よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

杵築お城まつり(大分県杵築市)

2015-05-08 12:32:06 | JR九州ウオーキング

5/4 (祝)は、JR九州ウオーキングで大分県杵築(きつき)市「お城まつり」に行ってきました。

7:36博多発特急「にちりん」で杵築駅へ。杵築着9:36.

元来、この地は大友氏の一族である木付(きつき)氏が領していた。しかし、文禄2年(1593年)、大友義統が豊臣秀吉の勘気に触れ除封となると木付氏も同時に滅びた。後に、杉原長房、早川長政が入封し、

次いで細川忠興が慶長4年(1599年)、丹後国宮津12万石に加えこの地(6万石)を領有し、松井康之、有吉立行などを杵築城代として統治させた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功により、

豊前一国を加増された忠興は本拠を中津城に定め、木付と呼ばれたこの地も領地の一部となった。細川家は藩庁を小倉城に移し小倉藩となるが、寛永9年(1632年)、忠興の子忠利が熊本藩に転封となる。

小倉には小笠原忠真が封じられ、木付には、忠真の弟で旗本の小笠原忠知が4万石の大名に取り立てられ入封。ここに木付藩が成立した。

正保2年(1645年)、忠知は三河国吉田藩に転封となり、代わって松平英親が3万2千石にて豊後国高田藩より移封され、明治維新までこの地を領した。平地の少ない領地であったため、

新田開発や工芸作物、特に藺草(いぐさ)の栽培を奨励した。新田開発においては三河より100余人の農民を呼び、俗に「三河新田」と呼ばれる農地を開墾した。

3代重休の正徳2年(1712年)、幕府より与えられた朱印状において「木付」が「杵築」と書き誤っていた。そこで、幕府に伺いを立てた上、この地を杵築と表記するようになった。 (wikipediaより引用)

誤字だと気づいても幕府には逆らえなかったのでしょうね。 余談ですが、広島の安芸も昔は「阿岐」と呼ばれていたそうです。

  

この日は、杵築の「お城まつり」。ウオーキング受付にも着物姿のJR女性社員の方が見られました。

  

中野酒造は、明治7年(1874年)創業。お酒の名は、「智恵美人」。創業当時の女将さんの名前から命名したそうです。

「紅茶梅酒」というのがありましたのでそれを購入。かぼす焼酎で割ると飲みやすいということでそれも購入。駅まで配達してくれるそうです。ありがたいですね。

  

杵築の城下町は、サンドイッチ型城下町と呼ばれています。杵築城を中心として南北の高台に武家屋敷、その谷あいに老舗が残る商人の町。

そんな武士が商人を挟んで暮らした凸凹のあるサンドイッチ型城下町は、日本唯一と言われています。

   

 

 

鏝絵とは、明治、大正、昭和の初期頃まで諸負、普請の最後は、左官の仕上げで工事は、完了したものです。左官は、お礼の意を表すために白壁に鏝一本でその家が栄えるようにと願いを込めて

縁起物の絵を描いたものです。

卯建(うだつ)とは、遠くから見ると兎が立っているように見えることから卯建と呼ばれている。本来は、隣家との防火壁の役目をしているもので、家の軒先の左右に建てたもので

一種の装飾的な意味もあったと思われます。

 

   

  

  

酢屋の坂の上では、火縄銃の実演が行われていました。火打石から火をおこし、それを縄に着けていきます。

  

  

  

 

大名行列は、12時から行われますが、現在11時前、時間がありますので杵築駅まで歩いて帰ります。その時向こうから、はなまりんさんご夫妻と対面。

この少し前、はなまりんさんは、今日は、海ノ中道に行かれているのでは?と家内と話していたところでした。短い時間でしたが、来月の札幌遠征について打ち合わせをしました。

12:15杵築駅にゴール。

そのあと、昼食を食べようと4/23にオープンした大分駅アミューズプラザに行きましたが、GW期間中とあって、駅の中は、人、人、人・・・・・・・・

食事する所も行列が続いており、パニック状態です。

それにしても大分駅前は、変わりました。