yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

徳永真一郎ギターリサイタル

2022年01月31日 | よしなしごと

日本の旅・埼玉を歩く> 2022.1 徳永真一郎ギターリサイタル

 歩いて数分のさいたま市プラザノースでは、さまざまな催し物が企画されている。コロナ渦でコンサートや演劇から遠ざかっていて文化的刺激に欠乏していた2022年1月、ノース・ティータイム・コンサートvol.24「徳永真一郎ギターリサイタル」が開かれた(ポスターweb転載)。
 コロナ渦のため座席数400余の半分以下の180名定員で、電話のみの事前予約だった。全席自由なので聴衆がまばらな2階最後部の席にした。
 ノース・ティータイム・コンサートのコンセプトは「ウィークデーの午後のひと時、お茶を楽しむように音楽を聴きながら過ごす」で、演奏時間は45分と短い。応じて入場料も500円と格安である。
 ティータイム・コンサートは欠かさず聴きに来ているが、45分は少し物足りない。コンセプトを尊重しながらあと1~2曲増やし、60分ぐらいがよさそうに思う。

 徳永さんは徳島県生まれ、9歳からギターを学び、コンクールで優勝、フランスに渡り、パリ国立高等音楽院修士課程を首席で卒業、ヨーロッパ各地のコンクールで賞を受け、2015年に朴葵姫(2021年にギターリサイタルを聴いた)、松田弦、岡本拓也とタレガ・ギターカルテットを結成し室内楽の可能性も追求しているそうだ。
 ポスターからもうかがえるように若く、気さくな感じである。

 プログラムは
コラール前奏曲「目覚めよ、と呼ぶ声あり」BWV645  J.S.バッハ/D.ラッセル編
プレリュード、フーガ、アレグロBWV998  J.S.バッハ
プレリュード第5番  F.タレガ
アルハンブラの思い出  F.タレガ
今朝の秋  武満徹/鈴木大介編
亜麻色の髪の乙女  C.ドビュッシー/J. ブリーム編
ニュー・シネマ・パラダイス  E. モリコーネ/鈴木大介編
タンゴ・アン・スカイ  R.ディアンス と続き、アンコールでアイルランド民謡のダニーボーイ  が演奏され、幕となった。

 小さなホールなので親近感がわくが、ギターのソロ演奏は寂しげに感じる。
 フランシスコ・タレガ(1852-1909)はスペインの作曲家、ギター奏者で、20世紀のクラシック・ギターを基礎付け、ギターを独奏楽器として定着させたといわれる。名曲の「アルハンブラの思い出」「アラビア風奇想曲」「ムーア人の踊り」を作曲し、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパンらのピアノ曲をギター用に編曲しているそうだ。
 タレガのギター曲はギター演奏会の定番のようで、徳永さんは「アルハンブラの思い出」を奏で、2021年1月にプラザノースで開かれた「デビュー10周年記念 朴葵姫ギターリサイタル」(H.P.日本の旅・埼玉を歩く参照)ではアラビア風奇想曲が演奏された。
 ・・1994年3月、2015年10月にアルハンブラ宮殿を訪ねていて、「アルハンブラの思い出」を聴くたびにアルハンブラ宮殿の壮麗な空間が思い出される・・。

 タレガはベートーヴェン、ショパンらのピアノ曲をギター用に編曲しているので、タレガを目指して研鑽を積んでいる徳永さんもバッハのオルガン曲であるコラール前奏曲をギターで演奏したようだ。プレリュード、フーガ、アレグロもリュートや鍵盤楽器での演奏が多いが、ギター演奏も少なくないらしい。私は音楽の下地がないので、タンゴ・アン・スカイなどタンゴのギター演奏が好みである。とはいえ、音感の刺激には選り好みせずいろいろな演奏を楽しんだ方が良さそうだ。
 亜麻色の髪の乙女、ダニー・ボーイは聴き慣れているため、気分よく演奏を楽しんだ。
 CDやユーチューブでも音楽を聴きリラックスできるが、生の演奏は文化的刺激度が大きい。45分+アンコール+徳永さんの話で心身が元気づけられた。  (2022.1)

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巨大マッサージチェアの分解(再録)

2022年01月30日 | よしなしごと

2018.7 使えなくなった巨大マッサージチェアを分解する

                              
 2010年ごろ、マッサージチェアを譲り受けた(イメージ写真web転載)。パナソニック社の最新モデルを購入したそうで、リクライニングしたときの大きさはおおよそ高さ70cm、幅90cm、長さ200cmもあり、重さは85kgほどだった。

 どうやって運搬するか?。パナソニック社に問い合わせたら、販売店は据え付けまでで、その後の移動や運搬などは一切対応しないとの返事だった。
 巨大な物体なのだから、移動、運搬こそがアフターサービスではないかと食い下がったが、けんもほろろを繰り返すだけだった。日本を代表するパナソニック社は世界でも流通する大企業にもかかわらず、売れれば何でも許されるという態度はお粗末すぎる。
 購入当時の価格は40万円前後の高性能機種である。運搬で故障したら元も子もない。宅配業者に電話するが、どの業者も基本は20kgまでの運搬で、すべて断られた。
 次に大手運送業者に電話した。トラック1台1日の借り上げ、重さから運転手+2人分の手間が必要で、とんでもない費用がかかることが分かった。

 散歩コースの途中に運送業の営業所がある。藁にもすがるつもりで事情を話したら、半日仕事、次の休日はトラックが空いているので数万円で引き受ける、と言ってくれた。次の休日、トラックに運び込むときは私も手伝い、運転手+1人の3人で85kgのマッサージチェアをなんとか荷台に載せた。
 こちらに着き、11階の部屋まで運び上げるときは、運転手+1人に営業所から応援が1人駆けつけ、3人で運んでくれた。
 70×90×200cmの大きさはエレベータのドアがギリギリで往生した。玄関のドア、リビングルームのドアもギリギリで大変だった。それでも慎重に運び込んでくれ、リビングルームにセットができた。大汗仕事になったので、よくよくお礼を言い追加の手間代を加えた。
 メーカーは高性能、最先端の機器を開発するだけではなく、移動や運搬ができるように、素人でも分解、組み立てができるように工夫するのも責任ではないだろうか、そう感じた。

 このマッサージチェアは確かに身体をほぐしてくれ、いつの間にかうたた寝してしまうことも多かった。同機種は温泉地の風呂上がりロビーにもよく置かれていて、温泉客が身体をほぐしている光景を目にする。孫たちが遊びに来ると、おもしろがってマッサージをしていた。カミさんも愛用していた。

 2017年、突然、大きな音がするようになり、腕をほぐすアームが作動しなくなった。パナソニック社に問い合わせたら、故障担当から、状況からはエアポンプの故障が考えられる、この機種は生産が終了していて、部品の在庫もない可能性が高い、故障診断だけでも出張費が必要などの説明を受けた。
 40万円もした機器だからできれば直して長く利用したいと思い、出張診断を頼んだ。出張診断はものの数分で終わった。結果は、やはりエアポンプの故障で、部品の在庫を問い合わせてくれたが在庫がなく、修理不能とのことだった。
 アーム以外は作動するが、かなりうるさい。マンションは音が響く。風呂上がりのマッサージが効果的なのに、騒音トラブルを避けて夜は使わないようにした。そのうちだんだん使わなくなった。

 使わなくなると、70×90×200cmの大きさが目障りになる。故障で使えない機器を残しておいては子どもたちに迷惑をかける。思い切って処分することにした。
 またパナソニック社に連絡し、処分業者、処分方法をたずねたら、パナソニック社は販売、据え付けまでで、処分には一切応じない、処分方法は各自治体のルールに従うようにと、相変わらずけんもほろろだった。
 繰り返すが、メーカーは機器の開発、販売だけではなく、家庭での移動や運搬、あるいは処分が素人でも簡単にできるよう計画するのが努めではないだろうか。

 webを調べたら同じようにマッサージチェアの処分に苦労している人がいて、ある女性は自分で解体した様子をweb上に公開していた。
 ともかく大きい、重いが問題だから、小さく、軽くすればいい。できる範囲で分解することにした。
 方針が決まったので、家にある+ドライバー、-ドライバー、六角レンチ、六角スパナ、ペンチ、プライヤー、ハサミ、カッターを床に並べ、解体部品を入れる段ボール箱を用意し、新聞紙を広げて分解に挑戦した。
 まず、ヘッドカバーを外す。右手アームに付いていた操作盤のネジを緩める。左右のアームのネジを緩める。この日は夏日で、すでに汗びっしょりになった。いったん、休憩し、水分を補給する。
 一息してから、あちらこちら動かし、外れやすそうな本体カバーのネジを緩める。カバーが外れると、モーターや配線、ビニールの管などが現れる。ビニールの管はカッターで、配線はペンチで切る。目に付くネジはすべて外す。今日はここまで。

 翌日、アーム部分を外す。側面カバーを外す。ヘッドマッサージ部分を外す。フットマッサージ部分を外す。モーターや配線板はいくつかに別れていて、管や線が複雑にからんでいる。管と線を切り離す。ネジを順に緩めていく。ネジが堅くなっていて、まったく動かないこともあった。スパナやレンチ、プライヤーを動員して、苦戦する今日はここまで。
 とりかかって3日目、すべてを分解する。とりあえず部屋の隅に重ねた(写真)。

 市のゴミ出しマニュアルをにらむ。市では90cm以上2m未満は粗大ゴミ扱いになるが、細かく分解したためすべてが90cm以下になった。部品、カバーなどを燃えるゴミ、燃えないゴミに仕分けし、ゴミとして出した。
 残った骨組みの鋼材、モーター類は、市では取り扱っていない(写真)。これらは、許可業者に処理を依頼することになる。処理業者T社に連絡した。マッサージチェアを分解して鋼材とモーターが残った話をすると、よく分解しましたね、運べますか?、と半信半疑の返事が返ってきた。
 受け入れてくれそうだ。数千円で済むらしい。場所を聞くと、車で10数分である。数日後、T社に運びこみ、費用を支払い一件落着する。

 再度、繰り返すが、メーカーは、高齢者でも移動、解体、組み立てがしやすい仕組み、旧式が生産中止になっても新式の部品が対応できる仕組み、処分しやすい構造とし多くが資源として再利用できる仕組みを開発計画に組み込むべきある。
 西日本豪雨により大きな被害が出ている。災害ゴミが山積みになっていて、復旧、復興の妨げになっている。
 家庭で使われるいわゆる家電が処分しやすい構造になっていて、小さく・軽くなるよう解体できれば、災害ゴミを減らすことができ、被災地の負担軽減につながると思う。パナソニック社を始め、日本の企業よ、猛省し、利用者の立場で機器を開発して頂きたい。(2018.7)

追記)2015年国連総会で「持続可能な開発のための2030アジェンダTransforming our world: the 2030 Agenda for Sustainable Development」が採択され、2030年までの具体的指針である「持続可能な開発目標Sustainable Development Goals、略称SDGs」に17の世界的目標、169の達成基準が明示されている。
 日本でも政界、経済界、教育場面、社会生活でSDGsの取り組みが推進されている。企業の積極的な取り組みを願う。 (2022.1)

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御岳山を歩く2 武蔵御嶽神社2

2022年01月27日 | 旅行

日本の旅・東京を歩く>  御岳山を歩く2 2020.11+2021.12 武蔵御嶽神社2/天邪鬼 稲荷社 三柱社 拝殿・弊殿 本殿 二柱社 八柱社 北野社 大口真神社 奥宮遙拝所 常磐堅磐社               

天邪鬼 稲荷社 三柱社
 随身門を抜けると、左に先が見通せないほどの石段が上っていた(写真は五之鳥居からの眺め)。本殿まで300段ほどらしい。
 私の住むマンションは蹴上げ18cmほど、1階分を15段で上る。単純計算で300÷15=20階分に相当し、18×300=54m上ることになる。とても一気には上れない。
 石段の両側には講から寄進された石碑がずらりと並んでいる。一息するたびに石碑に彫られた寄進者を読むと、信仰の広がりをうかがうことができる。
 石段を上りながら、苦しそうな顔をしている彫り物を見つけた(写真)。天邪鬼らしい。
 日本古来の天邪鬼は天の邪魔をする鬼である。一方、仏教で鬼は人間の煩悩を表す象徴であり、四天王などに踏みつぶされて表現される。日本古来の天邪鬼と仏教の煩悩の象徴である鬼が習合したとの説もある。石工が、神社参拝でも煩悩を抱える人が少なくないと気を利かして彫ったのであろうか。煩悩退散、しっかりと天邪鬼を踏む。

 右に朱塗りの稲荷社が建っている(写真)。切妻屋根の正面側を長く伸ばした流造で、土台の上に小規模な社を建てる見世棚造である。間口1間の小さな社で、穀物の神である倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祀る。うかのみたまとは読めないが、日本神話に登場する女神らしい。呼吸は乱れていないが一礼し、一息する。

 少し上ると右に朱塗りの三柱社が建っている(写真)。流造見世棚造で間口1間だが稲荷社より間口が広い。大歳神(おおとしのかみ)、御歳神(みとしのかみ)、大山咋神(おおやまくいのかみ)の三柱を祀るので間口が広くなっているようだ。
 大歳神はすべての実りの神、御年神は正月に迎える穀物の神、大山咋神は地主神であり治水を司る神でもある。
 いずれも日本神話に登場するらしい。大歳神と香用比売(かぐよひめ)とのあいだに生まれたのが御年神、大歳神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)とのあいだに生まれたのが大山咋神とされる。ギリシャ・ローマ神話でも男神があちこちの女神に子どもを生ませていたが、日本神話でも大同小異のようだ。子どものころに読んだ日本神話はそのあたりをぼかしていたが、いまどきの不倫以上に奔放だったようだ。それでも実りの神、治水の神であり、一礼する。

武蔵御嶽神社/拝殿・弊殿 石の間 本殿 
 元気な犬は飼い主を曳くように石段を上っていくが、小さな犬はお腹をこするらしく飼い主に抱えられて上っていく。一息する人もいる。ゆっくりゆっくり呼吸を整えながら銅製の五之鳥居まで上り、一礼しながら一息する(五之鳥居は前掲写真)。
 五之鳥居を過ぎたあたりから、右の崖の上の林のあいだに建物が見え始める。もうひと頑張りのようだ。
 左に「御嶽神代檜・挽き痕 推定樹齢400年」の立て札があった。説明書きによると、御嶽大神を守護していた古木が枯れたため、枯れた檜からお守り札を作ったそうだ。地面に切り株が残っていた。
 左右に寄付者の名前を書いた木札がずらりと並んだあいだの石段を上ると、正面に社務所の建物が建ち、石段は直角に右に折れる。

 右に向きを変えると、石段の上に武蔵御嶽神社社殿が現れた(写真)。見上げながら息を整える。石段を覆うように唐破風の向拝が大きく伸び出していて、早く上ってこいと招いているように見える。
 石段の途中の右に、先ほど崖の上に見えた宝物殿が建っている。宝物殿手前に鎌倉時代の武将である畠山重忠の騎馬像が置かれていた。宝物殿には入らなかったが、畠山重忠が奉納した赤糸威鎧(国宝)が展示されていて、1981年の式年大祭事業で騎馬像が制作されたそうだ。
 石段を一気に上がる。左右に狛犬の代わりに狼がにらみをきかしていた(前掲写真)。後述するが狼は御嶽神社の眷属として祀られていて、江戸時代に御嶽神社の狼がお犬様として信仰された。それが現在の犬連れの参拝の下地になったようだ。

 社殿は本殿と拝殿・弊殿を石の間でつないだつくりである。徳川家康が、それまで南正面だった社殿を江戸を鎮護するよう東正面に変えたそうだ。家康は没後、東照大権現と神格化され、家康を祀る久能山東照宮、日光東照宮、上野東照宮などの本殿と拝殿を石の間でつなぐつくりは権現造と呼ばれた。東正面の改築は家康没後も続き、本殿と拝殿・弊殿を石の間でつなぐ権現造が採用されたのかもしれない。
 実際、5代徳川綱吉が1700年に拝殿・弊殿を改築している(写真)。大げさな唐破風の向拝、彫刻、金物の華やかさは徳川の力の誇示であろう。二礼二拍手一礼する。
 拝殿とは別にペット専用の参拝所もあるらしい。境内のかたわらで犬が飼い主ともども交流していた。

 拝殿・弊殿を回り込むと、縦格子塀の隙間から石の間、本殿を垣間見ることができる。
 本殿は1878年の改築である。切妻屋根、鰹木・千木、棟持柱、片流れ向拝などの特徴は伊勢神宮に代表される神明造である(写真web転載)。
 本殿の祭神は、櫛麻智命(くしまちのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、廣國押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)だそうだ。日本武尊以外は初めて聞く。素木に金飾りを施した本殿のつくりは、神々にふさわしく重厚な印象である。
 
武蔵御嶽神社境内社/二柱社 八柱社 北野社 大口真神社 奥宮遙拝所 常磐堅磐社 神明社 皇御孫命社 東照社
 境内は玉垣で囲われていて、玉垣内に社が建ち並んでいる。
 本殿の南に、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭る間口1間の二柱社(左写真)、その西隣に春日社、八幡社、䗝養(こかひ)社、八雲社、座摩(ゐがずり)社、月乃社、国造(くにのみやつこ)社、八神社を祭る間口4間の八柱社(右写真)が鎮座する。いずれも流造見世棚造である。それぞれ一礼する。
 八柱社の先は小高くなっていて、石段を上ると左に菅原道真を祭る北野社(左写真web転載)、右に農作物を豊かにしてくれる土の神の埴山姫命(はにやまひめのかみ)を祭る巨福社(こふくしゃ、右写真web転載)が覆堂のなかに鎮座する。いずれも間口1間の流造見世棚造で、それぞれに一礼する。
 巨福社の左の石段を上ると、大口真神(おおくちまがみ)を祭る大口真神社が鎮座する(写真)。間口1間の流造で、江戸時代に社殿が建てられ、1939年に彫刻の施された現在の社殿に改築された。社の両脇に狛犬に代わって狼が置かれている。
 新編武蔵風土記稿に、日本武尊の東征のとき後述する甲羅山で邪神に道を迷わされたが白狼が尊を救ったことから、尊は白狼に大口真神としてこの土地を守護するよう命じ、以降白狼が御嶽大神に仕えた、と記されているそうだ。狛犬の代わりに狼がにらみをきかせているのが納得できた。
 江戸時代に、厄除け、盗難除け、火除けに効くと信じられ、狼を描いた「おいぬ様」の神符が戸口などに貼られた。「おいぬ様」神符の流行で江戸時代に社殿が建立されたのであろうし、現在の犬を連れた参拝に発展したのであろう。ただし犬は拝殿までで、境内社が並ぶ奥は犬の立ち入り禁止である。
 大口真神社に一礼する。

 大口真神社の左に「御岳山山頂929m」の石碑が立ち、その奥に奥宮遙拝所が設けられている(写真)。武蔵御嶽神社の西南の甲羅山(写真中央、標高1077m)に日本武尊を祀った男具那社が鎮座するそうだ。
 神社から奥の院までの山道は1時間半ほどかかるので(40分とか1時間とかの説もある、健脚度の違いか)、遙拝所で二礼二拍手一礼する。
 
 大口真神社の東、巨福社の北に黒漆に金細工で装飾され品格を漂わす常磐堅磐社(ときわかきわしゃ)が建つ(写真web転載、左端が巨福社、左石段上が大口真神社)。正面は本殿側の東である。もともとは1511年に造営された御嶽神社本殿で、1878年の本殿再建に伴い現在地に移築され、全国の神々87柱を祭る常磐堅磐社となった。間口1間の流造に一礼する。

 常磐堅磐社の南東、本殿の北に天照大御神、豊受比賣神を祭神とする神明造の神明社、常磐堅磐社の北東、本殿の北西に天瓊々杵尊(あめのににぎのみこと)を祀る入母屋屋根・千鳥破風+向拝・唐破風の皇御孫命社(すめみまのみこしゃ)、皇御孫命社の東、本殿北に東照大権現を祭る間口1間の流造見世棚造の東照社が建つ。徳川家康を祀るには東照社は小さすぎる。もともとは皇御孫命社が徳川家康を祀る社殿だったようだが、そのいきさつは不明である。
 境内社が多く祀られている理由も資料に説明されていない。
 気持ちを無にして信ずることなのであろう。境内社をあとにする。 続く(2022.1)

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御岳山を歩く1 武蔵御嶽神社1

2022年01月25日 | 旅行

日本の旅・東京を歩く>  御岳山を歩く1 2020.11+2021.12 武蔵御嶽神社/御岳山ケーブルカー 崇神天皇・行基 御師 四之鳥居・随身門

御岳山ケーブルカー 滝本駅 御岳山駅
 多摩川上流の北側に国道411号線=青梅街道、南側には県道45号線=吉野街道が通っている。ナビに武蔵御嶽神社を入れると、県道45号線=吉野街道の御嶽近くで西に折れる県道201号線に案内される。朱塗りの一之鳥居を抜け、勾配のきつい山道を1.5kmほど走ると、御岳登山鉄道=御岳山ケーブルカー滝本駅に着く。
 駅手前の左に武蔵御嶽神社の石の二之鳥居が立つ(写真)。参道の始まりのようだが、滝本駅あたりの標高は407m、武蔵御嶽神社の建つ御岳山の標高は929mで標高差は500mを超える。直線でも1.8kmほどありそうだ。参道を上るのは熱心な参拝者、山岳修行者、健脚に任せ、御岳山ケーブルカーの往復チケット1130円を買う。
 御岳登山鉄道の設立は1927年と古い。武蔵御嶽神社が信仰を集め、大勢の参拝者が訪れていたことをうかがわせる。
 ケーブルカーは、標高407mの滝本駅(写真)と標高831mの御岳山駅(写真)の標高差424m、駅間の長さ1107mをおよそ6分で結び、おおむね20分間隔で運行している。
 ケーブルカー内の滝本駅側にはペットエリアが設けられていて、リードを付けた犬は往復260円で飼い主といっしょに乗車できる。リードを付ければ犬も乗車できるのは珍しいそうだ。
 2020年11月、2021年12月ともに犬を連れた参拝者が少なくなかった。犬も信心深くなるかも知れない。
 ケーブルカーから山並みの風景を遠望する。11月も12月も紅葉が残っていたから(前掲鳥居写真左など)、紅葉の時期には山は色とりどりの赤や黄色に覆われ見応えがありそうだ。
 
武蔵御嶽神社 崇神天皇・行基 蔵王権現
 武蔵御嶽神社は、パンフレット、webによると紀元前91年、10代崇神(すじん)天皇の創建とされる。史実では崇神天皇は奈良県三輪山瑞籬宮を皇居としていたそうだから、紀元前から都の人々は東国の御岳山を崇め、あるいは畏怖していたようだ。
 736年、飛鳥~奈良時代に仏教の布教、困窮者の救済に積極的に活動した行基(668-749)が御岳山に蔵王権現(山獄仏教である修験道の本尊)を勧請したと伝えられている(史実では行基は736年に平城京でインド、チャンパ王国、唐から来た僧と会っているので弟子が代行したのかもしれない)。以来、御嶽大権現あるいは御嶽蔵王権現と称されたようだ。
 1234年、大中臣国兼(おおなかとみのかねき、平安貴族で伊勢神宮祭主)が社殿を再興したそうだ。以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から武具が奉納された。
 1605年、大久保長安(徳川幕府奉行のち老中)を普請奉行として本社が建てられた。1700年には幣殿と拝殿が建立された。
 明治時代の神仏分離令で大麻止乃豆天神社に改称されたが、1952年に武蔵御嶽神社に改められた。・・にわか勉強だから誤解があればご容赦・・。

御岳山参道 御師馬場家 商店街
 ケーブルカーに6分ほど乗り、標高831mの御岳山駅に着く(前掲写真)。展望広場があり広々とした風景を遠望できる。食事処、土産店が並ぶが、シーズンオフかコロナ禍か、ほとんど閉まっていた。大展望台までのリフトもあったが、工事のため閉鎖されていた。
 駅左手の参道を歩き始める。朱塗りの三之鳥居で一礼する(次頁写真)。参道は等高線なりに整備されていて平坦である。鳥居も立っているから本殿は近いと気楽に思ってしまったが、後述のように山岳修行の場らしく先行きの道のりは決して楽ではなかった(御岳山散策図web転載加工、青線が私の足跡、茶色の○が要所)。
 鳥居を過ぎてしばらくは左に山あいの眺望が開け、日射しを浴びながら足取り軽く歩ける。
 ほどなくうっそうとした樹林に入り、樹林を抜けると右に御岳ビジターセンターが建ち、左手に宿坊が並ぶ。
 二股道を右に進むと、見事としかいいようのない茅屋根をのせた御師馬場家の堂々とした構えが現れる(写真)。
 霊山の神社には御師と呼ばれる下級神職が居を構え、訪れた参拝者に祈祷したり、宿泊の世話をしたりする。
 御嶽神社は多摩川源流に位置することから多摩川流域の農家から水を司る農耕神として信仰を集めていて、御師が流域の家庭に御嶽神社の神札を配布し、御嶽神社を訪れる講に参拝、宿や食事の世話をしているそうだ。御師馬場家の見事なたたずまいから由緒を感じる。
 馬場家を過ぎ、左の狭い路地を抜け参道に戻る。このあたりから参道は上りになる。右に山林が迫り、左に宿坊が建ち、そんな参道を進むと、一息では上れない急坂になる。左に山あいの風景が開けるが、眺望を楽しむ余裕はない。元気な犬は傾斜をものともせず、飼い主は犬に曳かれるように上っていく。
 呼吸を整え整えしながら急傾斜を上りきると、参道は右に曲がり、両側に食事処、土産店が並んだ商店街になる(写真)。シーズンオフかコロナ渦か、2020年11月は半分ほどが閉まっていた。昼時だったので、営業中の食事処に入り山かけそばを食べた(2021年12月はその店も閉まっていて閑散としていた)。

四之鳥居・随身門 
 山かけそばで元気を回復し、商店街の突き当たりの急傾斜を上ると石の四之鳥居の立つ鳥居前広場に出る(写真)。左の手水舎にはペット用の飲み場が設けられている。犬を連れた参拝者が多いようだ。
 ここからは石段に変わる(2021年12月は鳥居の先に見える随身門整備のため右に迂回してから石段を上った)。
 石段の先の随身門は間口3間、一層、入母屋屋根、朱塗りで、左右には邪気の進入を防ぐ弓、刀を持った武将姿の守護神=随身が安置されていた。続く  (2022.1)

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奥多摩湖=小河内貯水池を歩く

2022年01月19日 | 旅行

日本の旅・東京を歩く>  奥多摩湖=小河内貯水池を歩く 2020.11+2021.12 
 水と緑のふれあい館 小河内ダム・展望塔 みはらしの丘遊歩道・八方岩展望台 山のふるさと村 湖畔の小道 麦山浮橋
 

 コロナ禍であっても「心」「身」への適度な刺激は、水、食事、日光浴とともに生命に不可欠である。感染対策の自衛策を講じ、人出の少ない景勝地でのウオーキングに出かけた。
 以前は炭酸ガス排出削減のため外出は公共交通機関を優先させてきたが、感染対策のため+あおり運転対策のため、ドライブレコーダーを取り付け、マイカーで出かけた。
 その一つ、2020年11月に訪ねた奥多摩湖、武蔵御嶽神社、御嶽渓谷などの印象がよかったので、2021年10月に白丸ダム+鳩ノ巣渓谷、2021年12月に奥多摩湖と御嶽神社を再訪した。
 東京・大田区の小学校で東京の水源の一つである小河内貯水池=奥多摩湖を勉強したが、遠足では行かなかった。その後も奥多摩・青梅に出かけたことはなかったので奥多摩湖は初めてである。
 マイカーのナビに奥多摩湖を入れる。圏央道・青梅ICから一般道に入り、青梅市街を抜け、多摩川に沿った国道411号線=青梅街道を西に走る。国道411号線は多摩川の北側を通る片側一車線だが、多摩川の南側にも片側一車線の県道45号線が通っているためか、車の流れはいい。

 青梅ICから1時間弱走ると、奥多摩湖東北端の水と緑のふれあい館に着く(写真)。水と緑のふれあい館は1998年の開館で、傾斜屋根は背景の山の稜線に配慮したそうだ。外観は四角いが、入口を入ると最上階まで吹き抜けの円形ホールで、円形の吹き抜けに沿ってスロープがぐるりと巡らされ、スロープを上りながら「水のふるさと」「水が生まれる」「水が集まる」「水が輝く」「水が広がる」といったテーマの展示を見ていく(写真)。来館者に水に関する展示を楽しんでもらおうとした工夫であろう。子どもでも理解しやすい表現になっているから、日ごろ、小中学生が見学に来ているようだ。
 最上階はパノラマレストランとショップで、パノラマと銘打っているように奥多摩湖の雄大な風景を見ながら食事をとることができる。外観写真の上部の窓がパノラマ展望になる。
 設計者の努力を理解できなくはないが、駐車場から眺めたときは取っつきにくい物流倉庫のように感じてしまった。奥多摩の来訪者が立ち寄りたくなるデザインを工夫して欲しいね。
 展示を見たあと、2021年12月はパノラマレストランでランチを取った。20食限定の名物ダムカレーは販売停止だったので、奥多摩湖を眺めながらカツカレーを食べた。深皿を使いカツをダムに見立てればダムカレーになると思うが、シェフは手の込んだダムカレーを考案したようだ。次の機会の楽しみにしたい。

 小河内ダムは1957年に完成し、小河内貯水池=奥多摩湖に水が蓄えられた(写真)。集水域は東京都奥多摩町、山梨県丹波山村、小菅村及、甲州市にまたがった多摩川上流域である。有効貯水量185,400千m³は東京都の水源のおよそ20%をまかなうそうだ。東京都の水源のうちでは利根川水系の矢木沢ダム17,580千、下久保ダム12,000千、以下八ッ場ダム9,000千、奈良俣ダム8,500千・・を抑えて1位の貯水量で、小河内貯水池の重要性がうかがえる。
 蓄えられた水はダム直下の発電所で発電に使用後、多摩川に放流され、下流の取水堰で水道原水として取水され、貯水池、上水路を経て浄水場に送られ、水道水として配水される。
 型式は重力式コンクリートダムで、ダム堤頂の標高は530m、ダム高さは149m、ダム長さは353m、有効水深は約101mである。

 ダム堤頂の中ほどに小河内ダム展望塔が建っていて、内部が公開されている。2020年11月に見学した。
 2階にはダムのジオラマや小河内ダムの歴史を紹介したパネル展示があり、3階は床に流域全体のイラストが描かれている。
 大きな東側=下流側の窓からは真下を見下ろすと、ダム高さ149mの落差にめまいを覚える(写真)。西側窓からは小河内貯水池=奥多摩湖とかなたの水源になる山々を遠望できる(前掲奥多摩湖写真に同じ)。
 放流された水は多摩川を下り、およそ140km離れた東京湾に注ぐ。小学校で習ってから60数年経って小河内貯水池=奥多摩湖を見た。子ども時代を思い出し、感慨深くなる。

 奥多摩湖観光マップに、水と緑のふれあい館の北西の山にみはらしの丘遊歩道が描かれていたので2020年11月に歩いた(2021年12月は熊目撃・ハイキング注意の情報が掲示されていた)。
 上り口になる駐車場脇の奥多摩湖口(標高530m)の案内板に、斜面をつづら折りにおよそ1km、徒歩30分ほど上ると八方岩展望台(標高600m)に着くと記されている。上り30分なら往復で1時間もかからない。
 上り始めの遊歩道は整備が行き届き、ツツジなどの低木と桜が植えられていて、春は彩りが楽しめそうだ(写真)。上るにつれ視界が開け、奥多摩湖と山並みが遠望できる(前掲奥多摩湖写真に同じ)。天気はよし、風はなし、ほかに人はいない。傾斜は比較的なだらかで、風景を遠望しながら気持ちよく歩く。
 八方岩展望台に近づくにつれ、桧などの針葉樹や広葉樹の林になる。ほぼ30分で展望台に着いた。風景を独り占めしながら一息する。遊歩道や登山路がいくつか整備されていて山歩きを楽しめるようだが、展望を終えたあと駐車場に戻り、御嶽渓谷に向かった。

 奥多摩湖観光マップには、ほかに小河内ダムの堤頂を渡りきった先から山のふるさと村まで12km、約3時間30分の行程の奥多摩湖いこいの道、山のふるさと村からドラム缶をつないだ麦山浮橋まで2.1km、40分の行程の湖畔の小道も描かれている。奥多摩湖に架けられた麦山浮橋=通称ドラム缶橋を渡るのは一興だが、小河内ダムから麦山浮橋まで片道4時間超え、往復8時間越えのウオーキングは時間的にも体力的にも負担が大きい。
 2021年12月、山のふるさと村から麦山浮橋まで、湖畔の小道を往復した。
 水と緑のふれあい館でカツカレーを食べたあと、奥多摩湖北側の国道411号線=青梅街道を西に走り、奥多摩湖に架かった深山橋で国道139線に左折、もう一度奥多摩湖に架かった三頭橋で左折し、奥多摩湖南側の県道206号線=奥多摩周遊道路を東に走ると山のふるさと村に着く。
 山のふるさと村は、1990年10月にオープンした東京都自然公園施設の一つで、いかにもふるさと村といった農家風屋根のデザインである(写真)。ビジターセンター、クラフトセンター、キャンプ宿泊施設、カフェなどを併設していて、「山ふる」と愛称され、奥多摩の自然を楽しむ人々に人気があるらしい。

 山のふるさと村駐車場に車を止め、奥多摩湖南側に整備された湖畔の小道を西に歩く。
 奥多摩湖は多摩川を堰き止めてできた人造湖だから、かつての川の面影を残しながら谷あいにくねくねと長く延びていく(写真)。湖畔の小道も湖面に沿ってくねくねと延びていく。くね、くねと小道が曲がるたびに眺めは変わるが、空+山並み+紅葉の面影を残した樹林+静かな湖面の構成は同じで、単調に感じる。
 上り下りはほとんどないので息は切れないが、日射しは弱い。30分ほど歩いたころ、樹林のあいだから湖面に大きくカーブした浮橋が見え隠れし始めた。歩き始めから40分ほどで麦山浮橋のたもとに着いた。
 かつてこのあたりには多摩川を挟んで集落があり、多摩川に架かった橋で行き来をしていたそうだ。奥多摩湖=小河内貯水池のため900を超える民家が水没し、近くに移住した人も少なくなく、生活道路のため麦山浮橋(写真)とさらに上流側に留浦の浮橋が設けられた。
 当初はドラム缶を利用したためドラム缶橋と呼ばれたが、いまはポリエチレン・発泡スチロール製の浮子を並べている(写真)。対岸まで200m以上あるらしい。すれ違いできる広さがあり、手すりもついているので中央部まで歩いてみた。歩くと若干の揺れを感じるが、不安なく歩ける。
 麦山浮橋の中央から東西に延びる奥多摩湖=小河内貯水池を眺める。東京都の水源の20%をまかなうために900を超える民家が湖の下に沈まざるを得なかったと思うと、風が冷たく感じ始めた。山の日暮れは早い。水没した民家に感謝し、戻ることにした。

 行きで1人とすれ違い、帰りは2人だった。シーズンオフのせいかもしれない。往復1時間半、やや単調だったが時期を選べば水と緑の湖畔の小道はウオーキングにほどよいと思う。
 山のふるさと村にはカフェやませみも併設されているので一息した。スタッフは若く、はきはきしていて感じがいい。アメリカーノは私好みでおいしかった。
 一息後、奥多摩湖周遊道路、青梅街道を戻り、今日の宿であるかんぽの宿青梅に向かう。 (2022.1)

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