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郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの歴史探訪::深坂古道

2014-06-05 14:15:52 | 郷土史

     深坂地蔵さんに再会!
     小学生以来半世紀以上ぶりです
  =その山道は怖かったなー、当時は=
             塩津(しお)街道
          Kennyの滋賀から情報発信

    (この日記の掲載期間:6月13日~6月19日)


                         深坂地蔵さんと再会です

深坂古道っていうんですね、今は
私、Kennyの故郷はこの近くです。塩津街道にある深坂古道
当時は深坂越えと確か云ってましたし、歴史上
ではともかく、
幼心にはお地蔵さんが主役でした。

 
   北陸本線JR近江塩津駅から探索開始です。今日は約15km歩きます

でもね・・

その深坂地蔵さんのある所は、 塩津(と発音してくださいね
(近江)と敦賀(越前)
の県境で山の中、奥深い深坂峠にあり
ます。山道は不気味で田畑、林業、また炭焼き等に従事され
ている方が使う道だったのでしょうな。 兎に角そこへ行きたい
とは当時思ったこともありませんでした。


                 深坂地蔵さん  今は、立派なお堂と立派な境内が

ところが連れていかれたんです
小学校3年生位だったと思います、先生が野外授業でもと思
われたのか当時はまだ純真で文句も言わない私達をそこに連
れて行って下さったんですな。 本当にもう!迷惑なことです。
小さなお堂に入った大きな岩があったとしか記憶がないです。

そして半世紀経った現在、この度の催し物、「深阪古道ハイキ
ング」、奥びわ湖観光ボランテアガイド協
のツアーは待ちに
まったチャンスでした。


               JR近江塩津駅前に午前10時集合です

丁寧な案内、クマ出没も気になる
その深坂越(古道)の入口までは傍を通った時に偵察はしまし
たが、やはり大勢でまた案内があれば鬼に金棒、と機会を待っ
ていました。 春、秋は特に湖北、そこは熊の餌場ですしね。

 
                     国道8号線から古道に入ります

さて道中、興味を持って歩いた今回は

そこには深坂問屋跡(石垣)があり、立派なお堂
中にお地蔵
さんは納まっておられました。 コースは地元の方々や
当協会、
その他の皆さんのご努力ですっかり整備
されていました。地蔵
さんのある峠も幼かった過去の記
憶とは見違えるものでした。


                問屋跡の石垣 役目を終えて以後、風雪に耐えて

こんな石垣(遺跡)、全く記憶にございません。もっともここが
交通、輸送の重要な拠点であった、なんて、先生がご説明に
なっても理解も出来ない、洟垂れ小僧の頃のお話しです。


             

秀吉さんが
新しい道を作った、なるほど
その深坂越、とっても急な坂道です(特に敦賀側)。これでは荷
物を背負わされたお馬さんも、請負人もクタクタになるだけでは
なく、効率も明らかに悪いです。秀吉はこの深坂峠を避けて新
しい道、新道野越
を作りました。この開通を機に深坂越(古道)
は廃れて行ったのですね。


              急な坂道、正に登山道の古道です(敦賀側)
 写真仲間へ:過日教わった方法で撮影、ちょうどよい坂道のイメージ
       
が出ましたよ!(Kenny)

深坂古道とは:
塩津街道から福井県敦賀市へ抜ける古道。「塩の道」ともいい、
敦賀に陸揚げされた海の幸や塩・米など を畿内へ運ぶ重要な
海道で、万葉集の歌人・笠金村や紫式部が父に同行して 越前
へ行く際に通った道としても知られており、昔は人の往来が絶
えませんでした。  (奥びわ湖観光協会のHPより引用)


                       標識も完備です (写真: 塩津側) 

お地蔵さん、運河計画と疋田舟川
平安末期、平清盛は息子、重盛に琵琶湖・敦賀間の運河の開
を命じました。石工が岩を割ろうとしたところ、激しい腹痛に
見舞われ、掘り起こすとお地蔵さまが出てきたといわれていま
す。これが今も残る深坂地蔵(別名、堀止め地蔵)です
(奥びわ湖観光協会のHPより引用)

その後何度も計画が持ち上がり挫折したとのことです。その一
部として開通したのが敦賀側の在所、疋田(ひきだ)
に残って
疋田舟川です。


                   元々の川幅は2.8mだったとか

左に見える石垣は当時の物です。今は右の部分は埋め立て
られましたが、その石垣と伝えられる急流は今もしっかりと残
っています。



                       舟を引っ張る作業者  (現地の案内板)

急流のあまり、川底に丸太を敷き、滑らせて舟を引っ張る
という事もされていたんですね





塩津街道
北前船
などで敦賀に荷揚げされた北国の物資を畿内へ(その
逆方向も)送るために先ずはを塩津港
琵琶湖を丸子船で大
津へ)
へ運ぶ、近江と越前を結ぶ主要交通路でした。 唯一の
難所が深坂越で敦賀側からの標高差が250m、塩津側から
120mもあります。

しかしこの古道も・・
近世(江戸時代)中期に入り、西回り航路の成立で陰りが見
えて来ます。ただ北前船の幅広い物流により港(蝦夷地への
物資)としての機能
は果たします。ところが今度は明治に入
り鉄道の(現JR)開通で新道野峠も丸子船もその役目を終
えます。

 西回り航路:日本海・瀬戸内海から大坂(現大阪)に
         入るルートが出来、敦賀は素通り。北前船
                 は帰り便で敦賀から周辺の特産物資を蝦夷
                    地に運びました。

この項:過去の歴史講座での記憶と「北前船と日本海の時代」
      (福井県河野村発行)を参考に、私の理解で ”講釈”
      しました。 端折り過ぎかも・・・。

塩津街道の地図は?
下の関連情報、深坂古道に地図があります。ご参照ください。

関連情報:下のここををクリックしてください

         深坂地蔵 ここをクリック 
         深坂古道 ここをクリック 
         疋田舟川 ここをクリック 
          丸子船  ここをクリック 


        
  歴史探索ハイキングを終えてJR新疋田駅で解散です

JR近江塩津駅を10時30分に出発。国道8号線を北上して1時
間程で古道入り口に到着。 古道を深坂峠ー疋田集落と
探索の
後、16時前にJR新疋田駅で解散しました。

        
                        深坂古道コースマップ           拡大します
                                              (写真をクリックしてください)


 奥びわ湖観光ボランテアガイド協会の皆様、関係者の皆様
 ありがとうございました。


     今日もご覧くださいましてありがとうございました。

コメント (2)
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