(その1から)昼食の後、再び街道歩きに出発。
芥川の手前に「橋詰地蔵尊」「神峯山寺道標」があります。案内板によると、原盆地東方の山中、神峯山寺(かぶさんじ)本尊・毘沙門天は、商売繁盛や勝負事にご利益があるとされ、江戸時代には、商人の町大坂から
多くの参詣者が押し寄せました。この道標は、豪商鴻池家の一族、赤松由水が淀川河港・三島江からの参詣道に設けた16基のうちの1基で享和元年(1801)の建立です。
橋詰地蔵尊は、芥川宿の西口に位置し、悪霊や疫病の侵入から宿場を守る道祖神の役目も果たしていました。
また、橋を渡ると別なお地蔵さんがあります。これは、子安地蔵尊と言って「子宝・子育て」にご利益があるとされています。
先へ進みます。左側に「教宗寺」があります。高槻市のHPによれば、同寺の先祖である田淵久兵衛教宗が、親鸞上人の弟子となって弘安10年(1287年)、自宅を寺院に改めたのが創始と伝わる。境内には花崗岩の自然石をくり抜いて作られた石槽があり、府の有形文化財に指定されている。
この石槽は、花崗岩からできた自然石を彫り込んだもので深さは、約32cm、長さ1.8m、幅1.1mと現代のお風呂にも匹敵するくらいの大きさです。
街道は、左にカーブしています。曲がった所に「芥川一里塚」があります。その横には、「芥川宿」の説明板もありました。
芥川宿は、2丁に渡って町並みが連なっていました。大名が使う本陣に加え、天保期(19世紀前半)には、旅籠33軒、家屋数253軒を数えました。幕末の文久3年(1863)8月には、政変に敗れて
長州に逃げる途中の三条実美ら七卿も宿泊したそうです。本陣は、教宗寺近くにありました。
一里塚のすぐ先の商店街の所に「芥川仇討の辻」があります。芥川宿の仇討とは300年程前、石見国吉永城下で二人の若侍が美しい稚児の争奪を巡る争いで邪推からもう一人の藩士を江戸表で殺してしまった。
その子息助三郎という若者は京で剣客につき剣術を学び諸国を遍歴すること二年半。敵が芥川宿の旅籠に入る姿を見、宿を立ち去るところを不倶戴天の敵を討ち取り本懐を遂げた。
討たれた敵(八之丞)は自分は討たれて当然であると言う書状を懐に忍ばせていた。
街道は、高槻の中心部に入りました。駅前には、デパートや大きなマンションが建っています。駅前の交差点の左側には、「上宮(じょうきゅう)天満宮」があります。
菅原道真(すがわらのみちざね、904年没)をまつる上宮天満宮は、大宰府に次いで2番目につくられたという古い由緒を伝えています。
縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・大宰府に赴いた天皇の使い(勅使)が、帰途この地で急に牛車が動かなくなる異変にあい、
調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることを知って、ここに道真公を祀ったそうです。
高槻駅前を過ぎると、関西大学高槻キャンパスがあります。このあたりは、区画整理が行われたのでしょうか、歩道も広くとても歩きやすい。
「能因法師の碑」があります。能因法師は、平安中期の歌人、中古三十六歌仙の一人です、俗名、橘 永(ながやす)、女流歌人「伊勢」の作風に慕いつつ、藤原長能に和歌を学び、剃髪して摂津古曾郡に住み、古曾部入道と称す。
奥州行脚を試みた。歌集に「能因集」他に私撰「玄々集」がある。ここから北の方の高槻市古曾部にお墓があるそうです。
街道を歩いていると、やたら選挙用のポスターが目につきます。選挙まであと3週間ぐらいですね。
今歩いている街道は、西京高槻線(県道67号線)です。安満(あま)の町に入ってきました。
磐手杜神社があります。磐手杜神社は、安満山の南西麓にあり、桧尾川に面してもとは安満神社といいました。
12世紀頃に春日神社に改めて、タケミカヅチノミコト・フツヌシノミコトなどを祭神とし、明治44年(1911)に現在の社名になりました。春日を冠したのは、当時安満一帯が奈良春日神社の荘園となって、
村の鎮守に春日大名神を勧請(かんじょう)したためとみられています。
建久6年(1195)、後鳥羽天皇がこの地を訪れた当時、社殿は壮大で美しかったが、天正年間に高山氏の兵火によって焼失し、元和8年(1622)になって現在の社殿が建てられたと伝えられています。
社頭の森は磐手の杜と呼ばれ、歌枕として名高く、毎年1月15日には、氏子がそろって参詣し粥占いの神事を行い、その年の穀物の豊凶を占います。
また、毎年5月5日には、稚児が乗った三頭の馬が神輿とともに神社を巡る「神輿渡御神事(通称:馬祭)」が行われます。五穀豊穣と村の安寧を願う農耕儀礼として、
村の神事祭礼を担ってきた宮座が中心となり、伝統の祭りを守り伝えています。 (高槻市HPより)
桧尾川橋の高欄には、神興渡御神事(馬祭)のオブジェが付けられています。
梶原の町に入ってきました。「畑山神社」があります。元は、高槻最古の寺の一つ「梶原寺」があった場所です。そこに元亀年中(1570年ごろ)に創建され、永福寺と称しました。慶長年中の火災で
焼失しましたが、村民協議により再建され、明治元年の神仏分離令により「畑山神社」に改めました。神社の横には、「かえで公園」という児童公園があります。
更に進むと、「一乗寺」、「梶原の一里塚」があります。文化元年発行の「浪華講定宿帳」には、「一里塚前茶屋平七」とあり、当地周辺に旅籠があったそうです。
一里塚横のお地蔵さんは、度重なる水害から守り継がれてきたので「水あがりの地蔵さん」と呼ばれているそうです。
島本町(大阪府三嶋郡島本町)に入ってきました。大阪府の北東部にあり、木津川・宇治川・桂川が合流する淀川右岸に位置し、全体の約7割を山岳丘陵地が占め、
丹波山地先端の天王山南側の平坦地に市街地を構成しています。
東は淀川を隔て、枚方市、京都府八幡市と相対し、南および西は高槻市、北は京都市および京都府長岡京市、大山崎町に隣接。
狭い平坦地には、国道171号、東海道新幹線、阪急京都線、JR東海道本線、名神高速道路の主要幹線が通っています。
また、大阪・京都の中間で交通の便もよく、豊かな緑や水という良好な生活環境から、衛星都市のベッドタウンとして発展を遂げています。(島本町HPより)
人口は約30000人。島本町のマンホールは、水無瀬川を飛びかう蛍と町の花ヤマブキ、町の木クスノキをデザインしています。
島本というと、やはり、JR島本駅横にある「桜井駅跡」ですね。古代律令制度の駅家の跡。大正2年に国の指定になりました。
桜井駅跡は、楠木正成が子正行と親子訣別の地です。戦前の小学校の唱歌には、この「大楠公の歌」がありました。(私は、戦後の教育を受けましたので習ってはいませんが、だいたいわかります)
♪ 1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
2.正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は、兵庫に赴かん 彼方の浦で討ち死にせん
汝はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ ♪
この歌詞は、15番まであり1番から6番までが「桜井の訣別」、7,8番が「敵軍襲来」、9番から15番までが「湊川の奮戦」に分けられています。
「太平記」によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。
新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、
空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、
自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、
形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。(wikipediaより)
桜井駅跡から先を進みます。
左側に道標があります。柳谷、西之宮、京と読めます。ガードの下には、タケノコをデザインしたバリカーがあります。ここもタケノコの産地でしょうか?
水無瀬神宮の鳥居があります。ちょっと中に入ってみます。
水無瀬神宮では、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)・土御門天皇(つちみかどてんのう)・順徳天皇(じゅんとくてんのう)が祭られています。後鳥羽上皇がこの地に水無瀬殿を造営し、
水無瀬離宮と称されていたものを、承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、
上皇を祀ったことに始まります。最初は「法華堂」と称されていたが、室町中期1494年(明応3年)、後土御門天皇から、水無瀬宮の神号を賜ったそうです。
さらに、1873年(明治6年)に官幣中社に、1939年(昭和14年)に官幣大社に列格し、現在の水無瀬神宮と改称されました。(島本町HPより)
あとでわかったのですが、門には、石川五右衛門の手形というのが残っています。また、境内の「離宮の水」は、日本名水百選にえらばれているそうです。
サントリーの山崎工場が見えてきました。国境まであと少しです。時間は、4時近くなってきました。福岡ではあまり感じられませんが、日が沈むのが早いようです。4時半までには、今日のゴール地「山崎駅」に着きたいのですが・・・・・
関大明神社があります。ここは、山崎の関の跡と言われ、関守神または、辻神を祀ったのが、起こりではないかといわれているそうです。この関所は、当時、交通の要であり、時には朝廷から兵を派遣し守らせたそうです。
然し、平安時代初めには、この関所は、廃止されたそうです。
関大明神社の横は、京都との国境です。
京都に入りました!
山陽道、西国街道の最終地「京都」です。国境には、「これより山城国」と書かれています。京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町です。
山崎駅前には、「離宮八幡宮」があります。
離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社です。貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、
その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、
国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されたのが始まりとされています。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とし
離宮八幡宮が成立しました。しかし、離宮八幡宮の創建については、諸説あり、石清水八幡宮と同時に成立したとは考えらないという説や、離宮八幡宮は南北朝時代から室町時代初め頃に成立したとみる説もあります。
午後4時、今日の最終目的地「JR山崎駅」に着きました。
今晩、「街道歩きの師匠」Yさんと待ち合わせのため、JR山崎駅から、今夜の宿泊地「大阪」に向け、帰途を急ぎました。
11/22のGPS