よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

西国街道を歩く(茨木~大山崎町)その1

2014-11-26 05:21:56 | 西国街道を歩く

11/22 博多発6:05の新幹線で西国街道歩きに出発しました。始発の新幹線ですが、今年最後の3連休とあって自由席は、博多から満員状態でした。

新大阪から東海道本線で茨木へ。茨木から阪急バスで前回ゴール地「宿川原」まで行きました。

9:30 GPSのスイッチを入れスタートします。今日、明日と歩いて、いよいよ西国街道もゴールを迎えます。今回もDバックの後ろには「山陽道、西国街道歩いています」のプレートをつけています。

また、神奈川・藤沢のKさんから頂いた「鶴岡八幡宮」のお守りが道中の安全を見守ってくれます。

   

郡山宿から約1kmの所に「中河原道標」があります。「東 大津11里、京都7里、八幡5里、山崎2里10町、芥川1里10町」「南 堺9里、住吉7里、大坂5里、吹田3里」「西 姫路23里、神戸11里、池田3里、箕面2里」

この「中河原」は、茨木市内を東西に走る「西国街道」と南北に走る「亀岡街道」が交差する所です。

この地には、唯一茨木の合戦となった元亀2年(1577)の白井河原の戦いで武勲をたて戦国大名として4万400石の所領をもつ茨木城主「中川清秀」の生誕地です。

  

幣久良(てくら)橋を渡ります。ちょっと読みにくいですね。渡った先に「白井河原合戦跡」の碑があります。

    

白井河原合戦

茨木方を支持する和田伊賀守惟柾政と池田方の荒木攝津守村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆の対立となり、元亀2年(1571)8月、ついにこの白井河原で激突しました。

この時、和田勢500余騎、池田勢2500余騎が相対しましたが、和田勢は、まだ戦列が整っていませんでした。そこで部下の一人「高利平大夫(郡 兵大夫)」が時間稼ぎをしようとしましたが、

その計略が見破られたため、主君惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言しましたが、

惟政は、これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに200余騎の少数で突撃しましたが、この時惟政は、池田方の武将「中川瀬兵衛」に討ち取られました。主君を失った和田、茨木の郎党たちは、

「主を討たれてどうして生き残れようか」と切って出て討ち死にしたので「白井河原は、名のみにして唐紅いの流れとなる」ほど赤い血に染まったそうです。(案内板より)

  

地図を見ると、この先に「耳原(みのはら)公園」があります。ちょっと休憩に寄ってみました。敷地は45000㎡で、公園内には桜や楓などいろいろな樹が植えられています。

池の方を見ると、真っ赤に紅葉した桜がまるでキャンパスに書いたようです。

街道に出ると、「鼻摺古墳」「将軍塚」の案内板があります。街道から少し外れますが、折角ですので行ってみました。

鼻摺古墳は、耳原公園のすぐ近くにありましたが、案内板の所は、草が茂って見にくくなっています。

  

 「将軍塚古墳」にも行ってきました。

  

入口に立つと、「大織冠(だいしょっかん)神社」と書かれています。大織冠とは、大化3年(647年)に制定された十三階冠位より664年の二十六階冠位までの最高の位階(後の正一位)です。

今までただ一人に授けられたので藤原鎌足を意味しています。説明板を見ると、藤原鎌足の墓所と書かれています。藤原鎌足というと、中大兄皇子と一緒に大化の改新を行った人物として知られています。

この大化の改新が7世紀の大化元年(645)です。この将軍塚古墳が出来たのが、古墳時代後期(6世紀後半)。藤原鎌足の墓とするならば、大化の改新には、鎌足はいなかったことになります。

何か、歴史のミステリーですね。

将軍塚を後に再び街道に戻ろうとしますが、私の地図には、将軍塚が載っていません。ちょっと道に迷ってしまいました。そこで道行く年配の方に聞くと丁寧に教えていただき、また、曲がる所まで一緒に行っていただきました。

その方は、私のDバックの後ろのゼッケンを見て、「頑張って!」と声を掛けていただきました。街道を歩いているとこのようなご親切には、本当にありがたく思います。

また、自転車でツーリング中の方や、車から声を掛けられる方・・・・・・・いろんな方から励ましのお言葉をいただいています。本当にありがたいです。

教えていただいた、道順を行くと、西国街道に出ました。

安養寺、法華寺、阿為神社旅所を通っていきます。

  

お旅所の先の名神高速ガード近くに道標がありました。ちょっと見にくくて何が書いてあるかわかりません。名神のガードを潜ると西国街道の案内板が立っています。

  

太田の街中を通ると、太田東芝町という町名があります。ここには東芝大阪工場がありましたが、2008年に閉鎖され現在開発工事中です。

更に先に進むと、「太田茶臼山古墳(継体天皇藍野陵)」があります。

   

 茶臼山古墳は、紀元後5世紀頃に造られた大きな前方後円墳で、一説に第26代継体天皇陵(けいたいてんのうりょう)であるともいわれています。
現在も古墳の周囲の濠(ほり)には魚が泳ぎ、墳丘には緑が生い茂っています。 

私事ではありますが、今年9月福井市に行ったとき、足羽神社で継体天皇の像を見てきました。応神天皇五世皇孫で越前の治水事業を行い、平野を開き諸産業を興された男大迹王(すおのみこと)が越前から第26代天皇として即位され

発たれる時に「末永くこの国の守り神とならん」と自ら生き御霊を鎮めて旅立たれました。それより継体天皇が主祭神として祀られています。

(写真は、福井市足羽山の継体天皇像。2014.9月撮影)

    

「藍野大学」を過ぎると、高槻市に入ってきます。高槻市のマンホールは、市の花「卯の花」と市の木「ケヤキ」それと景勝地「摂津峡の春」がデザインされています。

高槻市は、大阪と京都のちょうど真ん中に位置し、人口約36万人。今年の大河ドラマ「軍師 官兵衛」に登場するキリシタン大名「高山右近」が高槻城主として君臨していた所です。

氷室1丁目には、道標がありました。大きいのと小さいのがあります。大きい方は、右、芥川、山崎、京都 。左、豊川、池田。小さいのは、惣持寺、妙見道。

   

道標の先、左側へ入った所に「今城塚(いましろつか)古墳」があります。

史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約340メートルをはかり、

日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。

今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、

古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査 で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわさいしく)は、

大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。

 

なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用されたことに由来し、江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。(高槻市HPより)

 

先ほどの茨木市でも「継体天皇陵」がありましたが、どちらが本当かわかりませんが、いずれにしてもこの北摂地区(茨木、高槻など)には、大小たくさんの古墳があり、

古墳時代には、有力な豪族を中心にした「ムラ」があったのでしょう。

 

  

時間は、お昼を廻りました。今日は、朝早かったのでお腹もすいてきましたのでここでお昼にします。   (その2へ続く)