<日本を歩く・奈良の旅> 2008.2 奈良を歩く5 薬師寺 南門・中門・西岡常一・金堂・薬師三尊・東塔・西塔・大講堂・蕎麦切り
11:50ごろ、法隆寺iセンター駐車場を出る。薬師寺は北東に7~8kmほどになる。道筋は分かりやすいが、道路は各地を結ぶ幹線のようで混みあっている。流れに乗って、12:00過ぎに薬師寺駐車場に着いた。
駐車場の西を走っている近鉄橿原線に沿った細道を北に歩くと、薬師寺南門が建つ(写真web転載)。
もともと薬師寺西門として、室町時代1512年に建てられたが、南大門が焼失したため南大門跡の現在地に移築されたそうだ。間口一間の四脚門形式で、切妻屋根、本瓦葺きである。国の重要文化財であり、通行禁止なので左の小門から入る。
薬師寺は、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめひこ)の病気平癒のため発願し、680年に藤原京に創建された。718年の平城遷都で、現在の場所に移され、造営は808年ごろまで続いたらしい。南大門を入ると、西~南~東に回廊が巡らされ、南回廊の中央に中門を構え、境内中央に金堂、金堂の左右に西塔、東塔、金堂奥に大講堂の伽藍配置だった。
しかし、火災、兵火で東塔を残しすべて焼失してしまった。薬師寺管主高田好胤(1924-1998)の働きかけで、1976年に金堂、1981年に西塔、1984年に中門、1991年に回廊、2003年に大講堂が再建され、当初の壮大な伽藍が再現された(伽藍配置web転載)。
中門は回廊とともに1984年に再建された。朱塗りが鮮やかな間口五間、切妻屋根、本瓦葺きの門構えで、左右には1991年に復元された色鮮やかな武者姿の仁王像がにらみをきかしている。
中門を入る。正面の堂々とした金堂に圧倒される(写真)。間口五間に2層の本瓦葺き入母屋屋根を乗せているが、階高を高くし裳階を回しているので、バランスがいい。青い空を背景に堂々と体を広げているような大らかさを感じる。
金堂再建の棟梁は宮大工西岡常一(1908-1995)である。国は国宝薬師三尊を火災から守るため鉄筋コンクリート造を主張、西岡常一は木造を主張、議論を重ね、内陣をコンクリート構造でつくり木造で覆うことになった。
内陣には右に日光菩薩、左に月光菩薩の立像を従えた薬師如来の座像が並び、薬師三尊と呼ばれる(写真web転載、国宝)。
薬師如来像は高さ255cmほどで、当初は金箔で仕上げられていたようだ。顔はふっくらとしている。台座の彫刻は細やかで、webによればギリシャ文化、ペルシャ文化、インド文化、中国文化の影響がうかがえるそうだ。異文化にあふれているが、参拝時は見分けがつかなかった。
日光菩薩像、月光菩薩像は腰を少し曲げている。ダイナミックに腰を曲げているヒンズーの神々の影響だろうか。夢想は世界を駈け巡る。合掌。
薬師寺は金堂の東、西に仏塔が建つ。
釈迦の入滅後、遺骨=仏舎利を分け、埋葬して盛り土をした塚をストゥーパstupaと呼んだ。ストゥーパはサンスクリット語で、「高く顕れる」の意味であり、ストゥーパを遠くからでも礼拝できるように目印が立てられた。ストゥーパを中国で卒塔婆と表記し、日本に伝わり塔婆、塔に略された。釈迦の仏舎利は限りがあり、やがて経文などを埋めた上に高い塔を建てるようになった。
当初は釈迦の仏舎利が礼拝の対象だから塔が重視されたが、経文、仏像が礼拝の象徴になると金堂=本堂が重視されるようになった。日本最古の寺院である飛鳥寺は塔が中心で左右後方に金堂が配置されたが、四天王寺では塔が南、金堂は北に配置され、法隆寺では西に塔、東に金堂の配置となり、薬師寺では金堂を中心に東と西に塔が建てられた。この後は、塔を回廊の外に建てる伽藍配置が主流になる。
金堂の右に建つ東塔は、各層に裳階を付けた三重塔である(写真、730年ごろ、国宝)。裳階を付けないと各層の高さが間延びしてしまうし、階高を押さえた三重塔にすると押しつぶされたような形になってしまう。階高を高くし、裳階を付けて形を整え、さらに最頂部にストゥーパの名残である相輪を乗せていて、大宇宙に伸び上がろうとする勢いを感じる。
相輪までの高さは34mである。相輪には火除けを願う銅製の水煙が東西南北方向に付けられていて、飛天が舞い、笛を吹き、祈りを捧げるなどの透かし彫りが施されているらしいが、肉眼では見えない。
外壁の裳階下には連子窓が設けられていたが、修理を重ねるうちに白壁で塗り込まれたようだ。木部は朱塗りが鮮やかだったはずだが、くすんでいてわびた印象である。
金堂左の西塔は、宮大工西岡常一棟梁による1981年の再建である(写真)。西岡常一氏は木材の乾燥収縮、地盤沈下を見越し、50年後、100年後に東塔と高さ、屋根の反りが調和するよう、東塔より80cmほど高く、屋根は30cmほど長くしたそうだ。
奈良にかかる枕詞「青丹よし」の青は岩緑青の緑色、丹は朱色で、奈良の都は緑、朱で彩られていたとされる。西塔の木部は朱色、壁面の連子窓は緑色で彩色され、かつての古都奈良の色合いを彷彿させる。
大講堂は2003年に再建された。数々の偉業を成し遂げた宮大工西岡氏はすでに鬼籍に入っていたが、西岡氏の意をくんだ宮大工によって間口41m、奥行き20m、高さ17m、裳階を回した入母屋屋根、本瓦葺きの大講堂が完成した。
本尊は弥勒如来であり、金堂の薬師三尊像を模して中央に弥勒如来座像、右に法苑林菩薩立像、左に大妙相菩薩立像を従えた弥勒三尊(白鳳~天平時代、重要文化財)が祀られている。合掌。
すでに13:00を回っていた。休憩をかねて昼食にしようと思ったが食事処が見当たらない。少し北に近鉄橿原線西の京駅、700~800m北に唐招提寺があるので食事処を探しながら北に歩いた。すれ違う人がいない。静かすぎる家並みの先に蕎麦切りの暖簾を見つけた。
関東では蕎麦、生蕎麦が一般で蕎麦切りは馴染みがない。興味津々で頼んだら、盛り蕎麦だった。細く切った蕎麦は江戸時代あたりから普及したそうで、それまでは蕎麦掻きのような食べ方だったらしい。新しい都の江戸では細切りの蕎麦が広まったが、古都奈良では昔からの蕎麦掻きと新しい食べ方の蕎麦切りを区別したようだ。蕎麦切りの表記に奈良の歴史を感じた。 (2021.8)