その1からの続きです。
泪橋交差点から荒川区に入ります。ここから千住宿です。
しばらく歩くと左側に素盞鳴神社があります。ここには、芭蕉が奥の細道をスタートした句があります。芭蕉の矢立は、後ほど紹介します。
千住大橋を渡ります。隅田川に架かる千住大橋を渡ると足立区です。千住大橋には、松尾芭蕉の「おくの細道矢立初の碑」があります。
「月日は、百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり。・・・・・・」という書き出しで始まる「おくの細道」は、
元禄2年(1689)3月27日(陰暦。現在の暦では5月16日)、46歳の松尾芭蕉は、弟子の曾良を伴として江戸の深川を出発し、ここ千住に到着。その後陸奥、出羽、北陸の各地をまわる旅に出ました。
そして8月21日、美濃の大垣に到着。この156日間、476里余に及ぶ長旅の中で、特に印象に残った出来事をまとめたのが、紀行文「おくのほそ道」です。
千住では、「千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそそく 行春や鳥啼魚の目に泪 是を矢立の初として行道なをすすまず、人々は、
途中に立ならびて、後かげのみゆるまではと見送なるべし」と書いています。
千住宿に入りました。千住宿は、天保14年(1843)によれば、宿内家数は、2370軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠55軒で人口は9956人でした。
歩いていると「やっちゃ場」というのが目につきます。足立区のHPによると、千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街
でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906)年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。これによれば市場開設は天正4(1576)年になりますが、史料によれば、
公的に市場の形をなしたのは享保20(1735)年でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。市場には現足立区域内外から多くの農産物が集められ、
それらが都心部へ運ばれましたが、その際に活躍したのが投師(なげし)といわれる人たちです。大正期には130人いたという投師は、やっちゃ場から都心の神田・京橋といった市場へ転売しました。
そのため、他の朝市に間に合うように運ぶ必要があり、やっちゃ場はそれよりも早い午前3時には市が開かれていたといいます。
源長寺は、将軍の鷹狩の際に御膳所となり脇本陣も兼ねていました。
千住宿宿場町通りに来ました。千住宿の本陣は、100円ショップの前にありました。ここで雨が・・・・・・とっさにお店の軒先に逃れ雨をしのぎます。
雨は、5分ぐらいで止みました。
横山家住宅は、地漉き紙問屋で伝馬屋敷の面影を残しています。
吉田家は、絵馬を始め、地口行燈や凧などを描いてきた際物問屋です。
荒川に架かる千住新橋を渡ります。
東武梅島駅に来ました。現在時間は、16:00丁度。今日はここまでとします。
今日のGPSです。距離は14,5kmでした。