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2023.3静岡 浜松城を歩く

2024年01月24日 | 旅行
日本を歩く>  2023.3 浜松城を歩く

 伊良湖岬の宿を9:00過ぎにチェックアウトし、太平洋=遠州灘に沿った国道42号線を浜松に向かって走る。90分ほどで静岡県に入り、間もなく国道1号=東海道に合流する。ナビに従い走っていると国道1号は浜名バイパスになり、また東海道に戻り、そのうち東海道は国道257号、ほどなく国道152号=飛龍街道と名を変える。
 道路名が変わるが、気にせずナビの案内で走っていると風景が市街地になり、車の流れが悪くなってきた。ナビを見ると先に浜松市役所があり、市役所の北がゴールの浜松城である。左車線はノロノロで、どうやら浜松城の駐車場に入ろうとする車の大渋滞のようだ。
 伊良湖岬を出てからおよそ120分かかった。時計は11:00過ぎ、人出の多い時間帯である。浜名湖・舘山寺温泉に泊まっていれば渋滞の前に着けただろうからこれも旅の反省にしなければならない。浜松城駐車場を諦め、右車線に移り、六間道路を右折し、浜松城から少し離れた駐車場を探して車を止めた。
 浜松城に向かって歩いてるとき元城町を通った。後述するが、元城町は徳川家康が浜松城を築く以前の城跡で
、東照宮が建立されている。帰りに寄ることにした。塞翁が馬、遠回りのお陰である。元城町を西に歩くと、国道152号=飛龍街道に出る。駐車場の先の丘の上に浜松城がそびえている。市街地の標高は4~5m、元城町あたりの標高は10~m、浜松城の建つ丘の標高は42.2mなので勇壮さが目立つ。

 15世紀ごろ、現元城町あたりに曳馬城=引馬城が築かれていた。築城者は不明らしい。1514年、今川氏配下の飯尾氏が城主になる。1560年の桶狭間の戦いで今川義元は織田信長軍に討ち取られ、今川氏は衰退する。信長と同盟を結んでいた松平元康=徳川家康(1542-1616)が曳馬城を攻略する。1570年、家康は武田軍の侵攻に備えて岡崎城を嫡男信康に譲り、曳馬城に移って城を西南に拡張するとともに曳馬=引馬は縁起がよくないので浜松城に名を改める。
 1573年、家康は三方原で武田信玄軍に敗北し、浜松城に逃げ戻る。武田軍は浜松城まで追撃してきたが引き返し、三河に侵攻するも間もなく武田信玄が病没する。危機を乗り越えた家康は浜松城の拡張、改修を進め、城下町も整う。家康は1586年に駿府に移る。
 家康以後の浜松城は家臣、譜代大名の居城になる。もともとの天守は17世紀に消失したらしく二重櫓?が代用されたが、明治維新後の1873年に出された廃城令で解体された。その後、三の丸、二の丸の宅地化が進む。1950年、天守台、天守曲輪、本丸の一部が浜松城公園となり、1958年、天守台に鉄筋コンクリート造の復興天守が建てられた。

 浜松城公園は大勢の来訪者で賑わっていた。大河ドラマにあわせイベントも開催されている。枝振りは細いが桜も見ごろである。人混みを縫って天守を目指す。
 天守曲輪の石垣は野面積みで、威圧感はない(写真)。武田軍に備え、大急ぎで築いたためだろうか。発掘調査で石垣高さは3.2m、石垣の上に土塀を築いていたと推定されている。
 石垣を回り込み、2014年に復元された天守門(写真web転載、天守曲輪からの眺め)から天守曲輪に入る。天守門は瓦葺き入母屋屋根の楼門である。軽快な印象である。
 天守曲輪は東西56m、南北68mとあまり広くなく、一隅に1辺21mのいびつな四角形の天守台が築かれている。もともとは天守台にあわせて天守が建っていたが、復興された天守は天守台の2/3ほどに縮小されて建てられたそうだ(写真)。
 瓦葺き入母屋屋根で、石垣の中に地下1階があり、天守台の上に地上3階が建ち、2階3階は白漆喰壁、1階は黒板壁でこぢんまりしているがどっしりとしている。
 3階の展望台に上る。外に回廊が設けられていて、天守曲輪の満開の桜、その先の浜松城公園、さらにその先の浜松市街を遠望できる(写真)。いまは高層ビルが所狭しと並んでいるが、家康の時代は遠くまで見晴らすことができただろうから、浜松城は城としては小さくても戦略的に有利だったようだ。家康に先見の明ありということであろう。
 2階は歴代城主などの解説、1階は家康の足跡などの解説、地下に展示されている井戸を見て、天守曲輪に出る。

 天守曲輪の北側の石段を下り、日本庭園を抜け、国道152号=飛龍街道を渡る。国道152号より1mほど高い横道を上ると、石垣が残っていて、元城町東照宮の表示板の横に石の鳥居が建っていた(写真)。鳥居の扁額にも元城東照宮と記されている。
 鳥居で一礼する。境内の正面に銅板葺き入母屋屋根に唐破風をのせた小柄な本殿が建つ(写真)。祭神は徳川家康、事代主命=恵比寿、大国主命=大黒天である。二礼二拍手一礼する。
 境内には、2015年に製作された豊臣秀吉と徳川家康のブロンズ像が置かれていた。前述したが、15世紀ごろ、ここに曳馬城が築かれた。1514年、今川支配下の飯尾氏が城主になる。木下藤吉郎=のちの豊臣秀吉(1537-1598)は、16歳のころに曳馬城の支城の城主・松下氏に仕えたそうで、曳馬城に来たとき猿舞?を演じたとされる。藤吉郎は2~3年で松下氏を離れ、1554年に織田信長に仕え、のちに天下を統一する。
 今川氏衰退後に曳馬城を攻略した松平元康=徳川家康は、1570年に曳馬城に移ると現天守曲輪を本丸とした城に拡張整備する。家康は、秀吉没後に天下を統一する。曳馬城は2人の天下人にゆかりがあるということで秀吉+家康のブロンズ像が製作されたようだ。
 家康が浜松城に移ったあと、曳馬城跡は米蔵として利用された。明治維新後、浜松城代だった井上氏が曳馬城跡に東照宮を建てる。当初の東照宮は地域との縁はなかったが、元城町に神社がなかったことから井上家から移管してもらい、地域の神社として崇敬を集めた。1945年の砲火で本殿が焼失し、1958年に鉄筋コンクリート造で再建され、いまも祭礼行事が行われているとのことだった。
 時計は12:00少し前である。昼食には早いので、次の目的地である龍潭寺を目指す。 
 (2024.1)

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