yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

米沢に転封された上杉家は窮状を打開するため環境順応型の武家屋敷街を開拓した/1993年報告

2016年01月31日 | studywork

2016.1.31  日本建築学会1993年大会 「山形県芳泉町旧武家屋敷における環境順応型屋敷空間構成手法の再評価」
 同「山形県芳泉町旧武家屋敷における通世代家族の住み方」 

 
山形県米沢市には米沢藩が開拓した街並みがいまも当時の面影を残している。とりわけ、芳泉町には当時の武家屋敷の町割が原形を留め、茅葺きの武家屋敷も当時の暮らしぶりを伝えている。
 米沢藩の藩主は上杉家である。上杉家はもともと越後で、豊臣秀吉が会津に移転封させた.当時の石高は120万石で、徳川家康、毛利輝元に次ぐ石高で、上杉家が重視されていたことを示す。
 ところが、豊臣に代わり徳川が実権を握り、豊臣に与した上杉家は米沢に転封され、30万石に減らされた。その後、跡継ぎ騒動で15万石まで減らされてしまう。しかし家臣団は5000人を越え、当時の福岡藩52万石と等しかったといわれる。このため、上杉鷹山に名高いさまざまな倹約令が実施された。
 芳泉町の開拓整備はその一つで、松川沿いの荒れ地を下級藩士が防備と治水のために開き、ここで半士半農の生活を営んだ。その街並み、武家屋敷が当時の面影をいまに伝えている。
 民家研究としても興味深いが、1992年に調べたところ、厳しい財政状態だったため、とことん自然環境を活用した暮らしぶり追求されていたことが分かった。
 「環境順応型屋敷空間・・」は、武家でありながら開拓・治水の任を、狭い屋敷間口の敷地で、半農と倹約令のもとで遂行せざる得なかった結果、地勢や自然の環境条件を最大限に活用し、自然浄化に順応する空間整備であったことの報告である。

 「・・住み方」は、3世代、4世代の通世代住み方に着目した考察である。歴史的な屋敷では、主屋の平面構成を崩さず、道路と反対側の奥に世代別専用の就寝室を増築することで就寝室を確保する。
 主屋には世帯主夫婦の就寝室、家族共用の炊事・食事・団らん室と行事室として使われ、増築部分には主として中夫婦と若世代の就寝室や炊事・食事・団らん室が設けられるが、対社会的な行事空間は、主屋に依存する。
 新築住居では、1・2階または主屋・別棟で老夫婦と中央婦・若世代の就寝室を分け、就寝室を確保する。すなわち、主屋を中心とする通世代家族単位の生活空間と、増築部分や別棟を主とする核家族を単位とした生活空間が共存していることを報告した。

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2015年12月、天心記念五浦美術館で天心を学び、五浦温泉の露天で絶景を楽しむ

2016年01月30日 | 旅行

2016.1.30   2015 小名浜港クルーズ・岡倉天心記念室・五浦温泉観光ホテル /2016.1記
 2015年12月、福島県の小名浜港のクルーズを楽しんだあと、茨城県の天心記念五浦美術館を見学し、五浦温泉観光ホテルに泊まった。いずれも2011年の東日本大震災で被災していて、いつかは復興の様子を実感し、私たちの旅が多少でも活性化の一助になればと思っていたが、延び延びになっていた。五浦温泉観光ホテルは太平洋の眺望が知られているためか満室が多く、12月に予約が取れたので、車で出かけた。太平洋に昇る日の出は少し雲に隠れたが、露天の湯から絶景を楽しんだ。

 小名浜港に着いたのは、1時半ごろ、まずは、いわき・ら・ら・ミューのレストラン街にある寿司処に入り、寿司を味わう。
 かなりの人出で、活気を感じた。
 続いて、小名浜港をぐるりと一回りするクルーズ船に乗った。観光客は少なかったが、カモメとウミネコが船を追いかけてくれた。

 天心記念五浦美術館には4時前に着いた。展望台で太平洋を眺めたあと、入館した。建物は内藤廣氏の設計だったが、架構が大きすぎ、内部もすかすかするほど広がっていて、内藤廣らしさがあまり感じられなかった。
 天心記念室で天心の履歴、資料、作品を見た。
 岡倉天心は教科書で習った記憶がある。岡倉家は明治維新直前、横浜で貿易商を営んでいて、そのため天心は海外への目を育み、英語力を身につけたようだ。なんと6才で英語を学び、10才でいまの東京外国語大学に入り、11才で、いまの東京大学に入学している。驚きである。
 16才で結婚し、17才で東京大学を卒業して、文部省に勤務、これまた驚きである。
 21才のとき、アーネスト・フェノロサの古美術の調査に同行し、26~27才のときにアーネスト・フェノロサと欧米の視察旅行に出かける。
 30才で、いまの東京芸術大学美術学部の校長となる。このとき、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月を育てている。
 35才のとき校長を辞任し、日本美術院を発足させた。
 40才のときに五浦に別荘を建てる。43才のころ、美術院の拠点を五浦に移し、横山大観、下村観山、菱田春草らが移り住んだ。
 前後してボストン美術館に勤務するが、惜しくも50才で没してしまう。
 短い人生だったが、功績は大きい。

 日没前に五浦温泉観光ホテルに入り、夕闇迫る太平洋を望みながら露天の湯を楽しんだ。
 五浦温泉観光ホテルには旧横山大観邸が再現されていたが、宿泊客がいて見学はできなかった。歩いて数分のところに天心が建てた六角堂が再建されていたが休館日だった。ちょっと惜しまれるが、このホテルは湯良し、眺め良し、見どころありで、おすすめである。
  

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アーヴィング著「アルハンブラ物語」は壮麗な宮殿の描写+モーロ人の伝説が興味深い

2016年01月26日 | 斜読

2016.1.26  book408 アルハンブラ物語 上下 W.アーヴィング 岩波文庫 1997 /2015.12読
 スペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿は、1994年のスペインツアーでも、2015年のスペインツアーでも訪ねた。世界中から観光客が絶えない魅力は何か?。
 711年、地中海を渡ってイベリア半島に上陸したイスラム教徒はマラガ、グラナダを始めとするイベリア半島南岸の都市を次々と征服し、やがてイベリア半島全土を支配下に置いた。
 イスラム教徒であるモーロ人(スペイン語)=ムーア人(英語)は、カトリック教徒との共存を図りながら、優れた建築技術で宮殿や寺院や館や庭園を作っていった。
 一方、カトリック教徒たちはレコンキスタ=国土回復の戦いで、イベリア半島の北の方から、少しずつ国土を回復していく。
 14世紀に入り、イスラム教徒のナスル朝がグラナダを都とし、壮麗なアルハンブラ宮殿を築く。
 1492年、イスラム教徒最後の都グラナダは、カスティーリャ+アラゴン連合国によって奪回され、レコンキスタが終了する。
 カスティーリャ+アラゴン連合王国はやがてスペイン王国として統一され、ハプスブルク家のカール5世がカルロス1世としてスペイン王になり、アルハンブラ宮殿内にカルロス5世宮殿をつくるが、やがて、スペイン王は都をマドリッドに移し、アルハンブラ宮殿は忘れられていく。・・・たぶん放置による損壊もあっただろうが、見捨てられたことにより、モーロ人=ムーア人の壮麗な建築の原形が保たれた。

 アーヴィングは1783年にニューヨークに生まれた。弁護士となり文筆活動も始める。イギリスにいた貿易商の兄を助けるためイギリスに向かうが、兄が倒産、家計を助けるためイギリスに滞在して文筆活動に専念する。
 早くからスペインに関心があったようで、スペイン語を習得し、スペインの歴史書にも精通していたらしい。
 アメリカ外交官のメンバーとしてヨーロッパ各地を周り、スペインにはおよそ4年も滞在した。
 1829年、グラナダを訪ね、総督に表敬訪問したとき、アルハンブラ宮殿の滞在をすすめられ、帰国までの1年近く宮殿に住み、アルハンブラ宮殿の魅力、グラナダの人々の考えや行動、モーロ人にかかわる伝承をまとめ、アルハンブラ物語として出版した。
 たぶん、この本がきっかけでアルハンブラ宮殿が改めて見直されたようだ。
 アーヴィングの筆さばき、スケッチも素晴らしいし、宮殿の描写やモーロ人の伝説、グラナダ人の考えのどれも興味深い。 
 

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東京都美術館でボッティチェリ展を見た。メディチ家のころとサヴォナローラのころの作風の違いもうかがえる

2016年01月24日 | よしなしごと

2016.1.24  2016 初期ルネサンスの巨匠「ボッティチェリ展」を見る /2016.1記

 2004年のイタリアツアーでフィレンツェのウフィツィ美術館を見学し、ボッティチェリの「プリマベーラ」「ビーナスの誕生」に引き込まれた記憶がある。
 ボッティチェリはフィレンツェ生まれ、初期ルネサンスの巨匠で、「プリマベーラ」「ビーナスの誕生」は代表作といえ、繊細で柔らかな描写、明るい色調、バランスの取れた構図、絵に隠された謎解きなどに引きつけられた。
 そのボッティチェリの展覧会が上野の東京都美術館で1月16日から始まった。「プリマベーラ」「ビーナスの誕生」は門外不出だろうが、かなりの名作が展示されるらしい。
 加えて、東京都美術館の企画展・特別展にはシルバーデーが設けられていて、65才以上は無料になる。1月は22日がシルバーデーなので、雪が残る寒いなか、勇んで出かけた。
 総展示数は78で、第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ、第2章 フィリッポ・リッピ、ボッティチェリの師、第3章 サンドロ・ボッティチェリ、人そして芸術、第4章 フィリッピーノ・リッピ、ボッティチェリの弟子からライバルへ、に分けて展示されていた。フィリッポ・リッピはボッティチェリの師匠である。フィリッピーノ・リッピはフィリッポ・リッピが50のころの息子で、父亡き後、ボッティチェリを師として絵を修業した。フィリッポ・リッピの影響を受けたボッティチェリ、その影響を受けたフィリッピーノ・リッピとなるから、第2章→第3章→第4章の流れは分かりやすい。

 もう一つのポイントは、ボッティチェリ始め、リッピ親子、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリなどが、そのころフィレンツェを実質支配していたメディチ家の庇護を受けていた。
 ところが、メディチ家の衰退とともに、ドミニコ会修道士のサヴォナローラが神権政治を展開し、ボッティチェリはその影響を受けて、絵が偏向していく。
 この変化も見どころである。

 入館早々、「ラーマ家の東方三博士の礼拝」が展示されている。ボッティチェリ30才のころの作品で、繊細な描写、明るい色調、バランスの取れた構図などにボッティチェリらしさがうかがえる。三博士など集まった人々にメディチ家の面々が描かれていて、ボッティチェリとメディチ家の結びつきも読み取れる。

 第3章にあたるボッティチェリの展示室には「アペレスの誹謗」が展示されている。ボッティチェリ50才のころの作品で、このころはメディチ家に代わりサヴォナローラが神権政治を展開していた。
 サヴォナローラの影響を受けたためか、「プリマベーラ」「ビーナス誕生」のような柔和さ、明るさ、甘美さが影を潜めてしまったように感じた。

 詳しくはホームページを参照されたいが、機会があれば、ぜひ東京都美術館へ出かけ、ボッティチェリを実感されることをおすすめする。


 

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2004年、福島県旧舘岩村における村民の主体的な村づくりを建築学会に報告

2016年01月22日 | studywork

2016.1.22  2004年 「村人の環境資産の多面的価値の掘り起こしと複合的な連携による村づくり」日本建築学会2004大会協議会
 福島県旧舘岩村の萱葺き曲屋の保全活用による観光立村については、このブログでも何度か紹介した。
 当然ながら、村人の主体的な活動が曲屋の保全活用を後押しし、観光立村に発展したのである。
 日々の暮らしがある。その日々の暮らしのなかで、曲屋保全活用を始めとする観光立村の活動がなされているのである。
 決して無理をしてはいけないし、過大な投資をしてはいけない。日々の暮らしのペースのなかで活動するから長続きするのである。
 そうした活動の内容と成果を広く知ってもらおうと、2004年度日本建築学会大会協議会で、「村人の環境資産の多面的価値の掘り起こしと複合的な連携による村づくり」と題して報告した。
 骨子は、1 前置き&農山漁村における環境資産の多面的価値の評価
 2 環境資産活用の推進を担保した福島県舘岩村の環境美化条例
 3 環境資産活用の第1歩、核となる曲家集落の文化的価値の認識と維持・醸成の動き
 4 環境資産活用の第2、多様な環境要素の複合的連携の推進
 5 終わりに・住民の住民による環境資産の掘り起こしと活用が決め手
である。詳細はホームページを参照されたい。
 
 4 環境資産活用の第2、多様な環境要素の複合的連携の推進から、一部を転載する。
 観光立村であるから、大勢の来訪者が訪れて成功となる。多くの来訪者は自然環境や茅葺き曲屋や温泉などを目当てに来るが、来訪者が増えれば増えるほど、村民は日々の暮らしをのぞかれることになる。
 舘岩村は、この課題の解決に曲家を移築、資料館として公開することを選択した。生活の場である曲家集落を目で楽しんだ来訪者は、曲家資料館でかつての曲家での暮らしを追体験することができる。
 家の中をのぞかれ、一歩外に出るたびに来訪者から質問攻めにあっていた集落の人々は、曲家資料館の出現で自らの暮らしに専念できることになり、手が空けば来訪者に話しかけられるゆとりが生まれてきた。
 資料館は、集落の人々のプライバシー保護と来訪者の環境資産理解に効果を発揮したのである。
 村は、この立地を活かして橋のたもとの空地を駐車場として整備し、奥にもう1棟の曲家を移築して、そば処とした。
 舘岩村はもともと裁ち蕎麦といわれるつなぎを使わずコシのある蕎麦が有名である。前沢集落の東にはかつての養蚕時代の名残で桑畑が広がっていたが、村はここをそば畑に作りかえることにし、さらにそば処開設を助成したのである。
 曲家集落を楽しんだ来訪者は、舘岩川の風に吹かれながら移築された曲家のそばを味わい、十分に気持ちを豊かにすることができた。曲家集落の資産価値は、曲家資料館に加えてそば処曲家、そしてそばによっても高まっていった。
 
 日々の生活をベースに、環境資産を活用して付加価値を高めたことが観光立村を成功に導いた一つと確信している。

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