yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2000.8 中国西北シルクロード14 高昌国時代から火焔山山中に掘られたベゼクリク千仏洞

2020年12月31日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 14 高昌国時代に始まるベゼクリク千仏洞

 11:30ごろ、高昌故城をあとにして車で15分ほど北のアスターナ古墓群に寄った。
 道路に車を止め、ガイドのKさんが指さす。茶褐色のゴビタンが広がるなかに無数のボコボコした起伏が見え、ところどころに穴が開いている(写真)。指を指されなければ見過ごしてしまうほどゴビタンと変わらない風景である。
 穴は墓室に下る入り口である。ボコッと盛り上がっているのは、地下墓室を掘るときに掘り出した土に風で吹かれた土が吹き寄せたのであろう。
 高昌国時代から唐の時代にかけて掘られた400余の墓室群だそうだ。壁画が残された墓室、ミイラの見つかった墓室もあり、絹織物や陶器などの副葬品も見つかっているが副葬品の類は博物館に保管、展示されている。一部の墓室が公開されていて、壁画やミイラを見学できるようだ。
 極度の乾燥が墓室の保存を可能にしたのだろうが、ミイラとの対面は気が進まない。遠望するだけにとどめ、ベゼクリク千仏洞に向かう。

 行く手に山並みが見える。山肌のヒダヒダが猛々しいから火焔山に違いない(写真)。
 道路沿いに煉瓦積みの四角い民家が現れ、小さなモスク、ポプラの並木、地に張りついた緑を通り過ぎる。どこかに水源があるようだが、車からは見えない。
 じきに民家も緑も消えた。火焔山のヒダヒダに沿って走ると、堅い茶褐色の土が途切れ赤みを帯びた砂山が現れた(写真)。堅そうに見える山肌も元は土であり、強い風で飛ばされた砂が大きな吹きだまりになるのであろうか。砂山を見つけた地元民?が駱駝乗りを商いにしているようで、観光客の一団が駱駝に乗っている。

 その砂地が終わった先がベゼクリク千仏洞で12:20ごろに着いた。ベゼクリク千仏洞は高昌故城の北22km、トルファン市街から北東50kmの火焔山山中の石窟群である。ムルトウク河が火焔山に谷を削り出し、その崖に6世紀ごろから石窟が掘られ、唐、五大十国、宋を経て元時代まで掘られたそうだ。
 敦煌の莫高窟=千仏洞は、4世紀、楽尊が掘り始め、大勢の仏僧が共感して元時代まで掘り続けられた。勝手な推測だが、莫高窟=千仏洞の話が高昌国に伝わり、地形、地質のよく似たベゼクリクで石窟が掘られ始めたのではないだろうか。

 高昌国は玄奘三蔵を招くほど仏教への信仰心が強く、続く唐も、吐蕃=チベット族も、天山ウイグル王国=ウイグル族も仏教を信仰していたから盛んに石窟が掘られたようだ。
 しかし、モンゴル帝国解体=元滅亡以後の14世紀にイスラム教が浸透した。イスラム教では偶像崇拝は認められていない。ベゼクリク千仏洞に描かれた釈迦像、菩薩像、王族や貴人たちの顔が削られ、泥を塗られ、多くの仏教美術が損壊された。

 清末には、イギリス、ドイツ、ロシア・・、日本も含む外国人探検家が千仏洞の壁画をはぎ取り、持ち出してしまった。ベゼクリク千仏洞の壁画一部分が残っているに過ぎないそうだ。
 持ち出された壁画は、ロンドン・大英博物館、サンクトペテルブルク・エルミタージュ美術館、東京国立博物館、インドの国立博物館などに展示されているそうだ。仏教美術愛好家として、あるいは仏教美術史研究者として壁画を鑑賞するのであれば博物館を訪ねた方が良さそうである。しかし、ゴビタンの強い日射しを浴びながら現地に石窟を訪ね、イスラム教による損壊や外国人探検家による持ち出しの歴史を含め、ベゼクリクの風景のなかで石窟に残された壁画を見れば、800~900年に及ぶ人々の仏教によせる思いに迫れる気がする。それが異文化の旅の醍醐味でもある。

 訪れる人が多いのか、千仏洞の入り口近くに遊牧民が利用するテント住宅が置かれ、土産物などが売られていた(写真)。のぞくとモンゴル族のゲル=パオと構造が少し違う。並んでいる品々も漢民族の色合い、模様とは違う。
 千仏洞の通りで音楽を奏でていた楽器も音色も漢民族とは異なる。音楽にあわせて踊る女性の衣装も顔立ちも、もちろん踊りも漢民族を感じさせない。
 高昌国は漢民族が興したが、西域との交流が盛んだったうえ、その後の吐蕃=チベット族、天山ウイグル王国=ウイグル族、モンゴル帝国=モンゴル族、さらにイスラム教=アラビア?トルコ?ペルシャ?が侵攻し、さまざまな民族が混住したためであろう。

 ムルトウク河の谷は深い(写真、右手が千仏洞)。これほど深い谷を削りだしたのだから、ムルトウク河を流れる雪解け水はかなりの勢いがあったようだ。燃えるような火焔山に深い谷を削り出す豊かな雪解け水の取り合わせは絶景といえよう。
 のぞき込むと樹林が続いている。水があれば緑が育つ。水と緑があれば暮らしも成り立ちそうだが、交通の便が悪いためか、交易には向かなかったようだ。となれば、観光客相手の商いになる。テント住宅のほかにも千仏洞の通りには土産物屋が並び、楽器を奏で踊りを披露する大道芸が披露されている。石窟前の通りは観光客と土産物店、大道芸で人通りは多い。

 2000年当時、83の石窟が発掘され、40の石窟に壁画が残っていると説明を受けた・・70余の説もある。石窟内に掘られた小石窟などの数え方によるのだろうか?・・。石窟内の写真撮影は禁止の注意を受けたあと、17、20、27、31、33、39窟を見学した(千仏洞全景は前掲写真)。

 清末期、ドイツ探検隊が20窟から壁ごと切り出して持ち出した「誓願図」は、ベルリン・民族博物館?に展示されたが、第2次大戦下の空爆で焼失してしまった(写真、web転載)。記録写真からも釈迦たちの生き生きとした表情が豊かな色彩で表現されていることが分かる。貴重な遺構が焼失してしまったのは実に残念である。惜しむらくはドイツ政府は現代技術で複製をつくり、20窟に寄贈してほしいと願う。
 ドイツ探検隊の資料のなかに回廊型の石窟+小石窟の図が描かれているそうだ(写真は9窟、web転載)。莫高窟に影響を受けながらも、回廊型という新たな試みがなされたのであろうか。

 見学した石窟の基本は、天井に千仏図、壁の両側に説法図が描かれている。顔は削られた跡、泥を塗られた跡が残っていたが、構図はしっかりし、表現も細やかで、色彩の鮮やかさもうかがえた。
 修復を期待し、表に出る。13:00を過ぎていて、太陽はほぼ真上にあり、温度計はたちまち50℃になった。ホテルにいったん戻りランチ+休息を取ることにした。  (2020.12)

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2000.8 中国西北シルクロード13 玄奘三蔵が国王鞠文泰に招かれ説法を行った高昌故城

2020年12月27日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 13 玄奘三蔵が説法を行った高昌国の故城

 茶褐色の土くれのなかを舗装道路が延びている。火焔山をあとに、南に走るとほどなく家並みが現れた。壁は土色の平屋で、屋上に荒いつくりの乾燥小屋を乗せている民家も少なくない。細くて頼りなげだが並木が緑陰を作っている。
 町外れの駐車場に止まる。その先は土くれのゴビタンが広がっているが、崩れかかった土の人工物?が見える。高昌故城gaochang laochengbaoの残骸である。
 20元≒260円/人のロバ車に乗り換えた(写真、右がロバ車、左に見えるのは高昌故城の残骸)。ロバ車は荷台に腰掛けるだけだが、幌が掛かっていて日射しを遮ってくれる。強い日射しのなかを歩くのは大変なので、御者を含めて5~6人も乗せなければならないロバには申し訳ないと思いつつ荷台に腰掛けた・・2020年12月のwebを見ると、かなり修復復元が進んでいて、電動カートで移動するらしい。中国が文化遺産を復元し、観光資源としての活用に力を入れていることを痛感する・・。
 
 トルファンは天山北路、天山南路の分岐点であり、天山山脈のオアシスに恵まれ、古くから栄えていたため紀元前から周辺部族の争奪の的になっていた。紀元前2世紀、漢の武帝(BC141-BC87)が中国西北を制圧して河西四郡をおいてからトルファンに漢民族の入植が進んだ。450年、漢民族の高昌国が建設される。
 高昌国は640年に唐の直接支配となて消滅、790年には吐蕃(チベットの王国)が侵攻し、800年代にはウイグル族が天山ウイグル王国=天山回鶻王国を建設した。13世紀初頭に天山ウイグル王国はモンゴル帝国に帰属し、モンゴル帝国解体後はイスラム化された。高昌国はいつの間にか歴史からもゴビタンからも消えていった。

 玄奘三蔵(602-664)の話に戻る。唐の建国間もない630年ごろ、仏法を求めて天竺に旅だった玄奘三蔵は河西回廊を西に向かい、635年?、高昌国に着く。国王鞠文泰が玄奘三蔵の説法を聞こうと招いたらしい。玄奘三蔵は鞠文泰から厚いもてなしを受け、3ヶ月に渡り仏教を説いた。鞠文泰は高昌にとどまるよう懇願したが、玄奘三蔵の天竺への初心は堅く、天山北路を経由して天竺に向かう。
 643年、玄奘三蔵は天竺で修得した仏法を唐に伝えようと、数多くの経典、仏像とともに天山南路を経由して東に向かう。途中、鞠文泰と交わした帰国のときに立ち寄るとの約束を果たそうと高昌国に来たが、高昌国は640年に唐の支配となって消滅し、鞠文泰も死去していて約束は果たせなかった。
 645年、玄奘三蔵は長安で太宗皇帝(598-649)に経典、仏像を献上し、ねぎらいの言葉を受ける。天竺などでの玄奘三蔵の見聞をまとめたのが、「西遊記」の元になった「大唐西域記」である。

 ロバ車に揺られながら高昌故城の残骸を眺める(写真)。城壁?らしき残骸が見える。
 資料には、王宮を中心とした宮城の周りに内城、その周りに外城を配置し、それぞれを城壁で囲んでいたと紹介されている。
 外城の外周はのべ5kmぐらいだったようで、単純計算では一辺が1.25kmの矩形になる。200万㎡との説もあるから、1.4km四方の矩形だった可能性もある。一般の歩行速度は1時間に4kmといわれているから、外城の一辺を歩くのに20分近くかかる。ゴビタンに一辺を歩くのに20分もかかる王城を構えたのだから、高昌国の繁栄ぶりが想像できる。
 城壁の高さは11~12mだったらしい。遠目には日干し煉瓦を積んだように見える。木材が入手できないから焼成煉瓦はつくれなかったに違いない。土を突き固めて壁にする版築も使われたかもしれない。
 どちらにしても土が材料である。風化が進めば土の塊になり、さらに風化が進めばゴビタンに同化していくのであろう。
 
 宮城近くでロバ車を降りる。崩れかけた壁?が迷路のように、四方八方に伸びている(写真)。王宮の建物だったのあろうか。どこにも説明板がないので、想像のしようもなければ、王宮のどこにいるのかも分からない・・近年のwebでは修復復元が進んでいて、観光用歩道や説明板も整備されているようだ・・。 

 復元された建物を見つけた。玄奘三蔵が高昌国王鞠文泰に招かれたとき、3ヶ月に渡り説法を行った説法堂らしい(写真)。
 20mぐらいの矩形平面のなかに円形の壁が立ち上がり、広場に面してアーチ型の入り口が開けられている。
 外壁は平滑に仕上げられた土面だが、内壁は日干し煉瓦を積んだままで仕上げはない。下層の矩形の四隅は上層の円形とのあいだに1/4円のドーム状に煉瓦を積み上げている(写真)。中国に円形の建物はなくはないが少ない。入り口のアーチ型も中国には少ない。屋根にドームを用いることも少ない。高昌国は西方との交易が盛んだったから西方の影響をうけたのだろうか。
 堂内に屋根はなく、吹き放しである。雨が降らないから高い壁で日射しを防げれば説法に支障はなかったのであろう。
 堂内の日干し煉瓦には煉瓦3枚分ほどの凹みがいくつも設けられている。仏像や経典をおさめた凹みだろうか。説明板がなく資料も少ないのでいずれも想像の域を出ない。

 高昌国の最盛期には3万人が暮らし、3千人の僧が修行していたといわれている。とすれば、水量豊かな川かオアシスがあったはずだが、ロバ車で来る途中も宮城にも水は見当たらない。
 ・・今回の見学には予定されていないが、トルファン市街西10kmほどに交河故城と呼ばれる遺跡がある。高昌故城とは50kmほどの距離になるが、交河故城は字の通り川が交わる土地に築かれた城だそうだ。類推すれば、高昌国あたりにも川が流れていたのであろうが、消えてしまったようだ。
 強い日射しに辟易しながら城跡を見学したが、崩れかけた煉瓦とゴビタンに同化しつつある土くれが続いているだけである。ロバ車で駐車場に戻る。 (2020.12)

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2000.8 中国西北シルクロード12 孫悟空が活躍する西遊記の舞台・火焔山

2020年12月25日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北シルクロードを行く 12 孫悟空が活躍した火焔山

 緑州賓館から東に向かって走り出す。町外れの民家はどれも陸屋根の平屋で、屋根に規則的に穴を開けた茶色の四角い箱状の部屋を乗せている(写真)。葡萄を乾燥するための部屋で、・・日本語の小屋とはイメージが異なるが・・葡萄乾燥小屋と呼ばれている。
 トルファンの名産の一つは葡萄であり、葡萄を乾燥させると甘みが増し、保存、運搬も都合がいいので、多く農家が葡萄を栽培し、葡萄乾燥小屋で干し葡萄にしている。風通しがいい屋上に、隙間を空けて煉瓦を積んだ簡易なつくりだが、風景に根付いているように感じる。

 気候風土が生業をはぐくみ、生業が建築の形を方向付ける。葡萄乾燥小屋を見ていて、和辻哲郎の名著「風土 人間学的考察」がフッと思い出された。

 葡萄乾燥小屋を乗せた家並みはすぐ途切れ、風景は茶褐色の地肌を見せたゴビタン戈壁丹gebidanに変わった(写真)。ガイドブックなどでは、ゴビタンよりもゴビ砂漠と説明されることが多いが、日本語の砂漠とはまったくイメージが違う。
 モンゴルのゴビタンでは砂利が混じった荒れ地に背丈の低い何種類もの草が自生していて、馬や羊や牛など放牧されている動物によって草の好みが違い、争うことなく共生していると説明された。
 トルファンのゴビタンはモンゴルのゴビタンとも違い、草はどこにも見えない。もちろん馬も羊も牛も見られない。茶褐色の乾いた地面が凸凹しながらどこまでも広がっている。

 ゴビタンのはるか遠くに山並みがかすんでいる。天山山脈らしい。
 現地ガイドKさんによれば、中国西北には北から順にアルタイ山脈、天山山脈、崑崙山脈が東西に連なっていて、アルタイ山脈と天山山脈tianshan shanmaiのあいだにジュンガル盆地=グルバンテンギュト砂漠、天山山脈と崑崙山脈のあいだにタリム盆地=タクラマカン砂漠が広がっている。
 トルファンは天山山脈の南、タリム盆地に続くトルファン盆地に位置する。
 山脈の雪解け水は、川となり湖をつくり、伏流水となり湧きでてオアシスとなる。雪解けが多ければ川は氾濫し、雪解けが少なければ川は涸れ、湖も消えることがある。
 湧き水の安定したオアシスを拠点に町ができるが、町が発展すると水が不足する。先人は、山脈の麓から町まで人工的に地下水道カレーズkarezを掘って水を確保してきた・・カレーズはウイグル語で、アラビア語ではカナートqanatと呼び、中国語では坎児井kanrjingと呼んでいる。夕方にカレーズを見たので詳しくは後述・・。
 オアシスの周りにできた緑豊かな町並みと、茶褐色の荒涼とした乾いた風景、その対比の落差が大きい。風土と共存する人智の力を感じる。

 緑州賓館から30分ほど走ったころ、Kさんが、巨大な熊手で無理矢理削り出したようなヒダヒダの赤茶けた山肌を指さした。火焔山huoyanshanである(写真)。標高は500m前後、南北10km、東西100mの褶曲作用で形成された山塊だが、どう見ても猛々しく感じる。
 子どものころ、孫悟空が猪八戒、沙悟浄とともに、白馬の玉龍に乗った三蔵法師を助け、天竺から経典を持ち帰る子ども向け西遊記を何度も読んだ・・見ていないが何度も映画化やテレビドラマ化もされた・・。孫悟空の活躍する舞台の一つが火焔山で、炎を上げて燃える山として描かれていた記憶がある。
 火焔山の写真を撮ろうと思い車を止めてもらった。車内では冷房が効いているので長袖を羽織っていたが、Kさんは長袖のまま外に出るよう勧めてくれた。肌が弱いと、日射しで火ぶくれのような炎症を起こす人がいるらしい。
 外に出るとクラッとするほどまぶしい。持参した温度計はたちまち60℃近くになった。まさに火焔に包まれた感じである。

 もともとの「西遊記」は16世紀、明の時代に大成された物語で、唐の時代、玄奘三蔵(602-664)が天竺から経典や仏像を持ち帰り、そのときの見聞を記録した「大唐西域記」をもとに想像をたくましくして書かれたようだ。玄奘三蔵も火焔山も実在したが、孫悟空、猪八戒、沙悟浄たちは創作である。

 ゴビタンを駱駝に揺られながら熱い日射しを受け続け、まぶしさでくらくらしながら火焔山を眺めて、茶褐色の山のひだひだが炎に見えたのかもしれない。そんな伝聞に尾ひれがついて、孫悟空の活躍が生まれたのであろう。

 ともかく暑い。眼まで焼けるようだ。想像はほどほどにして、冷房の効いた車に戻る。

 車に戻ったら、Kさんがこの地域の多くの家は地下室を設けていて、あまりにも暑いときは地下で寝ると教えてくれた。・・1990年、西安に近い古都・洛陽の郊外で地下住居ヤオトンを訪ねた。1998年、チュニジアのマトマタや古代ローマ遺跡のドゥガでも地下住居、地下の部屋を見学した。雨が降らなければ、酷暑を防ぐ簡便な方法は共通して地下住居のようだ・・。 (2020.12) 

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松本清張「風紋」はアラビアの砂漠に生えるキャメル・ソーンから構想した企業サスペンス

2020年12月16日 | 斜読

book522 風紋 松本清張 光文社文庫 2018   斜読・日本の作家一覧>   
 松本清張(1909-1992)の劇的な展開は私好みで、何冊も読んでいる。
 この本は栄養食品にからむ企業サスペンスと紹介されていた。1967~1968に「流れの結像」として連載され、のちに改題「風紋」として単行本、文庫本として刊行されたそうだ。清張60代、絶好調の筆裁きと思ったが、ほかの本のような輻輳した筋書き、巧妙な伏線、読者を惑わす謎かけなどは意外なほど淡泊だった。

 だいぶ前、アーサー・ヘイリー著の「ストロング・メディスン」を読んだ(b110参照)。利潤追求のための過当な新薬競争と社会正義の拮抗をテーマにした展開で、一気に読み通した。
 この本では、「ストロング・メディスン」のように利潤追求がすべてに優先する企業体質を軸にしながらも、主人公となる今津章一が社会正義に燃えて正体を暴こうとする筋書きではない。後述のように明るい話で幕が下りる。
 ・・反面、見えない敵に追い詰められていくといった恐怖感や悲惨な殺人もないので平常心で読み終えられた。

 清張は1964年に初めての海外旅行に出かけ、後半に中東を旅した。1965年に再び中東を訪ねている。そのときの知見がこの本の主役ともいえる栄養食品キャメラミンのヒントになったそうだ。
 サハラやアラビアの砂漠に生えている灌木のCamel Thorn=駱駝の茨を見て、キャメラミンを発想し、流れの結像=風紋という企業サスペンスを構想するのだから、清張は怪人である。

 目次のように、社史編纂 を担当する今津章一を中心に 人間社長 待合における人間研究 宣伝部長 赤坂界隈 講師の名刺 研究論文 研究者の論理 籠絡 再浮上 異常な雰囲気 噂と事例 居坐り と物語が展開するが、終章の その後のこと で、語り手が「私」に変わる。
 p252・・私が今津章一君に借りたノートから、これまでのところをこの小説にして書いてきた・・という展開である。劇中劇とも違う。ワトソンがシャーロック・ホームズの事件を記録するというスタイルとも違う。
 主人公今津になりきって謎解きに没頭していた読者は舞台設定を変えられて、肩すかしほどではないが「私」の登場に驚かされる。変幻自在の物語展開は、怪人清張ならではの余裕であろう。

 結末は、私が今津にいい奥さんをもらったと語りかけ、今津が私に奥さんの公演会の切符を買ってもらうところで締めになる。明るい結末は清張にしては珍しい。怪人清張の息抜きかもしれない。

 今津章一は勤め先の東方食品会社の社史編纂を命じられ、物語は今津の目線で書かれていく。
 東方食品は杠ユズリハ忠造が昭和25年に創業した株式会社である。杠は野望を抱き東京へ出て苦労する。うだつが上がらないので歯医者の助手としてシンガポールに渡るが歯医者が失敗し、華僑夫婦の薬屋・・ここで駱駝の茨を知る・・、次いで英国人の食料品店・・ここで食品工場に関心を持つ・・と職を変える。
 杠は日米開戦前に帰国し、印刷屋を開店する。開戦後、軍司令部のコネで紙を倉庫に隠し、敗戦後、紙を元手にヤミで売買してもうけ、東方食品を興す。

 東方食品の営業はまあまあだが、杠は将来を見据えて食品と薬の結合を着想し、砂漠に育つ駱駝の茨キャメル・ソーンを思い出す。植物学者を訪ねてキャメル・ソーンの科学分析表をもらい、薬学の仁田哲朗博士に会って効果を聞くが、現物が手元にない。
 さっそく現物のキャメル・ソーンを探しに、杠は島田専務とシリア、イラクの砂漠に向かう。
 こうした杠の発想力、行動力がキャメラミンを生み出す。キャメラミンを広めるためのユニークな宣伝方法が成功につながり、社員1000人、資本金30億円にせまる会社に発展する。
 ・・綿密な取材を手がかりにしているとはいえ、こうした物語を構想する清張の峻烈さに感心させられる。

  杠は自分の人間性の面も見るようにと、今津を神楽坂の料亭に呼ぶ。座敷では杠と、竹馬の友を縁に常務になった大山が、芸者を相手に宴席を楽しんでいた。
 ここにいた芸者の一人が小太郎である。のちに今津は偶然に入った喫茶店で小太郎に声をかけられる。小太郎は気さくで話が弾み、今津は小太郎に惹かれる。
 話は変わって、杠は新製品が知名度を持つには宣伝以外にないと考え、キャメラミンを栄養素として宣伝するために膨大な宣伝費をつぎ込んでいた。杠の期待に応えて手腕を発揮したのが工藤宣伝部長である。宣伝効果でキャメラミンはうなぎ登りに売れ行きを伸ばす。工藤の宣伝力は巧みだが、振る舞いは派手で金づかいが荒い。

 話は飛んで、今津が従弟の結婚式に出席し、大学講師で栄養学を専攻する遠戚の吉村哲夫に久しぶりに会う。
 話を戻して、杠はシリア、イラクで採取したキャメル・ソーンの栄養分析を仁田博士に依頼する・・抽出結果については物語中に詳しく紹介されている。
 話を飛ばして、吉村は前々からキャメル・ソーンの栄養価に興味をもっていて、アラビアからキャメル・ソーンを取り寄せ分析したところ、ごく微量の人体に有害な物質が含まれていることを発見していた。
 今津は小太郎から、工藤部長が吉村を茶屋で饗応していたことを聞く。のちに今津は吉村が突然海外旅行に出かけたことを知る・・工藤の籠絡が成功したようだ・・。
 工藤は、・・有害物質の噂を払拭するため・・キャメラミンの大規模なキャンペーンを展開する。

 主要な登場人物・・杠社長、島田専務、大山常務、工藤部長、今津、小太郎・・が出そろった。
 ・・正義感に燃えた今津が小太郎の力を借りながら有害物質を告発しようとし、杠の命を受けた工藤と対決するシナリオも想像できる。
 しかし清張は私の予想とは違うシナリオで物語を決着させた。あとは読んでのお楽しみに。

 ・・我が家ではかなり食品添加物に注意している。値段や効能よりも、原材料、原産地、成分表などが記載されたラベルを先に見て購入を判断する。健康食品や医薬品、生活用品など身の回りのすべて、ラベル表示を見て、・・限界はあるが・・安心か、安全か、害はないか、危険はないかを見極めるようにしている。それほど注意しないと、キャメルソーンのように宣伝に惑わされかねない。
 清張は誇大な宣伝に惑わされず実像に迫れと言おうとしている。それが伝わればよしとして物語を完了させたのかもしれない。 (2020.12)

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2000.8 中国西北シルクロード11 緑州から列車で11時間、トルファンへ

2020年12月12日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 11
 コンパートメントで11時間の列車の旅 トルファンへ

 中国の列車には何度か乗ったことがある。日本の普通車とグリーン車のように、椅子が硬い硬座と椅子が柔らかい軟座に別れている。短時間なら硬座でも我慢できるが、かなり混み合う。
 初めて中国農村住居調査に参加したとき、T助教授(当時)から、想像以上に混み合うから貴重品に気をつけるようにと注意を受けた。確かに想像を絶する混み合いだった。乗り切れない人は窓から乗り込んでくるので驚かされた。降車駅の上海に着いたがまったく身動きがとれない。やむを得ず、みんなに倣って窓から飛び降りる経験をした。一人一人が大きな荷物を抱えているのも、混雑に拍車をかけていた。

 今回の柳園-トルファンは車中泊+11時間の長旅なのでコンパートメント式の軟座を希望しておいた。
 19:00過ぎ、スーツケースを押しながらプラットホームに向かう。敦煌-烏魯木斉の表示をつけた列車はすでに到着していた(写真)。チケットは7号車なので、乗降口で服務員にチケットを見せ列車に乗り込む。制服の服務員は優しそうな笑顔だが、規則、規律には厳しい。中国の軟座にはそれぞれの車両の乗降口に服務員がいて、チケットがなければ絶対に入れてくれない・・言い換えれば、安心と静けさが担保される。

 7号車は幅1mほどの通路に、コンパートメントの部屋が並んでいる。私たちの3号室は2段ベッド式の4人用で、奥行き、幅ともに2mほど、下段のベッドを兼ねた椅子は奥行き68cmぐらい、上段は高さは1.6mぐらい、奥行き68cmぐらいで、昼は折り上げてあり、寝るときに倒してベッドにする(図)。

 物珍しく眺めているうち、列車が音もなく動き出した。ベルも鳴らさず、放送もない・・ベルは聞き逃したかもしれないし、放送は聞いても理解できないが、これも異文化体験である・・。
 気づくと、中国のレストランなどで聞いたことのある音楽が流れている。もの悲しげな曲だ。日本の胡弓とほぼ同じ楽器で中国では二胡erhuと呼ばれる・・日本でも和風の食事処でバックグラウンドに琴の演奏が流されるのと似ている・・。
 唐の詩人・王翰は「葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回」・・戦いで何人が帰ってこれたかと思うと夜光杯の酒を飲まずにはいられない・・、といった気持ちを詠んでいた。西域への旅たちにはもの悲しい調べが付きものかもしれない。

 動き出して10分も経たないうちに、車窓は茶色の地肌に変わった。黄土高原である。どこまでも茶色い起伏が続いている。起伏が近くなったり離れたり、高くなったり低くなったりするが、風景は変わらない。
 20:00過ぎに日が落ちた(写真)。薄明かりに浮かび上がっていた黄土高原の起伏はやがて闇に消えた。ときおり、村の灯りや駅の灯りが通り過ぎるが、あとは闇しか見えない。
 21:00過ぎにウエイター?が注文を聞きに来たのでビールを頼んだ。あまり冷えていないので、爽快感はなかった。
 ビールを飲みながらメモを整理したり、明日の予定を確認したりして、23:00ごろ、下段のベッドで寝た。レールの響きと揺れはさほど気にならない。いつの間にか寝込んだ。

 6日目、朝5:30過ぎ、ドアをノックする音で目が覚める。外は真っ暗である。身支度を終えて間もない6:20ごろ、吐魯番tulufanに着く。プラットホームは頼りなげな照明がついているだけで、闇に近い。軟座のコンパートメントから降りたのは私たちだけのようだが、目をこらすと硬座の列車から大きな荷物を背負った人々がぞろぞろ降りている。
 灯りがないので車のヘッドライトを頼りに駅の外に出て、迎えの車に乗り込んだ。通りの様子も家並みも闇のなかだったが、走り出して間もなく空が赤みを帯び始めた。

 7:15ごろ、今日の宿のOASIS Hotel緑州賓館に着いた(上写真)。緑州賓館は中心街に位置するが、トンネル状の葡萄棚が続く青年路に面している(下写真)。吐魯番は緑豊かな土地と思ってしまうくらい、賓館のあたりは緑陰に包まれている。
 賓館にも青年路にも、歓迎・・・・の垂れ幕や色とりどりの旗が飾られている。ちょうど葡萄祭りが開催されていて、大勢が行き交っていた(写真)。

 緑州賓館のフロントの女性は、どことなく顔立ちが違う。少数民族らしい。前庭には遊牧民のテント住宅が置かれ、ラクダがつながれていた。西域に来たんだと実感する。
 
 吐魯番tulufanは天山山脈の南、海抜が-150mほどの低地もあるトルファン盆地に位置する。天山山脈の伏流水によるオアシスがあり、天山北路、天山南路の分岐点となるシルクロードの要衝地とし栄えた。
 5~7世紀に漢民族が建設した高昌国が繁栄し、のち唐の直接支配となる。
 800年代、ウイグル族=回鶻族がこの地に王国を建設する。天山ウイグル王国=天山回鶻王国、西ウイグル王国=西回鶻王国などと呼ばれ、ベゼクリク千仏洞に代表される高度な文化が生まれた。
 13世紀初頭、チンギス・ハーン(1162-1227)がモンゴル帝国を興すと、天山ウイグル王国はモンゴル帝国に帰属し、モンゴル帝国の解体後はイスラム化された。
 トルファンは、ウイグル語で人と物が豊かな地域を意味するそうだ。トルファン盆地は乾燥地帯で雨は少ない。日照に恵まれ、霜はほとんど降りない。オアシスを利用したブドウ、ハミウリ、長絨綿、野菜が栽培され、シルクロードによる交易で人と物が行き交った。トルファンは、まさに人と物が豊かな地域だったのである。

 緑州賓館でチェックインを済ませ、朝食をとり、部屋で一息し、10:00に賓館を出る。今日は、高昌国古城、ベゼクリク千仏洞、水供給システムカレーズ、ウイグル族民家訪問などの予定である。 (2020.12)

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