yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2016.11 出雲大社参拝 拝殿・しめ縄・八足門・西十九社・本殿・素鵞社を見歩く

2019年12月29日 | 旅行

2016.11 島根を行く ③出雲大社 拝殿・八足門・十九社・本殿・素鵞社  <日本の旅・島根の旅>

 多くの神社では拝殿・本殿前の境内に神楽殿が建つが、出雲大社では境内の中には神楽殿がない。銅鳥居から拝殿の堂々たる構えが目に入る(写真)。拝殿の創建は1519年だが1953年に焼失、1959年の再建である。
 拝殿が堂々としているので気づきにくいが、しめ縄は巨大でとぐろを巻いている。見上げると、藁のすき間にコインが挟まっている。しめ縄に賽銭をあげるのは正当ではないが、酔狂な人が放り上げたようだ。

 出雲大社の神楽殿は境内の西、素鵞川を渡った先に建っていて、出雲大社宮司である千家国造家の大広間、および祈祷や結婚式などの祭事、行事に使われている。切妻の正面破風下に拝殿に劣らない大しめ縄が飾られている。
 出雲大社では、しめ縄といえば神楽殿の大しめ縄を指す。大しめ縄は長さは13m、重さは5㌧を越え、数年ごとに新しいしめ縄に作り替えられるそうだ。

 一般的に、しめ縄は右上位、左下位で、根元を右に、穂先を左にして綯っていくが、出雲大社では左上位、右下位とし、根元を左、穂先を右にして綯うそうだ。一説には、とぐろを巻くのは龍を象徴し、左=西が頭で右=東が尻尾とされる。
 私のような半ば観光の参拝者にはしめ縄の左右の違いも見分けがつかないし、大国主大神を祀る本殿・拝殿に参拝するのだから拝殿のしめ縄で十分に感動できる。

 拝殿をぐるりと回ると、本殿の正面入口である八足門 ヤツアシモンが構えている。名前の通り、8本柱で支えられている。
 本殿の神域は瑞垣、玉垣の二重の塀で囲われていて、正月三が日、祈祷を受けた人、特別参拝など以外は立ち入り禁止である。一般人は八足門で大国主大神に参拝する。拝礼は「2礼4拍手1礼」だそうだ。拝礼も出雲大社流である。

 八足門の切妻屋根は重々しいほど大きい(写真)。神の厳かさを表しているようだ。屋根を支える木組みの彫刻は見事である。蛙股の彫刻は左甚五郎作と伝承されている。
 創建は江戸時代中期と推定され、国の重要文化財の指定を受けている。

 ちなみに、本殿は国宝であり、瑞垣、玉垣、神域内の東門神社 ヒガシミカドノカミノヤシロ、西門神社ニシミカドノカミノヤシロ、楼門 ロウモン、東神饌所 ヒガシシンセンショ、西神饌所 ニシシンセンショ、神魂伊能知比売神社 カミムスビイノチヒメノカミノヤシロ、大神大后神社 オオカミオオキサキノカミノヤシロ、神魂御子神社 カミムスビミコノコカミヤシロは国の重要文化財の指定を受けている・・どれも読み方が難解である、ちなみにイズモタイシャは間違いではないが、イズモオオヤシロが正式な読み方である。

 
 八足門の左手、西に西十九社 ジュウクシャが建つ(写真)。同じく、東には東十九社が建つ。
 日本の旧暦では12ヶ月を、1月は睦月、2月は如月、以下、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、そして10月は神無月、11月は霜月、12月は師走と呼び習わした・・新暦でもこの呼び方は踏襲され、1月、2月・・11月、12月の呼び方と併用されている。
 10月の神無月は6月の水無月と同じく、本来は水の月、神の月だったが、水無月、神無月と表記されたようだ。確かに、6月は雨が多いのに水無はおかしい。むしろ「水の月」の方がかなっている。
 一方で、全国の神々が10月に稲佐の浜から上陸し、出雲大社に参集するという神事がある。そのため、10月は全国の神社に神々が居ない、つまり神無月であり、出雲に限っては神々が参集しているので神在月と呼ぶ、という解釈がある。
 「神在月」「神無月」は神話の世界をイメージさせる。学者ではないから、全国的には神が居ないので神無月、神々が参集した出雲は神在月という解釈、水無月は水の月という解釈で折り合うことにする。


 十九社は全国から参集した神々が滞在する社とされる。表側の屋根を長くした流造とし、南北に一直線に伸びた切妻屋根の簡潔なつくりである。水平線の強調された直線的な造形は、菊竹清典氏設計「庁の舎」のデザインにも影響を与えたのではないだろうか。

 東十九社、西十九社いずれも江戸時代初期に創建され、1744~1748年ごろ再建された。国の重要文化財である。

 西十九社の北に小さな社が二つ並ぶ。切妻屋根をのせた妻入りで、氏社 ウジヤシロと呼ばれ、国の重要文化財である。
 さらに北に切妻屋根平入り、校倉造りの宝庫も国の重要文化財である。いずれも古色蒼然として歴史を感じさせる。

 右手、東の瑞垣越しに本殿の上部が見える(写真、web転載)。
 大社造りと呼ばれる日本最古の神社建築様式とされ、国宝である。
 大社造りは田の字型平面の交叉部に9本の柱を立て、中央の心御柱と右=東の側柱のあいだを板壁とし、板壁の奥となる東北の間を神座とする。
 神座には大国主大神が西向きに祀られている。一般の神社は本殿の最奥に参拝者と対面する形で祭神が祀られるが、出雲大社では西向きの大国主大神を参拝することになる。最古の神社建築様式はその後の神社建築において踏襲されなかったようだ。

 本殿は切妻屋根、平入りで屋根高さは24mだが、伝承によれば創建時には48mの高さの本殿だったそうだ。一般的な建物の階高は3mだから24mでも8階建てになり、創建時の48mは16階建てに相当する。巨大な建造物は神の偉大さの象徴であろう。
 現在の本殿は1744年の再建で、以降、3度の遷宮が行われていて、2008年から60年ぶりの遷宮が行われ2016年に現本殿が造営された。

 伊勢神宮の式年遷宮は隣接して新旧社殿用地が確保されていて、20年ごとに新社殿が造営され、参拝者は遷宮前なら旧社殿に、遷宮後であれば新社殿に参拝する。
 出雲大社の遷宮は、拝殿の隣に仮拝殿が建てられ、御神体は拝殿に遷されて、参拝者は仮拝殿で参拝する。遷宮の違いは学者ではないので深入りしない。
 本殿を見上げながら瑞垣を回り込み、南に折れる(写真)。どの社もバランスの取れている。華美さがなく質素だが、気品を感じる。写真左端は神魂伊能知比売神社 カミムスビイノチヒメノカミノヤシロ、あいだが大神大后神社 オオカミオオキサキノカミノヤシロである。配列も整っていて、リズム感がある。

 話を戻して、本殿の真後ろに素鵞社 ソガノヤシロが建つ(写真)。祭神は天照大神の弟神で、八岐大蛇を退治した素戔嗚尊 スサノオノミコトである。
 由来によれば、鎌倉時代から江戸時代初期まで出雲大社の祭神は素戔嗚尊に変り、江戸時代中期、1667年の遷宮で大国主命が出雲大社の祭神に復活し、そのとき、素戔嗚尊を祀るため八雲山の麓に現素鵞社が建立されたそうだ。

 素鵞社も大社造り、切妻屋根、妻入りで、切妻屋根、妻入りの向拝がバランス良く設けられている。1745年ごろの再建で、国の重要文化財の指定を受けている。

 境内東北宮の古びた文庫、瑞垣を南に折れた先の国の重要文化財である鎌社 カマノヤシロ、同じく重要文化財の西十九社を眺め、銅鳥居で出雲大社に一礼する。
 松の参道を抜け、中の鳥居、勢溜の大鳥居、でそれぞれ一礼し、神門通りの駐車場に戻る。

 14時半、まだ早い。稲佐の浜に向かう。 続く(2019.12)

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2016.11出雲大社 一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居・四の鳥居→境内へ、庁の舎解体中

2019年12月23日 | 旅行

2016.11 島根を行く ②宇迦橋大鳥居 勢溜大鳥居 中の鳥居 銅鳥居 庁の舎 神祜殿        <日本の旅・島根の旅>

 一の鳥居は堀川に架かった宇迦橋のかたわらに立っている。
 出雲大社由緒によれば、八雲立つ出雲国は大国主大神によって築かれ、豊葦原の瑞穂の国と名付けられた。国づくり後、大国主大神は天照大御神に瑞穂の国を譲り、天照大御神は大国主大神のために宇迦山の麓に宮殿を造営したそうだ。
 出雲大社とは、天照大御神によって造営された、大国主大神を祀る社なのである。出雲大社の建つ宇迦山の麓を堀川が流れていて、堀川にかけられた橋が宇迦橋と名付けられ、一の鳥居は宇迦橋の大鳥居とも呼ばれた。

 宇迦橋の大鳥居は見上げるほど大きい。どっしりと構えている。かつて大社駅からの参拝者は、大鳥居に迎えられ、出雲大社の荘厳さを感じ、気持ちを引き締めたのではないだろうか。遠目からは石造に見えるが、コンクリート造である。
 神門通りのところどころに、袋を担ぎ、口ひげを伸ばした笑顔のだいこく様の石像や兎の石像が飾られている。これは神門通りを盛り上げようとした近年の作であろう。だが、人通りは少ない。

 神門通りを北に進む。右に前述した出雲大社前駅のモダンな建物があり、電車を待つ人がいる。店構えも増え、店をのぞく人やそぞろ歩く人が増える。
 右手の空き店舗を改装した?「神門通りおもてなしステーション=大社観光案内所」は下るときにパンフレットなどをもらった。国の登録有形文化財に指定されている古風な「日の出館」を眺め、まんじゅうの老舗田原屋をのぞく。左の老舗竹野屋旅館はシンガーソングライターとして知られる竹内まりあの実家だそうだが、歌には疎く歌のイメージが湧いてこない。
 このあたりまで来ると人出が多くなる。右手の食事処で前述の出雲・割子そば+寿司セットを食べた。
 すぐ先が東西に抜ける国道431号線、通称神迎の道である。左に進むと神々が上陸する稲佐の浜で、神々は神迎の道を上り、出雲大社に参集するとされる。

 神門通りの正面が参道で、始まりは勢溜セイダマリと呼ばれる広場になっている。勢溜とは出陣のために軍勢が集まる場所の意味だが、かつてこのあたりに大きな芝居小屋があり、大勢が集まったことから勢溜と呼ばれるようになったそうだ。参道の始まりだから、稲佐の浜に上陸した神々が勢溜に参集した、と解釈した方が神話のイメージにあう。
 勢溜に立つ二の鳥居は杉材で、1968年の再建である(写真)。高さは9mに近く、勢溜の大鳥居と愛称される。プロポーションがよく圧倒するような感じはないが、近づくと大きさを実感できる。一礼し参道を進む。
 
 神門通りは勢溜に向かってゆるやかな上り勾配だが、勢溜からは参道が下っている。下り参道は珍しい。勢溜の大鳥居から出雲大社までは直線で500~600mだが、松林のあいだに下り参道が伸びているので、遠近感が強調される。下り参道は厳かさの演出だろう。
 右手に祓社ハラエノヤシロと呼ばれる社が建つ。祓戸ハラエド四柱ヨハシラの神が祀られていて、参拝者はここで身を清める・・お宮通りからの参拝者は神楽殿前の祓社で身を清める、というのが習わしらしい。習わしに詳しくなかったが、社に一礼し、過ぎる。
 ほどなく、石積み護岸の素鵞スガに架かった祓橋ハラエノハシと呼ばれる石橋を渡る。出雲大社の西側に流れる素鵞川がこのあたりで東に折れ、大社の東側を流れる吉野川に合流する。素鵞川と吉野川が大社の結界を形作っているようだ。祓橋で改めて気持ちをすがすがしくし、大社に向かえということであろう。

 祓橋を渡ると中央の参道は砂利敷きに変わり、進入禁止になる。参拝者は両側に分かれた石敷きの参道を歩く。松並木が参道を覆っていて、松の参道と呼ばれる。松並木保全のため進入禁止になったそうだが、神話の国らしく、松の参道は神々の渡る道と思えば厳かさを感じる。
 松林のなかに中の鳥居と呼ばれる三の鳥居が見える(写真)。鉄製だが、松林のあいだに立っているので鉄製とは気づきにくい。鳥居前で砂利敷きの松の参道に入り、一礼して石敷きの参道に戻る。

 左右の石敷きの参道は松並木が途切れたあたりで中央に合流し、石畳の広場になる。左に手水舎があり、参拝者が清めている。正面に四の鳥居が立つ(写真)。ここから出雲大社の神域である。鳥居は銅製で、銅鳥居と呼ばれる。
 一の鳥居はコンクリート、二の鳥居は木、三の鳥居は鉄、そして四の鳥居は銅だった。材料の違いにどんな意味があるかは、パンフレットにもweb情報にも記されていない。
 四の鳥居は1580年に長州藩祖毛利輝元(1553-1625)からの寄進で建てられた。当初は木造だったそうだ傷みが進み、長州藩2代藩主毛利綱広が1666年、現在に残る銅鳥居に建て替えた・・輝元は藩祖、長州藩初代は秀就・・。
 材料の違いは寄進者の選択によるようである。江戸中期の銅鳥居は歴史的価値があり、国の重要文化財に指定されている。

 銅鳥居の軸線は奥に見える拝殿の軸線とずれている。退出するとき、背中、お尻が拝殿・本殿の後ろ正面にならないようにずらすことがある、とほかの神社で聞いたことがある。出雲大社もそうした理由であろう。 銅鳥居で一礼し、境内に入る。

 境内西側は工事用パネルで囲われていた。かつて、ここには菊竹清訓氏(1928-2011)設計の庁の舎チョウノヤ(1963年竣工)が建っていたはずだ(写真、web転載)。
 庁の舎はコンクリート打ち放しで、南北両側の構造体となる壁には稲穂をモチーフにした浮き彫りが施され、南北の壁の頂部に建物を支える長さ40mの2本のプレストレストコンクリート梁をのせ、東西を八の字に開いた水平ルーバー+ガラスとした簡潔だが力強いデザインである。

 大学生のころに建築デザイン雑誌に庁の舎が紹介され、感銘というより衝撃を受けた。40mの長大な空間を柱無しで建てるため、コンクリートの梁にあらかじめ引っ張りの力を加えたピアノ線を入れておく構造法は聞いたことはあっても見るのは初めてである。
 30年ほど前、島根の研究会に出張したとき、時間のやりくりをして庁の舎を見学し、造形力を実感した。その後、築地松の調査を重ねているうち、菊竹清訓氏が稲刈り後に出雲平野に出現する大きな稲掛けに発想のヒントを得て、長大な梁、水平ルーバー、稲穂の浮き彫りのデザインになったのであろうと、確信した。

 庁の舎の向かい側、境内の東側に建つ神祜殿シンコデン(写真、30年前撮影)も菊竹清訓氏設計で1982年に竣工している。反り上がった大らかな屋根のデザインから、これは築地松民家に発想のヒントを得たと確信した。風土に根ざす建築デザインの一手法である。
 残念ながら、庁の舎は老朽化のため解体中だった。菊竹事務所のデザインで新たな庁の舎が建てられるらしい。時代は革新していく。続く(2019.12)

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2016.11出雲へ 築地松、出雲そば、和風の旧大社駅、モダンな出雲大社前駅

2019年12月16日 | 旅行

2016.11 島根を行く ①出雲ぞば 旧大社駅 出雲大社前駅       
  <日本の旅・島根の旅>

 島根県安来の安達美術館は、米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』やフランスの旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で選定されるなど高い評価を得ているが、まだ訪ねたことがない。
 マイレージが貯まっていて特典航空券が使えるので、出雲大社、三瓶山、松江城を組み合わせた2泊3日の島根の旅を計画した。

初日
 羽田9:55発のJAL便に乗り、出雲空港には11:20に着いた。
 30年ほど前、島根県斐川町築地松保全対策検討委員長として、築地松に関する調査を重ね、検討委員会で意見を交わし、保全対策に関する提言をまとめ、シンポジウムを開くなど、何度も斐川町を訪ねた。
 ・・その後、島根県と出雲市、斐川町など4市町による築地松景観保全対策推進協議会が発足した、斐川町ほか3市町は出雲市に合併したので県と出雲市による築地松景観保全が推進されている。
 出雲空港に着陸するとき、簸川平野に点在する築地松民家を眺め、そのころのことや出会った大勢の方々を思い出した。
 光陰矢の如しというが、過ぎ去った昔が懐かしく思い出される。

 出雲空港からレンタカーでまず出雲大社に向かう。
 30年ほど前に何度も走った道路はところどころ風景が変化している。それでも風景の構造は変わらない。
 千年を超えるオーダーで築かれてきた暮らしの営みは、その土地の風土に規定されている。その土地ごとの風土は不変といっていいほど強固であるから、営みの結果としての風景は表層は変わることがあっても構造は変わらない。
 ゆえに、30年経ち表層の風景に変化があっても懐かしく感じるのであろう。

 途中、出雲そばの店をいくつも通り過ぎた。出雲そばは岩手のわんこそば、長野の戸隠そばとともに三大そばとして知られる。
 出雲ではそばの実を皮ごと挽くためそばは黒みがかり、香りが強くなるのが特徴だが、丸い漆器にそばを入れ、だし汁をかける割子そばという食べ方もユニークである。
 そばを入れる漆器は底が平たく、わんこそばのお椀とはイメージが異なる。通常は3段重ねそばと、ダイコンおろし、削り節、海苔、玉子、山芋など店ごと工夫された薬味が出る。
 1段ごと薬味を変えてそばにのせ、だし汁をかけて食べる。薬味によって異なった味を楽しめるのが独特である。物足りない人は4段、5段を注文する。
 江戸時代からの歴史があり、松江藩7代藩主松平不昧(1751-1818)も出雲そばが好物で、お忍びで食べに来たといわれる。
 私はそば好きである。土地ごとのそばは必ず食べる。出雲そばは出張のたびに食べた。そのころの馴染みの店も健在だったが、昼食には早すぎるので出雲大社に直行した。

 12時過ぎに出雲大社・神門通り駐車場に着いた。駐車場は神門通りの中ほどに位置し、北に上れば大社だが、一の鳥居=宇迦橋大鳥居は南の堀川沿いに立っているので、一の鳥居に向かう。
 神門通りには門前町の目抜き通りで、食事処、休み処、土産・工芸品店、商店などが並んでいる。
 出雲そばと寿司をセットにした食事処を見つけた。島根は海の幸も豊富で、海鮮料理も気が引かれる。一の鳥居から戻る途中で、この店で昼食を取った。

 一の鳥居は堀川に架かった宇迦橋の北側に立っている。宇迦橋のさらに500mほど南に旧大社駅が保存されている(写真)。
 かつては大社駅が出雲大社の玄関口であり、参拝客は大社駅から神門通りを抜け、参道を上って出雲大社に向かったはずであるから、話の流れとして大社駅を先に記したい。・・実際には出雲大社参拝、日御碕一望後の夕方の見学である。
 1912年、出雲大社参拝路線として現JR出雲市駅と大社駅を結ぶ国鉄大社線=のちのJR 大社線が開業した。
 1924年、いまに残る大社駅に改築された。1990年にJR大社線が廃線になるが大社駅舎は保存され、2004年に国の重要文化財の指定、2009年には近代産業遺産の認定を受けた。
 大社駅舎は出雲大社の景観を意識して純和風の木造瓦葺きでデザインされていて、内部も木質を基本に、木組みを現し、和風を感じさせる細工、彫刻が施されている(写真)。
 外観を見ると中央部分の屋根は高くなっているが、内観写真からうかがえるように待合室上部を吹き抜けにした平屋である。
 開業当初の一般待合室と2等待合室もそのまま保全されている。子どものころ、1950年代に東北本線や東海道線に乗ったことがあるから、そのころは待合室が分けられていたことを思い出した。
 ついでながら、1950年代、東京駅と大社駅を12時間かけて結ぶ急行「出雲」が1日1往復運行されていたそうだ。
 旧大社駅には先客がいて、私たちと入れ替わりに次の見学者が珍しそうに眺め写真を撮っていた。駅舎だけがぽつんと建っているだけだし、出雲大社本殿からは1.5km以上離れているので見学には地の利が悪い。
 近くの「道の駅大社・出雲物産館」にも寄ったが、閑散としていた。車社会で参拝コースが変わったことや、参拝が主目的で門前町を歩かなくなったこと、なにより大社線が廃線になったことが影響しているようだ。

 神門通りの途中、一の鳥居寄りに現一畑電車出雲大社前駅が建っている。近代的なデザインのRC造で、人目を引く(写真)。
 1912年、出雲市の一畑寺=一畑薬師参詣のための一畑軽便鉄道が創立された。その後社名を一畑電気鉄道、一畑電車に変え、路線も延びた。
 1930年に出雲市、松江市と大社神門=現出雲大社前駅を結ぶ大社線が開通した。純和風の旧大社駅に比べれば「モダン」である。
 昭和初期の建築だが、大正ロマンの自由さをうかがわせる。
 内部はヴォールト天井で、白を基調にシンプルに仕上げ、開口にはステンドグラスをはめ込んだ異国を感じさせる近代建築である(写真)。
 1996年、国の登録有形文化財に登録され、2009年に旧大社駅とともに近代産業遺産に認定されている。
 隣接してカフェ、小広場、公衆トイレが整備されている。門前町の食事処、土産店、商店などが並んでいるし、大社線は健在で、活気がうかがえる。
 出雲大社参拝後、ここまで足を伸ばし、珈琲タイムにした。続く
(2019.12)

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内田氏著「明日香の皇子」は奈良を舞台にアスカノミコをめぐる奇想な活劇

2019年12月14日 | 斜読

book502 明日香の皇子 内田康夫 角川文庫 1986    (斜読・日本の作家一覧)
 2019年3月に奈良を歩いた。奈良の予習復習で、3月に内田康夫著「平城山を越えた女」(book485)を読んだ。
 内田氏の奈良を舞台にした「明日香の皇子」は11月に読んだ。内田氏は史実の考証、現地での検証を踏まえた物語なのでいつも新たな知見に接することができ、物語の舞台に出かけたくなる魅力を感じる。
 「明日香の皇子」は、「うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世とわが見む」がキーワードになっている。物語に現実離れした展開が織り込まれているが、新たな知見は揺るぎない。

プロローグ 
 昭和16年、東シナ海を飛行中の旅客機がエンジン不調に陥ったとき、陸軍中将今村均の神がかった判断で命拾いする話から始まる。今村を神のように信じた副官が紀一族の末裔である紀乃本で、今村は紀乃本に戦後、大和葛城の二上山にある大津皇子の墓を訪ねれば「次の者」に会える、その者の力になるのが君の宿命である、と不思議な話をする。
 このプロローグが奇想的な展開の伏線になっている。

第1章 失踪
 
物語は現代に飛ぶ。主人公の村久紘道24才は大東広告に務める副部長代理で、日本橋に本社を置く大企業のエイブルックタイヤ50周年キャンペーン・イベントプランで坂元本部長からほめられる。・・大東広告はコネがないと入社しにくいにもかかわらず、たった一人の家族である姉の春日のすすめで志願したら特別扱いされたようで採用となった、・・のちに入社する服部が村久に親しく接してくる、などなど奇想的な展開の伏線が織り込まれる。
 村久と結婚を誓った恋人が代々木上原のマンションに住む大東広告経理部の能美恵津子24才で、物語にはほとんど登場しないが隠れたキーパーソンである。村久は恵津子の描いた2枚のテンペラ画の1枚を預かり、新宿のマンションの部屋に飾る。
 恵津子は村久に急ぎの電話をしたあと行方が分からなくなる。
 村久に恵津子の伝言を報せようとした男が村久の目の前で刺し殺される。村久がこの男を抱き起こすと「アスカノミコ・・」と言い残し、息を引き取る。・・警察の調べで被害者はエイブルック社員の河西直吉と分かる、・・殺人事件のニュースの前に武蔵野環状線が報道される、武蔵野環状線は第4章で詳しく語られ、疑獄事件に発展するが、「明日香の皇子」とは直接かかわらない。
 第1章に伏線が散りばめられるが、まだ話が見えてこない。

第2章 「エイブルック」の秘密
  坂元本部長の車に同乗した村久は、坂元から「・・国家に対して何を為し得るかを自分に問いかけ、そこから得た答えを実行するのでなければ、国民たるの資格はない・・」と諭され、感激する。
 村久は、奈良の考古学博物館に勤める姉の春日に電話し「アスカノミコ」は明日香の皇子のヒントを聞く。
 エイブルック社の根岸義男が突然、村久のマンションを訪ねてくる。数日後、マンションに泥棒が入る。盗まれ物はないか調べているうち、村久は恵津子から預かったテンペラ画の下に隠された写真を見つける。
 写真は第2次大戦中、30才ぐらいの日本兵2人が5人を惨殺した光景だった。・・村久は、泥棒は根岸の仕業で、狙いはこの写真ではないかと推測する。
 村久は同僚で写真部の北田にこの写真の複製を依頼する。・・その後、北田は写真の人物が分かったと言い残したあと行方不明になる。・・やがて、北田の惨殺死体が隅田川・両国橋で見つかる。
 村久は恵津子のマンションに出かけ、もう一枚のテンペラ画の下から「宇都曾見乃 人尒有吾哉 従明日香 二上山越 弟世登吾将見  在飛鳥宮神坐下」と書かれた紙を見つける。
 村久は、河西殺人事件を担当している上野署の宮本警部から、エイブルックは創始者の能美喜三郎にちなむ社名で、恵津子は喜三郎の孫にあたる、と教えられる。
 ・・エイブルック40年史をひもといた村久は、写真に写っていた日本兵がエイブルック現会長・菊野秋雄であることに気づく。・・のちほどもう一人の日本兵が総裁候補の河島耕造であること、写真を撮っているのが能美喜三郎であることが分かってくる。
  物語のあらすじが少しずつ浮き彫りになるが、点と点が結びつかない。「アスカノミコ」も謎のままであり、美津子の行方も気になる。内田氏は読者をハラハラさせる展開が絶妙である。

第3章 動き出した渦
  前後の話は飛ばす。奈良の姉を訪ねた村久は「宇都曾見乃・・・・」の解釈を聞き、国土地理院発行二万五千分の一「畝傍山」の地図に記された「柿本神社」を訪ね、二上山が見えるのこと確認する。
第4章 武蔵野環状線
第5章 もう一つの飛鳥
 
村久は服部から、奈良の柿本神社の紀僧正像が紀一族の直系子孫である紀乃本とそっくりであり、紀乃本は「アスカノミコ」の再来を信じていて坂元も服部も、能美喜三郎も「アスカノミコ」再来の信奉者であり、喜三郎がアスカノミコ再来に備えて巨額の資金を隠匿したことを知らされる。
 ようやく物語の筋書きが見えてきた。テンペラ画の1枚はエイブルック現会長菊野、総裁候補河西の悪行を明るみに出し、もう1枚は巨額の資金の在りかを示すようで、そのため美津子は誘拐され、二人が殺されてしまった。
 だが、まだ明日香の皇子の謎が残る。物語ではテンペラ画に隠された秘密を奪おうとする敵が迫ってくる。
 村久は美津子を救い出し、敵を倒して巨額の資金を見つけることができるか、アスカノミコは再来するのか、・・あとは読んでのお楽しみに。
第6章 救出
第7章 大和しうるはし
エピローグ

 奇想的な話を差し引いても、忘れかけた奈良時代の歴史の舞台である明日香、飛鳥は濃密な空間であることを改めて感じた。
 内田氏は単なる歴史を舞台にした物語とせず、戦時下に行われた悪行、政財界の癒着なども盛り込み、社会を直視し、何を為し得るか自らに問いかけることも訴えている。内田氏の生き方なのであろう。(
2019.11)

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2007.11 台湾集集地震を契機に台湾原住民邵族は協力造屋で集落を再建

2019年12月09日 | 旅行

2008 「集集地震を契機とした台湾原住民邵族のコミュニティ再生」日本建築学会関東支部 ②

4 協力造屋
  政府は当初、邵族復興地として分散したいくつかの土地を用意しようとしたようだ。
 前述のように部族コミュニティ再生が基本方針になったので、日月潭から数10mに位置する公園を復興地とし、ここに復興住宅を希望する40家族ほどの住める計画が立案された。
 日月潭は山間にできた湖のため周辺は緩斜面である。この公園は西下がりの斜面で、平坦地が南北200m、東西40~60m、西側に少し下がって南北80m、東西40mの土地であった。
 謝英俊氏はこの不整形な土地を逆手にとって前頁図の配置を考えた(提供:謝英俊氏)。
 邵族は伝統的な祭事が盛んである。それぞれ祭事の目的、内容が異なるので、謝氏は邵族の聞き取りをもとに、祭事のための広場を複数計画した(写真は祖霊祭の風景、前頁配置図右側下の広場が使われる、提供:謝英俊氏)。
 邵族は、祭事にも表れているように人々の結びつきが濃密であった。濃密な人間関係を担保するため、対面型の配置を基本とし(写真は対面型の配置の様子)、さらに入口前に広めの軒下空間を設け、戸外の交流空間とした(写真、軒下空間は交流の場になっている)。
 台湾は雨が多く、亜熱帯に属するため高温多湿である(台北の年間降水量およそ2160mm、年間平気気温22.3°、東京はそれぞれ1400mm、16.6°ぐらいである)。
 台湾に移住した漢民族は町屋型の連続住宅におよそ3mほどの亭仔脚と呼ばれる軒下空間を連続させ、通行、交流、商い空間として活用している。一種のアーケード空間である。
 謝英俊氏はこれを復興住宅に応用したのである。これは伝統的邵族住宅の形式とは異なるが、コミュニティ再生には有効だったと思われる。

 復興住宅は短期につくらなければならない。そのため、軽量鉄骨をフレーム(写真は鉄骨フレームの建て方、提供:謝英俊氏)とした企画住宅が考案された。
 モジュールを2.7mとし、1戸あたりの単位空間は間口3スパン=8.1m、奥行き2スパン=5.4mで、入口側に亭仔脚2.7m、裏側に陽台と呼ばれる軒下空間1.8mが付設される。
 さらに、短期に完成させるため、地場の竹を多用するとともに、被災した邵族の人々が自ら工事を行ったのである。セルフビルドといってよい。これが協力造屋である。
 言い換えれば、協力造屋のため、「規格化された簡便なフレーム・竹を用いた簡易な工法・住民の手作り」が選択されたのである(写真は屋根の防暑用の竹仕上げ、次頁上写真は壁の竹仕上げ、いずれも住民による復興住宅づくり、提供:謝英俊氏)。
 協力造屋には重要な仕掛けがある。通常、被災者はテントや仮設住宅などに避難し復興住宅の完成を待つ。政府は建設業社に復興住宅を発注する。建設費は政府資金+義捐金などをあてる。これでは復興住宅が完成しても生活に困窮している邵族を救うことができない。
 邵族復興では、①邵族が集まって住む→邵族のコミュニティが再生できる
②邵族が自ら建設を行う→建設費が邵族に支払われる→邵族の生計が安定する
③基本フレーム+セルフビルド→それぞれの生活スタイルに合わせて間取りを可変できる(図は眠床(台湾語で寝室のこと、邵族はyangnanと呼ぶ)を3部屋にした例)
④地場の竹を使う→伝統的な住宅の雰囲気が継承でき+周辺環境と景観的に調和する(写真は高台から見下ろした様子、周辺にとけ込んだ景観を見せている)、などの効果をあげることができた。

5 祖霊藍
  邵族の代表的な祭事に農歴8月に行われる祖霊祭がある。祖霊祭では、各家に伝承されている祖霊藍を通りに並べ、祖先を祀るとともに、部族意識を高揚する。
 この祭事はすべて伝統的な衣装を身につけた主婦によって進行される。祭のクライマックスは杵による音楽で、近年は大勢の観光客が訪れている(写真は祖霊藍を通りに並べ、杵による音楽を奏でるた主婦たち、提供:謝英俊氏)。
 祖霊藍には先祖から伝承された衣装が納められているそうで、日常は各家に祀られ、毎朝お供えがあげられる。
 中写真は中央に客庁(邵族語ではdau)を配した事例で、漢民族風に祭壇を設け、祖霊藍(下写真)を祀った事例である。
 生活のさまざまな面で漢化が進み、祖霊祭などの邵族の伝統的な祭事も衰退しつつあったが、復興住宅地の完成とともに祭事を復活することができたそうだ。
 まさに危機を転機にした部族コミュニティの再生といえる。

6 おわりに
 本稿は台湾原住民・邵族を事例に地震復興を契機とした部族コミュニティ再生を概観した。部族がともに住むことに端を発したセルフビルドによる復興住宅は、部族意識の高揚、生計の安定、多様な祭事空間の形成、間取りの可変、景観の調和などの多くの効果を発揮した。
 安定した生計の維持や復興住宅の管理・更新、伝統的祭事の継承など、今後の課題も少なくないが、「ともに住む+自らつくる」ことは邵族にとってコミュニティの原点であろう。日本を始め各国の災害復興、集落再建に示唆深い。(2008.3)

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