yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2016京都を歩く ②石清水八幡宮で、エジソンの竹フィラメント白熱電球、松花堂弁当のゆかりを知る

2016年08月31日 | 旅行

 2016年5月、京都を訪ねた。初日、まず国宝石清水八幡宮へ。参拝後、南総門を出る。
南総門から参道が南に下っている。向こうに三の鳥居が見える。男山全体は森になっていて、参道の両側は緑が広がり、すがすがしい気分になる。
 右手にエジソン記念碑があった。アメリカ人エジソンは発明王として教科書でも習った。発明の一つが白熱電球だが、wikipediaを読むと、イングランド人ジョゼフ・スワンが炭素フィラメントで白熱電球に成功していて、エジソンは試行錯誤のうえ、竹をフィラメントに用いて長時間使える白熱電球に改良した。だから白熱電球に関しては発明王ではなく改良王が正しいようだ。
 ところがエジソンが先に特許を取得したため、イングランドではエジソン&スワン連合会社=通称エジスワン社を創設し、セルロースフィラメントの白熱電球を製造し始めた。これがその後の業界基準になったそうだ。
 エジソン社は竹フィラメントの白熱電球を作り続けたが・・たぶん竹入手に限界があり・・、ゼネラル・エレクトリック社と合併して、セルロースフィラメント電球の製造に切り替えた。のちにタングステンのフィラメントに改良され、いまにいたっている。
 だから白熱電球はスワンが元祖になるが、竹フィラメントの白熱電球をエジソンが実用化しているから、日本人としては竹フィラメント白熱電球発明王エジソンが親近感がある。

 さかのぼって、エジソンは、フィラメントに適した竹を探すため、世界各地の竹を集めようとした。エジソンの調査員が伊藤博文総理大臣、山形有朋外務大臣の紹介で京都府知事に会ったところ、知事は岩清水八幡宮を紹介し、ここの真竹を使った実験で1200時間点灯に成功したそうだ。
 さらにwikipediaを調べると、岩国出身の藤岡市助が明治初期に設立された工部省工学寮=のちの工部大学校の電信科で学び、首席で卒業後、銀座にアーク灯を点灯させている。
 藤岡はフィラデルフィア電気博覧会視察の帰路、ニューヨークでエジソンに会い、それをきっかけに日本での竹フィラメント白熱電球製造を目ざした。のちに東芝の前身となる白熱社を興し、国産の竹フィラメント白熱電球の量産に成功している・・始めて知った・・。
 エジソン記念碑には、境内の竹がエジソンのフィラメントとして使われたことぐらしか触れていなかった・・小さな文字の説明をさあーと読んだだけだから、見落としがあるかも・・。記念碑の横に巨大な竹フィラメントを用いた電球とスワン、エジソン、藤岡市助の顔が並んでいれば、もうちょっと関心が深くなったかも知れない。

 パンフレットには、エジソン記念碑の先、三の鳥居の手前に一つ石が描かれている。足もとに注意すると、石畳の参道の中ほどにちょっと盛り上がった石がはめ込まれてた。パンフレットを見ていないと見過ごしてしまうほどの石である。お百度参りの目印にしたそうだ。いまどきお百度参りといっても通じそうにない。

 三の鳥居をくぐり、振り返って社殿に一礼してから階段を下ると左に折れ、かなり急な階段になる。緑がうっそうとしてくる。これが表参道で、やがて平坦な石畳になる。緑が覆った石畳を風が吹き抜ける。緑が多いと風がすがすがしくなる。散歩風の人もいる。男山を上り、八幡宮に詣でる散策コースが身近にあるのは羨ましい。
 表参道のゆるやかな坂道を下ると右に大扉稲荷社が現れ、道が分かれる。右に折れると七曲がりになり、男山の南東の麓に出るらしい。下ってしまうと駅まで大回りになるし、道は不案内なので、左の階段を選び、男山を上ることにした。

 パンフレットには松花堂跡と書かれている。松花堂弁当は、塗り物の弁当箱のなかに仕切り板が入っていて、刺身、焼き物、煮物、ご飯などが並べられた弁当である。懐石料理の流れを汲み、発案者がここ石清水八幡宮の社僧である松花堂昭乗だそうだ。
 幕の内弁当と似ているが、幕の内弁当は本膳料理の流れを汲み、歴史はもっと古いらしい。庶民には駅弁などで馴染みのある幕の内弁当の方が廉価で、松花堂弁当は料亭などでもメニューに載っていて、高価なイメージがある。
 ただし、松花堂跡には柵があるだけだった。松花堂弁当の模型でも置いておけば、由来が分かったし、さらに幕の内弁当の模型も並べておけば、社僧・松花堂昭乗の功績が理解できたのにとも思うのだが。
 右の石畳を上ると、石清水八幡宮の由来となった「石清水井」が左に現れる(写真)。冬の厳しい寒さでも凍らず、暑い夏でも涸れたことのない霊泉とされる。触ると冷たい。ひしゃくもあり、飲めるようになっている。手を清め、右手の石清水社に参拝する。

 以下略、続く。石清水八幡宮がエジソンや松花堂弁当にゆかりがあるとは知らなかった。新しい知識との出会いは旅の醍醐味だ。

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2006年、東西文明の十字路、シルクロードのオアシス都市として栄えたサマルカンドを訪ねた

2016年08月29日 | 旅行

2006 ウズベキスタン速報 ヒヴァ・ブハラ・サマルカンド・民家/2006.6記

 2006年5月26日~6月2日に、ウズベキスタンを訪ねた。
 ウズベキスタンにはあまり馴染みがないと思うが、ウズベキスタンの古都サマルカンドは歴史に登場するオアシス都市であり、ヒヴァ、ブハラとともにシルクロードの重要な交易都市として栄え、東西文明の十字路ともいわれた。
 栄えれば、人が集まる一方、争奪が絶えなかった。
 古くはアレキサンダー大王の遠征し、三蔵法師が訪ね、イスラムが支配し、モンゴル帝国が攻め込み、マルコポーロも来た。やがてティムール帝国が興り、その後、ロシア帝国に支配され、ソヴィエト連邦の一員となった。
 ウズベキスタンにも激動の歴史がある。

 ウズベキスタンは北緯はおよそ36°~45°に位置し、おおよそ日本の東京・埼玉~稚内に相当するが、国土の過半がキジルクム砂漠におおわれていて、そのため砂漠地に立地するヒヴァ、ブハラなどは冬の平均気温は-30℃、夏の平均気温が+30℃に達するほど気候は厳しい。
 年間平均降水量も首都タシケントで400mmほどと少なく、東京・埼玉の1/3~1/4しかないが、天山山脈、パミール高原などを源にしカスピ海に注ぐアムダリヤ川、シルダリヤ川から運河、カナート=地下水路を引いてオアシス都市の水源をまかなっており、それぞれの都市は緑が豊かである。
 第2次大戦後、シベリアに抑留された日本兵がウズベキスタンでの強制労働で首都タシュケントのナヴォイ劇場などを建設したことから、ウズベキスタン人は親日的である。

 1986年ごろ、シルクロードのトルファン、ウルムチなどを訪ねた。そのころから、シルクロードの先にある未知の土地を訪ねたいと思っていた。
 2002年にそのころは政情が安定していたイランを訪ねた。そのころのウズベキスタンも政情は安定していて、ツアーがいくつか企画されていた。
 そして、2006年のウズベキスタンとなった。以下は速報の一部である。

 古都ヒヴァはキジルクム砂漠の西、アムダリヤ川の流域に位置し、標高は-40m!!である。
 モンゴル、ティムールによって破壊されたが再建され、10~14世紀にホレズム王国の都として栄えた。
 日干しレンガを主体とする二重の城壁で囲まれている。
 ジュマ・モスクは10世紀創建、18世紀の再建で、モスクは精巧に彫刻されたニレの木の柱213本で支えられている・・なんと砂漠のど真ん中なのにニレの柱が213本とは驚きである。
 柱脚はレンガまたは石、その上に鉄をはさみ、下が膨らみ上に行くほど細くなる柱、柱頭に梁を受ける木製の横架材がのる。梁は木材で、上に板をのせ、日干しレンガ、土を用い屋根とする。こうした木柱による構造はブハラ、サマルカンドのモスク、王宮でも見られる。この形態はイラン・イスファハンのチェヘルソトーンに共通し、文化的共通性をうかがわせる。

 古都サマルカンドは天山山脈に続く高地にあり、アムダリヤ川の支流ゼラフシャン川沿いに位置し、標高はおよそ750mである。
 オアシス都市として発展しソグド人が住み続けてきたが13世紀にモンゴル軍によって破壊され、ティムールによって再建、都として繁栄した。
 レギスタン広場の北面に建つウルグベク神学校は15世紀の建設で、ティムールに次ぐ偉人ウルグベクによって開校された。
 2階建てで、100名ほどの学生が2階に寄宿することができた。
 およそ30m角の中庭は一面大理石がほぼ中央に向かって一定の勾配で敷き詰められている。中央には雨水が流れ込む穴が開けられ、地下に雨水が貯水される。
 貯水された雨水は汚れ落としや樹木への散水としていまも利用されている。
 乾燥地帯ならではの知恵であり、ヒヴァ、ブハラのみならずイランや北アフリカのイスラム諸国のモスク、王宮で同様の仕組みがいまも利用されている。
 写真などはホームページ参照。

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2016京都を歩く ①にしん蕎麦を食べてから、京都の裏鬼門を守護する国宝・石清水八幡宮へ

2016年08月28日 | 旅行

 2016年の5月の連休の谷間に京都を歩いた。

 12時半ごろ京都に着いた。駅前のホテルHに荷物を降ろし、駅ビルのそば屋でにしん蕎麦を食べる。かつて、小樽など北海道各地に鰊御殿が建てられたように、北海道沿岸で鰊漁が盛んだった。水揚げされた鰊は北前船で京都などに運ばれたが、冷凍・冷蔵技術がまだ未発達だったため、内臓を取って乾燥させ=身欠きにしん、輸送した・・内臓も輸送され、畑の肥料にしたというのをどこかで読んだ・・。身欠きにしんを甘露煮にし、蕎麦にのせたのがにしん蕎麦である。京都のにしん蕎麦を食べるたびに、北前船-鰊御殿を連想する。

 1時過ぎ、近鉄京都線の急行に乗り、近鉄丹波橋駅を降りて隣の京阪丹波橋駅から京阪本線の準急に乗り換え、八幡市駅で降りる。
 八幡市駅は男山ケーブルに直結していて、ケーブル駅には祝国宝・石清水八幡宮の横断幕がかかっていた。今年の2月に石清水八幡宮の本社が国宝指定を受けたそうだ。
 男山ケーブルは数分で山上駅に着く。もちろん歩いても登れるが、体力温存でケーブルを利用した。ケーブル山上駅は境内の北側、社殿の裏手にある。時間と体力があれば、東側の七曲がりを登り、表参道から南総門に向かうのがお勧めのようだ。
 2時過ぎ、裏手の山上駅からは境内の西側をぐるりと周ると、南総門に出る。境内は手前の手水舎広場よりも高くなっているから、総門の唐破風が覆い被さるように圧倒してくる。
 鮮やかな木部の朱塗りは、異界の入口を思わせる。この写真では分かりにくいが、奥の御本殿の軸に対し、南総門の軸は少し東に振ってある。これは、御本殿の参拝を済ませた人が帰るとき、御本殿が真後ろにならないように=背中・尻を向けないように、少し斜めにしてあるとか。かつての造営職人の気づかいのようだ。
 一礼し、境内に入る。石清水八幡宮は京都御所からみて西南にあたり、裏鬼門に鎮座する都の守護神でもあるらしい・・北東の鬼門には比叡山延暦寺が鎮座し、都を守護する・・。
 境内は広々とし、男山の山上に位置しているためか、空が広々として明るい。明るい陽光を受けて、楼門がそびえ上がっている。
 社殿も一段と高い基壇の上に建てられていて、しかも楼門の本体は見え隠れするほど細く、対して屋根が大きく広がっているため、楼門がいま舞い降りたように見える。屋根、唐破風、回廊の朱塗りの鮮やかさはまさに異空間、神の社を思わせ、楼門はいま天から神が舞い降りたと暗示しているのかも知れない。
 唐破風、回廊は手の込んだ彫刻で飾られている。破風の下の金箔の懸魚げぎょの左には龍、右には虎がいまにも飛びかからんとした勢いを見せる。
 中国伝来の四神は東の青龍、西の白虎、北の玄武、南の朱雀が四方を司る象徴になっている。門に飾られた左の龍が東をにらみ、右の虎が西に吠え、社殿を守護しているということだろうか・・玄武、朱雀が見当たらないが・・。
 桁に挟まれた蟇股には一対の金箔の鳩が飾られている。神の使いだそうで、右の鳩は口を少し開け、左の鳩は口を結んでいる。阿吽あうんの呼吸を表すとの説もあるが、阿吽は仏教の呪文だから、こじつけか、あるいはいいことはなんでも取り入れるといった神仏混淆かも知れない。

 本殿の中御前には応神天皇=誉田別尊ほんだわけのみこと、東御前には神功皇后=息長帯比賣命おきながたらしひめのみこと、西御前に比咩大神ひめおおかみ=多紀理毘賣命たぎりびめのみこと・市寸島姫命いちきしまひめのみこと・多岐津比賣命たぎつひめのみことが祭神として祀られているそうだが、本殿は基壇の上に建てられていて、しかも回廊に囲まれているから見ることはできない。

 パンフレットを見ながら、境内を右回りで歩く。境内全体を囲む塀は信長の寄進だろうか、信長塀と名づけられている。回廊の北東角は基壇の石垣が斜めに積まれていて、鬼門封じと名づけられている。石清水八幡宮全体が都の裏鬼門の守護だが、社殿の鬼門を守護するため鬼門封じを施すというのだから、念には念をということか?、よほど信心深かったに違いない。
 境内の北側には若宮社、貴船社、住吉社などの社が続き、北西端に校倉が建っていた。経蔵のようだ。
 砂利を踏みしめながら、回廊西側を周り、楼門前に戻り、一礼して、南総門を出る。

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ブダペストの聖イシュトバーン大聖堂は、キリスト教に改宗した初代国王イシュトバーンにちなむ

2016年08月27日 | 旅行

2003.8 ハンガリーを行く ブダペストの歴史建築 聖イシュトバーン大聖堂・マーチャーシュ聖堂・ハンガリー国会議事堂 /2003.8記

 2003年8月、ブダペスト・ウィーン・プラハのツアーに参加した。それぞれ2日間ていど?の短い滞在だったが、それぞれ都市で半日程度の自由時間があり、町の探索を楽しめた。ブダペスト歴史建築はその速報としてまとめたが、続報はまだ書いていない。
 昨年、2度目のスペインを訪ねた前後、ハプスブルク家の資料、本を読んだ。ハンガリーはハプスブルク家・フランツ・ヨーゼフにより、オーストリア・ハンガリー二重帝国の統制を受けた。そのころ、スペインではハプスブルク家は絶えていて、フランス・ブルボン朝の系譜であるボルボン朝になっていた。
 今秋、東ドイツの旅を計画している。オットー1世が登場する。ハンガリーの祖、マジャール人はオットー1世に敗れたあと、キリスト教に改宗し、現ハンガリーに発展する。
 少しずつ、ばらばらの布石がつながってくる。

 ハンガリーの建国は896年とされる。出自はウラル山中の遊牧民であるマジャール人で、9世紀、7部族がアールパードを長にして結束し、ドナウ川沿いに移動した。そして、現在のハンガリー・ブダ地区あたりを制覇し居城を構えたのが896年だった。
 マジャール人はなおも侵略を続け領土を拡大したが、955年ドイツ国王オットー1世に破れたのをきっかけに997年に即位したイシュトバーンはキリスト教に改宗、キリスト教を国内に広めた功績で1000年にローマ教皇から王冠を授かり、ハンガリーの初代国王となった。
 西欧の一員となったものの、1541年にオスマン帝国の支配下になり、1686年にはオスマン帝国を撃退したハプスブルク家の支配下に置かれることになった。
 1790年、ハンガリーの自治権がようやく認められ、1851年に聖イシュトバーン聖堂の建設が始まった。ねらいは建国1000年の記念だが、当時はフランツ・ヨーゼフ国王によるオーストリア・ハンガリー二重帝国下にあり、独立運動と弾圧が繰り返され、竣工は1906年になった。
 聖堂はバシリカ式と呼ばれる長方形平面で、正面両脇に2本の塔、長方形の中心に直径22m、高さ96mの大ドーム、奥の主祭壇にもドームを載せている。
 最初の建築家、ヒルド・ヨージェフはネオ・クラシック様式を採用し、外観には誇張された装飾がおさえられているが、建国を記念し威風堂々としている。
 ヒルドの後を引き継いだイブル・ミクローシュは、ネオ・ルネサンス様式を取り入れ、国内外の大理石をふんだんに使い、トップクラスの芸術家を投入して、絢爛ともいえる豊かな表現の内部空間を作りだした。
 イメージにローマ・カトリックのサンピエトロ寺院があったのかも知れない。主祭壇に置かれたイシュトバーン像も人気が高いそうだが、側廊に置かれたハンガリーびいきのエリーザベト像も劣らず人気があるそうだ。民族の歴史と重ねると建築が生き生きしてくる。

 マーチャーシュ聖堂・ハンガリー国会議事堂についてはホームページを参照されたい。

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1987年、青森県中里町豊岡で虫送りを調べる、悪病退散の民俗行事だが集団への帰属も象徴

2016年08月26日 | studywork

1987「伝統的な住空間構成の仕組みと虫送りについて」 青森県中里町豊岡 日本建築学会東北支部研究発表会 
 30年ほど前、村のかたち、住まいのかたちに強い関心があった。かたちの謎解きの一つに民俗慣行がある。青森のO君が津軽半島の中里町にはまだ虫送り行事が継承されていると教えてくれた。1986年の夏、O君らと調査を実施した。そのときカッチョを知り、テーマはカッチョと虫送りになった。カッチョについてはすでに紹介したので、虫送りを紹介したい。

  虫送りとは、田植え後に行われる津軽の農村独特の祭礼行事である。
 ところにより多少の差異はあるが、藁で作られたを担ぐ連中に続き、笛、たいこ、かね、囃子で村中を巡り、最後に村はずれの木の枝に蛇を掛けるというのが一般的である。
 虫送りは、稲に害虫がつかないことと悪病退散を目的とした行事で、類似の行事を全国各地で見ことができるが、近年、この行事を行う村は次第に少なくなってきている。
 本調査の対象集落中里町豊岡では虫送りが現在も地域住民の主体的な意志によって活発に行われており、アンケート回答の約9割が行事継承を志向していることからも、行事の関心をうかがうことができ、虫送りを通した住民のまとまりの強さをうかがわせる。
 虫送りがどのような働きをするか、虫送りの場が集落空間においてどのように位置づけられ認識されているかについて見ることにする。
 上豊岡、下豊岡の両集落とも、蛇は老人会が中心になり子供が手伝って作製されるが、行事運行は青年会、婦人会が中心となっており村総出の行事であることがわかる。
 上豊岡の運行は、集落北端にある神社に蛇を奉納し霊力をつけた後、蛇を担いで集落内の川沿いの道を各家を巡りながら運行、下豊岡との境界付近を折り返し、最後に蛇を神社付近の木に設置し、終了となる。
 下豊岡は、上豊岡と同じ神社にお参りした後、こちらも集落内の川沿いの道を巡り、蛇を下豊岡南端の宅地群の切れ目にある木に設置され終了となる。
 両集落共に川=道が、行事展開の場として位置づけられており、蛇が両集落の両端に設置されていることから、川=道が信仰の空間軸として主要な役割をしていること、集落端が村境として認識されていることがわかる。
 また、両集落の住戸は川沿いに連続しており、景観的には両集落問の境界は不明確だが、行事の運行から集落の自立性とともに、両集落の境界の存在をうかがうことができる。
 言い換えれば、集団への帰属を虫送りによって表現している、さらに言えば、虫送りが集落集団の自立性を象徴的に表現しているといえる。

 日本建築学会東北支部での報告では、屋敷配列や空間領域に関する意識もあわせて考察しているので、詳しく知りたい方は、ホームページを参照されたい。

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