yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.7 網膜剥離?!幸いにも発見が早く、直ちにレーザー光による光凝固術

2018年07月31日 | よしなしごと

網膜剥離??!! 幸いにも発見が早く直ちにレーザー光による光凝固術

内障手術
 50代のころ、細かな字が読みにくく、とくに暗くなると見えにくいのが気になりだした。はじめのうちは長時間パソコンをにらんでいるせいだろうと思い、なるべく目を休めるようにしていた。しかし、事態は進行していく。年のせいか?。そのころは1年に1回、人間ドックを受けていて、眼圧などは正常だったが、老眼を指摘された。
 大宮駅近のM眼科で精密検査を受けたところ、両眼ともに白内障の兆候を指摘され、カリーユニが処方された。すでに近眼の眼鏡を使用していたので、遠近両用の眼鏡をつくった。1枚のレンズの上が遠視用、下が近視用だから慣れるまでとまどったが、じきに慣れた。しかし、暗くなると見えにくくなる状況はなかなか改善されない。
 数年、大宮駅近のM眼科に通ったが、いつも利用する土呂駅近のM眼科の評判がいいと聞いた。セカンドオピニオンのつもりで、土呂駅近のM眼科に出かけた。大変な混みようで、受診まで2時間かかった。ていねいに診てくれ、左眼白内障は様子見でいいが、右目は直ちに手術をした方がいい、との判断だった。説明も明快だったので、2007年8月、1週間の休暇を取って、右目の白内障手術を受けた。施術は10分~20分ぐらい、痛みもないし、身体への負担はまったく感じなかった。一番の危険は細菌感染なので、1週間は外出せず、バルコニーの花もすべて片付け、静かにしていた。
 1週間後の検査では異常なしと診断された。眼帯を取ったとき、あまりにも視界が明瞭で、素晴らしい!!と大喜びしたほどである。
 以来、2ヶ月に一度、検査を受け、左右はAZ点眼液+左目カリーユニを欠かさず点眼している。

血糖値
 50代までは、毎年1回の人間ドックでときどき血糖値、Hba1cが基準値よりも高くなることがあったが、翌年は基準値内に戻ったので、さほど気にしなかった。
 60代を過ぎたころから基準値を超える年が続くようになった。念のため、2ヶ月に一度、M内科で血液検査を受け、食事と運動に気をつかうようにした。そのせいか、基準値内に戻る年もあった。年を取ると膵臓の機能が落ちてくるそうで、とくに薬の処方は無かった。
 リタイア後は、人間ドックの代わりにM内科で市の健康診断を受けている。今年の健診でも、血糖値、Hba1cの値がやや高くなった。市の健診マニュアルでは、血糖値、Hba1cが基準値を超えた場合、眼底検査を受けるよう勧めている。

裂孔原生網膜剥離+光凝固術
 2018年7月、2ヶ月に一度のM眼科での白内障検査の日、M内科で勧められた眼底検査もお願いした。M眼科でも定期的に眼圧、視力、視野に加え眼底検査もしてくれているが、今回は高血糖の影響を見るため入念に調べてくれた。
 高血糖による影響はまったく見られなかったが、なんと、右目の網膜剥離が見つかった。1週間ほど前の右目への衝撃が原因の裂孔原生網膜剥離との診断だった。1週間前の衝撃の記憶は無いが、寝ているとき強く目をこすっても起きることがあるそうだ。
 放置しておくと、網膜の裂け目から液化した硝子体が網膜の裏に入り、網膜が剥がれ、失明してしまう。
 ただちにレーザー光による光凝固術を受けることになった。瞳孔を広げる薬が点眼され、15分待ち、まだ開きが悪いので再度点眼を受けて10分後、右目にレーザー光が当てられた。小さな衝撃音とともにレーザーが光る。裂け目の周囲に向かって、10数回レーザー光が当てられた。施術は15分ほどで終わった。
 右目奥にわずかな違和感を感じたが、痛みや身体への負担は無い。瞳孔が開いているので、灯りがまぶしすぎるだけであり、歩いて帰宅できた。
 白内障で2ヶ月に一度の眼科検診、市の健診による眼底検査の勧めが重なって早い発見になり、光凝固術で失明の危機は回避できた。
 眼科検診のタイミングがずれ、血糖値が基準値内で眼底検査の勧めが無ければ、早期発見にはならず、光凝固術が難しくなり、視野が大きくかけたり、入院の必要な手術になったかも知れない。
 網膜剥離は青天の霹靂の驚きだったが、早期発見+光凝固術の幸運に感謝している。

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2018.4 京都栂尾山高山寺の国宝石水院で、教科書で習った国宝鳥獣戯画(複製)を拝観

2018年07月29日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 初日=三尾めぐり ②高山寺

高山寺は鎌倉時代の明恵上人が中興開祖
 栂の尾バス停の前から、高山寺裏参道の階段が延びている。湿り気の多い樹林の間を登る。苔むした石段も水をたっぷり含んでいて、滑りやすい。
 階段が大きく曲がる踊り場に説明板が立っている。一通り読むが、記録で写真も撮っておく。受付でもらったパンフレット、web情報とあわせると、創建は奈良時代末の774年で、そのときは神願寺都賀尾坊と称したそうだ。
 その後廃れ?たが、鎌倉時代の1206年、後鳥羽上皇明恵上人にこの土地を与え、「日出先照高山之寺=日出て先ず高山の寺を照らす」の勅額を下賜したことから、栂尾山高台寺と称した。
 明恵上人は華厳宗を実践し、多くの信仰を集めた。「鳥獣人物戯画絵巻」などに代表される多くの文化財はこのころに集まったらしい。
 また、明恵上人は、臨済宗開祖栄西が南宋留学のときに持ち帰った茶の種を贈られ、栂尾で茶の栽培をしたことから茶の発祥の地とされ、それが宇治などに広まったそうだ。

 裏山道を上りきると、青々とした草屋根の見取り図が立っている(写真)。帰りは表参道の階段を下るのだが、そちらにはこのような見取り図は無い。
 参拝者の多くはバス停から裏山道を上ってくるためここに見取り図を立てたようだ。それにしても草屋根の勢いは見取り図を覆いそうなほど勢いがある。山あいの湿気が草木の生長を勢いづかせるのあろう。

国宝・石水院で国宝・鳥獣人物戯画絵巻を拝観
 石垣+漆喰塀に設けられた門を入ると書院+受付があり、ここで拝観料800円を払う。書院の南が国宝「石水院」である。
 後鳥羽上皇が明恵上人の学問所として1216年に建てた・・後鳥羽上皇の賀茂別院を移築したとの説もある・・建物で、鎌倉時代の住宅様式をいまに伝えていることから国宝に指定された。創建時は金堂の東に建てられたが、明治時代に現在地に移されたそうだ。

 入母屋、柿葺き屋根、正面五間×側面四間で、四方に濡れ縁が巡らされている。南側正面の中央一間は向拝のように屋根が前方に伸びていて社殿のようでもある。
 南側一間は板敷きの吹き放しで蔀戸がはめ込まれている。
 北側は畳敷きで、国宝「明恵上人樹上座禅像」、重文「明恵上人坐像」や国宝「華厳宗祖師絵伝」が展示されている(写真、正面の掛け軸が明恵上人樹上座禅像、右のガラスケースが明恵上人坐像)。

北側の座敷に、教科書でも習った国宝「鳥獣人物戯画絵巻」がガラスケースに収められている。教科書では小さな図柄で絵巻の一部が掲載されていただけだが、ガラスケースには甲乙丙丁の四巻すべてが広げられている。
 簑傘を背にした猿を竹を手にして追いかける兎は、人物の動きそのものので躍動感がある(写真)。子どもたちの遊ぶ様子であろうか、その当時の暮らしぶりがうかがえて見飽きない。
 ただし、これらはすべて複製で、本物は東京国立博物館、京都国立博物館に保管されている。複製とはいえ、四巻すべての鳥獣人物戯画をじっくり見ることができた。

 濡れ縁をもう一回りして、門を出た。

森閑とした開山堂、金堂を経て石段を下り表参道へ
 書院の先の粗い石段を登る。樹林がうっそうとし、日射しが降りてこない。左手の日本最古の茶園をのぞく(写真)。
 明恵上人は、茶には眠気を覚ます効果があることから茶を栽培して衆僧に飲茶をすすめ、さらに宇治に移植をした。
 栂尾茶の味が評判となり、武士の間にも広まって、栂尾茶を本茶、それ以外は非茶と呼ばれたそうだ。栂尾の湿気と緑陰の効果であろうか。

 茶の渋みに含まれるカテキンには抗酸化作用などの生理作用があり、健康に優れた効果があることが分かってきた。宇治、静岡、狭山の三銘茶を始め、各地でおいしい茶が工夫され、ペットボトル茶も人気である。
 元を正せば明恵上人による茶の栽培が、形を変え現代に生き続いている。

 石段を登る。右手に開山堂が建つ(写真)。明恵上人が入寂した建物だが、室町時代に焼失し、江戸時代に再建された。方形屋根の落ち着いた建物である。
 境内は勾配のきつい斜面なので、建物は斜面に散在している。踏み固められた山道を左に折れると、仏足石が置いてある。大きな足は、草履のせいだろうか。
 その先に金堂が建つ(写真)。当初はここに三重塔や石水院も建っていたそうだが、石水院は裏参道側に移築され、旧金堂は室町時代に焼失した。
 江戸時代、仁和寺御堂を移築して金堂としたそうだ。釈迦如来像が本尊だそうだが、扉は閉まっている。
 そもそも、人に会わない。僧侶は修行に出ているのだろうか?、石水院を拝観した人はそのまま裏参道を戻ってしまうのだろうか。森閑という言葉があるが、まさに森閑である。修行のために、世俗から遠い森閑とした地が選ばれたのかも知れない。

 金堂で合掌し、金堂道と呼ばれる石段を下る。石段は、はるか彼方まで続いていて、表参道になる。
 粗い石段は濡れて滑りやすい。ゆっくり下る。途中で振り返ると、金堂はすでに姿を隠していた(写真)。表参道から登ると、森閑とした樹林のあいだの石段を踏みしめ、踏みしめするうちに気持ちが穏やかになり、一息しようと立ち止まって見上げると金堂が姿を現す、そういった演出のようだ。
 石段に続くスロープを下ると、両脇に山門がわり?の石灯籠が立っていて、その先が国道162号線=周山街道である。続く

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2018.4 京都三尾の高山寺・西明寺・神護寺に向かう→とが乃茶屋で旬の竹の子づくし味わう 

2018年07月27日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 初日=三尾めぐり ①栂ノ尾バス停で降り、とが乃茶屋で竹の子定食

 今年のゴールデンウィークに合わせた遠出は京都にした。2016年ゴールデンウィーク明けに訪ねた京都では、石清水八幡宮、伏見、鞍馬寺、貴船神社、相国寺、醍醐寺を歩いている。
 今年は神護寺などの三尾めぐり、桂離宮、修学院離宮をメインに計画を立てた。
 桂離宮、修学院離宮は予約制である。かつては往復はがきでの申し込みだったが、いまやweb上に参観可能な人数が表示されていて、希望日を選びwebで参観を申し込むことができる。桂離宮は京都市街の西南、修学院離宮は北東に位置するから、2日目桂離宮、3日目修学院離宮の参観を申し込んだら、修学院離宮のみ希望日時の参観許可が出たが、桂離宮は第2希望日になってしまった。
 参観日、ホテルの空き状況、全体の行程、往復の新幹線などを勘案して、四条のホテルに連泊、初日/神護寺など、2日目/桂離宮当日申し込み・建仁寺など、3日目/三十三間堂・詩仙堂・修学院離宮の行程を組んだ。

 4月25日・水曜、少し早めに起き、8:50に家を出る。曇り空だが雨は降っていない。9:30発のぞみはゴールデンウィーク前のためか、若干の空席があった。
 途中、怪しげな雲が流れたり、窓を斜めに雨すじが走ったり、天気は不安定だった。
 11:50ごろ京都駅着、地下鉄烏丸線で四条に向かう。宿は、四条駅から西に徒歩3~4分の三井ガーデンホテル京都四条で地の利がいい。フロントに荷物を預け、水と念のための傘を持って、さらに西に徒歩4~5分の四条大宮のバス乗り場に向かう。


 京都の北西、高雄には南から北に高雄(雄=お=尾)山、槙尾山、栂尾山と呼ばれる山が続き、それぞれの山に神護寺、西明寺、高山寺が門を構えている。
 京都の観光案内では、高雄の雄を同じ音の尾に読み替え、三尾めぐりとして紹介している。
 三尾に行くには、京都駅発・四条大宮経由JRバスか烏丸四条発の市バスがある。あらかじめ、時刻表、路線図をにらんで比較してみた。
 市バスは、西明寺に近い高雄までしか走っていない。高雄バス停から山道を15分ほど登って高山寺、15分ほど下って西明寺、20分ほど下って神護寺、15分ほど登って高雄バス停となり、山道の登り下りだけで65分もかかる。
 JRバスだと、栂ノ尾バス停から4分ほどで高山寺、山道を15分ほど下って西明寺、20分ほど下って神護寺、15分ほど上って山城高雄バス停で、下りが多く、のべで55分もかからない。JRバスだと10分以上節約できる。JRバスは京都駅発、およそ10分で四条大宮を経由するので、四条大宮から乗るのが効率的だし、桂離宮や修学院離宮に行くのも都合がいい。四条や烏丸には飲食店も多い。ということもあって、宿の決め手にもなった。


 四条大宮のバス乗り場はかなりのバスが発着していて、バス停が多い。何人かにたずね、ようやくJRバス栂尾・周山方面のバス停を見つけ、12:42発のバスに乗る(写真、ホームページ参照)。
 乗客は7~8人で、途中の乗り降りもあったが、高雄に近づくころには二人だけの貸し切り状態になった。バスの経営も大変そうである。13:30ごろ、栂ノ尾バス停を降りる。


 事前に調べた三尾巡り散歩mapには、川沿いの食事処が何軒か記されている。
 a京都駅近か四条で食事をしてからバスに乗る、bコンビニで食べ物を買ってバスで食べる、c栂ノ尾の食事処で食事のどれがいいか。
 aは、食事処は確実だがゆっくりしすぎると三尾巡りが慌ただしくなる。bは、食事も雑で落ち着かないが見学時間が長く取れる。cは、三尾の雰囲気の中で食べられるが食事が不確実である。
 結局、食事は不確定だが雰囲気を選んだ。バス停を降りると、目の前に一軒、少し先にも看板が見える。目の前の茶屋風の食事処「とが乃茶屋」(写真、ホームページ参照)をのぞいたら、なんとそこは帳場で、係が少し下った細長い食事処に案内してくれた。


 窓の向こうは清滝川がさざ波を立てながら流れている。屋内の川床といったイメージである(写真、ホームページ参照)。
 窓を開けると、清流の響きといっしょにひんやりとした風が吹き込んでくる。夏は暑さをしのげそうだが、いまは涼しすぎるので窓を閉めた。
 係が茶を運んできた。向こうにいた先客が帰り、私たちだけになった。係にお勧めを聞く前に、竹の子定食を勧められた。
竹の子が旬でとてもおいしいという。ほどなく運ばれてきた竹の子定食は竹の子づくしの料理満載で(写真)、係が勧めたようにとてもおいしかった。値段も手ごろで、雰囲気良し、おいしい旬の料理と三拍子そろった。気分良しで、茶屋を出る。続く

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武田氏著「北欧を知るための43章」は北欧通でないと気づかない幅広い知識にあふれている

2018年07月24日 | 斜読

book469 北欧を知るための43章 武田龍夫 明石書店 2001
 2018年6月の北欧ツアーに持参した本だが、行きの飛行機で少し読んだだけで、現地でも風景を楽しむ方に時間を割いたためほとんど読まないうちに旅が終わってしまった。帰国後、復習しながら読み終えた。

 1938年生まれの武田氏は、プロペラ機でストックホルム大学に留学、卒業後はスウェーデン大使館、外務省北欧担当、デンマーク大使館などを歴任し、p228~1968年にノーベル賞を受けた川端康成氏夫妻の接待、p231~1985年の皇太子・妃(現天皇・皇后)北欧訪問に随行などを経験していて、北欧を知り尽くしている。
 文も軽快で読みやすく、北欧について幅広く知ることができた。通り一遍のガイドブックにはない、北欧通でないと気づかない意外な知識も織り込まれている。通り一遍のガイドブックにはない含蓄のある話は北欧理解に大いに参考になった。


 目次の43章を列記すると、内容が想像できよう。

1 スウェーデン 北欧のビッグブラザー
第1章 青地に黄十字の国旗/汝、古き自由の国よ
第2章 スウェーデン語のあれこれ/言葉をめぐる悲喜劇
第3章 バルト海/東の海、塩の海、ゴート族の海
第4章 王宮の幽霊/白衣夫人
第5章 金髪と黒髪と/二重の幻想
第6章 戦士王カール12世/北方大戦争
第7章 魔女は沈まない/北国の伝説と迷信
第8章 夏の夜の微笑み/ドラマは夏至祭の日々に起こる
第9章 ノーベルと三人の女性/マザコンだったノーベル
第10章 スウェーデン人と日本人/よく似ているようでまったく違う
第11章 ペトルス・ドゥ・ダキア/孤島での野外宗教歌劇
第12章 福祉国家の成り立ち/その明暗
2 フィンランド サウナとカレワラの国
第13章 フィンランド人/彼らいずこより来たれるや
第14章 白地に青の十字架/われ汝を愛す
第15章 カレワラ/英雄たちの民族叙事詩
第16章 サウナは神聖なり/フィンランド人のアイデンティティ
第17章 オイ!テメー酔っ払ったか/愉快なフィンランド語
第18章 白夜の詩情、厳冬のリアリズム/夏至祭とリアリズム
第19章 シスの精神と無口の美徳/北欧のスパルタ人
第20章 マンネルハイム元帥と対ソ戦争/フィンランド人の悲劇
第21章 トーゴービールに乾杯/日露戦争が生んだブランド
3 デンマーク 北欧の陽気な商人
第22章 赤地に白十字/うるわしき国あり
第23章 古城物語/ジーランド名城の旅
第24章 眠れるバイキング/ホルガーダンスク
第25章 ワンダフル・デンマーク/落ち穂集
第26章 酪農王国の食品工場/キリスト教的思想と欧米的偽善
第27章 民主主義デンマーク/おれたちはみな同じだ
第28章 美味求真/われ食す、ゆえにわれ在り
第29章 デンマークと日本/埋もれた歴史から
第30章 アンデルセンの常識/薄幸の大芸術家の実像
第31章 栄光と悲劇の国王/クリスチャン4世
4 ノルウェー バイキングの末裔
第32章 然り、われこの国を愛す/独立への道
第33章 ノルウェー人気質/小国心理シンドローム
第34章 ノルウェー語は二つ?それとも三つ?/国語を巡る熱い論争
第35章 北方への道/ノルウェー的なものを求めて
第36章 海への執着/偉大な探検家たち
第37章 戦う王国/ホーコン7世物語
第38章 ノルウェーと日本/捕鯨とイプセンとスキー
第39章 北極圏下の少数民族/謎めいたサーメ
5 アイスランドとグリーンランド
第40章 アイスランド小史/火と氷の国
第41章 バイキングの遠征/欧州を震撼させた北方人
第42章 氷島大陸グリーンランド/バイキングの滅亡
第43章 北欧神話の世界/物語への手引き
付 私の北欧/今は昔

 1章、14章、22章、32章で各国の国旗が紹介されている。国旗はよく似ていながら、それぞれのアイデンティティが表われている。それは、行間の各国の間柄にも共通する。
 たとえば、p148「北欧各国は兄弟同士である。北欧五カ国の国旗が仲良く翻っている。とはいえときどき兄弟喧嘩も起こる。しかし、結局は仲直りをするといった関係だ」、のように、北欧の国々はそれぞれ個性を持ち、ときには戦い、ときには支配・従属・連合しながら共存しあってきたようだ。だから、北欧それぞれを一つの国として学ぶよりも、北欧五カ国として概括したうえで、それぞれの国のアイデンティティに着目すると、北欧がより理解しやすい。

 ヘルシンキのデザインに興味があるとか、バイキングやハンザに関心があるとか、ノーベル賞にちなんでストックホルムとオスロに行こうとかでも、この本で北欧を概括すると理解が深まると思う。

 ただ、著者が「北欧通」過ぎたためか、初歩的な基本知識、たとえば、北欧各国の位置、主要都市、北欧全体の概略史などが紹介されていない。そのていどの基本は学校教育で学習済みかも知れないが、冒頭や巻末に図表化してくれると北欧がもっと身近になったと思う。(2018.7)

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2018.1メキシコの旅⑬ 16世紀、テンブレケ神父は先住民と48kmの水道をつくる、67アーチの水道橋は圧巻

2018年07月22日 | 旅行

2018.1 メキシコの旅13 3日目 リュウゼツラン パドレ・テンブレケ水道橋 ウチワサボテン
 10時過ぎ、メキシコシティ・三文化広場を過ぎて、バスは一路、世界遺産パドレ・テンブレケ水道橋を目指し、北東に走り続ける。町の風景から郊外の風景、やがて田園というより原野に近い風景に変わっていく。

 現地日本人ガイドが、メキシコ名物のテキーラについて話し出した。メキシコ在住の長い日本人で、中南米各地の遺跡を訪ね歩いていて、博学である。
 日本でリュウゼツラン竜舌蘭と呼ばれる植物は、学名はアガヴェagaveで、メキシコではマゲイmagueyとも呼ばれる(写真、web転載、ホームページ参照)。
 茎をアルコール発酵させて蒸留するとメキシコ特産のメスカルmezcalという酒ができる。
 メスカルは各地でつくられるが、ハリスコ州のテキーラという町でつくられたメスカルが「テキーラ」と呼ばれて世界に流通しているそうだ。
 テキーラはサボテンからつくったメキシコの強い酒、などと勝手に想像し、カクテルグラスの縁に塩をのせたマルガリータを得意顔で飲んだりしたこともあったが、とんでもない誤りに気づいた。知らぬは恥だが、いかにも知ったかぶりで話すのは罪深い、大いに反省する。

 11時過ぎ、ガソリンスタンドでトイレ休憩になった。日射しが強い。まだ走りだして1時間ほどだが、パドレ・テンブレケ水道橋にはトイレがないのでここで済ますようにという気配りである。
 トイレは4ペソだった。多くのガソリンスタンドはコンビニを併設していて、トイレを使うと同額のチケットをくれ、そのチケットで買い物ができる。ほとんどの品は4ペソ以上だから、結局店の売り上げが伸びる。
 なかなかうまい作戦だ。店の作戦にのせられて=観光に投資して、エスプレッソを飲んだ。

 再び走り出す。起伏の中に灌木のような樹木が散らばりながら、頼りなげに育っている。畑のような緑がおとなしく広がっている。茶色が優勢な、乾いた大地の光景が続く(写真、ホームページ参照)。明らかに水の少ない風景である。
 ほどなく、砂利混じりの枯れた草地にバスが止まる。降りると、石積みの工作物がまっすぐ伸びているのが目に入る。どうやらこれがパドレ・テンブレケ水道らしい(写真、ホームページ参照)。
 駐車場はない。向こうには赤い車が止まっていて、ほかに人はいない。もちろん、インフォメーションも観光地によくある民芸品、土産品の屋台もない。要するに何もない。水道はところどころ蓋がなくなっていて、のぞくと砂利がたまっていた。水は流れていない。もう使われていないようだ。
 ガイドが水道管に沿ってすたすた歩く。小さな蟻塚があちこちにある。ガイドが、ヒアリではないが刺されると赤く腫れるから触らないようにと注意する。小さな蟻地獄の巣もあちこちにある。大地は乾ききっている。
 パドレ・テンブレケ水道橋が姿を現した。左に離れると見事な全景をとらえることができる(写真)。
 パドレpadreは神父のことである。16世紀にメキシコ入りしたフランシスコ会のテンブレケTembleque神父が、先住民が水不足で困っているのを見て、スペイン各地に残る古代ローマ時代の水道をヒントに、先住民と力を合わせ1555年から水道造営に着手、17年かけて1571年に完成した。
 水道の総延長は48.22kmで、googleの地図とwikipediaなどの記述を照らし合わせると、水源は水道橋の北のテカヘテTecajeteで、このあたりは火山地帯らしい。終点は水道橋のはるか南に位置するオトゥンバOtunbaのようだ。
 地下に埋まっている部分も多いらしく、途中の町ごとに配水施設が設けられた本格的な水利施設であった。
 圧巻はテペヤワルコTepeyahualco峡谷に築造された水道橋である。テンブレケ神父と先住民が構築したのは総延長48.22kmの長大な水利施設であるが、水道橋そのものがフランスのポン・デュ・ガール、スペインのセゴビア旧市街と水道橋などに匹敵する価値があるとして世界遺産に登録された。

 水道橋の長さは904m、もっとも高いところは地上から38.5m、水路幅は25cmで、66のアーチと中ほど1カ所の2重アーチで構成されている。
 素材は火山岩と、アドベadobeと呼ばれる一種の日干しレンガである(写真、ホームページ参照)。アドベは砂、砂質粘土、藁を練り、木枠に入れて干してつくる。強度が高いそうで、中南米の先住民が古くから使っていたそうだ。
 スペイン人テンブレケ神父と先住民が力を合わせ、火山岩とアドベによるアーチ構造で、高さ38m、長さ904mの水道橋を完成させたことは驚異に値する。

 中ほどの2重アーチまで歩いて見上げると、高さ38mが実感できる。一般のビルの階高が3mほどだから12~13階、私はマンションの11階に住んでいるから、見下ろした高さも実感できる。
 木材資源はほとんど無いから、足下の砂、土、石を盛り土して足場にしたのではないか、とすれば17年の歳月も理解できる。

 じっくり見たあと、パドレ・テンプレケ水道橋を見ながら、ウチワサボテンが群生する小径を抜けてバスに向かう(写真、ホームページ参照)。
 サボテンは乾燥に強いと勝手に思っていたが、実は水を好む植物で、極度に乾燥している地域では栽培しにくいそうだ。
 メキシコでは昔から栄養価の高いウチワサボテンの果実が食用に珍重され・・ウチワ状の先端の突起・・、傷や熱冷まし、便秘、二日酔いなどの民間薬としても使われてきた。群生しているウチワサボテンもパドレ・テンブレケ水道を利用して栽培されたのであろう。


 土木工事はほとんど素人であろう神父が、どのようにして先住民を納得させたのだろうか。推測だが、神父と少数の賛同者が水源から最初の町まで簡単な水道をつくった。
 水不足で困っていたからみんな大いに喜び、賛同者が増えた。水道の話を聞き、水の欲しい次の町、その先の町からも参加者が増えた。
 水を遠くまで、確実に流せるように改良を加えた。水源から終点まで一定の勾配で流れるように試行錯誤を重ねた。水が次々の町まで届くたびに賛同者が増えた。ついに17年、900m余になった、のではないだろうか。
 神父のことも工事の経緯も、資料は何も触れていない。すでに水も流れていない。しかし、長さ908m、高さ38.5mのアーチ水道橋と、ウチワサボテンの群生が神父と先住民の偉業をいまに伝えている。


 12時過ぎにバスに乗り、テオティワカン遺跡に向かって来た道を戻る。13時近く、レストランに寄ってランチになった。簡素な造りの建物だが、2階ベランダにはリュウゼツランの鉢植えがびっしり並んでいた。鉢植えを土産用に販売しているのかも知れない。

 ランチはビュッフェスタイルだったので、食べやすそうな鶏肉、牛肉、ポテト、ニンジン、豆、パスタなどを選んだ。
 メキシコのビールcorona extra50ペソがあるというので飲んだ。さっぱりした飲み心地である。
 ソンブレロをかぶった数人が弾き語りをしに来て、メキシコの歌や日本の歌を歌ってくれた。ささやかだが2ドルを寄付した。
 現金なもので、アメリカ人?ツアーが来たら向こうに行ってしまった。アメリカ人の方が気前がいいのかも知れない。静かにランチを終えた。(
2018.7)

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