yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2017.12 「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」でゴッホが浮世絵の影響を受けたことを学ぶ

2017年12月31日 | よしなしごと

2017.12 ゴッホ展 巡りゆく日本の夢

 2017年10月24日から2018年1月8日まで上野の東京都美術館ゴッホ展が開かれている。副題は巡り行く日本の夢で、ポスターには渓斎英泉の花魁とゴッホ(1853-1890)の描いた花魁が載せられていて、ゴッホが浮世絵から影響を受けたことが紹介されている。
 少し前に、上野の国立西洋美術館で「北斎とジャポニズム展」を見た。印象派の画家たちが浮世絵の影響を受けたことが分かりやすく展示されていた。
 記憶の冷めないうちに浮世絵の影響を受けたゴッホを学んでみようと、ゴッホ展に出かけた。
 東京都美術館は毎月第3水曜がシルバーデーで65才以上が無料になる。ゴッホは人気が高いからいつも混みあうだろうが、無料となればシルバーがド~ンと来るからたいへんな混雑が予想された。上野でランチを取ったあと、都美術館に向かった。案の定30分待ちの混みようだった。シルバーが圧倒的に多い。その混みようのなかを、赤ちゃんをあやしながら絵を鑑賞しているママも何人かいた。子ども連れを優先させたキッズデーがあれば、パパやママもじっくり絵を楽しめるのではないだろうか。保育士が面倒を見てくれるキッズルームの常設も期待したい。

 都美術館は風致地区のため高さが制限されているから、地下から入館する。ゴッホ展は、地下1階、1 パリ 浮世絵との出逢い、2 アルル 日本の夢、1階に上がって、3 深まるジャポニズム、5 日本人のファン・ゴッホ巡礼、2階に上がって、4 自然の中へ 遠ざかる日本の夢、の構成である。

 第1室早々にファン・ゴッホが1887年に描いた花魁が展示され、少し先に渓斎英泉の花魁が配置されている。渓斎画の花魁は右向きで花魁だけを描いた図柄だが、ゴッホ画の花魁は左向きであり、背景は池で右に竹林、上に小舟、左に鷺、下に蛙、中央に花魁画を浮かして描いている。蛙は葛飾北斎の浮世絵に出てくるらしい。鷺や竹林も浮世絵の模写だそうだ。ゴッホは、一説には550点もの浮世絵を収集したそうだ。膨大な浮世絵を眺め、自分なりの解釈で日本の浮世絵の世界を表そうとしたのであろうか。
 同じ第1室の「カフェ・ル・タンブランのアゴースティーナ・サガトリー」も1887年の作品で、パリのカフェ・ル・タンの女主人が中央に大きく描かれていて、右壁に少しぼやかした浮世絵が見える。
 パリ時代のゴッホの絵では、浮世絵を直接利用しているような印象だった。

 第2室はアルル時代(1888~1889.5)になる。この部屋には歌川広重、葛飾北斎、歌川国貞らの浮世絵がゴッホの絵を挟むように展示されている。1888年の「種まく人」は中央に花を付けた幹が画面を左右に分けるように描かれている。広重の「亀戸梅屋敷」も中央に梅を咲かせた幹が画面を左右に分けている。ゴッホは浮世絵の大胆な構図が気に入ったようだ。「種まく人」の大胆な大きさの輝く太陽、水平線を高くしやや俯瞰的に見下ろす構図などが浮世絵の影響だそうだ。アルル時代は、浮世絵の構成や構図、彩色を取り入れている。浮世絵の影響を抽象化したということだろうか。

 第3室は、1888年の「寝室」、「タラスコンの乗合馬車」から展示が始まる。続いて歌川国貞、渓斎英泉、歌川広重などの浮世絵が並ぶ。道路や床が上っていく構図、補色を組み合わせた彩色なども浮世絵の影響らしい。単純化された物体の集合は迫力があるが、一方で私には絵にゆがみを感じる。アルルでのゴーギャンとの共同生活が始まる少し前に描かれているからまだ精神的には安定していたはずだから、浮世絵の単純化された対象を原色、補色を用いて際立たせる手法の応用なのであろうか。
 第5室には、ゴッホ亡き後を訪ねた画家、芸術家、文人たちの作品、書簡、写真などが展示されていた。たとえば、前田寛二による1924年の「ゴッホの墓」、佐伯祐三による1924年の「オーヴェールの教会」が目を引いた。
 2階の第4室には自然を対象とした絵が飾られていた。晩年の絵が多かった。

 浅学の身には絵に隠されたゴッホの意図を読み解くのは難しい。浮世絵の影響も確信が持てない。感じるままに感じることにして、あとは次回に持ち越すことにした。

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「天皇の密使」+本棟造馬場家=縁は不思議

2017年12月30日 | 旅行

長野を歩く>  丹羽昌一著「天皇の密使」と信州・本棟造馬場家

 メキシコツアーの予習で丹羽昌一著「天皇の密使」(book454)を読んだ。末尾の馬場太郎氏の解説によれば、「天皇の密使」のモデルは松本市・馬場家の15代当主馬場称徳氏だそうだ。
 馬場太郎氏は馬場家16代当主で、1992年に馬場太郎氏から屋敷地の西半分が松本市に寄贈された。松本市は馬場家を復元修理し、1996年に「江戸時代末期の長野県西南部を代表する民家建築」として国の重要文化財の指定を受け、1997年から一般公開された(写真web転載)。
 寄贈に先立つ1986年、馬場家の建築調査が行われた。私も文庫蔵担当で調査に参加したのを懐かしく思い出した。
 馬場家の特徴は、豪壮な表門と本棟造の主屋、主屋の内部の意匠、中門、祝殿、祝殿裏の推定800年のケヤキ、屋敷林の四季折々の風情、表門から見える北アルプスの眺望である。
 本棟造とは、長野県中信地方から南信地方に分布する民家形式で、緩い勾配の切妻屋根に雀おどしと呼ばれる棟飾りに特徴がある。平面は正方形に近く、妻入りで、表門から堂々たる構えに圧倒される。

 松本家調査の数年前、京都在住のS君たちと周山街道沿いの民家調査を実施した。周山街道から少し外れるが茅葺き民家が建ち並ぶ美山町北、南も調査に加えた(その後北地区は伝統的建造物群保存地区指定)。
 美山町北・南の調査結果をまとめ、日本民俗建築学会に発表した。発表後の懇親会で民家町並みサークルに誘われた。民家町並みサークルの会合に何度か参加しているうち、馬場家調査に誘われたのだと思う。民家町並みサークルで、大河直躬先生、小林昌人氏、吉田桂二氏らの重鎮と知り合いになった。馬場家調査の団長は大河直躬先生である。
 馬場家調査前日、勤めを終えてから松本に向かった。当時は高速道路はなかったから何度も渋滞に巻き込まれ、調査チームの宿舎に着いたのは真夜中になった。寝静まった宿に大声をかけていたら、確か伝統技法研究会のOさんが起きてきて鍵を開けてくれ、寝床に案内してくれた。この調査には、青森在住のO君が周山街道民家調査に続いて参加してくれた。
 私の担当は文庫蔵である。漆喰で塗り固められていて柱は見えない。窓はなく、出入り口には分厚い漆喰の防火扉がついている。まず、外周を測る。少しゆがみがあり、地面に近い外周、腰高の外周、扉上部の外周、軒下の外周は若干異なる。次に室内の内周を測る。内周も少しゆがんでいた。屋根の大きさ、屋根の勾配、瓦の割り付けなどを記録していく。夕暮れごろ、なんとか形になった。翌日の昼ごろまで補足調査を終え、帰路についた。
 この調査をきっかけに大河直躬先生から新たな調査に誘われ、報告書のみならず本の執筆にも声をかけてくれた。その後、長いおつきあいになった。

 工高の同窓会でS君と話をしていて、彼が吉田桂二氏の所員だったことが分かった。その後、吉田氏にS君の話をしたらたいへん褒めていて、頼りにしているとのことだった。以来、吉田氏と長いおつきあいになり、会合では貴重な話を聞きながら大いに飲んだ。
 小林昌人氏からは日本民俗建築学会の理事に推していただき、以来、長いおつきあいになった。会合のあと、飲みながら民家巡礼の秘話などをお聞きした。
 すでに、大河直躬先生、小林昌人氏、吉田桂二氏は鬼籍に入ってしまった。ご冥福を祈る。
 話は変わって、あるときの民家町並みサークルでIさんと隣り合った。そのころ、いまやN大の重鎮になっている大学後輩のI君と旧舘岩村の村づくりを支援していた。Iさんに、同じ苗字のI君と舘岩村の民家を調べていると話したら、なんと二人は親子だった。親子とつきあうとはびっくりである。Iさんとはサークルでときどきお会いするだけだが、I君とは長くつきあいが続いた。
 出会いには不思議な縁が隠れている。    (2017.12)

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「天皇の密使」はメキシコ革命のとき在メキシコ日本人移民の救援に尽力した外交官の物語

2017年12月29日 | 斜読

book454 天皇の密使 丹羽昌一 文春文庫 1998
 メキシコツアーが具体化してきたので、メキシコを舞台にした本を探して見つけた。著者は外務省入省後、キューバ、チリなどの在外勤務をしていて、スペイン語に堪能らしい。退職後、「悪魔の詩」が世界に衝撃を与えたとき、著者はアメリカ人ジャーナリストのアンブローズ・ビアス著「悪魔の辞典」を連想したそうだ。ビアスはその後メキシコに渡り、行方不明になっている。ビアスの足跡を調べているうち、在メキシコ日本人移民のために尽力した日本人外交官のことを知り、彼をモデルにこの本を著したそうだ。
 時代は、1910~1918年のメキシコ動乱期である。p11~にパンチョ・ビリャ率いる反乱軍の勝利、p58~にメキシコ革命の経緯が簡単にまとめてある。そのころのアメリカの移民政策が物語の鍵になり、随所に移民の話が登場する。p61~にはアメリカの動向も紹介されていて、メキシコ、アメリカ、日本の立ち位置が理解しやすくなっている。
 p17~に、アステカ帝国がスペイン・コンスタドーレスによって滅ぼされ、いまのメキシコシティが建設されたこと、p20~に欧米列強に遅れながらも日本がメキシコとの関係を深めようとしていることが紹介されている。
 主人公は、p43・・在シカゴ日本領事館外務書記生・灘謙吉27才・独身である。墨西哥駐箚大日本帝国特命全権公使・安達峰一郎から、在シカゴ領事館に、p44・・政府軍の勢力範囲内の在留邦人については公使館でも把握しているが、反乱軍が支配する北部地方は見当がつかない・・、誰かをp46・・ファレスとチワワ・・に派遣してくれと依頼が来る。そして灘が選ばれた。ところが翌日届いた公電には、p47・・叛軍の幹部に面接し邦人の保護を依頼する場合・・日本政府の官吏の資格を離れ、個人の資格で・・いかなる場合も日本政府に累を及ぼすことのなきよう・・とあった。つまり、p50・・メキシコ政府とのあいだで問題化する懼れがあり・・領事館書記生に国の代表権はない・・反乱軍と接触してもメキシコ政府に言い分けがつく・・個人的に責任を取らせる・・ということだった。
 1923年12月、灘は覚悟してシカゴ発カンザスシティ経由で、テキサス州西端のエル・パソ行き特急に乗り込む。エル・パソは通路という意味のスペイン語で、リオ・グランデ川が渡河しやすく、軍事、交通の要所として発展してきた。ホテルにチェックインし酒場で飲んでいるときに、アンブローズ・ビアスが登場する・・もちろんフィクションである・・。ビアスはp74・・自らの手で自らの命を絶つ権利を実行しようと、メキシコを目指していた。
 もう一人、支倉常長訪欧使節団が1613年にメキシコに到着し、そのときメキシコに残った日本人の末裔とされる女性が登場する。ビアスは、その女性について「梟と蛇と三日月」といった謎の言葉を残す。女性の正体、遍歴、謎の言葉、その後に起きる殺人事件の犯人との関係は最終章のp414~で明かされる。
 灘は、ビリャ軍によって解放されたスタントン橋を渡り、ファレスに入る。検問を受けた後、日本人会長天野、副会長二宮らに会うことができた。灘たちは町から10kmを歩き、日本人の経営する農場で、150人に近い邦人と集会を持ったところ、ビリャ軍から日本特別部隊の勧誘があり、60人ぐらいが乗り気だということが分かった。灘は、日本はウェルタ現政府を合法とし、反乱軍は非合法であるから勧誘は辞退するよう説得するが物別れになる。
 翌日ファレスに来ると、司令部のモントーヤ少佐がファレスの邦人150人とチワワの邦人200人に武器を持たせ3個中隊を編成する計画で、ビリャ将軍の決裁を得ているという。灘が強く抗議すると、モントーヤ少佐はおれに逆らうなら徹底的に邪魔をすると脅してきた。難題発生である。
 3個中隊の話を農場の集会で伝えると、志願制のはずだ、メキシコ人は信用できない、ということ全会一致で集団入隊反対になった。
 チワワ行きの列車が復旧した大晦日に灘と天野ほか1名がチワワに向かった。チワワはメキシコシティとアメリカを結ぶ中継地点として栄えてきて、いまはビリャ軍の主力部隊が駐留している。翌元旦、チワワの日本人会長柳谷らと会い、集団入隊について聞くと、志願制で184名のうち120名ほどが希望しているという。
 チワワの日本人会新年会に招待された灘は、身寄りの無いメキシコ・日本の混血のアサという名の少女に出会う。・・アサの出生の秘密やその後に起きる殺人との関わりは、前述の謎の女性がp414~で明かされる。
 灘がチワワのホテルの近くの酒場で飲んでいると、前述の謎の女性が現れた。飲んでいるうち、灘はビリャ将軍に会い邦人の保護と集団入隊計画の断念を伝えたいなどを謎の女性に話す。翌日、ビリャ将軍からの呼び出しがあった。・・灘は謎の女性が仲立ちをしたと思う。
 灘と会ったビリャ将軍は、灘は日本政府の使者ではなく天皇の個人的な使いだと思い込んでしまう。・・これがこの本のタイトルである。
 事態が進展しないまま時が過ぎ、灘が熱を出したとき、政府軍捕虜になった日本人の銃殺に立ち会わされ、灘は気を失う。その後ビリャに呼び出され、灘の失神は日本人は弱々しいと思わせる演技に違いない、天皇の命令がなければ戦場に出ないという灘の言葉を信じ、日本人部隊の話は無かったことにする、といわれた。・・失神は事実だったが、これで一件落着である。
 灘がホテルの近くのバーで飲んでいるとビアスが現れた。ビアスは、メキシコ領低カリフォルニアの綿花栽培が人手不足になっていると教えてくれた。この話を日本人会に紹介し、現地を調べることになったが、柳谷会長、続いて佐伯会計係が何者かに殺されてしまう。葬儀が一段落し、灘と天野ほか1名が現地に向かい、入植計画を練りあげる。
 間もなく、ビアスが殺される。入植計画の行方、日本人部隊断念を恨むモントーヤ、殺人事件の犯人、そして謎の女性・・あとは読んでのお楽しみに。
 この本のモデルは馬場称徳氏で松本市・馬場家の15代当主である。16代当主の依頼で馬場家の詳細な調査が行われ、のちに敷地と建物の半分が松本市に寄贈されて、一般公開されるようになった。1986年の馬場家調査には私も参加していて、文庫蔵を担当し、平面、屋根伏、外観立面、内観展開を実測し、図面化した。この本の内容とは無関係だが、甥の馬場太郎氏の解説を読んで気づいた。見事な本棟造りの馬場家を思い出した。不思議な縁である。

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「風炎の海」は江戸末、16ヶ月漂流し、イギリス船に助けられ、アメリカ沿岸~カムチャッカを経て帰国する冒険譚

2017年12月27日 | 斜読

book455 風炎の海 二宮隆雄 実業之日本社 1998  (斜読・日本の作家一覧)
 メキシコを舞台にした本を探して見つけたが、当時のスペイン領サンタ・バーバラ=現アメリカ合衆国カリフォルニア州が数ページ登場しただけで、メキシコの予習にはならなかった。しかし、主人公重吉の数奇な漂流記、冒険譚は、高田屋嘉兵衛を主人公とした司馬遼太郎著「菜の花の沖」に迫る読み甲斐があった。

 時代は、重吉が69才で息を引き取った翌1853年にペリー提督が来航する設定でなので、重吉の生年は1884年ごろ、没年が1852年になる。
 「第1章 漂流」では、29才の重吉は尾張国知多半島半田村出身で、督乗丸という名の千石船の船頭だったこと、千石船には12人の乗組員が乗っていたこと、三毛猫の雄が海の気象変化を嗅ぎ取ると珍重され重吉は大枚で買い取った雄の五郎丸と、宿の娘から五郎丸の嫁にともらったタマを船に乗せていること、などが紹介される。

 p10・・1813年10月17日、重吉は日和見をして、駿河灘の小浦を出航する。ところがとつぜん風が変わり、雨が降り出す。横波で船が傾き、乗組員の一人の要吉が海に落ち流されてしまう。伊良湖崎に近づいたがまた風が変わり、大波で舵が壊れたのでやむを得ず帆柱を切り倒すことになった。舵無し、帆柱なしのため伊豆七島にも近づけず、流され続ける。

 12月に水が底をついた。p42・・重吉は大釜で潮水を煮つめ蒸留水を集めるランビキ法で真水をつくり一難を乗り切る・・。正月に入り米も底をつき、大豆でしのぐが体力が落ち重吉をのぞき、みんな寝込んでしまう。
 7月に一人、続いて一人、また一人、ついに10人が息を引き取ってしまい、重吉と音吉、半兵衛衛の3人になる。
 9月に奇跡的に大雨が降り、鰹が続いて釣れ、3人は元気を取り戻す。五郎丸とタマは船内のネズミを喰って生き延び、その後フサが生まれる。2度目の正月を過ぎる。2月、ついに二本柱の異国船に救助される。海の描写は迫力がある。船員の心持ちや信心深さもていねいに描き出している。

 なんと著者は、日本選手権、世界選手権で名を馳せたヨットマンで、海を舞台にした本を何冊も書いていた。この本のここかしこに海の男の苦労、知識、知恵が盛り込まれている。

 「第2章 ピケット船長」で、重吉、音吉、半兵衛を救助したイギリスの交易船フォレスタ号はまずスペイン領サンタ・バーバラに上陸する。言葉の通じない重吉はここを長崎の出島と勘違いする。始めは身振り手振りで、やがて重吉は少しずつ英語を身につけ始める。
 次にフォレスタ号は舵の修理でロシア領ルキン=現カリフォルニア、コロンビア川河口のロングビューを経て、ロシア領アラスカのシトカに上陸する。この間、船長ピケットが、重吉の16ヶ月の漂流を生き抜いた精神力を気に入り、しかも船頭としての威厳を忘れず、英語と航海術を学びとろうとする前向きな生き方を高く評価し、重吉に対等に接する様子を描いている。
 あいまあいまに、世界進出を図ろうとするイギリス、フランス、ロシアの思惑も史実を踏まえて紹介されていく。3人は、ピケット船長たちと暮らすうち、イギリスの考え方、生き方の影響を受ける。そして半兵衛がクリスチャンになろうと意志を固める。重吉は、英語力を身につけ、先進航海術を会得していく。

 「第3章 カムチャッカ」では、フォレスタ号がカムチャッカ半島のペトロパウロフスクに入港すると、カムチャッカ長官代理のルダーコフが日本語で重吉たちに話しかけてきた。
 1811年、ロシア船艦ディアナ号が千島列島を測量していたため、幕府はゴローニン艦長を捕縛した。リコルド副艦長は翌1912年国後島沖で高田屋嘉兵衛(1769-1827)を拿捕し、ペトロパウロフスクに連行する。
 嘉兵英はロシア語を学び、ゴローニン解放に尽力をする。長官代理ルダーコフはこの本の副艦長リコルドのようだ・・発音表記の違いか?・・。
 ルダーコフは丁重に重吉たちをもてなすが、日本に向かう船がないためペトロパウロフスクで越冬することになった。そこへ漂流しロシア船に助けられた薩摩の喜三左衛門が到着し、いっしょに越冬することになった。
 フォレスタ号は交易のため広東に出航したが、ピケット船長はペトロパウロフスクに残った。やがて重吉は、ロシアは日本と友好的に交易をしたいので喜三左衛門のような日本の漂流者はロシア政府が面倒を見て日本に送り届けるが、重吉たちはイギリス船が助けたのでロシア政府の指示を仰ぐためにサンクトペテルブルクまで往復すると2年を要することになる、そこで内々で重吉たちを帰国させるためピケット船長が後見人として残ったこと、を知った。

 p161・・ピケットは重吉という勇気ある日本人船頭に強い友情を抱き、それが海の男への尊敬と変わり、・・シーマンシップを突き動かした・・、著者はこの本の一つの主張としてシーマンシップをあげている。海の男、ヨットマンならではであろう。
 p204・・哲学とは多面的に物事を考察し、さまざまな価値を認めたうえで、自分の信ずる道を確立すること・・哲学にかかわらない日本人は物事に無批判になり・・鎖国を誰も不思議と思わない・・。これも著者の主張で、鎖国による矛盾、退廃、反動を重吉を通して何度も語っている。
 半兵衛に続き重吉も改宗する。しかし、重吉は改宗を心の奥底にしまう決意をする。
「第4章 帰国」「第5章 尾張国」は重吉たちが日本で何度も厳しい詮議を受けた後、ふるさとに帰る展開である。それぞれまだまだ根の深い話が語られていくが、紙数が長くなったのであとは読んでのお楽しみに。

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2017.12 百石高校食物調理科の生徒さんが考案した「おいらっせ10種野菜カレー」はとても美味

2017年12月25日 | よしなしごと

2017.12 おいらっせ10種野菜カレー
 青森県立百石高校長のO君から、「おいらっせ10種野菜カレー」が贈られてきた。箱には、百石高校食物調理科の生徒さんが考案した「おいらせ町が生んだ青森県産野菜を使用したカレー」とある。10種の野菜とは、おいらせ特産のだるま芋、ごぼう、キャベツ、にんじん、にんにく、たまねぎ、だいこん、しょうが、トマト、長ねぎで、豚肉も加えてある。
 おいらせ町誕生10周年記念式典で提供され、大好評だったようで、製品化され、青森県民生協で販売されている。
 箱にはこのカレー一個を購入すると、赤い羽共同募金を経由して、おいらせ町に10円貢献できるそうだ。
 箱のイラストも卒業生のでデザインだそうだ。とてもおいしそう、栄養がありそう、食べたくなるイラストである。

 とてもおいしかったし、開発した生徒さんにエールを送りたかったし、おいらせ町にも貢献できるので、購入しようと青森県民生協に電話をしたところ、人気があり、在庫はないし、生協各店でも品薄とのことだった。

 2017.5.26ブログでも、百石高校の生徒さんが挑戦した「青森の妙丹柿チョコディップは高校生を中心とする商品開発=光による渋抜き+チョコのコーティング=◎」を紹介した。前向きな姿勢がうかがえる。

 「身近な暮らしに着目し、試行錯誤を重ねて、形にする」。壁にぶつかり挫折することもある。失敗が重なったり、時間切れになったりで断念せざるを得ないこともある。当初のもくろみとは違った形で終わることもある。
 それでも、身近な暮らしに着目し、試行錯誤を重ね、形にしようとひたむきに努力することは心を強くし、人を大きく成長させる。

 成功された生徒さんはもちろん、成功を逃した生徒さんにも、黒子となって生徒さんを指導された先生にもエールを送りたい。

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