yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2024.4東京上野 博物館でお花見

2024年05月29日 | 旅行

日本を歩く>  2024.4東京 上野公園を歩く+博物館で花見

 上野東照宮ぼたん園の出口は上野東照宮参道に面していて、出ると左に上野東照宮唐門がきらびやかに構えている(写真)。1651年に徳川3代家光が建て替えた瓦葺き唐破風造の四脚門で、金箔を多用した華やかさは家光好みであろう。
 扉の左右の柱には左甚五郎作の昇り龍と降り龍が彫刻されている。唐門の左右には唐門と同時に作られた菱格子の透塀が延びる。唐門、透塀ともに国の重要文化財に指定されている。
 別名金色殿と呼ばれる社殿(1651年、家光により建て替え、権現造、重要文化財)の参拝は次の機会にして参道を戻る。
 参道には各地の大名から奉納された48基の灯籠が並び、五重塔が偉容を誇る(写真)。五重塔は1631年、当時の老中・土居利勝が建立するが、1639年に花見の火災で焼失し、その年に再建された。屋根高さ32m、相輪までの高さ36m、1層から5層までの屋根は同じ大きさで、1層から5層へと屋根の大きさが減衰する五重塔が伸びやか、優美に見えるのに対し、剛健さを感じる。
 参道を戻り、大石鳥居で一礼し、桜通りを左に歩く。

 桜通りの広場ではイベントの準備が始められていた。行く人、来る人、大噴水の周りに腰掛けくつろぐ人で賑わっている。都道452号の向こうが東京国立博物館=通称東博である。正面の本館は1938年、渡辺仁の設計で旧東京帝室博物館本館として開館した(前頁写真)。日本を代表する収蔵品が展示されていて、チケット売り場はいつも列ができるが、目当ての「博物館でお花見」は平常展なので70歳以上は無料である。身分証を見せて入館する。
 先にランチにしようと、右手東洋館に並ぶホテルオークラレストランゆりの木をのぞく。テラス席を含め140席あるが、満席だった。20分待ちだったので、予約券を受け取り、谷口吉郎設計、1968年開館の東洋館に入る。
 2階に上がり、エジプトやガンダーラの彫刻を見る。2000年ほど前の彫刻に当時の人々の思いを夢想する。
 「仏鉢供養・菩薩交脚像」は片岩を用いた3~4世紀のアフガニスタンの彫刻である(上写真)。中央は釈尊が四天王から受け取った4つの鉢、左右の足を交差した像は弥勒菩薩だそうだ。彫りの深い細かな細工にも目を取られるが、日本とは顔だちの違うアフガニスタンで、日本よりも早くから仏教が信仰されていたことに驚かされる。
 ホテルオークラレストランゆりの木に戻る。窓際の席で、桜を眺めながら花見気分でビールをいただき、ランチを取る(中写真)。桜のお陰でランチが格段に美味しくなった。

 ランチ後、桜の残る庭園を歩いた(前頁下写真、本館からの眺め)。東京国立博物館本館あたりにかつての寛永寺本坊が建っていて、本館北側の庭園が、(何度も改修されたため様相はだいぶ違うらしいが)寛永寺庭園の名残である。庭園は起伏に富み、樹木がこんもりしていて野趣に富んでいる。園路は起伏を縫いながら池を巡るように整備されている。
 高さ5.7mの銅製五重塔を見る。徳川5代綱吉が法隆寺に奉納した五重塔だそうだ。
 木造平屋、茅葺き入母屋屋根の春草廬が建つ。江戸時代、淀川改修のときに河村瑞賢が建てた休憩所の移築である。木造平屋、瓦葺き切妻屋根の転合庵を眺める。小堀遠州が京都伏見の六地蔵に建てた茶室の移築である。六窓庵を眺める。木造平屋、茅葺き入母屋屋根で、奈良興福寺慈眼院に建てられた茶室の移築である。いずれも通常非公開である。
 応挙館は茶屋として利用されていて、満席だった。木造平屋、瓦葺き入母屋屋根で、尾張国天台宗明眼院の書院として建てられ、円山応挙が滞在したとき襖絵などの墨画を揮毫したそうだ。建物を移築したとき、襖絵などをデジタル技術で複製し、応挙館に公開している(写真)。
 木造平屋、瓦葺き寄棟屋根の九条館は、東京赤坂に建っていた九条邸の居室で、内部を見学できるが外観を眺めて、庭園での花見散策を終える。

 本館北側の入口から入館する。「博物館でお花見」は、桜の時期に合わせて桜にちなんだ名品が展示される恒例の企画展である(今年は3月12日~4月7日)。本館の展示は部屋ごとの展示内容が決まっていて、定期的に展示物が入れ替えられる。「博物館でお花見」の展示も毎年変わっている。今年は桜を採り入れた屏風、瓢形酒入、振袖、浮世絵、色絵皿などが選ばれている。本館は広いので、本館展示案内図をにらみながら最短のお花見コースを探す。
 まず2階7室「屏風と襖絵」で、「犬追物図屏風」を見る。江戸時代作の六曲一双の屏風の右隻に、中央の犬を相手に馬に乗った武士が弓術をみがいていて、それをその周りの桜の下で人々が見物してる様子が描かれている。武士の弓術見物も町民の娯楽だったようだ。

 隣の8-1室「暮らしの調度」に移り、江戸時代作の「瓢形酒入」を見る。瓢形の下に鍍金の桜の花がはめ込まれている。風に揺れる桜花を眺めながら桜模様の徳利で一献傾ければ、酒はますます美味になろう。
 8-2室、9室を通り過ぎ、10室「浮世絵と衣装」で「金龍山桜花見」の浮世絵を見る(写真、横3枚のうちの中央)。江戸時代、長文斎栄之筆で、浅草寺本堂裏手は奥山と呼ばれ、吉原遊女たちが千本桜を寄進した桜の名所だそうで、武家、町家の女性が着飾って花見を楽しむ様子が描かれている。華やかさは伝わってくるが、浮世絵が少しくすんでいる。デジタル処理で色鮮やかな複製画にしたら格段に華やかになりそうである。
  10室には「振袖染分縮緬地枝垂桜菊短冊模様」の着物や「桜花婦女図」の浮世絵なども展示してあり、花見の気分が盛り上がる。
 1階に下り、13-3室「陶磁」で「色絵桜花鷲文大皿(写真)」「色絵桜樹図透鉢」「色絵枝垂桜図皿」などを見る。盛りつけられた料理を食べるたびに色絵が少しずつ現れてくる趣向だろうが、あまりにも見事な桜図に目を奪われ、料理の味を忘れそうである。
 今年も博物館で過分に花見を楽しんだ。疲れも心地よく家路につく。 (2024.5)

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2024.4東京 上野公園を歩く 桜+牡丹

2024年05月28日 | 旅行

日本を歩く>  2024.4東京 上野公園を歩く+博物館で花見

 上野公園にはよく出かける(HP「2015.2東京都美術館奇想の系譜展」「2015.9東京都美術館クリムト展」「2016.8上野を歩く」「2017.11西洋美術館北斎」「2018.1上野を歩く」など)。上野公園の正式名称は上野恩賜公園で、現在の広さは538,507㎡≒54ha、東西およそ900m、南北およそ1400mになる。
 1625年、徳川2代秀忠(1579-1632)は、天海大僧正の進言で江戸の北東=鬼門を守護する東叡山寛永寺を、京の北東=鬼門を守護する比叡山延暦寺に倣い、上野に建立する。最盛期の寛永寺境内は1,006,500㎡≒100haにのぼる広大な敷地だったらしい。
 天海大僧正が奈良・吉野から桜の苗木を取り寄せて上野に植えたのが、上野の桜の始まりである。1827年に発行された江戸名所花暦では東叡山の桜が人気の筆頭にあげられているそうだ。現在はソメイヨシノ、シダレザクラ、カンヒザクラ、オオシマザクラなど800本(1200本の説もあり)が人出を誘い、賑わいを作りだしている。
 1868年、新政府軍と旧幕府軍が上野で激突する(戊申戦争)。寛永寺に集結した彰義隊は新政府軍によって壊滅する。このときに広大な寛永寺の多くの堂宇が焼失する。明治維新後、寛永寺の境内は官有地となり、1873年、東京府公園に指定される。その後、不忍池の併合、博覧会開催、国立博物館開館、東京美術学校建設などがあり、1890年に宮内省管轄を経て、1924年に宮内省から東京市に下賜された。以来、上野恩賜公園が正式名称になる。その後も博物館、美術館、動物園、文化会館などの整備が進められて、現在の形になった(前頁案内図web転載)。
 
 花見の時期はたいへんな混雑になるので、今年も盛りを過ぎたころ合いを見計らい、東京国立博物館=東博の「博物館でお花見」に出かけた。桜も垣間見ることにして、JR上野駅広小路口から出る。中央通りの交差点を渡り、京成上野駅手前の階段を右に上る(前掲公園案内図下やや左)。
 上野は外国人にとって人気の観光地のようで、いつも外国人が多い。京成上野駅手前の階段の踊り場左に蛙の口から水を噴き出すかえるの噴水があり、外国人が記念写真を撮っているのを眺めながら、さくら通りを右=北に上る。中ほどに仕切りが設けられていて、右が上り、左が下りに分けられているので、人の流れはスムーズである。桜はだいぶ花を散らしていて、ピンク色が透け始めている(写真)。

 右に清水観音堂が建ち、手前の枝を円形に丸くした松が目を引く(左写真)。
 1631年、京の清水寺から天海大僧正に千手観世音菩薩像が奉納され、天海大僧正は京の清水寺(崖造=舞台造)に倣い、上野・擂鉢山(=摺鉢山)に崖造=舞台造で清水観音堂を建立する。天海大僧正没後の1694年(徳川5代綱吉の時代)、寛永寺に根本中堂が建てられたとき(現在の噴水広場あたり)、清水観音堂は現在地に移された。
 天海大僧正は、不忍池を琵琶湖に見立て、琵琶湖の竹生島の弁財天を勧請して、不忍池に不忍弁天堂を建立した。現在地に移された清水観音堂の舞台から不忍弁財天を見下ろすあいだに枝を丸くした通称月の松が植えられていて(丸があまりにも見事だから作為ではないだろうか)、歌川広重の名所江戸百景に「上野清水堂不忍ノ池」(前頁右写真web転載)、「上野山内月のまつ」の2枚も描かれるほど話題になったらしい。
 月の松は台風によって倒れてしまったが、2012年に月の松が再現された(前掲写真)。

 桜通りの左に「上野大仏」が安置されている(写真web転載)。1631年、上野の丘(=大仏山)に盧舎那仏坐像が建立された。地震などで倒壊、修復を繰り返し、1923年の関東大震災でまたも頭部が落下、頭部、胴部が解体されて寛永寺に保管されたが、胴部は軍需資源として供出されてしまう。1972年、頭部が大仏山に安置され、「これ以上落ちない」ということで受験生から「上野大仏」として参拝されるようになる。

 上野大仏を通り過ぎたあたりに「上野東照宮 春のぼたん祭」の案内があった。ぼたんを愛でることにして、上野東照宮に向かう。
 1617年、徳川2代秀忠(1579-1632)は、日光輪王寺貫首・天海大僧正のもと、神君家康を勧請する日光東照社を建立する。秀忠は1627年に、東叡山寛永寺境内に上野東照社を建立する。1636年、徳川3代家光(1604-1651)は日光東照社を現在に残る形に建て替え、1651年に上野東照社を現在に残る上野東照宮に建て替える・・1645年、朝廷から東照社に「宮」号の宣下があり、以後、東照社は東照宮と呼ばれる・・。
 推測するに、秀忠の東照社は豪壮だったであろうが急いで建てることに力点が置かれ、対して家光は時間をかけ、徳川の威信を象徴する絢爛さに力点を置いたのではないだろうか。
 大石鳥居で一礼する(写真web転載)。16633年、家康、秀忠、家光に仕えた厩橋藩(のちの前橋藩)主・酒井忠世の寄進で建立され、国の重要文化財に指定されている。
 参道の両側には屋台、露店が隙間無く並び(写真)、大勢の外国人観光客が東照宮参拝の行き帰りに腰を下ろし、飲食、歓談をしている。
 薬医門をくぐった左に「上野東照宮ぼたん苑」の入口がある。1980年、日中友好を記念して開苑され、中国品種、アメリカ品種、フランス品種を含め、110品種、500株以上の牡丹が栽培されているそうだ。入苑料1000円は、維持管理を考えれば妥当であろう。
 ぼたん苑は東照宮参道に沿った細長い敷地で、コの字が向きを変えながら連続する苑路に、島錦、八千代椿、島大臣、連鶴、花王、黄冠、聖代(写真)などが咲き誇っていた。 続く

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2024.4東京芝 増上寺・旧芝離宮庭園を歩く

2024年05月18日 | 旅行

日本を歩く>  2024.4東京芝 増上寺・旧芝離宮恩賜庭園を歩く

 JR浜松町駅で下りる。北口改札の東に旧芝離宮恩賜庭園があるが、腹ごしらえをしようと北口改札から西に歩いた。増上寺参道になる通りに増上寺大門が建つが、今日は紋入りの幕が下げられていて、警備の人も出ている(写真)。
 参道に並ぶ塔頭寺院には正装した僧侶や身なりを整えた婦人が出番を待つように並んでいる(写真)。警備の人によれば、間もなくお練り=練行列が始まるらしい。
 増上寺では毎年4月、今年は4月2日~7日に浄土宗の元祖・法然上人の忌日法要が行われる。本堂では大法要や舞楽、双盤念仏などが催され、練行列では唱導師を先頭に、大門から本堂までおよそ300mを僧侶、信徒など200~300名が一歩一歩ゆっくりと進むそうだ。
 昼食を取ったあと、大松原の名残を残す緑地を眺め(写真)、日比谷通りを渡り、増上寺三解脱門=空門・無相門・無願門の3種の修行で悟りの境地を開く三門で一礼する(次頁写真)。
 三門は徳川家康(1543-1616)の寄進で1611年に建立、1622年に再建された間口10間≒19m、奥行き5間≒9mの壮大な門構えで、国の重要文化財に指定されている。
 もともとの増上寺は1393年、浄土宗・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって現在の千代田区に創建された。1590年、江戸に転封となった家康は増上寺を菩提寺とし、1598年、現在の芝に移し、本堂=大殿、三門などの堂宇が建てられた。
 1616年、家康は、葬儀は芝・増上寺、遺体は駿河・久能山、位牌は三河・大樹寺、1年後に日光山に勧請と遺言し、家康没後、芝・増上寺で天海大僧正を導師とする盛大な葬儀が行われた。
 以降、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂が増上寺を墓所とした・・3代家光は日光大猷院、ほかの将軍は上野・寛永寺(天台宗)を墓所とする・・。
 大殿はその後、大火、再建、大火、再建を繰り返し、1945年の空襲で焼失後、1971年に現在の大殿が建立された。

 三門を入る。参道の正面に本堂=大殿が建つ(写真)。参道には桜が舞い、屋台が並び、参拝客、観光客で賑わっている。大殿の右奥に貴婦人のようなたたずまいの東京タワーが建つ。桜、大殿、東京タワーを収めようとポーズを取る外国人が少なくない・・大殿の裏手の高台に上がると桜+東京タワーを独り占めできる(HP「2017.4増上寺参拝」参照)・・。
 大殿への階段はお練りを待つ人で混み合っていた。大殿に入ると唱導師による法要が行われていた(前頁写真)。後ろの方から、本尊・阿弥陀如来に合掌する。私の家族の葬儀は親鸞聖人開祖の浄土真宗にお願いした。親鸞は師の法然上人の説く顕浄土真実を継承していて、浄土真宗の本尊も阿弥陀如来である。

 法要の声を聞きながら大殿を出て、境内を見下ろす。ほどなく、唱導師を先頭にして僧侶の一団、続いて信徒の一団が一歩一歩、仮設された敷物を踏みしめながらしずしずと現れた(写真)。仮設舞台で唱導師がお経を唱えた?あと、僧侶、信徒が再び大殿に歩みを進める。
 お練り=練行列を始めて見た。厳かな時間がゆっくりと過ぎる。僧侶、信徒の浄土往生を信じる気持ちが伝わってくる気がする。偶然にお練りに出会えたのも仏の導きと思う。
 練行列の一団はゆっくりと階段を上り、大殿に入る。境内は仮設された敷物、幟、舞台が片付けられ、もとの賑わいに戻る。
 大殿をあとにし、三門で一礼して、参道を下り、旧芝離宮恩賜庭園に向かう。

 東京都には旧芝離宮恩賜庭園を始め9つの文化財庭園があり、浜離宮恩賜庭園、小石川後楽園、六義園、旧岩崎庭園、旧古河庭園などは機会あるたびに訪ねている。旧芝離宮恩賜庭園は、高校が隣の駅だったので寄ったことがあるが、記憶は薄い。
 徳川4代家綱の時代、1657年の明暦の大火で江戸は火の海になり、市街のおよそ6割が焼失し、江戸の人口およそ30万人の2割にあたる6万人が犠牲になったといわれる。
 幕府は大火を教訓に防災都市造りを進める。たぶん、このときにそれまで海面だった芝も埋められ、1678年、埋め立て地に老中・大久保忠朝の上屋敷が作られた。幕末、この屋敷は紀州徳川家の屋敷になり、明治維新後の1871年に有栖川宮家の所有となり、1875年、宮内庁が買い取って芝離宮とする。
 1923年の関東大震災で芝離宮の建物、樹木が焼失し、1924年に東京市に下賜された。東京市は庭園の復旧整備を進めて、同年、「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開した。現在は前述の東京文化財庭園の一つであり、国の名勝に指定されている。

 庭園はおよそ43,175㎡、東西1.1kmほど、南北1.5kmほどの広さで、なかほどに約9000㎡の大泉水を配置した池泉式回遊式庭園である。入口は庭園の北東に位置し、入るとすぐ左に、まだ花は咲いていないが藤棚が設けられ、ベンチが置かれていて、庭園を一回りした人が一息している。
 右回り=南の園路を歩くと雪見灯籠が据えられていて、その先に大泉水が広がっている。雪灯籠の足下は州浜になっている(写真)。
 大泉水に沿って園路をさらに南に歩くと、左に花の終わった梅林に続き大山があり、右は起伏のある芝生広場になる。芝生広場には桜が植えられていて、観光客が花見を楽しんでいる(写真)。散り始めだがまだまだ薄いピンクが空を覆っている。
 芝生広場辺りが南の外れで、大泉水に沿って西の園路を進み、庭園の東外れで北に折れ、根府川山、唐津山を過ぎ、庭園の中ほどで、大泉水に架けられた八つ橋を渡り、大泉水中央の中島を過ぎ、西湖の堤を渡って、先ほど歩いた庭園西の園路に戻り、雪見灯籠を眺め、藤棚に戻って一息する。
 東西1.1kmほど、南北1.5kmほどの庭園は空が広い。気持ちが大らかになる。浜松町駅辺りは再開発が進められているが、庭園にいると町なかの喧噪が聞こえず、のんびりできる。のんびりすぎて、高校生のときは物足りなく記憶に残らなかったのかも知れない。
 駅近でコーヒータイムを取り、家路についた。 (2024.5)

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2024.4東京品川 御殿山庭園を歩く

2024年05月13日 | 旅行

日本を歩く>  2024.4品川 御殿山庭園を歩く

 目黒川上流の桜並木が連日のようにテレビで報道され、たいへんな人出が映し出されている。人混みは苦手である。目黒川下流、品川エリアにも桜並木が続いていて、目黒川から少し離れるが御殿山庭園も品川エリアの桜の名所として案内されている。御殿山庭園なら目黒川上流ほどの人出はないだろうと勝手に予想して出かけた。京浜急行北品川駅から徒歩5分、山というほどではないが丘陵に造園された庭園である。

 話は飛ぶ。室町時代、鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉一門である扇谷上杉家太田道真に道灌(1432-1486)が生まれる。1438年に鎌倉公方と関東管領の争いが起き(永享の乱)、1455年、5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことで室町幕府と山内上杉家・扇谷上杉家は成氏征伐に動き、成氏は古河に居を移し初代古河公方を名乗る(享徳の乱の始まり、HP「2024.3茨城 古河桃まつり」参照)。
 1455年ごろ太田道真・道灌は品川湊(目黒川河口)に近い現在の御殿山に館を築く。江戸湾の舟運と江戸湾の見張りのためであろう。1456年、太田道真・道灌は古河公方陣営の防御のため河越城(埼玉県川越市)、続く1457年に現在の桜田門あたりに江戸城を築く。
 ・・享徳の乱は1483年まで続き、室町幕府と古河公方は和睦する。太田道灌の活躍はめざましく人望を集めた。主君扇谷上杉定正は道灌に取って代わられてしまうと邪推し、1486年、道灌を暗殺する。器の小さい主君を支えてきたのにひどい仕打ちだったことから人心が離れ、扇谷上杉家は衰亡する・・。

 その後関東は北条早雲が起こした後北条家が主君になり、豊臣秀吉は後北条家を滅ぼして、徳川家康(1543-1616)を江戸に転封させる。
 1590年、徳川家康が江戸城に入る。家康は道灌の館跡に御殿を建て茶会、鷹狩り、馬揃いをしたそうだ。仮御殿だったらしいが品川御殿と呼ばれた。
 1635年、3代徳川家光の代に、小堀遠州により本格的な品川御殿が建てられ、庭園が造園された。4代家綱の代に吉野の桜が植えられ、桜の名所となった。
 1702年、品川御殿は焼失し、その後、再建されなかったが、御殿山の桜は無事だったようで、1831~1834年に制作された葛飾北斎の「富嶽三十六景 東海道品川御殿山の不二」(写真web転載)や1856~1858年に制作された歌川広重の「名所江戸百景 品川御殿やま」(写真web転載)などに桜の名所として描かれている。
 
 京浜急行北品川駅を出て、国道15号=第1京浜を渡り、東海道線・東海道新幹線・京浜東北線の跨線橋から電車を眺めた右先に御殿山庭園が広がる。
 斜面に造園されているようで、のぞき込むと石柱が何本も並んだあいだを水が流れ落ちている(写真)。桜は高い側に植えられていて、滝の上に満開を過ぎた花が伸び出している。
 水の音を聞きながら低い側に下り、回遊するように斜面に設けられた散策路を上る。
 庭園の西、木立のなかに1992年、磯崎新氏設計で建てられた茶室「有時庵」が佇む(写真web転載)。アプローチ路は進入禁止だったので細かなことは分からないが、四角い平面に円形の屋根を乗せ、トップライトからも光を採り入れていて、側面の壁は石積み、屋根を支える円柱は節のある野趣味な木柱である。磯崎氏らしい現代的な感覚を盛り込んだ茶室であろう。

 木立のなかの散策路を上ると桜が風に舞う外周路に出る(写真)。桜祭りの跡が残っているなかを気楽な姿で行き交う人が多い。近所の人が散策を楽しんでいるようだ。桜は満開を過ぎ、見上げると高層ホテル、高層ビルが空を圧倒している。薄いピンク色のソメイヨシノは青々と広がる空が似合う。花を散らした桜に高層ビルは気分が盛り上がらない。気分を変えようと芝離宮に向かうことにする。
 御殿山庭園の外周路を北に歩き、大通り=都道317号を渡って、道なり北東に歩きJR品川駅に向かった。 (2024.5)

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2024.4さいたま 桜を歩く

2024年05月12日 | 旅行

日本を歩く>  2024.4さいたま 桜を歩く

 「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」(在原業平・古今和歌集)の時期が来た。今年は開花が早いと予想されながら冷え込みが続いて開花宣言がなかなか出ず、開花しても冷え込みが続いたが、急に暖かさを通り過ぎて暑くなったり、春の心はのどけからましとはいかなかった。桜は魔術である。
 ウオーキングコースの一つである盆栽町桜並木まで、片道10数分である。まだつぼみが硬い~あちらこちらにちらほら咲いて~やがて1~2分咲き~4~5分咲きになり~満開(写真)~そして花吹雪を浴びながら散策しながら楽しんだ。

 盆栽町の桜並木を過ぎ、東武アーバンパークラインの踏切を渡るとほどなく大宮公園である。片道25分ほどになる。大宮公園まで足を延ばすと、およそ1000本の桜が出迎えてくれる(写真)。高台は自由広場と呼ばれる緑地が広がっていて、花見客は思い思いの場所に陣を取り、桜の下で料理や酒を楽しんでいる。低地側には舟遊池に沿って散策路が整備され、池に映る桜を楽しむことができる。
 大宮公園には遊園地、小動物園もあり、家族連れも多い。花見や縁日などには屋台が並び賑わう。

 さいたま市営霊園思い出の里に墓がある。最近は春の彼岸の墓参りを花見時に変えて墓参りしている。墓参りを終え、元気だったころの家族を思い出しながら桜並木をぐるりと巡る(写真)。車で行くことが多いので、帰宅後に、桜並木を家族と歩いた気分で杯を傾ける。
 ビールを手に頭の中で故人にとりとめの無いことを一方的に語りかけ、勝手に納得してビールを空ける。そういえば妹はワインだったなと語りかけ、自答しながらワインを傾け、みんなといっしょに飲んでいる気分になる。「お兄ちゃん、飲み過ぎないように」、そんな声が聞こえてきて、花見酒をお開きにする。  (2024.5)

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