つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る
2023.2 岡山城を歩く+宇野へ 新型コロナウイルス感染の5類移行が話題になり、6回目のワクチン接種も終えたので、往復新幹線利用、岡山城、備中松山城、吉備津神社、吉備津彦神社、直島を訪ねた。
初日、新幹線車内で駅弁を食べる。14:00近くに岡山駅着、コインロッカーにキャリーバッグを預ける。駅前で、犬、猿、雉を供にした桃太郎の銅像が迎えてくれた(写真)。
地下道に下り、地上に出て岡山駅前停車場から電気軌道東山線に乗る。4~5分で城下停車場に着く。
東に歩く。視界が開け、北から流れてきた旭川がクランク状に東に折れてまた南に流れていく。クランクの南の丘に岡山城がそびえている(写真、奥が天守閣、手前が月見櫓)。旭川の対岸は後楽園である・・後楽園は2016年3月に訪ねた(HP「2016.3後楽園」参照)・・。
旭川のこのあたりはかつてデルタ地帯で、旭川から西に岡山、石山、天神山と呼ばれる標高10~15mの丘があった。南北朝時代に石山に城が築かれ、戦国時代1570年に宇喜多直家が石山の城を勝ち取る。宇喜多直家の跡を継いだ宇喜多秀家は1590年に石山から岡山に本拠を移し、1597年、天守を構えた岡山城が完成する。
少し前、中国地方では毛利氏が台頭、織田信長が室町幕府を倒し、本能寺の変以降に信長に代わり天下を治めようと豊臣秀吉が四国に続き九州を平定していた。一方で徳川家康が勢力を集め、秀吉没後、東軍、西軍の戦いへと展開する。
西軍に与した宇喜多秀家は、堅固な城造りを目指したに違いない。旭川と旭川から引いた堀は防備であり、同時に瀬戸内海を経て進軍することも出来る。周辺はデルタ地帯で防備に適い、丘に石垣を築いて天守閣を構えた。
しかし、1600年、宇喜多軍は徳川家康率いる東軍に破れ、秀家は遠島に処される。代わって小早川秀秋が岡山城主となる。小早川秀秋は岡山城の改修に着手するが跡継ぎの無いまま急死して小早川家は断絶となり、池田輝正が岡山城に入る。
以降、池田家が岡山城主となり、明治維新を迎える。天守閣は明治維新後も残ったが戦災で焼失、1966年、天守閣は取り壊された廊下門、不明門とともに外観が復元された。
旭川に沿って土手上の遊歩道を歩く。右手は住宅地で低い。かつてのデルタ地帯が住宅地として開発されたようだ。旭川から水を引いた内堀があるはずだが、住宅地に隠れて見えない。
旭川に月見橋が架かっている。渡った先は後楽園である。後楽園での遊行の行き帰りに月を眺めたのであろう。戦いの無い江戸時代、優雅に暮らしたようだ。
橋を通り過ぎ右に折れると廊下門が構えている(写真)。岡山城の北外れになる搦め手の門である。2階櫓が廊下を兼ねていて、城主はこの廊下を利用して表書院に出向いたそうだ。
後楽園への行き来にも都合がいいから、大いに利用されたのではないだろうか。明治維新後取り壊されたが、1966年に外観が再現された。
本丸の石垣に沿って南に歩く。右=西は二の丸に相当し、政務を行う表書院が建っていた。いまは空地に建物の位置や間取りが示され、当初の石垣が公開されている(次頁写真)。
二の丸南に不明門(あかずのもん)が構えている(前掲写真)。城主の居住する本丸御殿には限られた人しか入れないので、普段、この門は閉ざされていたことから不明門と名づけられた。城主は廊下門から二の丸、表書院に出向いたようだ。明治維新後取り壊されたが、1966年、外観が再現された。
不明門を抜けると本丸である。北外れ、旭川沿いの崖を背にして1966年に外観が再現された天守閣が建つ(写真、左端は塩蔵)。
黒塗りで烏城と呼ばれた。石垣部分の地下1階、地上6階、高さ20mほどの偉容を誇る。昭和初期に詳細な測量がされたので、戦災で焼失後も外観を再現できたそうだ。6階の千鳥破風、5階の唐破風、3階の千鳥破風は白い漆喰で仕上げられていて、黒のどっしりとした外観に優美さを加えている。
石垣に設けられた地下1階入口で400円の入城券を購入する。まずは最上階=6階まで階段を上る。窓から旭川、後楽園、デルタ地帯を開発した市街を眺める。
5階は城下町の模型が展示され、4階は宇喜多家のパネル展示、3階は関ヶ原の戦いのパネル展示、2階は池田家のパネル展示と城主の間の実物大模型、1階は体験コーナーで、地下1階に絵図や本丸の模型が展示されている。
見学を終え、天守閣を出て隣接する塩蔵横の坂道を下る。石垣下から天守閣を見上げると天守台の不整形が分かる。不等辺五角形平面だそうで、もともとの地盤にあわせて石垣を築き、天守台を造成したためといわれる。天守閣のなかを見学しているときは気づかなかったが、石垣=地下1階、1階は不等辺五角形だったようだ。
二の丸の北西に月見櫓が建つ(次頁写真、重要文化財)。寛永年間の1620年代に、池田忠雄が築いた櫓である。二の丸から見ると3階だが、城外=三の丸から見上げると1階部分は石垣に隠れ、2階に見える。
豊臣の残党や徳川に刃向かう勢力を想定し防備を固めながらも、月見を楽しむ仕掛けもした、和戦両様の構えだそうだ。
城下停車場から電気軌道東山線に乗り、岡山駅でキャリーバッグを出し、JR宇野みなと線に乗る。今日の宿は宇野みなと線終点の宇野駅前にある。およそ1時間、のんびり車外を眺める。高校生が乗り合わせていて、にぎやかである。若さは素晴らし財産と思う。
17:00前に宇野駅に着いた(写真)。大学のころ、宇高連絡船で高松に行った。60年近い昔のことなので記憶が怪しいが、列車ごと連絡船に乗ったのではないだろうか。
現在の駅舎は1994年の建設で、2016年、瀬戸内国際芸術祭の一貫でイタリア人デザイナーが外壁をデザインしたそうだ。
駅近のホテルにチェックインする。港を一回りする。風が冷たい。ホテルで港を眺めながら(左写真)、岡山牛、瀬戸内海の幸、岡山野菜のフレンチコースをいただく(右写真)。 続く(2023.11)
2023.10 プラザノース with you コンサートを聴く さいたま市プラザノースホールで、さいたま市にゆかりのある音楽家4組のコンサートが開かれた(ポスターweb転載)。1組が30分ほど演奏し、次の組と交代する。交代の間合いはあるが休憩はなく、2時間ほどの演奏会になった。
全体に共通したテーマは無く、それぞれが持ち味を出し、得意な演奏を披露してくれた。個々の演奏は楽しめたが、共通のテーマを4組がそれぞれに解釈し、それぞれの得意な演奏スタイルで演奏してくれた方がもっと感動できたように感じた。
最初は、夏目恭宏&友田有香夫婦のYN Piano Duoのピアノ演奏である。なかよく1台のピアノを若い夫婦2人で連弾し、
1.「くるみ割り人形」より花のワルツ チャイコフスキー作曲、夏目恭宏編曲
2.「剣の舞」 ハチャトゥリアン作曲、G.アンダーソン編曲
3.「パヴァーヌOp.50」 フォーレ作曲、夏目恭宏編曲
4.「ハンガリー舞曲第5番」 ブラームス作曲
5.「喜歌劇「天国と地獄」よりカンカン」 オッフェンバック作曲、夏目恭宏編曲 を弾いてくれた。
曲ごとに夫婦が解説や小話をしてくれ、聞き慣れた曲だったこともあり、くつろいで演奏を楽しんだ。
2番手は吉尾悠希がサクソフォンを奏で、馬場春秀がピアノを伴奏して
1.「アヴェ・マリア」 J.S.バッハ・Ch.グノー作曲
2.「無伴奏ヴァイオリンのためパルティータ第2番BWW1004よりシャコンヌ」 J.S.バッハ作曲、R.シューマン加筆 を演奏してくれた。
長いことサクソンフォンは金管楽器と思っていたが、金管楽器が唇の振動で音を出すのに対し、サクソフォンはイネ科の多年草であるダンチクで作られたリードを振動させて音を出す木管楽器だそうだ。楽器に疎いと楽器の形にとらわれ勘違いしてしまう。
サクソフォンは音域が広く重厚感を感じた。吉尾氏は体を躍動させながら熱演してくれた。
3番手は女性3人のTrio Brilleである。brilleはドイツ語でメガネの意味だそうだ。3人ともメガネをかけていなかった。なぜbrilleと名づけたかは聞き漏らした。
テーマは「ユーフォニアムとヴァイオリンのアンサンブルへの挑戦」だそうだ。ユーフォニアムは、チューバに似たチューバより小さい金管楽器である。ピアノとユーフォニアムとヴァイオリンのアンサンブルで
1.「ホロ・スタッカート」 ディニク作曲
2.「カノン」 パッヘルベル作曲
3.「情熱大陸」 葉加瀬太郎作曲 を演奏してくれた。ピアノとユーフォニアムとヴァイオリンを得意とする仲良し3人の息の合った熱演を楽しんだ。
4番手は「和楽器で埼玉愛」を合言葉にした和楽器カルテット サイタマテックである。和楽器は三味線、尺八、琴、25弦箏で、埼玉の伝統・文化・名産等をモチーフとしたオリジナル楽曲を中心に地域に根ざした活動を展開していて、
1.「Wishing the ocean」 宮城道雄原曲、サイタマテック編曲
2.「鉄道の街」 田辺明作曲
3.「盆栽の街」 田辺明作曲 を演奏してくれた。
大宮には鉄道博物館、盆栽美術館があるから鉄道の街、盆栽の街は間違いないが、曲の雰囲気から鉄道、盆栽は感じにくかった。和楽器の演奏を聴く機会はほとんど無くなったので、久しぶりに宮城道雄を聴いた。和楽器の演奏会を期待したい。
4組が順番に演奏していくので、和楽器カルテット演奏が終わると演奏会は終了である。4組が勢揃いすることもないし、アンコールも無い。締めが欲しいね。
総合司会がwith youコンサートの趣旨を説明し、1組ごとに演奏者を紹介、演奏終了後に演奏者は拍手に応えて退場、司会が次の組を紹介・・,最後に演奏会終了を告げるなど、コンサートの起承転結が欲しい。できれば最後に出場4組が勢揃いし、会場の拍手を受けて散会を期待したい。 (2023.11)
2023.1 京都 二条城を歩く2/2 二の丸御殿・二の丸庭園・本丸+神泉苑+京都タワー 式台の西に大広間が続く。大広間南廊下に面して三の間、二の間が並び、廊下は二の間で北に折れ、二の間の北に一の間が並ぶ。
三の間の正面、二の間に続く左面の襖の境目に大げさなほど太い松が描かれ、松の枝が正面襖の右上と、左面襖の左上に枝をくねらせながら大きく伸び出している(写真web転載)。
その松に目を取られるが、襖の上の欄間には厚さが35cmもある桧板に両面から透かし彫りした彫刻が施されていて、目を奪われる。
左面の透かし彫りの反対側を見ようと西廊下に曲がると、二の間、一の間の続き間が目に飛び込み、圧倒される(写真web転載、手前が二の間、奥が一の間、手前右上が透かし彫りの欄間)。
一の間=上段の間が将軍の席で、床が一段高くなり、奥に床の間、違棚、付書院を備え、右手を帳台構とし、障壁画には狩野探幽による松が描かれている。
二の間=下段の間に描かれている松は一の間に向かって枝を伸ばす。松の枝で奥行き感を出し、将軍の威厳を高める演出である。
1611年、家康が豊臣秀頼と面会したのも、1614年、家康が冬の陣、夏の陣の軍議を開いたのも、1626年、後水尾天皇の行幸のときも、そして1867年、徳川慶喜が大政奉還を表明したのも一の間+二の間である。テレビなどで何度も見聞きしていて知識はあっても、その現場にいると改めて歴史を実感する。
いままで見てきた遠侍、式台、大広間三の間はいずれも格天井で狩野派による絵が描かれていた。大広間一の間、二の間の天井も狩野派の絵が描かれているが、二の間は折り上げ格天井とし、一の間の将軍着座の真上はもう一段折り上げにした二重折り上げ天井としている。将軍の威厳を高める演出である。
大広間一の間、二の間の西廊下の北は蘇鉄の間と呼ばれる廊下が続く。庭に蘇鉄が植えられていることから蘇鉄の間と呼ばれた(写真web転載、右奥が大広間、左奥が蘇鉄の間)。
蘇鉄の間の先は徳川ゆかりの者、将軍に招かれた者しか立入りできない。通常時の見学順路にも黒書院、白書院は含まれないらしいが、この日は特別入室期間?で、蘇鉄の間を過ぎて西の廊下を歩きながら黒書院三の間、二の間を見学する。
蘇鉄の間の突き当たりを左=西に折れると黒書院三の間、二の間が並び、二の間を右=北に折れると一の間が続く。
一の間、二の間には桜が描かれていて桜の間とも呼ばれる(写真web転載、二の間から一の間を見る)。将軍の背にあたる床の間には長寿、繁栄を象徴する松が描かれている。梅の花も添えられていて、春を感じさせる。
黒書院西の廊下を進むと白書院で、南側に並ぶ二の間、三の間までが見学順路である。白書院は将軍の居間、寝所として使われた(写真web転載、外観)。
障壁画、襖絵は水墨画で、二の間、一の間には中国・西湖の風景が描かれている。風水の水墨画が気持ちが和み、寛げるようだ。
帰りの見学順路は、白書院二の間、三の間からUターンし、黒書院北の廊下から一の間、四の間を見て、蘇鉄の間を通り、大広間北の廊下から一の間、四の間を見学する。
大広間四の間の障壁画は「松鷹図」と呼ばれ、天井まで伸び上がったダイナミックな松に鷹が止まってにらみを効かせている。勇壮さを感じる(写真web転載)。
大広間四の間の北廊下を右=南に折れ、左=東に折れて、式台北の廊下から老中の間を見る。そのまま遠侍北の廊下になり、遠侍一の間、勅使の間、廊下突き当たりを右=南に折れ、遠侍若松の間、柳の間を見る。勅使の間、若松の間は朝廷の公家を迎える部屋で障壁画、襖絵は優美な雰囲気の風景が描かれ、大名を迎える部屋とは趣向を変えている。
車寄せに戻り、外に出る。45分ほど、冷たい廊下を歩いたのですっかり冷えた。徳川の威光をこれでもかと演出した絢爛豪華さに圧倒された。戦国時代を制覇した徳川は、全国の大名のみならず朝廷、公家に対して威光の演出が不可欠だったのであろう。建築技術、絵画、工芸は極度に洗練されたと思う。
でも、茅葺きの住まいで藁にくるまって寝ている農民とのあまりの落差に気持ちが晴れない。それも気分を冷え冷えと感じさせたのかも知れない。
二の丸御殿の西に特別名勝に指定されている二の丸庭園が広がる(写真)。池の中央に蓬莱島を配した書院造庭園である。1626年の後水尾天皇の行幸にあわせ、小堀遠州が手を加えたそうだ。
都の喧噪を忘れさせ、石を組みながらも自然のなかを回遊している気分になりそうである。
二の丸庭園の西が本丸である。本丸を囲んで方形の内堀が掘られていて、東橋を渡り、本丸櫓門から入る。本丸櫓門は1626年の後水尾天皇行幸にあわせて造られたらしい(写真)。万が一敵が攻め込んできたときは木橋を落とし、銅扉で鉄砲を防ぐ造りである。
後水尾天皇行幸のときは、二の丸御殿から2階建ての畳廊下が天守閣まで設けられ、天皇は地上を歩くこと無く天守閣に上ったと伝えられている。
天守閣は焼失し、いまは天守台が残されている。天守台に上り、本丸御殿をながめる(写真web転載)。
現在の本丸御殿は1893年に移築された桂宮御殿で、重要文化財に指定されている。見学はできない。
天守台を下りたあと、西橋を出て、北の清流園をながめ、北大手門を遠望する(写真、重要文化財)。東大手門とほぼ同じ大きさ、同じ造りである。
南に折れ、展示収蔵館を見る。障壁画の原画が展示されている。障壁画を間近で鑑賞できるが、二の丸御殿のそれぞれの部屋の障壁画、襖絵、天井絵の方が歴史を実感できる、と思う。
番所を通り、東大手門を出る。
堀川通から二条城の外堀に沿って南に歩き、押小路通を右=西に曲がって少し歩くと神泉苑の北門がある。苑内に入ると法成就(ほうじょうじゅ)池と呼ばれる大池があり、法成就池の中島に建つ善女龍王社に渡る朱塗りの法成橋が架かっている(写真web転載、左に法成橋、右に善女龍王社)。
50代桓武天皇のころ、大内裏は現在の御所より西に位置していて、794年、桓武天皇は大内裏の南東隣に宮中付属の庭園を造園した。神泉苑の始まりである。南北4町≒440m、東西3町≒330mで、乾臨閣、釣殿、滝殿が設けられ、歴代天皇が行幸し、宴遊、相撲、賦詩(ふし)、さらに桜の花見などを楽しんだそうだ。
各地が大干魃に襲われた824年、弘法大師空海が神泉苑でインドの善女龍王を勧請して祈雨の法を修したところ恵みの雨が降り続いた。恵みの雨が貯まって大池となり法成就池と呼ばれ、善女龍王を祀る善女龍王社が建立された。
願い事して法成橋を渡り、善女龍王社に参拝すると願いがかなうといわれているので、健やかな日々を願い善女龍王社に参拝する。
善女龍王社の南には石橋が架かっている。石橋を渡り、天満宮、弁天堂、鎮守稲荷社に一礼し、鎮守稲荷社から先は通行止めなので、参道に戻り南に建つ大鳥居で一礼する(写真、正面奥が善女龍王社)。
大鳥居は御池通に面していて、御池通を東に歩き、堀川通を左=北に折れて宿に戻る。一休みし、キャリーバッグを受け取り、押小路通を西に7~8分歩いて二条駅から京都駅に向かう。
ランチには少し早かったので高さ131mの京都タワーに上った。京都タワーは1964年、山田守の設計で、厚さ12~22mmの特殊鋼で円筒形の塔身をつくるモノコック構造で造られた。当時、古都の景観を損なうと反対運動が起きた。私もそう思いこれまで上ったことが無かったが、建設以来50年を過ぎた。古都の景観に違和感はあるが、存在は否定できない。
塔から南の東寺五重塔(左写真)や北の東本願寺(右写真)に一礼する。古都の象徴を残しながら、京都は少しずつ変容している。
京都タワーを下り、食事処をいくつかのぞいたがどこも時間がかかるという。新幹線に直結した構内の総本家にしんそば松葉に入り、生ビールで喉を潤し、天麩羅そばを食べた。
京都には歴史が圧縮されている。歴史を掘り起こし、新しい知見を学んだ。いい旅になった。 (2023.10)
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日本を歩く>
2023.1 京都 二条城を歩く1/2 東大手門・唐門・二の丸御殿 京都3日目、部屋から晴れ渡った風景を眺める。二条城のはるか西の彼方は嵐山、嵯峨野だろうか(写真)。2018年4月に京都三尾の神護寺、西明寺、高山寺を参拝した(HP「2018.4京都を歩く」参照)。人里離れた古寺巡礼で多くの知見を得た。旬の筍料理を堪能した。山並みを眺め、京都三尾の旅を思いだした。
今日は目の前の二条城を歩く。2010年1月の京都の旅で二条城を歩いている(HP「2010.1京都を行く 二条城」参照)。復習しながら新たな発見をしたい。
宿をチェックアウトし、キャリーバッグをフロントに預ける。堀川通を渡り、1300円の入場券を買い、東大手門から入城する(写真、重要文化財)。
二条城は徳川初代将軍家康(1542-1616)が、京都御所の守護と将軍上洛のときの居城として1603年に築城した。造営総奉行は京都所司代の板倉勝重である。豊臣恩顧の武将が健在のなか徳川の威信を示すため、堅固さと壮麗さが求められたと思う。
当初は現在の二の丸部分が建てられ、家康は二の丸御殿に入城した(次頁図web転載)。
話が飛んで、3代将軍家光(1604-1651)は、1626年の後水尾天皇の行幸にあわせて城の拡張整備を進め、東西600mほど、南北400mほどの広さに外堀を巡らせ、二の丸の西に内堀を巡らせた本丸が配置された。本丸の南西隅には伏見城から移築した五重6階の天守閣が建てられた(天守閣は1750年に落雷で焼失し、再建されなかった)。
話を戻して、108代後水尾天皇は徳川家康の計らいで1611年に即位する。家康は即位にあわせて上洛したとき、豊臣秀頼(1593-1615)と二条城で会見する。一説には18歳の秀頼と会った家康は秀頼の凜々しい姿を見て、禍根を残さないために豊臣宗家の滅亡を決意したといわれる。家康は1614年に二条城で大坂冬の陣、夏の陣の軍議を開き、二条城から出陣し、1615年、豊臣家は滅亡する。
時代が下って1863年、14代家茂が3代家光以来になる二条城に入城、1866年、慶喜が二条城で15代将軍を継ぐ。1867年、15代慶喜は二条城大広間で大政奉還を表明する。
二条城は徳川幕府の始まりと終わりを象徴している、といえよう。
東大手門は正門で、2階に櫓を乗せた櫓門として造られた(前掲写真)。1626年、後水尾天皇を迎えるとき、2階櫓から天皇を見下ろすのは不敬であると2階櫓を外し、1662年に改めて2階櫓をのせたそうだ。
柱の上端、下端に金箔を貼った飾金物が付けられている。テレビで城郭研究者が飾金物の一ヶ所に千鳥がいる、と紹介していた。飾職人の遊び心らしい(写真)。目立ちすぎると思うが、造営奉行が見逃してくれたようだ。
東大手門右に城を警固する武士の詰め所である番所が建つ(写真)。かつては12の番所があったそうだが、現在はこの番所のみが残っている。
二の丸は築地塀が巡らされている。東大手門から左に折れ、次いで右に折れると、築地塀のあいだに唐門が建つ(写真、重要文化財)。桧皮葺切妻屋根、前後を唐破風とした四脚門である。上部には彩色鮮やかな松竹梅、鶴と亀、蝶に牡丹など長寿、吉祥を表す彫刻、龍、虎、唐獅子など聖域を守護する霊獣が彫刻されている(写真)。
1626年の後水尾天皇の行幸にあわせ、1625年に建てられた。唐門は柱幅に対し背が高く、屋根が大きく伸び出している。後水尾天皇を迎えるため豪華絢爛さが演出されたのであろうが、同時に、全国の大名に徳川家の威信を示す効果もあっただろうし、豪華絢爛は家光好みだったのであろう。
唐門の先に国宝・二の丸御殿が見える。唐門あたりからは分からないが、二の丸御殿は東南の遠侍、その西に式台、その北西に大広間、北に蘇鉄の間、北西に黒書院、北に白書院と6棟の建物が雁行に連なっている。部屋数はのべ33、総畳数は800畳を超える。
室内の障壁画、襖絵は狩野派により描かれ、欄間彫刻、飾金物で装飾され、将軍徳川の威厳を見せつけている。
遠侍南手前の車寄せが観光客の入口になる(写真、右手前が車寄せ、その左奥が遠侍、あいだに式台をはさみ左が大広間)。
日射しはあるが1月中旬の京都は寒い。見学順路の廊下は冷え冷えする。家康を始めとする将軍、家臣はこの寒さでも威儀を正していたのだから、頭が下がる。
見学順路は一方通行で、遠侍南廊下→式台南廊下→・・・・黒書院南廊下→白書院南廊下→黒書院北廊下→大広間北廊下→・・遠侍北廊下と二の丸御殿を一巡する。廊下は歩くとキ~キ~のような音が出る仕掛けの「鶯張り」である。内部は撮影禁止だがweb上にはたくさんの写真が掲載されている。
遠侍は来殿者の控えの間で、南側に並ぶ柳の間、三の間、二の間を見る。それぞれの部屋には狩野派による竹林に虎、豹が描かれている(写真web転載、二の間)。
中国の古書に母虎から産まれた3匹のうち1匹は豹柄と書かれていて、どこにでも変わり者がいるといった意味との説がある。当時、虎、豹を見る機会は無いから、来殿者は虎、豹に驚かされ、感心したに違いない。
廊下を曲がると式台の南廊下に続く。式台では、来殿者が献上品を差し出し、将軍への取り次ぎが行われた。障壁画は長寿、変わらぬ繁栄を象徴する常緑の松が描かれている。 続く(2023.11)
book558 国銅 上下 箒木蓬生 新潮社 2003 天平21年749年2月3日、行基大僧正が亡くなり、造仏はいったん中止になる。国人は行基の亡くなった菅原寺に行き、葬儀の列について荼毘の場まで行く。荼毘が終わったあと、国人は行基の遺灰をつかもうとして衛士に捕まる。衛士頭の前で詩集を読み上げ、榧葉山の行基の弟子・景信に遺灰を届けたいと言うと見逃してくれた。
2月下旬、6段目の鋳込みのころ、陸奥で黄金が発見される。
7段目の外型づくりのとき、年号が天平感宝に変わり、骨休めになったので若草山で腰痛に効く宿り木を探す。そこで捨て子を見つけ、菅原寺悲田院に届ける。(菅原寺には景信の同僚だった基清がいて、箒木氏は僧侶のあり方も説いているが割愛)。
国人は松林のなかに字を練習するための砂場をつくり、詩集を書き写し、自分でも詩を作った。
7月に7段目の鋳込みが終わる。次に耳から上の外型を作り、10月半ばに大仏の顔の外型、中子ができ、土で覆われた。最終の鋳込みのこしき炉は12基、こしき炉に火を入れ、たたら踏みが始まり、銅がすべて溶け、太鼓の合図で湯口が開き、歓声の中で鋳込みが終わる。
翌朝から盛り土を取り除き、12月始め、台座を残して大仏の全体が現れる。国人は螺髪の鋳造に回される。螺髪はおよそ1000、一つの重さは2貫(7.5kg)もある。台座の上に足場が組まれる。
骨休めの日の夕、国人は日狭女に会いに行き、日狭女を大仏の見えるところに案内する。日狭女は草の上で横になり、国人を受け入れる。
天平感宝2年(天平22年)750年早々、大仏殿の柱が届く。直径は5~6尺(1.5~1.8m)も巨木である。大仏殿の屋根の瓦焼が始まる。
池麻呂が国に帰るので、小ぶりの石臼を国人に贈ってくれた・・衛士に好かれる人足は少ない。国人の人柄である・・。
2月に嶋麻呂が来て、子どもの咳き込みに効く薬草を頼まれ、国人は若草山で茅萱の白穂を集め、嶋麻呂に渡す。
2貫の螺髪を運び上げるとき刀良が足を滑らせ、落ちて死ぬ。
嶋麻呂が来て、薬草で咳が止まった、お礼をしたいので館に会いに来るよう伝え、嶋麻呂の供をして都を歩き、藤原仲麻呂の屋敷前を通って、館に着く。国人の薬草で元気になった奥方と子どもに会い、礼を言われる。
6月、長門周防から来た仲間の3人が年季明けで国に帰ることになった。別の仲間の一人が逃亡する。
国人はたびたび日狭女に会いに行く話も挿入される。
天平勝宝3年751年の年明けに大仏殿の柱がすべて立ち、大仏の周囲東西11間、南北7間に50本近い柱が立つ。
春の終わり、都に来てから4年目になる長門周防の仲間3人が年季明けで国に帰る。
6月末、966の螺髪の取り付けがすべて終わる。
骨休めになり国人は日狭女に会いに行くがいない。不安な気持ちで、日狭女と大仏を見下ろ下場所に行くと新しい墓が作られていた。高さ5尺の丸太には日狭女と書かれている。そこに二見が来て、10日前に死んだ、死期に気づいていて自分で墓標の名前を書いた、と話す。
8月に年季明けで仲間3人が長門周防に帰る。国人たちは造瓦所へ行かされる。東塔の屋根用の瓦である。大仏殿の東と西に七重塔、二層の大仏殿で大仏は見えなくなったが、南大門、大仏殿、大仏殿の2倍の高さの七重塔の眺めは壮観である。
天平勝宝4年752年、国人と逆は鍍金組に行かされ、長門周防の猪手と道足は造瓦所に残された。鍍金は、金片と水銀を混ぜて熱し、溶けた金を刷毛で銅の表面に塗り、燈火で水銀を飛ばす。このとき毒気を吸うと命を落とすことになる。
嶋麻呂が国に帰ることになり、国人は餞別の一貫文と館の奥方からのお礼の写本をもらう。
3月中旬、頭部の鍍金が終わる。大仏開眼供養会が4月8日と予定され、雨のため9日に行われることになった。国人たちは足場を崩し、清掃し、造花の取り付ける。
大仏供養会の始まる前、国人たちは大仏殿の上部に上り、竹籠を吊して待機する。供養会が終わるまでジーとしていなければならない。はるか下で太鼓がなり僧侶の読経が始まり、着飾った貴人の中央に聖武天皇が座る。
菩提僧正が大仏殿に仮設された階段を梁まで上り、梁の上を歩いて竹籠に乗る。国人たちが大仏の目の高さまで竹籠をゆっくり降ろし、僧正は右目、続いて左目に黒目を描き入れる。竹籠をゆっくり引き上げ、僧正は梁を歩き、階段を下りる。
高僧が講話する・・一のなかにすでに十が含まれる、十のなかには一が含まれる・・。国人は意味の深さに気づく。講話が終わると、外で大仏に捧げられる舞が始まる。舞と楽が続くなか、僧侶、貴人たちが帰り始め、国人たちも解放され、急いで厠に走り放尿後、渇いた喉を潤す。
天平勝宝4年752年4月下旬に大仏殿に足場が組まれ、大仏の体の鍍金が始まる。4月末、5年に渡る課役の国人、猪手、道足が年季明けになる。造仏長官公麻呂が口添えしたらしい。国人は作っておいた薬草を背負子に入れ、薬草で元気になった奥方の館に向かう。腰に効く宿り木、手足に効くすい葛、血の道用の益母草、つわりのときのからすびしゃく、咳止めの茅萱、ひびあかぎれの薬を届ける。奥方から絹の反物をもらう・・国人は絹女に似合いそうと思う・・。
④年季明けの国人たちは都から若狭に抜け長門周防に向かうが、奈良登りに帰り着いたのは国人ただ一人
天平勝宝4年752年、能登出身の逆も年季明けになり、4人で若狭まで行き、逆と別れて国人たちは日本海を西に向かうことにする。国人の背負子には行基上人の遺灰、絹の反物、池麻呂からもらった石臼、嶋麻呂からもらった写本と1貫文などを入れてあり、かなり重い。
国人たちは佐保川を渡り、奈良坂を下り、木津に泊まる、舟で泉川を下り、与等津から山背川を上って勢多へ出て、琵琶湖を舟で進み今津へ向かう。今津から山越え3日で若狭に着き、逆は東の敦賀を経て能登へ、国人たち3人は舟で長門周防に向かう。竹野で風のため5日待ち、舟を乗り換えて若狭と長門の真ん中の出雲を過ぎ、浜田で雨のため足止めになる。
道足は食がなくなり、甘葛を食べたいというので猪手が探しに行くが、猪手は3人組に金を取られて殺されてしまう。猪手の埋葬を終えるが、取り調べで3日も浜田に留め置かれる。
ようやく船出し、益田に着く。道足の食はますます細くなり、国人が甘葛を探しに行くが、そのあいだに病の道足が襲われ、国人の背負子の一貫文を盗まれてしまう。2日後に萩行きの舟に乗るが、途中で道足が息を引き取る。死んだ道足を抱いたまま鶴江に着き、寺で経を上げてもらって、翌朝、埋葬する。一人になった国人は野波瀬までの荷船に乗り、野波瀬から奈良登りに向かって山道を歩く。
奈良登りまであと3日、景信に山ほど話がある、絹女に会いたい、19だから結婚していたらお祝いに絹の反物をあげたい、まだ結婚していなくても人足と吹屋頭の娘では身分が違いすぎるから結婚は難しいが、絹女の姿を見て、その声を聞くだけで嬉しいなどと、休みながら夢想する。
奈良登りで自分が掘った銅が、あちらこちらの仏像になる。兄・広国は奈良登りから出ろと言ったが、銅作りに一生を費やしても悔いはないと思うようになる。
途中、村で一泊、山の小屋で一泊、ようやく榧葉山が見えた。景信が彫っていた石仏も見える。完成したようだ。景信に話すことがたくさんある。
瀬瀬川を渡る。吹屋頭の家が見える。人足小屋が見える。5年前と変わらない風景だ。釜屋頭の妻・嶋女に国人はいま帰ったと告げる。2年前の6月に3人、去年の3月と8月に3人ずつ先に帰ったはずだと国人が話すが、釜屋頭は誰も戻っていないと答える。
吹屋頭の家に行く。頭領の家に行く。頭領は嘆いても仕方ない、1人でも戻ったのは嬉しいと泣く。吹屋頭は絹女が死んでから1年、絹女は国人といっしょになりたいと言っていたが病に勝てなかった、と泣く。国人も泣く。
景信は今年の1月、大風であおられて落下、岩の下で冷たくなっていたことを聞く。景信の墓で国人は涙する。景信の小屋に行き、景信が彫った石仏を見上げると右が空白になっていた。景信はここに文字を刻もうとしたらしい。国人の頭に百字が浮かぶ「・・十五人上都 塗炭苦年余 ・・唯一人帰郷・・」。景信、絹女、亡くなった仲間への供養、国人は景信が残した空白に文字を刻もうと決意し、物語は終わる。
冒頭にも述べたが、結末は「景信に会い、行基上人のこと、大仏造営のこと、薬草のこと、文字を覚え詩、歌を作ったことをは語り合い」、「国人は、吹屋頭、頭領、釜屋頭、嶋女に祝福されて絹女と結婚、絹女はお礼にもらった絹の衣を身につけ、体調が悪いときは国人の薬草で元気を回復し」、「人足たちの暮らしが改善され、掘られた銅で各地の仏像が鋳造される」といった幕締めを夢想した。
聖武天皇の詔で始まった盧舎那大仏と大仏殿は、いまは世界遺産として参拝者、観光客を集めているが、造営のために大勢の人足が都に集められ、銅採掘場では国人のように過酷な労働が課されていたことにはなかなか思いが至らない。「国銅」では、国人という健気で向上心があり人を思いやる人足を主人公に、大仏造営の難事業を描き出している。大作である。 (2023.11)