれ玻璃ヶ浦に向かう湯川学と出会う。恭平にかかってきた携帯電話を老人に注意され、湯川は携帯電話をアルミホイルで包んで電波を遮断し、問題を解決する。
 ・・湯川の科学力は随所に披露される。p70で恭平に・・この世は謎に満ちあふれている、自分の力で解明できたときの歓びはほかの何物にもかえがたいと諭し、再三、恭平に数学、物理、化学の基本を教え、柄崎成美と環境保護について議論し、一酸化炭素中毒の謎を解く。工学士東野の本領発揮・・。

 湯川はデスメックが用意した宿を嫌い、恭平の持っていた緑岩荘の地図を見て、緑岩荘に宿を変える。
 川畑夫妻の一人娘で30歳になる成美は、恭平を玻璃ヶ浦駅で出迎えたあと、デスメックが玻璃ヶ浦で進めようとしている金属鉱物資源調査の説明会に向かう。
 成美は中学3年のときに東京から玻璃ヶ浦に移ってきて、玻璃ヶ浦の海の魅力に夢中になり、緑岩荘を手伝いながら、環境保護活動に参加していた。
 緑岩荘には玻璃の海を描いた絵が飾られている。湯川はこの絵がどこから描かれたか、疑問に感じる。

 緑岩荘に宿泊を予約していた塚原正次が玻璃ヶ浦資源開発調査説明会に参加していて、成美と目が合う。・・塚原はのちに元警視庁捜査一課刑事と分かる。
 夕食を終えた湯川が川畑節子に案内された居酒屋で飲んでいると、成美と環境保護活動のリーダー格沢村元也が現れる。沢村は節子を軽トラで緑岩荘に送り、軽トラを置いてから居酒屋に来る。
 足が悪く、酒を控えている重治は恭平を花火に誘う。
 湯川と成美が緑岩荘に戻ると、塚原が出かけたまま帰らないことを知らされる。
 翌朝、玻璃ヶ浦の堤防下の岩場で塚原の遺体が見つかる。玻璃警察署の見立てでは、酔い覚ましに堤防を上り、誤って転落し息を引き取る、事件性はなさそうだ、であった。

 連絡を受けた塚原の妻早苗と、塚原の警視庁時代の後輩で、いまは捜査一課管理官に昇進した多々良が玻璃警察署に来る。遺体を見た多々良は死んでから転落と直感し、塚原の遺体を解剖に回す。
 その後の精査で、一酸化炭素ヘモグロビン濃度が致死量を上回っていて、睡眠導入剤も服用されていたことが判明する。
 警視庁からの連絡を受け、県警主導で玻璃警察署に捜査本部が置かれる。塚原はどこで一酸化ガスを吸ったのか、妻早苗の話では環境問題に関心がなかったらしいが塚原はなぜ玻璃ヶ浦資源開発調査説明会に参加したのか、ほかにリゾートホテルがあるのに緑岩荘を選んだのはなぜかなどの、捜査が始まる。
 聞き込みで、塚原は東玻璃駅に近い高台の斜面に建っている仙波英俊が住んでいた別荘を見ていたことが分かる。

 塚原の死に不審を抱いた多々良は、湯川と同級生の草薙刑事に独自の捜査を指示する。
 県警捜査本部から連絡を受け、草薙と補佐の内海は仙波英俊の事件記録「仙波が金銭トラブルで元ホステスの三宅伸子を荻窪の路上で殺した」を読み返す。仙波逮捕は捜査一課刑事塚原だった。
 多々良は、塚原が退職するとき仙波の事件が記憶に残っていると話していたことを思い出す。
 草薙と内海は殺人事件の背景をたどり、仙波の所在を探す。湯川から草薙に、川畑重治を調べろと連絡が入る。
 
 ネタバレしないように草薙、内海の得た手がかりを順不同にまとめる。
 仙波英俊は、調布の柴本総合病院のホスピス病棟に収容されていた。収入がなく、末期脳腫瘍の仙波の入院手続きも費用も塚原が面倒をみていた。・・なぜ塚原は自分で捕らえ、刑期を終えた仙波の面倒を見るのか?。これが事件の鍵であり、説明しすぎるとネタがばれるので、読んでのお楽しみに・・。

 仙波は仕事が順調で羽振りがよかったころ、川畑節子、三宅伸子がホステスをしていた銀座のバーによく出かけた。
 仙波の妻の出身地は玻璃だったので、仙波は銀座の玻璃料理店をひいきにしていた。川畑節子はホステスを止めたがっていたので、玻璃料理店に紹介したところ、料理が上手で美人なので、節子目当ての客が増えた。
 玻璃出身の川畑重治はビジネスマンで、玻璃料理を食べに来ていて、節子を口説き、結婚した。
 川畑の勤め先には東京王子に社宅があったが、重治は名古屋に単身赴任となり、節子と成美は東京荻窪に住んでいた。・・なぜ、社宅に住まないのか?
 金づかいの荒い三宅伸子は寸借詐欺を重ねバーを解雇され、金に困っていた。
 仙波は妻の郷里である玻璃に別荘を買うが、妻は癌が進行、玻璃の海の絵を残して他界する。仙波は東京に戻り昔なじみのバーで飲んでいて、三宅に会い、口論となる。・・金銭トラブルの口論が原因で人を殺すのか?

 話は飛んで、川畑夫妻が玻璃警察に自首する。重治は、緑岩荘の地下ボイラーの不完全燃焼で塚原の部屋に一酸化ガスが流れ込み中毒死していた、気が動転した重治は事故死に偽装しようとし、節子を乗せて戻った沢村が遺体を軽トラで運んで堤防から落とした、と証言する。川畑重治、節子、沢村の証言に矛盾はなく、捜査本部では業務上過失致死と死体遺棄で幕引きしようとする。

 終盤で湯川に真相の名推理を語らせるが、湯川も草薙もこの推理を封印する。最後に、湯川は恭平に「・・君が何らかの答えを出せる日まで私は君と一緒に同じ問題を抱え、悩み続けよう。忘れないでほしい。君は一人ぼっちじゃない」と話す。
 大岡裁きに似た人情味あふれる結末で締めくくる東野氏の筆裁きは快調である。  (2021.5)

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2020.1シチリアの旅 18 ヴィッラ・ロマーナ・デル・カザーレ

2021年05月16日 | 旅行

 2020.1 シチリアの旅 18 ヴィッラ・ロマーナ・デル・カザーレ  2

 モザイク床保護のため専用通路以外は立ち入り禁止なので、ロープ手前から中庭と回廊を眺める(写真D)。
 古代ローマ、ローマ帝国時代の上流・中流階級のdomus住まいには、必ず中庭がつくられた。郊外、農村のvilla別荘、邸宅でも中庭は踏襲された。
 domusに設けられたatriumuアトリウム=大広間には屋根がなく、雨水を溜めるプールが設けられた・・現在はガラス屋根などをかけた大空間をアトリウムと呼んでいる・・。
 中庭にギリシャ式列柱回廊colonnatoコロネードをめぐらせるつくり方をperistyliumペリスタイルと呼び、雨水プールは噴水などで造園化され、夏の憩いの場にしていた。
 カザーレ邸の中庭は、コロネードをめぐらせ、庭園化されていて、当時のvillaの典型をうかがわせる。
 回廊の床はモザイク画で埋められている。正方形の区画のなかに円形が描かれ、円の外には鳥がさえずり、円のなかには牛、鹿、虎、狼など動物の顔が描かれている(写真)。
 すべての動物がシチリア島にいたのかは分からないが、当時は自然が豊かで野生動物が生息していただろうことは推測できる。古代ローマ人にとって狩猟は社会的たしなみ、ステータスシンボルだったのではないだろうか。

 床モザイク保護のため中空に設けられたデッキに上る。中空デッキからは床モザイクが見やすい。
 回廊北側の部屋は、ほぼ同じ大きさで四角い。仕事場か?、客人用か?、用途は不明である。回廊東側はbasilicaと呼ばれる大広間を中心に、邸宅の家族の私室が並んでいる。回廊南側は楕円形の中庭と大食堂などが配置されていて、接客、宴会の場として使われたらしい。機能的に区分され、動線が分けられていたようだ。

 北側の最初の部屋は更衣室?、浴場前室?で、床に夫人や子どもたちのモザイクが描かれている。
 次室の床モザイクは幾何学紋様で埋められていた。紋様は細やかで、正確に繰り返されている。ほかの部屋のモザイク画は人物が登場し主題があるが、この部屋は幾何学紋様だけだから、使用人の部屋?、物置?だろうか。
 次のダンスの間の床モザイクは大半が欠落しているが、左上のスカーフをたなびかせて踊る女性は、顔立ち、衣装からサビニ族とされる(写真、web転載)。
 サビニ族はローマの北部に住み、サビニの女たちの略奪で知られるが、ローマに併合されてしまう。ローマ人の威光を示そうとした画題のようだ。
 表情の豊かさ、色合いの鮮やかさから、当時のモザイク画の高度な技巧が感じられる。
 
 次は四季の間と呼ばれ、床モザイクは菱形の幾何学紋様のなかに円形が組み込まれ、円の中に人物、動物などが描かれている。人物、動物が四季を表すらしいが、どれが春夏秋冬かは分からなかった。
 隣は漁をするキューピッドの間で、床モザイクは舟に乗ったキューピッドが魚をつかまえようとしている(写真、web転載)。水に入ってイルカと遊んでいる?者もいる。対岸には城館が描かれている。
 誇張や空想もあろうが、当時の日常の暮らしぶりが想像できる。
 次は少し大きい部屋で、狩猟の集会室と呼ばれている。床モザイクは狩猟が主題で、猟犬を従え槍で獲物を狙う場面、獲物を運び狩猟の女神であるディアーナdiana?に捧げる場面、火を焚き獲物を焼く場面などがリアルに描かれている(写真E)。狩猟を話題にしながら、狩で捕まえた獲物をこの部屋で食べたのかも知れない。

 北側の中空デッキから東側の中空デッキに移り、長さ60mの回廊を見下ろす。回廊が長いことから大狩猟の回廊Corridoio della Grande Cacciaと呼ばれている。床モザイクは、いくつかの場面が絵巻物のように並列的に描かれている。物語がありそうだが、60mの床に次々現れる猛獣、野獣の迫力には圧倒され、筋書きを想像するいとまはなかった。
 数人がかりでバッファローを捕らえようとする場面(写真F)、捕まえた象やダチョウを船に乗せようとする場面のほかに、ライオン、虎、鹿、ラクダ、サイなどの野生動物がダイナミックに描かれている。
 ローマ帝国領にはこれほど多くの野生動物がいるんだ、順番に捕まえ、船に乗せ、ローマに運ぶんだ、そのような主題のもとにモザイク画の職人が分担して描いたのであろうか。シチリアはアフリカに近い。モザイク画の職人もアフリカの猛獣、野獣に詳しかったに違いない。どのモザイク画も真に迫っている。
 絵巻物の一隅に、マクシニアヌス帝(250-310、在位 286-305)と思われる人物が描かれている。帝国領内の巡検であれば軍服姿のはずだが、このモザイク画は平服のようである。猛獣狩りの様子を部下から聞いているといったイメージである。

 大狩猟回廊の南端、西側の2部屋の床モザイクを見下ろす。始めの部屋は印象が薄かった。
 次の部屋の床にはビキニ姿の10人の少女のモザイク画が描かれていて、10人少女の間Sala delle Dieci Ragazzeと呼ばれている(写真G)。
 上段左端の上半身は欠落しているが、2人目は鉄アレイ?を振り、3人目は円盤?を投げようとし、右端の2人はランニングしている。下段左端は優勝者へ冠とオリーブを渡そうとし、2人目は丸い賞品を手にし、3人目が優勝者らしく冠を被りオリーブを持っている。右端の2人はボールを投げあっている。
 スポーツの祭典が画題のようだが、どれも現代と変わらない光景である。それから1600年経ったが、スポーツの祭典はほとんど進化していないともいえる。

 このあと、南に並ぶ大食堂と楕円形の中庭を見たはずだが記憶に残っていない。大狩猟回廊や10人少女をじっくり見ていてグループから一足遅れてしまい、大食堂、楕円の中庭はほとんど見ずにグループを追いかけたようだ。大食堂のモザイク画にはヘラクレスの12の試練が描かれ、楕円形中庭からはエレイ山の遠大な風景が眺められるらしいが、どちらも見損なった。

 大狩猟回廊の東側は大広間バシリカを挟んで家族の部屋が並ぶ。南の最初の部屋は、前室のついた音楽と演劇の間で、前室の床には上下左右4場面のモザイク画が描かれている(写真H)。
 どれも、少年が馬の代わりにアヒル?ダチョウ?のような2羽の鳥に車を引かせた光景である。前室の奥が子ども部屋になるが、モザイク画は不鮮明だった。
 隣は、吹き抜けの回廊をめぐらせた半円形のポーチである。回廊の床には、舟に乗ったキューピッドが魚を釣っているモザイク画が描かれている。
 半円形ポーチを挟んだ音楽と演劇の間と、狩をする少年の間の2つの子ども部屋はポーチが入口になっているので、ポーチの奥のアリオンの間は子どもたちの居間になるのではないだろうか。
 アリオンは、ギリシャ神話に登場する竪琴の名手で、音楽コンテストで優勝し賞金、賞品を得るが、帰りの船で水夫に賞金、賞品を狙われ、あきらめたアリオンは竪琴を弾き、海に身を投げる。アリオンの演奏に感動したイルカがアリオンを助けたという話である。その光景が床モザイクに描かれている(写真、web転載)
 ポーチの北側も前室のついた子ども部屋で、狩をする少年の間と呼ばれている。前室の床はギリシャ神話のエロスerosとパンpanを題材に、理性と本能の相克を象徴したモザイク画である(写真、web転載)。
 奥の子ども部屋には、花園で動物を追いかける少年の床モザイク画が描かれている。

 子ども部屋の床モザイクを見たあと、北側の主寝室に向かった。ポリュフェモスの前室(写真I)の北と東に2寝室が配置されている。
 ポリュフェモスPolyphemusはギリシャ神話に登場する一つ目の巨人で、ポリュペーモスなどとも表記される。神話では一つ目だが、このモザイク画では三つ目になっている。
 オデュッセウス Odysseusがトロイア戦争で勝利し、船で部下と帰国するとき、ポリュフェモスの住む島に着き、ポリュフェモスに捕らわれてしまう。部下がポリュフェモスに食べられてしまい、オデュッセウスはポリュフェモスにワインを飲ませて酔いつぶし、一つ目をつぶして逃げる話で、モザイク画は、オデュッセウスがポリュフェモスにワインを勧める光景である。
 前室の北側の寝室には、円形、四角形、六角形が並ぶ中央に尻を出した女性が男性と抱き合う床モザイクが描かれていて(写真、web転載)、エロチックの間と呼ばれている。
 円形、四角形、六角形にも人物が描かれている。余計な心配だが、寝室にしては落ち着かないのではないだろうか。
 前室の東側は果実の寝室と呼ばれているが、記憶もメモも残っていない。

 最後に、12m×30mぐらいの大広間バジリカBasilicaを見る・・バジリカ、バシリカは長方形平面の教会堂、さらに大聖堂を意味するが、カザーレ邸での使い方ははっきりしない・・。この部屋にはモザイク画はなく、床は大理石だが地震?で凸凹になっていた。
 ここで1時間余のモザイク画見学を終える。ギリシャ神話を下敷きにした寓話や、当時の裕福なローマ人の暮らしぶりをうかがわせるモザイク画を堪能した。中空デッキから見下ろす見学方法は、モザイク保護にもかなううえ、とても見やすかった。できれば、配置図+見学コース+モザイクの見どころを解説したイタリア語併記の英語版見学パンフレットがあると、理解の手引きになる。
 16:00ごろ、バスに乗り込む。15分ほど走った山あいの展望台からピアッツア・アルメリーナの全景を眺め、一路、シラクーサに向けて走る。  (2021.5)

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2020.1シチリアの旅17 ピアッツア・アルメリーナ&カザーレ邸

2021年05月12日 | 旅行

2020.1 シチリアの旅 17 ピアッツア・アルメリーナ&カザーレ邸1

 シチリアの旅5日目、11:15ごろ、アグリジェント考古学博物館で現地日本人ガイドと別れ、バスは内陸のピアッツァ・アルメリーナ郊外の世界遺産カザーレ邸を目指す。
 ピアッツァ・アルメリーナPiazza Armerinaは、アグリジェントAgrigentoから東に直線で70kmほどのエレイ山脈monte Ereiの山あい、標高700mほどに位置し、アグリジェントからバスでは95kmほど走る。
 ピアッツァ・アルメリーナを直訳すればアルメニア広場になるが、古代ローマ時代、ロンバルディア軍が駐留した練兵所に由来するらしい。いまは人口22000人ぐらいの基礎自治体コムーネで、斜面にバロック様式の大聖堂を中心にして建物がひしめいている(写真、カザーレ邸見学後の見晴台から)。

 12:50ごろ、ピアッツァ・アルメリーナの街中でバスを降りる。目の前に歴史を伝える建物が建っていた(写真)。案内板にはChiesa Sant Stefano聖ステファノ教会と書かれている。煉瓦造でルネサンス様式に見えるが、バシリカ式長方形平面だから建設はもっと古く、改修されたのかも知れない。
 コンダクターHさんは迷わず、石敷きのガリバルディ通りVia Garbibaldyに入っていった(写真の教会の右手)。道は入り組んでいて、両側には石積み3階の建物が軒を連ねている。同じようなつくりだから、計画的に建てられたようだ。

 そのうちの一軒、キッチン・ガリバルディCucina Garibaldiに入る(上写真)。イタリア統一の英雄ガリバルディはどこでも人気があるようだ。
 今日の昼食は、前菜が野菜とキノコのリゾット、主菜が子牛肉、デザートがシナモンプリンである。私はキノコが苦手なのでHさんにキノコリゾットはいらないと伝えたら、シェフは手際よく前菜をキノコ抜きにアレンジしてくれた(中写真)。ポテト、ほうれん草、魚のフライ、トマトパン、キウイパンをおいしく食べる。
 主菜は子牛肉(下写真)なので赤ワインを頼んだら、シチリア産ネロ・ダーヴォラNero d'Avola(5ユーロ)が運ばれてきた。色合いは濃い。ラズベリーを思わせるしっかりした味わいで、子牛肉に合う・・といってもワインには詳しくない、ガーリックパンと飲み合わせても合いそうだ・・。
 ゆっくりくつろぎ、14:25ごろ昼食を終える。外に出ると風が冷たい。山あいは冷えるようだ。
 目的はカザーレ邸のモザイク画見学、そのあとは130km走り、シラクーサに泊まるから、街並み見学をせずバスに戻る。

 ピアッツア・アルメリーナの街中から南西に山あいを6kmほど走ると、林が開けカザーレ邸Villa romana del Casaleに着く。
 Villa romana del Casaleはカザーレ地区の古代ローマ時代の別荘といった意味で、casaleはカサーレにも聞こえるからカサーレと表記し、別荘だからカザーレ荘、カサーレ荘と紹介している資料、webも少なくない。
 ローマ帝国時代の3~4世紀に、大土地経営者 latifundiumのローマ人が農園経営の邸宅として建てたという説がある。モザイク画のなかに皇帝の帽子を被った人物がいることから、マクシニアヌス帝(250-310、在位286-305)の別荘だったという説もある。
 東ゴート王国、ヴァンダル王国、東ローマ帝国、アラブ支配のあいだも邸宅として使われたらしい。12世紀、シチリア王国時代に放棄されたようで、その後の土砂崩れで埋まったあとは農園として使われてきた・・casaleは農家の意味がある・・。
 20世紀に農地から円柱が発見され、本格的な発掘が始まった。長く土に埋まっていたため古代ローマのモザイク画か鮮やかに残されていて、世界遺産に登録された。

 発掘された邸宅は、総面積は3500㎡に60?の部屋が並ぶといわれている(図、web転載+加工)。
 石積みの壁が主構造で、中庭には円柱の回廊colonnadoがめぐらされている。屋根は木造架構だったと思われるが、いまは建物の保護のため鉄骨造の屋根が架けられている。
 駐車場から入口に向かう手前で、浴場Termeに熱水を送る焚き口の遺構を眺める(写真A)。
 ローマ風呂では熱水、微温水、冷水が使い分けられるため、この焚き口で温度調整して浴場に送り、さらに床暖房にも利用した。大げさともいえる浴場の仕掛けに、この邸宅のローマ人の裕福さを感じる。

 南西の角の入口から入り、前庭Atrioを抜け、八角形の冷浴室をのぞく(左写真B)。床モザイクは、魚が泳ぎ回る海の場面で、舟に乗った翼のある子どもputtoや半漁人toritonなど、ギリシャ神話の世界が描かれている。親しみやすい画題は、夫人、子どもたちも利用するからであろうか。
 浴場Termeは、八角形の冷浴室Frigidarium、長楕円形の微温浴室Tepidarium、最奥の熱浴室Calidariaが基本であり、浴場には体育場を通らないと入れない配置になっている。
 体育場は長楕円の部屋(右写真C)で、床のモザイク画は馬車競争の場面である。体育場だから、馬車競争のモザイクは体を鍛えるのにふさわしい画題である。
 体育場で汗を流したあと冷浴室で汗を落とし、また体育場に戻って体を鍛え、冷浴室で汗を落とす。十分鍛えたら、微温浴室、熱浴室で筋肉をほぐし、冷浴室で体を冷まして、入浴を終えるといった入り方だったのであろうか。  続く(2021.5)

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