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2023.2岡山 備中松山城を歩く

2023年12月28日 | 旅行
日本を歩く>  2023.2 岡山 備中松山城を歩く


 岡山県総社市の宿・吉備路を9:00ごろ出る。ナビに備中松山城を入れ、国道180号線を北上する。国道180号線は高梁川、JR伯備線と並行していて、両側に山並みが続くが、川に沿って風景が開けていて走りやすい。
 60分ほど走り、案内に従って高梁市城下通りと名づけられた川沿いの道に右折する。後述する天守は標高430mに立地し、かなり急な山道を登らないと本丸にたどり着けない。日常、城主は高梁川に近い標高70mほどの山裾に御殿を構え、重臣、藩士たちも御殿の周りに住んでいて城下町が形成され、城下通りと名づけられたようだ。当時の政務は城下の御根小屋で行われた。御根小屋跡が現在の高梁高校だそうだ。
 高梁高校を左に見ながら山あいの城下通りを上っていく。備中松山城の案内板が誘導してくれるので不安はないが、山並みがどこまでも延びている。左右は田んぼ、畑に開墾されていて、ときどき民家が建つ。
 何度目かのカーブを曲がったところに城見橋公園駐車場があった。標高185mほどで、5合目だそうだ。気づかなかったが登城口がどこかにあり1合目を過ぎたらしい。徒歩であればすでに息切れしただろうが、車のおかげで難なく5合目に着いた。土日、祝日、混雑時は城見橋公園駐車場に車を置いてシャトルバスに乗り換え、ふいご峠駐車場まで上り、あとは歩きで本丸に登るのだが、閑散期の平日はふいご峠まで車で上ることができる。
 右に山、左に谷の山道を走る。急なカーブを曲がり左が山、右が谷になり、何度か緩いカーブをまがるとふいご峠駐車場に着く。標高は340mほどで8合目だそうだ。かつてここに宝剣を鍛造するための大きなふいごが置かれていたことからふいご峠と呼ばれた。車はここに置いてあとは歩きである。


 ふいご峠駐車場から山道=登城路が上っている(左写真)。パンフレットには、ふいご峠から本丸まで距離で700m、20分と記されている。登城路は踏み固められているが、木々が茂る山道である。
 登り始めて10数分、山道を右に左に曲がりながら登ると、石垣が現れ、先に台形状の石垣が築かれていた(右写真)。中太鼓の丸跡で、かつて天守と御根小屋の連絡に太鼓が使われ、その太鼓が設置されたところである。通信手段のない時代、城の太鼓や寺の鐘が城の守備や日々の暮らしに欠かせなかったようだ。
 中太鼓の跡を過ぎ、再び山道を登る。傾斜が急なところは石段になっている。さらに7~8分登り大手門跡の石垣に着く(左写真)。石垣はもともとの岩盤を利用して築いたようで、右手上の石垣は下に岩盤が露出している。岩盤の上に石垣を築いているので登城路からは見上げるほど高い。
 登城路は緩やかな勾配になり、石垣をぐるりと回り込んだところが大手門跡になる。登城路の左手には狭間を設け、漆喰で仕上げられた土塀が延びている(右写真)。この土塀は築城当時の遺構で重要文化財に指定されている。


 大手門跡で備中松山城の沿革を読む。承久の乱(1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し挙兵するが破れる)で戦功のあった秋庭氏が1240年、地頭として当地に赴任し、臥牛山大松山に砦を築く。臥牛山は大松山、天神の丸、小松山、前山のの4つの峰からなり、伏した牛に見えることから臥牛山と呼ばれたそうだ。最高峰は大松山で標高は487mである。
 1331年に高橋氏が城主になり、現在の天守が残る小松山(標高430m)まで砦を拡張する。その後、高家、秋庭家、上野家、庄家、三村家と城主が交代、1575年に毛利輝元が城主になる。
 1600年、関ヶ原の戦い後、小堀家が徳川家の代官として入城し、1604年、跡を継いだ小堀政一、のちの小堀遠州が城主となり、城の改築などを手がけた。1617年には池田輝政の弟の長男が入封、1641年に水野家、1642年に水谷家、1694年には播州浅野家預かりとなり大石内蔵助が城代になり、1695年に安藤家、1711年に石川家、1744年に板倉家が城主になり、維新を迎える。
 話を飛ばして、二の丸から見下ろすと、山に挟まれた高梁川と市街が遠望できる(写真)。高梁は山陰と備前・備中・備後を結び、高梁川は舟運が盛んだったようで、城主が次々に変わったり、歴史に名を残す城主もいたりするのは、それだけ備中松山城が軍事的、政治的、経済的要衝だった証であろう。
 
 話を戻して、大手門跡を抜け石敷きの登城路を登る(次頁備中松山城縄張り図web転載加工参照)。右が三の丸で、厩曲輪の高い石垣が立ち上がっている。厩曲輪は馬をつないだ場所である。急な登城路で荷物を運ぶには馬が重宝されたに違いない。
 厩曲輪の先の黒門跡で右に回り込む。登城路の石敷きはけっこう凸凹している。勾配のきついところでは石段になっている。
 黒門跡を過ぎると、何段にも積まれた石垣が行く手を遮る(下左写真)。石垣脇の鉄門跡を抜けると、二の丸である。正面に本丸の石垣+復元された白漆喰の土塀、中央に復元された五の平櫓、その左に復元された本丸南御門、奥に現存の天守が堅固な構えを見せる(下右写真)。
 備中松山城天守は現存12天守の一つで、国の重要文化財に指定されている。日本三大山城にも数えられ、秋には雲海に天守が浮かび「天空の城」と呼ばれて、よく報道に取り上げられる。ただし、「天空の城」を眺める展望台は別の峰にあり、アクセス路は異なる。今回は雲海は期待できないので「天空の城」からの展望はパスする。
 本丸に登る。結構広いが御殿などの痕跡はない。戦国時代には軍事拠点として山城が重用されただろうが、徳川政権以降の平時では本丸、二の丸、三の丸に建てられていた御殿や家臣の屋敷は山裾の城下町に移ったようだ。
 本丸最奥の天守は小松山の岩盤の上に石垣を築いていて3階に見間違えるが、2層2階である(写真web転載)。屋根の黒瓦葺き、2階の千鳥破風、1階の唐破風、白漆喰と腰回りの板壁、幅と高さのプロポーションなど、小規模な天守だが形が整っている。
 対して、岩盤の上に石垣を築き、唐破風出格子窓に石落としを設け、備えは万全である。
 500円のチケットを購入し入城する。太い柱、梁を組み、床は板張り、天井はなく上階の床板が見え、質素、簡潔な作りである(写真、1階)。平時は天守を利用しなかったためであろう。
 天守を出て、北外れの現存二重櫓を見る(写真、重要文化財)。岩盤を櫓台にした2層2階建て、瓦葺き入母屋屋根、白漆喰の壁に腰回りを板壁にするなど、作り方は天守に準じている。中は非公開なので、本丸に戻る。


 本丸、二の丸を下り、鉄門跡、黒門跡、大手門跡を抜ける。山道を下って、ふいご峠駐車場に戻った。
 織田信長が標高329mの金華山に築いた岐阜城も登城路はきつかったが、ロープウェイが設けられていたので登りはロープウェイを利用し、下りは登城路を歩いた(HP「2018.3岐阜城を歩く」参照)。
 標高430mの小松山城に築かれた備中松山城はロープウェイはなく登城路はきつく感じたが、岐阜城が鉄筋コンクリートの再建に対し、備中松山城の天守、二重櫓などは現存である。天守の整った形は美しく見応えがあるし、縄張りも残されていて、登った甲斐があった。気分のいい疲れを感じ、備中松山城をあとにする。
 このあとすでにHPにアップした吉備津神社に寄り(HP「2023.2岡山 吉備津神社を歩く」参照)、岡山駅でレンタカーを返し、新幹線に乗って帰路についた。
 (2023.12)


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2023.2岡山 吉備津神社を歩く

2023年12月24日 | 旅行
日本を歩く>   2023.2 岡山 備中一宮吉備津神社を歩く


 吉備津彦神社を参拝した翌日の12:30、備中国一宮吉備津神社駐車場に車を止める。食事どきなので、名物桃太郎うどんと書かれた「桃太郎」に入った(写真)。桃太郎うどんは雉肉、きび団子、松茸を乗せたうどんだった。茸が苦手なのでにしんそばを食べた。吉備の鰊?、いまや全国の食材が手に入るようだ。
 「桃太郎」の先に吉備津神社の石碑が立ち、石段が南に上っている(写真)。石段左手前に、竹柵で囲まれた矢置石が置かれている。かなり大き古びた岩で苔むしている。
 大吉備津彦命による温羅退治の言い伝えがある。温羅は百済の皇子ともいわれ、目は狼のように爛々と輝き、髪は赤々と燃えるが如く、身長は一丈四尺(≒4.25m、さすがに眉唾と思う)、腕力は人並みはずれて強く、性格は凶悪そのもので、鬼ノ城に館を築き、吉備の人に危害を加えていた。10代崇神天皇は7代孝霊天皇第3皇子・五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)=大吉備津彦命(=大吉備津日子命)を派遣する。大軍を率いた五十狭芹彦命は吉備の中山に陣を敷く。
 五十狭芹彦命が射た矢と温羅が投げた石が空中で衝突し、苦戦になる。五十狭芹彦命は一度に二矢を射ることができる強弓を準備させ、一度に二つの矢を射ると、一つの矢は温羅の石に当って落ちたが、もう一つの矢が温羅の左目に突き刺さる。温羅は雉に姿を変え山中に逃げたので、五十狭芹彦命は鷹となって追いかける。捕まりそうななった温羅は川に逃げて鯉に姿を変える。自分の左目の血で川は赤くなり、のちに血吸川と呼ばれた。
 五十狭芹彦命は鵜に姿を変え、血吸川を逃げる鯉=温羅を噛みあげて捕まえ、温羅は降伏する。以降、五十狭芹彦命は吉備津彦として吉備国を治める。
 矢置石は五十狭芹彦命=大吉備津彦命が矢を置いた石として伝わっていて、温羅が投げた石の落ちたところに矢喰宮があり、近くに血吸川が流れ、鵜が鯉を噛みあげたところに鯉喰神社があるらしい。温羅退治の言い伝えがおとぎ話の桃太郎の鬼退治として伝わった。


 吉備津神社の石段を上る。吉備津神社は山裾に位置し、本殿は南向きに、社は北から南に向かって配置されている。東は山で社林がうっそうとし、西は急斜面である。急峻な石段を上ると朱塗りの鮮やかな北随神門が参拝者を迎える。北随神門は室町時代中期の再建である(写真web転載、重要文化財)。
 北随神門で一礼し、息を整え、続く急峻な石段を上ると、素木の授与所が構えている(写真)。お守り、神札、守護矢などを授与する場所である。
 授与所の天井に吉備津宮の扁額が掲げてあるので、授与所の先の階段の上の素木の建物が拝殿と想像できる(写真、手前は授与所、奥が拝殿)。階段を上がり、拝殿を通して本殿が見える。祭神は大吉備津彦大神を主神とする。二礼二拍手一礼する。
 階段を下る。西側は後述の廻廊が隣りあっているので、東側に回り本殿を見る(次頁左写真、左側が本殿、右側が拝殿)。本殿・拝殿は連結していて、本殿は二つの入母屋屋根を結合した比翼入母屋造で、吉備では吉備津造と呼んでいる。
 本殿・拝殿ともに室町時代中期1425年の再建で、ともに国宝に指定されている。本殿は、桧皮葺の柔らかい質感、軽やかに伸びた入母屋屋根の形、控えめな装飾で優美である(右写真)。


 本殿奥を西に回ると廻廊に続く南随神門があるが、帰りに見ることにして、南の坂道を上り、一童社で一礼、社林のなかを歩き、えびす宮で一礼する。社が並ぶ梅林、社林のなかを歩いて行くと本宮社が建つ。ここが廻廊の南端になる。本宮社で一礼し、廻廊を北に歩く(写真)。
 廻廊は幅一間、瓦葺き切妻屋根で、地形にあわせ総延長360mの廻廊が延びているので、外から見ると雄大である(写真web転載)。戦国時代1579年の再建である。
 なぜ廻廊が作られたのかについては吉備津神社案内にも記されていない。吉備の中山を背にしてここに大和朝廷軍が集結し、西斜面を上ってくる敵を弓矢で射るために塀柵を築いたとしたら、廻廊では開放的すぎる。神事のために作られたのだろうか。謎のままの方が夢想しやすい。
 廻廊の途中で廻廊が枝分かれして下っていて、先に御竃殿が建つ。吉凶を占う鳴釜神事が行われそうだ。1612年の再建で重要文化財に指定されているが、吉凶占いはパスし、廻廊に戻る。
 廻廊を北に上ると南随神門が建つ(写真web転載)。1357年の再建で、重要文化財に指定されている。
 南随神門を抜け、廻廊を上る。廻廊は本殿の横を通り、拝殿横で終わる。拝殿で一礼し、授与所を通り、北随神門で一礼し、吉備津神社をあとにする。
  (2023.12)

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2023.2岡山 吉備津彦神社を歩く

2023年12月23日 | 旅行
日本を歩く>  2023.2 岡山 備前一宮吉備津彦神社を歩く


 13:55に香川・宮浦港を出た四国汽船旅客船は、定刻通り14:10に岡山・宇野港に着いた。宿に預けたキャリーバッグを受け取り、14:42宇野駅発のJR宇野みなと線に乗る。列車は地元の人でほどほど賑わっている。駅ごとに乗り降りする人も多い。どの駅にも瀬戸内芸術祭のデザインが残されていた。
 15:29に岡山駅に着く。予約済みの駅レンタカーに乗り、吉備津彦神社を目指す。
 以前、備中松山城、鬼ノ城、吉備津彦神社、吉備津神社などを訪ねる計画を立てたが、コロナ感染の猛威で中止にしたことがあった。そのときに高田崇史著「QED鬼の城伝説」(book508参照)、西村京太郎著「十津川警部 吉備 古代の呪い」(book510参照)を読んだ。
 「古事記」「日本書紀」をきちんと読んでいないが、かつて備前・備中・備後・美作にまたがる広大な吉備国があった。朝鮮からの渡来人・温羅が吉備国に製鉄文化をもたらした。鉄は農業を革新的に発展させ、鉄剣は強力な武器になった。その温羅の居城が鬼ノ城とされる。
 強大な吉備国に大和朝廷の力も及ばなかったらしい。10代崇神天皇は北陸、東海、但馬=山陰、西海=山陽を平定し、支配下に置こうと四道将軍を派遣する。吉備国の山陽に派遣されたのが7代孝霊天皇第4皇子・五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)=大吉備津彦命(大吉備津日子命とも表記)である。
現在の吉備津彦神社の南東、吉備津神社の東は標高175mの吉備の中山である(次頁図web転載加工)。言い換えれば、吉備の中山の北東に吉備津彦神社、西に吉備津神社が位置する。山には天津磐座(神を祭る石)があり、古代より神の山として崇敬されてきた。大吉備津彦命はこの山の神に必勝を祈り、激戦の末、温羅を討ち取る。のち、吉備国を治めた館跡に大吉備津彦命を祀る社殿が建立された。この社殿が吉備津彦神社の始まりになり、吉備津彦神社は備前国一宮として崇敬されてきた(後述の吉備津神社は備中国一宮)。


 ナビに吉備津彦神社を入れ、岡山駅から県道242号線を西に走り、県道61号線を右折する。JR桃太郎線=吉備線・備前一宮駅手前の左に石の大鳥居が見える(写真)。少し過ぎて第1駐車場に車を止め、大鳥居まで参道を戻り、一礼する。
 参道の両側は、近くを流れる笹ケ瀬川から水を引き入れた大きな神池で、右の鶴島に海上安全の神、左の亀島に水の女神がが祀られている。吉備津彦神社の奥は吉備の中山なので、大吉備津彦命は山を背にして手前に防衛のための堀を構え、のちに神池と名づけられたのではないだろうか。参道から鶴島神社、亀島神社に一礼する。
 神池を過ぎると正面に随神がにらみを効かせた随神門が構えている(写真)。1697年、本殿などとともに池田藩主の建立である。ここから境内になる。
 境内の左右に巨大な石灯籠が建っている(写真)。高さは11.5mもある。1859年、天下太平を祈願して1670名もの人々が寄付をしたそうだ。1853年の黒船来航は岡山にも伝わっていただろうから、人々が渡来人温羅に勝った吉備津日子命に天下太平を祈願したのであろうか。


 石灯籠の先は石垣が積まれた一段高い神域になる。山麓に建つ神社仏閣では斜面に立地するため、奥に向かうほど高くなる配置は珍しくはないが、吉備津日子命が防衛のために石垣を築き館を構えたようにも思える。
 石段を上ると拝殿が建つ(写真)。拝殿に続いて祭文殿、祭文殿に続いて渡殿が建つ。いずれも銅板葺き入母屋屋根で、1697年、池田藩主により本殿などとともに建立されたようだ。拝殿で二礼二拍手一礼する。
 拝殿、祭文殿の横を回り込むと瑞垣に囲まれた本殿を望むことができる(写真、左奥が本殿、右手前が渡殿)。
 本殿は桧皮葺切妻屋根の三間社流造で、軒回りなどには金箔がきらめく飾金物が使われ、格式の高さをうかがわせる。
 建立は、拝殿、祭文殿、渡殿とともに、1668年、岡山藩主池田光政が建設を始め、1697年、光政の跡を継いだ岡田綱政が完成させたそうだ。


 本殿は吉備の中山を背にして北東を正面とし、本殿、渡殿、祭文殿、拝殿、随神門、大鳥居は一直線に並んでいる。夏至の日、日の出は大鳥居の正面から昇り、祭文殿に飾られた鏡に差し込むことから「朝日の宮」と呼ばれた。これは古代の太陽信仰に通じ、吉備津彦神社が太陽信仰のもとに創建されたことを象徴するとされる。
 子どものころ聞いたおとぎ話「桃太郎」の桃太郎が大和朝廷から派遣された大吉備津彦命、鬼が渡来人の温羅で、桃太郎が鬼退治をするおとぎ話として伝えられたとする説もある。
 林のなかに祀られているいくつかの社に一礼しながら境内を巡り駐車場に戻った。17:00に近い。夕暮れになると寒さを感じる。吉備津神社参拝は明日にして、今日の宿に向かう。宿の名は・・吉備路である。温泉につかりながら、おとぎ話桃太郎として伝わる、日本書紀、古事記では凶悪な敵にされた温羅と温羅を討ち取り吉備国を治めた大和朝廷の勇者大吉備津彦命に思いを馳せる。歴史は勝者によって伝えられる。真実は謎に包まれ、物語が夢想される。 
(2023.12)

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2023.11西本智実指揮ドヴォルジャークを聴く

2023年12月14日 | よしなしごと
2023.11 西本智実+日本フィル ドヴォルジャークを聴く

 2023年11月、ソニックシティ大ホールで、西本智実の指揮で日本フィルハーモニー交響楽団が演奏する第140回さいたま定期演奏会が開かれた(写真web転載)。2018年12月、ソニックシティ大ホールで、西本智実が総合プロデュース+指揮し、佐久間良子が熱演した『ストゥーパ~新卒塔婆小町~』を観て、大いに感動した(HP「2018.12 新卒塔婆小町を観る」参照)。
 第140回さいたま定期演奏会も指揮が西沢智実だったので、すぐにチケットを購入し、演奏会に出かけた。曲目はいずれもドヴォルジャーク作曲で、最初に、チェロ協奏曲 ロ短調 op.104 B.191(およそ40分)、
2曲目に、交響曲第9番<新世界より>ホ短調 op.95 B.178 (およそ40分)である。どちらも西沢智実はダイナミックな指揮で期待に応えてくれた。


 プログラムには「郷 失われた故郷 燃え上がる郷愁」と題され、ドヴォルジャークと表記されている。教科書などではドヴォルザークと表記されていたが、チェコ語の発音はドヴォルジャークが近いそうだ。
 現在のチェコ共和国の前身は12世紀に王国に昇格したボヘミア王国(=チェコ王国)にさかのぼる。首都はプラハである。その後、ポーランド王国、ハンガリー王国の支配を受けた。

 アントニン・レオポルド・ドヴォルジャーク(1841-1904)が生まれたころはオーストリア帝国、没年のころはオーストリア=ハンガリー帝国だった。その後、ハプスブルク家が支配し、第1次大戦後の1998年にチェコスロバキア共和国が復活し、1993年、チェコとスロバキアが分離してチェコ共和国になった。首都はプラハである。
 ドヴォルジャークは、ボヘミアで生まれ、プラハで音楽的な経験を積んでいくが、当時はオーストリア帝国である。首都ウィーンは音楽の都といわれ、モーツアルト、シューベルト、ハイドンなどが広く知れ渡っていた。ドヴォルジャークもウィーンにブラームスを訪ね、親交を深めた。一方で、オーストリアではチェコ人を白眼視する風潮があったようで、ドヴォルジャークはウィーンには馴染まず、プラハを拠点に活動を続け、1892年、新興国アメリカに渡る。


 アメリカ滞在中にドヴォルジャークはホームシックに陥りながらも、新たな音楽に出会う。一方、チェコではオーストリアから独立しようとする民族運動が起きていた。交響曲第9番「新世界より」は、まさに「新世界アメリカより」チェコ=ボヘミアに思いを寄せた結晶だったのである。
 プログラムの解説では、第2楽章の郷愁にあふれたテーマ、随所に幻のように現れる儚く幸せな楽想、第4楽章の長く引き伸ばされた和音が静かに消えてゆく終結部など、音楽を通じて旧い世界に新たな風穴を開こうとしている、と締めくくっている。


 ドヴォルジャークはホームシックが進行するなかでチェロ協奏曲を作曲するが、ホームシックに耐えられずボヘミアに帰国する。帰国後間もなく、ドヴォルジャークが思いを寄せたことのある義姉が他界する。チェロ協奏曲の第1楽章第2主題のメロディはやるせく、第2楽章の昼間部には突然ほの暗いテーマが現れ、第3楽章の最終部に第1楽章が回想される。これらは、アメリカでのホームシック、義姉の死後の大改訂をうかがわせるそうだ。
 
 音楽には疎いので、○楽章の主題とか、回想された旋律とか、和音が消えていく終結部とかは聴き取ることができなかったが、新世界アメリカにいてタイトルの「失われた故郷 燃え上がる郷愁」のようにボヘミア=チェコに思いを馳せるドヴォルジャークを思い浮かべて演奏に浸った。とくに「新世界より」は何度も耳にしている曲なので全体の構成が理解できたし、西本智実のダイナミックな指揮で改めて感動をおぼえた。 
 (2023.12)


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2023.2香川 地中美術館を歩く

2023年12月11日 | 旅行
日本を歩く>  2023.2香川・直島へ 地中美術館を歩く


 ベネッセハウスミュージアムを出て、ベネッセアートサイトシャトルバスに乗り、地中美術館に向かう。地中美術館は2004年、安藤忠雄氏の設計で、「自然と人間との関係を考える場所」として開館した。建物は瀬戸内の美しい景観を損なわないようにと大半が地下に構築された。地下に自然光を採り入れていて、時間とともに、四季折々に作品や空間の表情が変わっていく。安藤氏はもちろん、アーティストも自然ともに空間が変化することを主題に取り入れているそうだ。
 地中美術館は要予約なので、オンラインで11:45入館2100円の予約を済ませてある。駐車場を併設したチケットセンターがシャトルバスの終点になる。QRコードでチケットを発券し、表道路の坂を上る。
 歩道に沿って池が伸びている。春にはモネの睡蓮を連想させる睡蓮が花開くらしい。左手に安藤忠雄氏を思わせるコンクリート塀が現れ、来館者を誘導する(写真)。
 ぽっかりと空いた縦長の開口を入ると、45度振れたコンクリート壁が立ちふさがっていて、この壁に開けられた開口の先にコンクリートの長い箱が一直線に伸びている(写真)。
 ここが地中美術館の始まりらしいが、インフォメーションが無ければ、スタッフもいない。神社仏閣の九十九折りの参道のように、来館者を不安にさせ、来館の意思を確かめる仕掛けであろう。四角いコンクリートの箱は先が少し狭くなっているようで、遠近感が強調され、はるか遠くが明るくなっている。
 明るい場所を目指して進むと、木賊がびっしと植えられた明るい中庭に出る(写真)。上は吹き抜けていて空が見える。中庭の壁に沿って階段を上ると、受付がある。チケットを見せ、自由に鑑賞して下さい、写真撮影は禁止です、などの案内を聞く。


 受付から45度振れたコンクリートの長い通路を進み、もう一度45度振れた長い通路を進むと、45度振れた壁の入口がある。
 この先の右にウォルター・デ・マリアの部屋、正面にクロード・モネの部屋、左にジェームズ・タレルの部屋が配置されている。すでになんども45度振れながら歩いて来て、さらに地中に埋没した展示室を階段を上ったり下りたりしながらアクセスするので、迷宮を探索しているような気分になる。緊張感を高め、作品との遭遇を劇的にするための仕掛けであろう。
 
 照明を抑えた薄暗い通路に大勢の来館者が行き交っている。展示室に入ると理解できるが、光を主題にしたアートなので通路の照明を抑えているようだ。
 B2Fにはクロード・モネの部屋とジェームズ・タレルの部屋があるが、どちらも列が出来ていた。先にクロード・モネの部屋に並ぶ。スタッフが入室をコントロールしていて、廊下で靴を脱ぎ、部屋に入る。
 矩形の白い部屋の四面に5点の「睡蓮」が展示されている(写真web転載)。「睡蓮」は1m×2m、2m×2m、2m×3mほどの大きさで、絵の大きさを勘案して部屋の大きさが決められたらしい。明かりは天空を採り入れたそうで、モネが睡蓮を描いているときの明るさを再現したともいわれている。
 誰もいなければ鑑賞に集中できたかも知れないが、モネの人気は高いようで、入室人数を制限をしていても大勢がいちどきに鑑賞するので、雰囲気はざわついている。「睡蓮」は教科書でも習い、美術書のみならず一般の書物、雑誌にも取り上げられ、あちらこちらの美術展で展示される。5点の「睡蓮」の際だった特長は見極められなかった。鑑賞を終え、来館者が交錯する狭い通路で靴を履く。


 次に同じB2Fのジェームズ・タレルの部屋に並ぶ。スタッフが入室をコントロールしていて、中は暗いので注意深く進むようになどの案内をする。中に入るとすぐ前に青い壁があるように見えた。スタッフが、足下の段々に注意しながら前に進むように案内する。おそるおそる青い壁に向かって段々を上ると、実際には奥行きがあるのが分かる(写真web転載)。
 光と色によって錯覚させられたようだ。色が補色の橙に変わり、錯覚だったことが理解できた。ジェームズ・タレルは光、色、視覚の原理を知り尽くしたアーティストのようだ。スタッフの合図で次の入室者と交代する。


 階段を下り、入室がコントロールされているB3Fのウォルター・デ・マリアの部屋に入る。奥行きの長い部屋の最奥まで階段が上っていて、途中の踊り場に直径2.2mの鈍い色で輝く球体が置かれている(写真web転載)。
 壁面には金色に輝く彫刻が飾られている。彫刻は27体あるらしい。朝~夕、春夏秋冬、光の差す角度で作品の表情が変化していくらしいが、短い入室時間では光の変化を感じることは出来なかった。


 安藤氏の空間は光を主題にしたアートと息が合っている。加えて安藤氏は、地底の闇と吹き抜けた中庭に降り注ぐ光を巧みに対比させている。細長い、何度も45度に振れた通路は、地底の迷宮を彷徨っている気分にさせる。ほかの来館者が誰もいなくて、一人で迷宮を彷徨い、たとえばジェームズ・タレルの部屋にたどり着いて、青から橙に変わってアートの仕掛けに気づいたなら、その衝撃は計り知れないのではないだろうか。
 B3Fから狭い階段を上りB2Fのカフェに行く。テラスの向こうに瀬戸内海の明るい海と空が広がっている(写真)。大勢が食べたり飲んだりしながらくつろいでいる。テーブル席が空いたので、サンドイッチとコーヒーを頼み、ランチにした。地底の光のアートもいいが、海と空の明るい青の風景の方が気持ちが落ち着く。


 ランチを終え、地中美術館シャトルバス乗り場に下り、13:15発のシャトルバスに乗る。ツツジ荘バス停で13:26発町営バスに乗り換え、宮浦港に13:40に着く。宇野港行きの四国汽船旅客船は少し遠い桟橋から13:55発である。
 手前の桟橋の端に展示された草間彌生作「赤かぼちゃ」を遠望し(写真)、2006年に竣工した海の駅「なおしま」を通り過ぎ(写真web転載、SANNA=妹島和世+西沢立衛)、80人乗りアートバードに乗り込んで、宇野港に向かった。 
(2023.12)

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