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「東京、はじまる」斜め読み1/2

2023年07月06日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book553 東京、はじまる 門井慶喜 文藝春秋 2020

 門井慶喜(1971-)著の「家康、江戸を建てる」(book482)は、1590年に豊臣秀吉から江戸に転封を命じられた徳川家康が寒村だった江戸に入り、いまに残る江戸城下を築く物語である。
 物語はそれぞれ主人公の異なる利根川、金貨、飲み水、石垣、天守の6話で、史実に基づき、学術的な裏付けをとった講話的な筆裁きで、知識が整理され、新たな知見も得ることができた。江戸の成り立ちに関心のある方にお勧めである。


 そのつもりで門井著の「東京、はじまる」を読み始めた。「家康、江戸を建てる」とはずいぶんと趣が違った。
 むしろ「金吾、東京を建てる」と言いたい物語で、辰野金吾(1854-1919)がお山の大将如く才能を発揮し、日本銀行を建て、東京駅を建て、生涯200以上の建物を建て、議事堂も目指したがスペイン風邪を患って息を引き取る展開だった。
 筆裁きもくだけていて、金吾の性分を表しているように感じた。


 明治10年=1877年、工部大学校が開校し、ジョサイア・コンドル(1852-19120、ロンドン生まれ)により日本で初めての造家学(のちの建築学)が始まった。その第1回卒業生が辰野金吾(備前唐津藩下級藩士)、曾禰達三(1857-1937、備前唐津藩上級藩士)、片山東熊(1854-1917、長州藩、山県有朋と知己)、佐竹七次郎(1856-1922、讃岐高松藩)の4名だったことはよく知られている・・コンドルが金吾のたった2歳年上に驚かされる・・。
 辰野金吾設計の日本銀行や東京駅、曾禰達蔵設計の慶応義塾大学三田図書館(=三田メディアセンター)、片山東熊設計の迎賓館赤坂離宮や東京国立博物館表慶館などなど、日本近代化の象徴ともいえる黎明期の建築に機会あるごとに足を延ばし、そのたびに先人の意気込みに感銘した。
 「東京、はじまる」は、辰野金吾と黎明期の建築家が「江戸を壊し、東京を建てる」熱い意気込みが描かれている。


 物語は辰野金吾の年表を追うように、第1章 六歳児、第2章 江戸、終わる 、第3章 二刀流 、第4章 スイミング・プール 、第5章 東京駅 、第6章 八重洲と丸の内のあいだ 、第7章 空を拓く、と展開する。


第1章 六歳児
 第1章は、金吾がロンドン留学から3年ぶりに帰国、横浜港に着いたところから始まる。出迎えの曾禰達蔵が、3年前に結婚した9歳年下の金吾夫人秀子と長旅の疲れを癒やすようにとグランド・ホテルを予約しておいたにもかかわらず、金吾は私が一日に休めば東京の街造りも一日遅れると言い、工事半ばの鹿鳴館を見に行くから秀子は1人でホテルに泊まれと告げ、達蔵と新橋行きの汽車に乗り込む。
 ・・のっけから、金吾の磊落(らいらく)さ、野放図さ、自分が東京を造るという気概さが描かれる・・。


 金吾は高さ15mほどの鹿鳴館の足場を上る。足がすくみ、踏み板にしがみつきながら、目の前の福岡藩黒田家、広島藩浅野家、彦根藩井伊家などの江戸の武家地を見て、近代化では16歳になったが街の風景は六歳児に過ぎない、と思う。
 金吾は、近代化のためには東京に大勢が住まなければならない、土地を効率よく利用する必要があると、鹿鳴館設計者である師のコンドルに話す。
 対して、コンドルは、コンドルの師であり金吾が留学したウィリアム・バージェス(1827-1881)の教えのように、建築は美術であると応える・・金吾はのちに効率より美術と主張を反転させ、弟子に反発される・・。
 翌日、金吾は工部省営繕局に配属され、翌年、すべての建築技術者を統轄する権少技長に就き、加えて工部大学校造家学科教授に就任する。代わってそれまで教授だったコンドルは退職し、コンドルは民間建築事務所を開く、などが第1章に描かれる。


第2章 江戸、終わる
 第2章では曾禰達蔵との出会いや工部大学校進学のいきさつが描かれる・・二人の身分や出会いを知った。門井氏は史実をよく調べている・・。
 金吾は備前唐津藩下級藩士の姫松家に生まれる(のちに辰野家の養子になる)。金吾が9歳のとき、唐津藩主の世子・小笠原長行が江戸に向かう行列に、金吾は蹲踞を忘れて声を上げたため近習の侍に囲まれる。近習の一人が長行の小姓・上級藩士曾禰達蔵11歳だった(金吾の2歳年上)。
 小笠原長行は奏者番を任じられ、老中格として外国御用取扱の重責を任され、西洋人と頻繁に交渉する。達蔵も外国人を接待した。


 しかし、幕府が瓦解し長行は朝敵となる。藩主小笠原長国は新政府に融合したため達蔵は唐津に戻ることができ、唐津の英学校に入る。先生はアメリカ帰りの東太郎(1854-1936、金吾と同年、本名高橋是清、異能ぶりを発揮しのち大蔵大臣、総理大臣)である。英学校帰りの達蔵と会った金吾も英学校の生徒になる。
 東太郎が東京に行くことになり、達蔵、金吾らも東京に出て東太郎の勧めで工部省工学寮の入学試験を受ける。達蔵は合格するが金吾は不合格になる。金吾は猛勉強し、2ヶ月後の再試験で合格する。
 2年の予科のあと、金吾、達蔵ら4人がコンドル教授の造家学に進む。コンドルは達蔵の方が優秀だが性格が温和なので、日本のためには金吾の将来性が期待できると金吾を首席で卒業させ、コンドルの師であるウィリアム・バージェスのもとに留学させる。
 1885年、工部省は廃省になり、工部大学校は帝国大学工科大学に改組される。
 第2章は江戸が終わり、明治が始まるときの金吾が描かれる。


第3章 二刀流
 工部大学校は帝国大学工科大学に改組され、辰野金吾は造家学 教授に就任する。教授では自分の国は自分で建てる、東京を真の首都にする野心を果たせないので、辰野建築事務所を開く。
 金吾の5つ下で子どものころ家が向かい合っていた岡田時太郎が大阪造幣寮を経て文部省に入っていて、帝国大学理科大学の工事を担当していた。金吾は辰野建築事務所に時太郎を誘う。
 金吾の留学中に大蔵省・松方正義により日本銀行が開業した。当初は木造だった。業務増加のため、総裁は新築を要望、内閣臨時建築局・総裁山尾庸三は東京の建物をすべて任せようとドイツ人ヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマンを招聘するが、日本銀行の設計に間に合わないのでコンドルを指名する。


 金吾は山尾庸三に直訴しようと働きかけ、指定された鹿鳴館に出かけると伊藤博文総理大臣らが待ち受けていた。日本銀行の設計は自分でと意気込む金吾は、コンドルは凡百、月並みと切り出す。コンドルも同席していて、日本銀行は日本にふさわしい穏健で中庸な意匠にするべきであると反論する。
 金吾は、世界に打って出る精神が必要と説き、将来の日本の街づくりはドイツかイギリスかの選択ではなく、日本か外国かの選択と迫る。伊藤博文は日本人と即答し、金吾が日本銀行を設計することが決まり、銀行、議院、諸官衙調査のための欧州滞在が内示される。
 第3章では辰野金吾が日本銀行の設計を勝ち取る展開、金吾の名調子=著者門井氏の筆裁きが光る。  続く
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