yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2021.12日光山輪王寺大猷院を歩く

2022年08月29日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12 日光山輪王寺常行堂・法華堂&大猷院を歩く

 輪王寺大護摩堂を出て表参道を北に上る。少し先の左角に建つ食事処「きしの」の手前に大猷院の道順が矢印されている。
 左に曲がると、うっそうとした樹林のなかに砂利道がまっすぐ延びている。東照宮に向かう表参道は人通りが多かったが、大猷院に向かう砂利道は人がまばらである。
 「きしの」から300mほど歩くと、左に北東を正面にした朱塗りの輪王寺常行堂法華堂が並んでいる(写真web転載、手前が常行堂、奥が法華堂)。
 慈覚大師円仁(794-864)が848年に三仏堂、常行堂、法華堂をここに建てた。のちに三仏堂は現東照宮あたりに移され、さらに現二荒山神社あたりに移され、大雪で倒壊後の1647年に徳川3代家光(1604-1651)によって建て替えられ、1871年の神仏分離令で現在の輪王寺大本堂=三仏堂として移された話は前述した。
 常行堂、法華堂も大雪の被害を受けたようで、いずれも1649年に同じ場所に再建された。
 
 慈覚大師円仁を補習する。円仁は下野国(現栃木県)生まれ、802年、下野国大慈寺で修行後、比叡山延暦寺で天台宗宗祖伝教大師最澄(766-822)に師事する。最澄が法華経による国家鎮護のため6ヶ所に宝塔=相輪塔を建てるとき、円仁は最澄の東国巡遊に従い815年、下野国大慈寺の宝塔=相輪塔建立を手伝う。
 現在の大慈寺宝塔=相輪塔は1725年の再建である。想像するに、815年に建てられた大慈寺宝塔=相輪塔はその後倒壊し、1643年徳川3代家光が三仏堂近くに北方鎮護を担う宝塔=法輪塔を建てさせたのち、大慈寺でも最澄、円仁ゆかりの宝塔=相輪塔再建の機運が高まり1725年に再建した、のではないだろうか。
 復習、補習で、最澄の大慈寺宝塔=相輪塔建立と、円仁が大慈寺で修行し、最澄に師事して大慈寺宝塔=相輪塔建立を助力したことが重なった。
 円仁は832年に唐に渡り(2度は失敗し、3度目に船が大破しながらも入唐)、五台山に登り、長安を訪ね、最澄、空海が日本に搬入した経典以外の経典、曼荼羅を数多く集め、847年に帰国する。帰国後、関東に209寺余、東北に331寺余を開山、再興したそうだ。
 日光山もその一つで、848年、その当時は満願寺と呼ばれた真言宗の寺だったが、円仁は三仏堂、常行堂、法華堂を建て天台宗とした。円仁は三仏堂に千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音を安置する。現在の輪王寺大本堂=三仏堂の三仏は製作年代が不明だそうだが、円仁の思想は受け継がれている。

 円仁の建てた常行堂は和様だったそうで、1649年に再建された常行堂(重要文化財)も和様が踏襲された。堂内中央の須弥壇には孔雀に乗った本尊五智宝冠阿弥陀如来像(重要文化財)と孔雀に乗った脇侍の金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩が安置されている(公開)。90日間、阿弥陀如来の周りを念仏を唱えながら歩く行道が行われるようだ。
 法華堂は唐様=禅宗様で、1649年に再建された法華堂(重要文化財)も唐様が踏襲された。堂内に本尊普賢菩薩、脇侍の鬼子母神、十羅刹女が安置されているそうだ(非公開)。21日間、普賢菩薩の周り念仏を唱えながら歩く行道と坐禅を繰り返す半行半坐が行われるらしい。
 外観はいずれも方形屋根=宝形屋根、木部が朱塗りで一見すると和様、唐様は分かりにくいが、四角窓と花頭窓、屋根の反りに違いがある。堂内意匠も違うらしい。
 常行堂と法華堂は渡り廊下でつながっている。これは法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを体現したためだそうだ。
 常行堂前で合掌、法華堂前で合掌する。

 常行堂、法華堂の先の石段上に輪王寺大猷院仁王門が見える(写真)。
 徳川3代家光(1604-1651)は江戸城で息を引き取る。48歳だった。
 ・・テレビで再放送された「家光乱心」を見た。家光の後継者にからむ緒形拳、千葉真一らの激突は迫力があった。映画では家光は非業の死を遂げる。真相は闇の中だが、家光の跡は長男の幼名竹千代=家綱が継ぐ・・。
 家光は、祖父である東照大権現の眠る日光山に、と遺言する。11歳で将軍を継いだ徳川4代家綱(1641-1680)は大老、老中らの主導で、1653年、東照宮の西、慈眼大師天海大僧正(1536-1643)の眠る輪王寺慈眼堂の北西に、輪王寺大猷院を完成させる。
 東照宮は神君家康を祀り絢爛豪華さが表現されているが、大猷院は色調を抑えた幽玄な仏殿が目指されているようだ。
 仁王門手前の社務所で拝観券(単独券550円、共通券もある)を購入し、仁王門の石段を上る。

 仁王門(重要文化財、前掲写真)は大猷院創建の1653年建立、南東に向いた間口3間、銅瓦葺き切妻屋根の八脚門で、左右の金剛力士像が真っ赤な体に阿吽の形相でらみつけている。下層の柱梁は朱塗りだが、屋根組は黒漆を基調に金色の飾り金物で装飾されていて、落ち着いた色調である。
 一礼して門に入る。見上げると、小屋組を支える梁の上の蛙股に彩り豊かな雁が彫刻されている。
 さらに見上げると、黒漆の小屋根が二つ並んでいる。大屋根の下に二つの小屋根を重ねる三棟造りだそうだ。
 足下に気を向けていると見落としてしまう小屋組、屋根にも匠の技が仕込まれている。

 仁王門を抜け木立のなかの石畳を北西に進むと、右に黒漆に金の飾り金物、彩やかな彫刻を施した御水舎が建つ。
 ここで向きを南西に変えると、石段上に二天門(重要文化財、写真)が見下ろしてくる。二天門は北東向きで、大猷院創建の1653年建立、2012年に補修を終えた間口3間、銅瓦葺き入母屋屋根、正面、背面を唐破風とした八脚楼門である。
 仁王門が比べて質素であり、参拝軸は北西から南西に90°向きを変え、仁王門の石段よりさらに高い石段の上に、隙間なく並ぶ斗栱の組物を1層、2層の2段に重ねた楼門なので、空間の質が高まってくるように感じられ、緊張感が増してくる。
 向かって左には緑色の持国天が口を開き(阿)、右には真っ赤な増長天が口を閉じ(吽)、参拝者をにらみつける。
 一礼して二天門を抜ける。持国天の後ろには真っ赤な雷神、増長天の後ろには緑色の風神がにらんでいた。雷神、風神は陽明門から移されたらしいが、多聞天、広目天ではなく雷神、風神を置いた理由について説明板は触れていない。
 
 二天門を出ると前は石垣で行き止まりになり、参拝軸は右90°、北西に向きを変え石段を上る。展望所と書かれた広場=踊り場があり、ここから左90°、南西に向きを変えると石段の彼方に夜叉門の屋根が見える。石段を上がるごとに夜叉門が姿を現してくる幽玄の世界を感じさせる演出であろう。
 石段を上がると広い前庭に出る。左に鮮やかな彩りの組物で入母屋屋根を支えた袴腰の鼓楼、右に同じ形の鐘楼が建つ。周りには寄進された灯籠が並んでいる。
 前庭の先の石段を上ると、左右に回廊を延ばした夜叉門が構えている(重要文化財、次頁写真)。夜叉門は大猷院創建の1653年建立で、北東を向き、間口3間、銅瓦葺き切妻屋根に正面、背面を唐破風とした八脚門である。屋根を支える斗栱の組物は黄金色に輝いて迫り出し、参拝者を圧倒する。江戸時代の参拝者は思わずここでひれ伏したのではないだろうか。
 夜叉門には、名前の由来となる霊廟の守護者4体、正面左に赤い毘陀羅(びだら)、右に緑の阿跋摩羅(あばつまら)、背面向かって左に青い烏摩勒伽(うまろきゃ)、右に白い犍陀羅(けんだら)と呼ばれる夜叉が祀られている。門全体に牡丹が彫刻されているので、別名は牡丹門である。

 夜叉門で一礼して抜けると、正面石段上に黄金色の唐門が構えている(重要文化財、写真)。緊張感で足が止まる。
 唐門の奥が拝殿・相の間・本殿の並ぶ家光廟である。家光廟なので緊張感が高まるということもあるが、仁王門、二天門、夜叉門を過ぎるたびに参拝軸が90°変わり、石段が段々高くなり、門の構え、つくりが巧みになり、門前の広場も夜叉門前に比べ唐門前は小さくなっていて空間密度が高まり、参拝者は知らず知らず緊張感を高めていくようだ。
 仁王門あたりが標高640m、唐門あたりの標高が670m、高低差30m=マンション10階分を上り、うっそうとした社林に包まれ、空気も冷涼で、血管が緊張したためかも知れない。
 唐門は大猷院創建の1653年建立、北東を向いた間口1間で、妻側正面を唐破風とした向唐門(むかいからもん)である(平側を唐破風にしたときは平唐門と呼ぶ)。
 唐門から左右に延びた袖塀には百態の群鳩と呼ばれる多様な姿のが彫られていて、どれも躍動的である。
 石段を上り唐門の妻壁を見上げる。梁に白大理石を浮き彫りしたが躍動している。家光は辰年なので龍が好まれたようで、拝殿にも対となる龍が浮き彫りされている。妻壁の龍の上には2羽の丹頂鶴が浮き彫りされている。鶴は千年といわれるから、天上で末永く安眠を、という意味だろうか。

 唐門で一礼し、拝殿で合掌する。拝殿・相の間・本殿は金色、赤色、黒色を基調に、狩野派の絵画や精緻な彫刻で飾られていて、本殿では家光公位牌に参拝できるそうだが、拝殿に入らず右、北西に進む。
 拝殿角で左、南西に曲ると、拝殿妻面に続いて相の間側面、本殿妻面が見えてくる(写真)。社殿は左に拝殿、あいだに相の間、右に本殿が並ぶ権現造である。いずれも大猷院創建時の1653年建立で、国宝に指定されている。
 拝殿は間口7間、奥行き3間、相の間は間口1間、奥行き3間、本殿は間口、奥行きとも3間、いずれも銅瓦葺きで、拝殿は入母屋屋根、本殿は入母屋屋根に裳階を廻している。外観は金箔と黒漆を基調にして重厚であるが、屋根を支える斗栱の組み物、柱上部の獅子、扉飾り、花頭窓、壁面のしつらえすべてに精緻な彫刻が施されている。徳川家の威信が凝縮されているようだ。
 本殿の角まで進み、左の袖壁の小門を出ると正面に南東を向いた皇嘉門が見える(重要文化財、写真web転載)。皇嘉門の奥が奥の院=家光墓所になるが、一般参拝者は立ち入れない。
 皇嘉門も大猷院創建時の1653年建立、明朝様式の楼門で竜宮門とも呼ばれる。森閑としていて空気はますます冷涼になってきたような気がする。
 皇嘉門で合掌し、袖塀に沿って唐門に戻り、再度家光廟に一礼し、石段を下って夜叉門、展望所、二天門、仁王門を戻る。  (2020.8)

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2021.12日光山輪王寺を歩く

2022年08月23日 | 旅行

栃木を歩く>  2022.5+2021.12+2008.11 日光山輪王寺を歩く

輪王寺大本堂=三仏堂
 日光山輪王寺大本堂=三仏堂を改めて見上げる(写真)。間口33.8m、奥行き21.2m、高さ26mで、東日本最大の木造の建物だそうだ。黒い本瓦葺き?の入母屋屋根に裳階を廻していて、階段下から見上げると圧倒する構えである。
 勝道上人(735-817)が766年に建てた紫雲立寺=四本龍寺は少し離れた場所だったらしい。慈覚大師円仁(794-864)が848年、いまの二荒山神社あたりに三仏堂、常行堂、法華堂を建てる(図web転載+加工参照)。円仁の建てた三仏堂=本堂とすると資料、webのつじつまが合う。

 鎌倉時代に本堂(三仏堂)はいまの東照宮あたりに移される。慈眼大師天海大僧正(1536-1643)はその本堂(三仏堂)をいまの二荒山神社あたりに移し、1617年、本堂(三仏堂)のあった場所に東照大権現を祀る東照社(東照宮)を建てる。
 移された本堂(三仏堂)が大雪で倒壊し、1647年、徳川3代家光(1604-1651)の寄進によって建て替えられる。これがいまに残る本堂=三仏堂の原型のようだ。圧倒する構えは家光らしい気がする。
 1653年、家光の霊廟として大猷院が造営され、輪王寺の所有となる。・・当時は三仏堂=本堂、常行堂、法華堂、大猷院が東照宮の西に一群をなしていたことになる(前掲図左上)。
 1655年に後水尾天皇から「輪王寺」の寺号を下賜されたあと、輪王寺は皇族出身の僧侶「輪王寺宮法親王」が住持となる門跡寺院になった。江戸時代のあいだ、輪王寺法親王は比叡山延暦寺、上野東叡山寛永寺、日光山輪王寺の三山を管領(かんれい)した。
 明治4年1871年の神仏分離令によって三仏堂=本堂の取り壊しが命じられたが、幸いにも旧観のまま現在地に移築され、輪王寺本堂として残された。このため本堂=三仏堂と、常行堂、法華堂、大猷院は東照宮表参道をあいだに挟んで離れてしまうことになる。
 のちに三仏堂=本堂は国の重要文化財に指定される。・・神仏分離令で取り壊されていたら貴重な歴史的文化財を失ってしまうところだった!・・。

 三仏堂内には、名前の通り日光三山の本地仏である三体の本尊、千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと)、本尊3.4m、総高7.0m、阿弥陀如来(女峰山)=滝尾権現=田心姫命(たごりひめのみこと)、本尊3.1m、総高7.6m、馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、本尊3.0m、総高7.4mが安置されている。
 金箔をまとった三仏は、3mを越える大きな姿ながら穏やかな笑みを浮かべていた(撮影禁止)。堂前で三仏に合掌する。

黒門
 本堂=三仏堂前の広場から表参道に出るとき、西正面の黒門をくぐる(写真)。
 1655年、輪王寺は輪王寺法親王が住持になったことは前述した。輪王寺法親王の本坊は上野東叡山寛永寺にあったが、天海大僧正によって日光山の本坊となる光明院が建てられた。黒門は光明院の表門としてつくられ、黒漆塗りのため黒門と呼ばれている。
 間口3間、薬医門形式で、銅板葺き(かつては桧皮葺か?)切妻屋根の堂々たる構えである。光明院は1871年の神仏分離令の混乱で焼失してしまうが黒門は火災を免れ、国の重要文化財に指定されている。

逍遙園
 かつては黒門の奥に光明院(日光山本坊)が建っていて、庭園がつくられ逍遙園と名づけられた。1871年の光明院火災で庭園も延焼したらしいが、修復、復元され、公開されている。
 三仏堂前の広場の南に宝物殿が建っていて、日光山の歴史に関する文化財、美術品、資料が展示されている。この宝物殿が逍遙園の入口になる(入場料300円)。
 小堀遠州として知られる小堀政一(1579-1647)は豊臣秀吉に仕えていたが、秀吉没後、徳川家康に仕え、茶人、建築家、作庭家、書家の才を発揮した。逍遙園は小堀遠州が家康に仕えた1598~1647年の作とされる。その後、改修、大改修が繰り返され、1871年の火災後にも改作されているそうだ。
 池を巡るように石組、石橋、出島、中島、遣り水、石灯籠、茶室を配置した池泉回遊式庭園で、中島、滝の石組などに遠州らしさがうかがえるとされる。
 庭木も四季の移ろいを感じるように巧みに配置されていて、とりわけ紅葉の鮮やかさが評判だそうだ(写真web転載)。
 明治天皇の東北巡幸のさい、1876年6月に輪王寺本坊に泊まったことが逍遙園の解説に紹介されている。1871年の光明院火災後、天皇を迎えるため逍遙園内に本坊がつくられたのかも知れない。

相輪塔
 黒門を出て表参道を北に少し上ると、三仏堂のすぐ後ろにペンシルロケットを連想させる高さ13.2mの青銅製の相輪塔が見える(写真web転載)。
 天台宗宗祖伝教大師最澄(766-822)は法華経の威力によって日本を守護する鎮護国家の思想から、814年に西・筑前国竈門山(塔跡)、南・豊前国弥勒寺(現宇佐神宮)、815年に東・上野国緑野寺(現浄法寺)、北・下野国大慈寺、そして比叡山延暦寺相輪塔(820年建立、現存)、比叡山延暦寺東塔(821年建立)に宝塔=相輪塔を建てたそうだ。倒壊、焼失し再建された宝塔=相輪塔もあれば、塔跡を残すだけの宝塔もあるらしい。
 徳川3代家光は、1643年、慈眼大師天海大僧正日光山の相輪塔を建てさせた。場所は現二荒山神社あたり=旧三仏堂近くだったらしい。旧三仏堂が大雪で倒壊し1647年に建て替えられ、相輪塔も大雪の被害があったのか1650年に場所を変えたとの説もある。
 1871年、神仏分離令で本堂=三仏堂が現在地に移されたのに伴い、1875年、相輪塔も三仏堂北側の現在地に移された。
 相輪塔のなかには2000を越える経典が納められているそうだ。2021年12月に見たときは青銅が黒ずんでいたが、2022年5月は化粧直しされ、輝いていていまにも国家鎮護に飛びそうだった。

大護摩殿
 本堂=三仏堂、相輪塔の北に鉄筋コンクリート造2階建ての大護摩堂が建っている(写真)。
 毎日7:30、11:00、14:00の3回、衰運期・変動期の星回り、厄年の人に祈願領3000円で護摩祈願をしてくれる。ちょうど、11時の護摩祈願が始まったところなので、外陣から参観させていただいた。内陣には本尊五大明王を中心に七福神、十二天などの仏が祀られている。天井には目を大きく開いた大昇竜が描かれている。
 黄色い法衣をまとった僧正が厳かに経文を唱え、火炉にヌルデという木片をくべると火の粉が舞い上がる。この火の粉に効用があるようだ。30分ほどの護摩炊きを参観し、火の粉の効用をお裾分けしてもらって護摩殿を出た。
 輪王寺三仏堂参拝は3度目だが、来るたびに新しい発見に気づかされ、復習で新たな知見を学ぶことができた。温故知新である。  (2022.8)

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2008.11+2021.12神橋を歩き輪王寺を学ぶ

2022年08月19日 | 旅行

栃木を歩く>  2022.5+2021.12+2008.11 神橋を歩き輪王寺を学ぶ

 2021年の年末、早めの寺社めぐりで、佐野厄除大師(HP「2021.12佐野厄除大師を歩く」参照)参拝後、日光東照宮、日光山輪王寺・大猷院、日光二荒山神社を参拝したが、陽明門は修復中、東照宮御仮殿は閉じていた。
 さかのぼって2008年11月、東武日光線東武日光駅から歩き、二荒山神社神橋を眺め、日光山輪王寺、日光東照宮を参拝した(HP「日光を行く①②③」参照)。
 2022年5月、奥日光・戦場ヶ原、湯の湖を歩き(HP「2022.5戦場ヶ原、湯の湖を歩く」参照)、翌日に日光田母沢御用邸、金谷侍屋敷を見学したあと(HP「2022.5御用邸・侍屋敷を歩く」参照)、修復を終えた陽明門を見ようと日光東照宮、日光山輪王寺に参拝した。
 日時が前後、重複するが、二荒山神社神橋、日光山輪王寺・大猷院、日光東照宮、日光二荒山神社の紀行文をまとめ直した。

二荒山神社神橋歩く/2008.11
 JR日光線日光駅、東武日光線東武日光駅どちらを出ても、駅前広場の先が国道119号線=日光街道だが、周辺の開発が進み杉並木は見えない。
 日光駅前から国道119号線は日本ロマンティック街道とも呼ばれる。日本ロマティック街道は栃木県日光市と長野県上田市のあいだの国立公園、観光地、温泉地、名所旧跡を結ぶ全長320kmの広域観光道路で、車で移動するときよく走る。栃木県日光市の起点が日光駅前あたりのようだ。
 国道=街道は北に向かって上り勾配で、日光駅あたりの標高は540m、大谷川に架かる橋あたりが標高590m余なので高低差50mほどを上る。大谷川の橋を渡ると、国道119号線は国道120号線=日本ロマンティック街道になる。
 国道の左手=西に大谷川に架かる木造朱塗りの刎橋(はねばし)が見える(前頁図web転載+加工、写真2008.11撮影)。重要文化財・神橋である。
 橋は767年に日光を開山した下野国(現栃木県)出身の勝道上人(735-817)に由来する。伝説では、勝道上人が日光山を目指すも大谷川を渡れず、護摩を炊いて神仏に加護を願ったところ深沙大王(蛇王権現)が現れて赤、青2匹の蛇を投げその上に山菅を敷いて橋としてくれ、勝道上人は大谷川を渡ることができた、そうだ。
 実際には、大谷川の両岸に刎ね木を差し込み、順に刎ね木を重ねていく刎橋がつくられ、御橋(みはし)と呼ばれた。

 時代は下って、日光東照宮造営の1629年、さらに日光東照宮大造営の1636年、大谷川両岸近くに切石の柱脚を立てて刎ね木を支える現在の形の刎橋に架け替えられた(前掲写真、橋下に切石の柱脚が見える)。
 架け替えに伴い神橋(みはし→しんきょう)と改名され、橋を渡るのは将軍、例幣使、山伏などに限られた、そうだ。
 神橋の反り加減は高すぎず低すぎず優美である。塗りの反りが、大谷川の、背景の(秋には紅葉か)に映える(前掲写真は残念ながら逆光)。2008年当時は、外国人や観光グループが入れ替わり立ち替わり「はいポーズ」を繰り返していた。
 木造のアーチ橋は錦帯橋など類似の構造を見ることができるが、木材の大きさがアーチのスパンの限度になるので川幅が大きい場合は錦帯橋のようにアーチが繰り返される。
 神橋では、橋の中ほどに柱脚を設ければ構造的には都合がいいが風景は台なしになるし、アーチが二つになり使いにくくなる。ということで両岸に近い位置に柱脚が補強されたのだと思う。2008年当時は、2005年に完了した解体修理で朱色が鮮やかだった。
 
日光山輪王寺を学ぶ
 神橋の少し西に日光山に入る旧日光街道=表参道が上っているが、日光駅から国道119号線を歩いてくると国道120号線を渡った正面に日光山に入る石段がある(写真web転載)。
 その両脇に松平正綱(1576-1648)が植えた杉並木が伸びていて、巨木の根元に「日光杉並木街道寄進碑」が置かれいる。
 2008年11月はこの石段を上ったが、杉並木に込められた松平正綱の思いやいまに残る杉並木景観の功績に気づかず通り過ぎてしまった。
 2021年12月の旅で、佐野厄除大師=惣宗官寺→徳川家康の日光改葬宿舎→例幣使街道佐野宿→松平正綱による例幣使街道・日光街道・会津西街道の杉並木、加えて二宮尊徳の功績を学んだ。最初の旅で見落としても次の旅で大きく学べばいい、と思う。

 石段はかなりの勾配で、一息二息しながら上る。神橋あたりの標高は593mぐらい、日光山輪王寺大本堂=三仏堂前の広場が628mぐらいなので、高さ35m=マンション11~12階分を上ったことになる。樹林のなかの空気はひんやりしていている。
 日光山輪王寺、日光二荒山神社、日光東照宮の二社一寺は、日光三山と呼ばれる男体山(標高2486m、輪王寺から西北西11kmあたり)、女峰山(標高2483m、輪王寺から北北西9kmあたり)、太郎山(標高2368m、輪王寺から北西13kmあたり)を始めとする日光連山の南斜面に配置されている。石段には山の冷気が吹き下ろしてくるのかも知れない。
 石段を上りきると日光山輪王寺大本堂三仏堂(次頁写真、重要文化財)前の広場に出る。・・2021年も2022年もマイカーを輪王寺東側の駐車場に止めたので三仏堂前の広場から歩き出し、この広場を通って駐車場に戻った・・。

 寺伝+webによると、「神橋を歩く」で述べた勝道上人(735-817)が766年、深沙大王の投げた2匹の蛇を橋として大谷川を渡ったあと、千手観音を祀る紫雲立寺を建てる。
 紫雲立寺はのちに四本龍寺に改名、平安時代に嵯峨天皇より満願寺を下賜されて改名、1655年に後水尾天皇の勅許により輪王寺と改名する。輪王寺の始まりは勝道上人の建てた紫雲立寺になる。
 勝道上人は767年に男体山=二荒山の神を祀った神社を建てる。二荒山神社の始まりである(現在の二荒山神社は日光東照宮の西やや北、標高650mあたりに建つ)。
 782年、勝道上人は男体山の登頂に成功し、男体山を二荒山と呼んだ。二荒→音読みでニコウ→日光になったといわれる。
 平安時代には真言宗・弘法大師空海が来山したと伝えられる。
 848年、天台宗・慈覚大師円仁(794-864)が入山して三仏堂、常行堂、法華堂を創建し、以降、満願寺(現輪王寺)は天台宗を宗派とする。
 三仏とは、日光の男体山、女峰山、太郎山を神体とみて、その本地仏である千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三仏を祀ったことに由来する。日光山では山、仏、神が一体として信仰され、鎌倉時代には日光山の山岳修行修験道(山伏)が盛んになる。

 1616年の徳川家康没後、慈眼大師天海大僧正(1536-1643)を輪王寺の貫首に迎え、三仏堂の北、標高660mほどに東照社(=東照宮)が建てられ、1617年、久能山から日光に神柩が改葬され家康は東照大権現として祀られる。
 話は飛んで、3代徳川家光(1604-1651)は遺言により、日光山輪王寺大猷院霊廟(東照宮の西、標高670mあたり)に埋葬された。
 日本では古来の神々と奈良時代に積極的に導入された仏教が習合され、二荒山神社(神格)・輪王寺(仏教)・東照宮(神格)が渾然一体としていても違和感がなかったと考えられる。 続く(2022.8)

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2021.12日光杉並木を歩く

2022年08月16日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12 日光杉並木&二宮尊徳記念館を歩く

 例幣使街道から話は飛ぶ。家康の側近として重用された松平正綱(1576-1648)は久能山の埋葬を担い、日光への改葬に従うなど2代徳川秀忠(1579-1632)からも信頼され、相模国(現神奈川県)玉縄城主2万1千石を安堵された。
 正綱は徳川家への忠義を形にして残そうと、1625年ごろから日光への参拝道になる例幣使街道、日光街道、会津西街道杉の苗木の植樹を始める。およそ20年、総延長37kmに杉を植え、家康33回忌の1648年、日光東照宮に杉並木を寄進する。同年、本懐を遂げた正綱は息を引き取る。正綱の子の正信も杉を植え足していて、当時の杉並木は16000本あまりだったと伝えられている。
 その後日光奉行が杉並木の保護にあたり、よく維持されてきたが、倒木、枯死、自動車交通、周辺の開発で減少し、いま残っているのは12500本ほどになった。近年はバイパス建設や杉並木オーナー制度を導入するなどの保護活動が進められている。
 日光杉並木は国の特別史跡、特別天然記念物に指定され、「日本の道100選」、「新・日本街路樹100景」に選ばれている。

 その日光杉並木を歩こうと、杉並木公園を目指して走っている。ナビに誘導されて走ったので例幣使街道、壬生通りはいつの間にか通り過ぎたようだ。14:30ごろ、東武日光線上今市駅に近い杉並木公園に着いた。
 無料駐車場に車を止める。空いていた。駐車場の西に杉並木公園が延びているが、まずは旧日光街道杉並木を歩く(写真)。
 細い水路の水音が聞こえるほかは森閑としている。杉並木に遮られ、陽は降りてこないので空気がひんやりしている。
 松平正綱が植えたのは苗木だが、400年も経ち杉は古木、巨木になった。ひんやりした空気は古木、巨木の霊気かも知れない。
 砲弾打込杉と記された杉まで15分ほど歩いた。杉に残っている弾痕は戊辰戦争のときの砲弾の跡だそうだ。

 旧幕府軍はこの杉並木で官軍に撃たれ日光東照宮に逃げ込み、追いかけてきた官軍とにらみ合っているとき日光奉行所の小林年保がことなく治め、謹慎中の徳川慶喜に報告して執事なり、小林年保はのちに第35銀行頭取、さらに日光に小林銀行を開業して金谷ホテルを支援した話につながった(HP&ブログ2022.5日光田母沢御用邸&金谷侍屋敷を歩く)。
 旧日光街道杉並木はときおり散歩らしい人と行き交うだけで、人通りはない。砲弾打込杉あたりで引き返した。途中で杉並木に並行して整備されている杉並木公園に入った。移築された古民家は閉鎖されていた。杉線香の生産に使った?水車が置いてあったが動いていなかった。杉並木散策マップ案内板、日光杉並木解説板も簡単すぎて物足りなかった。

 杉並木公園駐車場横の現日光街道=国道199号線の交差点に二宮尊徳記念館の表示があったので足を延ばした。交差点から道なり南西に2~3分歩くと、三角屋根の落ち着いたたたずまいで二宮尊徳記念館が建っている(写真)。
 私が通った東京都大田区の小学校には薪を背負い、歩きながら本を読む二宮金治郎像が置かれていた(次頁写真web転載)。70年も昔のことである。戦前の教育で勤労、勤勉の手本とされたようだ。多くの小学校に二宮金治郎像が置かれていたが、いまは交通安全や教育方針の観点から撤去されていると聞く。
 記念館の展示資料を読むと、二宮尊徳は金次郎像の勤労、勤勉のイメージとは異なり、財政再建、農村復興に多大な功績をあげていたことが分かる。
 二宮尊徳(1787-1856、幼名金治郎、本名たかのり、通称そんとく)は相模国(現神奈川県)の農家に生まれた。小さいころ川の氾濫、農地の荒廃、父母の死、一家離散を経験するが、預けられた祖父のところでよく働きよく学んだ。アブラナを植えて菜種油を取り、燈油にして夜も読書をした、稲の捨て穂を空き地に植えて収穫を得た、などの逸話が残っているそうだ。
 二宮金次郎像はこのときのイメージのようだが、二宮尊徳の偉業を考えると少なくとも子どもの私を誤解させてしまったと思う。

 二宮尊徳はやがて財政再建に才覚を発揮、さらに小田原藩主から下野国(現栃木県)の荒廃した農村の再興を依頼されて復興を果たす。二宮尊徳の財政再建策、農村復興策は報徳仕法と呼ばれ、大勢に影響を与えた。
 その後も二宮尊徳に復興事業、救済事業の依頼が続く。1842年、二宮尊徳は幕府に普請役格として登用される。1844年に日光神領89村の開発計画書=日光仕法雛形作成を指示され、1853年に日光領復興事業が開始、1855年、今市報徳役所が完成する。二宮尊徳は一家、門弟とともに今市報徳役所に移り住むが、翌1856年、病状が悪化し今市報徳役所で息を引き取る。
 今市報徳役所跡に建てられたのが二宮尊徳記念館である。館内には、報徳仕法農家住宅の模型が展示され、記念館に隣接して現存する報徳役所書庫が配置されていた。
 二宮金次郎像の誤ったイメージが払拭でき、二宮尊徳の報徳仕法による功績を学ぶことができたが、惜しいかな見学者は私たちだけだった。松平正綱が手がけた日光杉並木、二宮尊徳の報徳仕法はもっともっと知られるべきだと思う。

 駐車場に戻る途中、交差点角の社林に覆われた今市総鎮守瀧尾神社に寄る(写真web転載)。勝道上人(735-817)が日光二荒山神社を創建したとき、同時に瀧尾神社も創建したとされる。
 一之鳥居、二之鳥居それぞれに古色蒼然たる狛犬がにらみをきかした奥の本殿で二礼二拍手一礼する。社殿は戊申戦争時に焼失し、1891年の再建だそうだ。
 鳥居で一礼し、車に戻る。
 今日の宿は東武鬼怒川線東武ワールドスクエア駅に近い東急ハーベス鬼怒川である。2020年大晦日~元日に娘・孫たちと泊まったことがあり、泊まり心地がよかったので今回は連泊で予約した。
 日光杉並木公園は東武日光線上今市駅近なので、国道121号線=会津西街道を北に走り、16:00ごろチェックインした。葉を落とした林の先に鬼怒川が見える。せせらぎは聞こえないが、鬼怒川の風景を眺めながら温泉につかり、ゆっくりする。 (2022.8)

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2021.12佐野厄除大師を歩く

2022年08月15日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12 佐野厄除大師を歩く &例幣使街道

 2021年の年末、感染リスクを避けた早めの寺社めぐりを思い立った。日光東照宮平成大修理が2019年に終了しているので、東照宮、輪王寺、二荒山神社を参拝しようとマイカーで出かけた。
 岩槻ICから東北道に入る。ほどなく交通事故による渋滞の予告が表示され、渋滞が始まった。ノロッノロッストップ、ノロッノロッストップが30~40分繰り返され、ようやく事故現場を過ぎた。3車線を1車線に規制し、変形した車の回りで検分を行っていた。
 東北道をノロッノロッ走りながら、息抜きとランチを兼ねた佐野厄除大師参拝を思いついた(図web転載+加工)。
 厄年は平安時代ごろから信じられていて、男性25、42、61歳、女性19、33、37、61歳と前厄、後厄に厄払いをする風習は江戸時代に広まったらしい。厄除けはほとんどの寺社で受け付けていて、私も40代の厄年のとき、大宮氷川神社で厄払いを受けた・・その後、厄年、厄払いに気をつかわなくなった・・。
 とくに知られる関東厄除け三大師は、元三大師(良源)を祀る天台宗寺院の佐野大師(惣宗官寺)、川越大師(喜多院)、青柳大師(前橋・龍蔵寺)と、弘法大師を祀る真言宗寺院の西新井大師(東京足立区・總持寺)、神奈川県の川崎大師(平間寺)、千葉県香取市の権福寺大師堂があげられるようだ。

 佐野厄除大師(栃木県佐野市金井上町)はテレビで放映を見たことがある。年始の参拝は100万人を超えるそうだが、訪ねるのは初めてである。正式名は天台宗・春日岡山惣宗官寺である。
 佐野藤岡ICから国道50号線に下り、ナビに従って右折、左折していると長い白壁の塀が現れる。山門の横を入り、佐野厄除大師駐車場に車を止める。山門は薬医門で切妻の大屋根をのせ、葵紋が飾られている(写真)。
 平安時代の貴族藤原秀郷(891?-958)が、940年に平将門の乱を鎮圧したことから下野(現栃木県)に任じられ、944年に春日丘(現佐野市若松町)に惣宗官寺を創建した。開山は奈良の法相宗・宥尊(ゆうそん)である。
 その後荒廃するが、鎌倉時代、秀郷の子孫が再興し、天台宗となった。江戸時代早々、春日丘に佐野城を築くため惣宗官寺は現在地の金井上町に移る。その後佐野城は改易になり、そのとき城門が惣宗官寺山門に移されたとの説もある。そういわれれば山門は城門に見えなくもない(前掲写真)。

 1617年、徳川家康(1543-1616)の遺言により神柩が久能山から日光に勧請されるとき、惣宗官寺が宿舎となった。のちに惣宗官寺に御朱印五十石が拝領され、境内に春日丘東照宮が建立された(写真web転載)。
 春日丘東照宮には帰りしなに一礼して、辞した。春日丘東照宮参道には東照宮山門が建つが、立ち入り禁止になっていた。

 話を戻して惣宗官寺境内北に位置する山門(前掲写真)で一礼し、参道を南に歩く。右奥に春日丘東照宮が見え、右手前に鮮やかな朱色の屋根の下に金銅大梵鐘が黄金色に輝いている。
 左奥にパゴダ供養塔が立っていて、近くに栃木・足尾鉱毒事件の被害者救済を訴えた田中正造(1841-1913)の本葬が惣宗官寺で行われたことが解説されていた。田中正造の鉱毒被害者救済を教科書で習ったことを思い出した。
 右に折れると東向きの大屋根の惣宗官寺本堂佐野厄除大師が建っている(写真)。年始の参拝客がひしめき合うのはこのあたりのようだ。厄年の説明を読む人、厄除けを申し込む人が何人もいた。誰も厄が気になるのであろう。私は厄除けを済ませているので、コロナ退散を願い本尊如意輪観音、元三大師に合掌し、参道を戻る。
 佐野厄除大師を出て食事処を探しながら県道を北に走り、板塀を廻し門を構えた和食店を見つけた。人気の店らしく混み合っていたが、感染リスクの低い半個室に仕切られている席に座った。ゆったりした気分で、6種類の具を楽しむそば御膳を食べた。

 話は変わって、佐野は例幣使街道の宿場だった。
 徳川家康(1543-1616)は遺言で、静岡・久能山に埋葬し(1616年)、翌年に日光に勧請(1617年)するよう言い残した。2代徳川秀忠(1579-1632)は父家康の遺言に従い、久能山、日光に東照社を建て、久能山に埋葬し、翌年、日光に改葬する。
 1617年に御水尾天皇から東照大権現の神号が贈られる。家康は神として崇められることになり、各地の大名が東照大権現を祀る東照社を建立し始める(一時は700社も建てられ、現在残るのは130社ほどといわれる)。
 1645年、後光明天皇から東照社に宮号が宣下され、久能山、日光を始め全国の東照社は東照宮となる。
 1646年、3代徳川家光(1604-1651)の要請により、宮中から日光東照宮に幣帛を奉献する勅使が遣わされる。翌年以降毎年、京都から奉幣使が日光東照宮に幣帛を奉献するのが慣例となる。
 奉幣使の通る街道は、京都~倉賀野=中山道、倉賀野~楡木=例幣使街道、楡木~今市=壬生通り(日光西街道の一部)、今市~日光=日光西街道である。
 1617年、家康の改葬(=神柩を日光に勧請)のとき惣宗官寺が宿舎となり、のちに春日丘東照宮が建立されたのだから、例幣使街道を経由する奉幣使も惣宗官寺を宿舎とし、春日山東照宮にも参拝したのではないだろうか。 (2022.8)

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