yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2016年12月某日、50年ぶりの新宿御苑で黄金色の銀杏を見てからミッドタウンのイルミネーションへ

2016年12月31日 | よしなしごと

新宿御苑~東京ミッドタウンのイルミネーション                        
 2016年12月某日 まだ紅葉が残る?新宿御苑に出かけた。
 新宿御苑は学生のころに何度か訪ねて以来だから、50年前の記憶しかない。そもそも新宿も日々新しくなっていて、新しくできた新南口改札を出ると、ニュースで取り上げられたバスタ新宿が右手にあり、ついついきょろきょろしてしまう。
  一瞬どっちに行けばいいか、方向音痴になった感じだ。それでも新宿四丁目あたりからは見覚えの風景がまだ残っていて、足が速くなる。
 新宿御苑帰りのカップル、家族連れは存分に楽しんできたようでどの顔も晴れやかだった。

 新宿門を3時半ごろ入る。入園料は200円で、シルバー割引はない。
 都立公園はどこもシルバー割引があるが、新宿御苑は環境省が管轄する国民公園のためらしい。
 都立は割引があり、国立は割引がないのはちぐはぐな気がするが、わずか200円だから負担にはならないし、庭園管理料と思えば気にはならない。

 このあたりは、徳川家康が江戸に入城したときの家臣・内藤氏の江戸屋敷だったそうだ。
 一般に江戸城の周辺に重鎮の屋敷が構えられるのに対しここらあたりは江戸の外れになるが、甲州街道、青梅街道、鎌倉街道などが通る要所だったため、信頼のおける内藤氏に居を構えさせたようだ。
 そのためか広大な屋敷だったらしい。内藤氏は玉川上水を引き込み、庭園を築いて楽しんだそうだ。
 明治維新後、屋敷地は内藤新宿試験場、新宿植物御苑を経て、皇室庭園=新宿御苑となり、終戦後の1947年、皇居外苑、京都御苑とともに国民公園として開放され、いまに至っている。 

 現在の新宿御苑の広さは58.3haだそうだが、ピンとこない。南の端から北まで直線で1.2kmぐらいあり、外周は3.5kmになるそうだ。
 時速6kmで歩けば、南北で12分、外周を一回りすると35分になるといえばわかりやすいだろうか。
 よく東京ドームを比較に使う。東京ドームは4.7ha弱だから、東京ドーム×12=新宿御苑といえばもっとわかりやすいかもしれない。ともかく広い。

閉園が4時半なので、およそ1時間しかない。まず新宿門から西のエリアに向かった。紅葉には少し遅すぎたうえに、日射しが弱くなっていて、赤みの鮮やかさが見られない。その代わり銀杏が黄金色に輝いて目を楽しませてくれた(写真)。
 入り口においてあるパンフレットには明記されていないが、インターネットで調べると、諸説があるがおよそ500種、15000本の樹木が植えられている。
 刈り込まれた低木も少なくないが、思い切り枝を伸ばした喬木、大木が目立つ。園内のどこかに、自然の育ち方を楽しんでもらうため強剪定は避けているとか書かれていた。
 確かに、喬木、大木は気持ちよく枝を伸ばしているようだが、密集して日当たりが悪くなり、枝を伸ばせない樹木が頼りなげに立っているところもあった。
 ケースバイケースの管理を期待したい。

 西のエリアから茶室・楽羽亭、茶室・翔天亭、旧御涼亭を歩き、中の池、下の池、フランス式整形庭園、イギリス風景式庭園を抜けて、玉藻池を通り、閉門間際に大木戸門から外に出た。
 印象としては、花や樹木の鑑賞もいいが、むしろ広々とした緑地で都会の喧噪から逃れ、仕事の疲れを癒やすのがよさそうだ。
 子どもと一緒に走り回る、何もせず空を眺めボーとする、コーヒー・紅茶にクッキー・ケーキを持参し談笑する・・。
 学生のころは、課題提出や期末試験のあと、気のあった仲間と他愛のない話をして気分転換をしていたのかもしれない。

 大木戸門を出て間もなく日が落ちた。黄金色に輝いた銀杏の彩りを目に残し、地下鉄丸ノ内線・新宿御苑前駅に向かう。
 丸ノ内線で霞ヶ関へ、ここで日比谷線に乗り換え六本木駅で降りる。六本木駅からは地下道で直結している東京ミッドタウンに向かう。狙いはイルミネーションである。ほぼ毎年見に来ているので道に迷いはない。
 
東京ミッドタウンのイルミネーションは人気があるようで、観光バスのツアーにも盛り込まれているほどである。
 イルミネーションには毎年新たな工夫が盛り込まれている。金色に輝いているドーム・・惑星か?・・、一面に点在する小さな輝き・・星空か?・・は昨年と同じようだが、空に向かって光が放射されるのは新しい工夫のようだ。
昨年とだいたい同じ場所で、東京タワーを入れた写真を撮った(写真)。
光の変化をしばし眺めるが、きりが無い。このあと知人と10数年続く会食の予定だが、まだ時間が早い。
 ミッドタウンの中を抜け、フジフイルムスクエアに行く。ここは夜7時まで無料で、写真歴史博物館とフィルムフォトサロンを開放している。
 懐かしい写真機を眺め、バラをテーマにした力作の写真パネルを見てから、会食場所の酢重ダイニングに向かった。
 この店は、地元信州の旬の野菜や食材を使った料理と地酒がなかなか美味で、しかも決して高くないうえ、眺めがいいのでよく利用する。
 今回もあらかじめイルミネーションの見える席を予約してあり、知人とイルミネーション+料理+地酒を楽しんだ。

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スペイン・ロンダのヌエボ橋は新~旧市街をつなぐため深さ98mの峡谷に架けられた、圧巻

2016年12月29日 | 旅行

スペインを行く37 2015年ツアー9日目 ロック・バスティオン カサーレス ロンダ ヌエボ橋 ビエホ橋 /2016.12

 ジブラルタルの岩山を下り、町なかのロック・バスティオンRock Bastonというレストランに入った。King's Bastionと呼ばれるレジャー施設の一部で、施設全体がbastion要塞のつくりである。古来よりジブラルタは領有が争われたから要塞が残っていても不思議ではない。レストラン内部はレンガ積みのヴォールト天井で、確かに要塞の雰囲気を見せている。
 ・・略・・1時15分ごろジブラルタルのバスに乗り込む。空港でバスを降り、歩いて検問所を抜け、スペインに入国し、スペインのバスに乗って、今朝来た道を戻る。
 ・・略・・バスは地中海沿いの道を東に進み、途中から左に折れて山道に入る。茶色が圧倒する起伏の頂きにはこれまで何度か触れた風力発電が地中海からの風を受けてゆっくりだが力強く羽を回している。山間の緑は少なくないが、茶色が優勢で、緑地もくすんで見える。
 ジブラルタルから45分ほど走った2時15分ごろ、崖沿いの小さな村でバスが止まった。この町の名前はメモにないが、ここは白い町の一つであるカサーレスCasaresの眺望で知られていて、駐車場と展望所が設けられている。
 展望所から見下ろすと、一つ先の山の斜面が白い家並みで埋め尽くされているのが見える。カサーレスである。・・略・・古代ローマ時代にカエサルが近くの温泉で利用した?ことからここに侵攻したアラブ人がカエサルにちなんでカサラと名づけ、カサーレスと呼ばれるようになった歴史がある。
 山頂には13世紀ごろの城塞の廃墟があるそうだ。13世紀はまだグラナダを本拠とするイスラム勢力は健在だったから、アラブの城塞かも知れない。頂きに見える教会堂はレコンキスタ後であろう。・・略・・
 2時半過ぎ、バスに乗り、ロンダRondaに向かう。茶色が優勢な山あいをおよそ1時間走った4時半ごろ、ロンダの新市街の駐車場に着いた。
 ・・略・・ロンダは標高730mほどの台地の際に立地する町である。台地を流れるグアダレビン川Rio Guadalevinの浸食で旧市街シウダーciudaの四方は崖になっている。防衛にかなった土地としてこの場所が選ばれたようだ。
 町の発展に伴い居住地が不足し、グアダレビン川の北側に新市街メルカディーリョmercadilloが形成されていった。
 2015年10月28日、午後4時半過ぎ、ロンダ新市街の大型バス専用駐車場でバスを降りる。台地の際に広がった町だから土地にゆとりがあるわけではなく、バス専用駐車場が設けられたようだ。
 新市街は整った町並みで、通りには2~3階建ての石造建築が軒を連ねている(写真)。2~3階は住居になっていて、1階は店舗と住居が半々ぐらいのようだ。・・略・・写真中ほどのse vendeは販売中の意味で、けっこう空き家が出ているらしい。この町も活性化による定住化が急務のようだ。

 空き家の目立つ通りを抜け、大通りを南に5~6分歩くとヌエボ橋Puente Nuevo=新しい橋に出る。1994年ツアーでも見に来ているから予想はしていたにもかかわらず、またも壮観な眺めに圧倒された。
 ロンダの位置する台地の南端がグアダレビン川によって深くえぐられ、旧市街が台地から切り離された。正確には、切り離され、孤立した台地に旧市街がつくられた。
 暮らしには不便であっても、敵から身を守ることのできる立地が選ばれたのである。
 グアダレビン川を渡るためには橋が必要であるが、峡谷は深さが98mもある。台地の上の旧市街から反対側の開けた土地・・現在の新市街・・に行くには、崖を下り、橋を渡り、崖を上らなければならない。
 できれば崖の上り下りは短い方がいい。最初の橋の記録は分からないが、14世紀、まだイスラム支配下のころ、低い高さに橋がつくられた。17世紀、高さ31mに橋が架けられた。さらに1793年、崖を上り下りせず旧市街と新市街を平面でつなぐ橋が架けられた。
 土木技術が進歩したうえ、敵への備えが不要になったためであろう。
 イスラム時代の橋はアラブ橋Puenta Arabe、17世紀の橋はビエホ橋Puenta viejo=古い橋と呼ばれている。
 新しい橋はかなりの難工事で42年もかかったそうだ。100mに近い足場をどうやってかけたのだろうか?。犠牲も多かったに違いない。ジーと見下ろしていると吸い込まれそうになる。
 アーチ構造の橋桁には牢獄が設けられたそうだ。峡谷を見下ろしていると悪魔が手を伸ばしてくるような錯覚にとらわれて、すぐに改心したに違いない。
 
 峡谷沿いには絶景を観賞できる遊歩道が整備されている。遊歩道からビエホ橋がのぞける。峡谷の崖は凹凸があり、ビエホ橋は峡谷が狭まったところに架けられたようだ。
 ヌエボ橋と同じようなアーチ構造である。アラブ橋よりは便利になったのだろうが、それでも98-30=68mを上り下りしなければならない。1793年のヌエボ橋完成までの苦労が忍ばれる。続く

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2005年鶴木町もく遊りんを訪ねる、楕円形平面を分割した木工房+食工房とも地場の杉材

2016年12月28日 | 旅行

2005 もく遊りん MOKUYURIN /石川県鶴木町/設計:水野一郎+金沢計画研究所/1993.3 /2005.8

 林に覆われた西斜面地に、長径46m、短径34mほど、面積1051㎡の楕円形平面をおき、南側半分を木工房、中心から北側半分のさらに半分を中庭、北側1/4を食工房にした建物である。
 柱は地場の杉4本を組んで構造体にし、梁は2枚の杉材のあいだに鉄板を挟んで強度を高め、これを格子に組んでいる。いわく、木造小部材組立格子梁ラーメン工法だそうだ。
 楕円の外周や間仕切りは杉板の横羽目、または格子組で、ほかにアテと呼ばれる地場の桧葉が使われ、すべてが地元材で構成されている。

 オーナーは元々製材業だったそうで、木材のノウハウをもっと一般の方に理解してもらい、さらに木に親しんでほしいとこの施設を企画したそうだ。
 その意図を遺憾なく発揮しているのが木工房で、板材や木製品の展示、木材加工場、住宅相談、リフォームや設計までが、小部材組立格子梁の大空間に展開している。
 木は加工すれば木っ端がでる。その木っ端をストーブに利用したり、チップ舗装にしたり、少し加工して芳香剤にしたりするアイデアも紹介されているが、さらにオーブンでピザを焼くアイデアに発展させ、食を楽しんでもらおうというのが食工房である。
 小テーブルには異なった木材を使って木の違いを楽しむこともできるようにしてあったり、長さ10mに近い松をチェーンソーでカットした長テーブルに使ったりと、オーナーの熱の入れようが伝わってくる。

 こうした地場材を巧みに使ったデザインが高く評価され、1999年農林水産大臣、2000年いしかわ景観大賞、2000年グッドデザイン賞、2002年中部建築賞を受けている。

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2005年金沢21世紀美術館を訪ねる、直径113mの円形平面を通路が貫通し視線が重なる

2016年12月27日 | 旅行

2005 金沢21世紀美術館   21st century musium of contemporary art, KANAZAWA 石川県金沢市広坂/妹島和代+西沢立衛/2004.6  /2005.8 (写真はホームページ参照)

 兼六園と金沢市役所のあいだの広場を使ったこの美術館は直径113mの円形平面のなかに14の展示室、4つの光庭、レクチャーホールやギャラリー、カフェ、キッズスタジオなどを配置した独特のプランをとり、市民の交流ゾーンと美術館ゾーンの両方を兼ね備え、市民が気軽に立ち寄れる美術館が目指された。

 その特徴の第1は、立地条件を活かして敷地を囲む北側の広坂通り、西側の市役所通り、東側の本多通り、さらに南の柿木畠に入り口をとり、どの面も正面となり、どちらからでもアクセスできるように円形プランを採用したこと。
 特徴の2は、外周や光庭、室内壁にガラス張りを多用したうえで、格子状に貫通する通路をいくつか設け、外部-内部-内部-外部へと視線が抜ける見通しをつくり出し、関心を誘発させていること。
 第3は、14の展示室はまったく異なった形状をとり、それぞれの部屋が独立して配置されていること。この結果、各展示室は自立的に展示を企画することができ、新しい芸術表現である音やにおいなどの多様なメディア、あるいは躍動的なパフォーマンスなどの展示を気兼ねなく行うことが可能になる。
 特徴の4は、貫通する通路をや中庭、コーナーやそれぞれの展示室からもお互いの様子をかいま見ることができ、新たな関心が誘発される構成をとっていること、である。

 このような配置スタイルは、金沢のような古くからの町並みで、通りや路地を歩きながら家並み、店、通りをのぞき込んで新たな発見を重ねていくそぞろ歩きに相通じるように思う。

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2005年 象設計集団の九谷美術館を訪ね、青手、九谷五彩手、赤絵金襴手を鑑賞

2016年12月26日 | 旅行

2005 石川県九谷焼美術館 KUTANI art musium/石川県加賀市大聖寺/設計:象設計集団/2001  /2005.8  写真はホームページ参照

 九谷焼は、大聖寺藩初代藩主前田利治が九谷村の鉱山開発での陶石発見を機に磁器生産を指示し、現加賀市大聖寺に九谷窯が開かれた(17c中ごろ)ことに由来する。
 当初、備前有田で技術修得をしたそうで、色絵にどことなく共通点がうかがえるのはそのためかもしれない。
 その後、一時九谷焼が衰退し、19cに再興されたため、17c~の作品を古九谷と呼び、19c~を再興九谷として区別している。
 
 古九谷は、しっかりした線描の上に絵の具を厚く盛り上げるように塗るのが特徴で、色調は紫、緑、黄を主色とする。
 題材には花鳥、山水、風物が多い。とくに、緑・黄・紺青・紫の四彩で仕上げた青手は日本の油絵と称されるほど絵画性の強い表現として知られ、再興九谷でもその伝統が遺憾なく発揮されている。
 九谷五彩手と呼ばれる焼き物は赤・緑・紫・紺青・黄を使って山水・花鳥風月・人物を表したもので、青手とならび古九谷を代表する。
 また再興九谷で新たに創出された赤絵金襴手も九谷を代表する名品が多い。

 九谷焼美術館は、九谷焼ゆかりの大聖寺に、そばを流れる暴れ川の治水公園を象設計集団が手がけたことからその公園との一体的な景観を意識して、配置されている。
 外観(写真)、内部には九谷焼のモチーフとなる陶片や陶土を表現に取り入れ、中庭(次頁上写真)を巡るように青手の間、色絵・五彩の間、赤絵・金襴の間が九谷焼の発展を暗示して展開する(次頁中写真、次頁下写真)。
 それぞれ内部意匠は焼き物の特性を引き出す表現であり、中庭、北の庭、東の庭を挟み込んだ場面転換もたくみで、九谷焼を存分に楽しむことができる。
 企画展示と2階喫茶をつなぐ吹き抜け、喫茶~公園の誘導もよく、つい回遊したくなる。
 公園は水の造形とあいまって憩いの場をつくり出してる。ピクニック気分のグループもいて、市民にすっかり馴染んでいるようだ。

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