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「地中の星」斜め読み2/2

2024年07月10日 | 斜読

 book563 地中の星 門井慶喜 新潮社 2021

第4章 浅草 開業そして延伸
 1927年12月、東京地下鉄道開通披露式が行われる(1925年着工から2年、日本初の地下鉄道だから予想外の早さというべきか)。開通披露式の3時間前に、朝香宮鳩彦王、竹田宮恒德王による台臨があった。日本初の地下鉄道への関心の高さの表れである。
 徳次は、招待者に「午後1時から3時まで、ご都合のよろしい時間にお越し下さい」と案内した。招待者は、地下鉄道の入口から階段を下り、自動改札機を通り、プラットホームからレモンイエロー色の電車に乗る。電車が走り出すと歓声が上がる。闇の中にテールランプの赤い点が遠ざかる・・門井氏はここに本のタイトルである地中の星を挿入していた・・。

 招待者への挨拶が一区切りした早川徳次に、五島慶太が話しかける。五島は、目黒蒲田電鉄(=目蒲線)の役員であり、関東大震災後に沿線に移り住む人が増えて売り上げを伸ばし、1926年に丸子多摩川-神奈川間、1927年に渋谷-丸子多摩川間に鉄道を敷いた(1928年には横浜まで延伸させた=東横線)。
 巷では、地下の早川、地上の五島と呼んでいた。その徳次に五島は延伸計画を問うと、徳次は新橋と答える。

 このあと豪雨が原因で延伸工事に崩落事故が起き、奈良山勝治のミスではないが人心が離れた勝治は大倉土木を辞めて港湾労働者になり、生活が苦しいので妻のすみ子が芸者見習いになり、軻母子が誘ってすみ子と地下鉄に乗った話などが挿入されるが、割愛する。

第5章 神田 川の下のトンネル 
 2年後の1929年、松浦半助監督のコンクリート施工が始まる。掘削の終わった坑道の地面にコンクリート流し、固まったら防水のアスファルトに浸したジュート(黄麻)を乗せ、もう一度コンクリート流す。地面が終われば両側の壁、天井に骨材の比を変えてコンクリートを施工し、コンクリート造の石筒ができあがる。
 コンクリート施工が終われば電気設備工事が進められる。上野-万世橋間の電気設備が終わり、1930年1月、上野広小路、末広町、万世橋の3駅が開業した。上野広小路駅から階段一つで松坂屋上野店に入れのが評判になった。

 その一方で、大倉土木会長・門野が設立した東京高速鉄道株式会社の渋谷駅-東京駅間に東京市から免許がおりる。対する徳次には資金が無い。浅草-万世橋7駅では乗客は増えないので運賃収入は減っていて、市バスが運賃を下げ、苦境に立たされる。
 神田川の川底工事が終わっても日本橋川、京橋川、汐留川が続き、新橋到達の目処が立たない。新橋が先か、破産が先かの状況で、1931年11月、神田川をくぐり抜け、神田駅が開業する。
 電気設備担当の与原吉太郎から、地下鉄道は猪苗代水力発電所と山梨県の谷村発電所の2系統を自動切替で運用している、などをの話が挿入されるが割愛する。
 
 1931年12月、徳次の案の地上9階地下2階建てターミナルストア「地下鉄ストア」が上野に開店した。いくらか利が出るが副業の域を出ない。12月、年の瀬、徳次は金策に走り、何とか支払いを済ませ、倒産を免れる。神田駅開業の効果で運賃収入が少し好転し、日本橋三越本店直結の三越前駅を目指して工事が進む。

第6章 新橋 コンクリートの壁
 1932年4月、神田-三越前開業、同12月、三越前-京橋開業、1934年3月、京橋-銀座開業、同6月、銀座-新橋開業、1925年着工から足かけ9年、浅草~新橋のあいだを地下鉄が走る。徳次は新橋開通祝賀・地下鉄祭を開催した。徳次は大いに喜びたいところだが、当初の計画は浅草-品川間だからまだ道半ばであり、実は、大規模融資をしてくれた日本興業銀行から借り尽くしていて、資金難のため新たな事業展開ができないでいた。
 地下の早川、地上の五島といわれたが、地下鉄道は1キロあたり500万円とすると、地上は50万円ほど、運賃はさほど差をつけられないから地上の鉄道の利益率はよく、さらに路線を延ばすことができ、沿線人口が増え、利益を上げることができる。五島は順調に地上の線路を延ばしていた
 
 徳次に、東京高速鉄道社長・門野から、小田原急行鉄道社長、京王電気軌道社長を取締役にし、五島慶太を常務取締役にした地下鉄道免許の挨拶状が届いた。門野の地下鉄道は渋谷-霞町-溜池-虎ノ門-有楽町-東京駅である。
 五島は門野に、路線を少し変更して徳次の地下鉄道との乗り入れを説く。徳次が同意するか?、五島は徳次が反対ならば徳次の会社を買収すると話す。五島の動きは早い。新橋-虎ノ門-赤坂見附-青山1丁目-青山4丁目-青山6丁目-渋谷の路線変更の免許を受け、1939年全線開業を目指し、1935年10月に着工する。
 徳次の地下鉄工事に比べて短期間なのは、五島の資金力、五島に対する銀行の信頼度の高さ、渋谷-新橋間の工事のしやすさが背景にある。
 
 五島の地下鉄道工事は順調に進み、1939年1月に渋谷-新橋間が全通する。五島は新橋で徳次の地下鉄と乗り入れを進めたいが、徳次と連絡が取れない。新橋駅はコンクリート壁1枚をへだてて、徳次の新橋駅の隣に五島の新橋駅が設置された。電車はそれぞれ新橋から浅草、渋谷へと折り返した。
 9ヶ月後、乗客の利便を考え徳次が折れ、壁が取り払われ、駅は一つになり、線路がつながって浅草発-渋谷行き、渋谷発-浅草行きが走った。壁撤去、線路接続の工事に、大倉土木からの指示で道賀竹五郎、坪谷栄、木本胴八、西中常吉、松浦半助が立ち会った。奈良山勝治夫婦はその後行方知れず、与原吉太郎は病死で立ち会っていない。門井氏は工事を実際に担当した監督、職人に光を与えようと筆をさ捌く。

 話が前後するが、五島は徳次と関係の深い京浜電気鉄道の過半数の株を買い、1939年に京浜電気鉄道の専務取締役に就いていた。続いて徳次の会社である東京地下鉄道の株を買い占め、筆頭株主になる。徳次は五島を裏切り者と激怒するが後の祭りである。
 徳次、五島の対決が膠着したため、鉄道省監督局鉄道課長・佐藤栄作(のちの総理大臣)が調停に乗り出し、両者ともに身を引けと勧告する。徳次はあっさり承諾し、社長を辞任し、その後の相談役も辞して、本社を後にした。
 国は、新たに営団という企業体をつくり、徳次、五島の地下鉄道は営団地下鉄に集約される。五島は出資者の端に名を連ねた。

 1941年6月の早朝、早川徳次がまだ寝ている時間に五島慶太が訪ねてくる。五島は営団の理事就任が内定していて、営団総裁、副総裁が懇親会を開き、徳次と五島を仲直りさせようとしていると打ち明ける。五島は徳次に、徳次の地下鉄への熱意を学んだから自分も地下鉄を作ろうとした、あなたは「地下鉄の父」と呼ばれると話し、軻母子に「早川さんをいつも尊敬していた」と語る。徳次と五島は懇親会で固い握手を交わす。
 ほどなく、日本は太平洋戦争に突入、そのさなかの1942年11月、徳次は急性肺炎で逝去する。
 2004年、営団地下鉄は民営化し、東京メトロと呼ばれる。銀座駅に「地下鉄の父」と題した朝倉文夫作の早川徳次の胸像が置かれている。などが紹介されて幕が下りる。

 銀座線は何度も利用している。その先駆者である「地下鉄の父」については知らなかった。門井氏の本で新たな知見を得た。早川徳次像を眺め、先駆者たちの思いを夢想したいね。  (2024.4)

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