yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2009.1新春 上野のジョサイア・コンドル設計の旧岩崎邸見学+津軽三味線

2020年03月26日 | 旅行

2009.1 新春、上野を歩く ジョサイア・コンドル設計の旧岩崎邸
      日本の旅・東京を歩く
三菱財閥の祖岩崎弥太郎、2代総帥弥之助、3代総帥久弥

 不忍通りに出ると、旧岩崎邸庭園の標示がある。
 岩崎弥太郎(1835-1885)は現在の高知県安芸、土佐藩の地下浪人の家に生まれたが才覚に恵まれていたようで、海援隊の会計担当になる。明治2年1869年に土佐藩が海運業の九十九商会を立ち上げ、翌1870年、岩崎弥太郎が経営者となり、1873年に三菱商会と改名する。
 1877年の西南戦争で巨利を得て、三菱財閥の祖となる。三井財閥、大倉財閥と対立するなか、1885年、50才で没した。

 三菱財閥2代総帥として跡を継いだのが弟の岩崎弥之助(1851-1908)で、三菱の多角経営を進め三菱社を創設するとともに、丸の内の土地を購入した。この土地に現在に残る丸の内のオフィス街がつくられていくことになる。岩崎弥之助は日本銀行総裁も務めている。

 弥太郎の長男=弥之助の甥である岩崎久弥(1865-1955)は、1891年に三菱社副社長として就任、1893年に社長=三菱財閥3代総帥となり、三菱合資会社に改組、事業拡大を進めた。麒麟麦酒などの創業も進めてさらに財をなし、東洋文庫を設立し、清澄庭園、六義園などを東京市に寄付している。太平洋戦争後の財閥解体で、三菱傘下の全事業から引退した。

 話は変わって、土佐藩士だった後藤象二郎(1838-1897)は新政府で逓信大臣を務めるなど政治家、実業家として活躍した。後藤は駿河台に居を構えていて、岩崎弥太郎が資金を援助していた。明治7年1874年、岩崎弥之助が後藤の長女と結婚したのち、弥之助夫妻は後藤の屋敷地に居を構えた。のち、岩崎弥太郎も後藤の屋敷地に移り住んだ。

 話が飛んで、弥太郎がいまの池之端の旧岩崎邸の屋敷に移り、1885年に没し、弥之助が2代総帥になる。弥之助は後藤の屋敷地に当初の三菱社を設立した。webによると、岩崎弥之助が住んだ後藤の屋敷地には2013年、お茶の水ソラシティという超高層ビルが再開発されている。いずれ東京散策で歩いてみたい。
 
 話を戻す。池之端の旧岩崎邸屋敷地は、江戸時代、越後高田藩榊原家の中屋敷だった。明治維新、廃藩置県を経て、明治11年1878年、巨利を得ていた岩崎弥太郎が屋敷地を購入した。たぶん屋敷ごとの購入で、弥太郎の長男でのちに三菱財閥3代総帥になる久弥を始め家族がいっしょに古いつくりの屋敷に移り住んだのであろう。
 岩崎久弥は1888年からアメリカに留学、1891年に帰国し三菱社の副社長、1893年に社長に就任する。弥之助から引き継いだ屋敷地にはアメリカ留学の経験からモダンな館を構想していたようで、ジョサイア・コンドルに設計を依頼し、1896年、洋館を始めとする20棟以上の建物に大名庭園を踏襲した芝庭が完成する。

ジョサイア・コンドル設計の岩崎邸
 コンドル(1852-1920)はロンドンに生まれ、建築学を学び、設計事務所に勤め実務も修得していた。
 話はさかのぼる。明治新政府は技術者養成機関として1871年、工部省に工学寮を創設し、1877年に工部大学校と改称する。1886年、工部大学校は文部省に移管され、帝国大学工科大学=のちの東京帝国大学に改組される。教育陣には外国人教員が任用されていて、造家学=のちの建築学はフランス・イギリス国籍の建築家ボアンヴィル(1849-1897)が担当していた。ボアンヴィルは工部大学校の設計も行ったが(1874?、現存せず)、完成後に帰国する。

 後任として、1877年、コンドルが5年契約で工部大学校造家学教授として着任する。6年修業した第1回卒業生は、辰野金吾(1854-1919)、片山東熊(1854-1917)、曾根達蔵(1853-1937)、佐立七次郎(1857-1922)の4名である。コンドルは教授時代の鹿鳴館(1883、現存せず)など設計実務も多い。5年契約通り1884年、コンドルは退官し、辰野金吾が教授として就任する。
 コンドルは1888年に設計事務所を開き、日本人と結婚し、数多くの設計を手がけた。岩崎弥之助深川洋館(1889、焼失)、三菱1号館(1894、現在は美術館として復元)、三菱2号館(1895、現存せず)など、岩崎家、三菱と懇意だったようで、岩崎久弥も気兼ねなく設計を頼んだのではないだろうか。

 岩崎邸20棟余のうち、洋館、和館、撞球室の3棟と芝庭が現存し、公開されている。
 芝庭を回り込むと、明るいベージュ色の下見板で覆われた洋館が現れる。木造2階建てで、レンガ造の地下室もあるそうだ。玄関は北側で、車寄せのバルコニーが設けられ、ねずみ色のスレートで屋根を葺いた塔屋を乗せ、開き窓の1階上部に三角形、2階上部にアーチ型の飾り縁をつけている(写真)。明治29年1896年当時は目を見張るほど斬新な印象を与えたに違いない。

 パンフレットには17世紀の英国ジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風のモチーフが採り入れられている、と記されている。
 話が飛ぶ。イングランド王国テューダ朝またはチューダ朝のエリザベス1世(1533-1603、在位1558-1603)が未婚のまま没した。跡を継いだのがスコットランド王ジェームズ6世(1566-1625)で、イングランド王ジェームズ1世(在位1603-1625)となり、スチュアート朝を開く。ジェームスJamesのラテン名がJacobusで、ジェームス1世時代のデザインをジャコビアン様式と呼んだ。エリザベス1世時代はエリザベス様式と呼ばれ、華やかなデザインだったのに対し、ジャコビアン様式は垂直を好み、古典様式を採り入れ、イギリス・ルネサンスの先駆けとなったそうだ。

 確かに、車寄せバルコニーのオーダーをのせた円柱、窓上部の三角形、アーチ型の飾り縁などに古典様式を採り入れたルネサンス、玄関ホール塔屋のスレート屋根の形などにイスラム風を感じる。
 南側は細身の円柱を並べた大きなバルコニーが設けられている(写真)。これはアメリカ留学経験のある岩崎久弥の希望を、コンドルがコロニアルスタイルでデザインしたといわれる。
 玄関を入ると左に格調高いつくりのホール+階段室があり、南に大食堂、東側に北から順に書斎、婦人客室、客室が並び、吹き放しの階段を上がると南に集会室、東側に北から客室、婦人客室、客室が並ぶ。客室が中心だから迎賓館として使われたようだ。

 内装、調度には当時の財閥の贅を尽くしたつくりを感じたが、成金主義的ないやらしさはない。むしろ格調高く、整然と、リズミカルにまとめられていて、心地よく過ごすことができそうだ。コンドルの手腕であり、職人の技の結集であろう。
 建設当初に多用されたシルクのペルシャ刺繍や金唐革紙が再現、復元されている(写真、ペルシャ刺繍)。円柱、天井、壁面、ドアまわり、階段、手すりなどの木彫、暖炉の細工は手が込んでいるうえ、古典的なデザインやイスラム風のデザインが採り入れられていて、目を楽しませてくれた。

 洋館と書院造を基調とした和館が、船底天井の渡り廊下でつながっている。和館は家族の日常生活の場として使われたそうだ。施工は大工棟梁の大河喜十郎と伝えられている。現在は広間、次の間、三の間が残っている。かつては久弥、夫人、子どもの部屋、使用人の部屋、台所などが並んでいたが、大部分が取り壊されてしまった。

 芝庭に、洋館の地下室と地下通路で結ばれた、木造ゴシック様式の撞球室=ビリヤード室が建っている。外観はスイスの山小屋を連想させる校倉造である。
 この日は毎土曜の13時、15時に開かれているコンサート日で、運良く13時開演の津軽三味線を聴くことができた(写真)。
 曲は1.津軽の春、2.津軽民謡メドレー、3.響絃、4.二・カ・タ、5.津軽じょんがら節で、演奏は津軽三味線連奏集団・響絃の3名である。およそ30分、力強い演奏を聴き、体内からエネルギーが爆発するような気分になった。

 ジョサイア・コンドルの手腕を楽しみ、久方ぶりの津軽三味線で元気をもらった。このあと湯島天神に向かったが初詣の人があふれていたので遠くから拝礼し、遅めのランチを取り、気分良く帰路についた。 (2020.3)

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2009.1新春 江戸初期、天海の建立になる上野・清水観音堂を歩く

2020年03月24日 | 旅行

2009.1 新春、上野を歩く  天海建立の清水観音堂
             
日本の旅・東京を歩く
 2009年新春、天気良し、上野散策に出かけた。

 JR上野駅公園口を出る。晴れ着姿、外国人観光客が行き交う東京文化会館左手の植え込みの道を進む。見慣れた風景のこんもりした林の先が清水観音堂である。不忍池に面した正面に回り、参拝者の列に並んで初詣を済ませる(写真)。

天海による東叡山寛永寺建立
 清水観音堂は江戸時代、上野の山に造営された寛永寺の堂宇の一つで、現存する最古の建物であり、元禄時代の遺構をいまに伝えていることから国の重要文化財に指定されている。
 寺は天海(1536-1643・・生年が正しければ107才の大往生になるので生年には諸説がある)=慈眼大師天海僧正の建立である。
 まだ天海と名乗る前、現宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、比叡山延暦寺などで学を深め、1588年ごろ、現川越の喜多院=当時北院の住職となり、このときから天海と名乗ったらしい。
 天海が徳川家康(1543-1616)といつごろから親交があったかは定かでないが、家康が江戸入りした1590年以降、家康の参謀の一人になったという説がある。天海の生年を10年遅らせると家康とほぼ同年代になる。同年代あるいは年上という近しさに加え、天海には政治的、外交的手腕があったと推測できる。

 一方、家康の地元三河では浄土主が盛んで、家康は1590年の江戸入り後、現在の千代田区麹町あたりにあった浄土宗・増上寺の源誉存応上人に帰依し、増上寺を徳川家の菩提寺とした。その後、現在の港区芝に移させた。

 1605年、家康は秀忠(1579-1632)に将軍職を譲り、駿府城に移る。家康は、葬儀は増上寺、1周忌後日光山を廟とするよう遺言し、1616年に息を引き取る。
 2代将軍秀忠は、家康の葬儀を増上寺で行い、翌1617年、建立された日光山・東照宮に家康の霊を祀るとき、途中、川越・北院で天海僧正による法要を行っている。天海は家康とほぼ同世代あるいは年上であり、家康も天海を信頼していたから、秀忠も天海を信頼し北院の法要になったのであろう。推測だが、このときから天海は秀忠に急接近したのではないだろうか。

 秀忠は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するための寺院建設地として、江戸の鬼門となる東北=艮=丑寅の上野の山を天海に寄進する。
 私の推測では、したたかな天海の方から上野の山の寄進を仕向け、京の都の鬼門=東北を守るため比叡山延暦寺が座しているのに習い、京の東に当たる江戸の鬼門を守護するので東の比叡山=東叡山を冠し、寛永に建てられたから寛永寺とし、東叡山寛永寺が適当である、などと秀忠に進言したのではないだろうか、と思うが根拠はない。

 東叡山寛永寺は寛永2年1625年に寺が建立され、天海による大法要が営まれた。
 ちなみに、家康は日光東照宮が霊廟で、2代秀忠は菩提寺である増上寺が墓所、3代家光は日光輪王寺を墓所とし、4代家綱は寛永寺を墓所とした。以下、寛永寺は5代、8代、10代、11代、13代将軍の墓所、6代、7代、9代、12代、14代将軍は増上寺を墓所としている。
 
清水観音堂=寛永寺清水堂
 寛永8年1631年、天海は寛永寺境内に清水堂を建立した。
 清水観音堂のホームページなどを参照すると、比叡山延暦寺の高僧・恵心僧都作の千手観世音菩薩像が京都清水寺に遷座され、清水寺の義乗院春海上人がその千手観世音菩薩像を天海に奉納した。
 天海は奉納された千手観世音菩薩像を本尊とする堂を京都清水寺に倣って懸崖造りで建立し、清水堂と名付けたそうだ。

 宗派の違う寺から寺へ秘仏が遷されるいきさつは凡人には理解しがたいが、信ずることが大事である。本尊千手観世音菩薩座像に手を合わせ、安寧を願った。
 清水堂は、1631年当初、摺鉢山の上に建てられた。その後、寛永寺総本堂根本中堂の建設(いまの噴水広場あたりに建てられたが現存しない)に伴い、元禄7年1694年に現在地に移された。
 崖下から見上げると、京都清水寺に比べ規模は小さいが、懸崖造りの構造がよく分かる(写真)。

 ついでながら、不忍池は琵琶湖、弁天島は琵琶湖の竹生島のイメージとの説もある。
 寛永寺の多くの堂宇は幕末の上野戦争、関東大震災、太平洋戦争で焼失、損壊を受けたので、清水観音堂は元禄時代の遺構を目にすることができるだけではなく、寛永時代の徳川家、天海、江戸庶民の思いを空想する手がかりになる。
 
見慣れた風景の摺鉢山古墳
 清水堂が建てられた摺鉢山を調べた。なんと見慣れた風景でいつも通り過ぎているこんもりした林が摺鉢山で、しかも5世紀の古墳だった(写真、web転載)。
 上野の山は標高20数mで、喬木、中木、低木、植え込みが手入れされていて、林、森が上野の風景になっている。摺鉢山古墳はその風景に溶け込んでいて、いつも見ながら通り過ぎていたことになる。

 古墳は高さ5m、長さ70mの前方後円墳で、自由に上り下りできる。古墳の出土品は国立東京博物館に展示されているらしい。東博で出土品も見ているかも知れない。目に見えていても理解がないと気づかない、という教訓である。反省する。
 竹生島にたとえられる弁天島には初詣客で列ができていた。不忍池沿いの散策路を南に歩く。 (2020.3) 

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十津川警部シリーズ「吉備 古代の呪い」は作中作となる古代吉備の創作が興味深い

2020年03月20日 | 斜読

book510 十津川警部「吉備 古代の呪い」 西村京太郎 中央文庫 2011  <斜読・日本の作家一覧> 
 岡山の鬼ノ城、吉備津彦神社、吉備津神社などを訪ねる旅を計画し、予習でまず鬼ノ城をタイトルにした高田崇史著「QED鬼ノ城伝説」(book508)を読んだ。
 続いて吉備をタイトルにした「十津川警部 吉備 古代の呪い」を読んだ。
 著者の西村京太郎(1930-)氏はトラベルミステリー作家として知られる。十津川警部シリーズはテレビドラマでも放映されるから名前は知っていたが、テレビドラマは見たことがないし、西村氏の本も初めてである。十津川警部シリーズは1988年ごろから出版されているから西村氏50代、本書の初版は2009年だから西村氏70代後半の作になる。十津川警部はどんな推理を組み立てるのか、「吉備」とともに興味を引く。

 読み始めて、作中作の構成をとっているのに気づく。作中作では、主軸となる物語のなかに、独立した別の物語を挿入できる。両者の主題がどのように関係づけられるかも読者の楽しみになる。ベテラン西村氏の挿入した物語は、古代を舞台にした新たな解釈のフィクションである。トラベルミステリーにヒストリーミステリーを挿入する壮大な展開から、年を感じさせない創作力を感じた。

 東京四谷のホテルで青酸中毒による死体が発見され、十津川警部が捜査にあたる。十津川の殺人事件解明が主軸の物語である。
 被害者は岡山県総社市で喫茶店を開いている吉野文彦で、アマチュアの郷土史研究家である。妹多惠子の聞き取りで、吉野は日本古代史研究会代表・佐伯賢生から赤坂ホテルで開かれる第12回アマチュア古代研究会に招待され、自分の古代吉備の研究が評価されたと喜んで東京に出かけ、その夜に殺されたらしいことが分かる。招待状には、大和朝廷と吉備国の関係の研究に感心したとのメモ書きもあった。
 十津川が佐伯賢生に連絡すると、佐伯は吉野に会ったこともないし、研究会の予定もないという。偽の佐伯賢生がいるらしい。
 数日後、多惠子から十津川に、吉野が古代の研究を小説仕立てにし、地元の吉備日報に連載した「吉備 古代の呪い」が送られてきた。この「吉備 古代の呪い」が作中作となる物語である。

第1章大王の時代  発端の殺人事件に続き、「吉備 古代の呪い」の前半=大王の時代が語られる。西村氏はこの作中作にかなり思いを込めたようで、吉野に、5世紀の大和朝廷に匹敵する出雲族、吉備族、九州の隼人族から話を始め、岡山の古墳が現存する事実から大和族と吉備族が合体して大和朝廷が出来上がった、と推論させている。
 「吉備 古代の呪い」の主人公は吉備国の武人の家に生まれ、倭の大王雄略の護衛隊長を務めるワタルである・・雄略天皇は古事記、日本書紀に登場する・・。雄略大王宛てに百済から援軍要請が届いていた・・これも史実である。
 雄略大王は吉備国の田狭朝臣に百済行きを命じる。これは右大臣蘇我氏の陰謀で、田狭朝臣が出征後、美人の妻である稚媛は大王の后にさせられてしまう・・蘇我氏も史実であるが古事記では大和朝廷が吉備の田狭朝臣の反乱を討伐したと記されている・・ワタル、田狭朝臣の朝鮮出征、稚媛は創作になる。
 
第2章吉備・桃太郎伝説  新羅に猛攻され、大勢の百済人が日本に逃れてきた。その一人温羅が、吉備国に鬼の王国をつくり大和朝廷に反旗を翻した。大和朝廷軍が鬼の王国に攻め込むが、優れた鉄剣の前に大敗する。大和朝廷軍に同行したワタルは、温羅が田狭朝臣であることを知る。
 話は変わって、十津川は部下の亀井と岡山に向かい、「吉備 古代の呪い」の舞台である鬼ノ城、吉備津神社、吉備津彦神社、温羅や桃太郎伝説ゆかりの地を回る。トラベルミステリー西村氏の本領発揮である。
第3章権謀の時代  「吉備 古代の呪い」に戻る。古事記、日本書紀に疎くても、西村氏の語り口で古代史を舞台にしたヒストリーミステリーを楽しむことができる。ワタル、温羅=田狭朝臣、稚媛のその後は読んでのお楽しみに。
 
第4章吉備マンスリー、第5章出版
  十津川は、亀井、女性刑事北条早苗、岡山県警の沢田との捜査で、吉野が正会員として吉備古代史研究会に所属していたが、同会が発行している吉備マンスリー編集長前田俊夫と意見が合わず、同会が発行している雑誌吉備マンスリーに「吉備 古代の呪い」は載らなかったことを知る。
 前田は、吉野に「この小説は前田俊夫の**を参考にした」と要求したらしい。そのため吉野は前田と離れ、地元の発行部数が少ない吉備日報に連載したようだ。
 十津川たちは、妹多惠子から、偽の佐伯賢生が総社市の喫茶店に訪ねてきた直後、吉野が500万円の預金を下ろしたことを聞く。
 十津川たちは、元政治家で吉備古代史研究会会長の五十嵐保に会い、日本古代史研究会の参与も務めていて、佐伯賢生が後輩であることを知る。五十嵐は政界復帰をもくろんでいて、話が飛んで大手出版社から五十嵐保、吉野文彦共著で「吉備 古代の呪い」が出版された。
 十津川は偽佐伯賢生、前田俊夫、五十嵐保があやしいとにらむが決め手がない。

第6章二人の佐伯賢生、第7章現代の殺人
 北条早苗らは、日本古代史研究会の元会員で佐伯賢生と親しかった佐藤晃の聞き取りで、偽佐伯賢生が北川茂樹であることが分かる。
 佐伯賢生の妻綾子がクモ膜下出血で倒れ、記憶を失う。・・殺人や偽佐伯とは関係ないが、最後のトリック証しのだいじな伏線・・。
 1週間後、佐伯賢生が青酸カリ自殺する。壁に貼られた佐伯の遺書に、ベストセラーの「継体天皇の謎」は弟佐伯明正の論文の盗作、と記されていた。・・遺書もトリック証しの鍵になる・・。
 弟の佐伯明正が遺体を確認し、司法解剖後、明正の妻の美由紀が遺体を引き取る。
 北川茂樹の遺体が発見される。不審な点はない。事故死のようだ。
 しかし十津川は釈然としない。そして、鋭い勘が働き、事件が解明される。
 
 主軸となる殺人事件の舞台はトラベルミステリー作家らしく、名所を舞台にしながら十津川の推理で事件が解明されていくといった展開である。意外な結末は、たぶん西村らしいのであろうが、意外すぎて無理を感じないでもない。政界復帰をもくろむ五十嵐のずるさを言及しながら、追求しないのも物足りなさを感じた。
 力点は作中作で織り込まれた、古代吉備を舞台にした新たな解釈の創作なのであろう。西村氏が思いを込めた作中作「吉備 古代の呪い」の舞台めぐりを楽しみにしたい。 (2020.2)

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2009.9 リトアニアから無人の国境検問所を抜けラトビアへ

2020年03月17日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア① 国境を抜けラトビアへ    <異文化の旅・バルト3国右往左往
バルト3国の旅4日目、リトアニアLithuania・シャウレイSiauliai郊外の十字架の丘Kryziu Kainasを見学したあと、A12号線沿いのレストランに入る。遅めのランチを食べ終え、13:45ごろ、ラトビアに向って走り出す。

 シャウレイからラトビアの国境まで60kmぐらいのようだ。A12号線は片側一車線で、平坦な畑地のなかを一直線に伸びている。対向車は少ないが、ドライバーはしっかり前を見ながらが、安定した走り方で運転をしている。左右には牧草地が広がっている(写真)。人工的な建造物は見えない。青空に浮かぶ雲、平坦な牧草地、片側一車線の道路、それが風景である。
 そんな風景を30分ほど走ると、かつての国境検問所だったような建造物が現れた。いまは誰もいない。徐行しながら通り過ぎる。ラトビアLatvia?、とドライバーにたずねると、大きく頷いた。
 ラトビア共和国Latvijas Republikaは、西はバルト海に面するバルト三国の一つで、南がバルト3国の旅・初日から滞在したリトアニア、北は7日目に訪問するエストニア、東はロシア、南東はベラルーシ、バルト海をはさんだ対岸はスウェーデン、リトアニアの南がポーランドになる。

 ラトビアの歴史を拾い読みするが。
紀元前/バルト語族のバルト人がいまのラトビアあたりに移住
紀元前/のちにウラル語族のリーブ人が現ラトビア東北部~エストニア南部あたりに移住・・リーブ人の居住地=リヴォニアLivonia(ドイツ語ではリーフラントLivland)と呼ばれた
紀元後/ゴート族、続いてフン族、次にスラブ人が侵入
・・おそらく強い勢力に追われた移住や混住、混血が進んだのではないだろうか・・彼らがラトビア、リトアニア、プロシアの先祖というweb資料もある
・・古代バルト語派の部族(クール人、 セミガリア人、 ラトガル人、セロニア人)は戦いに強く、バルト海周辺で略奪を働いたらしい
・・同時に、スウェーデン・バイキングの侵略もあったらしい
12世紀~/キリスト教の十字軍、次いでドイツ騎士団がラトビアを含むこの地域に進攻、始めは抵抗したがやがて同盟を結ぶ
1201/リガを本拠にしたリヴォニア帯剣騎士団が成立、リヴォニアを支配下に置き、北のスウェーデンと争いエストニアに侵攻するが、南のリトアニアに大敗し、1237年、ドイツ騎士団の支部リヴォニア騎士団(1237-1561)となる
1282 リガがハンザ同盟に加盟
1583 リヴォニア戦争の結果、リトアニア・ポーランド領になる
1629 スウェーデン・ポーランド戦争の結果、一部がスウェーデン領になる
1721 北方戦争の結果、大部分がロシア領、一部がポーランド領になる
1795 第3次ポーランド分割により全土がロシア領になる
・・その後、ポーランド王国、続くポーランド・リトアニア共和国(リヴォニア公国1561-1621 )、スウェーデン(バルト帝国1629-1721年)と支配者を変えた。
18世紀初頭~/大北方戦争の結果、ロシア帝国(1721-1918)の支配下に入る
1918.11.18/第一次世界大戦後に独立を宣言=ラトビア第一共和国
1940/ソ連に併合されラトビア・ソビエト社会主義共和国
1941/第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの軍政下に入る
1944/大戦末期ソ連が再占領=ラトビア・ソビエト社会主義共和国が復活
1990年5月4日/ラトビア共和国がソ連からの法的独立を宣言
1991/ラトビア共和国最高会議による完全独立宣言、諸外国からの国家承認がなされ事実上の独立を達成、ソ連がラトビア、エストニア、リトアニアのバルト3国独立を承認
2004/北大西洋条約機構NATO に加盟+欧州連合 EU に加盟
2014/ユーロを導入
・・バルト3国を旅した2009年、ラトビアの通貨はラッツLatsだったが、ユーロも使えた(1ユーロ≒0.7ラッツLs→その当時の1ユーロ=130円前後だったから、1ラッツLs≒190円ぐらいか)
2016/OECDに加盟

 いくつかの資料を読み合わせているので言葉足らず、勘違い、理解不足があるかも知れないが、ラトビアという国土は大国、強国の勢力争いが関与したようだ。
 現在の国土面積は6,589k㎡で、日本のおよそ1/6、九州本島の1.76倍である。
 人口は2005年統計で230万人だったが、EU加盟をきっかけに西ヨーロッパへの移住が進み、2015年統計で198万人に減少している。
・・2017年統計ではラトビアの人口密度は30人/k㎡で、日本337人/k㎡の1/11に過ぎない。郊外の風景に人家、集落が見えないのが納得できる。

 民族別住民構成は、ラトビア人が62.1%、ロシア人が26.9%で、ほかベラルーシ人、ウクライナ人、ポーランド人、リトアニア人などが暮らしている。これも複雑な歴史の結果であろう。
 公用語はラトビア語だが、国民の約27%がロシア系住民であり、映画・テレビ・新聞・雑誌などではロシア語も広く利用される。
 もともとはバルト語に属したが、ドイツ語、リヴォニア語、エストニア語、スウェーデン語、ロシア語などの影響を受けた。20世紀まではドイツ文字を使用していたが、いまはラテン文字=ローマ文字=ローマ字を基本にしているそうだ。
 宗教は、北部・西部にプロテスタント・ルター派、東部にローマカトリックが多い。ロシア人の多くはロシア正教会である。

 ラトビア国旗はラトビア共和国独立宣言の1990年に制定された(図、web転載)。紅・白・紅の図案は、1280年代のドイツ騎士団との戦いで負傷したリヴォニアの義勇兵をくるんだ白い布が血で染まった故事に基づき、ラトビア第一共和国独立宣言後の1921年から使用されていたそうだ。

 ラトビア国章はラトビア第一共和国独立宣言の1918年にデザインされ、1921年から採用された(図、web転載)。中央の太陽から放射された17本の光は第1次世界大戦中のラトビアの17居住区を表し、左の赤いライオンはクールラント・セムガレン公国に由来、右の銀色の架空のグリフォンはヴィドセメとラトガレに由来し、上部の3つの星はヴィドゼメ、ラトガレ、クルゼメ=ゼムガレの3つの地方の統合を象徴するそうだ。これらの地方名、部族名は歴史の紆余曲折のなかで重要な役割を果たしたのに違いない。国章は、苦難の歴史を越えてラトビアとして団結する象徴であろう。

 リトアニア・ラトビアの国境検問所?にはどちらの国の国旗も国章もない。行き来も自由で、バルト3国の団結の表れと感じた。・・その後の2004年には欧州連合EUという大きな団結に加盟した。
 国境を築き敵対してきた歴史の反省から、国境を外し互いに手を結び共存する道を目指しているのであろう。大いに賞賛したい。

 国境を通過しラトビアに入ったが、2009年当時、バルト3国はユーロ導入前でそれぞれ独自の通貨である。ラトビアの通貨ラッツに両替したかったが、国境周辺には両替所どころか店も人家も見当たらない。ドライバーに両替所を聞いたが、首をかしげて分からないといった身振りをする。リトアニアでは、大きな店やホテルはユーロも使えた。ラトビアでもしばらくはユーロが頼みの綱になった。 続く(2020.3)

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小6以上向け「江戸の町 下」は明暦の大火から江戸城明け渡しまでの図解本

2020年03月15日 | 斜読

book507 江戸の町 下 内藤昌・穂積和夫 草思社 1982  斜読・日本の作家
 下巻は1657年から江戸開城の1868年の210年ほどが描かれている。
 明暦の大火後の復興の様子が火事と喧嘩は江戸の華  に語られ、幕府は巨大都市の実測  を進め、防火対策を念頭に江戸城の改造  に乗り出し、火除け地として吹上の庭を確保する。城下の火除け地確保のため武家地・寺社地の改造  で屋敷替えを大胆に行い、町人地の改造  でも広小路と呼ばれる火除け地を採り入れ、結果として江戸は郊外へと市域の拡大  が進む。
 隅田川には木造で長さ174m余、幅7.3mの巨大な両国橋  を掛け、江戸は大江戸八百八町  の巨大な都市へと発展する。
 天下泰平になった元禄時代  商人が台頭し、江戸歌舞伎  が人気となり、松尾芭蕉が芭蕉庵  を住処に活躍する。5代将軍徳川綱吉は生類憐令を定めるが、湯島聖堂と学問所  を興し、天文台  を設けている。8代将軍吉宗は享保の改革  で財政を立て直し、大岡越前で知られる町奉行の定め、小石川養生所  を設置、飛鳥山などに桜を植える都市緑化運動  を推奨する。
 城下では、町火消し  が制度化され、耐火建築の普及  が進む。 改革後の町並み  で町人の階層化が始まり、店子の住む裏長屋の発生  に庶民の暮らしが描かれる。元禄以降、定住した町民に江戸っ子意識が芽生え、歌舞伎、浮世絵などの江戸っ子文化が開花していく様子を描いたのが江戸っ子の成立 である。
 ふくれあがった江戸を支えるため都市の生理-上下水道  が整備された。飢饉が続き、浅間山噴火で疲弊した人々を救うため老中松平定信は寛政の人返し  となる改革を進め、学問所の寺子屋  に力を入れる。
 文化・文政期に江戸っ子文化は「いき」の文化  として最盛期を迎え、両国の川開き  、大相撲と大道芸  、芝居見物  が広まり、
料理茶屋・そば屋  などの江戸前料理が定着する。新吉原と岡場所  も賑わい、北斎、広重らの活躍で美人画から漫画へ  と発展し、フランス印象派にも影響を与える。
 以下、平賀源内、杉田玄白らの活躍を取り上げた蘭学事始  、庶民信仰である流行神  、男女混浴だった浮世風呂と浮世床  、大江戸の交通難  、江戸の境界である市域の固定  、品川、内藤新宿、板橋、千住に代表される江戸四宿の発達  、超過密社会  、都市悪の発生  が描かれる。
 1853年の黒船来航  に続き、安政の大地震 が発生し、日米修好通商条約に伴う市中騒乱  、そして1867年の江戸城明け渡し  で江戸時代が幕を閉じ、下巻が終わる。
 
 この本を購入したのが30代だが、その後の経験や読書、東京散歩の蓄積が理解力を高めているから、おおよそのことは既知である。
 しかし、江戸の出来事を時間軸に乗せながら網羅的に整理されると、家康に始まりその後の将軍や老中たち、なにより江戸に住み、江戸をつくり上げてきた江戸っ子の営々たる努力のすさまじさを改めて感じる。
 専門知識をかみ砕いて分かりやすく語る内藤昌氏の解説、図の説得力を巧に生かした穂積和夫氏のイラストも素晴らしい。
 小学校6年以上なら、江戸の町入門書として概略を読み取れればいいと思う。むしろ、江戸の知識が断片的で、偏重的な大人が江戸の町を正確に知る本としてお勧めしたい。
 (2020.1)

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