<世界の旅・イタリアを行く> 2020.1 シチリアの旅 9 モンレアーレ大聖堂
シチリアの旅3日目、まだシチリア時間になじんでいないのか、5:30ごろ目が覚める。室内は24℃、44%だから寒くはない。室外は13℃、41%で、埼玉の1月よりは気温は高めである。
5階レストランで朝食を取る。食材は多い。ビュッフェスタイルだが、雰囲気のいい落ち着いたレストランで、ゆったりした気分で朝食を終える。
9:00出発なので、少し早めにロビーに下り、ホテル周りを歩く。8~9階建ての簡潔なデザインの建物が続いている(写真)。地図を見るとホテルの次の通りからは碁盤目状の区画に変わっている。新市街のようだ。広めの通りは植え込み、並木が手入れされ、ゴミもなく、清潔である。朝は人通りが少ないが、昨晩歩いたときはレストランやオープンカフェが賑わっていたから、シチリア人は宵っ張り、朝寝坊ということだろうか。
9:00、パレルモの南西8kmに建つモンレアーレ大聖堂Duomo di Monrealeに向かう。モン・レアーレは王の山といった意味で、王家の狩猟場として利用された標高310mほどの丘陵地である。
シチリア王ルッジェーロ2世(1095-1154)の孫に当たるグリエルモ2世(1153-1189)時代の1169年に大地震が起き、パレルモ大聖堂が倒壊する。ローマ教皇アレクサンデル3世(在位1159-1181)から任命された当時のパレルモ大司教は、大聖堂再建に着手するとともに、シチリア王グリエルモ2世を掌握しようとしたらしい・・パレルモ大聖堂は前述したように1184年に完成する。
パレルモ大司教に反発したグリエルモ2世は、1174年、大司教の覇権が及ばないモンレアーレに、聖母マリアに捧げる新たな教会堂の建設に着手した。教会堂は1182年に完成する。1184年、ローマ教皇ルキウス3世(在位1181-1185)はこの教会堂の首都大司教管区への昇格を承認した。王宮のあるパレルモとは8kmしか離れていないが、モンレアーレにも大聖堂が確立したのである。
グリエルモ2世は祖父ルッジェーロ2世の最晩年に生まれたし、父のグリエルモ1世(1120-1166)とともに王宮に住んでいたから、ルッジェーロの間、パラティーナ礼拝堂に親しんでいたはずで、モンレアーレ大聖堂をアラブ・ノルマン様式でデザインさせた・・王宮、パレルモ大聖堂などともに世界遺産に登録されている・・。
9:30ごろ、モンレアーレ駐車場に着く。駐車場からは、石積み3階建ての建物が壁のように迫っている石敷きの坂道を上る(写真)。石壁にトッレス通りVia Torresと記された標識が埋め込まれている。torreは塔の意味らしいから、通りの名は大聖堂の塔に由来するようだ。
トッレス通りを250mほど上りきると、右手のグリエルモ2世広場Piazza GuglielmoⅡの奥にモンレアーレ大聖堂が現れる(写真、手前が広場)。
大聖堂は、石灰岩を用いた東西軸の奥行き100mほど×幅40mほどの長方形バシリカ式平面である。
ファサード中央の大理石でつくられた3アーチ+円柱のポーチは後世に追加された新古典様式で、交叉アーチの浮き彫りを施したアラブ・ノルマン様式の壁面が隠れてしまっている。石灰岩の大聖堂と大理石のポーチも不ぞろいに感じる。
ポーチ天井には、鷲と獅子をデザインしたノルマンの紋章が飾られていた。
正面の青銅扉は1186年に作られた(写真)。扉前面に浮き彫りが施されている。聖書がモチーフらしい。
西側正面の扉は閉まっていて・・聖職者専用?・・、参拝者、観光客は左手、北側から入場する。
聖堂は3身廊で、中央身廊が広く、側廊は狭い。東側後陣=アプスは、中央身廊奥と左右側廊奥に、三つ葉のように3つの半円が突き出ている。
中央アプスの上段には、左手で開かれた聖書を持ち、右手で祝福を表した全能のイエス・キリスト、下段には幼子イエスを膝に乗せた聖母マリア(写真)、左右のアプスには聖ペテロと聖パウロが、金モザイクを多用して描かれている。
身廊のコリント式オーダーを乗せた大理石の円柱は細身で、天井の高さを強調している。身廊の天井はシンプルな△型の木造骨組みだが、金色と青色を基調にした植物紋様、幾何学紋様ですき間なく埋められている。
中央アプスの天井は、鍾乳石天井ムカルナス muqarnasを連想させる蜂巣状の凹みが木彫で演出されている(写真)。
身廊上部の北、南、西壁面には、ビザンチン様式で、旧約聖書をモチーフにしたアダムとイブ、カインとアベル、ノアの箱舟(写真)、バベルの塔などが金モザイクを多用して描かれている。
身廊の金モザイクの装飾面積は6500㎡を超え、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院を抑えて世界一だそうだ。
身廊壁面の下部は、アラビア様式の幾何学紋様、植物紋様のモザイクで余すところなく仕上げられている。
1997年のイタリアの旅で、モンレアーレ大聖堂の金モザイク装飾に圧倒された。今回は予習をし、気持ちを整え、じっくりとアプス、壁面のモザイク画を鑑賞した。側廊のグリエルモ1世(1120-1166)、グリエルモ2世(1153-1189)の棺、バロック様式の十字架の礼拝堂も見どころであるが、12世紀初頭、キリスト教徒、イスラム教徒が合作したアラブ・ノルマン様式の装飾に見られる秀逸さは群を抜く。グリエルモ2世は祖父ルッジェーロ2世が造営し、自らも父グリエルモ1世と何度も訪れたであろうパラティーナ礼拝堂を手本にしながら、より洗練、昇華させたようだ。
大聖堂の南隣は、47m四方のベネディクト派修道院回廊Chiostoro Benedettinoである。40m四方の中庭を、3重に浮き彫りされたアラブ・ノルマン様式の尖塔アーチ+2本一組の彫刻の施された228本の円柱がぐるりと巡っている(写真)。
中庭は四分割されていて、それぞれにイエス・キリストを象徴するオリーブ、旧約聖書アダムとイブを象徴するイチジク、教会を象徴するザクロ、イエスのエルサレム入城を象徴するヤシ・・シュロとする説もある・・が植えられている(写真)。
中庭南西偶(写真右上隅)には洗礼用の水盤が設けられている。水盤中央の噴水が流れ落ちる柱はヤシの木を象徴し・・シュロとの説もある・・、幾何学模様が浮き彫りされている(=イスラム教的デザイン)。噴水の流れ落ちる柱頭は、人や動物などの偶像が浮き彫りされている(=キリスト教的デザイン)。ここでもイスラム教とキリスト教の融和が図られている。
回廊のデザインも目を引きつける。尖塔アーチを支える円柱は2本が対になっていて、仕上げのない円柱を挟みながら、ギザギザ、斜め、碁盤目などの幾何学紋様を施してある(写真)・・イスラム教的デザイン・・。
柱頭には聖書や世俗をモチーフにした彫刻が施されている(写真)・・キリスト教的デザイン・・。
写真の彫刻は、右手の幼子イエスを抱く聖母マリアにグリエルモ2世がモンレアーレ大聖堂を捧げる光景である。一つ一つを眺めながら意味を読み解いていると、とてつもない時間がかかりそうだ。
回廊を一巡りし、中庭を回遊してから、塔4€に上った。前掲中庭の写真はその途中のテラスからの眺めである。
さらに上ると、北東にパレルモの街並みが丘陵地に包まれて半月状に広がり、その先にティレニア海Mare Tirrenoが青く輝いている雄大な風景が見られる(写真)。半月状の盆地は紀元前から果樹、野菜の宝庫で、パレルモの繁栄の基盤となった。パレルモでは、この盆地をコンカ・ドーロConca d'Oro=黄金の盆地と呼んでいる。
シチリア王たちは、王家の狩猟場であるモンレアーレに来るたびにコンカ・ドーロを眺めて繁栄を喜んだに違いない。だからこそ、パレルモ大司教に反発したグリエルモ2世は、瞬時にモンレアーレに新たな大聖堂を作ろうと思いついたのではないだろうか。
などと考えながら風景を眺めているうち、ツアーグループを見失った。塔からの眺めを駆け足で通り抜け、グリエルモ2世広場でみんなに追いつく。足の早い人は、トッレス通りの土産店で品定めをしていた。11:20ごろ、モンレアーレ駐車場をあとにする。 (2021.3)