2016.11 島根を行く ③出雲大社 拝殿・八足門・十九社・本殿・素鵞社 <日本の旅・島根の旅>
多くの神社では拝殿・本殿前の境内に神楽殿が建つが、出雲大社では境内の中には神楽殿がない。銅鳥居から拝殿の堂々たる構えが目に入る(写真)。拝殿の創建は1519年だが1953年に焼失、1959年の再建である。
拝殿が堂々としているので気づきにくいが、しめ縄は巨大でとぐろを巻いている。見上げると、藁のすき間にコインが挟まっている。しめ縄に賽銭をあげるのは正当ではないが、酔狂な人が放り上げたようだ。
出雲大社の神楽殿は境内の西、素鵞川を渡った先に建っていて、出雲大社宮司である千家国造家の大広間、および祈祷や結婚式などの祭事、行事に使われている。切妻の正面破風下に拝殿に劣らない大しめ縄が飾られている。
出雲大社では、しめ縄といえば神楽殿の大しめ縄を指す。大しめ縄は長さは13m、重さは5㌧を越え、数年ごとに新しいしめ縄に作り替えられるそうだ。
一般的に、しめ縄は右上位、左下位で、根元を右に、穂先を左にして綯っていくが、出雲大社では左上位、右下位とし、根元を左、穂先を右にして綯うそうだ。一説には、とぐろを巻くのは龍を象徴し、左=西が頭で右=東が尻尾とされる。
私のような半ば観光の参拝者にはしめ縄の左右の違いも見分けがつかないし、大国主大神を祀る本殿・拝殿に参拝するのだから拝殿のしめ縄で十分に感動できる。
拝殿をぐるりと回ると、本殿の正面入口である八足門 ヤツアシモンが構えている。名前の通り、8本柱で支えられている。
本殿の神域は瑞垣、玉垣の二重の塀で囲われていて、正月三が日、祈祷を受けた人、特別参拝など以外は立ち入り禁止である。一般人は八足門で大国主大神に参拝する。拝礼は「2礼4拍手1礼」だそうだ。拝礼も出雲大社流である。
八足門の切妻屋根は重々しいほど大きい(写真)。神の厳かさを表しているようだ。屋根を支える木組みの彫刻は見事である。蛙股の彫刻は左甚五郎作と伝承されている。
創建は江戸時代中期と推定され、国の重要文化財の指定を受けている。
ちなみに、本殿は国宝であり、瑞垣、玉垣、神域内の東門神社 ヒガシミカドノカミノヤシロ、西門神社ニシミカドノカミノヤシロ、楼門 ロウモン、東神饌所 ヒガシシンセンショ、西神饌所 ニシシンセンショ、神魂伊能知比売神社 カミムスビイノチヒメノカミノヤシロ、大神大后神社 オオカミオオキサキノカミノヤシロ、神魂御子神社 カミムスビミコノコカミヤシロは国の重要文化財の指定を受けている・・どれも読み方が難解である、ちなみにイズモタイシャは間違いではないが、イズモオオヤシロが正式な読み方である。
八足門の左手、西に西十九社 ジュウクシャが建つ(写真)。同じく、東には東十九社が建つ。
日本の旧暦では12ヶ月を、1月は睦月、2月は如月、以下、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、そして10月は神無月、11月は霜月、12月は師走と呼び習わした・・新暦でもこの呼び方は踏襲され、1月、2月・・11月、12月の呼び方と併用されている。
10月の神無月は6月の水無月と同じく、本来は水の月、神の月だったが、水無月、神無月と表記されたようだ。確かに、6月は雨が多いのに水無はおかしい。むしろ「水の月」の方がかなっている。
一方で、全国の神々が10月に稲佐の浜から上陸し、出雲大社に参集するという神事がある。そのため、10月は全国の神社に神々が居ない、つまり神無月であり、出雲に限っては神々が参集しているので神在月と呼ぶ、という解釈がある。
「神在月」「神無月」は神話の世界をイメージさせる。学者ではないから、全国的には神が居ないので神無月、神々が参集した出雲は神在月という解釈、水無月は水の月という解釈で折り合うことにする。
十九社は全国から参集した神々が滞在する社とされる。表側の屋根を長くした流造とし、南北に一直線に伸びた切妻屋根の簡潔なつくりである。水平線の強調された直線的な造形は、菊竹清典氏設計「庁の舎」のデザインにも影響を与えたのではないだろうか。
東十九社、西十九社いずれも江戸時代初期に創建され、1744~1748年ごろ再建された。国の重要文化財である。
西十九社の北に小さな社が二つ並ぶ。切妻屋根をのせた妻入りで、氏社 ウジヤシロと呼ばれ、国の重要文化財である。
さらに北に切妻屋根平入り、校倉造りの宝庫も国の重要文化財である。いずれも古色蒼然として歴史を感じさせる。
右手、東の瑞垣越しに本殿の上部が見える(写真、web転載)。
大社造りと呼ばれる日本最古の神社建築様式とされ、国宝である。
大社造りは田の字型平面の交叉部に9本の柱を立て、中央の心御柱と右=東の側柱のあいだを板壁とし、板壁の奥となる東北の間を神座とする。
神座には大国主大神が西向きに祀られている。一般の神社は本殿の最奥に参拝者と対面する形で祭神が祀られるが、出雲大社では西向きの大国主大神を参拝することになる。最古の神社建築様式はその後の神社建築において踏襲されなかったようだ。
本殿は切妻屋根、平入りで屋根高さは24mだが、伝承によれば創建時には48mの高さの本殿だったそうだ。一般的な建物の階高は3mだから24mでも8階建てになり、創建時の48mは16階建てに相当する。巨大な建造物は神の偉大さの象徴であろう。
現在の本殿は1744年の再建で、以降、3度の遷宮が行われていて、2008年から60年ぶりの遷宮が行われ2016年に現本殿が造営された。
伊勢神宮の式年遷宮は隣接して新旧社殿用地が確保されていて、20年ごとに新社殿が造営され、参拝者は遷宮前なら旧社殿に、遷宮後であれば新社殿に参拝する。
出雲大社の遷宮は、拝殿の隣に仮拝殿が建てられ、御神体は拝殿に遷されて、参拝者は仮拝殿で参拝する。遷宮の違いは学者ではないので深入りしない。
本殿を見上げながら瑞垣を回り込み、南に折れる(写真)。どの社もバランスの取れている。華美さがなく質素だが、気品を感じる。写真左端は神魂伊能知比売神社 カミムスビイノチヒメノカミノヤシロ、あいだが大神大后神社 オオカミオオキサキノカミノヤシロである。配列も整っていて、リズム感がある。
話を戻して、本殿の真後ろに素鵞社 ソガノヤシロが建つ(写真)。祭神は天照大神の弟神で、八岐大蛇を退治した素戔嗚尊 スサノオノミコトである。
由来によれば、鎌倉時代から江戸時代初期まで出雲大社の祭神は素戔嗚尊に変り、江戸時代中期、1667年の遷宮で大国主命が出雲大社の祭神に復活し、そのとき、素戔嗚尊を祀るため八雲山の麓に現素鵞社が建立されたそうだ。
素鵞社も大社造り、切妻屋根、妻入りで、切妻屋根、妻入りの向拝がバランス良く設けられている。1745年ごろの再建で、国の重要文化財の指定を受けている。
境内東北宮の古びた文庫、瑞垣を南に折れた先の国の重要文化財である鎌社 カマノヤシロ、同じく重要文化財の西十九社を眺め、銅鳥居で出雲大社に一礼する。
松の参道を抜け、中の鳥居、勢溜の大鳥居、でそれぞれ一礼し、神門通りの駐車場に戻る。
14時半、まだ早い。稲佐の浜に向かう。 続く(2019.12)