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「がいなもん 松浦武四郎一代記」斜め読み1/2

2024年07月28日 | 斜読

 book562 がいなもん 松浦武四郎一代 河治和香 小学館 2018

 河治和香著「遊戯神通 伊藤若冲」は構想が独創的で筆さばきも軽快であり、若冲について多くを学んだ。柳の下のどじょう、河治著の「がいなもん・・」を読んだ。
 松浦武四郎(1818-1888)を知らなかったが、幕末~明治の探検家でアイヌ文化の研究に努め、のちに北海道と呼ばれる北加伊道の名を考案し、浮世絵師、著述家、好古家としても知られるそうだ。
 物語は、1、武四郎、世界を知る、2、武四郎、出奔する、3、武四郎、諸国を放浪する、4、武四郎、北をめざす、5、武四郎、アイヌと出会う、6、武四郎、狙われる、7、武四郎、国事に奔走する、8、・・秘めおくべし、9、武四郎、雌伏す、10、武四郎、北加伊道と名付く、11、武四郎、終活に邁進する、と河治氏の筆が踊り、軽快に読んだ。

1、武四郎、世界を知る 
 1883年、東京・湯島新花町に絵師・河鍋暁斎(1831-1889)が娘・豊(1868-1935、日本画家・暁翠)と住んでいた。暁斎を日本画の師と仰ぐジョサイア・コンドル(1852-1920)が訪ねてくる。続いて松浦老人=武四郎が訪ねてくる。松浦老人は饒舌で、話し始めたら止まらない。物語は豊の問いに松浦老人が応えるかたちで展開していく。
 松浦武四郎は、文化15年1818年、伊勢・須川村で生まれる。須川村は伊勢街道の出雲川の渡しの宿場町として栄え、松浦家は紀州和歌山藩の地士として村を治めていた。
 武四郎は7歳のとき、近所の真覚寺の寺子屋で来応禅師から読み書きのほどきを受ける。来応禅師は30余国を放浪していて、さまざまな国の出来事を少年たちに話したので、武四郎は老師のような坊さんになって諸国を旅し、不思議な霊力を身につけたいと、思う。
 伊勢神宮の60年に一度のおかげ年には全国からおかげ参りが押し寄せた。文政13年1831年、武四郎は13歳のときがおかげ年で、松浦家は伊勢街道に面していたのでおかげ参りを目の当たりにしたし、日常的に街道を往来する旅人を見ていたので、武四郎には旅が日常の風景になっていた。
 武四郎は旅人のなかに、飛ぶように歩く男を見つけた。男は、伊勢白粉で財をなした松阪商人発祥の地・射和で両替商を営む豪商・竹川家7代目当主竹川竹斎でだった。武四郎は竹川竹斎から、一日20里を歩く神足歩行術を習得する。
 武四郎は13歳で、津の儒者・平松楽斎のもとに弟子入りし、生涯の友となる川喜多崎之助と出会う。川喜多家は代々津藩銀札御用達を努めた屈指の伊勢商人で、武四郎は川喜多家に頻繁に出入りした。津の豪商・川喜多家と松阪の豪商・丹波屋は江戸店が大伝馬町で隣同士で、川喜多家が縁で丹波屋の長谷川家を武四郎が訪ね、竹川竹斎と再会する。
 武四郎は、竹斎が催す数寄者が名品珍品を持ち寄る物産会に誘われ、楽斎から譲られた羅馬=ローマの小銭を持って参加し、天竺の砂石に驚かされ、竹斎から見せられた新訂万国全図に目を見張り、朱線がキャプテン・クックの航路と聞いて世界を旅したいと思う・・武四郎の育った環境、出会った人々が武四郎の冒険心を育てた・・。

2、武四郎、出奔する
 豊が松浦武四郎に招かれ、伊勢から呼び寄せた武四郎の車夫・松平の人力車に乗って武四郎の家に着くと、武四郎は帝国大学に招聘されていたエドワード・モースが見たいというので蒐集した勾玉を広げていた。
 勾玉の一つは、家出のとき川喜多崎之助から貰ったそうだ。さかのぼって、武四郎16歳のときの12月の晦日、正月を自宅で迎えようと平松楽斎の家を辞し家に帰ろうとすると、楽斎が寒そうだからと頭巾を被せてくれた。武四郎は、帰る途中、道具屋十蔵の店をのぞいて日時計付きの懐中羅針盤が気に入ってしまい、楽斎に貰った小銭と頭巾を渡して懐中羅針盤を手に入れた。
 その頭巾は、楽斎が藤堂家より賜った黒羅紗に金糸の雨龍が縫い取りされた貴重な頭巾で、津では道具屋に楽斎の頭巾が売られていると大騒ぎになった。一方の須川村では武四郎が消えてしまう。行方を捜していると、崎之助が武四郎の「江戸、京、大坂、長崎、唐天竺に行く」との書き置きを持ってきた。勾玉の一つは、崎之助が餞別に武四郎に渡した1寸5分もある高価な碧い勾玉であった。
 崎之助から貰った勾玉を胸に武四郎は江戸に着いたが行く当てがないので、面識のあった篆刻家・山口遇所の家に寄宿し、篆刻を修行、経緯を崎之助に伝えたところ、連絡を受けた松浦家から迎えが来て、津に連れ戻された。連れ戻しに来たのが車夫・松平の祖父・金蔵で、帰りは武四郎のわがままで中山道を通り、途中、戸隠山、御嶽山にも登ったそうだ。
 家出の話の途中にモースが訪ねてきて、勾玉の蒐集品に感激し、ノートに右手で文字、左手で図を書き、喜んで帰って行った。豊も勾玉を写生してると、武四郎が暁翠という画号を考えてくれ、後ほど豊が気に入った翡翠の勾玉を根付けにした落款が届いた。・・16歳で津から江戸まで旅したり、わずかな期間で篆刻を会得したり、中山道を歩くなど、武四郎は図抜けている・・。

3、武四郎、諸国を放浪する
 1883年の初冬、豊が松浦武四郎を訪ねると、武四郎は凮月堂のかるるす煎餅を食べながら、明治に入ってから天神さまを信仰し始め、全国から25の神社を選び、石碑と神鏡を奉納していると話す。
 さかのぼって、武四郎が家出から連れ戻されたあと、平松楽斎に謝罪しに行くと、楽斎は射和の竹川竹斎のところに行くよう勧める。竹斎は農民救済のため潅漑用水をつくり、茶畑を拓き、文庫を建てたりしていて、武四郎に見聞を広めるよう旅に出ろという。
 武四郎は竹行李一つを肩に京、大坂に向かい、学者たちの門を叩いた。大塩平八郎には入塾を勧められその気になったところ、旅の途中で知り合った岩おこし売りの爺さん(=凮月堂の主)が大塩のところは止めなさい、旅を続けなさいと説いた。
 武四郎は本心は見聞を広めるための旅だったので、旅を続けることにして播州、備前、淡路、紀州、熊野、高野山から大和、丹後、若狭を経て越前、金沢、能登に旅し、途中、重病になり山人に助けられ、江戸に出て、凮月堂を訪ねる。・・17~18歳のころ、一人で諸国を歩き通したというから驚きである・・。
 江戸で岩おこし売りの爺さん=凮月堂の主の紹介で水野忠邦の奥向きに奉公するが半年後に追い出され、高野山に登って頭を丸め、四国の八十八ヶ所を遍路し、長崎で疫痢にかかったが蘇生できたので得度して坊主になり、平戸の寺の住職になるが3年ほどで旅に出たくなったなどが語られ、水野忠邦のお庭番などの話が挿入される。
 ・・河治氏の筆は、豊と武四郎のかけあいで話が展開するため柔らかな感じで進む・・。

4、武四郎、北をめざす
 1884年立春、豊が上野・大徳寺の摩利支天で行われる節分に出かけたとき松浦老人=武四郎に会う。豆をたくさん集めた武四郎は、豊を鰻の伊豆栄に誘い、放浪の旅の続きを話し始める。
 武四郎は放浪の折々に家に手紙を出していて、長崎には3年も住んでいたので兄からの手紙が届き、父も母も没していることを知って飛ぶようにして家に帰った。すぐに津から幼馴染みの川喜多崎之助が来て、豪商を継いで若主人になったこと、竹川竹斎の末娘と結婚したことを話す。
 竹斎は、飢饉のさなか、潅漑用水を2つ造り、食べられる草の調理法を記した食草便覧を著し、窮民策に奔走していた。武四郎が会いに行くと、無事を喜び、武四郎の10年はどうだったと聞くので、赤蝦夷=ロシア人が蝦夷地を狙っているので、蝦夷地を測量し、地図を作り物産を調べ、日本国の領土ということを明確にしたい、と答える。
 崎之助は武四郎に、資金を送るから報告として便りを出せと微笑む、などの話をしていうるち伊豆栄に着くと、向こうから漆芸家・絵師の柴田是真がやって来て、蓮玉庵の蕎麦を食べようと武四郎と豊を誘う。柴田是真と河鍋暁斎は犬猿の仲で、豊は暁斎の娘とさとられないようにしながら3人で蕎麦を食べる。是真は弟子たちと東北を旅してあちこちに絵が残されていて、武四郎が蝦夷地を目指し東北を訪ねたときに是真の絵に出会ったなどの話が挿入される。
 ・・摩利支天、伊豆栄、蓮玉庵など上野の名所が登場し、武四郎、豊が親しく感じられる・・。

5、武四郎、アイヌと出会う
 1884年6月、暁斎は根岸の豆腐料理・笹之雪で開かれている絵師、書家が即興で絵を描く書画会に出かけ、豊が家で団扇絵を描いていると松浦老人が訪ねてきて、豊が第2回内国絵画共進会に出品した「狼の断崖に立ちて月に嘯(うそぶ)く」の絵は素晴らしかったと誉める。松浦老人のちょんまげが無くなっているので豊が聞くと、高野山の骨堂に髷を納めたと話し、笹之雪に豊を誘う。
 歩きながら豊の問いに、武四郎は28歳のとき津軽海峡を渡り東蝦夷を旅した話を始める。江差に着いて室蘭、勇払、沙流、釧路、厚岸、根室を歩き、途中、アイヌ人と交流し、知床岬に「弘化2年(1845年)・・松浦武四郎」と大書きした標柱を立てる。
 いったん江戸に戻り、松前藩の警戒が厳しいので、松前藩の医師の従者として西蝦夷から宗谷を経て樺太に渡り、蝦夷に戻ってアイヌ人の案内人と江差、紋別、網走を歩いて知床を周り、江差に戻る。その間、羅針盤で方位を確かめ、高い山から俯瞰して地図を描いた。
 話しているうちに笹之雪に着いた。笹之雪で書画会に加わった武四郎が、2度目の蝦夷地探検のときここで送別会をしてもらい、三樹三郎と詩歌と篆刻の試合をしたことや、数年前から暁斎に「北海道人樹下午睡図」と題する武四郎の涅槃図を依頼していたが、ちょんまげが無くなったので描き直すよう暁斎に頼むことなどが挿入される。
 武四郎の最初の蝦夷地探検ではアイヌ語が理解できず身振り手振りだったが、2度目は積極的にアイヌ語を理解しようと努力した。嘉永2年1849年、3度目の蝦夷地では函館から船でクナシリ、エトロフに上陸した。
 そのころ武四郎は世話係の13歳のソンとソンの白い犬を連れ歩いた。ソンの父、兄は漁場に駆り出されてずーと帰っていない。母は和人の地役人の妾にされ、ソンを産んだあとの行方は分からない。武四郎が江戸に帰るとき、ソンも江戸に行きたいが(アイヌ人が蝦夷から出るのは禁じられていたので)、自分の代わりに白い犬が産んだ小犬を連れて行って欲しい、という。武四郎はソンとの別れにアイヌ人が首飾りにする水色のアイヌ玉を渡す。
 話が戻って、豊の描いた「狼の断崖に立ちて月に嘯く」のモデルはその白い犬だった。・・松前藩が蝦夷を統治していたときの倭人によるアイヌ人への非業さは、井上ひさし著「四千万歩の男」などにも描かれている。武四郎の悲憤はさらなる悲劇へ・・。
 続く

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