yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.1シチリアの旅25  シラクーサ・ネアポリス考古学公園

2021年06月30日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>   2020.1 シチリアの旅 25  シラクーサ・ネアポリス考古学公園

 シチリアの旅7日目9:15、ネアポリス考古学公園Parco Archeologico Neapolisに着いた。テメナイトの丘と呼ばれる石灰岩盤をくり抜いてつくられたギリシャ劇場、ローマ円形劇場などの古代遺跡を整備した公園である。

 入園するとまず巨大なヒエロン2世の祭壇Ara di Ierone2が目につく(写真、web転載)。ヒエロン2世は第1次ポエニ戦争(BC264-BC241)でギリシャ人将軍として勝利に貢献し、シュラクサイ=現シラクーサの僭主、のちに王に就いたらしい。この祭壇は長さ198m、奥行き23mもあり、祭祀で牛450頭を捧げたと伝えられている。上部構造の石材は、16世紀、ハプスブルク家カール5世=カルロス1世がシチリア王だったころ、オルティジア島の要塞建設に転用されてしまったそうだ。
 そのころの習わしで祭祀に牛が犠牲になってしまったが、450頭もの牛を生け贄にするには膨大な放牧地、遊牧地が必要であろう。シチリアは農業、漁業、交易のみならず、牧畜も盛んだったことが想像できる。

 ヒエロン2世の祭壇を通り過ぎ、天国の石切場Latemia del Paradisoに向かう。ギリシャ時代に石灰岩を切り出した石切場で、深いところでは30mにもなる(写真)。切り出され、加工された石がギリシャ劇場やローマ円形劇場を始めとする建造物に使われた。
 シラクーサは1542年、1693年に大地震に襲われている。大地震で岩盤が崩落したあと、そのまま放置されたらしい。やがて植物が育ち、人々が植樹、造園して石切場が天国をイメージさせる庭園に生まれ変わったことから、天国の石切場と呼ばれるようになったらしい。ガイドがアーモンド、泰山木、夾竹桃・・・・と指さす。
 コリント式オーダーの意匠の元になったアカンサスacanthusも育っていた(写真)。アカンサスはギリシャの国花で、ビザンチンリーフとして絨毯などの柄模様に使われている。ギリシャ植民地に持ち込まれ、広まったのであろう。

 石切場を通り抜ける穴は、ディオニュシオスの耳Orecchio di Dionisioと名付けられている(写真、web転載)。そういわれれば耳に見えなくもない。
 紀元前5世紀早々、カルタゴを撃退してシュラクサイ=現シラクーサを護ったギリシャ人司令官ディオニュシオスは、シュラクサイの僭主になる。ところがディオニュシオスは僭主の地位を守るため横暴、残虐になってしまう。この穴は音響効果がいいので、囚人を閉じ込め、囚人が悪政を呪ったりディオニュシオスの悪口を言うのを上で聞いて判決を下した、と噂された。
 石切場を訪れたカラヴァッジオCaravaggio(1571-1610)がその伝説を聞き、ディニュシオスの耳と命名したそうだ‥カラヴァッジオは後述、眉唾の話だとしても歴史が絡み合って話が壮大である‥。

 ディオニュシオスの耳を通り抜けるとギリシャ劇場Teatro Grecoに出る。紀元前5世紀、シュラクサイ=現シラクーサに植民したギリシャ人が石灰岩盤の斜面をくり抜き、劇場をつくった。当初は台形だったという説や、BC3世紀、ヒエロン2世時代、劇場は馬蹄形に改修されたとの説がある。ローマ時代に半円形に改修され、水路が引かれ、いまの劇場の形になった。直径140m、座席67段、15000人収容の規模で、古代ギリシャ劇場としては最大とされる。
 16世紀、オルティジア島のスペイン要塞建設のためギリシャ劇場の石材も運び出された。現在に残る座席は48段、5000人ほどの規模になった(写真)。それでもギリシャ劇場の特徴である円形の観客席、中央平場の音楽隊、手前舞台で演劇の構成がよく残されている。
 ギリシャの円形劇場がローマの円形劇場、円形闘技場に引き継がれ、現代の劇場ホールやアリーナに発展したと思うと、その原型をつくったギリシャ人の構想力に感心する。

 座席は8つの階段通路で9つのセクションに分かれ、座席中ほどの横通路で上段、下段に区分されている。
 最上段まで上ると、岩盤をくり抜いて引いた水路があり、大量の水が音を轟かせている(写真、前掲写真の左上)。水路が引かれたのはローマ時代で、中央平場に水を溜めてショーに活用したらしい。スペイン時代には豊富な水で水車を回して小麦粉を引き、近世には水力を動力にした工場も作られたそうだ。ローマ人の水路、水道技術は後世にも貢献している。

 最上段の先を上るとギリシャ劇場の全景とイオニア海が遠望できる(写真)。雄大な海原を背景にして演劇が盛り上がる効果もありそうだ。海が見えれば、攻めてくる敵を発見しやすい利点もあろう。しかし、ギリシャの植民者は気持ちの奥でふるさとが忘れられず、ふるさとにつながる海を見ようとしたのではないだろうか。
 ‥かつて沖縄の古村を調べていて、ニライカナイ(遥か海の彼方)思想を知った。柳田国男らも論じている。ギリシャ人も海の彼方に思いを馳せ、海の見える立地を選んだのかも知れない‥。

 丘を南東に下り、ローマ円形劇場Anfiteatro Romanoを見る。ローマ時代、剣闘士競技を楽しむために石灰岩盤をくり抜き、長辺140m×短辺119mの闘技場がつくられた。古代ローマで円形闘技場がつくられたのは紀元前1世紀だから、シラクーサも紀元前1世紀以降であろう。
 剣闘士競技が行われるアリーナは長辺70m×短辺40mで、剣闘士、猛獣が出入りする仕掛けも残っている。
 周りにはギリシャから運ばれた大理石で化粧された観客席が設けられていたはずだが、16世紀、観客席の石材はオルティジア島スペイン要塞建設のため運び出されてしまったそうだ。
 1998年に訪たチュニジアのエル・ジェム、2001年に訪ねた南フランス・アルルの円形闘技場は原型をとどめていた。そのイメージをローマ円形劇場の遺構に重ねながら、10:40、バスに戻る。 (2021.6)

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2020.1シチリアの旅24 オルティジア島泊→涙の聖母教会

2021年06月26日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 24 オルティジア島泊→涙の聖母教会

 シチリアの旅6日目、17:00ごろ、シラクーサ・オルティジア島手前の駐車場に着いた。明かりを灯したサンタ・ルチア橋を渡る。連泊のせいか、グランド・ホテル・オルティジアが懐かしく感じる。
 夕食は19:30、4階レストラン集合なので、そのまま街中散策に出た。まだ地理に不案内なのでホテルの前のVia 11 Settembreを北に歩き、サンタ・ルチア橋につながる通りを右に折れ、明るく広いCorso Matteottiを南に歩く。
 バロック様式、新古典様式の面影を残した建物に混じって近代的な建物も並んでいる(写真)。人通りは少ないが、1階の店の照明で明るく、安心して歩ける。スーパーマーケットを見つけたのでミネラルウオーターを購入し、同じ通りを戻った。

 19:30、4階レストランに集合する。今朝は停電だったが、改めて見回すとトラス構造を現しにした勾配天井で、広々としている(写真)。海も見える。居心地のいいレストランである。
 席に着いたら、ホテルから停電のお詫びとしてプロセッコがサービスされた。
 プロセッコproseccoは北イタリア・ヴェネト州でつくられるスパークリングワインで、以前のイタリア旅行で何度か飲んだ。日本でも飲んだことがあるが、フランス・シャンパン、スペイン・カバ、北イタリアのアスティ・スプマンテasti spumanteを飲むことが多い。アスティは甘みがあるが、プロセッコはシャンパン、カバに似て辛口ブリュットである。
 ビールも頼んだら、苦みのきいたbirra Moretti(7ユーロ)が運ばれてきた。
 前菜はシーフードサラダ(左写真)と白身魚のマカロニである。シーフードはプロセッコと相性がいい。どちらもおいしくいただく。 チーズをからませたマカロニはビールとあわせていただく。
 主菜はエビのグリル焼きである(右写真)。エビは好物である。プロセッコを干し、ビールとあわせ、完食する。
 十分満ち足りたので、デザートのレモンケーキは甘すぎることもあり半分ほど残した。
 サービスのプロセッコで気分が昂揚したのか歓談がはずみ、2時間をこえたところで散会になった。

 部屋に戻り、荷物を整理する。今日の歩数計は13100歩、入浴で足マッサージをする。海の夜景を眺めながら、パレルモで買ったワインColomba Platinoを味わう。毎日90mlぐらいずつ飲んでいるので、最終日で空きそうだ。今日のメモを眺め、明日の予定を確認しベッドに入る。

 シチリアの旅7日目、5:30ごろ起きる。街路は濡れているから夜半に雨が降ったらしいが、空には満月が顔を残している。今日も雨は心配なさそうだ。
 7:00に4階レストランでビュッフェ朝食を取る。海を眺めながら、生野菜、ハム、チーズ、できたてのオムレツ、ヨーグルト、ホットコーヒーなどをいただく。電気が使えると料理が盛りだくさんになるだけではなく、暖かい~熱い料理が食べられ、生き生きしてくる気がする。

 出発は9:00なので、スーツケースをドアの内側に置いて、海沿いの散策に出る。南隣はバロック様式の建物である(写真)。グランド・ホテル・オルティジア(写真左の建物)は現代的な外観だが色合いは黄色みで高さもそろい、バロック様式と調和がとれている。景観規制がされているのかも知れない。
 散策する人や早出の人以外の人通りは少ない。
 シラクーサに着いた昨晩、夕食に出かけたとき通り抜けた石積み門+石積み壁(写真)にはPorta Marina antiche fortificazioni spagnoleと記されている。かつてのスペイン要塞の一部が残されたようだ。
 港には漁船が係留され、少し先にはヨットも見える。イオニア海は静かな波が揺らいでいる(写真)。青い海を眺めていると、海に弱い私でもこぎ出したくなる。古代から大勢が海を渡り、新しい歴史が始まったのである。ちょっぴり感傷的になり、ホテルに戻る。

 スーツケースはHさんの確認を終え駐車場のバスに運ばれていた。私たちは歩いてサンタ・ルチア橋を渡り、バスに向かう。
 9:05、バスはシラクーサ北西の丘に残るギリシャ劇場に向かう。
10分もかからない車内で、Hさんがギリシャ神話の女神アルテミスArtemisがオルティジア島で生まれた話を紹介した。
 全知全能の神ゼウスZeusには姉で正妻のヘラHeraがいたが、ゼウスは浮気者でレートーLetoに言い寄る。ゼウスには正妻がいるから、レートーはゼウスの誘いをはねつける。ゼウスは鶉ウズラに変身して水浴び中のレートーに近寄り、力尽くで襲う。レートーの妊娠を知ったヘラは嫉妬し、レートーを追放する。レートーはヘラから身を隠し、オルティジア島で双子の姉アルテミスを生み、ロードス島で弟アポロンapollonを生んだそうだ。
 ‥2014年のギリシャツアーで訪ねたデロス島にはアポロン神殿跡、アルテミス神殿跡があり、ヘラから身を隠したレートーはデロス島で双子のアルテミス、アポロンを生んだとの解説を聞いた。神話だから諸説が伝承されているのだろうが、オルティジア島でアルテミスを生んでから、直線で1200kmも離れたロードス島に渡りアポロンを生むというのは神話でも無理を感じる‥

 車窓の街並みを見ていて、ユニークなデザインの教会堂を見つけた(写真)。地図を照合すると、Sntuario della Madonna delle Lacrime涙の聖母の聖域らしい。
 直径80mの円形の聖域の上に高さ74mほどの円錐形が伸び上がり、遠くからでも斬新なデザインを目にすることができる。
 あとで由来を調べた。信心深い若い夫婦がここに住んでいた。妻は妊娠したが、日に日に目が悪くなっていった。毎日、石膏のマリア像に祈りを捧げていたところ、1953年8月29日、聖母マリア像の目から涙が流れ落ち、祈っていた妻の目を濡らして、目が治る奇跡が起きた。その奇跡を聞いて集まった人々も聖母マリア像の目から落ちる涙を見た。その話が教皇庁にも届き、調査の結果、聖母マリア像の奇跡が公認された。その後、奇跡の場所に聖所の建設が進められ、1990年に完成したそうだ。
 ‥2004年のポルトガルツアーで聖母マリア出現のファティマ、2013年のフランスツアーで奇跡の聖水のルルドを訪ねた。無心な祈りが奇跡を呼ぶようだ‥。   (2021.6)

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2020.1シチリアの旅23 バロック様式で再建されたラグーザ2

2021年06月21日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 23 バロック様式で再建されたラグーザ 2

 シチリアの旅6日目、13:00 ごろ、カンチェッレリア宮横の階段をさらに上ると、崖の中腹につくられたつづら折れの道路に出る。往復2車線で歩道はなく、西側は崖で、東側に建物が続いている。車に気をつけながら道路を少し上ると、東側の家並みが切れる。この切れ目から眼下のイブラ地区を遠望することができた(写真)。
 イブラ地区は、崖や急峻な斜面を自然の要害にして築かれた街のように見える。遠目からも、市街は入り組み、密集している様子が分かる。写真左手が煉獄の聖墳墓教会なので、その下の駐車場から狭く折れ曲がった階段を上ってきたことになる。バロック様式を眺めながらを上ってきたので、高低差はさほど気にならなかった。
 
 イブラ地区の遠望を終え、階段を下り、途中からイブラ地区北西に向かって歩き、狭く折れ曲がった石畳の道に折れる。13:10過ぎ、石積みの2階建てが続いているなかの一軒で、外壁は白のプラスターで改装されたLa Terrazza dell'Rologioに入る。レストランのカードには時計塔が描かれている。屋階には展望のいいテラス席があるらしい。時計塔の近くの展望のいいテラスを縮めて、時計テラスと名付けたようだ。
 中は天井の高い石積みアーチ構造で、白く仕上げられ、明かりも入り、広々と感じる(写真)。

 前菜はシチリア発祥の野菜煮込みカポナータcaponataとシチリアでは定番の米コロッケアランチーニarancino(次頁写真左)である。カポナータもアランチーニも私には珍しいが、ヨーロッパのどこかで食べた記憶がある。材料が共通するから、日本のどこかで食べているかも知れない。
 主菜は食べ慣れたポーク=イタリア語maiale(上写真右)なので、赤ワインを頼んだら、シチリア産ネロ・ダーヴォラNero d'Avola(8ユーロ)が運ばれてきた(写真)。
 大きなワイングラスを回すとラズベリー?の香りを感じる。味わいはタンニンが効いたフルボディである。ワインを楽しみながら、ポークをいただいた。
 デザートは北イタリア生まれのテラミス=イタリア語tiramisuで、語源はtirami su=私を引っ張り上げて→私を元気づけて、だそうだ。日ごろケーキなど甘い物は食べないからテラミスの甘さは私の限界を超えるが、この甘さが元気の源かも知れない。
 料理、ワイン、ケーキの説明をメモしながら、1時間余のランチを楽しむ。

 レストランを出て、狭く折れ曲がった道を東に歩く。バロック様式の建物が続いた石畳の道は、折れ曲がるだけではなく、狭くなったり広くなったりしている。この道の作り方がアラブ人の侵略への備えだったようだ。
 道はVia Tenente di Stefano=ステファノ中尉通りからVia Capitano Bocchieri=ボッキエリ大尉通り、そしてVia duomoドゥオーモ通りへと名を変えていく。同じ道なのに名前が変わる理由は分からないが、中尉通り、大尉通りとは戦時の名残だろうか。
 ほとんどの建物がバルコニーを設けていて、その多くは腕木のような単純な持ち送りだったが、大尉通りからドゥオーモ通りに変わるあたりに建つロッカ宮Palazzo la Roccaの持ち送りmensolaはさまざまな人型が彫刻されていた(写真)。
 ロッカ宮は1760~1780年ごろにロッカ男爵が建てた館で、持ち送りの彫刻はバルコニーごとにすべて異なり、抱き合う二人、変形した顔、楽器を奏でる人などの彫刻が通り過ぎる人々を見下ろしている。

 ロッカ宮を過ぎるとドゥオーモ通りは大聖堂の西壁に沿って北に迂回する。道が狭いので大聖堂の形は見えないが、大聖堂北壁の途中の階段の上に入口が設けられている・・私たちのツアーはバロック様式の街並み見学なので拝観していない・・。
 黄色みの石積み壁を見ながらドゥオーモ通りを東に抜けると圧倒する大きさの大聖堂が姿を表す。大聖堂は正式にはサン・ジョルジョ大聖堂Duomo di San Giorgioと呼ばれる。ドラゴンを倒した聖ジョルジョgiorgio=聖ゲオルギオスgeorgiosは、ラグーザの守護聖人である。
 もともと、いまの大聖堂を下った突き当たりのイブレオ庭園近くに、守護聖人聖ジョルジョに捧げたカタルーニャ・ゴシック様式のサン・ジョルジョ大聖堂が建っていた。
 1693年の大地震で大聖堂は大きな被害を受けた。被害の少ない礼拝堂などを使い教会は維持されたが、1738年、現在地にバロック様式で新たな大聖堂の建設が始まり、1776年に完成した。
 もともとの場所には、ラグーザの地図にはSan Giorgio Vecchio、googlmapにはportale di San Girogioと記されているから、旧サン・ジョルジョ教会の正面ファサードの扉口=イタリア語portaleの遺構が現在も残っているようだ。扉口ポータル=イタリア語ポルターレはカタルーニャ・ゴシック様式らしいが、私たちは見学していない。

 大地震後、イブラ地区の再建と同時にスペリオーレ地区の開発が進み、1865年、イブラ地区とスペリオーレ地区は分離する。それまでサン・ジョルジョ大聖堂がラグーザの司教座だったが、スペリオーレ地区にも大聖堂が置かれたらしい。
 1927年、イブラ地区とスペリオーレ地区が合体する。司教座もどちらかに統合されることになり、議論を重ねた末、イブラ地区のサン・ジョルジョ大聖堂に決着したそうだ‥神様も忙しい‥。
 
 サン・ジョルジョ大聖堂Duomo di San Giorgio(写真)は、ラテン十字平面で東をファサードにし、西にアプスを配置した3身廊である。空にそびえる巨大なドームは1820年に新古典主義で完成した‥その折々に採用された先端的なデザインからも社会の思潮がうかがえる‥。
 大聖堂あたりからイブレオ庭園に向かって東傾斜になっている。東のドゥオーモ広場側から見ると、大聖堂は250段の大階段の上に建てられているため、偉容が誇張されている。言い換えれば、偉容を誇張するために250段の階段+東下がりのドゥオーモ広場を計画したようだ。
 ファサードの中央身廊部分を3層にし、弓形に張り出させ、両脇の円柱3本は奥行き方向にずらして配置している。ファサードの側廊部分は1層と低くし、身廊部分より奥に一段下げ、両脇の円柱3本も奥行き方向にずらしている。遠近法でファサードの偉容をさらに強調する仕掛けである。
 ファサード3層目の聖人はペテロとパウロだそうだ。2層目は走り書きのメモが怪しいので確証はないが、サン・ジョルジョ=聖ゲオルギオスとセント・ジェームズ=聖ヤコブらしい。

 ドゥオーモ広場を東に下り、1756~1796年に建てられたバロック様式のサン・ジュゼッペ教会Chiesa diSan Giuseppeの横を通り過ぎる(写真)。
 サン・ジュゼッペ=聖ヨセフ教会は、ファサード中央の3層を弓形に張り出させ、左右側廊に相当する部分のファサードは1層に抑えて中央部分より後退させるなど、サン・ジョルジョ大聖堂のデザインに似ている。その一方、ファサード中央両脇の円柱は三角に配置し、ファサード最上層に3個の鐘を並べるなど、大聖堂との相違点も少なくない。
 先に完成した大聖堂の建築家が少し趣向を変えたとも思えるが、若手建築家が大聖堂を手本にデザインしたのではないだろうか。大地震後、膨大な建物の再建、新築が行われていたから、腕の立つ著名な建築家は重要な建物、高貴な館を手がけ、それらを手本に若手建築家が腕を磨いたのは自然の成り行きではないだろうか。

 下りきるとイブレオ庭園Giardeno Ibleoで行き止まりになる(写真)。ここでバロックの街並み見学は終わりである。
 イブレオ庭園の東は崖だそうだ。イブラ地区は、東側、北側、南側は崖で、西は谷を挟んでスペリオーレ地区に接しているから、陸地の孤島といえる立地を選んで計画された街だったことが分かる(写真、帰路のイブラ地区遠景)。
 イブレオ庭園あたりは教会、館が建っていたらしいが、大地震で倒壊し、1858年に庭園として整備された。ヤシの並木の庭園は散策に良さそうだし、近くには前述した旧サン・ジョルジョ大聖堂の入口遺構などの見どころもあるらしい。が、時計は15:15、La Terrazza dell'Rologioを出てからたっぷり1時間以上歩いた。午前もノートをたっぷり歩いている。バロックの街歩きを終えて、バスに乗る。

 シラクーサに戻るには地中海側の道路で南東に向かい、イオニア海側の道路で北東に走る。ラグーザを出てすぐに前掲写真のイブラ地区を遠望する。
 ラグーザから25分ほどで、ノート、ラグーザとともに世界遺産ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の街であるモディカModicaを遠望する(写真)。ノート、ラグーザと同じ歴史をたどり、アラブ人の侵攻で要塞化されたそうだ
 1693年の大地震で大きな被害を受け、要塞化された街並みがバロック様式で再建された。遠望した限りではラグーザ・イブラ地区よりも密集しているように見える。
 遠望を終え、シラクーサ・オルティジアに直行する。17:00ごろ、駐車場に着いた。  (2021.6)

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2020.1シチリアの旅22 バロック様式で再建されたラグーザ1

2021年06月16日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 22 バロック様式で再建されたラグーザ 1

 シチリアの旅6日目、11:30ごろ、ノートをあとにしたバスはラグーザRagusaに向かう。ラグーザはノートの西、直線で30kmぐらいだが、イブレイ山Monte Ibleiを始めとする急峻な山並みがせめぎ合っているため、いったん南西に向かい、北西に向きを変え、世界遺産ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の街々の一つ、モディカModicaを抜けていくので、およそ40km、バスでは1時間半ほどかかる。

 現在のラグーザは、人口約73000人の基礎自治体コムーネで、ラグーザ県の県都である。ラグーザ市街はサン・レオナルド谷、サンタ・ドメニカ谷に挟まれた標高500m前後の石灰岩の丘の上に位置するが、ラグーザ市域は標高860mほどの山あいから、市街から南西22~23km先の海まで広がっている。
 もともと標高300mほどの丘にシクリ人の一部族が住んでいた。ギリシャ植民都市との交流があり港を利用して発展したとの説もあるが、ギリシャ植民都市の膨張?で標高500mぐらいの現ラグーザ・イブラ地区に移住したらしい(図参照、イブラ地区は右の旧市街)。
 カルタゴ支配ののち、東ローマ帝国はラグーザを要塞化した。848年、アラブ人がラグーザを支配した・・イブラ地区の通りは狭く迷路状なのはアラブ人の侵略を防ぐためとの説もある・・。
 11世紀のノルマン人征服後、初代シチリア伯ルッジェーロ1世の子ゴッフレードGoffredoがラグーザ伯となり、ラグーザを県都にした。シチリア王国下でラグーザは発展した。

 1693年の巨大地震で大きな被害を受ける。イブラ地区はバロック様式で再建された。新たに標高の高いラグーザ・スペリオーレRagusa Superiore=上ラグーザも開発された。
 ラグーザ・スペリオーレに対し、標高の低いイブラ地区はラグーザ・インフェリオーレRagusa Inferiore=下ラグーザと呼ばれた。スペリオーレとインフェリオーレはポンティ谷によって分断されていたが橋が架けられ、1927年、ファシスト政権下で一つに合体し県都になった。
 ラグーザ・スペリオーレの開発でもバロック様式が採用され、見どころが多いようだが、私たちのツアーはスペリオーレ地区東端でバスを降り、イブラ地区を見学し、イブラ地区東端でバスに乗ルコースを歩いた(図参照)。

 12:40過ぎ、ラグーザ駐車場でバスを降りる(図、中ほどやや左「バス降りる」)。地図を見るとスペリオーレ地区の東端で、いろは坂を思わせるように蛇行した道路がスプリオーレ地区に上っている・・かなりの急斜面で、後ほど実感する・・。いろは坂状の道路を縫うように階段が高台と低地をつないでいる・・階段も実感する・・。
 駐車場から坂道を上ると、レプッブリカ広場Piazza della Repubblica=共和国広場に出る。広場の東側に、西面をファサードにしたChiesa delle Santissime Anime del Purgatorio=煉獄の聖墳墓教会が建っている(写真)。黄色みの石灰岩とバロック様式のデザインのため重々しい感じはない。
 教会の切妻破風ペディメントには1757と刻まれている。1757年の再建のようだ。コリント式オーダーを乗せた円柱、軒下、壁の蛇腹soffietto、破断した弓形ペディメント、入口上部の祈りを捧げる天使?の小さな像など、バロック様式の典型がうかがえる。

 レプッブリカ広場から北西に少し上った左もバロック様式で、バルコニーの持ち送りmensolaは、獣?の顔と人?の顔が二段になっていた(写真)。グロテスクな彫刻の持ち送りはノートでも見たが、二段は珍しい。
 角の柱は大きな切石を積み重ね、途中に聖人を飾っている。白みがかった石積みの柱は黄色みがかった壁面より張り出していて、がっしりした印象を感じさせる。地図にはPalazzo Cosentinコゼンティニ宮と記されていた。1779年の再建らしい。

 コゼンティニ館手前の階段を上ると、階段の途中にサンタ・マリア・デッリトリア教会Chiesa di Santa Maria dell'ltriaが建つ(写真)。1639年にマルタ騎士団=イタリア語Cavalieri di Malta モディカ伯爵が再建したローマカトリックの教会である。1693年の大地震では大きな被害がなかったが、その後バロック様式に改装され、南向きのファサードは1740年に完成した。

 アーチ門の木扉には、左扉に王冠をのせたM、右扉にマルタ騎士団の紋章であるマルタ十字が浮き彫りされている(写真)。Mariaなら光輪がふさわしいから、マルタ騎士団のMかも知れない。
 1999年12月にマルタ共和国を訪ね、マルタ騎士団を学んだ。12世紀、十字軍時代にパレスチナに発祥した聖ヨハネ騎士団が、イスラム勢力に追われてロードス島に移りロードス騎士団と呼ばれ、オスマン帝国に追われてマルタ島に移りマルタ騎士団と呼ばれた。その後、マルタ島にナポレオンが侵攻、マルタ騎士団はローマに本拠を移す。マルタはシチリアの目と鼻の先だから、ラグーザにマルタ騎士団の痕跡があっても不思議ではない。
 ナポレオン後のマルタ島はイギリスが支配し、イギリス領マルタ、英連邦自治領マルタ国を経て、現在はマルタ共和国である。
 マルタ十字は4つのV字型が十字に配置されている。4つのV字の8つの角は、マルタ騎士団の8つの美徳である忠誠心、敬虔さ、率直さ、勇敢さ、名誉、死を恐れないこと、弱者の庇護、教会への敬意を象徴している、などを復習する。
 
 教会前の階段をさらに上ると、カンチェッレリア宮Palazzo del Cancelleria vecchio前広場に出る(写真)。もとはニカストロ家の館で、1693年の大地震後にバロック様式で再建された。その後も増改築が行われたようで、1760年に完成した。
 ニカストロ館を通る階段は、低い旧市街のイブラ地区と新たに開発された高いスペリオーレ地区をつないでいて立地がいいことから、1840年からPalazzo del Cancelleria市長官邸として利用された。
 ところが1865年、イブラ地区とスペリオーレ地区が分離してしまい、1927年には改めて合体することになる。その間に、階段でしかアクセスできない市長官邸は嫌われ、利便のいい場所に移ったようだ。vecchio=「古い」はそうした歴史を表しているのであろう・・ついでながら、del Cancelleriaは「首相の」意味だが大げさすぎるので市長に意訳した・・。

 カンチェッレリア宮は黄色みの石灰岩でつくられているが、入口周りは白みの石灰岩で入口を強調している。市長官邸後の改修かも知れない。石積みの付け柱の上には変形への字形の庇が伸び出している。2階バルコニーを支える持ち送りは人面彫刻はないが、3段の腕木が伸び出している。2階弓形アーチ窓の周りは、人面レリーフ、破断した弓形ペディメント、柱頭の付けオーダーなど大げさにで飾られている。間口の狭いファサードだが、官邸の威厳を表そうとしたのかも知れない。 続く(2021.6)

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2020.1シチリアの旅21 バロック様式で再建されたノート 2

2021年06月10日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 21  バロック様式で再建されたノート 2

 シチリアの旅6日目、10:30ごろ、サンタ・キアラ教会あたりから黄色みの石壁の先に緑が見え、視界が開けて市庁舎広場Piazza Municipioに出る。通りの右手北側に大聖堂、左手南側に市庁舎が向かい合っていて、街の中心になっているようだ。
 市庁舎広場の中央は大聖堂に上る大階段で、大階段の左右に刈り込まれた樹木でU字型に囲まれた小広場が並んでいる。石敷き、石壁の街なので緑が目に映える。
 右=東の小広場には街灯が立っているだけだが、左=西の小広場には第2次世界大戦戦没者慰霊碑Monumento ai Caduti nella Grande Guerraのブロンズ像が置かれ、戦争の悲惨を伝えている(写真)。・・イタリアは第1次世界大戦後、ムッソリーニによるファシスト政権に制圧されていたが、第2次世界大戦中の1943年7月、連合軍がシチリア島東南シラクーサ、西南ジェーラに上陸し、イタリア本土に進撃してファシスト政権を倒した。この大戦で多数の犠牲者が出た。戦争の悲惨な記憶を風化させてはいけない・・。

 大聖堂Cattedrale di Notoは幅40m、奥行き50mの大階段の上に建っている。天を突くようにそびえているが、石灰岩の黄色みとバロックのデザインが柔らかさを演出している(写真)。階段は日当たりがいい。若者が腰掛け、談笑している。居心地が良さそうだ。
 1700年代始めに建設が始まり、1776年に完成した。1階、2階ともにコリント式オーダーを乗せた円柱を並べ、中央の切妻破風ペディメントはレリーフはないが段型三角形とし、1階入口上部には弓形ペディメント、アーチ型壁龕に弓形ペディメントをのせるなど、バロック様式を採り入れている。
 正面の青銅扉は、1982年作で、街の守護聖人聖コラードの生涯が描かれているそうだが、扉が開いていたため気づかず見落としてしまった。コラードはかつて戦士だったが、神に助けられたあとノート近郊に隠遁し、コラードが息を引き取ったとき、いまはノートの教会の鐘が自然に鳴り出したとの言い伝えがある。
 平面は3身廊、十字平面の交叉部にクーポラをのせている。1996年、長雨でクーポラと身廊、翼廊の一部が崩れ落ち、復元が進んでいる。壁画、天井画の修復はまだ未完成で石の下地がむき出したままだが、清楚に感じる(写真)。

 大聖堂の向かい、通りの南側はドゥチェツィオ宮殿Palazzo Ducezioで、現在はノート市庁舎として使われている(写真)。1746年に建てられ、当初は平屋だったが、1900年代半ばに2階が増築された。
 ドゥチェツィオは、この地域に住む原住民シケル人の指導者の名前だそうだ・・シチリア西部の原住民はエリミ人、中部はシカニ人・・。シラクーサに入植したギリシャ都市国家コリントとシケル人は友好的で街が発展した。山あいのノートはギリシャ植民に反発したとの説がある。海沿いシラクーサと山あいノートは同じシケル人でも考え方に違いがあったかも知れない。
 宮殿ファサードは北向きで、日陰のせいか石灰岩が茶色に見える。イオニア式をアレンジしたオーダーの円柱がアーチを支えていて、間口9スパンのうち中央3スパンを半円形に張り出させ、1階軒下の蛇腹コーニスには溝形を施している。
 宮殿をリバティ様式として紹介する資料もあった。1900年代に始まるアール・ヌーヴォ様式をイタリアではリバティ様式と呼んでいる。内部を見学していないから推測だが、1900年代半ばの2階増築の際、内装に植物紋様などを多用した新しい芸術思潮であるリバティ様式が採用されたのであろう。対して外観は街並みにあわせ、バロック様式でつくられたようだ。

 ドゥチェツィオ宮殿=市庁舎の次の通りの角は、サン・カルロ教会Chiesa di San Carloである(写真)。3スパンの中央部分を弓形にくぼませたユニークなファサードで、円柱は1階にドリス式、2階にイオニア式、3階にコリント式オーダーを乗せている。入口、窓も半円アーチ、弓形アーチ、角形、変形アーチなど多彩である。設計者、職人がバロック様式を楽しんだようだ。

 サン・カルロ教会の交差点から北に上る坂道は、通りの西側に建つニコラチ館にちなみ、ニコラチ通りVia Nicolaciと呼ばれる(写真)。ニコラチ通りは、毎年5月第3週末に通りが花で埋め尽くされる花祭りで知られているそうだ。壁には昨年の花祭りの様子が展示されていた。
 通りの名前になったニコラチ館Palazzo Nicolaciは、ノートを代表するバロック様式の一つで、1737~1765に建てられた。バルコニーbalconeを支える持ち送りmensolaはグロテスク様式と呼ばれる特異なデザインで、バルコニーごとに異なったデザインが施されている。前頁写真は人魚、右写真は疾走する馬が彫刻され、ほかにアシカ、グリフィン、ケンタウロスなどもある。それぞれに意味が込められているようだがメモしきれなかった。
 貴族ニコラチは裕福だったようで、館は90部屋もある。そのうち10部屋が公開されているが、私たちのツアーは街並みの外観見学なので、ヴィットリオ・エマヌエーレ通りに戻る。

 サン・カルロ教会に続くバロック様式の壁面には人面がレリーフされている(写真)。入口を弓形に張り出し、壁面の蛇腹コーニス=イタリア語soffiettoや飾りペディメントのデザインも多彩である。バロック様式後期とも、イタリア風アール・ヌーヴォ=リバティ様式ともいえる。人面はニコラチ館の持ち送りmensolaに比べればおとなしいが、壁面に施されたバロック様式で華やかさを感じる。

 その先はPiazza 16 Maggio5月16日広場・・由来は後述・・で、右手・北側には植栽が施され中央にヘラクレスの泉、その奥にサン・ドメニコ教会が建つ。広場左手・南側には市立劇場Teatro Comunalが建っている(写真、web転載)。
 1693年の大地震後に再建されたノートに劇場はつくられず、演劇などはドゥチェツィオ宮殿で開催された。1837年、県都シラクーサでブルボン家支配に対する反乱が起きたため県都がノートに移された。県都にふさわしい劇場建設の気運が高まり、1870年、イタリア流アール・ヌーヴォ=リバティ様式で劇場が完成した。外観は県都の威厳を表現しようとしたのか、古典的な様式を採り入れている。内装がリバティ様式なのであろう。
 
 広場北側には植栽の中央にヘラクレスの泉Fontana d'Ercoleが設けられ、ギリシャ神話のネメウスの獅子を退治したヘラクレスが一息している様子の彫刻が飾られている(写真)。ヘラクレス=イタリア語ローマ神話ercoleはローマ神話のネプトゥーヌスと同一視され、ネプトゥーヌスはローマ神話のポセイドン=イタリア語poseidoneと同一視されるそうで、Hさんはポセイドン像として説明した・・ギリシャ神話、ローマ神話に詳しくないと混乱する・・。1300年前につくられたが、この像はコピーらしい。
 1860年、ジュゼッペ・ガリバルディがシチリア島で革命軍を率い進軍するさなかの5月16日、ヘラクレスの像に革命軍のシンボルである3色旗がからまっているのが見つかった。5月16日広場の名はガリバルディの革命にちなんだようだが、由来について資料は触れていない。

 ヘラクレスの泉の北側の高台にサン・ドメニコ教会Chiesa San .Domenicoが建つ(写真)。
1703~1727年建造のバロック様式で、南側ファサードは半円を張り出し、交叉部に8角形の塔状クーポラを乗せている。1階柱はドーリア式オーダー、2階はコリント式オーダーで、壁面、軒下のコーニスsoffiettoや壁面、壁龕、窓周りにバロック様式のデザインを施している。
 教会の左隣はドメニコ派修道院だったが、現在は高等専門学校として使われている。レアーレ門に近いサン・フランチェスカ派修道院も高校として使われていた。日本なら寺院の講堂が学校ということになろうか。知性、理性、悟性に長けた卒業生を期待しよう。

 だいたい11:00、およそ1時間のバロックの街並み見学はここで終わる。レアーレ門11:30集合まで、トイレを含め自由散策になった。レアーレ門まで直線で600mほど、ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを復習しながら、ゆっくり下る。
 Cafe Milanoでエスプレッソ(1ユーロ)を立ち飲みし、トイレを利用する(写真)。・・なんと便座が高いことか!・・。
 レアーレ門に集まったあと、バスでラグーザRagusaに向かった。         (2021.6)

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