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「がいなもん 松浦武四郎一代記」斜め読み2/2

2024年07月29日 | 斜読

斜読・日本の作家一覧>  book562 がいなもん 松浦武四郎一代 河治和香 小学館 2018

6、武四郎、狙われる
 1884年夏、豊は父・暁斎から、武四郎が陶工・三浦乾也に頼んだ人形・妙楽菩薩像に絵付けをするので長命寺にある窯場に取りに行かされる。乾也に会うと、妹の加代が武四郎の女房だったが10日後に死んだと話す。
 そこに松浦老人が来たので豊がいきさつを聞く。かつて芝居茶屋のスミとお囃子方のあいだに乾也が生まれ、スミが水戸藩に女中で上がったとき水戸公とのあいだに加代が生まれる。スミは姉のマツと陶工・吉六に乾也と加代を預け、間もなく亡くなる。吉六は加代を連れて出奔してしまい、乾也は吉六から習った楽焼を焼いていて西村藐庵に見いだされ、頭角を現し三浦乾也を名乗る。殿の御前で焼き上げる乾也のお庭焼は、諸藩のあいだで評判になった。
 そのころ、武四郎は、蝦夷地探索を「初航蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」計35巻と「蝦夷大概之図」にまとめ、諸侯に献上した。日誌には松前藩のアイヌ人への暴虐、ロシアへの無策がありのままに記されていたので、松前藩の怒りを買うことになる。
 このころ武四郎は水戸藩士・加藤木賞三、三浦乾也と親しくなる。加藤木を通じて水戸藩主・徳川斉昭、藤田東湖にも蝦夷日誌が渡され、武四郎は幕府にも知られていく。
 1848年、ペリーが来航する。三浦乾也は黒船を見学し、対抗するには洋式軍艦が必要と模型をつくる。乾也の軍艦模型と武四郎の書いた建白書が老中・阿部正弘の目にとまり、乾也は(勝海舟に先立ち)長崎へ洋船建造の修行に行くことになる。江戸に戻った乾也に仙台藩が洋式軍艦・開成丸を造らせた。
 同じころ加代が射和の豪商・竹川竹斎の江戸屋敷にいた。武四郎が竹祭を訪ねたとき、加藤木が武四郎に加代を娶るように言い、竹斎も勧めたので、乾也が仙台から戻って祝言になる。
 2人が仲睦ましく過ごしていて10日ほど経った日、武四郎が家を空けたわずかなあいだに、加代は何者かに殺されてしまう。(証拠は無いが松前藩の仕業に違いない)、その後、武四郎の松前藩糾弾は激しくなる。
 ・・勝海舟が登場するが詳しくは描かれていない・・。

7、武四郎、国事に奔走する
 7節では、ペリー艦隊、ロシア艦隊が下田に来航した1853~1854年ごろ、松浦武四郎が奔走した話である。
 7節は、1885年正月、上野・護国寺の大国様の縁日から始まる。豊が護国寺に行き、松浦老人と養子の一雄(加藤木の3男)に会う。一雄の師匠は彫金の加納夏雄で、一雄は大阪造幣寮で発行する貨幣の彫刻を手伝っていた。
 豊の問いに武四郎が、黒船が来航した嘉永6年1853年の記憶を語る。36歳の武四郎を吉田松陰が訪ねてきて、蝦夷地の開拓について話しあい、武四郎は松陰を藤田東湖に紹介する。その後、武四郎は親友・鷲津毅堂から頼まれ、攘夷の勅命の沙汰書が下されるよう藤田東湖、吉田松陰の密書を持って京にり、誓願聴許の内諾を得て江戸に戻る。
 翌1854年、北方事情に詳しい武四郎は幕閣の要人から重視されていて、ペリー艦隊が下田に回ったときは宇和島藩からの依頼で下田での談判状況を調べ、情報屋として暗躍した・・このころ松陰が密航を企てて失敗し、囚人として江戸に送られている・・。
 プチャーチン率いるロシア艦隊が下田に来たときは、武四郎は幕府の要人の配下として下田に向かったが、大地震が起き、下田の町は全滅し、ロシア艦隊は大打撃を受けた、などの体験を豊に話す・・唐人お吉のことが挿入されるが、お吉が下田の領事館に上がったのは武四郎が下田に来た数年後で、接点は無いそうだ・・。

8、・・秘めおくべし
 8節は1885年の早春、武四郎が暁斎を訪ね、伊勢と奈良の国境の大台ヶ原に登る話を始める。武四郎は、旅の計画を立て、準備をし、旅をして、旅の記録を残すことが活力の源になっているようだ。
 話は武四郎の蝦夷地探検に飛ぶ。自力の蝦夷地探検が3回、幕府の御用で3回、計6回蝦夷地を探検している。(伊能忠敬、間宮林蔵は海岸線を踏破し、地図を作成するのが目的だったが)、武四郎は内陸奥深く入り、アイヌ人と交流し、寝食を共にして日誌に記録した。アイヌ人の神の山であるカムイ岳にも登った。樺太には2度渡り、北はツングース系が住むが、南はアイヌ人が住んでいることも見聞した。
 見聞したことはありのままに記録した。松前藩のアイヌ人に対する暴虐には心を痛め、とくに松前藩がアイヌ人を和人化しようとしていること、若い男を漁場に送り、若い女を妾にし、アイヌ人を根絶やしにしていることに悲憤をつのらせ、何度も箱館奉行所、江戸幕府に上申したが、松前藩の圧政、無策は変わることがなかった。
 2度目の蝦夷地探検で見聞した松前藩の現状を「秘めおくべし」として記録し、5回目の「丁巳日誌」、6回目の「戊午日誌」も門外不出とした。誰も信じられない、いつか歴史が明らかにする、という気持ちだったようだ。

9、武四郎、雌伏す
 9節は、1885年に武四郎68歳が大台ヶ原を踏破して、富士山も見えるという雄大な景色に感激し、墓は大台ヶ原に建てると言い出すところから始まる。ところが暁斎に頼んだ涅槃図がなかなかできあがらない。武四郎は豊に、涅槃図に書き込む蒐集品の写生をさせながら、蝦夷地探検の思い出を語る。
 榎本武揚のもとの名は釜次郎で、蝦夷地探索に参加した、桂小五郎=木戸孝允も坂本龍馬も西郷隆盛も蝦夷地開拓を聞きに来たなどなど、を豊に話す。
 箱館で5節に登場したソンに再会したが、ソンはギンと名乗り、アメリカ領事館に通っていて、アメリカ人は和人よりやさしくいい人、武四郎は通り過ぎていくだけ、と言って走り去ってしまった、と話したときの武四郎は遠い目になった。
 武四郎の著した「近世蝦夷人物誌」の板行は軋轢を避けた幕府から許可が下りなかったが、「東西蝦夷山川地理取調日誌」「東西蝦夷山川地理取調図」にアイヌから聞き取った9800の地名をカタカナで表記、漢字を当てて幕閣に提出し、貴重な資料になったこと、井伊大老暗殺後に武四郎が信頼していた堀織部正が切腹し、武四郎は失意のなか「蝦夷漫画」「天塩日誌」「石狩日誌」「知床日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」などの紀行文を書いたことなどを豊に話す。豊、武四郎、武四郎夫人の3人で笹之雪に豆腐を食べに出かけるところでこの節は終わる。

10、武四郎、北加伊道と名付く
 1886年3月、河鍋暁斎が足かけ6年かけた「武四郎涅槃図」を完成させる。松浦武四郎はこの絵を「北海道人樹下午睡図」と呼ぶ。豊が、蝦夷を北海道と名づけたのは武四郎かと聞くと、1865年4月、武四郎は京にいた大久保利通に呼ばれたときの話を始める。
 大久保の推挙で武四郎は箱館府判事に任命され、1869年6月に蝦夷新道開削の建白書を提出、7月に「道名之儀取調候書付」を提出する。武四郎は、アイヌの古くから呼び習わされたカイを入れ北加伊道を提唱し、のち北海道が正式名称になった、と話す。しかし、武四郎に対する開拓史の役人、旧松前藩、各場所の請負人からの反発が強く、1870年に箱館府判事を辞職する。信頼していた箱館府判事・井上からソンの消息が知らされ、武四郎は金子を託したが、ソンの行方は分からなくなり、井上も遭難で消息を絶ってしまった。
 明治新政府は、武四郎の建議に対し松前藩処遇、場所請負人制度には承知しなかったため、官位を返上し野に下った。以降、松浦武四郎は馬角斎を号とした。馬角斎=バカクサイ。 

11、武四郎、終活に邁進する
 1886年5月、松浦武四郎は神田五軒町の屋敷で天神様を祭る菅公祭を開く。河鍋暁斎、豊が末席に座り、貴賓席にジョサイア・コンドル、岩崎弥太郎、川喜多家16代・久太夫9歳が座る(幼馴染みで武四郎のよき理解者だった川喜多崎之助はすでに亡く、跡を継いだ長男も急死し、長男の子が跡を継いだ。崎之助の孫になる)。 宴席には河鍋暁斎による「北海道人樹下午睡図」が飾られ、参加者に披露された。
 武四郎は70歳古希の記念に富士山に登頂、続いて遺言状を書き、遺影用の写真も撮る。武四郎は、親友・鷲津毅堂(武四郎が京に密書を届けたときの首謀者の一人)の娘・永井恒の長男・壮吉(のちの永井荷風)とは遊び相手で、1888年2月、鷲津家に出かけたときに倒れ、大八車で家に戻っ数日後に息を引き取る。
 葬儀を終えた2月の終わり、豊が松浦家を訪ねたとき、家をのぞき込んでいた洋装で異人の夫婦に白いリキ丸が盛んに吠えた。気づいた洋装の女はリキ丸を抱き号泣する。この女性こそソンであった。紳士はヘーツといい函館で診療所を開いていて、ソンは結婚してディジーと呼ばれていた。2人は、新聞で松浦武四郎の訃報を知り飛んできたそうだ。
 武四郎没後のこと、記録のなかに登場した人々のその後、永井荷風のこと、豊が暁翠として東京女子美術学校初の女性教授になったことなどなどが記され、豊が没し、物語は幕になる。

 松浦武四郎が豊=河鍋暁翠の問いかけに記憶をたどって答える展開であり、節ごとの始まりは武四郎、豊の日常の暮らしから書き出されていくので、ほのぼのとした和やかな筆さばきを感じる。
 言い換えると、黒船が来航しロシア艦隊が南下している激動の幕末、松前藩は非業と無策に終始しているさなか、蝦夷地探検6回という偉業をなしとげ、アイヌ人と緊張感に満ちた交流をし、蝦夷地の状況を日誌と地図に残した松浦武四郎の波乱に富んだ生涯が淡々とし過ぎている。
 河治氏は、アイヌ人を救えなかった松浦武四郎の悲憤に同調し、穏やかな筆さばきを選んだのかも知れない。
 「北海道人樹下午睡図」は松阪市の松浦武四郎記念館に展示されているらしい。松阪市を訪ねる機会があれば、がいなもん・松浦武四郎の偉業を振り返ってみたい。  (2024.3)

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