yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.5金沢を歩く4 金沢城/菱櫓・五十間長屋・橋爪櫓・三十間長屋・玉泉院丸庭園

2018年12月29日 | 旅行

石川を歩く>  2018.5 金沢を歩く4 金沢城/菱櫓~五十間長屋~橋爪櫓~三十間長屋~玉泉院丸庭園

 金沢城・橋爪門を抜けると広々過ぎる二の丸広場に出る。案内所で入館券310円を買おうとしたら、ここも65才以上は無料だった。前田家は気前がいい。無料で見学させていただいた。
 二の丸の東側に、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元されている。(写真web転載、左端が菱櫓、中ほどが五十軒長屋、右手前が案内所)。

 五十間長屋は南北に長い櫓で、一般には多門櫓=多聞櫓と呼ばれる長屋形式の櫓である。50間はおよそ90m、受付でもらったパンフレットの平面図をにらむと確かに90mほどありそうだから、50間で計画され、五十間長屋と名付けられたようだ。
 三の丸側の東壁が内堀に面した城壁のつくりで、平時には武器保管庫、倉庫として使われ、戦時には三の丸に侵攻してきた敵を攻撃する役割である(写真、三の丸からの眺め、左は橋爪門一の門二の門、橋爪門続櫓)。
 五十軒長屋入館口は二の丸にある。内部は柱、梁、小屋組の太い部材を現した豪快な木組みで、床、壁は板張りである。三の丸側の東壁には出窓が設けてあり、床は石落とし、窓は格子の隙間から鉄砲を撃つ狭間が設けてある。
 北の菱櫓から南の橋爪門続櫓まで110mを越える長大な建物には、外壁の一部がなまこ壁なので、なまこ壁の断面模型を展示したり、菱櫓の床の一部をガラス張りにして床の構造を見せたり、内堀と石垣の発掘の様子を展示したり、学芸員の努力がうかがえる。しかし、私たちのほかには親子一組のほか数人だけだった。活用のためのさらなる工夫を期待したい。

 菱櫓は三層で、上階まで上ると下に三の丸、左に河北門、右奥に石川門、さらに奥に市街が見える(写真)。戦時には、菱櫓から敵の動きをとらえ戦闘の指揮をとることができた。もちろん、石落とし、鉄砲狭間を備えた出窓も備えてある。
 橋爪櫓続櫓も三層で、上階に上ると一の門、二の門で挟まれた枡形が見える。平時には出入りする武士を監視し、緊急事態や敵が一の門を破って侵入してきたときには二の門を閉じ、橋爪櫓、橋爪門続櫓から狙い撃ちする。
 城の復元では城の重要な機能である戦時にはどのように敵を防御し、敵をせん滅するか、対して平時にはどのように活用するか、また遠望したときの城の美しさの秘訣は何か、などの展示や解説があると見学が盛り上がるのではないだろうか。
 
 五十間長屋を出て、二の丸西側の極楽橋を渡り三十間長屋を見る。極楽橋は、金沢御堂時代の参詣者が日本海に沈む夕日に極楽往生を願ったことから名づけられたようだ。橋の下は空堀になっているから、もともとこのあたりに崖があり極楽橋が架かっていて、前田利家がそのまま橋を築城に利用したのかも知れない。
 三十間長屋は極楽橋を渡り、石段を上った高台に建っている(次頁写真、南・東側の眺め)。創建は前田利家が大修理を行った時期の1624~1644年だが、焼失し、1858年に再建され、重要文化財に指定されている。五十間長屋と同じく、長屋形式の多聞櫓で倉庫に利用された。石垣を積んで土台を高くしているのは湿気を防ぐためと考えられるから、当初は食料庫だったのではないだろうか。一方、西側には出窓があり、格子窓もある(写真、西側の眺め)。石落とし、鉄砲狭間の仕掛けだから、戦時には西側の守りとされたようだ。
 創建時は30間≒54mだったが、再建後は26.5間≒48mと短くなった。南側は入母屋屋根だが、北側は切妻屋根である。北側の崖が軟弱地盤のため再建時に長さを短くし、屋根も切妻に変えたのだろうか。説明坂には理由について触れていない。時間が遅いため閉館していた。

 三十間長屋の西は崖になっていて、樹林の中を急坂が下っている。ガイドマップでは玉泉院丸庭園に行けそうなので、足場の悪い急坂を下りる。くの字に曲がると石垣が現れた。どうやら金沢城西縁は崖+石垣で固め、三十間長屋が西側の城壁代わりだったようだ。
 金沢城石垣巡りというパンフレットがあり、石垣の見どころが詳しく解説されている。主な石積みは自然石積み、粗加工石積み、切石積みの3種があり、金沢城ではその3種を使い分けて石垣が築かれているそうだ。急坂の石垣は自然石積みである。
 階段を下り松坂あたりから玉泉院丸庭園に入園する。
 加賀藩初代=前田家2代・利長(1562-1614)は、1581年に織田信長4女永姫(1574-1623)と結婚する。二人には子どもができなかったため利長の弟・利常(1594-1658)を順養子にする。利長死後、利常が加賀藩2代=前田家3代当主になり、永姫は剃髪し玉泉院と号した。
 いまの玉泉院丸庭園あたりはそれまで西の丸と呼ばれ、重臣の屋敷が並んでいたが、重臣の屋敷をほかに移して玉泉院の屋敷が建てられ、玉泉院丸と呼ばれた。おそらくそのころにも造園されていただろうし、利常は兄嫁とはいえ義母であり20才も年上だから足繁く玉泉院を訪ね、庭も楽しんだに違いない。
 玉泉院没後の1634年から利常は玉泉院丸の作庭に乗り出す。辰巳用水を引き込み、池には大中小の一の島、二の島、三の島を築き、土橋、木橋、石橋を架け、回遊式庭園とした(写真)。
 兼六園は曲水など饗応に利用されるが、玉泉院丸庭園は静かにくつろぐ庭としてその後の藩主も手を加え続けたらしい。

 東側の金沢城石垣上端までおよそ22mある。上写真中央上部の石垣が色紙短冊積石垣と呼ばれる積み方で、実に風流である。字の通り色紙のようなさまざまな色合いの石を短冊のように組み合わせて積み、頂部にV字型の石樋を組み込んでここから辰巳用水の水を落とす。いまは復元されただけで水は流れていなかったが、おそらく水は色合いの異なった石積みの表面を流れるとき、色とりどりに光を反射し、目を楽しませたようだ。
 その水は段落ちの滝と呼ばれる自然石を積んだ4段の水路に流れ落ち(写真web転載)、色紙短冊石積みの水とは違った野趣味な流れに変わる。武家でありながら、美的感覚も洗練されていたようだ。
 回遊路の西側の高台に休憩所・玉泉庵があり、庭園を一望できる。ここも16:30で終了していたので庭を眺め、玉泉院丸口からお堀通りに出た。  (2018.12)

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2018.5金沢を歩く3 金沢城/石川門・河北門・橋爪門

2018年12月25日 | 旅行

石川を歩く>  2018.5 金沢を歩く3 金沢城/石川門~河北門~橋爪門

 兼六園桂坂口を出る。来るときは白鳥路を抜け、右の紺屋坂を上ってきた。左は兼六園に沿った蓮池門通りが広坂に向かって下っている。
 前のお堀通りは、はるか下を車が走っている(図web転載、お堀通りは図右下を北東-南東に通る)。そもそもお堀通りはその名の通り金沢城の堀で、城を囲んで堀が巡らされていた。廃藩後の1911年に堀が埋め立てられ、道路が整備された。金沢城と兼六園のあいだの堀はかつて百間堀といわれた。百間なら180mほどになるが、お堀通りは180mにはとても及ばない。広いことを比喩した呼び方であろう。
 先ほど往復した白鳥路ももとは堀で、敵の侵入を聞き分けるために白鳥を放っていたことから白鳥堀と呼ばれたそうだ。当時の堀は、金沢城北の大手堀、南西のいもり堀の一部が残されただけで、あとはすべて埋め立てられててしまった。
 堀が残っていれば金沢城らしさを眺められたはずだが、堀を埋めたころは流通が優先の時代だっただろうし、道路整備で県都の発展が支えられたのであろうからやむを得ずであろう。

う。
お堀通には石川橋が架かっていて、その向こうが石川門である(写真)。石川門は金沢城の搦手門で、兼六園の通用門としても機能していた。
 搦手門は非常時の逃げ口に使われるため多くは目立たないつくりだが、石川門は後述するように堂々たる構えである。
 パンフレット、webによれば、1549年、本願寺がここに金沢御堂を建てた。1580年、佐久間盛政が金沢御堂を攻め落として築城し、金沢城と称した。
 能登一国の領主だった前田利家(1539-1599、前田家初代)は1583年に加賀2郡を拝領して金沢城に入城する。利家はしばらく尾山城と称した。嫡子利長(1562-1614、加賀藩初代藩主=前田家2代)が1585年に越中西三郡を与えられて、3国にまたがる加賀100万石の祖型ができた。
 利家は1592年に尾山城を大改修をして金沢城と改めた。金沢城の堀もこのときに掘られ、天守や本丸御殿も建てられた。現在に残る金沢城の原型は利家の大改修のころになるようだ。
 その後の落雷で天守が焼失するが、その後は再建されなかったらしい。火災で本丸御殿が焼失、再建されたが城下の火災で類焼した。度重なる火災の対策で3代藩主=4代前田家・利常は1632年に辰巳用水を城下に引き込んだが、その後も何度か火災で城内の建物が焼失し、再建が繰り返された。その多くは廃藩後に取り壊されてしまった。
 現在の石川門は1759年の大火で焼失し、1788年に再建された。一の門の高麗門形式と二の門の櫓門形式(写真)で枡形をつくり、続櫓と2層2階建ての石川櫓を備えた、表門としても遜色のない構えである。
 かつての遺構を残していることから、三十間長屋、鶴丸倉庫とともに国の重要文化財に指定されている。
 金沢城・兼六園ガイドマップには、金沢城公園の北端に黒門口が記されている。金沢御堂時代の入口だったようだ。佐久間盛政もここを金沢城の表門にしたらしいが、利家は現大手門口を表門に変えたそうだ。城の規模が格段に広がったためと思えるが、大手門の遺構は残されていない。
 大手門口を入ると新丸で、利家の時代は重臣の屋敷が建っていたが、その後、屋敷は城外に移されたそうだ。新丸の南に河北門の枡形があり、抜けると三の丸である。石川門も三の丸に設けられていて、石川橋を渡り兼六園に行き来できる。
 三の丸から橋爪門の枡形を抜けると二の丸になる。二の丸は金沢城のほぼ中央に位置する。二の丸の南が本丸で、現在は三十間長屋、鶴丸倉庫が残っていて、戍亥櫓跡、丑寅櫓跡、辰巳櫓跡が分かっている。利家も戦国武将であり、豊臣政権五大老の一人だったはずだが、城の構えは意外と単純で、防御力は低く見える。築城は不得手だったかも知れない。

 石川門口から入ると総合案内があり、金沢城公園のパンフレットが用意されている。金沢駅観光案内、ホテルでもらったパンフレットもあわせて、金沢城の大まかな構えを頭に入れる。
 石川門を抜けると三の丸広場で、右に折れると河北門、右に橋爪門が構えている。先に、河北門の枡形を抜けて新丸側から河北門を見上げた(写真、手前が河北坂)。
 かつては大手門から登城し、新丸を通り、河北坂を上り、河北門から三の丸に入ることになる。敵が攻撃するときは、大手門を破り、新丸で金沢城兵を倒し、河北坂を上り、一の門(写真正面)を打ち破る。
 一の門の向こうは枡形になっていて、鉄帯で補強された二の門(写真左、1階二の門、2階櫓)で足止めされ、枡形で足踏みしているところを櫓から狙い撃ちされることになる。それにしても新丸は広々としているし、河北坂も広く、格別な防御の仕掛けは見られない。もともとはしっかりした防御になっていたが復元されなかったのか、加賀藩前田家が強力でどんな敵でも撃退できると自信を持っていたのか、城構えは無頓着だったのか、資料には防御について触れていない。
 河北門の一の門は高麗門形式で1605年~ごろ、二の門+櫓は1631年ごろ、たぶん同時に2層の河北櫓が建てられたらしいが焼失し、1772年に一の門・二の門++櫓が再建された。ただし、2層の河北櫓は再建されず、石積みの櫓台の上に土塀を回しただけのニラミ櫓がつくられた(写真右端)。
 廃藩後、解体?、焼失?し、2010年に一の門、二の門+櫓、ニラミ櫓が復元された。写真左手前の外階段を上ると、二の門2階の櫓内を無料で見学できる。柱、梁、小屋組の豪快な構造、床、壁の板張りは復元間もないため真新しい。枡形側の壁には石落とし用の出窓が設けられていた。石落としだけでは防御が心許ない気がした。

 三の丸広場と二の丸のあいだに内堀が掘られていたようで、三の丸から橋爪橋を渡り、橋爪門を抜けると、二の丸になる。新丸~河北門に比べ、橋爪門は内堀で防御制を高めている。橋爪門の創建は1631年で、河北門の完成と同じ時期であるが、焼失、再建が繰り替えされ、1809年に再建された。廃藩後の1881年に二の丸御殿、菱櫓、五十間長屋とともに橋爪門も焼失し、2001年、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓、橋爪門一の門が復元され、2015年に橋爪門二の門が復元された。
 橋爪門も、石川門、河北門と同様に高麗門形式の一の門、櫓をのせた二の門で枡形をつくり、橋爪櫓=橋爪門続櫓を構えている(写真、手前が橋爪橋、正面が一の門、右が橋爪櫓)。もし敵が河北門を破り、三の丸に侵攻した場合は橋爪橋を落とし、内堀で敵を足止めし、後述の五十間長屋から狙い撃ちすることができる。
 敵がはしごなどを橋代わりにし、一の門を破っても枡形で足踏みしているところを二の門櫓、橋爪櫓から狙い撃ちということになる。単純な作戦であればなんとか防御できそうであるが、各地に残る名城と比べると防御制は低そうに思う。
 橋爪櫓=橋爪門続櫓は五十間長屋を挟んで菱櫓とつながっていたそうで、2001年の復元工事で橋爪櫓~五十間長屋~菱櫓が一体として復元され、通して見学できるようになった。 (2018.12)

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2018.5金沢を歩く2 兼六園&成巽閣

2018年12月23日 | 旅行

石川を歩く>  2018.5 金沢を歩く2 兼六園/霞が池~ことじ灯籠~内橋亭~曲水~成巽閣=謁見の間・1階書院造・2階数寄屋風~瓢池・夕顔亭

 兼六園・桂坂を上った先が桜ヶ丘である。かつて、春には前田家一門が集まり花見を楽しんだのであろう。
 桜ヶ丘の左=東寄りの園路の先に緩やかに湾曲した一枚石の虹橋が架かり、霞が池が広がる。
 虹橋のたもとの灯籠は末広がりの2本の石に支えられたユニークな形である。2本の支え石が琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることから徽軫(ことじ)灯籠と名付けられた(写真)。
 虹橋は虹のように湾曲していることで名付けられたであろうが、湾曲の形が琴にも似ていることから琴橋の別名があるそうだ。曲水の宴ではこのあたりで琴が奏でられたであろうから、想像力を豊かにすれば、琴橋と徽軫灯籠から琴の音色を連想できるかも知れない。

 徽軫灯籠の右の古木はモミジである。秋はさらに絶景が楽しめそうだが、秋ならずとも虹橋=琴橋、徽軫灯籠、モミジの組み合わせは絶景である。外国人グループが徽軫灯籠、モミジを背景に虹橋でポーズをとった写真を次々と撮っていて、虹橋を渡れない。
 絶景写真を撮ろうと、柵の中に入る、枝を引き寄せる、ほかの観光客を制止する・・などの無謀が目に余る。かろうじて徽軫灯籠の写真だけを撮った。
 徽軫灯籠の右先に虎石が置かれている。石の形が虎を連想させたようだ。
 霞が池の向こうに見える茶屋は内橋亭と呼ばれる(写真)。池に立てられた石柱の上に乗っていて、池にせり出している。暑いときには涼が楽しめそうだ。

 虹橋から南に向かって曲水が仕立てられている。虹橋が渡れないので、曲水の風景を眺めながら成巽閣に向かって歩く。
 曲水は緩やかなカーブを描き、ときに広くときに狭く、中島も設けられ、植栽で造園されていて(写真)、月見橋、雁行橋、雪見橋、千歳橋、花見橋が架けられている。名前にちなむ眺めや仕掛けがありそうだが、詮索せずに取り過ぎる。
 曲水は、字の通りなら曲がりながら流れる小川だが、一般に曲水を取り入れた造園を指す。中国発祥の曲水の宴は、上流側に座った者が酒を満たした杯を水に浮かべ、次の者が杯が流れてくるまでに詩歌をつくってその酒を飲み、再び杯に酒を満たして次の者に流す風雅な催しである。
 ゆえに曲水には変化に富んだ、きらびやかで、雅な造園を欠かすことができない。12代藩主=前田家13代・斉広が、曲水の宴を楽しもうと辰巳用水を引き込んでつくりあげたそうだ。
 辰巳用水は、3代藩主=4代前田家・利常が11kmほど上流の犀川から分水させた金沢城下の用水である。1863年に建てられた12代藩主=前田家13代・斉広未亡人の隠居所は金沢城の東南=辰巳=巽の方角になり、巽御殿とも呼ばれた。辰巳用水も金沢城の東南=辰巳に由来するのであろうか、それとも巽御殿にあやかったのだろうか、犀川上流の取水口近くに辰巳町があるから辰巳町に由来したのかも知れない。

 金沢城・兼六園は、犀川と浅野川に挟まれた扇状地の段丘上に立地する。金沢駅あたりは標高10mほどだが、金沢城・兼六園あたりの標高はおよそ34mもある。このあと犀川沿いを歩いたが、犀川はさらに低く川岸が断崖になっていて、金沢城・兼六園が犀川・浅野川を自然の要害とした段丘上に築かれたのがよく分かった。
 城に適った土地を見つけ、犀川上流から用水を引いて水をまかなう、前田家は知恵者がそろっている。
 曲水=辰巳用水の千歳橋を渡ると、千歳台の根上松が奇観を見せている。数十本の根が地面からせり上がっているうえ、幹も数本からんでいて、枝が天を支えるかのごとく広がっている。回りの樹木の根は地中にあるから、この松の根だけが自然にせり上がるとは思いにくい。加賀藩主12代=前田家13代・斉泰の造作との説もある。

 千歳台の先の花見橋を渡ると巽御殿とも呼ばれた成巽閣である(写真、赤門と呼ばれる通用門)。13代藩主=前田家14代・斉泰が母である12代藩主=前田家13代斉広未亡人の隠居所として1863年に建て、その後、前田家夫人の御殿として使われた。
 加賀百万石といわれるが、実質120万石と群を抜いて豊かであった。加賀藩2代藩主=前田家3代・利常の4女富姫は八条宮智忠に嫁いでいる。八条宮智忠の猶父が後水尾天皇であり、また八条宮智忠は八条宮初代智仁の造園した桂離宮を引き続き整備していて、前田家は京の文化、建築や造園、意匠に親しかったに違いない。財力があり京文化に精通しているからこそ、兼六園、成巽閣を始めとする匠の技が進化したのであろう。

 入館料700円を払うと、受付で成巽閣推奨順路の紙をくれる。太文字で、「視線を下げて障子の腰板をご覧下さい」と書かれているほど、腰板に描かれた絵が見事であり、随所の造作も細やかで、匠の技が光っていた。
 推奨順路1は謁見の間=公式の対面所である(写真)。花鳥を彫刻した欄間は極彩色に仕上げられ、来訪者を圧倒する。障子の腰板にも花や鳥が描かれていて、きらびやかである。
 欄間から奥が上段、手前が下段で、上段を折上格天井、下段を格天井と格式の高いつくりになっている。奥方の御殿とは思えない格式だが、花鳥の絵や彫刻、漆仕上げの造作材、金砂の壁紙などで女性らしい華やかさを演出している。

 順路2の鮎の廊下、順路3の下貝の廊ともに、障子の腰板にそれぞれ鮎、貝が描かれている。反対側の腰板には水草が揺れている。下ばかりを見ていると見逃しそうだが、廊下といえども折上天井、金色の紙張りで華やかである。

 貝の廊下から納戸の間を通り、順路4亀の間に入る。寝所に使われた部屋で、障子の腰板に亀が描かれている。亀は長寿のシンボルである。小亀、親亀が遊んでいる絵を見て熟睡し、健康長寿を願ったのかも知れない。
 亀の間を出ると万年青(おもと)の廊下で、障子の腰板に万年青が描かれている。万年青の廊下の先に庭園が広がっていて、亀の間から庭園を楽しむことができる。
 万年青の廊下はつくしの廊下につながっていく。障子の腰板はツクシで、つくしの廊下の先も庭園である。つくしの廊下に面して、順路5蝶の間、順路6松の間が並び、蝶の間、松の間からも庭園を眺めることができる。
 蝶の間は腰板に蝶が描かれ、松の間には松の絵が描かれ、オランダから伝わった小鳥がデザインされたギヤマンが飾られている。蝶の間は居間として使われ、松の間は隠し廊下を挟んで謁見の間に対面していて、休息室として使われたそうだ。
 障子の腰板の絵、細やかなしつらえ、壁紙の色合いなどなど、女性らしい華やかさが演出されているが、間取り、謁見の間や松の間などの書院、床構え、格天井、折上げ天井のつくりは格式を重んじる書院造りが基調になっている。
 2階に上がる。2階は7部屋あるらしいが、推奨順路は順路8群青の間+書見の間、順路9網代の間、順路10越中の間の4部屋である。群青の間書見の間は折上げ格天井だが、なんと折上げ部分の蛇腹と格子がウルトラマリンブルーに彩色され、部屋に入ったトタン目を釘付けにする(写真、右手前が群青の間、左奥が書見の間)。
 ウルトラマリンブルーはフランスから輸入されたそうで、江戸時代にこうした塗料は日本になかっただろうから、来訪者も目を奪われたに違いない。群青の間の壁はベンガラ色、書見の間の壁は紫色、床の壁は鉄砂の黒色、天井に白群青色を用い、明かり取りは火頭窓で、障子にはギヤマンをはめ込んでいる。
 網代の間は網代天井に朱色の壁、越中の間の天井には立山杉を用い、明かり取りは丸窓である。数寄屋の冒険心の富んだ演出がうかがえる。1階は格式に気を配り、2階では自由を楽しんだようだ。

 財政が豊かであり、京文化に通じる進取な気分を感じる。あるいは加賀藩の立地から推測すると、中国、朝鮮との交流や北前船による長崎・オランダ出島を介した西洋の文化・技術の影響があったのかも知れない。初めての成巽閣でいい体験をした。

 通用門の赤門を出て、西に下り、梅林を抜けてさらに下ると、左に時雨亭が現れる。1676年、加賀藩5代藩主=前田家6代・綱紀がここに蓮池庭をつくった当初に建てられた茶屋で、廃藩後に撤去されたが2000年に復元された。ここで来園者が抹茶を楽しむことができるらしい。
 さらに下ると、左にひょうたんの形をした瓢池が現れる。瓢池には高低差を利用した高さ6.6mの翠滝がつくられていて、暑いときには涼を感じさせる滝の音が瓢池に響くらしい。
 瓢池あたりが加賀藩5代藩主=前田家6代・綱紀のつくった蓮池庭だそうだから、兼六園の原点といえよう。
 正面の夕顔亭は1774年に建てられた三畳台目の茶屋で、当時のままの姿とどめている(写真)。袖壁に瓢箪の古語である夕顔の透かし彫りがあることから夕顔亭と呼ばれている。
 茅葺き方形屋根がかわいらしい。政務で疲れたときに、ここで滝の音を聞きながら、茶を楽しんだのであろう。加賀家は優雅な日々を送ったようだ。

 そのまま桂坂口み下る。兼六園を一周したことになる。桂坂口から入園したのが14:30ぐらい、いまだいたい15:30なのでほぼ1時間の見学になった。次は石川門を経て金沢城に向かう。 (2018.12)

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2018.52金沢を歩く1 金沢駅から兼六園へ

2018年12月16日 | 旅行

<石川を歩く>    2018.5 金沢を歩く1 金沢駅から周遊バスで兼六園へ 
2日目・水曜、岐阜県高山から戻り、13:00ごろ、金沢駅レンタカーに車を返す。駅前にはガラス張りのドームがかかり、巨大な木造の架構物が構えている(写真)。
 昨日、金沢駅に着いたときにも見た。昨日は駅レンタカーに急いだので巨大な架構に驚きながら通り過ぎた。改めて眺めても巨大である。ガラスドームは駅利用者、観光客の雨除け、雪除けのため2005年につくられ、もてなしドームと名付けられたそうだ。
 確かに傘を差したり、たたんだりするとき、待ち合わせや地図を広げるとき、駅前に大きな屋根がかかっていれば便利である。ガラス張りで明るいのもいい。しかし、雪加重を見込んだ構造なのであろうが、巨大すぎないだろうか。もっとコンパクトでスマートなデザインを追求し、コストダウンを図ってもよかったと思う。

 もてなしドームの向こうには鼓門と名付けられた、ゲートのような木造架構が立っている(写真)。金沢の伝統芸能である能楽・加賀宝生の鼓がモチーフになっているそうだが、これも巨大に感じる。
 ところが、もてなしドーム+鼓門がデザインされた金沢駅は、2011年、世界で最も美しい駅14選の6位に選ばれたそうだ・・1位はベルギーのアントワープ中央駅・・。巨大すぎるといった印象はきわめて少数意見のようだ。

 昨日は金沢駅に併設されたショッピングモールの魚菜屋で海鮮ランチを食べた。新しい食事処を探して加賀屋を見つけた。和倉温泉・加賀屋の系列だそうだ。和倉温泉・加賀屋はテレビでもときどき紹介されるほどよく知られている。加賀屋の系列なら料理も期待できる。店内は落ち着いていて、ちょうど席が空いた。ランチ定食のいろどり御膳は値段も手ごろだったので、ここで昼食にした。

 いろどり御膳を食べながら、観光案内所でもらったパンフレット、ホテルから事前に送ってもらったパンフレットを眺める(図web転載、赤丸が訪問地)。
 今日の宿は、金沢城、兼六園に近く、自家源泉の温泉がある白鳥路ホテル山楽を予約しておいた。ホテルは、金沢駅から周遊バス(左回り・右回り)に乗り、兼六園下・金沢城バス停で降りれば近い。ホテルから兼六園・成巽閣、金沢城は目と鼻の先の近さである。

 駅前から周遊バス・左回りに乗った。周遊バスだからすでに何人か乗っていたが、まだ空席があった。ところがひがし茶屋街に近い橋場町バス停で修学旅行生がどっと乗ってきて、満車状態になった。修学旅行生は私たちといっしょに兼六園下・金沢城バス停で降りた。バス停には外国人グループや観光客が列を作って待っていた。金沢は1年中観光シーズンのようだ。
 バス停は兼六園側で、ホテルは大通り=お堀通を渡り、金沢城公園に沿った散策路=白鳥路を300mほど北に歩いたところにある。
 白鳥路の入り口に加賀藩前田氏の祖であり豊臣政権五大老の一人だった前田利家(1538-1599)の像が飾られていた(写真)。前田利家以降、金沢城が前田家の居城であるから前田利家像がここにあって不思議ではないが、復元工事が進んでいるから城主らしく二の丸あたりの方がふさわしいように思えた。
 散策路=白鳥路は花壇、植栽、彫刻などが整備されていて、散歩の人が絶えない。途中に三文豪の彫刻もあった(写真)。
 金沢にゆかりの深い徳田秋聲(1871-1943)、泉鏡花(1873-1939)、室生犀星(1889-1962)の3人である。教科書でも習い?、本をパラパラめくったが?好みにはならず、読まなかった。
 白鳥路ホテル山楽にキャリーバッグを預け、また白鳥路を戻り、兼六園の桂坂を上る。

兼六園/桂坂
 兼六園桂坂口にも大勢の観光客、修学旅行生が集まっている。あいだを抜けて310円の入園券を購入しようとしたら、65才以上は無料だった。無料に甘えて、坂を上る(桂坂口は図上=北)。
 ここに桂の大木があったことから桂坂と名付けられたそうで、説明坂の後に桂の根元が残っていた(写真)。若木が育ち始めていたから、いずれ親子2代が共生した桂に成長するかも知れない。

 入園口でもらったパンフレットによれば、兼六園はもともと金沢城の外郭だった。1676年、加賀藩5代藩主=前田家6代・綱紀がここに庭を造り蓮池御亭を建てたので、そのころは蓮池庭と呼ばれた・・前田家の祖は前田利家で初代だが、加賀藩主初代は前田家2代からになるので、前田家は加賀藩主より1代多い・・。
 金沢大火で蓮池御亭が焼失し、荒廃したが、1774年、10代藩主=前田家11代・治脩が復興し、夕顔亭翠滝を造った。
 東南の千歳台は平坦地で武家屋敷が建ち、藩校もつくられたが、1822年、12代藩主=前田家13代・斉広が隠居所を建て、辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、中国宋時代の詩文の宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望の六勝兼備を引用し兼六園と名付けたそうだ。13代藩主=前田家14代・斉泰は隠居所を取り壊し、霞が池を広げ、回遊式庭園として修景した。
 後述の東南に建つ成巽閣は、13代藩主=前田家14代・斉泰が母である12代藩主=前田家13代・斉広の未亡人の隠居所として1863年に建て、その後は前田家夫人の御殿として使われた建物である。
 加賀藩主=前田家の庭園として整備されてきた兼六園は、廃藩後、一般開放され、現在は国の特別名勝の指定を受けている。成巽閣は国の重要文化財である。 (2018.12)

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津野田著「戦国の勇者17」は小田原城での北条軍と真田軍の攻防、秀吉軍による備中高松城・松山城攻略の活劇

2018年12月11日 | 斜読

book477 戦国の勇者17 津野田幸作 歴史群像新書 2011 (斜読・日本の作家一覧)
 津野田氏の本は初めてである。2018年10月に香川の松山城、愛媛の松山城、宇和島城などを巡った。復習の本を探し、副題が「松山城攻防戦」と書かれたこの本を見つけた。目次にも高松城や村上水軍とある。読み始めたがどうも話が合わない。なんと、ともに備中の松山城、高松城だった。織田信長暗殺後の戦国時代、真田軍の小田原城攻め、秀吉軍の松山城攻め、村上水軍の大坂城砲撃が中心で、攻防戦が詳しく描かれているので、読み通した。

第1章 大手門侵入戦 、第2章 幸田門口の激戦 、第3章 搦手門の攻防は小田原城を舞台にした北条軍と真田軍の攻防である。巻頭に図示された主要大名勢力図によると、真田家が信濃を中心に、北の能登、越中、加賀、西の越前、美濃、東の甲斐、南の駿河一部、伊豆まで勢力を広げている。この勢力図のほかの大名は飛騨の金森家、駿河~遠江~三河以西の徳川家、関東の北条家、越後の上杉家、関西の羽柴家と丹後若狭の丹波家しかいない。これほど真田家が勢力を広げているのは初耳である。知将真田昌幸、次男真田幸村の力量であろう。
 当然、優れた配下が大勢いた。P33に小田原城要図が図示されている。東の大手門に真田幸村始め、池島秀成、上杉景勝、北の真田口門に前田慶次郎、長連龍、直江兼続、南の搦手門に滝川義太夫、丸目蔵人が圧倒する戦力で構えている。この要図を見ながら攻防戦を読むと、臨場感が高まる。
 小田原城主は後北条4代氏直だが、隠居した3代氏政がまだ実権を握っていた。司馬遼太郎著「箱根の坂」book471には、京都生まれの北条早雲が箱根の坂を越え、小田原城を築造、戦国時代の先駆けになったことが詳しく描かれている。しかし、周りの既成勢力が虎視眈々と後北条家を狙っていた。後北条家は堅固な小田原城に守られ敵を撃破していたが、新式の鉄砲、さらには大筒の時代に移っていた。
 P20・・1586年、真田軍による大筒で戦端が開かれた。大手城門は崩れ落ち、北条勢は三の丸に板楯を置いて待ち構えるが、池島勢が優勢に攻め込み、北条勢が後退し始める。
 P34・・幸田口から三の丸を目指す前田勢、長勢は、北条勢の柵を乗り越えるため、筏に脚と天井を取り付けて北条勢の攻撃をかわしながら柵を乗り越え、三の丸に侵攻する。一方、幸田口から評定曲輪を目指す直江勢も筏に加工して城門を打ち破り、評定曲輪に侵攻、二の丸に向かう。
 搦手門では滝川勢と丸目勢が、真田幸村の応援を得て、火矢で城門を焼き落とす。
 ところが真田軍による小田原城攻防はここで終わってしまう。実際の小田原城落城は1590年の豊臣秀吉の攻撃であるから、北条軍は2年ほど持ちこたえたのだろうか。その後の展開も書いて欲しかった。
 小田原城は2回訪ねている。江戸時代に規模が大幅に縮小され、明治には廃城となり建物は解体されたが、天守はコンクリート造で復元された。門も順次復元されている。さらに復元が進めば小田原城攻防を彷彿できるかも知れない。

 第4章 高松城奇襲作戦 、第5章 大谷吉継奮迅すは羽柴秀吉の毛利攻略が主軸になる。P129に松山城周辺要図、松山城要図が図示されている。周辺要図に、備前の岡山城、備中の高松城、鶴首城、松山城、備後や出雲、安芸の城が記されている。
 羽柴秀吉は、軍資黒田官兵衛から真田、徳川と戦うには所領が不足しているとし毛利攻略を勧められる。毛利輝元はまだ若かったため、官兵衛の策略にのせられてしまう。
 大坂城に藤堂高虎、前田利家を残し、秀吉・官兵衛は、高松城攻めに宇喜多忠家、松山城攻めの先陣に加藤清正、二番手に大谷吉継、三番手に山内一豊、水の手口の先鋒に福島正則、二番手に堀尾吉晴、三番手に加藤嘉明、本陣詰めに石田三成を指名する。総勢は六万人に近くなった。
 岡山城で一日休息をとり、宇喜多軍は三里ほど離れた高松城へ夜を徹して行軍する。毛利側の最前線でありながら高松城では敵襲を予想しておらず、宇喜多軍は難なく城門を開くことができ、三の丸、二の丸に侵攻、城を落とす。
 一方の松山城攻めも、守備兵が少ないため反撃できずに撤退し、大谷吉継が一番乗りする。さらには二里ほど先の鶴首城も落とす。

第6章 小早川隆景の決断 、第7章 村上水軍の戦いは、毛利家小早川隆景が秀吉に一矢報いようと、村上水軍の長である村上武吉に関船にのせた大筒による大坂城砲撃を依頼する。隆景はその足で、真田昌幸に会いに行き、陸からの大坂城攻めを頼む。真田は動かなかったが、村上水軍は淀川を上り、大筒砲撃で大坂城の米蔵を炎上させる成果を上げる。

 城を取り上げた多くの本は、城の歴史、城の構造をていねいに紹介しているが、城を舞台にした攻防戦を描いた本は少ない。城の多くは戦いや地震、火災で損傷、焼失し修復、改修され、さらに明治維新後に多くが廃城、解体されて遺構も資料も限られているためであろう。城は攻防戦のために築城されたのだから、この本のように攻防戦を前面にした物語は城の役割を臨場感を持って理解することができる。(2018.12)

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