よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第7次21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク47日目「清水~吉原」に参加しました。(静岡市清水区~富士市)

2019-05-20 18:00:26 | ウォーキング

今年の4/1~5/23まで53日間をかけてソウル~東京間2000kmを歩いて行くという「第7次21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク」が行われています。

私達夫婦も47日目「清水~吉原32km」、48日目「吉原~三嶋27km」の2日間デーリー隊として参加させていただきました。

   

朝鮮通信使とは、李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)

日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。

義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて

行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の

偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)

契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。  通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や

饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。

近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。

その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が

残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)

から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された(殊号事件)。[荒野泰典]  2017年(平成29)、日本国内12都府県と韓国に残る江戸時代の

朝鮮通信使に関する外交資料が、「朝鮮通信使に関する記録」として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録された。(日本大百科全書ニッポニカより抜粋)

  

何年か前韓国釜山に旅行に行ったとき、南浦洞には、朝鮮通信使のモニュメント、滋賀県の近江八幡では、朝鮮人街道(京街道)の道標がありました。

我が福岡県でも新宮町相島で朝鮮通信使を接待したという資料が新宮町歴史資料館に、当時の料理などが展示されています。

           ・・・・・・・・・・・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

本題に入ります。5/17(金)47日目の集合場所は、JR清水駅。ストレッチの後スタート。コースリーダーは、掛川歩こう会の方です。

  

清見寺

  

さった峠に差し掛かりました。

薩埵峠越えの道は3つありました。。江戸時代以前は潮が引いたときに波打ち際を駆け抜ける、これが「下道」。明暦元年(1655)に朝鮮通信使のために崖に道を切り開き、これを「中道」です。

その後内陸から山中に道を付け、これを「上道」としました。

  

昔の朝鮮通信使もここから富士山が見えたら感動したでしょうね。残念ながら今日は富士山の所に雲がかかり、見えませんでした。天気が良ければ、こんな風景なんですが・・・・・

 

  

さった峠展望台では、静岡市清水区役所との交流会が行われました。

 

清水区のゆるキャラ「シズラ」は、朝鮮の民族衣装を着ています。

 

さった峠を越え、由比宿に入りました。

 

由比宿本陣跡の広重記念館で昼食。

  

30分ぐらいの昼食休憩の後、再びスタートします。

 

富士川まちづくりセンターで休憩。このあと富士川を渡ります。

 

富士川からの富士山の眺めの絶景なんですが、今日は見えません。

  

富士市役所では、交流会が行われました。

 

 

この日一緒に歩いたYさんと話していると、4月に大分に行き、スーパーボランティアの「尾畠春夫さん」に会われたそうです。

その時尾畠さんから色紙をもらったそうで、それを、見せていただきました。

17:15吉原ビジネス旅館美波ゴール。

  

帰りは岳南鉄道吉原本町からJR吉原へ、吉原駅からJRでホテルに戻りました。少々バテ気味です。メンバーには85歳の方もいらっしゃいますのでこのくらいでバテたなんて言っておられませんね。

JR吉原駅では、富士山が少しだけ顔を出してくれました。