鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

マルキーニョスの知性

2012年04月04日 | Weblog
マルキーニョス(横浜F・マリノス) 日本のサッカーを知るブラジル人
文=戸塚 啓 写真=足立雅史、山口剛生
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サッカー専門誌の編集者時代から現在に至るまで、使ってきた取材ノートの数は73冊以上に上る。それらに残されたメモを頼りに、日本サッカー界の様々な時代をひも解いていく。第61回は、日本サッカーに大きな足跡と貢献を残し続けるマルキーニョス。ユニフォームの色が変わっても、長髪をなびかせてゴールを奪う姿は、いつでも鮮明なまま、ワクワクするよう

日本で成功した理由



MARQUINHOS 1976年3月23日生まれ。オペラリオEC、コリチーバFCなどブラジルのチームでプレーした後、東京Vに加入。以後、横浜FM、清水、鹿島、仙台に在籍。今年アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)より横浜FMに復帰。抜群のスピードとテクニック、ゴールへの嗅覚は衰えることなく、得点を狙い続ける。横浜FMでも得点源として期待は大きい。

20年目のJリーグが幕を開けた。プロ黎明期をけん引したのは、ヨーロッパや南米からやってきたビッグネームだった。ワールドカップに出場したかつての代表選手が、日本に続々と舞い降りた。海外では《年金リーグ》などと揶揄されたりもしたが、「プロフェッショナルとは何か」というものを日本人選手に植え付けていったのは、ジーコやリトバルスキーらの優れた外国人選手たちだった。
この20年間で、一体何人の外国人選手がプレーしたのだろう。J1、J2で一度でも試合に出たことのある選手を数えてみたら、ざっと850人を超えていた。単純計算で、1年あたり42人強がプレーしていることになる。
最も活躍した外国人選手は誰か? 
出場試合数で判断すれば、シジクレイがトップだ。当時JFLだったモンテディオ山形をスタートに、合計5チームで13年間にわたってプレーした。J1だけで289試合に出場している。
彼に続くのはビスマルクだ。東京ヴェルディ、鹿島アントラーズ、ヴィッセル神戸で合計10シーズン稼働し、283試合に出場した。3位には鹿島、清水エスパルス、神戸を渡り歩いたサントスの名前が挙がる。
マルキーニョスは4位に食い込む。2001年途中に東京Vへ加入してから、昨シーズン所属したベガルタ仙台まで、11年で6チームのユニフォームを着ている。通算出場数は230試合を数え、通算得点は歴代6位タイの109ゴールである。
日本で成功した理由はいくつもある。
来日当初はスピードが強みだった。2004年に所属したジェフユナイテッド市原(現千葉)のイビチャ・オシム監督は、「彼の代わりを務められる選手はなかなかいない」と話し、「スピード豊かで決定的な仕事ができる」と続けた。「守備面では、あまり期待できないが」と添えるのも忘れなかったが。
もう一つは適応能力だ。
初来日はシーズン途中だった。J2降格の危機に瀕していた東京Vが、急きょ獲得したのがマルキーニョスだった。2001シーズンのことである。
海外でプレーするのは初めてである。しかも、日本は未知の世界だ。「最初はやっぱり、食事が大変だった」と、のちに振り返っている。ところが、環境に馴染んでもらう猶予はない。即戦力としての補強である。
東京Vはエジムンドも獲得し、ギリギリでJ1に踏み止まった。元ブラジル代表FWは大きくクローズアップされたが、残留の立役者は彼だけではない。途中加入でシーズン8ゴールをたたき出したマルキーニョスも、名門クラブを立て直した一人に挙げられるはずだ。
国内4チーム目の清水でも、J1残留の切り札として迎えられる。2005年のシーズン途中で加入し、14試合の出場でチームトップタイの9ゴールをマークした。
終盤の活躍は鮮やかだった。印象深いのは第32節の神戸戦だ。
中2日のスケジュールで行われた消耗戦は、後半終了間際に動く。日本平に熱狂を呼び込んだのは、背番号17を着けたマルキーニョスだった。澤登正朗のシュートが相手DFに当たってこぼれたところを、右足でプッシュしたのである。
この勝利で、清水はJ1残留をほぼ確定させた。試合後の長谷川健太監督(当時)は、深い安堵とともにマルキーニョスを讃えた。
「中2日で疲労が蓄積していて、なかなか思うように動けなかっただろうが、ゴール前での彼の決定力は、我々のチームにとって非常に大事だと思っている。やはり一発を持っている選手なので、ゴール前に彼がいれば何かが起こるのではないかという思いで、最後まで出場させたんです」

なぜ、日本で長くプレーできるのか?


08年鹿島の優勝に貢献し、自身もMVP、得点王、ベストイレブンと各賞を受賞。大車輪の活躍だった

キャリアの転換点は、07年の鹿島移籍だろう。優勝を狙えるチームに在籍するのは、03年の横浜F・マリノス以来だった。
とはいえ、気負いはないのだ。鹿島のユニフォームを着ても、口調は穏やかだった。
「言われてみればそうだね。鹿島は常に優勝争いに絡んでいる。そのチームの一員になったのだから、僕もグラウンドの中でしっかり自分の役割を果たさないと。でも、自分のやることが大きく変わるわけじゃない。僕自身はどのチームでも、目の前の試合に絶対に勝つんだという気持ちを見せてきた。ここでも同じようにやっていけばいいと思っている」
鹿島には07年から10年まで在籍し、リーグ3連覇を達成したチームの得点源を担った。08年には自身初の得点王に輝いた。
東京Vで「9」、市原で「8」、清水では「17」などを着けてきたが、彼のアイコンはアントラーズで背負った「18」だろう。長髪をなびかせながらゴールへ向かう姿が、記憶の奥深くに刻まれている。
彼自身に聞いてみたことがある。「なぜ、日本で長くプレーできるのか?」と。
「それは僕の所属したクラブに聞いてくれないと。契約をしたいと言われなきゃ、選手はプレーできないんだから」と、マルキーニョスは笑顔を向けてきた。J1得点王へ向けて快調にゴールを重ねていた08年の夏である。
「自分が持っている速さと──抜群に速いわけじゃないけど──日本サッカーのスピーディなところが、うまく合ったんじゃないかな。あとはまあ、僕はブラジル人だからね。勝つためにどういうプレーをしなきゃいけないのかっていうのは、子供の頃から自然とたたき込まれているんだ」
鹿島のクラブハウスにいながら、マルキーニョスはブラジルのストリートを思い描く。少年時代の自分は、無邪気にボールと戯れていた。
「ストリートサッカーには、年齢制限なんてものはないんだ。小さな子供と大人が、一緒になってプレーしたりする。年齢が違えば、体格も違う。そういう中でも、できるだけボールに触って、何とかしてゴールも決めたいと思うわけで、そうすると自然にいろいろと工夫をするよね?」
日本のサッカーには、もう少し遊び心があってもいいと考えるのか。マルキーニョスは控え目にうなずいた。
「例えば、10歳の子供と一緒にサッカーをするとしよう。その子はいつも、ドリブルで僕のマタを抜こうと必死になっている(笑)。ブラジルはそういう環境なんだ。でも、日本のサッカースクールだって素晴らしい。運営がきちんと整っている。時間に正確で、プログラムもしっかりしている。Jリーグができて、これだけ短期間で日本は成長してきたんだ。それはつまり、日本人はサッカーに向いているということだと思う」
ならば、こうすれば日本のサッカーはもっと良くなる、と感じる場面はないだろうか。「このまま成長していけばいいと思うけど……」と、マルキーニョスは肩をすくめた。
しばらくの間、僕らは沈黙を共有した。
彼の反応は、ごく自然なものだったと思う。Jリーグの誕生がW杯への道を切り開き、海外クラブへ移籍する選手も右肩上がりに増えてきている。マルキーニョスだけではなく多くの外国人選手から、「これ以上、何を求めるんだい? そんなに慌てなくてもいいと思うよ」と、たしなめられてきた。
そのとおりなのだろう。ただ、Jリーグで長くプレーしている彼なら、「何か」に気付いているはずである。成長のスピードを持って、速めるための「何か」に。
沈黙を破ったのは、マルキーニョスだった。これまで以上に控え目に、彼は切り出した。
「僕らブラジル人からすると、日本のサッカーはとても速い。本当に速いんだ。ブラジルのリーグなら、一方のチームが3分ぐらいボールを回すことがある。相手がプレッシャーを掛けてこなければ、ひたすら回すんだ。でも、日本はどういう状態でもパス、パス、パスで、速いというより慌てているように見えることがある。結果的に体力をすごく使うことになってしまって、一番大事なところで疲れてしまう──僕にはそんな風に思えるんだ」
スピードを武器に20代を駆け抜けた彼は、30代になって新たな武器を身に付けた。前線からの献身的な守備である。
優れたフィニッシャーでありながら「守りのスイッチ」を入れるとの評価は、ここ数年のパフォーマンスですっかり定着している。惜しみないハードワークを特長とする彼にしても、「いつも動いているわけじゃなくて、自分ではメリハリをつけているよ」と話すのだ。
「FWが前線からディフェンスをするのは、現代サッカーの流れなんだと思う。それをサボったら、チーム全体に迷惑が掛かるでしょう。でも、僕は得点することを求められている。そのためにどうしたらいいのかは、いつも考えているんだ」
1976年生まれは、日本ならアトランタ世代だ。3月23日には、36歳の誕生日を迎えた。同世代のプレーヤーは、確実に少なくなっている。
「いつまで日本にいるのかも、何歳まで現役でいるのかも、はっきりとしたことは分からない。でも、自分の仕事ができる限りは、ピッチに立ちたいと思っているよ」
4年前の夏に話していた言葉は、今も鮮度を保っているのか。20年の節目を迎えた今シーズンのJリーグにも、背番号18を着けたマルキーニョスがいる。


戸塚氏によるマルキーニョスのコラムである。
「日本で最も活躍した外国人は誰か」という問いに対する答えとして、マルキーニョスを挙げておる。
確かに一時的に大活躍した選手は、彼以外に幾人もいたであろう。
しかしながら、これだけコンスタントに結果を残した選手は他におるまい。
そして、得点王とMVPに輝き前人未踏の三連覇に貢献し、実績も積んだ。
鹿島のレジェンドに名を連ねることとなった。
その陰にはフィジカルやテクニックだけでなくインテリジェンスがあったことが、コメントから伝わってくる。
サッカーという球技は知性が伴わなければ、上は目指せないものである。
それを証明するのがマルキーニョスの活躍と言って良かろう。
先週は、そのマルキーニョスとの対戦が適わなかった。
ホームで迎え撃てるよう準備をしたい。
楽しみにしておる。

ドゥトラ、メンバー入り

2012年04月04日 | Weblog
鹿島の救世主として期待!ドゥトラ 大宮戦でメンバー入り
ナビスコ杯予選リーググループB 鹿島―大宮 (4月4日 カシマ)
 J2京都から獲得した新外国人MFドゥトラがナビスコ杯大宮戦でデビューする可能性が高まった。3月29日に全体練習に合流したばかりだが、紅白戦などでのアピールが実って18人の登録メンバーに入った。

 ベンチスタートとなる見通しだが「調子はどんどん良くなっている。チャンスをもらえればベストを尽くしたい」と力を込めた。今季公式戦5試合2得点と深刻な得点力不足に陥っているチームの救世主として期待されている。

[ 2012年4月4日 06:00 ]

大宮戦のメンバーに入ったドゥトラである。
京都を退団して以降、練習参加してなかったと言うことでコンディション不良が予期されたが、ドゥトラのプロ意識はその予想を良い意味で裏切った。
テストの意味もあった紅白戦で結果を出し、ジョルジーニョ監督の信頼を得た様子。
ドゥトラ本人は出場意欲に燃えており、ベストを尽くすとコメントしておる。
ドゥトラの鮮烈デビューに期待である。