yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1995.9内蒙古のパオ訪問

2023年02月28日 | 旅行
<中国を行く>   1995.9 内蒙古正藍旗のパオを訪問


 パオの解体・組立を体験したのは正藍旗のブルタラというツーリスト・パオである。1995年当時の地図には正藍旗が○印で記されていた。2023年の地図を調べると、正藍旗の区域が表示されているがブルタラを見つけることはできなかった(図web転載・加工)。
 正藍旗のは、清代に満州人が所属した社会組織、軍事組織、行政単位で、清代当初は黄、白、紅、藍の4旗、のちにその4色を縁取り(鑲)した4旗が加えられ8旗になった。正藍は四角形の藍色の地に龍が描かれる(上図web転載)。鑲(じょう)藍は五角形の縁取りされた藍色の地に龍が描かれる(下図web転載)。
 ほかの旗は地の色が黄、白、紅に変わるが龍の図柄は共通する。
 中華人民共和国でも、正藍旗のようにいくつかの旗が行政単位として機能しているようだ。


 パオの解体・組立に手間取ったので遅めの昼食をとり、食後、クビライが夏の都とした上都跡に向かう。
 クビライ(1215-1294)は、兄モンケ(1209-1259)が4代皇帝カアンのころの1256年、現在の正藍旗に拠点となる開平府の建設を始めた。モンケ没後の1264年、5代カアンを争った弟のアリクブケ(1219-1266)に勝って5代カアンとなる。
 クビライは1276年に南宋の都・臨安を占領し、敗走した南宋を1279年に滅ぼして開平府を元の夏の都・上都とする。一方、1267年から建設を始めた現在の北京を冬の都・大都とする。
 開平府=上都は草原に立地していて食糧の供給、物資の輸送が不利なため都は発展しなかったが、草原だったためか規模は大きい。
 1368年、現在の安徽省出身の朱元璋=洪武帝(1328-1398)が南京を都とするを興し(1421年から都を北京に移す)、1369年に上都を占領してが滅ぶ。1403年、3代永楽帝(1360-1424)は上都を放棄し、その後上都は廃墟となる(写真web転載)。
 上都は3重の城壁、2重の堀で囲まれていた。外城は南北・東西とも2.2kmの広さで、黄土を版築で固めた城壁で囲まれ、内城は外城の南東に位置し、南北・東西1.4kmの広さで城壁は黄土の版築を石積みで固め、内城の中央の宮城は南北620m、東西570mで、城壁は黄土の版築を煉瓦積みで固めていた。
 いまは、起伏のある草地に崩れた城壁や狼煙台の跡が残されているだけである。内城~宮城あたりを歩く。ガイドの説明を聞いても、「夏草や兵どもが夢の跡(芭蕉)」すら想像できない。


 上都をあとにして草原を走る。牛の群れ、馬の群れ、羊の群れが見える(写真)。牛、馬、羊は餌となる草の種類が違うので餌を取りあう衝突は起きないそうだ。知恵のついたはずの人間は、遊牧民モンゴル族と農民漢民族のように、しばしば食糧にからんだ戦いを起こす。共存共栄の道を選んで欲しいね。
 草原のところどころに住まいが見える。白いパオの隣に土色の箱状の住まいが並ぶ。箱状の住まいの周りに複数のパオが並んでいることもある。


 その一つを見学させてもらった。訪ねた住まいでは、若夫婦と子どもがパオに住み、隣のレンガ造に老夫婦が住んでいた(写真、右が若夫婦のパオ、左が老夫婦のレンガ造)。
 パオとレンガ造をあわせて一家族の住まいで、冬(10月~4月)はパオ+レンガ造に家族5人が暮らし、夏(5月~9月)になると子どもをレンガ造の祖父母に預け、若夫婦はパオを解体して遊牧に出かけるそうだ。
 一般に、結婚すると独立したパオに移る。子どもが多くてパオが手狭なときもパオを追加する。ということで、レンガ造に隣りあって複数のパオが並ぶ住まいも少なくない。


 パオは直径5mほどで、結婚が近づいたころに自分で作ったが、いまは工場生産化され、結婚にあわせ購入するようだ。
 パオは南側、風下側を入口とし、かつては北側最奥にラマ教の仏壇が置かれ、パオの西側が年長者、親、財産など、東側が子どもの場、パオの中央にストーブが置かれ神聖な場とされた。
 いまは、社会生活の変化、定住化政策にともない旧習にとらわれない暮らし方が増えているらしい。訪問したパオでは奥に組立式のベッドを置き、中央のテーブルにはチーズが山盛りにされていた(写真)。
 飼育している家畜は、羊200頭、馬45頭、牛15頭、駱駝5頭だそうで、訪問したときは若夫婦が遊牧から戻ったところだったらしく、羊が草を食んでいた(前頁写真)。
 夏は子どもと離れ、家畜を連れて夏の遊牧地に移動し、夏の終わりに家畜を連れて戻ってくるのはけっこうな負担とのことだった。遊牧先ではすべてが自給自足であり、病気の心配もある。条件が整えば定住し、家族一緒に暮らしたいといっていた。


 老夫婦が住む隣のレンガ造も見せてもらった。壁は日干し煉瓦、屋根は緩い片流れに土を乗せてフェルトを掛けてあった。間口・奥行きともに4mほどで、南側、風下側を入口とし、西側にベッドが置かれていた(写真)。東側は調理の場になっていて、プロパンガスのかまどなどが置かれていたが、電気が引かれておらず、テレビも電話もなかった。
 政府は定住化を促進していて、一定数の居住区には電気、水道、ガスなどのインフラ、教育機関、医療機関、食料品や日用品などの店舗も整備されているそうだ。
 環境の整った定住区で暮らすことができれば、子どもを老夫婦に預け夏の遊牧地に出かけるとしても、若夫婦は安心できる。政府の定住化政策を期待したい。


 パオ+レンガ造の見学を終えいとまを告げようとしたら、主が馬に乗るよう勧めてくれたので、様にならない格好で乗馬を体験させてもらった。謝謝。


 帰るころはすっかり暗くなっていた。日が陰ると急に冷え込む。
 ブルタラに戻ると昨日と同じ歌舞晩会が催され、正藍旗長が歓迎の挨拶をしてくれた。観光に力を入れようとしているのがうかがえる。色とりどりの衣装(黄、白、紅、藍のようだ)をまとった若い女性が、馬頭琴に合わせ歌を歌ってくれた。連日の歌舞晩会に謝謝。
 パオに戻り熟睡する。
 (2023.2加筆)

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1995.9内蒙古でパオの解体・組立に挑戦

2023年02月26日 | 旅行
<中国を行く>  1995.9 内蒙古正藍旗でパオの解体・組立に挑戦


 周りが明るくなり、目が覚める。円形の壁も凸型に膨らんだ天井も白い。不思議な空間にいるのが夢のように感じたまましばらく横になっているうちに、真夜中の1時過ぎにブルタラのツーリスト・パオに着き、半分眠りながら歌舞晩餐の歓迎を受けたことが、カメラのピントが合うようにしだいにはっきりしてくる。
 つまり、ここはパオの中で、太陽が昇り、羊の皮を透かして明かるくなったのだと気づく。時計は8:00、たぶん6:00ごろには明るくなっていたのであろうが、熟睡していたようだ。
 眠けがまだ残るが起きだし、パオを出る。地面は凸凹した草むらがどこまでも続いている。
 モンゴル人民共和国を訪ねたときにもゴビのツーリスト・ゲルに泊まった。ゴビの地面は砂利混じりの土で茶褐色が優勢であり、草は砂利のあいだに弱々しく伸びているだけだった。
正藍旗のパオの周りは緑色が優勢で、草がしっかり根付いている。草は均質に伸びているのではなく、ボコ、ボコと塊になって伸びている。ぼんやりしていると草に足を取られるので、つまずかないようにツーリスト・パオは木製デッキで結ばれている。
 前述したが、フホホトに初めてやって来たモンゴル人が、しっかり根付いた草原を見て感動し、思わず青い城=フホホトと感じたのではないだろうか。
 大型パオで羊の肉、温野菜、パン、牛乳の朝食をとったあと、私たちはパオの解体・組立に挑戦することにした。ブルタラのホストに伝えると、壊したら弁償してくれれば構わないとの返事だった。


 私が泊まったパオ(写真)は直径5.5mほど、高さは2.4mほどで、ブルタラのスタッフによれば大人2人で解体1時間、組立2時間だそうだ。
 パオの周りを歩き、手順を考える。骨組みは部材を紐で縛ってあり、その上にフェルトを掛け、綱で縛ってある。綱をほどきフェルトを外し、紐をほどき部材を外していけば良さそうだ。


1.屋根頂部の覆い布=ウルフを外す
 ウルフは天窓の開閉装置であり、暑いときはウルフを開けて風を通し、寒い時はウルフを閉じて熱気を外に出さないようにする。採光の役割もある。ウルフの四方に伸びた綱=ドゥブルが地面の杭に縛ってあるので、綱をほどくとウルフはすぐ外れる。


2.屋根、壁の白いフェルトを外す
 外周を固定している3本の綱=ブスルーラーをほどく。屋根のフェルト、次に壁のフェルトを外す。白いフェルトは羊毛を織った布で分厚く、脂があり、防水、断熱効果があるそうだ。


3.屋根、壁の黒いフェルトを外す (上段左写真)
 白いフェルトを外すと下地の黒いフェルトが現れる。黒のフェルトは山羊の毛を織ったそうだ。
 黒のフェルトを外すと骨組みが現れる。
4.パオの骨組みを分解する (上段右写真)
 骨組みは、屋根頂部の天窓枠=トーノ、屋根の構造材であるオニ、壁の構造材であるハナ、南側、風下側を向いている入口扉=ウードで構成されている。


5.天窓枠=トーノを外す (写真)
 トーノは木製で、直径1.2mぐらいの二重円になっていて、外円を2本の緩い円弧の部材がつなぎ、その中間に内円がつけられ、内円と外円を4本の部材でつなぐ形になっている。
 外円の縁には、8分円ごとに12、計96の穴が開けられている。


6.屋根材=オニを外す (前頁下段左写真)
 オニは柳の木である。オニの上先端はトーノの外円外周の穴に差し込まれ、下先端は壁材のハナの上端で紐で縛られているので、ハナとオニを結合している紐をほどき、トーノからオニを抜いていく。オニは長さ2mほどだった。
 オニを96本抜くことになるが、バランス良く抜いていかないとトーノが落ちてしまう。あるていどオニを外したら、パオ中央に台を置き、台に上って一人がトーノを支え、もう一人が最後のオニを抜き、トーノを降ろす。


7.壁材=ハナ、扉=ウードを解体する (前頁下段右真)
 ハナも柳の木で、手前に柳の木20本ほどを左斜めに、奥に20本ほどを右斜めにして重ね、伸び縮みできるように交点をピン留めしてある。
 ハナは6組が円形に並べられていて、ハナの接合部は右のハナと左のハナを重ね合わせ、紐で縛ってある。直径5.5mの周りに6組のハナを並べると、高さは1.6mほどになる。
 たぶん、1.6mほどのハナの高さがパオの高さの基準なのであろう。少し大きいパオにしたいときは、ハナを8組並べるそうだ。
 紐をほどき、ウードを外し、ハナを6組に分解する。ハナを蛇腹のように縮めると運搬しやすい形になる(写真)。

 解体すると、前々頁下段右写真のように部材ごとに小さく分けることができる。これなら、解体、移動、組立は容易である。手慣れたモンゴル人なら直径5.5mほどのパオを2人で解体1時間、組立2時間、計3時間と聞いたが、素人の私たち5人+見るに見かねて(壊されるのを心配し?)手を貸してくれたスタッフで、解体に1時間半ほど、組立に2時間半少し、計4時間もかかった。
 組み立てが終わったパオをブルタラのスタッフがチェックし、笑顔でOKという(壊されなかったという笑顔かも?)。素人でも解体・組立ができるし、慣れれば解体1時間、組立2時間でできるのだから、パオ=ゲルがいかに簡便か想像できよう。


 ツーリスト・パオの解体・組立で気づいたことがある。モンゴル人民共和国のゲルの中央にはバガナと呼ばれる柱が2本立ち、真ん中にストーブが置かれていて、神聖な場として位置づけられていた(写真、1993.8、モンゴル人民共和国ゴビのゲル)。
 ところが内蒙古自治区のパオには柱=バガナがない。ツーリスト用のためかも知れないと思ったが、このあと訪問したパオでも柱バガナはなかった。ストーブは真ん中に置かれていて、神聖な場として位置づけるのは共通するようだ。理由は分からなかったが、ゲルはバガナが立ち、パオはバガナを立てないのが一般のようだ。
  (2023.2加筆)

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2023.2 e-Tax送信完了

2023年02月24日 | よしなしごと
2023.2 e-Tax 1時間半ほどの作業で送信


 1月中旬に国税庁からe-Taxによる国税電子申告のメイルが届いた。10年以上e-Taxで確定申告を済ませているので手順に不安はない。2月16日~3月15日が申告期間なので、余裕をもって2月下旬に作業開始、あっけなく作業を終え、送信を済ませた。


1. 事前準備 
 2月中ごろ、2022年分の公的年金や雑所得などの源泉徴収票、社会保険料や生命保険料の控除通知、医療費控除用の領収書類を整理する。
2. マイナンバーカードとICカードリーダライタを用意
3. Microsoft Edgeで国税庁 確定申告書等作成コーナーを開く
4. 「作成開始」をクリック
5. マイナンバーカード・ICカードリーダライタ利用をクリック
6. 令和4年分申告書等作成をクリック
7. 所得税をクリック
8. マイナポータルと連携しないを選び、次へ進むをクリック
9. 事前準備・推奨環境を確認し、利用規約に同意して次へをクリック
10. Sony・PaSoRiの「ICカードリーダライター」をパソコンに接続し、「マイナンバーカードの読み取り」をクリック
11. 「利用者証明用電子証明書のパスワード」を入力
 検索完了→OK→登録情報を確認


12. 「申告書作成」をクリック
 →次へ進むをクリック→e-Taxによる申告を選び、質問に答え、次へ進むをクリック
13.「収入金額・所得金額の入力」
 雑所得の項目で、公的年金、その他を入力し、「入力終了(次へ)」をクリック


14. 「所得控除入力」
 「医療費控除」をクリックし→次の画面で「医療費控除を適用する」をクリック→次の画面で「医療費集計フォームを読み込んで、明細書を作成する」を選び、前年の医療費集計フォームを読み込み、今年の医療費を記入し→「入力終了(次へ)」をクリックすると医療費控除額が表示される→次へ進むをクリック
15. 「所得控除入力」の画面に変わる
 社会保険料控除、生命保険料控除、地震保険料控除、配偶者控除などを記入し、「入力終了(次へ)」をクリック
 →税額控除・その他は該当しないので「入力終了(次へ)」をクリック
16. 「計算結果」の画面で、「納付する(還付される)金額」が表示され、2022年分の申告票作成は終了→次へをクリック
 →住民税等入力画面に移る→「入力終了(次へ)」をクリック
 →銀行口座、氏名・住所等、税務署を確認し「次へ進む」をクリック
 →マイナンバーを入力し「次へ進む」をクリック
 →申告内容確認画面で「帳票表示・印刷」をクリックして、送信前の申告内容確認票を印刷、確認する


17.→申告内容確認画面の「次へ進む」をクリック
  →送信準備画面で「次へ進む」をクリック
  →「マイナンバーカード読み取り」をクリック
 「利用者証明用電子証明書パスワード」を入力→「送信する」をクリックして、送信完了


 事前準備を含めて作成開始から送信まで1時間ほど、申告内容確認票を印刷し、確認しながらコーヒータイムを取ったので、作業開始から送信まで2時間ぐらいになった。
 「確定申告書等作成コーナー」のトップ画面に戻り、右の「メッセージボックスの確認」蘭の「確認する」をクリックし、「ログイン」して、送信した申告票が着信されていることを確認する。
 
 納税義務を果たす。暮らしは心許ないが、梅の香を楽しむ気持ちの余裕を持ちたいね。 (2023.2)

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「捨ててこそ空也」斜め読み(2)

2023年02月19日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book547 捨ててこそ空也 梓澤要 新潮文庫 2017

 第3章 板東の男」後半で平将門との出会いが描かれる。
 空也は頑魯と会津を発ち、筑波山の西、鳥羽の淡海と呼ばれる湖の東岸に建立された東叡山承和寺を目指す。筑波山西麓に居館を構える常陸大掾・平国香も承和寺を崇拝している。平国香の祖は桓武天皇の第5皇子葛原親王で、葛原親王の孫・高望王が890年、平氏として上総介に任じられ、この地に住み着いた。高望王は長男国香、2男良兼、3男良将を要所に分置する。
 良将の2男が平将門(903-940)になる。良将没後の伯父たちと将門の領地争いの話が展開するが空也の求道とは直接関係ないので、割愛する。


 空也は頑魯と常陸をあとにし、赤城を通り、甲斐に入る。請われれば死者供養をし、念仏を説く。行脚の途中、937年の富士山噴火に遭遇する。空也は自然の猛威の前で人間は無力な存在と思う。
 二人は7年ぶりに京に戻る。頑魯が風邪をこじらせ倒れたが、秦道盛の妻だった草笛に出会い、助けてもらう。草笛は道盛亡きあとの暮らしに行き詰まるが、春をひさぎながらもささいな喜びに生きる道を選んだという。
 それを聞き、空也は、人間は愚かで弱く、心乱れて悩み苦しむ、だからこそ南無阿弥陀仏と唱えれば仏のほうから手をさしのべてくれる、と涙を流す。


第4章 乱倫の都 」は空也が何をすべきか気づき、市聖として認められる展開である。
 冒頭で、938年の天慶の地震が起きる。愛宕山月輪寺にいた空也が京に下る。助けられず息を引き取った娘に「南無阿弥陀仏」を唱えたら、父親から縁起でもない念仏のせいで娘が死んだと恨まれる。空也は無力感にうなだれる。
 草笛と頑魯は無事だった。頑魯に死んだみんなは本当に阿弥陀様の浄土に行けたのかと問い詰められ、空也は涙を流しながら頷く。すると、草笛が「あなたに泣かれたら私たちは何を信じればいいのか、あなたがしっかり受け止めてくれなければ生きる気力を失ってしまう、誰よりも強く、誰よりも毅然としていて」と言う。
 草笛の言葉=梓澤氏の言葉が空也の転機になったようだ。
生きるためには水が欠かせない。地震の影響で井戸に腐った汚水が溜まっているので、空也は頑魯に支えてもらって井戸に降り、腐った汚水をかき出し始める。初めは遠巻きにしていた民衆が手伝い出す・・鬼界坊たちと井戸掘り、水路の開削をした経験が生きた・・。
 空也は、水脈は地下で繋がっている、皆、同じ根の一本の木、一つの命、みなが力を合わせ、京中の井戸を直すように説得すると、群衆はおまえさんの言う通り、と動き出す。
 空也は、おのれの信じることを貫くことが人の心に響くことを実感する。・・いよいよ空也が胎動し始める・・


 16歳の朱雀帝が寝込んだこと、宮城の建物が倒壊し圧死者が出たこと、東国で将門が争乱を起こしていること、地震が収まらず不安な民が怪しげな新興宗教にすがり始めたことなどは割愛する。


 空也は、ねじ曲がった左の肘に金鼓を掛け右手の打具でコーン、コーンと鳴らし、「南無阿弥陀仏」と唱えながら京の街を歩く。
 少し飛んで、清水寺の顔なじみの堂守が、空也に末法の世が近づいていると話す。空也は、世の仏法者が朝廷、貴族のために祈祷しているだけで、民を置き去りにしている、民は何かにすがりつきたいと願っている、私はそのために念仏を唱えるのだがまだ道のりは遠い、と感じる。
 それでも信じることを貫こうと、東市で乞食をし、辻に立って念仏を唱え続ける。1年を過ぎて、ようやく市聖の存在が知られるようになる。


 939年、平将門軍が動き出す。朝廷は、宇多法皇の孫の寛朝(空也の従弟)に京都・髙雄山神護寺護摩堂の本尊で弘法大師作と伝わる不動明王像を下総に奉じさせ、護摩行を行わせた(成田山新勝寺の始まりになる「ブログ2018.5覚朝大僧正、成田山新勝寺」参照)。
 940年、将門は新皇を宣言するが、下総の藤原秀郷が両軍激戦の末、将門を討ち取り、将門の首が京に送られ、東市にさらされる(=平将門の乱、東京神田明神の祭神は平将門である、京と関東では将門の評価が異なるようだ)。
 征東軍編成でもめていたとき、副将軍と期待された藤原師氏は死にたくないと空也に助けを求る。空也は、自分さえ助かればいいというのは自分可愛さの我欲、ときめつけるエピソードも挿入される。・・なかなか人は我欲を捨てられない。空也は「捨ててこそ」に阿弥陀如来の救いがあると言いたいようだ。
 平将門の身内や残党のことなども語られるが割愛する。

 「第5章 ひとたびも」では市聖空也が阿弥陀仏の教えを民衆に広めようと活動する展開である。
 市門の前で空也が念仏を唱え乞食していると、猪熊が現れ多額の喜捨をしてくれた。その喜捨で、空也は、将門の首がさらされた場所に高さ八尺の阿弥陀仏が浮き彫りされた石の卒塔婆を建てる。側面に空也の歌「ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の 蓮の上にのぼらぬはなし」が彫り込んである。
 石塔婆の塔頂に乗せられた傘屋根の六隅の金銅の風鐸が、風でチリン、チリンと長く音を引く。それを聞いた獄舎の囚人が「南無阿弥陀仏」と唱える。念仏はさざ波のように群衆に広がっていった。空也の願った民衆のための念仏が巷に広まっていく光景である。
 草笛のこと、瀬戸内海での藤原純友の乱が挿入されるが割愛する。


 空也は浄土思想をもう一度探求しようと、奈良・興福寺の空晴を訪ね、誰でも自由に仏を想い念仏を唱えられる道場を市門の北東の市舎の裏に建てたい、民衆に浄土のありさまを見せるため浄土曼荼羅を描きたいとの希望も伝える。
 浄名院を止宿にするが、水に困っていると聞き井戸を掘り始め、周りがあきらめかけた数日後、清らかで澄んだ水がこんこんと湧き出す。空也の存在は揺るぎなくなる。
 空也は浄土思想の仏典を書写し、興福寺の九品往生図を見たあと、當麻寺に詣で中将姫が蓮糸で織った織曼荼羅に目を見張る(私も當麻曼荼羅を拝観した、HP「奈良を歩く8~9 2013.3當麻寺」参照)。


 京に戻った空也は喜捨を頼むため藤原師氏に会う。師氏は「貴族も無明の闇を手探りで歩いている」と話す。師氏は身ごもった妻が急死し命のはかなさ、人の世の無常に憔悴していたので、空也は「人の痛みがわが痛みとなる、そうやって生きていくのが人間」と諭す。
 市堂が8割がた完成したころ、空也は市堂に居を移す。「南無阿弥陀仏、夢に示現させたまえ」と念じ、眠りに落ちると、夢に極楽浄土が現れた。「極楽は遙けきほどと聞きしかど つとめていたる所なりけり」と思い、夢に現れた浄土変相図を自ら描く。
 さらに、長谷寺の火災で十一面観音像が失われ世情が混乱しているので、観音三十三化身図、補陀落浄土図を画師に依頼する(私も長谷寺の再造された十一面観音像を拝観した、HP「奈良を歩く14 2013.3長谷寺」)。


 空也が乞食の帰り、二条の神泉苑に通りかかると病に苦しむ女のうめき声が聞こえる。空也はそれから毎日、乞食をして女に食べ物と薬を与え続けた。元気を取り戻した女は、空也に、精がついてからだが疼く、抱いてくれと体を寄せてくる。空也は悩んだ末、破戒僧に堕しても衆生のために行動しようと決意する。
 ここで女は脅され謀ったことを詫び、「あなたは御身を汚してまでも賤しい望みを叶えてくれようとした」うれし泣きするエピソードが挿入される。・・私も六波羅蜜寺を訪ねた翌日、空也のエピソードは知らず、偶然、神泉苑を歩いた。このエピソードは形を変えながらも伝承されているらしい。「捨ててこそ」救えるということで、梓澤氏もエピソードにしたようだ。
 朱雀帝譲位、村上天王即位、京で天然痘が流行し赤痢も併発するなどの世情が語られるが、割愛する。


 天台座主延昌が空也を訪ねてきて、空也の活動、市堂の存在が社会に大きな影響を及ぼしていると話し、受戒を勧める。延昌は、宇多法皇が仁和寺で催した童子の不断念仏の一人であり、空也が比叡山を訪れ仏の教えを学ぼうとしたときも会っている。
 空也は人々の求めるものが変わり始めていると感じていたので、比叡山戒壇院で得度を受け、正式な大僧になる。延昌がつけた大僧名は「光勝」である。光勝国は仏国土に由来し、維摩教では仏国土は空なりとする。延昌は、空也の「・・深義は空なり・・」の思いを汲んで光勝と名づけたようだ。


 空也は、民が求めているものに応えようと、十一面観音像、守護諸尊像の造立、大般若経600巻の書写、手狭になった市堂に代わる新たな道場の建設(のち西光寺と呼ばれる、現在の六波羅蜜寺)を発願する。その過程、情景が「第6章 捨てて生きる」に描かれる。
 三井寺随一の学侶である千観が、空也に、上品上生の往生をするための修行を教えてくれと執拗にたずねる。空也は「何もかも捨ててこそ」と言い放す、といったエピソードが挿入される。
 「第7章 光の中で」に963年の完成供養会のありさまが描かれ、「終章 息精は念珠」は空也が「息精は即ち念珠」と唱えて往生するまでの情景である。  


 大作である。仏教、教義もていねいに紹介されている。宇多天皇から村上天皇までの朝廷や京の世情もよく理解できた。梓澤氏は仏教や歴史に通じているようだ。
 人は弱い。生まれる、病気になる、歳をとる、死ぬ、いわゆる生老病死は、自分ではどうすることもできない。にもかかわらず、自分だけは恵まれた人生を送りたいと我欲を張る。仏の教えまでも自分の都合の良いように解釈しようとする。
 寺を訪ね、仏像を拝し、念仏を唱える、その一瞬は仏に帰依しようと念じるが、寺をあとにしたとたん俗人に戻ってしまう。空也の捨てて生きるを貫いた生涯を見習わなければと思うが、果たして為せるか。せめて、日々「南無阿弥陀仏」を唱えようと思う。
  (2023.1)

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「捨ててこそ空也」斜め読み(1)

2023年02月18日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book547 捨ててこそ空也 梓澤要 新潮文庫 2017


 
2023年1月、コロナ渦の行動制限が解かれたので京都を訪ね、2日目に六波羅蜜寺の拝観を予定し「捨ててこそ空也」を持参したが読むいとまはなく、帰宅後に読んだ。
 六波羅蜜寺(写真)は文中に登場する西光寺である。表紙の空也上人像も拝観した(運慶の4男・康勝作)。口から出ているのは6体の阿弥陀仏である。
 文中に描かれる十一面観音像は六波羅蜜寺の秘仏で12年に一度しか開帳されないが、増長天像、地蔵菩薩像などは拝観した。
 帰宅後、「・・空也」を読み、人間は悩み苦しみ弱い存在だが、南無阿弥陀仏を唱え「捨てて生きる道」をまっとうし、市聖(いちのひじり)として崇められる生き方に感無量になった。梓澤氏の筆裁きの妙もあろうが、空也の「捨ててこそ」に教えられた。


 本文最初の見開き2ページに「ふたりの子」が書かれている。菅原道真(845-903)が福岡県太宰府に左遷され、悲運のうちに死んだ903年、二人の子の一人、京で醍醐天皇の子として生まれた五宮常葉丸(のちの空也)、もう一人が板東(現在の関東)で生まれ、のちに新皇を名乗る平将門(903-940)である。
 物語の最初に空也と平将門をふたりの子として登場させるから、平将門との出会いが空也に大きな影響を及ぼす展開かと思ってしまう。読み通してみると、空也の求道の生涯の一断片として将門との出会いが描かれるだけだった。
 物語は、第1章・出奔、第2章・里へ山へ、第3章・板東の男、第4章・乱倫の都、第5章・ひとたびも、第6章・捨てて生きる、第7章・光の中で、終章・息精は念珠、と展開する。粗筋を拾い書きしたら、けっこうなページになってしまった。空也の生涯は=梓澤氏の物語は、なかなか捨てきれない表現が多い。


 空也は、60代醍醐天皇(885-930)の皇子として生まれ、五宮常葉丸と呼ばれた。母は天皇の寵愛を受けていたので、いずれ皇子として認められると思ったのであろうが、左大臣・藤原時平のごり押しで、時平の妹・隠子に生まれた保明が皇太子に立てられてしまう。
 激昂した母は五宮を投げ飛ばし、五宮はその後左肘が動かなくなる。・・父との出会いもなく、母は狂気、左肘が動かない、その不遇が空也の心にひずみをつくりだしたのか。空也はいつも悲しみにあふれ、涙を流す・・。
 五宮の乳母は渡来系の秦命婦、その息子の道盛は舎人として五宮に仕える。道盛の妹阿古は五宮を慕い、五宮に抱かれ子も生まれるが、あっけなく世を去る。


 醍醐天皇の父=五宮の祖父は宇多法皇(59代天皇867-931)である・・宇多は887年に天皇を継ぐと、藤原時平を参議とし、菅原道真や源氏の皇族を重用する。897年、宇多は譲位し、宇多法皇、醍醐天皇の治世になる。
 藤原時平は菅原道真を政敵とし、901年に道真を太宰府に左遷する。道真は、903年、悲運のうちに命を落とす。同年、時平は39歳で急死する。時平の死、続いて起きる朝廷での変死、富士山噴火、地震、日照り、飢饉までも道真のたたりとされた。
 宇多法皇は東寺で灌頂を受け、仁和寺で落飾入道して空理の法名を授けられ、東寺で伝法灌頂を受けている。法皇は主催の歌会に五宮を招くが、五宮は馴染めない。
 法皇は東寺、比叡山延暦寺、興福寺から僧を呼び、五宮に仏教を学ばせたが、五宮は鬱屈していたせいか、教えに納得できない。法皇は仁和寺阿弥陀堂で童子の行う不断念仏の行法を催し五宮を呼ぶが、五宮は違和感を感じる。
 五宮は自ら比叡山を訪ね、東塔常行堂で行われる堂僧の不断念仏に息を呑む。その後、何度も比叡山を訪ね、僧に話を聞くが、仏の教えは誰のためにあるのか、何のためにあるのか、自分はこれからどう生きればいいのか、悩み続ける。
 ・・五宮が仏道に関心を持ったのは宇多法皇の影響があるようだ。だが、五宮は法皇の考える仏教、仏僧に違和感を感じる。その違和感が五宮をその後の求道に向かわせたようだ・・。


 五宮が法王主催の歌会を途中で抜け出したあと、五条の鴨川の土手で野棄の亡骸を燃やす臭いに気づき、荼毘に付される遺骸を見る。このときに、喜界坊を頭目とする集団とその一人の猪熊に出会う。
 五宮が気分晴らしに道盛とともに嵯峨野に出かけたときにも、化野で骸を焼く臭いに気づく。荼毘に付していたのが鬼界坊の集団と猪熊たちで、五宮はとっさに荼毘に付すのを手伝いたいと申し出るが、かえって迷惑と追い払われる。
 野棄ての遺骸の荼毘も五宮の心に沈殿したようだ。
 五宮の母は、五宮に親王宣下を受けようと画策して失敗し、井戸に身を投げてしまう。母の自死も五宮の心に沈殿する。
 五宮はすべてを捨てようと邸を出る。ここまでが「第1章 出奔」のあらすじである。のちに市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖、市上人(いちのしようにん)として崇められる空也のイメージにはほど遠い。この落差が、梓澤氏の狙いのようだ。


 屋敷を出た五宮を道盛が供をし、右京七条の道盛の恋人草笛の家に泊まったあと、五宮は孤児の常葉として道盛とともに喜界坊、猪熊の集団で働く。集団は水路の開削、井戸掘り、橋の付け替えを行いながら、山城、大和、河内、和泉、摂津の五畿、東海、東北、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道を渡り歩き、野棄ての遺骸を荼毘に付していく。
 喜界坊たちは「オンアソワカ」「オンアミリタテイゼイカラウン」と真言陀羅尼の一字呪、小呪、125字の大呪を唱え、死者の魂を鎮める祈りをあげる。常葉も「南無阿弥陀仏」を唱え、手を合わせる。 ・・喜界坊はこのあと登場しない。猪熊は盗賊になって空也に喜捨する場面で登場する・・。
 
 道盛に母命婦から手紙が届き、阿古と五宮の子である4歳の女子が流行病で死んだことを知らされる。苦悶する五宮=常葉に、道盛は二人は極楽浄土に往生し、我らが行くのを待っていてくれるようにと、南無阿弥陀仏を唱える。放り出してきた阿古、顔も見たことのない我が子の死も常葉の心に沈殿したようだ。
 常葉が19歳のとき、道盛が吉野の蔵王権現への山行の途中、崖から転落死する。常葉はひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え、いつか会えると念じる。いつも支えてくれた道盛の死も常葉の心に沈殿していく。
 923年、常葉21歳のとき、保明親王が突然死する。世間ではまたも道真の怨霊の祟りと噂する。保明親王の子・慶頼が春王に立てられる。話が飛んで、慶頼王も5歳で薨去する。中宮隠子は息子に続き孫も失う。常葉は、人は誰も苦しみが絶えない、と思う。


 常葉は病に倒れ、一人都に戻る。秦命婦の住む嵯峨野で体を休めながら、人は何のために生きるのか、人の苦しみはなぜ尽きないのか、悩み続ける。元気を回復した常葉は仏法を学び直そうと、尾張国分寺・願興寺を訪ね、悦良に師事する。
 常葉は、悦良のもとで「不生不滅=いかなるものも生じることなくいかなるものも滅することはない・・・・」、「あらゆるものは因縁によって生じる」「すべてのもの、人間、現象は因と縁が関係し合い、生じ、とどまり、変化し、滅する、そのことをという」「真理を知らないことが無明、人間は無明の闇をさまよい歩いている」などを学ぶ。
 常葉は、悦良を伝戒師として出家し、「・・衆生の大苦を減除し・・大乗の深義は空なり」を心に刻み込むため、名前を空也とする。空也の考え方は定まる。市聖空也の第1歩といえよう。


 悦良に勧められ、播磨国の峰合寺で一切経を勉学し、修行を重ねる。峰合寺の寺奴をしている頑魯と知り合う。この先、頑魯が空也の支えとなる。
 930年、空也28歳のとき、父・醍醐上皇の訃報が届く。空也は、播磨から京まで4日かかるのを2日で駆け抜け、初七日の法要に間に合う。清涼殿で宇多法皇を中心に法華経が読経され、空也も読経する。法皇に呼ばれた空也は、すべての人を救いたい、その方法を探していると言い切り、法皇と別れる。
 峰合寺に戻り、自分の自己満足に気づいて嗚咽していると、頑魯が仏様はいつも見ていて、救いに来ると話す。不意に、観世音菩薩が頭にひらめく。
 家を出てから宇多法皇崩御までが「第2章 里へ山へ」に描かれている。無明の闇を歩く空也に観世音菩薩は微笑むだろうか。梓澤氏は読み手の気持ちを離さない。


 「第3章 板東の男」前半で、空也は阿波・淡路島の南の湯島に祀られる十一面観音(観世音菩薩三十三変身の一つ)を目指す。頑魯が同行する。頑魯の櫓さばきで荒海を渡り、湯島の岬の観音堂を開けると神々しい十一面観音像が安置されていた。
 空也は如意輪陀羅尼経(如意輪観音も観世音菩薩三十三変身の一つ)の六度行を始めるが、2ヶ月過ぎても求めるものは見つからない。空也は七日間の不眠不休の行を始め、七日目の夜、瞑った目に結跏趺坐した阿弥陀如来が現れる。信じて不断の行を行えば仏が現れることを空也は実感したようだ。空也は目に現れた阿弥陀仏と十一面観音の像を木に刻む。
 二人は湯島の観音堂をあとにし、悦良のいる尾張国分寺・願興寺に行くが、悦良は飢饉で多くの餓死者が出ている陸奥に旅立ったあとだった。
 当てもなく歩いている空也は悦良を知る遊女に出会う。遊女たちが暮らすあばら屋で、死に瀕した遊女に空也は「南無阿弥陀仏」と唱えれば仏が迎えに来ると話す。息を引き取った遊女を河原で荼毘に付し、10日かけて彫った阿弥陀仏を遊女たちに渡し、悦良のいる陸奥に向かう。


 東海道を下り・・大井川を渡り、雄々しく荒々しい冨士を眺め・・、白河を越え、荒々しく無骨な磐梯山まで来る。村人によれば、磐梯山の大爆発で大きな被害を受けたとき徳一菩薩が鎮めたとき建てた慧日寺に悦良が訪れ、農地開墾を手伝っていたが、山に修行に出たまま戻っていないそうだ。
 空也は悦良が住んでいた古堂を拠点に、雨不足で干上がっている田畑のため井戸を掘り、山際に野棄てされている骸を荼毘に付し、村人のため阿弥陀仏を彫り、「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土に導かれると説教して歩く。悦良が凍死体で発見される。
 続く
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