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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2000.8 中国西北シルクロード8 莫高窟=千仏洞/反弾琵琶を思い出し、謎の17窟へ

2020年09月29日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 8 /莫高窟 61窟・57窟・45窟・329窟・16-17窟

61窟 五台山図
 入場口近くまで戻り、61窟に入る。四角い石窟で天井は船底のように四方に下がる伏斗形で、千仏、蓮、龍の図で埋め尽くされている(写真、web転載)。
 見どころは西奥の壁に描かれた横幅およそ13m、高さは4mを超える山西省五台山の大壁画である。五台山は文殊菩薩の聖地とされるため、文殊堂とも呼ばれる。絵には五台山の聖跡や故事、巡礼者が具象的に描かれている(写真、web転載)。
 吐蕃の支配から漢族の武将が河西を奪回した五代時代(907~)、節度使となった曹氏の子が壁画を完成させたらしい。本土の五台山文殊菩薩への熱い思いがあったのではないだろうか。
 ほかに釈迦の生涯や法華経変相、弥勒変相などの変相図、曹氏らが供養する図が描かれている。

57特別窟 菩薩画
 61窟の北、入場口の向かいあたりの57窟も別途有料だが、当時180元≒2400円/人と158窟の3倍だった。貴重な遺産の修復、維持、保存、管理のために使用されるのであろうが、懐が心配になる。
 方形の小さな石窟で、天井は四方に下がる伏斗形である。天井と、壁の余白は千仏で埋め尽くされている。
 正面西の壁龕の中央に釈迦の座像、釈迦の左右に迦葉カショウと阿難アナンの立像、菩薩像が安置されているが、塑像は後世の修復だそうだ。

 高額別途料金の見どころは、南壁の樹下説法図である(写真、web転載)。初唐(618~)の作で、晩唐(848~)に手が加えられたらしい。中央の沙羅双樹の下で説法する釈迦如来は顔、身体が変色して黒ずんでいる。釈迦ではなく阿弥陀如来とする説もある。顔かたちが判然としないから変色だと思うが、インド人釈迦=シッダールタのイメージかも知れない。
 釈迦如来?阿弥陀如来?の左に迦葉、右に阿難、迦葉の前に観音菩薩、阿難の前に勢至菩薩、まわりに弟子?菩薩?が描かれている。肌色が多いが、右の勢至菩薩と周りの何人かは褐色である。そのどれも目鼻立ち、顔つきはくっきりしている。顔料の影響で黒ずんだのであろうか、それともインド人、西域の民族のイメージであろうか。

 釈迦、迦葉の左の観音菩薩は、ふっくらとした体つき、顔は色白でわずかに紅がさし、伏し目で口元が微笑えんでいて、貴婦人のように見える(写真、web転載)。
 莫高窟最高の美しい菩薩といわれ、絵はがきなどに採用されているそうだ。
 菩薩たちが身につけている金色の装飾具も色は鮮やかで、細やかに表現されている。金粉を漆で固め、盛り上げて描く技法で、唐時代の特徴だそうだ。
 西の壁龕の右上には釈迦の母・摩耶夫人が夢に見た白象に乗った釈迦の故事、左上にはシッダールタが白馬に乗って出家する故事が描かれている。摩耶夫人、釈迦=シッダールタの故事は教科書でも習った記憶がある。

45特別窟 7尊像
 入場口から100mほど北の45窟も特別窟で別途有料である・・料金のメモを忘れた、60元≒800円/人かな?・・。
 57窟に似た小さな方形である。伏斗形天井は千仏で埋められ、中央の天蓋は蓮と龍が描かれている。
 この窟の見どころは、西の壁龕の深い凹みに安置された、中央の釈迦座像、釈迦の左右の迦葉、阿難の立像、その左右の観音菩薩立像、その左右の金剛天王立像の7尊像である(写真、web転載)。
 盛唐時代(712~)の作で、色彩も顔かたちも明瞭で、表情が豊かである。それぞれの像は動きが異なり、躍動感を感じる。とりわけ菩薩像は身体を少しくねらせていて、ヒンドゥーの神々の体つきを連想させる。
 南壁、北壁には仏教への帰依を表す故事をテーマにした仏画が描かれている。色落ちしているところもあるが、人々の表情、動きも明瞭で、そのころの河西回廊あたりの暮らしぶりがうかがえる。

329窟 飛天画&反弾琵琶
 45窟から北に280mほど先の329窟も小さな方形で、初唐(618~)の石窟だそうだ。
 目を引いたのが真上の伏斗形天井である。蓋状の中央は蓮の周りを4人の飛天が優雅に飛び、蓋状の四方にもそれぞれ3人、あわせて12人の飛天が飛んでいる(写真、web転載)。全体の色調は青で、縁取り、飛天の衣装、揺らめいている布には鮮やかな黄、赤、白、緑などが用いられている。豊かな色彩感覚がうかがえるが、よく見ると飛天の顔かたちは褐色である。
 天蓋の下り勾配は千仏で埋められている。
 西の壁龕には釈迦、弟子、菩薩の7尊の塑像が安置されているが、後世の作だそうだ。

 南壁には阿弥陀浄土教変、北壁には弥勒浄土教変が描かれている。鮮やかな色彩で、中央で説法する仏?、その教えを聞く弟子たちが描かれている。この図にも肌色と褐色の人物が入り交じって描かれている。図は建物や街の様子も描き込まれているので、当時の暮らしをうかがうことができる。

 西壁南側上部には釈迦=シッダールタが馬で出家する故事、北側上部には象に乗った摩耶夫人の故事(写真、web転載)が描かれている。教科書的には白馬、白象であるが、壁画の馬、象はもちろん釈迦、摩耶夫人、飛天たちは褐色である。
 変色、退色しやすい顔料が使われたのではないかとの説もあるが、これほど褐色が多いのは、河西では西域との交易、交流が盛んで街中に多様な民族が混在していたから、肌色や褐色は日常の光景だったのではないだろうか。

 壁画に描かれている飛天は優雅に空を舞いながら、楽器を奏で、踊り、歌い、多芸である。
 唐時代、「反弾」と呼ばれた右足を高く上げ、身体を反らして背にした琵琶を奏でる演奏法が流行したらしく、「反弾琵琶」の壁画が敦煌のシンボルといわれた。とりわけ112窟の反弾琵琶が有名で、当時の入場チケットに印刷されていた。大きく身体を反らせたふくよかな女性が、左手で背にした琵琶を持ち、右手で奏でている。まさに壮絶技法である。112窟は見学していないので、帰りに売店で112窟の反弾琵琶の拓本を購入し、以来、部屋に飾ってときおり莫高窟を思い出している(写真)。

16・17窟 井上靖著「敦煌」の舞台
 329窟から北に200m、入場口からおよそ550mに3層楼の16窟がある(写真、web転載)。
 ここに住み着いていた王円録道士が、阿片に火を点けたところ煙が壁のすき間に吸い込まれるのに気づいた。壁を崩すと石窟が現れ、大量の巻物が見つかった。1900年のことである。
 清朝末期で政治も社会も混乱していたころであり、欧米列強が中国に進出していた。世紀の発見を聞きつけ、1905年ロシア、1907年イギリス人スタイン、1908年フランス人ペリオ、1911年日本の大谷隊、1914年に再びロシア、スタインなどが次々と経典、経文などを安価な対価で持ち出した(写真は16窟、web転載、右手前が17窟で、経典などが17窟前に積まれている)。

 井上靖著「敦煌」(book519参照)では、西夏王・李元昊が1036年に沙州=敦煌を攻め落とす直前、主人公の漢人・趙行徳が沙州城内の経典・経文などを莫高窟=千仏洞に隠す展開である。
 16窟は西夏の様式であり西夏も仏教を信仰していたから、17窟は西夏支配後に掘られたという説もある。
 経典、経文類は漢語のほかに西夏語、チベット語など当時の西域の言葉が用いられていて歴史的な価値はあるが、必ずしも貴重な文献、資料ではないとする説もある。
 いろいろ説があるにしても、西夏国が西域を勢力下に置いた1000年ごろの経典・経文・文献・資料であることは事実であり、1900年ごろまで砂の奥に隠され続けてきたのも事実である。そうした事実から、壮大な歴史ロマンを物語化した井上靖氏の構想力は卓越している、と思う。
 16窟は晩唐(848~)に掘削された伏斗形天井であるが、西奥の須弥壇に置かれた塑像は清代作らしい。壁画のうち神将・力士らは晩唐期だが、ほかの絵は西夏時代に描き直されたそうだ。

 前述したが、61窟には吐蕃の支配から河西を奪回した漢族武将・曹氏の子が五台山図を描かせている。その曹氏が河西奪回を都に報告するとき、当時の高僧洪辯和尚の助力を得て都に上り、その結果、曹氏は節度使を任命された。喜んだ曹氏は、862年、洪辯和尚の御影堂として17窟を掘り、洪辯座像が置いたことが後世の研究で分かってきた。
 17窟が発見されたころ、17窟の奥の壁画にはあいだを開けて2本の菩提樹と2人の侍者が描かれていた。あいだが開いているので未完成と思われたが、365窟の洪辯像を壁画の前に置くと、壁画と洪辯像がぴったりと調和した(写真、web転載)。
 壁画と洪辯像で物語が完結する手法だったのである。
 壁画の二人の顔かたちは明瞭で、色合いも鮮やかである。顔立ちや髪の形などから、唐時代の風潮がうかがえる。

 11:00過ぎに見学が終わった。5世紀から15世紀にわたる1000年間もつくられ続けた仏教遺跡、仏教芸術、17窟の世紀の大発見を実体験でき、感動の連続だった。息をつかせぬという言葉があるが、16窟・17窟から外に出たときは思わず深呼吸したほどである。
 駐車場を出てから振り返ると、莫高窟=千仏洞は鳴沙山に埋もれていた(写真)。手前には乾ききった砂の大泉河である。砂しかないここに1000年に渡り石窟を掘り続けた執念に信仰の力を感じる。 (2020.9) 

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2000.8 中国西北シルクロード7 莫高窟=千仏洞/9層楼閣と北大仏→南大仏→釈迦涅槃像

2020年09月26日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 7 /莫高窟 96窟・130窟・148窟・158窟

莫高窟=千仏洞に入場
 広々とした莫高窟駐車場は、頼りなげだが緑が巡っている。乾いた道を歩き、乾ききった川筋の橋を渡ると、駐車場よりも元気な緑に変わる(写真、手すりの左が乾ききった川筋、正面が莫高窟入場口)。
 楽尊が金色の千仏を見たころは、鳴沙山、三危山、ゴビ砂漠が一体となった砂の風景が圧倒していたのではないだろうか。それでも楽尊に続き15世紀まで1000年に渡って石窟が掘られ続けたのだから、どこかにオアシスがあったはずである。
 オアシスの源である祁連山脈の雪解け水が多いときは、砂漠に奔流が流れたのではないだろうか。水が流れなければ乾ききった川床になる。奔流は大泉河と名づけたられたらしい。漢人は表現が大げさである。
 莫高窟が発見され大勢が訪ねてきて、研究所なども設けられ、防砂・防風のため植林が進められた。ポプラのほかに枝を広げた広葉樹も植えられた。緑の隣は砂漠が迫っている。人が手を緩めれば砂の風景に戻ってしまう。砂の力は想像を超えて大きいそうだ。

 莫高窟入場口は、南北1600mの莫高窟のだいたい真ん中に設けられている。
 確認されている490余の石窟のうちチケット購入者に開放されているのは27窟で、ほかに別途料金の必要な特別窟が13公開されているが、どれを見学するかは案内を担当するガイドがおよそ1時間半を目安に決めるのが当時の見学ルールだった。

 私たちの案内ガイドは、9:15から11:05まで、96窟=9層楼閣、130窟、148窟、158特別窟、61窟、57特別窟、45特別窟、329窟、16・17窟を順に案内した。案内ガイドはくどいように石窟前に設けられた柵の中は撮影禁止と注意していた・・洞窟内はかなり暗く、撮影には光量の強いフラッシュが必要で、入場者が次々フラッシュを点けたら貴重な壁画の劣化が進んでしまいかねない。撮影禁止の趣旨は理解できる。・・となれば見学者は記念+思い出に複製品、絵はがき、写真集、ポスターが欲しくなるから経済効果もありそうだ・・。

 ・・この紀行文を書きながらwebを調べると石窟内の写真が大量に掲載されていた、見学当時のメモでは記憶を掘り起こすのに限界がある、映像は見学当時の興奮を思い出させてくれた、文献、資料の写真も多いようだが詮索はせずに参考にし、転載させて頂いた・・。

96窟=9層楼閣と弥勒大仏=北大仏
  入口から250mほど南に、高さ43mの楼閣が岩山から飛び出してそびえている(写真、柵の外から撮影)。木造架構の鮮やかな朱色が白茶けた色の岩山から浮き出ているので遠くからでも目立つ。正面から見上げると7層しか見えないが、8層、9層は奥まっていて離れれば視認できる。・・平山郁夫画「シルクロード・敦煌石窟9層楼(2007)」では9層分の楼閣が描かれている・・。
 引率ガイドによると、北涼時代(420~)に岩山が堀り始められ、初唐時代(618~)に楼閣と高さ34.5mの本尊・弥勒大仏が完成したそうだ。弥勒大仏は座像で、北大仏とも呼ばれる。

 もともとは、岩山を掘りながら大仏のおおよその輪郭を削り出し、漆喰で造形して彩色したらしいが、その後、泥で補修し顔つき、身体は白色に仕上げていまの大仏が出来上がった(写真、web転載)。荒削りの形に漆喰、泥をかぶせて細かな表現に仕上げる石胎塑像と呼ばれる技法である。鳴沙山の崖を掘った莫高窟では石胎塑像が多く見られる。
 大仏の高さ34.5mは11~12階に相当し、見上げると圧倒する迫力を感じるが、尊顔が上過ぎて顔立ちがはっきりしないが、合掌して表に出る。

130窟 弥勒大仏=南大仏
 96窟・北大仏から300mほど南の130窟に入る。中には高さ29mの弥勒大仏が座していて、またも圧倒された(写真、web転載)。盛唐時代(712~)756年の完成で、北大仏と同様の石胎塑像である。もとは彩色が鮮やかだったのだろうが、顔つき、身体は白っぽい。
 ・・このときは白い顔に何も感じなかったが、後半の石窟の仏画を見学して、仏教がインド伝来であり、河西と西域の交流を考えれば、褐色の顔つきでも不思議ではないと思った・・。
 大仏を顔の大きさは7mもあるそうだ。穏やかな顔を見上げ、合掌する。

 南北の壁には晩唐時代(848~)作の高さ15mの菩薩像、盛唐時代(712~)の供養に向かう行列の図(写真、web転載)、宋時代(960~)の飛天図、天井に宋時代作の蓮の天蓋=華蓋と龍が描かれている。行列図は色も鮮やかで細かなところもで描かれていて、当時のたぶん身分の高い人々の服装がうかがえる。

 時代を超えて仏教が厚く信仰されてきたことがうかがえる。

148窟 釈迦涅槃像
 130窟・南大仏から南に100mほど先の148窟に入る。96窟、130窟の見上げるほど高い石窟とは打って変わって、148窟は高さ6mほどしかなく、奥行き7mほど、幅17mほどの横長の窟である。・・一説には棺の形だそうだ。
 西側奥の岩の台座の上に、ほぼ横長一杯の頭を左=南にした手枕の釈迦涅槃像が安置されている(写真、web転載)。盛唐時代(712~)756年に完成した石胎塑像である。
 釈迦の後には、72人の弟子や菩薩、羅漢など83体の塑像が悲しげな表情で並んでいる。塑像群は後世の修復だそうだ。
 塑像群の背後の南~西~北の壁には長さが23mに及ぶ涅槃教変が描かれている。涅槃経は釈迦が入滅する日に弟子たちに残した教えで、この涅槃教変には60のテーマが取り上げられ、500人以上が登場する大作である。東壁にも薬師教変、観無量寿教変が描かれ、天井には千仏が整然と並んでいる。
 盛唐時代は教変絵画が盛んだったようだ。
 
158特別窟 釈迦涅槃像
 案内ガイドは次の158窟・涅槃像は当時60元≒800円/人の別途有料と言いながら、148窟・釈迦涅槃像から200mほど、130窟・南大仏から50mほど北に戻った上層階の158窟に案内した。
 窟は148窟と類似し、高さ9.5mほど、奥行き7.4mほど、幅17.1mほどで、西側奥に岩の台座が削られていて、頭を左=南にした手枕の釈迦涅槃像が安置されている(写真、web転載)。
 中唐時代だが河西は吐蕃=チベット族支配下(781~)である。吐蕃=チベット族も敬虔なチベット仏教信者だから、中唐以前の石窟+仏像+仏画に倣い、石窟が掘られたようだ。

 涅槃像は15~16mほどで、南には立像、北に跪坐像を安置されている。
 案内ガイドによれば、立像は過去を意味し、釈迦の十大弟子の一人である迦葉カショウのイメージ、釈迦涅槃像が現在で、跪坐像が未来を意味し、同じく弟子の阿難アナンのイメージだそうだ。
 釈迦涅槃像も立像、跪坐像ともに、148窟の涅槃像に比べ、顔はふっくらとし表情は穏やかで、涅槃像は安らかに眠っているように見える。同じ石胎塑像だが、148窟・涅槃像は後世に手を加えられて表現が変化したが、158窟・涅槃像は盛唐の様相を残しているためであろうという説が納得しやすい。

 148窟・涅槃像の背景の涅槃教変は壁画として独立していたが、156窟では壁画の弟子や羅漢、菩薩たちが台座の釈迦涅槃像を囲んで嘆き悲しむ構図になっている。涅槃像の頭側のカショウ、足側のアナンも釈迦の入滅を悲しんでいて、釈迦涅槃像を囲む立像、跪坐像、壁画が一体となって涅槃教変を構成しているのである。148窟に比べ、158窟は涅槃教変の構成がダイナミックに進化している。

 北側の壁画に描かれた人物は褐色の人も描かれ、服装も異なる(写真、web転載)。なかには自分の身体を傷つけて悲しむ様子も描かれている。吐蕃=チベット族支配だったため西アジアの人種、民族、風習まで視野が広まったこともあろうが、仏教伝来のインド、西域との交流を考えれば、河西では人種にこだわりが無かったのではないだろうか。
  続く(2020.9)

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井上靖著「敦煌」は覇権争いの河西回廊を舞台に千仏洞で発見された経典の謎を解く壮大なロマン

2020年09月14日 | 斜読

book519 敦煌 井上靖 新潮文庫 1965  斜読・日本の作家一覧>  
 2000年8月中国西北部・シルクロードに暮らす少数民族の民家を訪問した。そのときは西園寺一晃著「中国辺境をゆく」(b018参照)を予習して出かけた。
 20年も経ってそのときの紀行文を書き始め、復習で「敦煌」を読んだ。

 1980年にNHKで放映された「もう一つのシルクロード」を見たような気がするが、まったく記憶に残っていなかった。偶然にも、紀行文を書きながら「敦煌」を読んでいるとき、「もう一つのシルクロード」が再放送された。
 録画して「敦煌 17窟の謎」を繰り返し見た。1980年放映のシルクロード調査隊に井上氏も参加していて、「17窟の謎」に「敦煌」の鍵となる経典を重ね合わせたようだ。
 ・・「敦煌」では、主人公趙行徳が西夏軍の攻撃を受け、沙州城を炎上させる直前、西夏文字に訳された貴重な経典を莫高窟に隠すところがクライマックスである・・。

 「敦煌 17窟の謎」の映像と解説によって趙行徳の偉業が映像化され、「敦煌」に著された1000年代前半の中国西北に暮らす人々のほとばしる熱気を感じることができた。
 ・・それにしても、シルクロードの紀行文を書こうと思いつき、復習で「敦煌」を選び、再放送された「17窟の謎」を偶然見るとは、縁とは摩訶不思議である・・。

 冒頭に中国西北の地図が紹介されている。本を読みながら繰り返し地図を眺めた。右下の南東が「宋国」、右上の北東が「遼国」、中央が「西夏国」、左下の南西が「吐蕃」である。
 南西の「開封」から破線が中央を西に縦断していて、順に「洛陽」「長安」「環州」「霊州」「興慶府」「西涼府」「甘州」「粛州」「瓜州」「沙州(敦煌)」、そして「∴千仏洞(=莫高窟)」が記されている。
 これは趙行徳の足跡をイメージ化した線だが、この破線こそが争奪の的であるオアシスを結んだ交易路である。オアシス都市以外はすべてゴビ砂漠か黄土高原か地肌をむき出した山脈である。オアシス都市を出ると、道は無くなり乾いた砂の世界が広がる。破線とはまたシルクロードをめぐる勢力争いをも暗示している。
 ∴千仏洞=莫高窟は行徳の最後の目的地として登場する。
 
 物語は、1026年=天聖4年、湖南の田舎を出た32歳の趙行徳が都開封で進士の試験を受けるところから始まる。・・前述地図の右下に開封が位置する。開封から敦煌までは直線で1800kmを越える。実際には道のないゴビ砂漠を進むし、戦いでは陣営と戦局を走り回り、都を行ったり来たりするから、行徳の旅路は途方もない・・。

 試験を待つうち行徳は眠ってしまい、天子の前で、チベット系タングート族の西夏国が強大となり中国西辺を脅かしているので前進基地として一城を築き、さらに塞を設け、周辺の貧民を屯田させて防備する、と熱弁をふるうところで目が覚める。

 眠ってしまい試験を放棄した行徳は、裸で切り売りされる寸前の西夏の女を救い、西夏文字の書かれた布切れをもらう。

 行徳はたくましい西夏の女、西夏の文字から、西夏を知りたいと強く思う。故郷を忘れ、開封を後にし、翌1027年、宋軍の前進拠点である霊州に入る。・・霊州の先=黄河の西は漢の時代に設けられた河西四郡(武威=涼州、張掖=甘州、酒泉=粛州、敦煌=沙州)である・・。行徳はその間に、回鶻、西夏、吐蕃の言葉を少しずつおぼえた。

 行徳は回鶻の隊商に紛れ込み涼州に向かうが、砂漠の中で西夏軍と回鶻軍の戦闘に巻き込まれる。一人砂漠をさまよい涼州城にたどり着くが、西夏軍漢人部隊の兵卒に組み込まれ、甘州に小国を築いている回鶻軍との戦いに参加させられて1年が過ぎる。・・涼州は農業も盛んで馬の産地でもあり、争奪の的になっていた。

 行徳は戦いのたびに気を失い、ときには重症を負うが生き延びた。

 甘州の回鶻を攻め落とすため、涼州に西夏正規軍50万人のほか雑多な人種の軍隊が集結する。全軍の統率は次期西夏王李元昊で、行徳は勇猛果敢な漢人朱王礼の部隊に編入させられる。
 西夏軍総勢20万人が甘州を攻める。行徳は朱王礼の命で決死隊となり城内へ突入、城壁で狼煙をあげるとき回鶻王族の女を助ける。
 行徳は回鶻の女と契りを結ぶ。ところが、朱王礼から西夏文字習得のため興慶へ行く許し?命令?が出る。行徳が女に1年で戻ると話すと、女は2本の首飾りの一つを行徳に預け、再会を約す。行徳は朱王礼に女の保護を頼み、興慶に旅立つ。
 
 興慶は、涼州、甘州を下した新興勢力西夏の都である。西夏国はさらに漢人の支配する河西回廊の西はずれの瓜州、沙州=敦煌を手中に治めようとし、その中間に出没する吐蕃を撃とうとしていた。
 1028年=天聖6年に興慶に入った行徳は西夏文字を習得し、漢字と西夏文字の対照表にもかかわる。1029年=天聖7年に対照表が完了する。
 行徳は宋国に戻ることもできたが、1030年=天聖8年、涼州を経て甘州に向かい、さらに西の祁連山脈の麓に築かれた朱王礼の城塞に入る。

 朱王礼に会った行徳が回鶻の女について聞くと、死んだという。翌日、吐蕃との最終決戦のため全軍集結の命が届き、行徳は朱王礼とともに甘州城に入る。

 馬に乗った李元昊が現れる。なんと李元昊に続く馬には回鶻の女が乗っていて、行徳と目が会う。翌日、李元昊が全軍の査察を終え隊列を整えたとき、城壁の上から回鶻の女は身を投げ自死する。
 ・・行徳は、女が約束を反故にしたことを悔いて自殺した、と信じる。・・女の死は朱王礼の気持ちに李元昊への憎しみを生み、のちに李元昊への反逆に走らせる。

 行徳を始め、西夏軍は回鶻の都粛州に入城する。行徳は女の自死を思い出し、毎日のように死んでいく兵卒、庶民を見て、仏教に関心を持つ。粛州の寺の法華経7巻を読み、金剛般若心経を知り、大智度論百巻を読みふけった。
 趙行徳と、朱王礼率いる西夏軍の前軍は吐蕃軍を破る。ほどなく漢人曹延恵が太守の瓜州が西夏に臣属する。・・瓜州は延恵の兄曹賢順が太守である沙州=敦煌の支城である・・。

 1032年、李元昊は、父王が死に、王に就く。朱王礼の部隊は、李元昊の命で瓜州城に入る。太守延恵は仏教への信心が厚く、経典を集めていて、行徳に経典の西夏語への訳を頼む。

 経典の西夏語訳は、西夏語を知る漢人の人手がいる。行徳は朱王礼の許可をもらい、沙州の貿易商人尉遅光の隊商に加わり興慶に出かける。・・尉遅光が終盤、沙州の経典を千仏洞に運び込む手助けをする。

 話を飛ばす。李元昊率いる西夏軍は瓜州城を焼け落とし、沙州を狙う。朱王礼は回鶻の女の恨みを晴らすため李元昊を倒すと行徳に語る・・西夏王李元昊の残忍さや、漢人の地である沙州を守ろうとする漢人の思いもあったのではないだろうか・・。

 瓜州落城寸前に逃げ出した朱王礼部隊、行徳、太守延恵、尉遅光らは沙州に逃げ込む。
 沙州王曹賢順は、ここは漢土である、曹氏は滅びても子孫が雑草のように残るといい、圧倒的な勢力の西夏軍と戦い、戦死する。
 朱王礼は恨みを晴らそうと李元昊を狙うが、戦死する。
 留守部隊として残った行徳は、沙州城が焼け落ちる前に、尉遅光に財宝と偽り膨大な西夏語訳の経典を千仏洞に運び込む。

 1043年、西夏と宋は和睦、1048年、李元昊が45歳で物故する。時を経て趙行徳がしたためた手紙が届き、経典を隠した仏洞前で供養が行われたが、仏洞はそのまま保持された。
 1900年代初め、王道士が石窟群を発見する。これがいまの莫高窟であり、世界中の耳目を集めて貴重な経典、仏教遺跡が散逸した。

  2000年8月にシルクロードを訪ね、砂漠を体験し、莫高窟の壁画に感嘆しただけでも壮大な歴史に気分が高揚した。井上靖氏は、宋や西夏の歴史に西夏文字に翻訳された経典を織り込み、趙行徳、朱王礼、回鶻王族の女、尉遅光を登場させ、「敦煌」という壮大なロマンに仕立て上げた。シルクロードの旅には必読の本であり、中国西北部の歴史を学ぶ副読本ともいえる。 (2020.9)

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2000.8 中国西北シルクロード6 敦煌はゴビ砂漠の軍事拠点だった→1.6kmの石窟・莫高窟へ

2020年09月08日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 6

敦煌は河西回路の軍事拠点を起源とするオアシス都市
 敦煌太陽大酒店は南北の目抜き通りになる沙州北路に建っていて、北向きの窓からのぞくとビルがびっしり建ち並んだ東から太陽が顔を出したところだった(写真)。まさに太陽大酒店の名にふさわしい。
 街並みを見下ろしていると砂漠であることを忘れてしまうが、敦煌Duhuangの位置する河西回廊、西域南道、天山北路も、トルファン、ウルムチを抜ける天山南路も、中国では戈壁灘gebitan=ゴビ砂漠=Gobi desertに点在するオアシスを経由する通商路である。
 ゆえに敦煌は内陸性気候帯に属し、年間降水量は40mmほどで、8月は平均でたったの5mmしか降らない。8月の平均最高気温は32℃と東京の31℃と変わらないが、平均最低気温は15℃で東京24℃に比べかなり冷え込む。
 敦煌の最高気温が東京とさほど変わらない安心していたが、後日、ゴビ砂漠でカラカラに乾燥していると日射しが痛いほど強くなるのを実感した。日が落ちると一気に冷えるのも体験した。
 敦煌の標高は1100mmほどで高山病の心配はない・・標高3000mの夏河で高山病に油断した・・が、砂漠では極度の乾燥、15℃を超える温度差も要注意である。

 教科書で習ったはずの中国史をおさらい・・BC200年ごろ、中国中原を支配した漢・初代皇帝高祖と西北辺境に勢力を伸ばした匈奴は、交易の要所をめぐり覇権争いをくり返していた。匈奴を率いる冒頓単于ボクトツゼンウは高祖軍を破り、中国西北の支配権を確立する。
 漢7代皇帝武帝は匈奴軍を破り支配権を取り戻し、中国西北を治めるため、紀元前111年、張掖=甘州、武威=涼州、酒泉=粛州、敦煌=沙州の河西四郡を軍事拠点とした。
 これが敦煌の始まりになる。ただし、中国王朝の力が弱まると周辺部族が勢力を広げ、中国王朝が力を盛り返して西北部を支配下におく歴史がくり返されたので、当初の敦煌=沙州は党河の西につくられ、その後の戦禍で沙州城は焼失、清代のころに党河の東にいまの敦煌がつくられたらしい。
 ・・歴史学、考古学に疎い観光者にとっては党河の西か東か、沙州か敦煌かは大同小異である・・。

 河西四郡は、河西四郡の南に連なる祁連山脈Qilian shanmai・・最高峰の祁連山は標高5547m・・の雪解け水の伏流水を水源とするオアシス都市である。
 現敦煌市街と敦煌古城とのあいだを北に流れる党河も祁連山脈を源とし、ゴビ砂漠に消えていく。・・シルクロードは雪解け水を水源としたオアシスを辿った交易路であることを改めて実感する。

 持参した温湿度計によると朝の室内は23℃、62%で、快適である。
 部屋は、蘭州飛天大酒店、夏河ラプロン賓館とほぼ同じである(スケッチ)。中国の改革開放政策が夏河や敦煌などの地方都市まで及び、新たなホテルはツインベッド+バストイレが標準になっているようだ。
 敦煌の人口はそのころ13万人ぐらいだったが、ガイドのKさんによれば年間の観光客は50万人を越え、年々増加していて、そのほとんどは日本人グループだそうだ。井上靖著「敦煌」、「平山郁夫シルクロード展」、NHK「もう一つのシルクロード」などで、シルクロード熱が高まっているようだ。
 その結果、敦煌市街の2星以上のホテルはいつも満室状態で、ホテル建設ラッシュになっているそうだ。
 
千仏洞ともいわれる壮大な莫高窟へ 
 8:30、教科書でも習い、仏教遺跡、仏教美術の宝庫として世界の耳目を集めた莫高窟mogaokuを目指す。
 敦煌の南は、鳴沙山mingshashanと呼ばれる標高1400~1700mの砂の山が連なっている・・鳴沙山は後述・・。砂がうねるような起伏をつくっていて、莫高窟はその東の崖に掘られている。市中心部から莫高窟まで直線で東南に25kmほどだが、砂の山を迂回するため道路はいったん東に向かい、市街を出て砂漠に入ってから南東に向かわなくてはならない。
 ホテルから東に5kmほど走ると市街は途切れ、ポプラ林の風景が現れる(写真)。ポプラは市街を風+砂から守る防砂林として植林された。ポプラ林の手前は野菜、小麦、トウモロコシ、綿花などの畑地になっている。
 ポプラ林も畑地も党河の水を引き込んで植林、栽培されたそうだ。

 ポプラ林を抜けるとゴビ砂漠に出る(写真)。小石の混じった砂地の起伏がどこまでも広がっている。ポプラ林という外皮によって、敦煌市街は砂漠から守られているのである。
 はるか彼方に砂漠が盛り上がったような山並みが見える。祁連山脈のようだ。
 祁連山を始めとした5000m級の山並みの雪解け水が川やオアシスをつくる。そのオアシスに人が集まり、町ができ、川を利用して町が発展する。雨の豊かな日本にいるとつい忘れてしまうが、ポプラ林の内側(上写真)と外側(外写真)の対比は水のありがたさを見せつけてくれる。

 道路は砂漠の中をまっすぐ延びていき、林が現れ、行き止まりになる。右手=西側が鳴沙山mingshashan(標高1400~1700m)で、左手=東側にも三危山sanweishan(標高1600~2000m)の山並みが連なっている。鳴沙山と三危山のあいだが谷筋のようになっていて、鳴沙山の東崖に千仏洞=莫高窟と呼ばれた石窟が掘られ、砂に埋もれ保存されてきたのである。
 伝承では、366年、楽尊という僧が三危山に金色に輝く千仏が現れるのを見て、三危山が見える対岸の鳴沙山に千仏の洞を掘り始めたそうだ。
 ・・黄土の砂には雲母や石英が含まれていて日射しできらめいて見えるから、金色に輝く仏が現れたように感じたのではないか、という説もある。凡人には納得できる説だが、信仰心の厚い仏教僧には輝きが千仏に見えても不思議ではない。実際に石窟を堀り始めるのだから、楽尊には光輝く仏の形に見えたのであろう。

 楽尊に続き石窟を掘る人が現れる。中国西域の支配者はたびたび変わったが、支配者が誰であろうと時代を超えて石窟は掘り続けられた。三危山、鳴沙山は、仏の霊力を宿しているのではないだろうか。
 見学当時、南北1600mに及ぶ492の石窟が発掘、保存されていて、壁画はのべ45000㎡、彩色塑像は2000余が確認されているとのことだった。
 石窟の掘られた崖は高さが70m~80m~で、一層目だけの石窟もあるが、2層、3層に重なった石窟も少なくない(写真)。
 その石窟が長さ1.6kmに及ぶのだからいかに莫高窟が壮大か、言い換えれば、いかに多くの仏教僧が千仏洞に帰依したか、想像を超える。
 千仏洞=莫高窟は1900年代始めに発見、発掘されるまで、砂に埋もれたまま忘れられてきた。砂漠が莫高窟を保管してきたともいえる。 (2020.9)

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2000.8 中国西北シルクロード5 チベット族民家訪問→臨夏で元気回復→蘭州→敦煌へ

2020年09月02日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 5

高山病でふらつきながらチベット族の住み方を聞き取り
 賓館チェックアウト後、昨日、Kさんが民家訪問をお願いしてあったチベット族の村に向かう。山並みにはさまれた盆地状の平坦地は畑地に開墾されていて、民家は山裾に散らばるように建ち並んでいる(写真)。
 車から降りるとふらつく。頭が重い。ゆるやかな斜面でも息切れがする。訪問したTさん宅を上から撮影するにはかなり上らなければならないので、あきらめた(前掲写真はTさん宅から見下ろした眺め)。
 Tさん宅も、ほかの民家も同じ作りで、13~14mの矩形に版築工法の土塀を回している(写真正面、Tさん宅、中央Tさん、左孫娘、右手前嫁、手前の土塀は家畜用)。
 土塀に囲まれた中は、中庭を残し、土塀の東側または東・西側に部屋を並べる(スケッチ参照、Tさん宅は西~北~東に部屋)。
 土塀をぐるりと回すのは山から吹き下ろす寒風を防ぐため、平らな屋根は雨がほとんど降らず、強風にもかなっているためであろう。家のつくりはまさに風土の結果である。
 部屋の間取りは、ラプロン寺の僧侶が風水に従って決め、入口はラプロン寺に向けるそうだ。チベット仏教への信心深さ、仏教僧への信頼がうかがえる。結果的に、チベット族では同じ向きの同じような家がつくられることになる。

 入口部分は木造で、屋根を乗せ、木製両開きで、入口が象徴化されている(前掲写真)。扉を入ると(スケッチ上部)中庭が開け、最奥に白い焼き物の炉が据えられている(写真)。先祖や亡くなった人を弔うため、コノテガシワの枝を燃やす?いぶす?そうだ。
 コノテガシワは、葉の形が子どもの小さな手に似ていることから児の手柏の漢字が当てられる。中国では寺院、墓地に植えられることが多いらしい。Tさんがこの日の朝早くコノテガシワをくべたので、中庭が香りで包まれていた。
 そんなことをメモ書きしていたら、通訳のKさんとTさんのあいだで話がはずんだようで、チベット族の埋葬は、チベット仏教僧、身分の高い人は塔葬、次いで火葬、一般の人は天葬で、親より先だった子どもは水葬、罪人は土葬、と教えてくれた・・頭が重かったからメモ書きに不安があるが、天葬は鷹に食べられ天空に上る、魚の目は子どもの目に似ている、と記録されていた・・。

 Tさんが結婚した50年ほど前、四方の土塀と間取り図東側(黄色部分)の住まいをつくった。10年ほど前、息子が結婚するとき、間取り図西~北側を増築したそうで、いまは老夫婦、若夫婦と子どもの3世代5人家族である。
 老夫婦の部屋は北の中ほどに位置し、南からの日射しが入る。木造で、壁、天井ともに板張りである(写真)。間口は2.5m、奥行きは4mで、手前半分が土間になり、ストーブが置かれている。奥の半分は高さ40cmほどの床になっていて、寝具が置かれている。
 8月でも標高3000mは冷え込む。ストーブは高齢者の必需品であろう・・と気楽に記録したが、後述のようにしっかりした暖房の仕掛けがあったようだ・・。
 若夫婦の部屋は西側の中ほどで、間口2.5m、奥行き5m、木造で、壁、天井は板張り、手前3mは板張りの土間、奥の2mが高さ40cmの床で夫婦と子どもの寝具が置かれている(写真)。
 ・・高山病で頭の回転がにぶく、若夫婦の部屋にストーブがないことは気づいたが、寒さ対策を聞き逃した。

 ・・このあと敦煌で漢族、トルファンでウイグル族、ウルムチでカザフ族の住まいを訪問し、床の暖房に気づいた・・後述・・。
 ・・中国北方では竃の廃熱を高床の寝台に通して暖める暖房寝台(中国では炕カンと呼ぶ)が一般的である→HP 異文化の旅・中国を行く・・。
 ・・韓国でも床下に竃の廃熱を通して暖める床暖房(韓国ではオンドルと呼ぶ)が設けられている→HP 異文化の旅・韓国を行く・・。
 チベット族の住まいの記憶をたどり、老夫婦、若夫婦の高床の手前側中央に小扉が設けられていることに気づいた。厳寒のときは、この小扉から火種を入れて寝床を暖めるのではないだろうか、高床の内部は耐熱、保温のためレンガや土でつくり、側面は板張り、上部はカーペットで仕上げている、と推測される。

 東側の仏間、客間の前は、温室のようなガラス張りの前室が増築されていて暖かである(中庭写真参照)。客間、仏間とも床はカーペット、壁は板張りで白く塗られ、天井はボード仕上げで、寝室より上等なつくりになっている。
 仏間の壁面にガラス扉の戸棚があり、手前に線香、お供えが置かれ、奥に故人の写真、チベット仏教僧の写真、釈迦如来の絵などが飾られている(写真)。
 これが日本の仏壇に相当する。チベット族の皆さんは信仰心が厚く、朝8時と昼12時にお祈りをあげるそうだ。
 Tさんは日焼けしたたくましい身体だが、にこやかな顔で応対してくれた。お孫さんも珍しい訪問客に興味津々だったようだ。 皆さんに十二分にお礼を言い、10時近くにおいとまする。

臨夏で元気回復→蘭州から河西回廊を飛び越え敦煌へ
 高山病は標高が下がれば解消するはず、そう期待しながら、白茶けた山並み、麦の刈り入れ、漢族らしい家並みなどをぼんやり眺めているうち、うつらうつらする。
 11:30過ぎ、標高1900mの臨夏に着いた。なんと、嘘のように頭痛が治まっていた。足元もふらつかない。元気を取り戻したら空腹を感じた。昨夕も今朝も食べていない。レストランで早めの昼食をとる。ふかしジャガイモ、ふかしトウモロコシがおいしかった。
 
 12:30ごろ臨夏を出発する。赤茶けた風景が黄土高原の風景に変わり、15:00ごろ標高1600mほどの蘭州の市街に入る。車は黄河を渡り、市街を抜け、再び黄土高原を走る。高原と名が付いてるが山のような起伏が延々と続いている(写真)。
 16:30ごろ蘭州飛行場に着く。蘭州市街は黄土高原を削って流れる黄河沿いに発達したから、飛行場をつくる余地がなく、市街から北におよそ70kmの標高2000mに蘭州飛行場が建設された。一昨日の上海便は夜中に着いたから暗闇でよく分からなかったが、飛行場のまわりは一面の黄土高原だったのである。
 17:00ごろ早めの夕食を取る。18:00ごろ搭乗、18:40離陸する。見渡す限りひだひだの黄土高原も日没とともに見えなくなった。
 20:30ごろ、敦煌飛行場に着陸する。

 西安を起点としたシルクロードのうち、敦煌までは河西回廊と呼ばれ、西安-蘭州-武威-張掖-酒泉-嘉峪関-玉門鎮-安西を経て敦煌に至る。昔は駱駝、馬で行き来したのであろうが、いまは車と列車を使った旅になる・・b018西園寺一晃著「中国辺境をゆく」参照・・。しかし、1週間でウルムチまで行く計画のため、河西回廊をショートカットし飛行機を選んだ。
 ・・その当時は次の機会に河西回廊をゆっくりと旅しようと思ったりしたが、よくよく考えてみれば天山北路や天山南路も魅力的である。さらには目を転じると、異文化の世界はあまりにも広い。
 河西回廊の旅は西園寺氏の本の中で終わってしまった・・。 

 敦煌飛行場は市街に近い。飛行場から西に30分ほど走ると中心街で、そこに今日の宿、敦煌太陽大酒店がある。当時の最新のホテルだった。21:00ごろチェックインを済ませ、連泊なので散策は明日にし、休むことにする。  (2020.9)

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