<栃木を歩く> 2021.12 日光山輪王寺常行堂・法華堂&大猷院を歩く
輪王寺大護摩堂を出て表参道を北に上る。少し先の左角に建つ食事処「きしの」の手前に大猷院の道順が矢印されている。
左に曲がると、うっそうとした樹林のなかに砂利道がまっすぐ延びている。東照宮に向かう表参道は人通りが多かったが、大猷院に向かう砂利道は人がまばらである。
「きしの」から300mほど歩くと、左に北東を正面にした朱塗りの輪王寺常行堂、法華堂が並んでいる(写真web転載、手前が常行堂、奥が法華堂)。
慈覚大師円仁(794-864)が848年に三仏堂、常行堂、法華堂をここに建てた。のちに三仏堂は現東照宮あたりに移され、さらに現二荒山神社あたりに移され、大雪で倒壊後の1647年に徳川3代家光(1604-1651)によって建て替えられ、1871年の神仏分離令で現在の輪王寺大本堂=三仏堂として移された話は前述した。
常行堂、法華堂も大雪の被害を受けたようで、いずれも1649年に同じ場所に再建された。
慈覚大師円仁を補習する。円仁は下野国(現栃木県)生まれ、802年、下野国大慈寺で修行後、比叡山延暦寺で天台宗宗祖伝教大師最澄(766-822)に師事する。最澄が法華経による国家鎮護のため6ヶ所に宝塔=相輪塔を建てるとき、円仁は最澄の東国巡遊に従い815年、下野国大慈寺の宝塔=相輪塔建立を手伝う。
現在の大慈寺宝塔=相輪塔は1725年の再建である。想像するに、815年に建てられた大慈寺宝塔=相輪塔はその後倒壊し、1643年徳川3代家光が三仏堂近くに北方鎮護を担う宝塔=法輪塔を建てさせたのち、大慈寺でも最澄、円仁ゆかりの宝塔=相輪塔再建の機運が高まり1725年に再建した、のではないだろうか。
復習、補習で、最澄の大慈寺宝塔=相輪塔建立と、円仁が大慈寺で修行し、最澄に師事して大慈寺宝塔=相輪塔建立を助力したことが重なった。
円仁は832年に唐に渡り(2度は失敗し、3度目に船が大破しながらも入唐)、五台山に登り、長安を訪ね、最澄、空海が日本に搬入した経典以外の経典、曼荼羅を数多く集め、847年に帰国する。帰国後、関東に209寺余、東北に331寺余を開山、再興したそうだ。
日光山もその一つで、848年、その当時は満願寺と呼ばれた真言宗の寺だったが、円仁は三仏堂、常行堂、法華堂を建て天台宗とした。円仁は三仏堂に千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音を安置する。現在の輪王寺大本堂=三仏堂の三仏は製作年代が不明だそうだが、円仁の思想は受け継がれている。
円仁の建てた常行堂は和様だったそうで、1649年に再建された常行堂(重要文化財)も和様が踏襲された。堂内中央の須弥壇には孔雀に乗った本尊五智宝冠阿弥陀如来像(重要文化財)と孔雀に乗った脇侍の金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩が安置されている(公開)。90日間、阿弥陀如来の周りを念仏を唱えながら歩く行道が行われるようだ。
法華堂は唐様=禅宗様で、1649年に再建された法華堂(重要文化財)も唐様が踏襲された。堂内に本尊普賢菩薩、脇侍の鬼子母神、十羅刹女が安置されているそうだ(非公開)。21日間、普賢菩薩の周り念仏を唱えながら歩く行道と坐禅を繰り返す半行半坐が行われるらしい。
外観はいずれも方形屋根=宝形屋根、木部が朱塗りで一見すると和様、唐様は分かりにくいが、四角窓と花頭窓、屋根の反りに違いがある。堂内意匠も違うらしい。
常行堂と法華堂は渡り廊下でつながっている。これは法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを体現したためだそうだ。
常行堂前で合掌、法華堂前で合掌する。
常行堂、法華堂の先の石段上に輪王寺大猷院仁王門が見える(写真)。
徳川3代家光(1604-1651)は江戸城で息を引き取る。48歳だった。
・・テレビで再放送された「家光乱心」を見た。家光の後継者にからむ緒形拳、千葉真一らの激突は迫力があった。映画では家光は非業の死を遂げる。真相は闇の中だが、家光の跡は長男の幼名竹千代=家綱が継ぐ・・。
家光は、祖父である東照大権現の眠る日光山に、と遺言する。11歳で将軍を継いだ徳川4代家綱(1641-1680)は大老、老中らの主導で、1653年、東照宮の西、慈眼大師天海大僧正(1536-1643)の眠る輪王寺慈眼堂の北西に、輪王寺大猷院を完成させる。
東照宮は神君家康を祀り絢爛豪華さが表現されているが、大猷院は色調を抑えた幽玄な仏殿が目指されているようだ。
仁王門手前の社務所で拝観券(単独券550円、共通券もある)を購入し、仁王門の石段を上る。
仁王門(重要文化財、前掲写真)は大猷院創建の1653年建立、南東に向いた間口3間、銅瓦葺き切妻屋根の八脚門で、左右の金剛力士像が真っ赤な体に阿吽の形相でらみつけている。下層の柱梁は朱塗りだが、屋根組は黒漆を基調に金色の飾り金物で装飾されていて、落ち着いた色調である。
一礼して門に入る。見上げると、小屋組を支える梁の上の蛙股に彩り豊かな雁が彫刻されている。
さらに見上げると、黒漆の小屋根が二つ並んでいる。大屋根の下に二つの小屋根を重ねる三棟造りだそうだ。
足下に気を向けていると見落としてしまう小屋組、屋根にも匠の技が仕込まれている。
仁王門を抜け木立のなかの石畳を北西に進むと、右に黒漆に金の飾り金物、彩やかな彫刻を施した御水舎が建つ。
ここで向きを南西に変えると、石段上に二天門(重要文化財、写真)が見下ろしてくる。二天門は北東向きで、大猷院創建の1653年建立、2012年に補修を終えた間口3間、銅瓦葺き入母屋屋根、正面、背面を唐破風とした八脚楼門である。
仁王門が比べて質素であり、参拝軸は北西から南西に90°向きを変え、仁王門の石段よりさらに高い石段の上に、隙間なく並ぶ斗栱の組物を1層、2層の2段に重ねた楼門なので、空間の質が高まってくるように感じられ、緊張感が増してくる。
向かって左には緑色の持国天が口を開き(阿)、右には真っ赤な増長天が口を閉じ(吽)、参拝者をにらみつける。
一礼して二天門を抜ける。持国天の後ろには真っ赤な雷神、増長天の後ろには緑色の風神がにらんでいた。雷神、風神は陽明門から移されたらしいが、多聞天、広目天ではなく雷神、風神を置いた理由について説明板は触れていない。
二天門を出ると前は石垣で行き止まりになり、参拝軸は右90°、北西に向きを変え石段を上る。展望所と書かれた広場=踊り場があり、ここから左90°、南西に向きを変えると石段の彼方に夜叉門の屋根が見える。石段を上がるごとに夜叉門が姿を現してくる幽玄の世界を感じさせる演出であろう。
石段を上がると広い前庭に出る。左に鮮やかな彩りの組物で入母屋屋根を支えた袴腰の鼓楼、右に同じ形の鐘楼が建つ。周りには寄進された灯籠が並んでいる。 前庭の先の石段を上ると、左右に回廊を延ばした夜叉門が構えている(重要文化財、次頁写真)。夜叉門は大猷院創建の1653年建立で、北東を向き、間口3間、銅瓦葺き切妻屋根に正面、背面を唐破風とした八脚門である。屋根を支える斗栱の組物は黄金色に輝いて迫り出し、参拝者を圧倒する。江戸時代の参拝者は思わずここでひれ伏したのではないだろうか。
夜叉門には、名前の由来となる霊廟の守護者4体、正面左に赤い毘陀羅(びだら)、右に緑の阿跋摩羅(あばつまら)、背面向かって左に青い烏摩勒伽(うまろきゃ)、右に白い犍陀羅(けんだら)と呼ばれる夜叉が祀られている。門全体に牡丹が彫刻されているので、別名は牡丹門である。
夜叉門で一礼して抜けると、正面石段上に黄金色の唐門が構えている(重要文化財、写真)。緊張感で足が止まる。
唐門の奥が拝殿・相の間・本殿の並ぶ家光廟である。家光廟なので緊張感が高まるということもあるが、仁王門、二天門、夜叉門を過ぎるたびに参拝軸が90°変わり、石段が段々高くなり、門の構え、つくりが巧みになり、門前の広場も夜叉門前に比べ唐門前は小さくなっていて空間密度が高まり、参拝者は知らず知らず緊張感を高めていくようだ。
仁王門あたりが標高640m、唐門あたりの標高が670m、高低差30m=マンション10階分を上り、うっそうとした社林に包まれ、空気も冷涼で、血管が緊張したためかも知れない。
唐門は大猷院創建の1653年建立、北東を向いた間口1間で、妻側正面を唐破風とした向唐門(むかいからもん)である(平側を唐破風にしたときは平唐門と呼ぶ)。
唐門から左右に延びた袖塀には百態の群鳩と呼ばれる多様な姿の鳩が彫られていて、どれも躍動的である。
石段を上り唐門の妻壁を見上げる。梁に白大理石を浮き彫りした龍が躍動している。家光は辰年なので龍が好まれたようで、拝殿にも対となる龍が浮き彫りされている。妻壁の龍の上には2羽の丹頂鶴が浮き彫りされている。鶴は千年といわれるから、天上で末永く安眠を、という意味だろうか。
唐門で一礼し、拝殿で合掌する。拝殿・相の間・本殿は金色、赤色、黒色を基調に、狩野派の絵画や精緻な彫刻で飾られていて、本殿では家光公位牌に参拝できるそうだが、拝殿に入らず右、北西に進む。
拝殿角で左、南西に曲ると、拝殿妻面に続いて相の間側面、本殿妻面が見えてくる(写真)。社殿は左に拝殿、あいだに相の間、右に本殿が並ぶ権現造である。いずれも大猷院創建時の1653年建立で、国宝に指定されている。
拝殿は間口7間、奥行き3間、相の間は間口1間、奥行き3間、本殿は間口、奥行きとも3間、いずれも銅瓦葺きで、拝殿は入母屋屋根、本殿は入母屋屋根に裳階を廻している。外観は金箔と黒漆を基調にして重厚であるが、屋根を支える斗栱の組み物、柱上部の獅子、扉飾り、花頭窓、壁面のしつらえすべてに精緻な彫刻が施されている。徳川家の威信が凝縮されているようだ。
本殿の角まで進み、左の袖壁の小門を出ると正面に南東を向いた皇嘉門が見える(重要文化財、写真web転載)。皇嘉門の奥が奥の院=家光墓所になるが、一般参拝者は立ち入れない。
皇嘉門も大猷院創建時の1653年建立、明朝様式の楼門で竜宮門とも呼ばれる。森閑としていて空気はますます冷涼になってきたような気がする。
皇嘉門で合掌し、袖塀に沿って唐門に戻り、再度家光廟に一礼し、石段を下って夜叉門、展望所、二天門、仁王門を戻る。 (2020.8)