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2023.1京都 智積院+六波羅蜜寺を歩く

2023年10月22日 | 旅行
 2023.1 京都 智積院&等伯→六波羅蜜寺&空也を歩く


 京都国立博物館南門を出る。左、七条通の突き当たりに、県道143号線=東大路通に面して智積院の総門が構えている(写真)。智積院の名はよく聞くがまだ訪ねたことはない。参拝することにした。
 このときは長谷川等伯・久蔵の国宝「桜図屏風」「楓図屏風」が収蔵されていることは知らなかった。不勉強を痛感する。そのときどきに復習、補習しよう。
 参拝者の入口は総門の少し南にある。境内は庭園が整備されていて、松、銀杏、紅葉などが整然と並んでいる。紅葉の名所らしい。境内奥に金堂が西向きに建つ(写真)。
 智積院について学ぶ。真言宗の開祖・弘法大師空海(774-835)は816年、高野山に入り金剛峯寺などの多くの伽藍を建立する。真言宗が平安末期に衰微したとき、興教(こうぎょう)大師覚鑁(かくばん)が高野山に登り、真言宗を再興する。覚鑁上人は晩年、紀州根来寺に移り住む。
 根来寺は1585年、豊臣秀吉によって全山を焼かれる。塔頭の智積院学頭玄宥(げんゆう)僧正は学僧とともに京に逃れる。
 豊臣秀吉(1537-1598)の子・鶴松が病死、秀吉は方広寺=大仏殿の隣に菩提を弔うため1593年に祥雲寺(臨済宗)を建立する。秀吉の命で、長谷川等伯・久蔵が祥雲寺の障壁画を描く(後述)。
 徳川家康は1615年、祥雲寺を智積院に寄進する。以来、真言宗智山派総本山智積院として今日に至る。
 当初の金堂は1705年に建立されたが1882年に火災で焼失し、1975年、弘法大師生誕1200年を期して現在の金堂が完成した。本尊は大日如来である。金堂で合掌する。


 境内を少し戻ったところに名勝庭園拝観受付がある。拝観料500円を払い、講堂に上がったとたん、襖絵に目を奪われる(写真)。墨絵で現された木々の風景はただただ静かである。東京芸術大学田渕俊夫氏の作で、2008年に奉納された60点の襖絵の一つだそうだ。ジーとみていると林の先に吸い込まれていくように感じる。
 講堂を抜け、名勝庭園の大書院に向かう。大書院の続き間の障壁画に目を奪われた。右の広間に描かれているのが長谷川久蔵(1568-1610)が25歳のときに描いた「桜図」(写真)で、左の広間の障壁画は長谷川等伯(1539-1610)が55歳のときに描いた「楓図」(写真)である。
 「桜図」の桜は太い幹が床=地面から天井を突き抜け空へ向かう勢いで斜め右に伸び上がっていて、金地の障壁いっぱいに桜が花開いている。雄大な風景である。
 「楓図」も劣らず雄大で、太い幹が地面から空に向かって斜め左に伸び、金地の障壁に色づいた楓=紅葉がちりばめられている。
 安部龍太郎著「等伯」(book552参照)によれば、久蔵は狩野永徳に狩野派の技法を学んだが狩野派を離れ、狩野永徳の父・狩野松栄から手ほどきを受けた長谷川等伯は久蔵と長谷川派を立ち上げようと意気込んでいた。しかし、久蔵は絵を描き終わったあとで急死する(狩野派の仕業とされる?)。等伯は長男・久蔵の死の悲嘆に暮れながらも渾身の力を込めて楓図を完成させる。
 その「桜図」「と楓図」が続きの広間に並んでいるのである。狩野派を学び、狩野派を超えようとする長谷川派の意気込みが見る者を圧倒する。秀吉は大満足で、このあとも等伯に絵を依頼している。
 阿部著「等伯」を読んだのは京都から帰ったあとだった。「等伯」を読んでから「桜図」「楓図」を見れば、見方がかなり変わったと思う。
 ついでながら、国宝「桜図」「楓図」は宝物館に収蔵展示されていて、大書院の障壁画は精密な複製画である。実物よりも鮮やかに復元されているから、大書院の障壁画がお勧めである。惜しいことに何度か火災に遭っていて障壁画を切り取って避難させたそうで、当初は長押の上まで桜、楓が描かれていたそうだ。


 大書院の庭園は、小堀遠州(1579-1647)が築庭した祥雲寺庭園をもとに江戸時代に修築された。
 小堀遠州=小堀政一の父は豊臣秀吉の弟・秀長に仕えていて、政一は豊臣秀吉に茶の給仕をし、千利休らと親交を深めたそうだ。秀長没後、政一は秀吉に仕え、古田織部に茶を学ぶ。秀吉没後、徳川家康に仕え、駿府城普請奉行を務め、以降、小堀遠州と呼ばれる。
 小堀遠州は城郭建築、庭園を数多く手がけ、茶は「きれいさび」と称される遠州流として続いていて、華道でも流派が生まれるほどの美意識が高かったようだ。
 祥雲寺庭園は中国・廬山をかたどって造られた池泉回遊式で、智積院庭園でも自然石のみを用い苅込を主体にしていて、深山のイメージだそうだ(写真)。池泉回遊式を再現して、池には石橋が架けられている。
 利休好み名勝庭園と案内されていたが、祥雲寺が完成する前に千利休は切腹させられているから、小堀遠州が千利休の好みを意識して築庭したということだろうか。
 利休好みは棚上げにして、冬枯れした苅込の庭園を眺める。振り返って続き間の「桜図」「楓図」を眺める。「桜図」「楓図」「庭園」をぐるりと眺めていく。桜が咲き、庭園が新緑になり、紅葉が訪れ、庭園が冬枯れする。縁側にいると、障壁画と庭園で四季を感じることができる。長谷川等伯・久蔵の狙いだろうか。
 
 智積院を出て、東山七条バス停から東大路通を北に走るバスに乗る。3つめの清水道バス停で下り、松原通を5~6分下ると西福寺の角に六波羅蜜寺の案内があった。六波羅蜜寺の境内に入る(写真)。本堂は南北朝時代1363年の建立で重要文化財に指定されている。1969年に開創1000年を記念して解体修理され、朱塗りも鮮やかである。
 本堂で合掌していたら、住職が宝物館の受付は16:30まで、閉館は17:00と教えてくれた。あわてて宝物館で拝観券600円を購入する。照明を抑えた1階に木像が並ぶが目当ての像がない。2階に上がる。
 いました!、空也上人立像(写真web転載、重要文化財、宝物館は撮影禁止)、教科書でも習う空也上人(903-972)の像である。空也は市井のなかで南無阿弥陀仏を唱え、人々に念仏を唱えることで救われると説いた(「捨ててこそ空也」book547参照)。
 空也上人立像は、空也が南無阿弥陀仏と唱えると、口から阿弥陀仏が6体ふわりと現れる様子を現している。作者は運慶の4男・康勝(生没不明)で、細身の体に短い衣をまとい、草履を履いて、胸に金鼓を下げ、右手に撞木、左手に鹿の杖を持っている。市井で念仏を唱えている空也が写実的に再現されている。
 空也は、963年、十一面観音像を彫り、守護諸尊像を造立し、大般若経600巻の書写を終え、新たな道場(西光寺=現六波羅蜜寺)の落慶供養を営んだ。「捨ててこそ空也」に空也の生き様が描かれている。京都の旅に本を持参したが読んだのは帰宅後になった。予習で先に読んでおけばさらに感慨が深くなったと思う。
 それでも康勝作の空也上人像から、「市の聖」と呼ばれるまでの空也のひたむきな伝道の姿が伝わってくる。百聞は一見にしかずである。
 閉館時間が近づいているので、平安時代の地蔵菩薩立像、薬師如来坐像、多聞天立像、広目天立像、持国天立像、鎌倉時代の増長天立像、地蔵菩薩坐像、閻魔大王像、吉祥天立像、弘法大師坐像、平清盛坐像、運慶坐像、湛慶坐像(すべて重要文化財)を順に拝観する。空也が自ら彫ったとされる本尊・十一面観音立像は国宝で、通常は非公開だった。本堂で改めて合掌する。


 六波羅蜜寺を出て、鴨川沿いを北に歩き、京阪本線祇園四条駅から三条駅へ、京阪三条駅から地下鉄東西線で烏丸御池駅に向かい、少し歩いて予約しておいた京料理屋に落ち着く。京町家を改修した料理屋のようで、6畳ほどのイステーブル席は坪庭に面していた。京風の会席料理にあわせ、夢酒くみやま、玉の光しぼりたて生原酒をいただいた。
 ほろ酔いで、堀川通を北に歩き、宿に戻った。なんと歩数計は23600歩、足をよく揉みほぐし、ぐっすり休む。
 (2023.10)


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