yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2019.5 西澤安澄ピアノリサイタルでショパン「英雄ポロネーズ」やラヴェル「ボレロ」を聴く

2019年05月27日 | よしなしごと

2019.5 ティー・タイムコンサート「西澤安澄ピアノリサイタル」  日本の旅・埼玉を歩く一覧

 さいたま市北役所を含む複合施設プラザノースで、5月24日・金曜に公演された「西澤安澄ピアノリサイタル」を聴いた。
 ノース・ティータイム・コンサートは「ウィークデーの午後、お茶を楽しむように音楽を聴きながら過ごす」をコンセプトにしていて、気軽に音楽を楽しめるように公演時間も45分などと短い。入場料は500円で廉価なうえ、コンサート終了後珈琲紅茶を楽しめる珈琲割引券も付いている。

 西澤安澄氏の演奏は初めてである。氏は、桐朋女子校音楽科卒後、桐朋学園大学で学び、ジュネーヴ音楽院大学院に進んで国際コンクールで入賞、優勝を重ね、一等賞で卒業した。卒業後、マドリッドに拠点を移し、世界各地で演奏活動を展開しているそうだ。
 演奏のあいまにスピーチがあり、「ふだん、日本語を使わないからなめらかな日本語が出てこない」などと冗談を言っていた。父が埼玉で教授だった?、埼玉在住だった?ので、埼玉に親しみがあるそうだ。
 住まいからアルハンブラ宮殿のすばらしい風景を眺めることができるとも言っていたから、いまはグラナダ・アルバイシンあたりに住んでいるようだ。

 1曲目は、スペイン・カタルーニャ出身アルベニス(1860-1909)作曲の「入り江のざわめき(組曲・旅の思い出より)である。
 南スペインの港町マラガの民謡から着想した曲らしい。私は1994年と2015年のスペインツアーで南スペインも訪ねている。南スペインらしく、曲は明るく、躍動的である。
 2曲目は、南スペイン・カディス出身ファリア(1876-1946)作曲のバレエ音楽「粉屋の踊り(組曲・三角帽子より)だった。アンダルシア地方の民話をもとにした三角帽子という短編小説を下敷きに、バレエ音楽を作曲したそうだ。
 3曲目はスペイン・カタルーニャ出身モンポウ(1893-1987)作曲の「歌と踊り第6番」である。15曲の作品群のうち13曲目がギター、15曲目がオルガンのための楽曲で、残りがピアノのための作曲だそうだ。6番はキューバ・アルゼンチン・ブラジルの影響を受けたリズムが使われているらしいが、西澤氏が解説しなければ分からなかった。

 アルベニスもファリアもモンポウも馴染みがなく、音楽も初めて聴く気分だった。あいまのスピーチに「アルハンブラの思い出」の1小節を弾いてくれたので、スペインらしさが共通していることが理解できた。

 4曲目はショパン(1810-1849)の「英雄ポロネーズ」の演奏である。
 1842年作曲ですでにショパンはパリに住んでいる。ポーランドはロシア支配下にあり、再三蜂起が起きているが、作曲されたころはポロネーズ(=ポーランド風)第6番と呼ばれた。
 1848年フランスで2月革命が起きた。ショパンとも同棲したことのあるフランスの作家・ジョルジュ・サンドがショパン宛の手紙に、ポロネーズ第6番はフランス革命の英雄達の象徴となると書き送ったことから、英雄ポロネーズと呼ばれるようになったとの説もある。
 英雄ポロネーズは我が家のCDにも収録されていて、馴染みがある。西澤氏の熱演は心に響く。

 最後の演奏は、フランス・バスク出身のラヴェル(1875-1937)作曲「ボレロ(西沢安澄編曲)」である。
 ボレロも指揮、楽団の異なるCD2枚を持っていて、家でよく聴く。私の好きな曲の一つだ。西澤氏の熱演に聴き入った。15分ほどの演奏だろうか、全力を出し切ったようで弾き終わってしばらくは動けず、呼吸を整えていたほどである。

 大きな拍手で演奏に感謝したところ、拍手に応えてアンコールも弾いてくれた。重ねて感謝の拍手を送る。

 午後のひととき、熱演を楽しみ新たな知識を得ることができた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019.5 都美術館「クリムト展」は「ユディトⅠ」、「ベートーベン・フリーズ」、「女の三世代」など見どころ多し

2019年05月25日 | 旅行

2019.5 東京都美術館「クリムト展」

  2003年8月に、ブタペスト・ウィーン・プラハ3都巡りのツアーに参加した。3都とも、歴史地区の散策、歴史的な建造物の見物が主で、美術館は含まれていなかった。自由時間の多いツアーだったが、ウィーンではアール・ヌーヴォー=ユーゲントシュティールを見たり、トラムに乗ったり、シェーンブルン宮殿コンサートを聴いたりして時間切れになった。
 そのときは絵画を見ていないし、グスタフ・クリムト(1862-1918)についてもほとんど知識が無かった。
 クリムトが1908年に描いた「接吻」を美術雑誌で初めて見たとき、金箔を用い、恋人同士を極端にデフォルメした表現にすっかり魅了された。

 クリムトはウィーン近郊の生まれで、父は彫刻師だった。クリムトを始め兄弟は博物館付属工芸学校で学び、父の死後、美術デザインの仕事を引き継ぎ、1883年、クリムト21才のころ、芸術家商会を設立、劇場装飾を手がけた。のちに金功労十字賞を受けているから、すでに非凡な才能が認められたようだ。
 1894年、ウイーン大学講堂の天井画に、哲学、医学、法学をテーマにした絵画を習作するが大論争を引き起こし、その後、ナチスに没収され、焼失してしまう。
 保守的な造形芸術家協会を嫌い、1897年、ウィーン分離派を結成する。1901年、金箔を用いた「ユディトⅠ」を制作、1901年の第14回分離派展=ベートーベン展に大作「ベートーベン・フリーズ」を出品する。1905年、分離派を脱退し、オーストリア芸術家連盟を結成し、前述「接吻」などの名作を発表し、1918年、病没する。

 クリムトの油彩画は220点ほどで多作ではなかったし、ナチスの接収や戦禍で紛失した作品も少なくないようだが、「クリムト展」には油彩画55点を始め、120点が展示され、見応えがありそうだ。
 クリムトの作品は、初期の写実的でアカデミックな画風、金箔を多用した「黄金様式」を経て、装飾的で抽象的な色面と人物を組み合わせた独自の画風を確立し、ウィーン・モダニズムの旗手として活躍したとの解説も参考にしながら、出かけた。

 都美術館は第3水曜がシルバーデーで65才以上は無料になる。2時ごろで30分待ちだった。

 展示は、1.クリムトとその家族、2.修行時代と劇場装飾、3.私生活、4.ウィーンと日本1900、5.ウィーン分離派、6.風景画、7.肖像画、8.生命の円環、の順で構成されている。
 「1.クリムトとその家族」の「ヘレーネ・クリムトの肖像」、は1898年、6才の姪の横顔である。明るい無地の背景に白いドレスの油彩で、まだ金箔への試みは表れていない。「2.修行時代・・」も伝統的な画風の油彩、水彩が並ぶ。

 クリムトは結婚しなかったが、モデルなどとのつきあいで子どもは10数人もいたそうだ。「3.私生活」には生涯のパートーナーであるエミーリエ・フレーゲら、噂のあった相手の写真や手紙、記念品が展示されている。

 ヨーロッパの画家が浮世絵などの影響を受けたことは、しばしば美術展のテーマになるほどで、クリムトも影響を受けたことが「4.ウィーンと日本が1900」の主題である。
 1891年作の「17才のミーリエ・フレーゲの肖像」は清楚な描き方で「ヘレーネ・クリムト」に通じるが、額縁の余白を残した梅の枝、草花の表現は日本画の影響とされる。1907年作の「女ともだちⅠ」は浮世絵の美人画をヒントにしたそうで、縦長の画面に二人の女性を描き、足元は市松模様で仕上げている。一瞬、ロートレックを思わせる大胆な構図、色彩だった。

 「5.ウィーン分離派」の「ヌーダ・ヴェリタス」は1899年作で、真実の鏡を手にした裸婦を描き、裸婦の頭上にシラーの言葉を入れて、分離派への決意を表明している。1901年作「ユディトⅠ」は金箔を用いて官能的な女性を描いていて、黄金様式の始まりを感じさせる。
 1901~1902年に描かれた長大な壁画の「ベートーベン・フリーズ」は、ベートーベンの交響曲第9番に基づき「幸福への憧れ」「敵対する勢力」「歓喜の歌」を描いている。展示室の3面を使った複製の展示だが、複製と感じさせない迫力がある。

 「6.風景画」「7.肖像画」も見どころは多い。「8.生命の円環」の1905年作「女の三世代」は左に年老いてうなだれる老女、中央の若々しい女に抱かれて安心して眠る右の幼児が描かれている。生命の円環の暗示のようだ。
 1909?1910?年作の「家族」は黒衣、あるいは黒の毛布から寝顔だけをのぞかせた母と二人の子どもの絵である。顔に赤みがあるから死んではなさそうだが、黒一色の背景が危うげな生と死の暗示だろうか。
 7月10日までの開催なので、クリムトとの対面をお勧めする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河津桜を歩く

2019年05月21日 | 旅行

静岡を歩く>  2019.2 静岡を歩く 河津桜

 朝起きたときも駿河湾は鈍色に染まったままである。ときおりパラパラと小雨が流れる。送迎バスで伊豆高原駅に送ってもらった。
 伊豆高原駅周辺も桜が色づいている。濃い桃色だったので河津桜と思っていたが、大寒桜だった。花は一重で、寒桜より少し大きいことから大寒桜と呼ばれるらしい。伊豆高原では3kmに及ぶ大寒桜のトンネルが人気だそうで、桜祭りは3月中旬~下旬に予定されているから河津桜より少し遅い。
 河津桜が大勢の観光客を集めているから、伊豆高原でも桜にあやかり、河津桜と時期がずれる大寒桜を選んで植樹が進められたようだ。日本人ならず、近年は外国人もわざわざ桜の時期に合わせて来日するほど花見の人気はうなぎ登りである。この日も、伊豆高原駅ロータリーには外国人ツアーがいたから、桜祭りは賑わいそうだ。

 10時少し前の伊豆急行線に乗る。まだ早いせいか、ほどほどの混みようだった。20分ほどで河津駅に着く。改札口あたりはすでにざわつき始めていた。
 昨晩考えた計画では、バスで水垂バス停まで行き、七滝ハイキングコースを下り、河津七滝バス停から上峰バス停までバスに乗り、上峰バス停から河津川沿いを歩いて桜を堪能し、河津駅から帰る、つもりだった(図web転載、緑…バス、茶色…歩)。
 河津七滝方面のバス停でチケットを買いながら七滝(ななたき)ハイキングを確かめたら、七滝(ななだる)ハイキングは雨で滑りやすいから止めた方がいいと忠告された。小雨が断続的に降っていて、岩場は滑りやすそうだ。地元の方の忠告に従い、無理を避けることにして、河津七滝バス停周辺の滝見学に絞ることにした。
 河津七滝方面のバスは、天城峠、浄蓮の滝、湯ヶ島温泉などを経て修善寺が終点である。人気の観光地や温泉地を抜けるバスなので、混み合っていた。

 バス通り=県道14号線を走り始めてほどなく、桃色を空に広げた河津桜が現れた。何人もが桜を見上げながら写真を撮っている。
信号待ちでバスが止まったので目をこらすと、河津桜原木の説明板が見えた(写真、web転載)。
 web情報によると、1955年、高さ1mほどの桜を見つけた人が庭に移植した。よほど桜が好きだったのであろう、大事に育て、1966年ごろから開花した。
 ソメイヨシノより1ヶ月も早く咲き始め、桃色も濃い。新品種であることが分り、河津桜と命名された。1975年に町の木に指定され、有志による植栽が進められて、いまや河津川沿い3kmに及ぶ桜並木となった。
 2月10日ごろから3月10日ごろに桜祭りが開催され、2019年花見人出ランキングで全国第8位、100万人に迫るほどの人気である。河津駅に近く、交通の便の良さも人気に拍車をかけているようだ。
 桜原木の樹齢は60年を超えるが、大きく枝を伸ばし、濃い桃色の花をたわわにつけて、勢いがある。カメラを構えようとしたらバスが走り出し、シャッターチャンスを逃した。

 11時過ぎ、水垂バス停に着く。河津七滝見学の拠点になっているらしく、大型バスの外国人グループが見学に向かうところだった。
 河津七滝は、滝の漢字を「たる」と発音し、七滝は濁って「ななだる」と発音する。河津駅のバス停で確かに「ななだる」と言っていた。伊豆の訛りかと思っていたが、水が垂れる様子から「滝」を「垂る=たる」と言い習わしたらしい。
 25000年ほど前、伊豆東部火山爆発の溶岩流が谷に流れ込んで、滝?崖?をつくりだした。いまの河津川にも滝がいくつもつくられ、七滝あたりには、上流側に釜滝かまだる、次にエビ滝、以下、蛇滝、初景滝しょけいだる、カニ滝、出会滝、大滝が1.5kmのあいだに連続し、七滝ハイキングコースが整備された。伊豆半島ジオパークのジオサイトにも指定されているから、天気が良ければ地球の旅を楽しむことができる。
 バスを降りたときも小雨が通り過ぎた。断続的だが、昨晩からの雨で足元は水浸しである。駐車場を下り、県道に出る。左に下れば大滝、右に上れば出合滝、カニ滝、初景滝が続き、伊豆の踊子像もあるらしい。河津駅に向かう次のバスは11:43、その次が12:38である。雨で滝巡りが難しいので、伊豆の踊子像あたりまで散策し11:43のバスに乗りことにした。
 県道を少し上ると、出会滝の表示がある。狭い石段を80mほど下る。雨で滑りやすい。石段を降りきったところで、先客が記念写真を撮っていた。出会滝は、二つの流れが合流する=出会うことから名付けられたそうだ(写真)。
 記念写真のカップルは自分たちの出会を思い出しているのかも知れない。高さ2mほどの滝は、溶岩流の特徴である柱状節理が表れた岩を削りながら流れ落ちている。

 県道は次のカニ滝の手前で河津川を渡り、左にカーブする。七滝ハイキングの散策路は河津川に沿って上っていく。
 散策路から河津川に30m下ると、カニ滝が見える(写真)。落差2mほどの小さな滝が、ごつごつした柱状節理を削って落ちている。ごつごつした溶岩の膨らみが蟹の甲羅に見えることから「カニ」と名付けられたらしい。周りは林で開け、明るい。ここも先客が写真を撮っていた。

 河津川を眺めながら散策路を歩く(写真)。溶岩流がむき出しになった川床を流れるのが河津川である。降ったり止んだりの小雨のせいか今日の流れは穏やかだが、多雨、豪雨のときは激しい流れが溶岩を削り、荒々しい川床をつくり出すようだ。
 しばらく歩くと、第2回「伊豆の踊子」読書感想文最優秀賞作品と題した看板が立っていて、最優秀賞の読書感想文が全文書かれていた。隣に、伊豆の踊子モデル像も置かれている(写真)。看板の読書感想文を少し読んだ。自分の物語として自分を重ね合わせたそうで、書き出しもうまい。が、全文を読むほどの時間はない。この先に初景滝と伊豆の踊子像があるらしいが、ここで戻ることにした。

 11:43のバスに乗り、上峰バス停で降りる。川沿いに出ると、桃色の河津桜絶景が始まる(写真)。ときおり小雨が流れ風景が煙っているが、濃い桃色の河津桜は煙った風景をものともせず咲き誇っている。
 およそ3kmの桜並木を歩く。歩き始めてしばらくはすれ違う人が少なかったが、河津駅に近くなるにつれ人出が増え、呼応するように屋台も並び始めた。
 写真を撮る人、屋台で買い食いする人は、日本人も少なくないが、外国人の花見グループが圧倒する。伊豆急行を利用し、河津駅から歩いてきたようだ。
 民家の庭先に菜の花が植えられていて、菜の花の黄色と桜の桃色の組み合わせが絶妙だった(写真)。桃色一色の桜並木は十分に見応えがある。しかし、菜の花の黄色を組み合わせると、さらに目を楽しませてくれる、と思う。
 桜を眺めながらランチを取るつもりだったが、屋台か仮設の食事処しか見当たらず、しかもどこも混み合っていた。
 駅まで歩く。駅近の食事処でおすすめの海鮮丼をいただいた。
 河津駅改札口は、これから花見に出かける?外国人グループで混み合っていた。花見の時期は全国第8位の人出になるそうだが、オフシーズンの11ヶ月の人出は少ないだろうから、1ヶ月のための過剰な投資もできないのであろう。桜並木を眺められる食事処やカフェがないのも、11ヶ月の閑散さを物語っている。

 スーパービュー踊り子号は1時間近く待たねばならないし、下田発で混み合っているそうなので、13:39発の普通列車に乗った。ほどほどの込みようで座れた。駿河湾はあいかわらず鈍色である。
 熱海から上野東京ラインに乗り、本を読んだり、うつらうつらしたりしながら家に帰った。昨日の梅見で8200歩、今日の花見は11500歩、足に疲れは残っていない。
 帰宅後、梅園と河津桜を思い出しながら、花見酒をいただいた。  (2019.5)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱海梅園を歩く

2019年05月17日 | 旅行

<静岡を歩く>   2019.2 静岡を歩く 熱海の梅

 河津桜はソメイヨシノより開花が早い。2016年2月に久能山を訪ねたあと宿に向かおうと国道414号線を走り、河津で大渋滞に巻き込まれて車窓から河津桜を眺めることになった。
 2019年2月、列車を利用して熱海の梅、河津の桜を訪ねた。
 上野東京ラインを利用すると熱海まで乗り換えなしでおよそ2時間半、2300円ぐらいである。東京駅から伊豆の踊り子号に乗ると1 時間20 分かかり3300円ぐらい、新幹線を使うと熱海まで50 分ほどで3700円ぐらい、まさに時は金なりである。現役のときは踊り子号や新幹線を使って時間を節約したが、年金暮らし、乗り換えなしでのんびり本を読むことにして上野東京ラインに乗った。

 熱海梅園は来宮駅から徒歩 10 分である。来宮駅は熱海駅で伊東線に乗り換え次の駅だが、伊東線は平日にもかかわらずたいへんな混みようだった。梅に早桜、最近は伊豆半島ジオパークも加わり、伊豆の人気は高い。
 来宮駅で降りる。駅前を見回すが、手ごろな食事処が見当たらない(写真)。梅見に向かう人、梅を見終わった人が少なくない。上り道を10分ほど歩くと、右手に入場口が現れる。コースは分かりやすい。
 熱海梅園は、ふだんは無料開放だが梅まつり中は一般は300 円、熱海市民と熱海宿泊客は100 円、中学生以下は無料になる。梅園の手入れは大変にもかかわらず300 円、熱海宿泊客100 円の設定に、観光資源を財源とする熱海市の熱意を感じる。

 熱海梅園は、明治初め、内務省・長与専斎の提唱で、1886年に開園した。初川沿いの斜面地2.5ha、南端から北端までおよそ400mに、早咲き梅270本ほど、中咲き梅100本ほど、遅咲き梅100本弱、ほかに桜、桃、楓、柿、柳、松、杉などが植えられていて、年間を通して樹園を楽むことができるそうだ。
 入園するとさっそく梅が迎えてくれた(写真)。桃色に近い紅梅、清楚な雰囲気をただよわす白梅、近づくとほんのりと香る。風がなく、日差しがあるから寒さは感じない。
 平凡だが、菅原道真の「東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」を思い出す。

 園内の遊歩道はいくつかに分かれている(写真)。初川に沿って上り、漸佳橋を渡る。梅園という佳境の入り口、といった意味合いで名付けられたらしい。高台の上が中央広場で、屋台が並んでいた。ほかに食事処がないので、ここでかき揚げうどんといなり寿司を食べた。梅見酒といきたいが、我慢、持参の炭酸水で代用する。
 梅園マップには芭蕉の句碑「梅が香に のっと日の出る 山路かな」が書かれていたが、見落としたらしく迎月橋に出た。
 迎月橋からは視界が開け、月の出を楽しめる、といった意味合いらしい。
 芭蕉の句は、梅の香りにさそわれるかのように太陽がのっという感じで現れた、という早春を喜ぶという解釈のようだ。解釈は自由なので、私は、梅の香りに気を取られ日が高くなっているのに気づかず、のっと現れたように感じた気分を想像した。
 いずれにしても芭蕉の時代にこの梅園はないから舞台は熱海ではなさそうだが、梅園にちなんだ句や歌が紹介されていれば、日ごろの不勉強を補ってくれる。

 迎月橋を渡らず、左の散策路を歩く。初川に中州があり、左岸、中州、右岸にまたがって雙眉橋が架かっている。雙は双の旧字で、二つの眉のような橋といった意味のようだ。
 橋の途中まで渡り、梅園を眺める。梅の花は小さいから満開でも桜のような勢いがない。その分、可憐、清楚といった印象になる。梅園マップにはホタルと記されているから、時期になるとホタルも楽しめそうだ。
 雙眉橋を戻り、左の道を上ると、また中州があり、左岸から中州に渡る駐杖橋が架かる。梅に目を取られ立ち止まる、といった意味合いで名付けられたらしい。
 梅園マップには、中州に武田鴬塘(おうとう)の「夏すでに 漲る汐の 迅さかな」の句碑が記されている。武田鴬塘(1871-1935)については知らなかった。新聞記者、小説家、俳人として知られるそうだ。10月生まれだが、本名は桜桃四郎(おとしろう)である。10月生まれに桜、桃の名前とは名付けた方の風流心だろうか。その風流心に応え、俳人になったのかも知れない。

 駐杖橋も渡らず、左の園路を上り、梅見の滝をくぐる。滝に梅の光景がいい。先客が自撮りで滝+梅を撮っていた。
 私たちはそのまま上り梅園橋を渡ったが、梅見の滝から右に下ると香浮橋に出る。初川に枝垂れる梅の香が漂っているような意味合いだろうか。
 梅園橋の先の和風庭園で行き止まりである。ここが梅園では最も高い。梅にあふれた風景を眺める。
 下ると、伝統的な韓国の塀が巡らされた韓国庭園がある。なかには韓国伝統民家の片鱗が再現されていた。

 さらに下ると、熱海市の伝統民家を移築した中山晋平記念館が建っている。外観を眺め、初川沿いの園路に出る。
 見事な枝垂れ梅がそこかしこで優美な姿を見せる(写真)。この梅園は梅を始め樹種が多く、それぞれに名札がかけられ、花の特徴が付記されている。惜しいかな、すべて日本語だった。外国人観光客のための工夫を期待したい。
 マスクをつけて園内を散策する人が少なくない。風邪だろうか、花粉症だろうか。マスクを取らないと梅香は楽しめない。
 そこで一句、「マスク取り 鼻水かみて 梅香る」、梅香るといった華やいだ気分からほど遠い句になった。まだまだ未熟である。

 およそ1時間の梅見を終え、入場口に戻る。来宮駅までは下り坂だから7~8分で行けるが、伊東線の混雑を考え、熱海始発に乗ろうとバスで熱海駅に向かった。市街の狭い道を右に左に曲がりながら、10数分で熱海駅に着いた。
 この選択は正解で熱海始発に座れたが、伊東線は来宮駅で梅見を終えた観光客、続く各駅から花見に出かける温泉客?でかなりの混雑になった。人混みの隙間から駿河湾が見える。天気が崩れだし、大島はぼんやりとした島影になっていた。
 熱海駅からおよそ1時間、3時半過ぎに伊豆高原駅に着く。ショップで地ビールの伊豆の国ビールを買い、宿の送迎バスに乗り込む。
 かんぽの宿伊豆高原は高台に立地し、駿河湾を一望できるが、あいにくと雲が覆い、海と空の境も分からない。
 部屋からも露天からも空とも海とも見分けのつかない鈍色を眺める。湯上がりに鈍色を眺めながら伊豆国ビールを飲み一句「海の春 天飲み込みて 鈍色や」、凡人レベルの句になったと思うが。
 夕食は駿河湾に面したレストランだが、相変わらず海も空も鈍色である。会席と純米吟醸「臥龍梅」をいただきながら、鈍色を楽しんだ。 続く  (2019.5)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲垣晴彦著「夜霧のポロネーズ」の結末はアウシュビッツの悲劇を忘れさせないため悲しい

2019年05月13日 | 斜読

book491 夜霧のポロネーズ 稲垣晴彦 文芸社 2015    (斜読・日本の作家一覧)
 ワルシャワを舞台にした本を探し、五木寛之著「ワルシャワの燕」(book490参照)、須賀しのぶ著「また、桜の国で」とともにこの本も見つけた。「ワルシャワの燕」から読み始めたら、本文中に「夜霧のポロネーズ」が引用され、主人公沢木が本文で「夜霧のポロネーズ」出版企画を語っていた。
 「夜霧のポロネーズ」は1974年に私家版として出版されたから、五木寛之氏が読んだのは私家版になる。五木寛之氏の支援?で、2015年、文芸社から出版されたのがこの本になる。  著者稲垣氏は、1965年、高校1年のとき、青少年団体の一員として東ヨーロッパを旅行し、ポーランドで衝撃を実感したそうだ。
 その後、10年かけて資料、書籍を読み込み、「夜霧のポロネーズ」を書き上げた。稲垣氏の受けた衝撃が「夜霧のポロネーズ」に色濃く反映されていて、結末はつらく悲しい。明るい未来への展望で締める終わり方もあるだろうにと著者を恨めしく思ったりしたが、それだけポーランドで受けた悲惨な衝撃がすさまじかったということであろう。

 ポーランドのよく知られる民族舞踊がマズルカとポロネーズで、ポーランド国歌は「ドンブロフスキーのマズルカ」であり、国民的作曲家ショパンはマズルカ、ポロネーズそれぞれを主題にした作品が多数ある。マズルカ、ポロネーズがポーランドの暮らしに溶け込んでいるようだ。
 ポロネーズには、ポーランド風の意味もある・・「ワルシャワの燕たち」ではポロネーズというポーランドの車が登場した・・。
 この本は「夜霧のポロネーズ」という曲が重要なキーになる。著者はタイトル=曲名を「夜霧のマズルカ」ではなく「夜霧のポロネーズ」にすることで、ポーランドが舞台であることも暗示したかったようだ。
 実際に「夜霧のポロネーズ」という曲があるかどうかは分からないが、この本では、ワルシャワ大学祭の音楽コンテストの最優秀賞に選ばれ、広く愛称された設定である。歌詞は、レストランで歌手が涙を流しながら「白鷲 天翔ける 平和な野の国 ポルスカに・・・・されど鉤十字の旗の下 悪魔は来たり・・」と歌うほど、哀愁に満ちている。

物語は、プロローグ
 二つの出会い
夜霧のポロネーズ
古都クラクフ
オシフィエンチムの爪痕
ブジェジンカの池
追憶の果て
エピローグ  と展開する。

 主人公は1935年生まれ?、25才の日々新聞ワルシャワ特派員の多田慎一である。まずキーパーソンとなる50代の東西文化交流会理事長・斉藤栄三が登場する。慎一は上司から斉藤栄三のガイドを依頼されていた。斉藤はモスクワからの帰りで、ポーランドは初めてと慎一に語る・・終盤で斉藤のポーランドへのこだわりが明らかになる・・。
 慎一の相手役=恋人は、ワルシャワ着任早々出会った1941年生まれ、ワルシャワ大学で日本語を専攻しているクリスチーナ・ルドニナである。クリスチーナは、P21ナチス制圧下のワルシャワで学校の教師をしていた両親の間に生まれたが、両親はワルシャワ蜂起に参加し消息不明になり、孤児院で育った・・私の顔は東洋的で・・東京オリンピックを見て・・日本語を学ぼうとしたと、慎一に話す・・伏線が込められている。
 クリスチーナは、P19あの子の目の輝き・・生きる歓びを見つめている・・私もあの目が欲しかった・・私にはなにも見えない・・と慎一に語り、過去を暗示させる。
 クリスチーナは学費をまかなうため、休みを利用してアウシュビッツ・・ナチス強制収容所名=ポーランドでは地名のオシフィエンチムと呼び習わす・・でアルバイトをしていて、愛しのタージャ=多田の愛称へ、キスを千回送ると手紙をよこす。

 慎一は斉藤をシィレーナ(ヴィスワ川に住む人魚=ワルシャワの守護神)というレストランに案内する。前述の「夜霧のポロネーズ」が歌われると、斉藤は作者を知りたいと興奮する・・のにちに新聞に尋ね人までする・・。
 さらに斉藤は、外国人ならアウシュビッツと言うはずなのに、オシフィエンチムに行きたいと慎一に話す。
 慎一は斉藤を文化宮殿の展望台に案内すると、斉藤はヴィスワ河を見下ろしながら、二人が対岸を見ながら息を引き取った「地下水道」のラストシーンを回想する・・これも結末を予感させる・・。
 ・・ドイツ軍に破壊尽くされたワルシャワを一分一厘の狂いも亡く復元した・・P50悲劇を忘れないために・・ポーランドは忘れない論理で生きる・・が挿入される。

 話を結末へ、斉藤はリリアーヌという女性の行方を求めてアウシュビッツ見学を希望し、飢餓室で「1942.8.25・・ゆり」の爪痕を見つけ、8月25日に、アウシュビッツ第2収容所ビルケナウの池=かつての死体焼却の穴に水がたまった池で入水自殺をする。
 慎一から顛末を聞いたクリスチーナも、飢餓室で服毒自殺する。
 最終章「追憶の果て」ですべてが明かされ、慎一は一人で日本に帰る。このつらく悲しい結末が、著者・稲垣氏が高校生のときに実感した心証なのであろう。

 私がミリー・パーキンス(1938-)主演のアンネの日記を見たのが確か中学生のころだったと思う。観客全員が涙するほどの衝撃を受けた。
 2012年、アムステルダムでアンネ・フランクの家を見学し、2年間隠れた部屋を見て、中学生のときに実感したのと同じ衝撃を受けた。
 この本を読み、改めてユダヤ人だけに課せられた悲惨な衝撃を思い出した。
 稲垣氏があえて悲しい結末で幕を閉じたのは、「悲劇を忘れない」「悲劇を忘れさせない」ためのようだ。(
2019.5)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする