2009.1 新春、上野を歩く ジョサイア・コンドル設計の旧岩崎邸
三菱財閥の祖岩崎弥太郎、2代総帥弥之助、3代総帥久弥
不忍通りに出ると、旧岩崎邸庭園の標示がある。
岩崎弥太郎(1835-1885)は現在の高知県安芸、土佐藩の地下浪人の家に生まれたが才覚に恵まれていたようで、海援隊の会計担当になる。明治2年1869年に土佐藩が海運業の九十九商会を立ち上げ、翌1870年、岩崎弥太郎が経営者となり、1873年に三菱商会と改名する。
1877年の西南戦争で巨利を得て、三菱財閥の祖となる。三井財閥、大倉財閥と対立するなか、1885年、50才で没した。
三菱財閥2代総帥として跡を継いだのが弟の岩崎弥之助(1851-1908)で、三菱の多角経営を進め三菱社を創設するとともに、丸の内の土地を購入した。この土地に現在に残る丸の内のオフィス街がつくられていくことになる。岩崎弥之助は日本銀行総裁も務めている。
弥太郎の長男=弥之助の甥である岩崎久弥(1865-1955)は、1891年に三菱社副社長として就任、1893年に社長=三菱財閥3代総帥となり、三菱合資会社に改組、事業拡大を進めた。麒麟麦酒などの創業も進めてさらに財をなし、東洋文庫を設立し、清澄庭園、六義園などを東京市に寄付している。太平洋戦争後の財閥解体で、三菱傘下の全事業から引退した。
話は変わって、土佐藩士だった後藤象二郎(1838-1897)は新政府で逓信大臣を務めるなど政治家、実業家として活躍した。後藤は駿河台に居を構えていて、岩崎弥太郎が資金を援助していた。明治7年1874年、岩崎弥之助が後藤の長女と結婚したのち、弥之助夫妻は後藤の屋敷地に居を構えた。のち、岩崎弥太郎も後藤の屋敷地に移り住んだ。
話が飛んで、弥太郎がいまの池之端の旧岩崎邸の屋敷に移り、1885年に没し、弥之助が2代総帥になる。弥之助は後藤の屋敷地に当初の三菱社を設立した。webによると、岩崎弥之助が住んだ後藤の屋敷地には2013年、お茶の水ソラシティという超高層ビルが再開発されている。いずれ東京散策で歩いてみたい。
話を戻す。池之端の旧岩崎邸屋敷地は、江戸時代、越後高田藩榊原家の中屋敷だった。明治維新、廃藩置県を経て、明治11年1878年、巨利を得ていた岩崎弥太郎が屋敷地を購入した。たぶん屋敷ごとの購入で、弥太郎の長男でのちに三菱財閥3代総帥になる久弥を始め家族がいっしょに古いつくりの屋敷に移り住んだのであろう。
岩崎久弥は1888年からアメリカに留学、1891年に帰国し三菱社の副社長、1893年に社長に就任する。弥之助から引き継いだ屋敷地にはアメリカ留学の経験からモダンな館を構想していたようで、ジョサイア・コンドルに設計を依頼し、1896年、洋館を始めとする20棟以上の建物に大名庭園を踏襲した芝庭が完成する。
ジョサイア・コンドル設計の岩崎邸
コンドル(1852-1920)はロンドンに生まれ、建築学を学び、設計事務所に勤め実務も修得していた。
話はさかのぼる。明治新政府は技術者養成機関として1871年、工部省に工学寮を創設し、1877年に工部大学校と改称する。1886年、工部大学校は文部省に移管され、帝国大学工科大学=のちの東京帝国大学に改組される。教育陣には外国人教員が任用されていて、造家学=のちの建築学はフランス・イギリス国籍の建築家ボアンヴィル(1849-1897)が担当していた。ボアンヴィルは工部大学校の設計も行ったが(1874?、現存せず)、完成後に帰国する。
後任として、1877年、コンドルが5年契約で工部大学校造家学教授として着任する。6年修業した第1回卒業生は、辰野金吾(1854-1919)、片山東熊(1854-1917)、曾根達蔵(1853-1937)、佐立七次郎(1857-1922)の4名である。コンドルは教授時代の鹿鳴館(1883、現存せず)など設計実務も多い。5年契約通り1884年、コンドルは退官し、辰野金吾が教授として就任する。
コンドルは1888年に設計事務所を開き、日本人と結婚し、数多くの設計を手がけた。岩崎弥之助深川洋館(1889、焼失)、三菱1号館(1894、現在は美術館として復元)、三菱2号館(1895、現存せず)など、岩崎家、三菱と懇意だったようで、岩崎久弥も気兼ねなく設計を頼んだのではないだろうか。
岩崎邸20棟余のうち、洋館、和館、撞球室の3棟と芝庭が現存し、公開されている。
芝庭を回り込むと、明るいベージュ色の下見板で覆われた洋館が現れる。木造2階建てで、レンガ造の地下室もあるそうだ。玄関は北側で、車寄せのバルコニーが設けられ、ねずみ色のスレートで屋根を葺いた塔屋を乗せ、開き窓の1階上部に三角形、2階上部にアーチ型の飾り縁をつけている(写真)。明治29年1896年当時は目を見張るほど斬新な印象を与えたに違いない。
パンフレットには17世紀の英国ジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風のモチーフが採り入れられている、と記されている。
話が飛ぶ。イングランド王国テューダ朝またはチューダ朝のエリザベス1世(1533-1603、在位1558-1603)が未婚のまま没した。跡を継いだのがスコットランド王ジェームズ6世(1566-1625)で、イングランド王ジェームズ1世(在位1603-1625)となり、スチュアート朝を開く。ジェームスJamesのラテン名がJacobusで、ジェームス1世時代のデザインをジャコビアン様式と呼んだ。エリザベス1世時代はエリザベス様式と呼ばれ、華やかなデザインだったのに対し、ジャコビアン様式は垂直を好み、古典様式を採り入れ、イギリス・ルネサンスの先駆けとなったそうだ。
確かに、車寄せバルコニーのオーダーをのせた円柱、窓上部の三角形、アーチ型の飾り縁などに古典様式を採り入れたルネサンス、玄関ホール塔屋のスレート屋根の形などにイスラム風を感じる。
南側は細身の円柱を並べた大きなバルコニーが設けられている(写真)。これはアメリカ留学経験のある岩崎久弥の希望を、コンドルがコロニアルスタイルでデザインしたといわれる。
玄関を入ると左に格調高いつくりのホール+階段室があり、南に大食堂、東側に北から順に書斎、婦人客室、客室が並び、吹き放しの階段を上がると南に集会室、東側に北から客室、婦人客室、客室が並ぶ。客室が中心だから迎賓館として使われたようだ。
内装、調度には当時の財閥の贅を尽くしたつくりを感じたが、成金主義的ないやらしさはない。むしろ格調高く、整然と、リズミカルにまとめられていて、心地よく過ごすことができそうだ。コンドルの手腕であり、職人の技の結集であろう。
建設当初に多用されたシルクのペルシャ刺繍や金唐革紙が再現、復元されている(写真、ペルシャ刺繍)。円柱、天井、壁面、ドアまわり、階段、手すりなどの木彫、暖炉の細工は手が込んでいるうえ、古典的なデザインやイスラム風のデザインが採り入れられていて、目を楽しませてくれた。
洋館と書院造を基調とした和館が、船底天井の渡り廊下でつながっている。和館は家族の日常生活の場として使われたそうだ。施工は大工棟梁の大河喜十郎と伝えられている。現在は広間、次の間、三の間が残っている。かつては久弥、夫人、子どもの部屋、使用人の部屋、台所などが並んでいたが、大部分が取り壊されてしまった。
芝庭に、洋館の地下室と地下通路で結ばれた、木造ゴシック様式の撞球室=ビリヤード室が建っている。外観はスイスの山小屋を連想させる校倉造である。
この日は毎土曜の13時、15時に開かれているコンサート日で、運良く13時開演の津軽三味線を聴くことができた(写真)。
曲は1.津軽の春、2.津軽民謡メドレー、3.響絃、4.二・カ・タ、5.津軽じょんがら節で、演奏は津軽三味線連奏集団・響絃の3名である。およそ30分、力強い演奏を聴き、体内からエネルギーが爆発するような気分になった。
ジョサイア・コンドルの手腕を楽しみ、久方ぶりの津軽三味線で元気をもらった。このあと湯島天神に向かったが初詣の人があふれていたので遠くから拝礼し、遅めのランチを取り、気分良く帰路についた。 (2020.3)