<中国を行く> 1995.9 内蒙古正藍旗のパオを訪問
パオの解体・組立を体験したのは正藍旗のブルタラというツーリスト・パオである。1995年当時の地図には正藍旗が○印で記されていた。2023年の地図を調べると、正藍旗の区域が表示されているがブルタラを見つけることはできなかった(図web転載・加工)。
正藍旗の旗は、清代に満州人が所属した社会組織、軍事組織、行政単位で、清代当初は黄、白、紅、藍の4旗、のちにその4色を縁取り(鑲)した4旗が加えられ8旗になった。正藍は四角形の藍色の地に龍が描かれる(上図web転載)。鑲(じょう)藍は五角形の縁取りされた藍色の地に龍が描かれる(下図web転載)。
ほかの旗は地の色が黄、白、紅に変わるが龍の図柄は共通する。
中華人民共和国でも、正藍旗のようにいくつかの旗が行政単位として機能しているようだ。
パオの解体・組立に手間取ったので遅めの昼食をとり、食後、クビライが夏の都とした上都跡に向かう。
クビライ(1215-1294)は、兄モンケ(1209-1259)が4代皇帝カアンのころの1256年、現在の正藍旗に拠点となる開平府の建設を始めた。モンケ没後の1264年、5代カアンを争った弟のアリクブケ(1219-1266)に勝って5代カアンとなる。
クビライは1276年に南宋の都・臨安を占領し、敗走した南宋を1279年に滅ぼして開平府を元の夏の都・上都とする。一方、1267年から建設を始めた現在の北京を冬の都・大都とする。
開平府=上都は草原に立地していて食糧の供給、物資の輸送が不利なため都は発展しなかったが、草原だったためか規模は大きい。
1368年、現在の安徽省出身の朱元璋=洪武帝(1328-1398)が南京を都とする明を興し(1421年から都を北京に移す)、1369年に上都を占領して元が滅ぶ。1403年、3代永楽帝(1360-1424)は上都を放棄し、その後上都は廃墟となる(写真web転載)。
上都は3重の城壁、2重の堀で囲まれていた。外城は南北・東西とも2.2kmの広さで、黄土を版築で固めた城壁で囲まれ、内城は外城の南東に位置し、南北・東西1.4kmの広さで城壁は黄土の版築を石積みで固め、内城の中央の宮城は南北620m、東西570mで、城壁は黄土の版築を煉瓦積みで固めていた。
いまは、起伏のある草地に崩れた城壁や狼煙台の跡が残されているだけである。内城~宮城あたりを歩く。ガイドの説明を聞いても、「夏草や兵どもが夢の跡(芭蕉)」すら想像できない。
上都をあとにして草原を走る。牛の群れ、馬の群れ、羊の群れが見える(写真)。牛、馬、羊は餌となる草の種類が違うので餌を取りあう衝突は起きないそうだ。知恵のついたはずの人間は、遊牧民モンゴル族と農民漢民族のように、しばしば食糧にからんだ戦いを起こす。共存共栄の道を選んで欲しいね。
草原のところどころに住まいが見える。白いパオの隣に土色の箱状の住まいが並ぶ。箱状の住まいの周りに複数のパオが並んでいることもある。
その一つを見学させてもらった。訪ねた住まいでは、若夫婦と子どもがパオに住み、隣のレンガ造に老夫婦が住んでいた(写真、右が若夫婦のパオ、左が老夫婦のレンガ造)。
パオとレンガ造をあわせて一家族の住まいで、冬(10月~4月)はパオ+レンガ造に家族5人が暮らし、夏(5月~9月)になると子どもをレンガ造の祖父母に預け、若夫婦はパオを解体して遊牧に出かけるそうだ。
一般に、結婚すると独立したパオに移る。子どもが多くてパオが手狭なときもパオを追加する。ということで、レンガ造に隣りあって複数のパオが並ぶ住まいも少なくない。
パオは直径5mほどで、結婚が近づいたころに自分で作ったが、いまは工場生産化され、結婚にあわせ購入するようだ。
パオは南側、風下側を入口とし、かつては北側最奥にラマ教の仏壇が置かれ、パオの西側が年長者、親、財産など、東側が子どもの場、パオの中央にストーブが置かれ神聖な場とされた。
いまは、社会生活の変化、定住化政策にともない旧習にとらわれない暮らし方が増えているらしい。訪問したパオでは奥に組立式のベッドを置き、中央のテーブルにはチーズが山盛りにされていた(写真)。
飼育している家畜は、羊200頭、馬45頭、牛15頭、駱駝5頭だそうで、訪問したときは若夫婦が遊牧から戻ったところだったらしく、羊が草を食んでいた(前頁写真)。
夏は子どもと離れ、家畜を連れて夏の遊牧地に移動し、夏の終わりに家畜を連れて戻ってくるのはけっこうな負担とのことだった。遊牧先ではすべてが自給自足であり、病気の心配もある。条件が整えば定住し、家族一緒に暮らしたいといっていた。
老夫婦が住む隣のレンガ造も見せてもらった。壁は日干し煉瓦、屋根は緩い片流れに土を乗せてフェルトを掛けてあった。間口・奥行きともに4mほどで、南側、風下側を入口とし、西側にベッドが置かれていた(写真)。東側は調理の場になっていて、プロパンガスのかまどなどが置かれていたが、電気が引かれておらず、テレビも電話もなかった。
政府は定住化を促進していて、一定数の居住区には電気、水道、ガスなどのインフラ、教育機関、医療機関、食料品や日用品などの店舗も整備されているそうだ。
環境の整った定住区で暮らすことができれば、子どもを老夫婦に預け夏の遊牧地に出かけるとしても、若夫婦は安心できる。政府の定住化政策を期待したい。
パオ+レンガ造の見学を終えいとまを告げようとしたら、主が馬に乗るよう勧めてくれたので、様にならない格好で乗馬を体験させてもらった。謝謝。
帰るころはすっかり暗くなっていた。日が陰ると急に冷え込む。
ブルタラに戻ると昨日と同じ歌舞晩会が催され、正藍旗長が歓迎の挨拶をしてくれた。観光に力を入れようとしているのがうかがえる。色とりどりの衣装(黄、白、紅、藍のようだ)をまとった若い女性が、馬頭琴に合わせ歌を歌ってくれた。連日の歌舞晩会に謝謝。
パオに戻り熟睡する。 (2023.2加筆)
パオの解体・組立を体験したのは正藍旗のブルタラというツーリスト・パオである。1995年当時の地図には正藍旗が○印で記されていた。2023年の地図を調べると、正藍旗の区域が表示されているがブルタラを見つけることはできなかった(図web転載・加工)。
正藍旗の旗は、清代に満州人が所属した社会組織、軍事組織、行政単位で、清代当初は黄、白、紅、藍の4旗、のちにその4色を縁取り(鑲)した4旗が加えられ8旗になった。正藍は四角形の藍色の地に龍が描かれる(上図web転載)。鑲(じょう)藍は五角形の縁取りされた藍色の地に龍が描かれる(下図web転載)。
ほかの旗は地の色が黄、白、紅に変わるが龍の図柄は共通する。
中華人民共和国でも、正藍旗のようにいくつかの旗が行政単位として機能しているようだ。
パオの解体・組立に手間取ったので遅めの昼食をとり、食後、クビライが夏の都とした上都跡に向かう。
クビライ(1215-1294)は、兄モンケ(1209-1259)が4代皇帝カアンのころの1256年、現在の正藍旗に拠点となる開平府の建設を始めた。モンケ没後の1264年、5代カアンを争った弟のアリクブケ(1219-1266)に勝って5代カアンとなる。
クビライは1276年に南宋の都・臨安を占領し、敗走した南宋を1279年に滅ぼして開平府を元の夏の都・上都とする。一方、1267年から建設を始めた現在の北京を冬の都・大都とする。
開平府=上都は草原に立地していて食糧の供給、物資の輸送が不利なため都は発展しなかったが、草原だったためか規模は大きい。
1368年、現在の安徽省出身の朱元璋=洪武帝(1328-1398)が南京を都とする明を興し(1421年から都を北京に移す)、1369年に上都を占領して元が滅ぶ。1403年、3代永楽帝(1360-1424)は上都を放棄し、その後上都は廃墟となる(写真web転載)。
上都は3重の城壁、2重の堀で囲まれていた。外城は南北・東西とも2.2kmの広さで、黄土を版築で固めた城壁で囲まれ、内城は外城の南東に位置し、南北・東西1.4kmの広さで城壁は黄土の版築を石積みで固め、内城の中央の宮城は南北620m、東西570mで、城壁は黄土の版築を煉瓦積みで固めていた。
いまは、起伏のある草地に崩れた城壁や狼煙台の跡が残されているだけである。内城~宮城あたりを歩く。ガイドの説明を聞いても、「夏草や兵どもが夢の跡(芭蕉)」すら想像できない。
上都をあとにして草原を走る。牛の群れ、馬の群れ、羊の群れが見える(写真)。牛、馬、羊は餌となる草の種類が違うので餌を取りあう衝突は起きないそうだ。知恵のついたはずの人間は、遊牧民モンゴル族と農民漢民族のように、しばしば食糧にからんだ戦いを起こす。共存共栄の道を選んで欲しいね。
草原のところどころに住まいが見える。白いパオの隣に土色の箱状の住まいが並ぶ。箱状の住まいの周りに複数のパオが並んでいることもある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/82/82b51c30763c46c13ac0a3f5b0a2b063.jpg)
パオとレンガ造をあわせて一家族の住まいで、冬(10月~4月)はパオ+レンガ造に家族5人が暮らし、夏(5月~9月)になると子どもをレンガ造の祖父母に預け、若夫婦はパオを解体して遊牧に出かけるそうだ。
一般に、結婚すると独立したパオに移る。子どもが多くてパオが手狭なときもパオを追加する。ということで、レンガ造に隣りあって複数のパオが並ぶ住まいも少なくない。
パオは直径5mほどで、結婚が近づいたころに自分で作ったが、いまは工場生産化され、結婚にあわせ購入するようだ。
パオは南側、風下側を入口とし、かつては北側最奥にラマ教の仏壇が置かれ、パオの西側が年長者、親、財産など、東側が子どもの場、パオの中央にストーブが置かれ神聖な場とされた。
いまは、社会生活の変化、定住化政策にともない旧習にとらわれない暮らし方が増えているらしい。訪問したパオでは奥に組立式のベッドを置き、中央のテーブルにはチーズが山盛りにされていた(写真)。
飼育している家畜は、羊200頭、馬45頭、牛15頭、駱駝5頭だそうで、訪問したときは若夫婦が遊牧から戻ったところだったらしく、羊が草を食んでいた(前頁写真)。
夏は子どもと離れ、家畜を連れて夏の遊牧地に移動し、夏の終わりに家畜を連れて戻ってくるのはけっこうな負担とのことだった。遊牧先ではすべてが自給自足であり、病気の心配もある。条件が整えば定住し、家族一緒に暮らしたいといっていた。
老夫婦が住む隣のレンガ造も見せてもらった。壁は日干し煉瓦、屋根は緩い片流れに土を乗せてフェルトを掛けてあった。間口・奥行きともに4mほどで、南側、風下側を入口とし、西側にベッドが置かれていた(写真)。東側は調理の場になっていて、プロパンガスのかまどなどが置かれていたが、電気が引かれておらず、テレビも電話もなかった。
政府は定住化を促進していて、一定数の居住区には電気、水道、ガスなどのインフラ、教育機関、医療機関、食料品や日用品などの店舗も整備されているそうだ。
環境の整った定住区で暮らすことができれば、子どもを老夫婦に預け夏の遊牧地に出かけるとしても、若夫婦は安心できる。政府の定住化政策を期待したい。
パオ+レンガ造の見学を終えいとまを告げようとしたら、主が馬に乗るよう勧めてくれたので、様にならない格好で乗馬を体験させてもらった。謝謝。
帰るころはすっかり暗くなっていた。日が陰ると急に冷え込む。
ブルタラに戻ると昨日と同じ歌舞晩会が催され、正藍旗長が歓迎の挨拶をしてくれた。観光に力を入れようとしているのがうかがえる。色とりどりの衣装(黄、白、紅、藍のようだ)をまとった若い女性が、馬頭琴に合わせ歌を歌ってくれた。連日の歌舞晩会に謝謝。
パオに戻り熟睡する。 (2023.2加筆)