yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2010.10上高地を行く1 ウォルター・ウェストン

2022年03月31日 | 旅行

長野を歩く>  2010.10 上高地を行く1 パークアンドライド ウォルター・ウェストン

 日本アルプスを望む景勝地として知られる上高地にはまだ行ったことがなかった。ホームページや観光パンフレットの穂高連峰の勇姿、梓川にかかる河童橋、大正池などは確かに気持ちをそそる。
 出発の日はあいにくの大雨となった。最近の旅は最寄り駅まで列車を使い、現地でレンタカーを利用することが多い。今回は松本駅でレンタカーを借りた。
 雨はますます強くなってきて、外の風景はほとんど分からない。運転担当の息子はナビに目的地をいれ、指示に任せて158号線を走る。途中、ひなびた酒屋に入りシャンペンを探したが置いてなく、店のおばさんに勧められるままナイアガラというスパークリングワインを買った。

 やがて沢渡(さわんど)というところに着く。ここから先は上高地の環境を守るためマイカーの乗り入れを規制していて、シャトルバスに乗り換える。一種のパークアンドライドpark and rideである。
 こうした仕組みはもっともっと普及していいように思うが、環境保全や渋滞緩和よりも行動の自由への欲求の方が高く、日本ではまだ事例は少ない。
 沢渡上の駐車場にレンタカーを停め、バスに乗り換える。ごく普通の観光バスで、パークアンドライドを進めるような工夫は特にない。そこから30分ほど走った上高地帝国ホテル前で降りる。
 ここから目指す上高地温泉ホテルまでは歩いて7-8分だそうで、天気がよければさわやかな気分を味わえただろうが、依然、土砂降りである。足腰が弱くなったり小さな子ども連れだったらホテル玄関に直行したいと思うのは当然であろう。パークアンドライドを補完するサポートがなければどんなにいいアイデアでも広まっていかない、そんなことを考えながら土砂降りを歩く。
 大雨で道が沢のようになっている。途中、梓川にかかる田代橋を渡ったが風景を楽しむゆとりはない。ずぶ濡れになりながらホテルに入る。明るく、暖かいロビーにホッとする。にこやかに出迎えてくれたフロント係は、ロビーで記念写真を撮らせてくれという。今回は連れの誕生日にあわせてあり、あらかじめ連絡しておいたので記念に写真をとってくれるらしい。足下はびしょびしょだが、笑顔をつくって、はいポーズ!。翌朝、木彫りの額に入った写真ができあがっていた。いい記念になった。

 上高地の温泉はここだけで、芥川龍之介や若山牧水、斎藤茂吉、高村光太郎、高見順、寺田寅彦などのそうそうたる人物が泊まっている。ロビー横にはギャラリーが設けてあり、そうした文人墨客ゆかりの作品や上高地の絵画・写真が展示されている。ぶらぶら見ていると、古い新聞記事が貼ってあり、ウォルター・ウェストンが紹介されていた。ホテルの散策案内にもウェストン碑、ウェストン像が記されている。
 ウォルター・ウェストンWalter Weston(1861-1940)はイギリスの宣教師で、1988年に来日、慶應義塾で教師を勤めるかたわら趣味で山登りをし、そのときの感動を交えて1896年に『Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps=日本アルプスの登山と探検』をイギリスで出版した。
 日本アルプスはこのときに名付けられたそうだ。以来、上高地の発見者ということでウェストン祭も開かれている。また新潟県糸魚川市でも、ウェストンが親不知を訪ね、日本アルプスの起点は親不知と話したことを機縁にウェストン像を建てているそうだ。芥川龍之介ら文人墨客を始め、大勢の人に親しまれてきた上高地の始まりがウェストンとはまったく知らなかった。

 上高地温泉ホテルの前進である温泉場は1830年に創業を開始したそうだ。江戸時代である。それから100年後の1930年にホテルになり、いまの建物は戦後に建て替えられた(写真)。
 ウェストンや芥川龍之介らのときとは様相がだいぶ異なろうが、同じ温泉で上高地の自然満喫したのは間違いない。そんな気分で温泉を堪能した。土砂降りに歩いた疲れもほぐれ、夕食に向かう。
 大小の個室があり、ほどよい部屋に通された。食前酒もあったが、仲居さんに誕生日祝いにスパークリングワインを飲んでもいいか尋ねたら、それはおめでとうございますといってアイスペール代わりに冷酒用の樽に氷を入れてくれ、シャンペングラスがないのでとワイングラスを用意してくれた。持ち込み料もない。にこやかな応対、それだけでも気分がよくなる。いい宿を選んだ。

 スパークリングワインの銘柄になっているナイアガラとはブドウ品種の一つで、ニューヨークのナイアガラで生み出されたことによるらしく、ニューヨーク州はもちろんブラジルでは最も多く栽培される白ワインだそうだ。日本では長野県で多く栽培されていて、そのまま銘柄にしたスパークリングワインがつくられたようだ。
 名前も飲むのも始めてである。ブドウの香り、ブドウの味が強く、本物のシャンペンと比べるとエネルギーと若さにあふれた青年と人生経験豊かな理知的な大人といった違いを感じだ。今回は前途洋々たる若者の誕生日だから丁度よかった。
 スパークリングワイン、料理ともにおいしくいただき、温泉も楽しみ、床についた。  (2011.2)

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1998.5長野を歩く 諏訪大社御柱・神長官守矢史料館(再) 

2022年03月30日 | 旅行

長野を歩く>  1998.5 諏訪を歩く 諏訪大社御柱 神長官守矢史料館

 1998年5月、7年に一度の奇祭として知られる諏訪神社を訪ねた。今年の御柱祭は4月3日の上社木落しに始まり5月11日の下社里曳きで終了した。私たちは混雑を避けて祭の一週間後に出かけた。すくっと天に向かって立ち上がる御柱は見応えがあり、テレビでみた勇壮な祭の様子を彷彿とさせてくれた。途中、建築史家藤森照信氏設計の神長官守矢資料館に立ち寄り、斬新な発想を体験した。

諏訪大社の御柱
 諏訪大社は一つでなく、上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮の二社四宮からなる。諏訪に着くまで、四宮で一つの社を構成する?ことがなかなか理解できないでいた。
 さいたま市西区にある秋葉神社は、関東総社としてよく知られている神社であるが社殿は一つしかない。各地にある著名な神社のうちには境内にいくつかの社や祠があったり、奥の院などがおかれている場合もあるが、いずれも主たる社殿があり、その社殿を中心としていくつかの社が配置されて神社が構成される。諏訪大社の二社四宮も一つの敷地の中に隣り合っているのではないか、その程度に考えていた。
 この考えは、行きの列車で地図を広げて完全に覆された(図)。二社のうち上社は諏訪湖の南東側にあり、どちらかといえば茅野駅に近い。ところが下社は諏訪湖の北東側にあって、諏訪駅から二つ先の下諏訪駅が近い。
 湖を挟んで建つ上社と下社の間は、直線で結んでも9㎞になる。さらに、現地で走ってみて分かったことだが、上社の本宮と前宮、下社の春宮と秋宮も歩くには少し骨になるほど離れていた。かくも離れた四宮で一社をなしているのは何故だろうか、疑問がわく。

 諏訪湖の東側は八ヶ岳の山並みである。西側には飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈が迫る。山あいのわずかな谷すじが中仙道となり、茅野、上諏訪、下諏訪の順に南東から北西に抜ける。八ヶ岳の沢水が集まり川となり、土砂が運ばれつくられたのが諏訪盆地である。
 八ヶ岳を背にし、諏訪盆地を前にすると左手に上社二宮、右手に下社二宮の配置となる。つまり、中仙道となる谷筋の上手を上社が、下手を下社が守る配置だったのではないだろうか。山を背に、湖を前にして栄えた諏訪の町を守るかたちが二社四宮を生み出した、確信にも満ちてそう思えるのだが、如何であろうか。

 その四宮にはそれぞれ四本の御柱が立てられる。社殿の前面左右と、背面左右である。四本の御柱によって神域を守護するかたちをとる。それぞれの社殿は山側を背にしていて、鎮守の森が鬱蒼とするが、神域を守る御柱は枝を落としたモミの素木で、緑を背景に威猛々しい(写真)。
 見上げるといまにも天に飛び上がりそうなロケットに見えなくないが、たぶん、天から降り立つ神の依りしろの意味であろう。
 御柱はいずれも直径1mほど、長さはおよそ16m、重さはなんと12㌧になる。
 まず、八ヶ岳から上社、下社それぞれ8本ずつモミの木を切り出し、山から里におろす。これを山出し祭と呼ぶが、とりわけ落差30m、斜度30度を一気に下る木落しは勇壮で、けが人はおろか、ときには死者が出るほど激しい。振り落とされても振り落とされても我こそはとモミの木にしがみつくこの儀式をテレビで見、現地でモミの木に触れ、これこそ、人の社会に神を招くため人がぎりぎりの限界に挑む儀式性の象徴ではないか、と思った。

 木落しのあと、上社ではつめたい雪解け水の川越があり、それから上社では20km、下社では12kmの道のりを人々に曳かれて社に到着する。里曳き祭と呼ばれるこの儀式は、自然の荒々しさが木落しの儀式を経ておさまり、神が人の社会に同席する過程を暗喩しているように思える。
 荒ぶる自然の力を司る神との和合が御柱祭の一連の儀式を経て成り立つのであろうし、二社四宮は神によって守られる神域の象徴のようである。

神長官守矢史料館
 上社本宮から前宮に向かう途中に諏訪大社の祭祀を司る守矢家がある。このあたりは縄文文化の中心地だそうで、守矢家は、古代より「洩矢の神」と呼ばれていたほど歴史が古く、祭祀も狩猟時代の流れを汲んでいる。
 いまの多くの祭祀は稲作文化としての五穀豊穣を祈願するため餅が供えられたりするが、狩猟時代では当然ながら祈願されるのは豊かな狩であり、祀られるのは鹿や猪や兎であった。あわせて狩には欠かせない弓矢、身を守る鉄鈴が祭壇に並べられたという。この狩猟時代の祭祀を伝える史料を展示しているのが守矢家に隣接して建てられた史料館である(写真)。

 設計は路上観察学会などのユニークな発想で知られる藤森照信氏。平面はいたって単純で、等高線に沿って軸線を設定し、手前に長方形平面、奥に45度軸を振った正方形平面を並べただけの構成である。しかし、かたちが単純なだけにその外観は力強い。
 入口側に立つと、手前のホールと展示の部分の屋根が目線に近いほど手前側に葺き下ろしていて、中央の開口に強引に人を引きつける。外壁は割り板の技法で割られたサワラの縦貼りなのだが、荒い木目が表情を豊かにしている。
 屋根の鉄平石は重さを感じさせず、肌目と石の大きさが馴染みやすい表情になっている。
 奥の展示と収蔵に使われる部分の外壁は土臭さをあらわにした土色のワラ入りモルタルで、やや内側に傾いた壁の線と競合し、不思議とあたたかいような、懐かしいような感じをつくっている。

 庭にいた守矢さんに誘われるまま展示を案内してもらったが、床は外と地続きのワラ入りモルタル仕上げで、そのまま壁として立ち上がっていて、まるで洞窟にいるような錯覚にとらわれた。奥にいくほど天井がのぼっており、軸を振った展示室が奥行きを演出していて、どこまでも洞窟の奥があるかのように錯覚させる。
 土の肌合いの壁には祭祀で祀られた鹿や猪の頭が20ほど、まるで壁を突き抜けて走り込んできたような躍動的な雰囲気で並んでいる。かつての狩猟で生きていたころは、狩りで得た獲物を神に捧げ、その肉を神とともに食することで人と神が同席することができ、よって神の食べ物であり人の食料となる豊かな狩猟を神に頼むことができたのである。
 小さな史料館であるがほどよい空間の大きさと明快な展示から、人と神の饗宴する儀式の片鱗が理解できる。
 少々慌ただしい諏訪大社巡りと史料館探訪であったが、神をめぐる儀式について改めて考えさせられるいい旅になった。 (1998.6)

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2021.10新潟を歩く 麒麟山 阿賀野川舟下り

2022年03月30日 | 旅行

新潟を歩く>  2021.10 新潟を歩く 麒麟山・阿賀野川ライン舟下り

 瓢湖をあとにして若松街道と呼ばれる国道49号線を南に走る。ナビに阿賀野川が現れ、国道49号線は東にカーブする。阿賀野川は何度も大きく蛇行していて、国道49号線も何度か阿賀野川を渡る。
 磐越西線津川駅近くで阿賀野川に架かるきりん橋を渡って間もなく国道459号線に折れ、ほどなく麒麟山温泉絵かきの宿福泉に着いた。
 宿は阿賀野川に面していて、部屋からも露天風呂、大浴場からも阿賀野川の遠大な風景を眺めることができる(写真、部屋から)。
 このあたりの阿賀野川は、川幅は広いが波立っているから深さはなさそうで、大雨ですぐ氾濫しそうである。彼方の山は飯豊朝日連峰らしい。宿の主が絵描きなのか、絵描きがよく泊まりに来るのかは聞き損なったが、絵筆を取りたくなるような風景である。
 和会席の夕食は盛りだくさんで、海老などの小付、前菜、鯛などのお造り、山女の塩焼き、萩真丈などの煮物、牛肉の朴葉味噌焼き、天麩羅が続き、食後には手作りのプリンが出た。食べ過ぎである。
 地元には麒麟山酒造がある。地域に根ざした酒造りを進めていて、蔵人も米作りをし、植林・山作りもしているそうだ。利き酒セットを味わった。端麗辛口を基本に、まろやかさ、酸味を変えているようだった。
 寝しなに、阿賀野川の流れを感じながら露天温泉で体をほぐし、ぐっすり休んだ。

 3日目朝、阿賀野川と常浪川の合流点にそびえる標高194.7mの麒麟山に向かった。新潟県の天然記念物に指定されている植物や野鳥の宝庫でそうだ。
 由来を記した説明板が立っていた。1252年、会津・芦名一族の藤倉氏が麒麟山に津川城を築城し、その子孫金上氏が居城・・wikipediaでは1252年に会津佐原氏の一族金上氏が築城と紹介されている・・、戦乱のなかでも津川城主金上氏が続いたが1589年に伊達政宗に敗れ、・・wikipediaではその後の城主の変遷が紹介されている・・、関ヶ原の戦い後の1627年に廃城になったそうだ。・・
 麒麟山には津川城跡を巡る城址コースと天然記念物などの自然を巡るコースが整備されていて、どちらも2時間の行程である。阿賀野川を展望できる城址コースの本丸跡まで上って戻ることにして、うっそうとした山道を上る(写真)。
 山道は整備されているが林がうっそうとし阿賀野川は見えない。侍屋敷跡、空堀跡、二の曲輪跡、出丸跡を過ぎ、津川城本丸跡に着く。25分ほどの行程だった。
 本丸跡からは阿賀野川と飯豊朝日連峰がよく見える(写真)。会津藩と新発田藩を結ぶ越後街道=会津街道は会津五街道の一つとして重視されていて、阿賀野川と越後街道=会津街道を見晴らせる麒麟山は交通の要衝だった。麒麟山に平地は少なく、城下町もないが、交通の要衝が津川城築城の理由であろう。
 整備された山道なので下りは早い。20分ほどで駐車場に戻り、道の駅・阿賀の里に向かう。

 道の駅・阿賀の里は国道49号線を西に走り、磐越西線東下条駅を過ぎた左手=南にある。狙いは、道の駅から発着する阿賀野川ライン舟下りである。
 話は日光金谷ホテルに飛ぶ。幕末の1859年、アメリカの医療伝導宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンJames Curtis Hepburn(1815-1911、いまはhepburnはヘップバーンと和訳される)が妻とともに来日し、医療活動に従事しながら聖書の日本語訳、和英辞典の編纂に努め、横浜にヘボン塾を開設するなどヘボン式ローマ字を広めた。現在の明治学院大学の前身である明治学院の初代総理に就任し、高橋是清、島崎藤村などを輩出している。
 ヘボンが日光を訪ねたとき東照宮楽師の金谷氏が自宅に泊め、それを聞いた外国人が金谷宅に泊まるようになった。金谷氏は外国人が気楽に滞在できるように、1837年、自宅の一部を改修して外国人向け宿泊施設「金谷カッテージ・イン」を開業した。
 その後、金谷氏は空きホテルを修理、増築して1893年に金谷ホテルを開業する。これが東照宮の神橋の少し手前に建つ金谷ホテルの始まりになる。

 1878年、女性冒険家・探検家のイザベラ・バードIsabell Lucy Bird(1831-1904)が来日し、金谷カッテージ・インに滞在する。
 イザベラ・バードはイギリス・ヨークシャー生まれで、幼少のころ病弱だったため転地療養するうち旅好きになり、1856年にアメリカ、カナダを旅し、The Englishwoman in Americaを書く。その後も世界各地を旅し、旅行記をまとめている。
 1878年に来日したイザベラ・バードは、通訳兼従者を雇って6月に金谷カッテージ・インに滞在したあと9月にかけて会津から新潟を経て北海道に至る旅をし、のちにUnbeaten Tracks in Japan日本奥地紀行を書いた。10月には神戸、京都、伊勢、大阪も訪ねている。
 その後も、インドからペルシャ、チベット、1894年にカナダから清国、日本、朝鮮を訪ね、1901年にはモロッコを旅している。
 イザベラ・バードが会津から新潟に向かう途中、津川に滞在したそうだ。「日本奥地紀行」は読んでいないが、阿賀野川ライン船下りの乗船券には、「・・ドイツのライン川に似てとてもすばらしい景色・・」「・・鱒の塩焼きが大変美味しかった・・」とイザベラ・バードの手記を紹介している。

 阿賀野川ライン船下りに利用されるジェット船の名前は「イザベラ・バード」で、定員44人、40分の周遊である。乗船券2500円を購入し、11時発に乗り込む。15名ほどのグループは後ろ側に座ったので、最前席に座る。
 目の前に「イギリスの女性旅行家イザベラ・バード46歳の阿賀流域行路を辿る 横浜~日光~会津~津川~新潟~山形~秋田~青森~函館~室蘭~苫小牧~神戸~京都~伊勢神宮~大阪へと旅をする」などと書かれたポスターが貼ってあった(写真)。
 元遊覧船の操縦士だったガイドはなめらかな口調で、四季折々の自然や水鳥、途中の咲花温泉のエピソード、イザベラ・バードの旅などを語ってくれた。観光に寄与しイザベラ・バードも喜んでいるかもしれない。
 阿賀野川の流れは穏やかで、ジェット船はしぶきを上げずにまず下流に向かい、Uターンして乗船場を過ぎて上流に向かい、Uターンして40分周遊の予定通り乗船場に戻った(写真はジェット船からの眺め)。
 記憶では、ドイツのライン川はもっと川幅が広く、ローレライ伝説が生まれるほどの難所の岩場があり、高台ごとに古城が見えた。「ライン川に似てすばらしい」は、筆が走りすぎたのではないか。

 11:40過ぎに道の駅・阿賀の里を出て、国道49号線を西に走る。新潟市に入って間もない12:40ごろ海鮮寿司処ことぶき寿司を見つけた。開放的な店構えなので、本日のおすすめ8貫盛り1936円を食べた(写真、2貫を食べてから撮影)。新潟は海の幸が新鮮である。
 時間があったので西海岸の浜辺で日本海を眺め(写真)、新潟駅でレンタカーを返し、駅ビルのスターバックスでコーヒーを飲み、16:10発とき332で家路についた。
 おおざっぱなスケジュールだったが、新発田城址、堀部安兵衛、イヨボヤ会館、鮭の人工ふ化、千年鮭きっかわ、黒塀プロジェクト、福島潟、潟博物館、瓢湖の白鳥、麒麟山津川城跡、阿賀野川ライン舟下り、イザベラ・バードなどなど、盛りだくさんの体験をし、記憶を思い出した。大いに「心」「身」を刺激することができた。  (2022.3)

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ウクライナに自由と独立の尊厳を

2022年03月29日 | よしなしごと

ウクライナの国旗は「青の空と黄の麦畑」を表すと解釈されているが、映画「ひまわり」に映る一面のひまわりと青空とも思えなくない
・・ロシアの無謀な侵略で小麦が失われ、世界は小麦不足に見舞われているから麦畑の黄色が本来か?・・

旗色は、中世のルーシ王国の国章に由来し、ウクライナ人民共和国・西ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・カルパト・ウクライナなどの国旗として用いられ、さらに反ソ・反共の組織であるウクライナ蜂起軍の軍旗で、ウクライナ人のシンボルである

ウクライナに自由と平安を

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2021.10新潟を歩く 福島潟・瓢湖

2022年03月27日 | 旅行

新潟を歩く>  2021.10 新潟を歩く 福島潟・瓢湖

 ナビに福島潟を入れて、村上町をあとにする。コースはいくつかあるが、日本海を見ながら走ろうと国道345号線、国道113号線を利用し、聖籠町あたりから県道203号線、県道26号線を抜け、12:30ごろ旧潟博物館=現「水の駅ビュー福島潟」駐車場に着いた。
 「潟博物館」は青木淳氏の設計で1977年に開館し、1999年に日本建築学会賞を受賞している(写真、2003年撮影、手前は後述の福島潟放水路)。潟博物館のユニークな発想は耳目を集め、資料なども読んでいたので、同じく青木淳氏設計の温水プール「遊水館」とあわせ2003年に見学に来たことがある。
 当時は、古民家を移築した休憩施設「潟来亭(かたらいてい)」や古民家風の食事処が賑わっていた記憶がある。その食事処での昼食を期待したのだが、閉店していた。

 かつて越後平野は低湿地で水はけが悪く、海岸線は砂丘で遮られていて、日本海に流れ込む河川は大雨のたびに氾濫を繰り返していた。いまの阿賀野川の下流部は低湿地で蛇行の流れを変える暴れ川となり、大きな被害が出ていた。1730年、新発田藩主溝口直治は松ヶ崎分水路を開削し(のちに現在の阿賀野川)、低湿地を干拓して新田開拓を進めた。・・河川改修、治水工事は明治、大正、昭和も進められ、現在の信濃川、阿賀野川、加治川などの流路となった・・。
 低湿地が干拓され、湖沼として残った一つが262haの福島潟である。1ha=100m×100mだから単純計算では1.6km×1.6kmになり、視線が届かないほど広大である(写真、3階展望テラスからの眺め)。
 福島潟に流入する河川は13本で、流出は阿賀野川に流れる新井郷川と日本海に流れる福島潟放水路(前掲写真ビュー福島潟手前)の2本である。
 福島潟には毎年、国の天然記念物であるオオヒシクイをはじめとする220種類以上の渡り鳥が飛来し、262haのうち163haが国指定福島潟鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されている。
 水生・湿性植物などは450種類以上も確認され、全国的に希少となっているオニバスミズアオイ、ミクリなども自生している。福島潟にこのような自然が残されていることから、環境省「日本の重要湿地500」「重要里地里山」、朝日新聞「21世紀に残したい日本の自然百選」、「にいがた景勝100選」などに選ばれている。
 
 旧潟博物館=現水の駅ビュー福島潟は、福島潟の自然景勝を実感するため、高さ31.6m、底部直径16m、頂部直径27.8mの逆円錐形で、らせん状のスロープを上り下りしながら福島潟を眺めるようにデザインされている。
 上り始めはまだ水面は見えない。水生植物、湿性植物の彼方に山並みと空が見えるだけである。上るにつれ水面が現れ、水生植物、湿性植物のあいだを水鳥が泳いでいるのが見える。さらに上ると、入り組んだ福島潟の全容が見えてくる。水面には小島のような草むらが散在し、魚を捕るための葦を葺いたヨウモツ小屋(ヨウは魚のことでヨウモツは魚を持つの意味)も確認できる。
 らせん状のスロープだから、スロープを回る向きで干拓された水田、流れ込んでくる川、新井郷川、福島潟放水路、遊水館、潟来亭、遠くに広がる農地、家並みと風景が変わり、自然と共存しようとしてきた人々の努力を想像することができる。
 青木淳氏の構想力に拍手を送りたい。

 話は前後したが、水の駅なら軽食ぐらいはあるだろうと入館する。館内は、3階まで吹き抜けたエントランスホールと3階の図書コーナー・休憩ロビー・コーヒーショップまでが無料で(写真は3階からの眺め)、4~5階展示室、6階展望ロビーは400円の有料である。施設の管理維持が大変なのであろう。
 400円を払い、3階に上がってコーヒーショップをのぞく。数名が食事を取っていた。メニューは少なかったがカルボナーラ+コーヒー1200円があった。潟を眺めながら、カルボナーラをいただいた(写真)。

 食後、6階展望ロビーから四方八方を遠望し、らせん状スロープを下る。スロープを下るにつれ視界が変化していく。俯瞰的に見えた風景がスロープを下るにつれ地面に近づいていく。途中階にイベント用スペースや映像スペースがあったが、コロナ渦のため休止していた。
 スロープには福島潟に飛来する渡り鳥、水性・湿性植物などがパネル、実物大模型などで展示されている。図鑑などでは大きさが実感できないが実物大の展示を見ると、予想外に小さかったり、オニバスのように驚くほど大きかったりして、勉強になる(写真右はオニバス)。
 
 水の駅ビュー福島潟に隣接した潟沿いに自然学習園、遊潟広場などが整備されているので足を延ばした。休憩施設「潟来亭」は公開されていたが、無人だった。
 園路を散策する。潟面には水草が生え、ヨウモツ小屋が設けられ、そのあいだを水鳥がのびのびと泳ぎ回っている(写真)。
 鳥には疎い。鴨のように見えるが、オオヒシクイはカムチャッカ半島から9月に飛来し3月に帰るそうだから、オオヒシクイと思った方が福島潟とカムチャッカ半島がつながり、風景が遠大になる。・・あとで分かったが、昼間は餌を探しに出かけていて夕方に戻るそうだ・・。
 2人とすれ違っただけの静かな福島潟をあとにする。

 次は福島潟から南に20kmほど、白鳥飛来地で知られる瓢湖を目指し、国道460号線を走る。
 徳川3代将軍家光の時代、越後平野は大干ばつにあい、その対策として1626年、新発田藩主溝口宣直は農業用水池造成に着手、1636年に大小2つの四角い池が完成した。当初は外城大堤と呼ばれたが、大小2つの形が瓢箪に似ていたことから明治時代に瓢湖と愛称されるようになった。
 白鳥が最初に瓢湖に飛来したのは1950年だそうだ。一般に白鳥はシベリアに生息し、5~6月ごろ産卵、ヒナが成長した秋にシベリア→サハリン→北海道に渡り、10月にえさを求めてさらに南下する。瓢湖で白鳥を目撃した吉川重三郎は工夫に工夫を重ねて1954年に餌づけに成功し、瓢湖の白鳥は国の天然記念物の指定を受けることになった。
 1971年、湿地の生態系を守ることを目的にした国際湿地条約であるラムサール条約が制定され、1975年に発効し、日本は1980年に加入した。瓢湖は2008年にラムサール条約登録湿地に指定されている(2021年現在日本の登録湿地は53ヶ所)。
 阿賀野市では瓢湖周辺の自然を次世代に残そうと1971年から、瓢湖をそのままの形で保全し、その周りに水鳥が生息しやすいように東新池、あやめ池、さくら池をつくり、野鳥観察小屋を設け、さらにあやめ園、桜並木遊歩道、白鳥公園なども整備していて、瓢湖水きん公園と呼んでいる。

 福島潟から国道460号線を走り、国道49号線に折れ、住宅街に入り、瓢湖南の駐車場に車を止める。駐車場の北隣が白鳥公園で、野外ステージ、四阿などが建っていて、近所の子どもたちが大勢遊んでいた。子どもたちは白鳥を見慣れているためか、白鳥より遊びに夢中である。
 白鳥公園の北があやめ園になっていて、その北に瓢湖が広がっている。瓢湖の周りに遊歩道が設けられていて、犬を連れて散歩する人、ジョギングする人など近所の人が行ったり来たりしている。近所の人も白鳥を見慣れているようで、瓢湖を眺めたりせず散策、ジョギングに集中している。
 観光で訪ねてきた私たちは瓢湖をのぞき、水鳥が泳ぎ回っているなかに白鳥を数羽見つけた(写真)。瓢湖にはオオハクチョウコハクチョウ、ごくまれにアメリカコハクチョウが飛来するらしいが、鳥に疎く見分けが付かない。
 白鳥を見ながら遊歩道を東に歩くと橋が架かっている。その先が新たに整備された東新池のようだ(写真)。東新池は水鳥も少なく見えるし、白鳥も見つからない。
 瓢湖を眺めながら、通りすがりの散歩の人に白鳥は少ないですねと話しかけたら、昼間は餌を探しに出かけているが夕方になると空が見えなくなるほどの白鳥が戻ってくる、と教えてくれた。白鳥の生態も分からず白鳥が少ないと思い違いをしてしまった。素人のために説明板やパンフレットに習性を紹介してくれるといいね。

 遊歩道を戻る。瓢湖南西に白鳥観察舎、瓢湖観察舎が建っていて、そばの売店で水鳥の餌を売っている。親子連れが買った餌をまくと鳴き声を上げながら水鳥が突進してくる(写真)。
 見分けがつかないが、マガモ、オナガガモ、キンクロハジロ、ホシハジロ、ハシビロガモ、ヒドリガモ、スズガモ、ミコアイサなどがいるらしい。
 瓢湖をあとにして阿賀野川に沿った国道49号線を走り麒麟山温泉に向かった。   (2022.3)

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