鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

日本代表・源・植田、卓球勝負

2015年01月07日 | Weblog
昌子、オフは植田と卓球「俺が強すぎた」
 アジア杯事前合宿を行う日本代表が7日、オーストラリア・セスノック市内で練習を再開した。前日6日は完全オフを過ごし疲労回復に努めていた。

 宿舎の敷地内で暑さに慣れるため、散歩をするなど、おのおのがリラックスしたオフを満喫。そんな中、DF昌子源(22=鹿島)はチームメートのDF植田直通(20=鹿島)と卓球で勝負。ラリーが続く熱戦を演じていると、ギャラリーが集まり動画撮影まで始まったという。それでも昌子は「俺が強すぎた」と完勝で終え「いいオフが過ごせました」と笑顔で語った。

 一夜明けたこの日の練習は炎天下に約2時間、フィジカル中心のメニューで負荷をかけて汗を流していた。
 [2015年1月7日13時24分]




オフを卓球をして過ごした日本代表の源と植田である。
源が圧勝し、「俺が強すぎた」と言い残した模様。
良い気分転換にもなりオフが充実した様子である。
源と植田、オフも良いコンビである。

後藤圭太、岡山より松本山雅へ移籍

2015年01月07日 | Weblog
荒田智之選手、後藤圭太選手、石原崇兆選手 松本山雅FCへ移籍のお知らせ
この度、荒田智之選手、後藤圭太選手、石原崇兆選手が、松本山雅FCへ完全移籍することになりましたので、お知らせいたします。

荒田 智之(あらた ともゆき)選手プロフィール
■生年月日:1985年10月3日
■ポジジョン:FW
■身長/体重:178cm/72kg
■出身地:静岡県
■経歴:清水東高-専修大学-水戸ホーリーホック-ジュビロ磐田-ジェフユナイテッド市原・千葉-ファジアーノ岡山
■出場記録

■コメント:
素晴らしいクラブであるファジアーノ岡山で、素晴らしい選手、スタッフ、サポーターと一緒にJ1昇格に向けて頑張ってこられたことは本当に貴重な時間でした。怪我が多く、J1昇格に貢献できなかったこと、本当に申し訳ないと思っています。ファジアーノサポーターの荒田チャント大好きでした。2年間本当にありがとうございました。

後藤 圭太(ごとう けいた)選手プロフィール
■生年月日:1986年9月8日
■ポジジョン:DF
■身長/体重:183cm/75kg
■出身地:茨城県
■経歴:鹿島アントラーズユース-鹿島アントラーズ-ファジアーノ岡山
■出場記録

■コメント:
5年という長い間ありがとうございました。
ファジアーノを愛する全ての皆さんと勝利を目指し『ココロヒトツニ』戦えた日々は僕の宝物です。最後まで悩んだ決断でしたが、岡山で学んだものをこれからのサッカー人生に繋げ、選手として成長できるように精一杯頑張ります。
本当にありがとうございました。

石原 崇兆(いしはら たかよし)選手プロフィール
■生年月日:1992年11月17日
■ポジジョン:MF
■身長/体重:172cm/67kg
■出身地:静岡県
■経歴:清水エスパルスユース-ファジアーノ岡山
■出場記録

■コメント:
この度松本山雅に移籍することに決めました。
今シーズンの岡山での結果、プレーで何も成し遂げていない中の決断ですごく悩みましたが、誰も知らない地でもっと厳しい環境で、もっと上のレベルでどこまで自分がやれるのかチャレンジしたいと強く思い答えを出しました。
岡山で関わった全ての皆さん本当にありがとうございました。そして、こんな未熟な自分をいつも応援し支え、見守って下さったサポーターの皆さんには感謝しかありません。
自分がボール持った時のカンスタの声援は絶対に忘れません!
これからは成長した自分をお見せできるよう精一杯頑張ります。
4年間本当にありがとうございました。

後藤圭太選手 ファジアーノ岡山より完全移籍加入のお知らせ
この度、ファジアーノ岡山より後藤圭太選手が松本山雅FCへ完全移籍加入することになりましたので、お知らせいたします。

□後藤 圭太選手プロフィール

【氏   名】 後藤 圭太(ごとう けいた)
【ポジション】 MF
【生年月日】 1986年9月8日
【身長/体重】 183cm/75kg
【出 身 地】 茨城県
【経   歴】
長須SSS ⇒ 岩井中 ⇒鹿島アントラーズユース ⇒ 鹿島アントラーズ ⇒ ファジアーノ岡山
【出場記録】
≪2014シーズン≫
【J2リーグ】37試合3得点/【天皇杯】1試合0得点
≪通算≫
【J1リーグ】0試合0得点/【J2リーグ】166試合9得点/【リーグカップ】2試合0得点/【天皇杯】7試合1得点

【本人コメント】
『松本山雅FCの一員になれたことを嬉しく思っています。サポーターの皆さんと共に喜べるよう勝利に貢献していきます。応援よろしくお願いします』




岡山から松本山雅に移籍することとなった後藤圭太である。
これは驚きの報。
岡山のJ1昇格に尽力するのかと思っておったが、個人昇格を果たす形となった。
これからは松本山雅のJ1残留と、サポーターとの交流に力を注ぐのだ。
対戦が楽しみである。

2015年シーズン開幕戦はアウェイ清水戦か

2015年01月07日 | Weblog
G大阪宇佐美vs東京武藤 開幕戦で激突
 今季から2ステージ制に戻るJ1の開幕カード(3月7、8日)が6日、判明した。昨季3冠を遂げたG大阪の相手は東京に内定。ホーム万博に、初タイトルを狙う難敵を迎え撃つ。エースFW宇佐美貴史(22)と日本代表FW武藤嘉紀(22)の同い年対決が実現。さらに今年は「大坂夏の陣」から400周年という節目で、大坂の豊臣家を江戸幕府が滅ぼした歴史背景も試合を盛り上げる。

 11季ぶりの2ステージ制で再出発するJ1が、東京と大阪の2大都市決戦で幕を開ける。複数のJリーグ関係者によると、全9カードが内定。中でも注目は、00年度鹿島以来の3冠を昨季達成したG大阪と、元日本代表FW前田ら積極補強で悲願の初Vを狙う東京の対戦。アジア杯オーストラリア大会の日本代表を3選手ずつ擁し、人気も高い2クラブが開幕戦の顔になる。

 話題沸騰中のストライカー対決も実現する。G大阪の宇佐美と東京の武藤。同じ92年生まれの「プラチナ世代」で、異なるプロセスで日本のトップ選手に上り詰めた2人だ。宇佐美は世代別代表のエースであり続け、11年には19歳でA代表に選出。Bミュンヘン(ドイツ)でもプレーした。一方の武藤は世代別代表の経験がなく、東京の下部組織から慶大に進学。遠回りして力をつけ、昨季はJ1新人最多タイ記録となる13得点。一気にブレークした。

 そんな過程を象徴するエピソードがある。宇佐美がBミュンヘンに所属していた時、ドイツから一時帰国してフットサルをしていると、無名の大学生からサインを求められた。それが当時慶大1年の武藤で、2人とも覚えているという。今では武藤がアギーレジャパンの主力に成長。立場としては逆転した形だが、3冠の立役者となった宇佐美の実力も説明不要。15年も注目の2人が火花を散らす。

 歴史的な因縁も、試合を盛り上げる要素になる。今年は、1615年(慶長20)に起きた「大坂夏の陣」から400周年。江戸幕府軍が大坂城に攻め入り豊臣家を完全に滅ぼした、日本史に残る内戦だ。天下統一(3冠)を遂げたG大阪に、政権交代を狙う東京が挑む構図!? 史実通り「東」に軍配が上がるのか、それとも「西」が返り討ちにするのか-。壮大なテーマを持った開幕戦に発展する可能性も、ゼロではない。

 今季から2ステージ制になることで、各17試合の前後期ともスタートダッシュが不可欠。G大阪から見たホーム東京戦は9勝1分け3敗と高い勝率を誇るが、昨季までとは1勝の重みが違う。3月7日、万博。新シーズンの覇権を占うことになる一戦が、幕を開ける。

 ◆Jリーグ覇者の翌シーズン開幕戦 J1で優勝したチームのリーグ開幕戦の勝敗は11勝4分け6敗となっており、勝つ確率(52・38%)は思いのほか低い。05年優勝のG大阪も06年の開幕戦では、1-1で浦和と引き分けている。一方、東京は開幕戦で前年度覇者と対戦したことが02年に1度だけあり、その時は鹿島を4-2で破っている。

<15年J1開幕カード>

G大阪(優勝)─東京(9位)

広島(8位)─甲府(13位)

鳥栖(5位)─新潟(12位)

名古屋(10位)─松本(J2・2位)

仙台(14位)─山形(J2・6位)

清水(15位)─鹿島(3位)

横浜(7位)─川崎F(6位)

湘南(J2優勝)─浦和(2位)

神戸(11位)─柏(4位)

※左がホーム。カッコ内は昨季順位

 [2015年1月7日7時19分 紙面から]

【J1開幕戦】G大阪―F東京!仙台―山形、横浜M―川崎のダービーも!
2015年1月7日6時0分 スポーツ報知


J1開幕カード

 3月7、8日に開幕する今季のJ1の第1節のカードが6日、明らかになった。複数のJリーグ関係者によると、昨季リーグ、ナビスコ杯、天皇杯の3冠を達成したG大阪はホームでF東京と対戦。アジア杯の日本代表にMF遠藤保仁、今野泰幸、GK東口順昭と最多の3人が選ばれている王者は、同じくFW武藤嘉紀ら3人の代表戦士を擁するF東京との“日の丸対決”が見どころになる。他にもFW宇佐美貴史ら注目選手が多いことから、NHK総合で生中継されることが濃厚だ。

 もう1つの話題はダービーマッチだ。4年ぶりにJ1昇格を果たした山形は、アウェーで仙台と対戦する。昨年の昇格プレーオフ準決勝(対磐田)で後半ロスタイムに決勝弾を決め“山の神”と呼ばれたGK山岸範宏を中心とした手堅い守りが持ち味。ともにJ2だった時代から数々の名勝負が繰り広げられた“みちのくダービー”は完売必至だ。横浜Mは川崎との“神奈川ダービー”。今季からネルシーニョ監督が就任した神戸は、指揮官の古巣である柏と対戦。自らが育てた教え子とぶつかる“ネルシーニョ・ダービー”だ。

 2年ぶりのJ1復帰となった湘南はホームに浦和を迎える。浦和は昨オフ、U―22代表DF遠藤航に獲得オファーを出していたが、手倉森ジャパンの守備職人は最終的に残留を決断。湘南には元日本代表DF坪井慶介、同MF山田直輝が移籍しており因縁の対決となる。初めてJ1に挑戦する松本はアウェーの名古屋戦。元日本代表DF田中隼磨の古巣でもあり、大きな注目を集めそうだ。

鹿島と開幕戦 第1ステージホームで激突
(2015/1/ 7 14:44)

 3月7日に始まるJ1第1ステージの開幕カードが7日、関係者の話で明らかになり、清水は鹿島とホームで対戦することになった。昨季のリーグ、天皇杯全日本選手権、ヤマザキナビスコ・カップで3冠を達成したG大阪はホームでFC東京と戦う。昨季2位の浦和はアウェーで2季ぶりにJ1に復帰した湘南と顔を合わせる。
 J1に初昇格した松本は名古屋と、4季ぶりにJ2から戻った山形は仙台と、ともにアウェーで戦う。横浜Mは川崎、広島は甲府、鳥栖は新潟、神戸は柏とそれぞれホームで対戦する。
 開始時間は未定。J1は今季から2ステージ制とポストシーズンを導入し、第1ステージは6月27日まで。第2ステージは7月11日に始まる。




2015年シーズン開幕戦カードが報じられておる。
鹿島はアウェイにて清水と対戦とのこと。
相手にとって不足はない、素晴らしい相手である。
93年からの対戦成績は分が悪く、22勝23敗6分けと負け越しておる。
しかしながら、昨年はダブルを達成しており、苦手意識はなかろう。
ここは、この試合にて勝利し、対戦成績を五分とすると共に開幕ダッシュを仕掛けたいところ。
楽しみである。

日本代表・柴崎岳、個人的にはアグレッシブに行きたい

2015年01月07日 | Weblog
v柴崎インフル復帰アジア杯からW杯の核だ

インフルエンザが完治し、代表に合流した柴崎(左)は中山氏から激励される

 【セスノック(オーストラリア)6日=高橋悟史、栗田成芳】“センター試験”の倍率激化! インフルエンザの影響で出発を遅らせていたMF柴崎岳(22=鹿島)が6日、チームに合流した。4日の練習試合は、中盤で遠藤保仁(G大阪)長谷部誠(フランクフルト)香川真司(ドルトムント)が先発したが交代選手も好プレー。さらに柴崎が合流し、中盤(=センター)の争いは激しさを増す。アジア杯経由W杯行きは過去の実績が物語っており、柴崎にとっても結果を残したい。

 本格的な受験シーズンの到来と同時に、柴崎が合宿地に合流した。病み上がりで約10時間のフライトをこなしたが、疲れた様子を見せず取材に応じた。「遅れたけど、やれることはやってきた。熱もすぐに下がって体調も戻ってきたので、トレーナーと相談しながら体を動かしていた。しっかりと調整していきたい」。元日に目覚めると発熱していたが、すぐに熱は下がった。食事は普段通りで影響は最小限に抑えられた。

 4日の練習試合は、中盤で遠藤、長谷部、香川が先発し、遠藤が先制点を挙げた。交代出場した今野もそつなくプレーし、アギーレジャパン初招集となった清武も1アシストと結果を出した。そこへ柴崎が合流。中盤の3人の枠を巡って、センター試験の競争率は激化した。出遅れた柴崎が、あと1週間に迫った初戦のスタメンに割って入るのは現実的ではない。だがそれは承知の上。「練習も実戦もやれてないけど、やれる範囲で整えてきた。初戦だけじゃない。長い戦いを見据えて準備したい」と3週間の長丁場を見据え、焦らず調整するつもりだ。

 過去のアジア杯において、比較的に代表歴が浅くて活躍したMF登録を見ると、後のW杯だけでなく、長く代表で中核を成した選手ばかりだ。ここで戦力となることが将来へとつながることが証明されており、このセンター試験で上々の結果を残すことが、W杯メンバーへの道でもある。

 チームは6日の完全オフをへて、7日から12日のパレスチナ戦に向けて最終調整に入る。柴崎は「結果、内容ともにいいものにしようと思う。個人としてもいろいろな経験を積みながらやっていきたい」。激戦を突破した先には、明るい未来がある。【高橋悟史】
 [2015年1月7日7時18分 紙面から]

柴崎 遅れて代表合流も自信「焦り?特にないです」
日本代表オーストラリア合宿 (1月6日)


取材中の中山氏(左)と握手を交わす柴崎
Photo By スポニチ


 インフルエンザで離脱していたMF柴崎が6日に現地入りし、アジア杯に懸ける強い思いを語った。

 13年7月の東アジア杯では同じく直前に体調不良を訴え、その際はメンバーを外れたが、一段と成長した今回は「外れていたら“何で?”ということになったと思う」と自信に満ちた表情で語り、遅れての合流も「焦り?特にないです」ときっぱり。「初の公式戦なので特別な思いはある。しっかりチームとして結果、内容ともに出したい。個人的にはアグレッシブに行きたい」と力を込めた。午後には同じくインフルエンザで離脱していた豊田とともに宿舎で体を動かした。
[ 2015年1月7日 05:30 ]

【アジア杯】柴崎、4日ぶり合流!インフル完治、12日パレスチナ戦OK
2015年1月7日6時0分 スポーツ報知


インフルエンザが完治し、日本から到着した柴崎

 ◆アジア杯1次リーグ ▽第1戦 日本―パレスチナ(12日、ニューカッスル・スタジアム)

 インフルエンザで離脱していたMF柴崎岳(22)が6日、航空機で当地入りし4日ぶりに合流した。チームはオフだったため、7日の全体練習から始動予定。初戦のパレスチナ戦(12日)には間に合う見通しだ。

 療養中も室内でトレーニングは続けていた。20日間で最大6試合を行う日程や右インサイドハーフの1番手・MF遠藤の34歳という年齢も考えると、貴重な存在。「チームの練習とコンディションを考えながら整えたい」と自身初のアジア公式戦に気合十分だ。

 豪州入り後に発熱したFW豊田も7日の練習から復帰する見込みで、初戦を前に帯同選手23人全員がそろう。「組織の中のサッカーを大事にし、攻守両面でハードワークする」と柴崎。チーム一丸で連覇をもぎ取る。




自信に満ちあふれた受け答えをする日本代表の柴崎岳である。
インフルエンザにてチームを離脱したものの、完治し、アジア杯に向けた意気込みが感じられる。
日本代表としての初の公式戦、これは気合いが入るというもの。
試合内容と共に結果を残すのだ。
岳の躍動を期待しておる。

日本代表・昌子源、張り切った俺がアホみたいでした

2015年01月07日 | Weblog
【日本代表】練習試合で声を出し続けた昌子源 サブ組の突き上げがチームの士気を左右する
寺野典子
2015年01月06日

30分ハーフのゲームで60分間切らさずに声を出し続けた。


1月5日に非公開で行なわれた練習試合で、コーチングの声を出し続けた昌子が存在をアピール(写真は昨年4月の代表合宿)。(C) SOCCER DIGEST

 前日の強い日差しから一転、1月5日、シドニーから北に150キロほど離れた田舎町のセスノックは、朝から曇が広がり、過ごしやすい気温の一日となった。

 日本代表は午前10時半から地元のLambton Jaffas FCと30分ハーフの練習試合を非公開で実施した。

 先発はGK西川、DFは右から植田、吉田、昌子、太田。MFは中盤の底に今野、インサイドハーフは右に香川、左に遠藤、アウトサイドには小林と清武、1トップには武藤が起用されている。

 前半19分に遠藤がPKを決めて先制。後半開始時に遠藤に代わり中島、香川に代わり乾がピッチに立ち、清武がインサイドハーフの右へ移動し、乾が左のアウトサイドでプレーした。後半2分に中島のゴールが決まると、同4分に昌子、13分に清武、20分に乾、29分に小林、30分に再び乾とゴールラッシュ。7-0で快勝した。

 現地でチームに合流したばかりで、「時差や気温差があり、キツかったが、慣れていかないといけない」と語る吉田は、新たに代表に招集された選手とのプレーを「4年間固定メンバーでプレーしていたので、新しい選手とやれるのは新鮮だった」と振り返り、「(植田や昌子は)若くて潜在能力がある。自分のいいところは盗んでほしい」と話した。

 前日は終了間際に途中出場したものの、ほとんどプレー機会がなかった昌子は、初めてのスタメン出場を絶好のアピールチャンスと捉え、「60分間切らさずに声を出すのが自分の目標」と試合に挑んだ。

「麻也さんとか今さん(今野)とか真司くんに『昌子、しっかりしゃべって俺らを動かしてくれ』と言われた。CBはどちらも声を出さないといけない」と、吉田と並んでも気後れせずに声を出そうと決意していた昌子を、経験者たちが後押ししてくれた。そして、試合終了後には手倉森コーチから「60分間、しゃべり続けていたね」と声をかけられたという。

「『僕の声帯は120分用なんで、大丈夫です』って答えたら、『次は24時間やな』って言われて、『それは無理です』って(笑)。そんなしょうもない会話をしました。でも、テグさん(手倉森コーチ)にそう言ってもらえたということは、自分の目標が達成できたんだなと思えた」


試合後の昌子の言葉の端々から充実ぶりが感じられた。

 2014年、鹿島でレギュラーの座を掴み、10月には代表初招集。負傷により辞退せざるを得なかったが、11月には満を持して代表入り。物怖じしない明るい性格でチームにもすんなり溶け込めた。だからこそ、今度はプレーでチームメイトの信頼を勝ち得なければならない。しかし、攻撃的な選手とは違い、守備の選手が与えられるチャンスはそれほど多くはないと、昌子自身も自覚している。

「なかなか代表では試合に出られないし、こういう試合がアピールの場。60分間だったけど、手を抜かず、しっかりやれた」という代表初先発の試合で、ゴールまで決めることもできた。

「右CKから大外に行って、麻也さんが胸トラしてボレーを打ったら、GKが弾いて、僕の左足に来たんで、『おっしゃあ!』って。左足だからちょっと不安だったけど。決まった瞬間も『やった』と思ったら、麻也さんに『クソー』って言われました、ごっつあん(ゴール)でしたけど、まあ1点は1点。でも、周りのみんなは、なんかシレッとしていて。張り切った俺がアホみたいでした」

 大きなガッツポーズを決めるほどに喜んでいるだろう昌子の姿が想像できる。そして、高い集中力で声を出し続けるその姿も。60分間、小さなプレーも無駄にはできないとあらゆることに気を配り、先輩のプレーを意識し、吸収しようとしていたに違いない。

「途中、監督から、ボールをパスして前へ運ぶのではなく、ディフェンス全体で持ち運んで、全体を下げないようにと言われました、すぐに今さんに当てて、前へ運ぶより、俺らディフェンスラインがボールを持っていったほうが、ライン全体が上がるから、それを意識しろと。

(吉田と組んだのは)初めてです。すごくいい経験になった。試合途中も、相手のレベルがあまり高くなかったので、『もうちょっとリスクを背負おってやろう、あえて2対2(CBふたり)で守ろう』と麻也くんが言ってくれた。両サイドが上がっても呼び止めずに守った。

 結局、相手は来なかったですけど、本番ではそういう状況は必ず起きると思うんです。昨日もそういう危ないシーンがあったし。そういうことを麻也さんは想定して準備しているんだと思う。そういう部分を自分も一緒に合わせてやっていければいいなと思います。
この暑さの中では、すべて前から行くのは無理だし、ステイするところはステイしなければいけない。そこはCBが声をかけて、スイッチを入れるべきだと思う。ちょっと全体的に高いなと思えば下げさせる。そういうところは、やっぱ、麻也さんがうまいことやってくれていたと思います」

 試合後の彼の言葉の端々から、その充実ぶりが感じられた。

上の世代が歩み寄り、下の世代は学びを得ようとしている。

 4年前のアジアカップでもそうだったが、決勝まで行けば6試合を戦う長丁場の大会。累積警告での出場停止や退場、負傷など、思わぬアクシデントで突然出番がやってくることも考えられる。もちろん、サブ組の存在はチームの士気を左右する。だからこそ、溌剌としたオーラを放つ昌子の“声”がピッチ内外で、アギーレジャパンの新しい力となることを期待したい。

「自分の役割が、先発か、途中からなのかは分からないけど、どっちでも、しゃべり続けることが大事。途中出場で活躍するラッキーボーイが出るというのは、チームにとってもいいこと。運を味方にしないと勝てない大会だと思うから。前回大会では、イノさん(伊野波)、李さん(忠成)がゴールを決めた。そういう存在を2、3人は作りたい。そういう話を具体的にすることはないけど、きっとみんな心の中では、思っているはずだから」

 2010年のワールドカップメンバーをベースとして戦った2011年のアジアカップ。その先発メンバーのほとんどがブラジル・ワールドカップを戦い、ポジションを守っている。しかし、サブ組の顔ぶれは大きく変わった。アジアカップで控えだった選手のなかで、その後の4年間を代表として過ごした選手はごくわずかだ。

 その理由はいくつもあるだろうし、ひと言では片づけられない。ただ、結果として、主力選手たちは経験を積み、進化が促され、それ以外の選手たちとの差が広がったことは、ひとつの事実だと考えられる。

「まずは経験のある選手たちがコニュニケ―ションをとり、それを若い選手たちへ伝える。そういうことをやらなくちゃいけないという話をし、それを普段からやっている」
 オーストラリア大会を前にそう話したのは長谷部だった。

 そしてこの日、練習冒頭には、本田と酒井高、そして塩谷が熱心に話し合っていた。上の世代が下の世代に歩み寄り、下の世代は上の世代から、ひとつでも多くの学びを得ようとしている。そういう空気はチーム内の競争を活性化するはずだ。指揮官に頼るのではなく、自主的に動き出したことの意味は大きい。

 若い選手たちのチャレンジャーとしての野心を支えるのは、自分の強みを押し出す自信と、貪欲で謙虚な姿勢だ。

 この試合では1トップで起用されたが、前日に続き得点を挙げられなかった武藤は、自身の現状を「自分との勝負」と語った。小林にしても太田にしても、そして慣れない右サイドでプレーした植田にしても、シーズン終了から間が空き、コンディションとの折り合いと新チームでの役割とをうまく消化できているわけではないだろう。もどかしさを感じているにちがいない。

 これからの約1か月間の大会中、もしかしたらプレー機会に恵まれないという不遇に陥る選手が出てくるかもしれない。たとえ、ネガティブな感情を抱えることになったとしても、チームの一員としての勤勉さを忘れず、どうすればここで活きるのかと積極的に模索する時間を過ごせば、それが成長の土台となるはずだ。

 日本代表の進化の原動力として必要なのは、若い彼らの成長だ。アジアカップでは、そのきっかけを掴んでほしい。

取材・文:寺野典子




非公開で行われた日本代表の練習試合をレポートするサッカーダイジェストWebの寺野女史である。
源の言動が伝えられる。
この練習試合では、ゴールも含めて、良い経験となった様子。
源はこの大会で大きく成長する、そう感じさせてくれる。
前向きな昌子源の活躍を期待したい。

“永遠の13番”柳沢敦のサッカー人生

2015年01月07日 | Weblog
120分激白!柳沢敦が本誌だけに語った「批判され物議を醸したこともあったけど、自分の考え方は今も変わらない」
[2015年01月06日]

19年にわたる現役生活を終えた柳沢敦。今回、週刊プレイボーイでは引退後初となるロングインタビューを敢行した。
プロ生活、19年―。

幾多の困難を乗り越えながら日本を代表するエースストライカーとして輝き続けた、柳沢敦。初めて打ち明けるエピソードの数々に誰からも愛された“ヤナギ”の人柄がにじみ出る。120分ノンストップで本誌だけに語った、“永遠の13番”柳沢敦のサッカー人生がここに!

 * * *

緑を何よりも大切にする男である。取材中、何度もその言葉を発していた。19年にわたる現役生活は“自分が選んだわけじゃなく、この地が僕を選んでくれた”というゆかりの地、仙台で終えた。

雪が散らつく12月14日、ユアテックスタジアムでのチャリティマッチ。試合後も観客から繰り返されるコールに柳沢は涙ひとつ見せず、人懐っこい笑顔で応え続けた。



19年にわたる現役生活を終えた柳沢敦。今回、週刊プレイボーイでは引退後初となるロングインタビューを敢行した。

「引退を決めた理由…やっぱりサッカー選手はピッチに立ってプレーするのが一番じゃないですか。最後の数年間は、出場機会が減るにつれ、悔しいという気持ちを常に持ってプレーしてました。“まだやれる、まだやれる”って、自分に言い聞かせながら。でも、今までやってきた経験によるイメージと体が噛(か)み合わなくなってきてたんです。

なんとか“いや、これは錯覚だ、錯覚なんだ”と念じて、違う視点から自分を見つめて頑張ってきたんですけどね。最後のほうは、それすらもできなくて、キツくなっていた。もはや、自分のプレーに満足できなくなっていました。

出場機会がもう少しあった頃は、ある程度ベガルタ仙台に貢献できている自負はあったんです。けど、ベンチを温める日が続くと、やっぱりチームに対して何も役に立つことができないわけで。プレー以外で、チームになんらかの影響力をもたらすのって、すごく難しい。長くもたないんです。

経験を相当積んでいたとしても、それを後輩に伝えるという力は、せいぜい1、2年がいいところ。3、4年目になると、もう何もチームに残せない自分がもどかしかったし、苦しかった。そもそも僕自身、選手はプレーで示さなきゃいけないという考え方が根本にあったので。だから、ここまでだと決断しました」

ベガルタ仙台でもがき続けた最後の4年間。それまでの卓越した技術、稀有(けう)な経験があったからこそ、ギャップに苛(さいな)まれた。富山第一高校時代、柳沢は実にJリーグ13チームから勧誘を受けた。まさしく日本サッカー界の未来を担う至宝だった。

「急に周りの空気が変わったように感じました。なんで、そんなに騒がれるんだろうって。おそらく理由としては、高校生でB代表に選ばれたからだと思うんですけどね。メンバーはJリーグの選手や大学生だらけ、そんななかで、ラッキーなことに当時の西野朗監督に呼ばれて、キングスカップに出場したんです。そこでまた、運よくゴールを決めることができまして(注:結果は準優勝。柳沢はエース格として3得点をマーク)。

その後、僕自身は相変わらずサッカー漬けの学校生活を送ってましたけど、周りの状況が一変してしまったんです。だからといって、てんぐになることはまったくなかったです。というか、無理。もし、そんなそぶりをちょっとでも見せようものなら、親父がすかさず鼻をへし折ってくる(笑)。本当に怖いんです。

親父で思い出しましたけど、小学校時代に町の大会に出場して、優秀賞のトロフィーをもらったことがあったんです。そしたら、周りの友達から「何、このちゃっちいトロフィー」と言われまして。僕も同調して、「ちゃっちいよね」なんて言ってたのを親父が聞いていたんです。帰りの車の中では激怒しながらの大説教。「おまえはトロフィーの重みを理解してない!今すぐ返してこい!」って。

そういう親父の教えがあったからこそ、“絶対、てんぐになっちゃいけない。なったら、そこですべてが終わる”という意識が絶えず自分の中にありました。

それでも、Jリーグの13チームから声をかけてもらったのは嬉しかったですね。というか、驚きのほうが強かったです。正直、高校生の自分からしてみれば、運営とか経営方針、チームの環境はまったくわからなくて。当時、ただ純粋に鹿島が好きなだけでした。

で、いろいろなチームのスカウトの方からお話を聞いて、最後は数チームに絞らせてもらったんです。僕にとっての恩師がいるんですけど、その方からあるクラブを勧められまして。ものすごく心が傾いて、半ば決心を固めたんです。高校の先生にも「そのクラブに行こうと思ってます」って。スカウトの方も、仮契約の書類をわざわざ富山まで持ってきてくださるところまで話が進んだんですが……。

直前に、親父からまたビシッと言われまして。「本当にいいのか? もう一回、自分でサッカー人生を考えろ。ひと晩考えて、それでもそのクラブがいいと決断を下すのなら俺は支持する」。親父は、僕が鹿島好きであることも十分わかってたし、他の人の意見になびいていると思ったんでしょうね。

いざ、スカウトの方が来たとき、「やっぱり鹿島に行きたいです。本当にすみません」と伝えました。その方は「今回、柳沢君を獲れなくて、本当に悔しい。でも、これから鹿島で活躍して、私に心底悔しいと思わせてくれ」と言ってくれたんです。ものすごく感動しましたね。なんて、心が広いんだろうと。あの言葉があったからこそ、ここまで頑張れたんだと思います」

96年、最注目株の新人として、念願の鹿島入り。すぐさま先発起用で大ブレイク、という流れではなかった。下積みを経て、着実に成長を遂げた。得点感覚はもちろん、何よりもオフ・ザ・ボールの動きが格別だった。

「プロとして鹿島に入ったときの監督はジョアン・カルロスでした。すごく印象に残ってますね。当初、僕はなかなか使ってもらえなかったんですよ。後に、彼はあえて僕を使わなかったという話を聞いたことがあります。なぜかといえば、ある程度ちゃんと力をつけてきた段階で起用したほうが、僕が自信を持ってプレーすることができるからだと。本当にありがたいですよね。

カルロスから言われたのは、“普段から年上や年下を問わず、いろんな人の言葉に耳を傾けろ。謙虚な姿勢を貫け。それと忍耐も必要だ”ということ。その言葉を守って、腐らず、焦らず、準備を怠らないようにしてきたおかげで、いざ彼から声がかかったときには爆発できましたね。97年の天皇杯での優勝がそうです。僕にとってのスタートは、まさにここからでした。下積みというのは、つくづく大切なものだとわかりました。

現役時代を振り返ってみると、思い出に残っている試合は数限りなくあります。19年間ですからね。真っ先に思い浮かぶのは、やっぱり自分が絶好調のときの試合です(笑)。ベストは1試合で4ゴールを挙げた、98年の対京都戦です。あのときは、打ったシュートが全部入っちゃうんじゃないかっていう気がしました。

ハセさん(当時の鹿島FW・長谷川祥之[よしゆき])のヘディングシュートが僕の目の前に転がってきて、ごっつぁんゴールとか。あとは相手GKと1対1になって、GKを抜いてグラウンダーシュートを打ったら、そこに相手DFが勢いよくスライディングしてきたんですけど、そのままボールを通り越してしまって、結果、ゴールになってしまったり。何か不思議な力が働いてるような試合でしたね。

それと、因縁っていうんですかね。僕がプロ入りして、初めて決めたゴールが対ガンバ大阪戦(第17節・96年8月31日)だったんです。で、現役最後のゴールになったのも同じガンバ大阪との試合(第31節・11月2日)でした。その日、ベンチ入りしたときに、なんとなく胸騒ぎがして。今日もしかしたらゴールを決められるかもしれないっていう予感がしました。残り3試合で、もう1点決めれなかったのは残念でしたが…。

ちなみに、17年連続ゴールについては、まったく意識してなかったですね。チームのためになんとか得点を取ろうとやってきたら、たまたまそういう記録になったという。自分にいいパスをくれる、いいチームメイトに恵まれていた。それに尽きます。

僕にとって、FWというのは、もちろんゴールを決めるのは大事なんですが、チームの一番トップとして起点になることがまず第一だと思っています。起点になって、チームにリズムをつくり、最後に僕のところにボールが回ってくるという流れ。その流れで自分がフィニッシュできたら理想的ですね。

FWひとりだけじゃゲームはつくれない。やっぱりゴールというのは味方全員で取るものだと。かつて、僕が“シュートを打たずにパスばかりにこだわる”という批判に対して、最良の選択をするだけだという考えを伝えたところ、ずいぶん物議を醸したことがありました。でも、サッカーは一瞬一瞬の判断。正直ゆっくり考えながらできないものです。

なので、自分でいければシュートを打ちますし、パスがよければパスを出す。批判を受け止めて、自分でわがままなぐらいに打っていく姿勢を試したこともありましたが、かえってうまくいかなかった。本来の自分らしい、チームの流れのなかに身を置くプレーに戻したら落ち着きました。チームの流れがよくなれば、必然的に得点チャンスも増える。その考え方は今も変わることはありません」

柳沢の重厚な経歴をたどると、避けて通れないのがW杯だ。06年ドイツ大会に関しては不本意な結果に終わったものの、その前の02年日韓大会ではベスト16進出の原動力となった。ファンの間で今なお語られるのは、絶妙なアシストを見せた、対ロシア戦。当時、中田英寿からはチーム内のMVPと讃えられた。

今だから言えるけど、予選のベルギー戦が終わってから首が痛みだして。次の日、目覚めたら首が回らなくなってました(苦笑)。ロシア戦のときには少し回復しましたけど、3試合目のチュニジア戦のときには激しい痛みに襲われて完全に動かなくなりましたね。いよいよ首に注射を打ちましたが、内心ヒヤヒヤでした。だって、首ですよ。怖いじゃないですか。

結局、トルシエはトルコ戦で僕を起用することはありませんでした。首痛がその理由だとは絶対言わなかった。“私はこのメンバーでいくんだ”と。本当はどうだったんでしょうね…。

とにかく、トルシエはすごくユニークな監督でした。選手に対する叱咤(しった)激励のやり方とかも、今考えるとむちゃくちゃなパフォーマンスばかりでしたけど(笑)、あれはたぶん演技だったんじゃないかな。実は結構、人間味のある人でしたから。

トルシエとバチバチやり合っていたマツさん(松田直樹、享年34歳)の姿も懐かしいですね。僕が今まで対峙(たいじ)してきた日本人DFのなかで、マツさんが一番敵に回したくない選手でした。頭がいい、体が強い。どの年代の代表でも重要なプレーヤーとして招集されていたのはすごくわかります。そして何よりもハートが熱かった。とにかく人が好きだったし愛情も深かったですね。それがプレーにも出ていた。代表で一緒になれたのは、本当によかったです」

この先、指導者という選択も考えているという柳沢。フォア・ザ・チームに徹してきた考え方は、監督になれば、さらに主張できる。ユニフォームに袖を通さずとも人と人をつなげる好漢であり続けるだろう。

「指導者の道については、将来的に…という気持ちはあるものの、まったく未知の世界ですからね。やってみないとわからないです。プロを育てるにしても、子供たちを育てるにしても、きちんと論理立ててやらないといけないだろうし。その前に、まず自分自身がしっかりしないといけないですね。

僕は幸いにして、人とのご縁に恵まれて、家族をはじめ、いろんな人たちに支えられてここまでなんとか頑張ってこれました。鹿島時代の先輩、秋田(豊)さんや本田(泰人)さん、奥野(僚右)さんに相馬(直樹)さん、ナラ(名良橋晃)さんにもずいぶんいろいろと学ばせてもらいましたしね。ムダなことはひとつもなかったです。

京都で主将をやっていたとき、本田さんだったら、こういう場合、どうしていたかなぁと思い出して実践したり。悩んだとき、苦しいとき、周りにどういう人がいるかっていうのはすごく大事です。自分が今まで助けられてきた分、それを人に返していきたいと思っています」

(取材・文/高橋史門 撮影/山上徳幸 撮影協力/なごみだいにんぐ 飛梅 クリスロード店)

●柳沢敦(やなぎさわ・あつし)
1977年生まれ、富山県出身。富山第一高校在学時に“超高校級”として注目され、鳴り物入りで鹿島アントラーズへ。以降、エースFWに成長し、数多くのタイトルを獲得。日本代表としては、2002年の日韓大会、06年ドイツ大会とW杯に連続して出場。03年~05年にはイタリアのサンプドリアやメッシーナでもプレーした。11月2日のガンバ戦で、17年連続ゴールのJリーグ新記録を樹立。12月4日、仙台にて現役引退を発表




昨年末に週刊プレイボーイ誌に掲載された柳沢敦のインタビューである。
引退直後の心境、そしてここまでのサッカー人生について語られておる。
柳沢の人となり、考え方を垣間見ることが出来よう。
改めてお疲れ様といいたい。
ありがとう。
そして、これからもよろしくお願いします。
また、このインタビューに寄せた本山のメッセージも読み直したい。