yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2008.2奈良を歩く5 薬師寺

2021年08月25日 | 旅行

日本を歩く・奈良の旅>   2008.2 奈良を歩く5 薬師寺 南門・中門・西岡常一・金堂・薬師三尊・東塔・西塔・大講堂・蕎麦切り

 11:50ごろ、法隆寺iセンター駐車場を出る。薬師寺は北東に7~8kmほどになる。道筋は分かりやすいが、道路は各地を結ぶ幹線のようで混みあっている。流れに乗って、12:00過ぎに薬師寺駐車場に着いた。
 駐車場の西を走っている近鉄橿原線に沿った細道を北に歩くと、薬師寺南門が建つ(写真web転載)。
 もともと薬師寺西門として、室町時代1512年に建てられたが、南大門が焼失したため南大門跡の現在地に移築されたそうだ。間口一間の四脚門形式で、切妻屋根、本瓦葺きである。国の重要文化財であり、通行禁止なので左の小門から入る。

 薬師寺は、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめひこ)の病気平癒のため発願し、680年に藤原京に創建された。718年の平城遷都で、現在の場所に移され、造営は808年ごろまで続いたらしい。南大門を入ると、西~南~東に回廊が巡らされ、南回廊の中央に中門を構え、境内中央に金堂、金堂の左右に西塔、東塔、金堂奥に大講堂の伽藍配置だった。
 しかし、火災、兵火で東塔を残しすべて焼失してしまった。薬師寺管主高田好胤(1924-1998)の働きかけで、1976年に金堂、1981年に西塔、1984年に中門、1991年に回廊、2003年に大講堂が再建され、当初の壮大な伽藍が再現された(伽藍配置web転載)。
 中門は回廊とともに1984年に再建された。朱塗りが鮮やかな間口五間、切妻屋根、本瓦葺きの門構えで、左右には1991年に復元された色鮮やかな武者姿の仁王像がにらみをきかしている。

 中門を入る。正面の堂々とした金堂に圧倒される(写真)。間口五間に2層の本瓦葺き入母屋屋根を乗せているが、階高を高くし裳階を回しているので、バランスがいい。青い空を背景に堂々と体を広げているような大らかさを感じる。
 金堂再建の棟梁は宮大工西岡常一(1908-1995)である。国は国宝薬師三尊を火災から守るため鉄筋コンクリート造を主張、西岡常一は木造を主張、議論を重ね、内陣をコンクリート構造でつくり木造で覆うことになった。
 内陣には右に日光菩薩、左に月光菩薩の立像を従えた薬師如来の座像が並び、薬師三尊と呼ばれる(写真web転載、国宝)。
 薬師如来像は高さ255cmほどで、当初は金箔で仕上げられていたようだ。顔はふっくらとしている。台座の彫刻は細やかで、webによればギリシャ文化、ペルシャ文化、インド文化、中国文化の影響がうかがえるそうだ。異文化にあふれているが、参拝時は見分けがつかなかった。
 日光菩薩像、月光菩薩像は腰を少し曲げている。ダイナミックに腰を曲げているヒンズーの神々の影響だろうか。夢想は世界を駈け巡る。合掌。

 薬師寺は金堂の東、西に仏塔が建つ。
 釈迦の入滅後、遺骨=仏舎利を分け、埋葬して盛り土をした塚をストゥーパstupaと呼んだ。ストゥーパはサンスクリット語で、「高く顕れる」の意味であり、ストゥーパを遠くからでも礼拝できるように目印が立てられた。ストゥーパを中国で卒塔婆と表記し、日本に伝わり塔婆、塔に略された。釈迦の仏舎利は限りがあり、やがて経文などを埋めた上に高い塔を建てるようになった。
 当初は釈迦の仏舎利が礼拝の対象だから塔が重視されたが、経文、仏像が礼拝の象徴になると金堂=本堂が重視されるようになった。日本最古の寺院である飛鳥寺は塔が中心で左右後方に金堂が配置されたが、四天王寺では塔が南、金堂は北に配置され、法隆寺では西に塔、東に金堂の配置となり、薬師寺では金堂を中心に東と西に塔が建てられた。この後は、塔を回廊の外に建てる伽藍配置が主流になる。

 金堂の右に建つ東塔は、各層に裳階を付けた三重塔である(写真、730年ごろ、国宝)。裳階を付けないと各層の高さが間延びしてしまうし、階高を押さえた三重塔にすると押しつぶされたような形になってしまう。階高を高くし、裳階を付けて形を整え、さらに最頂部にストゥーパの名残である相輪を乗せていて、大宇宙に伸び上がろうとする勢いを感じる。
 相輪までの高さは34mである。相輪には火除けを願う銅製の水煙が東西南北方向に付けられていて、飛天が舞い、笛を吹き、祈りを捧げるなどの透かし彫りが施されているらしいが、肉眼では見えない。
 外壁の裳階下には連子窓が設けられていたが、修理を重ねるうちに白壁で塗り込まれたようだ。木部は朱塗りが鮮やかだったはずだが、くすんでいてわびた印象である。

  金堂左の西塔は、宮大工西岡常一棟梁による1981年の再建である(写真)。西岡常一氏は木材の乾燥収縮、地盤沈下を見越し、50年後、100年後に東塔と高さ、屋根の反りが調和するよう、東塔より80cmほど高く、屋根は30cmほど長くしたそうだ。
 奈良にかかる枕詞「青丹よし」の青は岩緑青の緑色、丹は朱色で、奈良の都は緑、朱で彩られていたとされる。西塔の木部は朱色、壁面の連子窓は緑色で彩色され、かつての古都奈良の色合いを彷彿させる。

 大講堂は2003年に再建された。数々の偉業を成し遂げた宮大工西岡氏はすでに鬼籍に入っていたが、西岡氏の意をくんだ宮大工によって間口41m、奥行き20m、高さ17m、裳階を回した入母屋屋根、本瓦葺きの大講堂が完成した。
 本尊は弥勒如来であり、金堂の薬師三尊像を模して中央に弥勒如来座像、右に法苑林菩薩立像、左に大妙相菩薩立像を従えた弥勒三尊(白鳳~天平時代、重要文化財)が祀られている。合掌。
 
 すでに13:00を回っていた。休憩をかねて昼食にしようと思ったが食事処が見当たらない。少し北に近鉄橿原線西の京駅、700~800m北に唐招提寺があるので食事処を探しながら北に歩いた。すれ違う人がいない。静かすぎる家並みの先に蕎麦切りの暖簾を見つけた。
 関東では蕎麦、生蕎麦が一般で蕎麦切りは馴染みがない。興味津々で頼んだら、盛り蕎麦だった。細く切った蕎麦は江戸時代あたりから普及したそうで、それまでは蕎麦掻きのような食べ方だったらしい。新しい都の江戸では細切りの蕎麦が広まったが、古都奈良では昔からの蕎麦掻きと新しい食べ方の蕎麦切りを区別したようだ。蕎麦切りの表記に奈良の歴史を感じた。   (2021.8)

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奈良を歩く4 法隆寺夢殿 中宮寺本堂

2021年08月22日 | 旅行

日本を歩く・奈良の旅>  2008.2+2019.3 奈良を歩く4 法隆寺東院四脚門・夢殿 東院鐘楼・伝法堂 中宮寺本堂

 法隆寺東大門を抜けると、築地塀の先の東院四脚門の屋根越しに夢殿の優美な屋根が見えてくる(写真)。
 築地塀の通りの石畳は同じ幅でまっすぐに延びているが、左手の築地塀は途中で左に折れ、その先が少し狭くなっていて、遠近感が強められている。意図的か、偶然かは分からない。夢殿の屋根に気を取られていると、築地塀が狭くなっていくのに気づかないかも知れない。
 東院四脚門(鎌倉時代、重要文化財)は間口一間、切妻屋根、本瓦葺きである。夢殿の回廊に建つ礼堂、絵殿・舎利殿などと同時期に建てられたようだ。
 東院四脚門を入ると、砂利敷きの境内に巡らされた回廊で行き止まりになる。回廊の中ほどの門を入ると、東院伽藍の中核である堂々たる夢殿に目を取られる(写真)。

 夢殿(奈良時代、国宝)は、739年(聖武天皇)に行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲び、消失してしまった斑鳩宮跡の現在地に建てたとされる。斑鳩宮とは、聖徳太子(574-622)が601年(推古天皇)に造営した都である。
 聖徳太子は憲法17条などで知られるように体制の安定に力を注いだ。その当時にすれば新しい世界観ともいえる仏教を採り入れたのも、聖徳太子や推古天皇など、大勢が仏教を深く信じたこともあろうが、体制の安定を視野に入れていたことも否めない。
 しかし、推古天皇の後継者擁立が聖徳太子没後に表面化し、643年(孝徳天皇)、蘇我入鹿が斑鳩宮に攻め込み、後継者として推されていた山背大兄王(やましろのおおえのおう)を始め、上宮王家の人々を自害に追い込むと同時に斑鳩宮を焼き払ってしまった。残っていれば貴重な遺産になる建造物や工芸品を、勢力争いのためにむざむざと焼き払ってしまうとは、人間は愚かとしか言いようがない。
 夢殿の名は、聖徳太子の夢に仏が現れ教示したとの伝説によるそうだ。平面は八角形の八角円堂である。
 八角は、八葉蓮華に由来するのではないか。胎蔵界曼荼羅では大日如来を八葉蓮華の中心とし、東に宝幢(ほうとう)如来、南に開敷華王(かいふけおう)如来、西に阿弥陀如来、北に天鼓雷音(てんくらいおん)如来の四仏と、東南に普賢菩薩、西南に文殊菩薩、西北に観音菩薩、東北に弥勒菩薩の四菩薩を描いている。
 行信が大日経を信じていたかどうかは分からないが、八角円堂の発想は八葉蓮華に通じるのではないだろうか。

 夢殿の本尊は救世観音(飛鳥時代、国宝)である。救世とは世の中の人を救うことで、救世観音は人々を救い導く観音ということになる。761年の記録には上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像と記されているそうだ。となれば、聖徳太子が観音に成り変わり人々を救世するとも考えられる。
 資料を流し読みしていたら、聖武天皇の母親・宮子の父が藤原不比等で、このころは藤原が全盛であり、不比等の4人の息子も重要な官職についていたが、737年、4人の息子が天然痘のためほぼ同時に死んでしまった。これは聖徳太子の祟りということになり、行信がたたりを鎮めるために救世観音をまつった、という記事を見つけた。科学がまだ未熟な時代であるから、あり得そうな話しであり、聖徳太子を観音としてまつるのも不思議ではない気がする。
 救世観音像は、高さは180cm弱で、楠の木彫、漆塗りの上に金箔で仕上げてあるらしい。1884年に岡倉天心(1863-1913)とフェノロサ(1853-1908)が木像を覆っていた白布を取るまで誰も見たことがなかった秘仏であるし、いまも特別開扉以外は非公開である(写真web転載)。目はアーモンド形で、古式な微笑みを浮かべ、手には願いを叶える宝珠をもっているそうだが、2008.2、2019.3ともに秘仏を拝むことはできなかった。
 夢殿は回廊を巡らした境内の中央に位置し、回廊南に礼堂、回廊北に絵殿・舎利殿(鎌倉時代、重要文化財)が建つ。夢殿を一回りしながら、切妻屋根、本瓦葺きの礼堂、絵殿・舎利殿を眺め、参拝を終えた。・・2008.2では、夢殿参観後、薬師寺に向かった・・。
 
 2019.3では、東院伽藍の回廊を出て砂利敷きの境内を北に進む。東院鐘楼が目の前に、その隣に伝法堂が建つ(写真web転載、右が鐘楼、左が伝法堂)。
  東院鐘楼(鎌倉時代、国宝)は袴腰と呼ばれる裾広がりの板葺き腰壁の上に、入母屋屋根、瓦葺きの鐘楼が乗っている。奈良時代につくられた梵鐘が吊られているそうだ。・・無料で梵鐘を見学できるが、通り過ぎる・・。
 伝法堂(奈良時代、国宝)は聖武天皇橘夫人の住宅を移し、仏堂に増改築した建物で、奈良時代の住宅様式をうかがうことのできる貴重な遺構である。もとは5間×4間の桧皮葺と推定されているが、現在は7間×4間の瓦葺きである。・・別途拝観兼を購入すれば見学できるが、通り過ぎる・・。

 伝法堂に沿って東に折れると、中宮寺の土塀で囲まれた砂利敷きの先に小門があり、小門を入ると砂利敷きは植え込みのあいだを南に折れる。左の植え込み、樹木の先に池に浮かぶようにデザインされた中宮寺本堂が見える。
 中宮寺は、聖徳太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后によって斑鳩宮の隣に尼寺として創建された。現在国宝に指定されている菩薩半跏像は当時の金堂の本尊であり、国宝の天寿国曼荼羅繍帳は講堂の本尊背面に飾られていた。その後、寺は衰退した時期もあったが、江戸時代には尼門跡斑鳩御所として維持された。1968年、高松宮妃の発願で中宮寺本堂が建てられた(写真)。
 設計は、近代数寄屋建築の大御所である吉田五十八(1894-1974)で、耐震性、耐火性に配慮し、簡素ながら格調高いデザインが目指された。
 池の周囲には山吹が植えられている。3月は枯れているが、花の時期の写真を見ると山吹が黄金色に輝き、池に写る青い空、赤い円柱、緑の方形屋根の色合いがみごとな対比を見せている。

 南側から池を渡り、本堂の階段を上る。池を渡る、階段を上ることで気分が新たになり、心持ちが神妙になる。
 静謐な堂内の奥に、半跏で右手を頬にあてて思惟する国宝本尊菩薩半跏像が安置されている(写真web転載)。聖徳太子の母・穴穂部間人皇后を模したとの説もあり、柔和な体つき、穏やかな顔は母性をうかがわせる。思惟する顔を見つめていると、清らかな気持ちになる気がする。素材の楠は朝鮮由来だろうが、飛鳥時代の仏師の力量には驚かされる。合掌。南無阿弥陀仏。
 国宝天寿国曼荼羅繍帳(写真web転載、複製、実物は奈良国立博物館)は、聖徳太子妃橘大郎女(おおいらつめ)が聖徳太子の往生した理想の浄土である天寿国を刺繍させた繍帳といわれている。中央の赤い衣が聖徳太子らしい。鮮やかな色合い、豊かな表情は、当時の匠の力量であろう。
 半跏思惟像に合掌して本堂を出る。 (2008.7+2021.8)

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2008.2奈良を歩く3 法隆寺 夢違観音・玉虫厨子・百済観音・東大門

2021年08月19日 | 旅行

日本を歩く・奈良の旅>   2008.2 奈良を歩く3 法隆寺 百済観音・玉虫厨子・夢違観音・東大門

 ガイドの案内で参観者は法隆寺回廊の南東隅から境内を出る。右=南に鏡池、左=北に東室(奈良時代、国宝)が建ち、東室に並んで妻室、綱封蔵(こうふうぞう、奈良時代、国宝)が建つ。ガイドは綱封蔵に沿って北に歩く。右=東に食堂(奈良時代、国宝)が建っていて、北奥に宝物を展示した大宝蔵院が建つ。
 話は変わるが、いろいろな国を旅していると一日券のようなパスが用意されていることが多い。このパスでほとんどの美術館を見学することができる。路面電車やバスとも連携している場合もあり、使い勝手がいい。
 奈良は世界遺産に登録された文化観光都市なのだから、行政や協会などが仲立ちになり一日パスなどの導入を考えてくれればいいのだが、日本では独立採算性?が強よすぎるのだろうか、それぞれごとで参拝券や入場券を購入しなければならないことが多い。
 法隆寺は五重塔、金堂などの西院伽藍、夢殿などの東院伽藍と、百済観音像などを展示した大宝蔵院が共通券になっていてやや改善されている。その券で大宝蔵院に入る。

 大宝蔵院は中庭の四方を展示室が囲んだ四角い建物で、百済観音像(飛鳥時代、国宝)、夢違観音像(白鳳時代、国宝)、玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)など、教科書に出てくる宝物が展示されている。しかも中は明るい。できれば目線のいいところに椅子を置いてくれればじっくり鑑賞できる、と思ったりしながら一つ一つをていねいに見て回った。本来、仏像仏画は礼拝の対象である。しかし、明るい展示室に置かれると、美術品の鑑賞になってしまいそうである。仏教芸術に親しむのが仏道入門の第1歩と思い、鑑賞しながら参拝することにした。・・2008.2でも感動したが、2019.3も感動を覚えた。名作の力であろう・・。
 参観は左手の西宝蔵から始まり、中央の百済観音堂を経て、右手の東宝蔵を順に回る。多くの名品、名作、絵画、刀剣などが展示されているが、印象深い3点を記す。

 夢違観音像(白鳳時代、国宝)は、夢を違えてくれる御利益があるということで、不吉な夢を見た人の信仰を集めたようだ(写真web転載)。
 そもそも菩薩とは成仏(=如来)を目指した修行者のことであるが、成仏の域に達しながらも如来にならず菩薩として人々を教え導いてくれる仏たちもおり、観音菩薩もその一人である。
 観音菩薩は人々を教え導く際に、救う相手にあわせ33の姿に変身するとある。無限界の世界の存在であるからもともと形などはなく、人々を教え導くときは人間に近い姿形になるということであろう。
 この夢違観音像は高さ90cm弱の銅製で、顔はややふっくらとし、体も人間のプロポーションに近い。左手には小さな水瓶をもっていて、観音であることをうかがわせる。煩悩の世界に生きる身を導いてくれるのだから大変ありがたいことである。思わず合掌、南無阿弥陀仏・・。

 玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)は、台座となる須弥座(しゅみざ=仏教では世界の中心にそびえる山を意味する)の上に宮殿を模した建物が置かれていて、高さは2.3mほどである(写真web転載)。目線の開口から中を拝むと千体仏がめぐらされていた。
 厨子は仏像や舎利、経典などを治める容器であるから、ここにも阿弥陀如来などがまつられていたのかも知れない。
 縁の透かし彫りの金具に玉虫の羽が敷いてあったことから玉虫厨子の名がついたそうだ。意識して玉虫を見たことがないから定かではないが、ジーと見ていると光線の加減で緑青色に輝いている部分がある。千数百年前、朝日や夕日を浴び燦然と輝いたのではないだろうか。玉虫の羽を厨子飾りに用いるといった発想はやはり異人の知恵であろう。

 百済観音像(飛鳥時代、国宝)は大宝蔵院の中ほどにある。身の丈2m強の木像で、まだまだ鮮やかな色が残る(写真web転載)。
 当初は虚空菩薩とされていたそうだ。虚空菩薩は胎蔵界曼荼羅虚空蔵院の中尊だそうで、知恵や功徳が虚空(=広大無限)な菩薩のことである。しかし、いきさつは分からないが明治政府が明治30年1897年に国宝に指定したときは観世音菩薩・朝鮮風となり、昭和26年1951年に国宝指定されたときに百済観音とされたそうだ。
 和辻哲郎も「古寺巡礼」で百済観音と記している。
 観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍として、大慈大悲をもって救世することが本誓とある。般若心経でも冒頭に観自在菩薩として表れ、一般にも観音様として親しまれている。凡人には虚空菩薩も観音菩薩も見分けがつきにくいからどちらでも良さそうだが、観音菩薩はいくら使ってもなくならない功徳水の入った水瓶をもつとあるから、左手に水瓶をもつこの木像は観音菩薩になる。

 百済観音像の材質は楠とある。朝鮮には良質の楠はとれないそうだ。だから百済観音とはいっても、百済でつくられたとは言いがたい。4~7世紀ごろ、朝鮮半島西南で栄えた百済は日本とさかんに交流していた。日本への仏教の伝来も、日本における仏寺のつくり方も、百済抜きでは考えられないし、その当時の日本の王朝の安定に仏教、仏寺が大きな力となっていたのだから、大勢の百済人が日本の政治や文化、技術を支えていたと考えるのは的を射ていよう。
 たぶん、観音菩薩、虚空菩薩も百済の匠が手ほどきしたであろうし、先進文明である朝鮮風にすること、さらには隋や唐風にすることが当時は先端であり、あこがれであったであろうから、あえて異人風であることが目指された、のではないだろうか。
 そのためか、面長で、体はほっそりとし、胴に対し足が長く、日本人離れしている。まだ残っている彩色から想像すると極彩色だったようで、伸びやかで、軽やかで、色鮮やかな観音像を見て、当時の人々は神々しく感じ、思わず帰依を願って合掌したのではないだろうか。私も、南無阿弥陀仏・・・。

 ほかにも橘夫人持仏及び厨子(白鳳時代、国宝)、地蔵菩薩像(平安時代、国宝)、百万灯(奈良時代、重要文化財)、飛天図(飛鳥時代、重要文化財・・2000年8月、敦煌莫高窟で見た飛天図を思い出す・・)など、見応えのある名品が展示されている。

 鑑賞+参拝していると、段々記憶が錯綜してくる。大宝蔵院を出て南に歩くと茶所=無人休憩所があり、一息する。・・2019.3でガイドをお願いしたとき、2時間コースにしましょうかと言われた。南大門から大宝蔵院を出るまでがだいたい2時間である。2008.2のときはガイド無しの急ぎ足だったが1時間半はかかった。飛鳥時代の名刹に浸るには相応の時間が必要である・・。
 ガイドの案内は2時間コースなのでここで終わりだが、私たちはこのあと夢殿や中宮寺も見学すると言ったら、次の予定がないからと道案内をしながら、見どころを教えてくれた。毎日ガイドで歩いているので病気知らずだという。中宮寺で別れるとき、よくよくお礼を伝えた。感謝、お元気で!。

 築地塀の通りを東に向かうと、途中に東大門(写真、奈良時代、国宝)が建つ。もとは南面していて、現在地への移築されたそうだ。間口3間、切妻屋根、本瓦葺きの八脚門を抜けると夢殿が見える。  (2008.7+2021.8)

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2008.2奈良を歩く2 法隆寺 回廊・五重塔・金堂

2021年08月18日 | 旅行

日本を歩く・奈良の旅>  2008.2 奈良を歩く2 法隆寺 回廊・五重塔・金堂・大講堂・上御堂

 法隆寺中門が正規の入口だが、参拝者は中門の左右に延びる回廊の南西隅から入る。手前に五重塔、右奥に金堂が見えるが、回廊伝いに正規の入口の中門まで行く。中門の柱は巨木である(写真)。
 ギリシャ神殿は石柱で、柱の中ほどに膨らみをつけたエンタシスentasisになっていて、中学のころ、美術の時間に法隆寺などの柱もエンタシスになっている、と習った。石材と木材の違いがあっても、目の錯覚を補正し、安定感を強める発想は共通する。奈良時代の匠の技量は図抜けていたようだ。

 中門から見上げると、五重塔(飛鳥時代、国宝)は天をつくばかりである(写真)。中門から入った当時の人々は、度肝を抜かされたに違いない。
 平面は10.9×10.9mであるが、上に行くほど平面が小さくなっていて、5層目は初層の半分だそうだ。応じて屋根も小さくなっているため、高さ32.5mがさらに強調されることになる。
 屋根は本瓦葺きだが、1層目につけられている裳階は板葺きで、1層目の屋根より小ぶりである。裳階は庇のようなものだからつけなくてもいいような気がするが、裳階をはずしてしまうと1層目が間の抜けたプロポーションになる。
 だからといって1層目の高さを低くすると、1層目が押しつぶされたような構成になる。塔の中心に立つ心柱の下には舎利容器が納められており、当然、重要な礼拝の場になり、となれば1層目はそれなりの天井高が必要で、その結果、1層目を高くし、庇状の裳階をつけた、と考えられる。
 五重塔の屋根の先端を目で追いかけていくと、上に行くほどそりあがって見えるので、屋根が天空に舞い上がる様な感じになる。
 当時の人はこのような緻密なデザインをどうして考案できたのか?。千数百年たったいま、応じて人智はいかほどに伸びたのだろうか、などと思いながら見上げていたら、見学グループに説明していたガイドが一緒に聞いたらと手招きするので、しばし同行した。
 ・・2019.3のときはインフォメーションでガイドをお願いした。ガイドは分厚い資料を持っていて、折々に資料を見せながら解説してくれた。ガイドそれぞれの工夫や話し方に特徴があるらしい・・。

 2008.2に戻る。五重塔1層目には奈良時代初期の塑像が安置されている。例えば、北面は釈迦の涅槃像と嘆き悲しむ僧侶や動物たちで、ガイドが懐中電灯で照らすとそれらの像が浮かび上がるが、奥は暗いし、近づけないので、ボヤーとしか分からない。ガイドはここぞとばかりに手持ちの写真集を広げ、塑像の解説をしてくれる。東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、西面は舎利の分割、南面は弥勒菩薩の説法だそうだ。
 境内では、修学旅行らしい中学生が僧侶の説明に聞き入っていた。世界でここにしかない、世界最古の法隆寺に気軽に触れあえることはすばらしいし、僧侶が仏教をからめて説明してくれれば、法隆寺の偉大さや日本の歴史おける仏教の重要性、あるいは浄土を思う気持ちなどに小さいうちから親しむことができる。ここで学んだ中学生から、歴史研究者、宮大工、高僧が生まれるのを期待したい。

 金堂(飛鳥時代、国宝)は五重塔と同じ東西軸上にあり、信仰対象としては五重塔と同じ重みをもつ。
 金堂に本尊である釈迦三尊像(飛鳥時代、国宝)を中央に、薬師如来像(飛鳥時代)、阿弥陀如来像(鎌倉時代)が並び、守護神として木彫の四天王像(白鳳時代、日本最古)が取り囲んでいるはずだ。実際には中が暗く、写真撮影も禁止だから、詳しくはパンフレットになる。
 パンフレット+webによると釈迦如来は聖徳太子と等身で、顔も聖徳太子だそうだ。法隆寺そのものが聖徳太子の手によるし、偉人の伝説のある聖徳太子だから、釈迦と同等に敬われたのかも知れない。
 釈迦三尊は、通常、釈迦如来から見て左に文殊菩薩、右に普賢菩薩の脇侍が立ち三尊となるが、法隆寺では薬王菩薩・薬上菩薩とされる。薬王菩薩・薬上菩薩は人々に良薬を施す菩薩だそうで、これは法隆寺の本尊である薬師如来によるようである。薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主だそうで、法薬により病を治してくれる。現世に生きる我々にもありがたい如来である。

 法隆寺創建は聖徳太子の父、用明天皇の病気祈願だったそうで、金堂の薬師如来は用明天皇のためにつくられたとあるが、用明天皇在位中には間に合わず、聖徳太子が父を思ってつくらせたのかも知れない。
 一方、阿弥陀如来は西方にある極楽浄土にあって、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。金堂の阿弥陀如来は用明天皇の皇后でもある聖徳太子の母のための像だそうで、聖徳太子の親思いがうかがえる。
 四天王は持国天、増長天、広目天、多聞天のことで、仏教における守護神であり、聖徳太子は四天王に祈願し蘇我馬子との戦い勝ったといわれているので、なおさら四天王が大事にされたのかも知れない。

 金堂の建物は入母屋造り、本瓦葺き、2層の堂々たる建物である。1層目に板葺きの裳階をつけ、2層目は1層目よりも一回り小さくし、堂々たる様を強調している。
 外装に表れる雲形の組物、人字型の束、卍崩しの組子なども独特であるが、長く伸びた屋根を支える束に彫られた龍の勢いも見応えがある(写真)。

 中門の奥正面には大講堂(平安時代、国宝)が建つ(写真、web転載)。入母屋造り、本瓦葺きの1層で、間口が9間あるため金堂(間口5間)に比べ、横の広がりが強調されている。
 僧侶の学問の場、ならびに法要の場として建立されたが落雷で消失し、990年に再建された。堂内には、中央に本尊の薬師如来、本尊から見て左に日光菩薩、右に月光菩薩、薬師三尊の左右に四天王像が守護する形で安置されている。いずれも平安時代の作だそうだ。大講堂の扉は南側に開けられていて明るく、仏像に近づいてゆっくりと拝むことができる。明るいせいか、三尊は穏やかな顔に見える。
 当初は回廊の外に配置されていたが、再建時に回廊を北に延ばして大講堂に接続させたため、境内が広くなっている。

 大講堂の北に上御堂(かみのみどう、鎌倉時代の再建、重要文化財)が建つ(写真、web転載)。入母屋造り、本瓦葺きの1層で、堂内には平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されている。大講堂の仏像との時代の差は見分けがつかないが、合掌、南無阿弥陀仏。

 大講堂に戻る。境内北東からは左に堂々たる金堂、右に高さを強調した五重塔が並び、実に見応えがある。2008.2も2019.3も、偶然、同じ場所から同じ写真を撮っていた(写真)。  (2008.7+2021.8)

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2008.2奈良を歩く1 法隆寺 南大門・中門

2021年08月17日 | 旅行

日本を歩く・奈良の旅>  2008.2 奈良を歩く1 法隆寺へ 西岡常一 南大門 中門 金剛力士像

 2008年2月、夕方東京駅発、京都駅を経由して奈良へ、翌朝レンタカーを借り、法隆寺、唐招提寺、西大寺、興福寺を巡って、夕方に帰るという駆け足で奈良を旅した。そのときの紀行文を2008.7のホームページにアップした。その後、2013.3に室生寺、長谷寺など、2019.3に平城京、春日大社などを巡ったので、2008.2の紀行文に補足して、ホームページにアップし直した。
 
 宿は、天然温泉があり、交通の便もいい近鉄新大宮駅に近い奈良ロイヤルホテルを選んだ。朝9:00ごろホテルを出て、近鉄奈良線新大宮駅から近鉄奈良駅に向かい、予約しておいたレンタカーを借りる。
 まず、世界最古の木造建築として知られる法隆寺を目指す。法隆寺は何度か見学しているが、いつも見とれるように眺めているため、とても和辻哲郎「古寺巡礼」のごとく法隆寺のもつ美しさを論理的に解こうなどという気持ちが起きないうちに見学を終えてしまっていた。
 今回も、金堂、五重塔を目にすると、気高さをつくりだす秘密はどこにあるのかといった考えは雲散霧消し、ただただ近づいて眺め、離れて眺め、視点を変えて眺め、見上げてため息をつき、時間を過ごしてしまった。

 法隆寺は推古天皇の時代、聖徳太子によって607年に創建された。その当時は、ようやく統一王朝が安定し始めた時期であり、まだ都の造営もままならなかったころである。用明天皇の遺志を継いで薬師如来を本尊とする法隆寺が建設されたそうだが、私には、先進文明である仏教、仏寺を背景に王朝を安定させようとしたため、敵対勢力はむろん、あまねく人心を集めるために偉容を誇り、浄土への道を連想させる優美さが目指されたと思える。
 とはいえ、まだ当時の日本にはこれほどの仏寺をつくった経験はないにもかかわらず、桧を用いれば千数百年の風雪に耐えられると予見し、道具が充分に発達していないにもかかわらず高さ32.5mの揺るぎない美しさを誇る五重塔を建ててしまったのだから頭が下がる。
 670年に焼失しての再建だから、より優美なデザインへ修正されたと思うが、現実の五重塔、金堂を目にすると(写真)、その巧みな表現とそれを裏付ける千数百年前の技にただ感動するだけである。

 車は法隆寺入口脇の町営駐車場に止めた。ここにはインフォメーションセンターがあり(写真、2019.3撮影)、その2階に西岡常一氏(1908-1995)を紹介する展示室があった。西岡氏は最後の宮大工と言われるほど技量に優れ、法隆寺宮大工棟梁として法隆寺金堂の復元を手がけ、また、薬師寺金堂、西塔の再建でも知られる。
 2008.2はまだ準備が整っておらず雑然としていたが、2019.3には、1階ホールから大きな吹き抜けで展示室の様子がうかがえて入りやすく、広々とした2階展示室には、五重塔の組み立てを解説したパネル、槍鉋、鉋、鑿などの大工道、夢殿、法隆寺の伽藍などの模型が工夫を凝らされ展示されていた。
 仏寺・五重塔や大工仕事に初めての人には予習になるし、西岡常一氏や仏寺・五重塔に知識をもっている人にも知識をさらに深められる。できれば、ディジタル画像の活用、多国語の解説、スマホ、タブレットとの連携などを期待したい。
 インフォメーションセンターで境内図をもらう(図、web転載)。

 インフォメーションセンターから参道に出ると、松並木の向こうに南大門が見える(写真)。
 南大門(国宝)は1438年(室町時代)の再建で、間口3間の八脚門、入母屋造り、本瓦葺きである。もともとは現在の中門あたりに建っていたが寺域の拡大で現在地に移されたそうだ。

 南大門を過ぎると、中門とその左手の五重塔が見えてくる(写真)。中門(国宝)は飛鳥時代の再建で、間口4間、屋根は入母屋造り、本瓦葺きで、二重にかけられている。柱はエンタシスのデザインで、勾欄には卍崩しや人字型のデザインが採り入れられている。
 南大門を過ぎたあたりから眺めた中門と五重塔のバランスがとてもいい。
 左右に金剛力士(奈良時代、日本最古)が筋骨隆々の体でにらんでいる。金剛力士は通常、阿の口を開いた像(向かって右)と吽の口を閉じた像(写真、向かって左)が対に立つ。阿は怒りを顔に表し、吽は怒りをうちに秘めた表情だそうだ。由来はバラモン経の神々ともいわれるが、当時の人々は初めて目にした金剛力士だけでも仏教の偉大な力を信じたのではないだろうか。

 中門から西、東に回廊が延び、法隆寺伽藍を取り囲んでいる。法隆寺の伽藍は、中門から見て東に金堂、西に五重塔、回廊の北に大講堂が位置する(境内図参照、写真は回廊北東隅から、西の五重塔、東の金堂をみている)。
 仏教の始まりからいえば釈迦の仏舎利をまつったストゥーパが信仰の対象であり、敬虔な仏教国であるスリランカではダーガバと呼ばれるストゥーパが伽藍の中心に位置し、大勢の信者が礼拝をしていた。
 日本では、仏舎利をまつった塔を伽藍の中心に配置する仏寺(飛鳥寺復元図など)もあるが、法隆寺のように金堂と五重塔を対置して配置したり、金堂を中心に置き、その左右に塔を配置する仏寺(薬師寺など)もあり、信仰の仕方の違いが伽藍配置に影響している。  (2008.7+2021.8)

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