趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの歴史探訪:ちゃんと知りたかった雪野山古墳

2014-06-05 14:37:05 | 古墳

  極めて貴重な雪野山古墳
=日本で唯一、(ゆぎ)が完形で出土=
    雪野山古墳は希な未盗掘でした
   そして、出土した3枚の鏡です!
        Kennyの滋賀から情報発信
                 (この日記の掲載期間:7月11日~7月17日)

こんなにすごい、有名な古墳だったんや!と云うお話です


アンテナを張っておれば~
何年か前に里山気分で雪野山登山をした時にその山頂部が古墳
と知り、その内再度訪ねたいと機会を待っていました。  幸い過日、
竜王町地域振興事業団(でいいのかな?、竜王町教育委員会)主催で当古
墳の探索ハイキングがありましてね、 感動ものでしたよ!

 
                   雪野山、雪野山古墳の航空写真  (当日配布の資料より)             

なんでそんなに有名?:
鏡、靫、その他出土品多種、等々
雪野山古墳の最大の興味、特に考古学者にとっての魅力は、
ある
鏡” が出てきたことです。それは古墳年代もいつの時代
(前期、中期、後期)、また誰の古墳かを探る上で大事
手掛か
りになります。 さらに長大な竪穴式石室であることです。

また
靫が完全な形で発掘されたこと、石製品を含む
数々の出
土品
です。雪野山古墳は古墳時代の研究のメッとなりました。
発掘調査の最初は20年前に遡ります。

数々の出土品 (品数が多いのもこの古墳の特徴)

               

用語           靫(ゆぎ)                 鏡
     弓矢を入れて背に負う矢筒       豪族の権威の象徴
    
                                             (どのような鏡が与えられているか)    

 

雪野山古墳とは
滋賀県近江八幡市、東近江市、竜王町にまたがる標高308.8
m雪野山山頂部にあります。古墳は前方後円墳です。4世紀前
半に作られた古墳と考えられています。 今から1700年も前の
事です。

     

    雪野山古墳: ウィキペデアは ここをクリック してください

雪野山古墳は格式の高い豪族の墓
それは、長大な竪穴式石室にあります。このことは非常に格の高
い埋葬施設を意味するのだそうです。 そして極め付けはです。



この地にこんなすごい古墳が:ある鏡の出土
この古墳から三角縁神獣が三枚も出てきたことが大きな根拠です。
その鏡は邪馬台国の時代に卑弥呼が中国の魏から貰った鏡ではない
かが通説となっています。 たかが鏡、ではないこの代物が・・・次へ


          鏡が出てきた様子                  靫(ゆぎ) 出土の様子   

大和政権とのつながり: なぜこの地に、話は佳境に入ります
その鏡が、邪馬台国から大和政権に受け継がれたというのです。
大和政権にとってはこの地湖東は東方戦略上、交通の要衝、要
にあたる重要な地域だったとの考え方です。 当政権は湖東地域
の豪族とよい関係(貴重なその鏡をこの豪族に与えた)、
を築く必要があ
ったのです。

ここに埋葬された豪族が中央政権(大和政権)と結びついた豪族で
あり、その格式の高さが伺えます。それが滋賀県では一番最初に
築かれたこの地、雪野山古墳の背景です。

 
      埋め戻された古墳             教育委員会専門員さんの解説

大和政権の技術者の伝授
当時近江にこのようなお墓を作る技術はありません。上述の経緯から
石室を作る技術も含め大和政権との繋がりのある、正にこの地域に造
られるべくして造られた有力な古墳だと云えるわけです。


探索ルート

 
                    当日の探索コース                  拡大します

       雪野山古墳ハイキングのHPは ここをクリック してください


                        現地の案内板は新しくなっていました

引用写真:このブログに使用の写真、絵図は、下記から拝借しました
              「雪野山周辺の古墳めぐり」(竜王町教育委員会編) および
        「現地の案内板」

記載内容の参考文献:「古墳時代前期の王墓 (現地で購入の書籍)
(ブログでは参考と云うより私の表現での記述すが、
この書籍の抜粋丸写しです)

 

ついでにこぴっと知っておくか・・
参考書籍(上述)の福永伸哉先生の記述から引用

古墳時代とは:
西暦250年から600年。つまり卑弥呼がお亡くなりになってから
太子が活躍する7世紀の始めまでの約350年の時代。従い、古
時代は大和政権(今は大和朝廷とは云わない)の時代とも云われてい
ます。

嘘をつかないのが遺跡
当書籍で執筆されているお一人、福永伸哉先生は、古事記日本
書記
はある意味事情ありで書いたりする部分があるけれども嘘をつ
かないのが遺跡
だと仰っています。雪野山古が西暦300年前後
であると云ったのは、副葬品、埴輪、焼き物、古墳の造り方、形態な
どから古墳の年代が25年単位くらいで分かるようになったからだと。

    お断り:   前述の書籍の論文を部分的に引用して私が勝手に概要を組み
           てていますので、勘違いや端折り過ぎなどで間違いもあるか

           も思いますがどうか素人の備忘録とお許しください。

                     参考(引用)
の書籍で、各先生方は 「・・・という学説もあるが、与
           えられた講演時間
の関係で、各先生方が取っておられる説でお
           話します」、とい云う文言が随所にあります。


           私の文章で末尾が「です」と断言していますのも、”
・・だそうです ”
           とお読みください。 殆どが引用です。


  雪野山古墳のある雪野山山頂から私達の町、野洲市にある三上山の山頂部がくっきりと
 

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

 

コメント (4)
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Kennyの苦手:お花便り

2014-06-05 14:28:02 | 花便り

   あじさいがきれいですね
ところが私お花は苦手、被写体としての花、花の名前を
覚えるのも。登山にはお花はつきものなんですが。でも
そんな
ことではあかんので今日はお花に挑戦です。
           (この日記の掲載期間:7月4日〜7月10日)

友からはこんな声も聞こえます
あんさんのブログ、城跡、
信長、朝鮮人街道もまあかまわ
んけど
ココナッツミルクの話の方がもっとええよ(最近取り上げ
た私のブログのこと)。
あるいは
雲ノ平に行くんやろ、話し聞かし
てや、と。 つまり文系ばっかりやってんと、好きな山もの
の話題も提供しなはれ、です。例年ならば今の時期、10月
までは大好きな山の便りが多いのですが、今年はねぇ・・・。


    
                     2012年10月 笠ケ岳への尾根
            いいなー、いいな~~、もう  、でも今シーズンは絶望


やまーぁ、ハイ松褐色の岩肌
もうたまりまへんな、この高峰の景色。3000m級、事情有りでか
れこれもう一
年は近づいていません。でもね、野洲市には上山
があります。そこへ行けば三上山仲間と会える、そして一
緒に登
山が出来ますんで、まあ寂しくはありません。ありがとう、三上山! 

  
       日本でも有名な古墳、雪野山山頂からみた三上山
             
  (当古墳がなぜそんな有名?は近々UPします)

来年の今頃は雲ノ平を膏薬なしでしゃきっとして歩いてみ
せようではないか
!” ん? どっかのBS山番組, あの低音
 のおじさんのセリフ・・・。  (私、実はどてんー、イテテーでして 

でー、登山編に代わってお花に挑戦ですーぅ

芦刈園 (守山市) 

   
  
        おっ、ええやん、絵になってる、と 我々はシャッターを

ここはあじさい公園ともいわれており、広い公園内がとっても華や
かでした(6月25日)。





その日はもう昼下がり、おまけに空梅雨でほとんどのお花は元気
がありません。木立ちの中にふりそそぐ木漏れ日のアジサイを選
んでみました。



           芦刈園のHPは ここをクリック してください



花緑公園・植物園のバラ(野洲市)

       
             四季に亘りお花、珍しい植物がいっぱいの植物園 

私よりも年齢的にうんと大先輩のおばーちゃんをお連れしてのバラ
鑑賞ですね。 ちょっと微笑ましい雰囲気、光景を追って。




 

三上山はウラジロ群生のお山です

   
          両側をウラジロに囲まれた登山道  三上山

三上山はウラジロの群生地です。今は綺麗な緑が木洩れ日を受
けて
一層輝きます。



 

 我が家のゴーヤ、琉球アサガオ カーテン

       

アサガオは今年で3回目、ゴーヤは初めての挑戦です、といって
も家人が。
私はゴーヤはちょっと・・・、でも食べさせられるんやろ
うな。 私は とる
のは写真だけでいいんですが。


       今年の木の芽の役目を終えて・・・。 朝 夜半からの雨に美しく


                        ケイトウ でしょうな、庭に これも家人が

 

        今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

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Kennyの歴史探訪:朝鮮通信使

2014-06-05 14:21:36 | 朝鮮通信使

  朝鮮通信使、近江編 
   
近江を豪華絢爛、列をなして
    朝鮮人街道 & 雨森芳洲
  Kennyのそうやったんや(◎_◎)/

 郷司 泰仁先生(香雪美術館)、ありがとうございます

      Kennyの滋賀から情報発信
     
(この日記の掲載期間:6月27日~7月3日)


                        郷司 泰仁先生(神戸市 香雪美術館)
        
ちゃんと知りたかった朝鮮通信使
野洲市歴史民俗博物館、
通称 銅鐸博物館で有難い講演があり
ました。 講師は神戸市の香雪美術館、郷司 泰仁先生です。
今までも機会はありましたが、今回ほど表題に絞った初心者にも
分り易いお話は初めてです。 目からウロコの講演でした。

 
              朝鮮通信使図                          上の写真拡大します
                                                          (写真の上をクリックしてください)

             
朝鮮人街道って滋賀にはありますよね
野洲市
で中山道から分れて彦根市の鳥居本で再度合流する道
で、約41.2km
あります。近世の脇街道である彦根道(ひこねみ
ち)、京道(きょうみち)および八幡道(はちまんみち)の異名です。

             
        標石  左八幡道 右中山道(蓮照寺境内に保存) 私の撮影

中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が岐阜城から安
土城を経由して京都に向かう道として整備しました。


        左 八幡道(朝鮮人街道) 右 中山道   私の撮影

上の標石は元々前方の家の付近にあったそうですが洪水で流さ
れて、発見後今の所(近くの蓮照寺境内)に移されました。


徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り
上洛凱旋する際この道を通り秀忠もこの道を用いて永原に逗
留し軍が整うのを待ち上洛した。このため縁起が良い道と認識
されます(以上、一部はウィキペディアからも抜粋引用)

                 
                  中山道・朝鮮人街道 の分岐の標識  私の撮影


      彦根市鳥居本で中山道と合流 鳥居本の標石 
  (過去の野洲市歴史民俗博物館友の会、講演会の私が保存記録より)


         情報 更に詳しく、の:
   朝鮮人街道に関しては ここをクリック   してください
   朝鮮通信使に関しては ここをクリック してください          

将軍以外では唯一朝鮮通信使の通行が認められていたため
、この道は『朝鮮人街道』と通称されるようになりました。(後述)

この道を通った朝鮮通信使とは?
江戸時代、慶長12年(1607)から文政8年(1811)までに12
回、李氏朝鮮国から日本に送られてきた使節団です。

 
             朝鮮通信使の行程                      拡大します
  (許可のもと、スクリーンを撮影し、私が赤で文字を入れました)

以下超硬い出張レポートですな、忘備録なもんで、ごめんね

使節団の目的:
日本側(徳川幕府):
朝鮮通信使を招くことにより
①徳川将軍家の諸大名への権威誇示
②中国(清)の情報を得る
③朝鮮貿易の振興
④同使節の接待により各大名の財政の負担を増やす
 (武力増強などへの資金を押さえることが可)

 
          京都への川舟の様子か  幕府の役人も見えます    拡大します
             (天和度朝鮮通信使上判事第一船図)

      この絵図の関する情報は ここをクリック してください


朝鮮側の目的

①日本を探索(土地、町の記録、絵図)
②朝鮮の背後にいる中国に対する外交姿勢
③貿易の振興
④日本の文化を導入
⑤家康に敵意がないかの探りも:過去の秀吉の影響


     日本の風景を絵師に記録をさせた 下は富士山

通信使のメンバー:
少ない時(文化度)で328名、多い時(慶長度)で504名。そこ
に日本の対馬藩(受け入れ担当)の人数がプラス。正使から通訳、
記録など文才のある者や画員、医員、馬術の達人、馬の世話人、
奏楽師、料理人、操船人、進物、などなど・・、随行人が他にも
(スペースの関係で端折りました)。もっとも全員が江戸まで行くこと
はないそうです。

 
 近江でのルート 野洲からは朝鮮人街道へ(赤い文字・線) 拡大します
    (許可のもとスクリーンを撮影し、私が赤で文字を入れました)

近江のルート:
京都を出発後、大津ー草津(から中山道)-野洲ー近江八幡ー
安土ー彦根ー鳥居本(再度中山道)-摺鉢峠ー番場ー醒井ー
柏原ー岐阜

どうして中山道ではなく朝鮮人街道を通った?
先生は詳しいことは答えられないとしながらも、なにせ国賓です。
信長や家康だけが通る事を許された街道を最大級のもてなし
一つとして選んだのだろうと。 そういう事だったんだ!


              この望湖堂のある摺針峠も通っています


おもてなしの膳(過去の当歴史民俗博物館友の会での私が保存の講演記録から)

雨森芳洲が大貢献:
滋賀県長浜市高月町雨森
の出身です。現地には芳洲庵があり資
料が揃っています。木下塾で新井白石らと同じ時期に学び、幕府か
ら対馬藩に派遣、江戸藩邸に任官。来訪時には受け入れに従事、
二度、通信使の真文役(通訳兼書記のような役)を務めてい
ます。新井白石は使節団の費用に手を掛けますが、失脚後、元に
戻して朝鮮外交など善隣友好外交の重要性を説きます。

いますなー、滋賀県には多くの歴史を作った人物が・・・・。


                          1幅 高月・芳洲会

 情報、更に詳しくの:
 雨森芳洲庵については ここをクリック して下さい

誠信の交わり:
郷司先生は中世だったか、近世だったか美術の専門家で、このよ
うな角度から通信使の様子も紹介されました。


            通過する通信使と交流する道端の住民?文人?

通信使の宿泊所や休憩所には、日本人の文人たちが面接を求め、
筆談唱和などによって交歓が行われた。通信使側は三使(正使、
副使、従事官)、堂上官(通訳官)、製述官、書記、写字官などが
対応した。

もっと詳しく
手元に当日配布のレジュメがあります。まだまだ情報満載です。
これほど親切なレジュメはあまり見かけません。講演でもこれでも
か、これでもか!と パワーポイントも使い情報を提供されました。

今日の日記には私が先ずは知りたかった内容につき、取り上げ
ました

感謝します
郷司 泰仁先生、そして年間を通してこのような催物を企画して下
さる、野洲市歴史民俗博物館友の会(私、Kennyも会員です)に
感謝します。なお、この日記の掲載に付いては両者のご了解を頂
いております。 

使わせていただいた絵図は郷司先生のお許をいただき、スクリー
ンに映された資料を撮影させていただきました。 出典はそれぞれ
の絵図にあります。


     講演会場の野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)  2013年秋の撮影

お断り
聞き違い、勘違いで間違いが多々あると思いますがどうか
ど素人
の講演メモとご容赦ください。

  今日もご覧くださいましてありがとうございました


  

 

 

 

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Kennyの国際交流:インドネシア料理に挑戦

2014-06-05 14:21:21 | ちょっとした話題

  インドネシア料理に挑戦
   =ココナッツミルクをたっぷり=
   どちらかと云えば屋台で戴く料理だそうです
     野洲市国際協会、会員さんの直伝で
        
 Kennyの興味プラス挑戦 & 発信
            (この日記の掲載期間:6月20日~6月26日)

         
           インドネシア国旗

国際交流会ではこんな催しも
私、Kennyは7年前に暇になるのが嫌なのと、
もう使わなくなる
もどきレベル英語がガンモドキ(意味不明? ガンモドキに失礼か?)
になるのがもっと嫌で、当交流会のお世話になりました。なんと
毎年嬉しいことに、いろんなイベントを開催されます。その中に
珍しい料理の紹介、外国編があります。


   出来上りの写真で今日の料理の解説です    頼もしいー ガルーさん!
         
今回は当会員のガルーさんの直伝です
ガルーさん
はご縁あって日本に住まれてもう13年、すっかりと日
本に、そして野洲市での生活を満喫されています。お互い中退組
ですがギター教室でもご一緒させて頂き、皆で結構楽しくやり
ました。とっても明るく気軽に話しかけてくださる、私よりも相当お
若い奥様です。


        そして料理の手順を手際よく  戴いた手製のレシピを真剣に
                
挑戦した料理は4品とかき氷        

 
ミーアヤーム (チキンの甘辛かけ麺)  ガドガド (ピーナッツドレッシングのサラダ)   

 
 ウインコ (ココナッツのおやき)                ランダム (肉カレー)

           
      エスチャンブルー (インドネシアのかき氷)   ランダムのレシピ
                                                                 (クリックで拡大します)

ココナッツミルク! なしでは料理は成り立たない?
実は私の今日の一番の興味はココナッツミルク(以後、これ)でした。
インドネシアはもとより、南国では本当にこれは大事な食材なん
ですね。 料理にお菓子にと。 

 
      ほんにこりゃーミルクやんか      紙パックでも売っています

失礼してちょっとぺろりと舐めてみました。 なかなかいいやない
ですか!! 隠し味に? ほんのりと甘く、まろやかな味が・・

さて料理開始


      ベテラン主婦さまもインドネシア料理となればちょっとレシピで確認も


                      私達男性も数人参加です

配布のレシピとにらめっこ、材料を刻むところから開始です。
”ガルーさん、こんでいいの?”  なんてでき具合を見て貰いな
がら進行していきます。 私、Kennyも女性陣の補佐役に留まら
ず、包丁も器用にさばき(自分でいうのもなんですが、結構やりますよ)、
鍋をかき混ぜ、洗い物もしっかりやりました。

お米を使った料理、お菓子、& インドネシアの紹介です


       作った料理の試食の後、ガル-先生のお話と生徒の交流です

インドネシアと日本、似通ったところもありましょうが、文化、習慣
は違って当然です。 ”主食はお米です” と。 でもお米は日本と
同じように頂くこともあれば、料理やお菓子の食材として日常は
使われるとのことです。暖かい国だから年間何度も収穫できるの
もいいですね。

 
                    ココナッツの木と実

庭に、山に行けば簡単に手に入ります。自身でココナッツ
ミルクに加工もしますが、お店でも加工品が売っているそ
うです。
       ココナッツについては ここをクリック してください

こんな和気藹々の料理教室でした。勿論会員でなくても色
んな行事に参加できます。 野洲市国際協会にお問い合わ
せください。

今回この日記を取り上げましたのは
日本には、滋賀県には多くの外国からいらっした方がおられ
ます。 永住、滞在期間もいろいろでしょうが、私達の日本で
素晴らしい思い出を作って頂きたいと願っています。ガルー
さんはこのように日本の、周辺の住民と積極的に交流されて
日本にすっかり馴染んでおられます。 その一部を紹介した
いと思いました。

なお、
このブログは私、Kenny個人が管理するブログで当協会
のブログではありません。 今回の日記の掲載に関しては
協会、ガルーさん両者の許可を頂いておりおります。

先日(18日)の朝刊に 「インドネシア ビサ免除」 の記事
がありました。 両国の信頼関係からくる決定です。 ガルー
さんはそのお国の出身です。

  インドネシアについては ここをクリック してください

     私がこのブログで前回取り上げた当国際協会のイベント
                  ここを クリックしてください

  今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

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Kennyの歴史探訪::深坂古道

2014-06-05 14:15:52 | 郷土史

     深坂地蔵さんに再会!
     小学生以来半世紀以上ぶりです
  =その山道は怖かったなー、当時は=
             塩津(しお)街道
          Kennyの滋賀から情報発信

    (この日記の掲載期間:6月13日~6月19日)


                         深坂地蔵さんと再会です

深坂古道っていうんですね、今は
私、Kennyの故郷はこの近くです。塩津街道にある深坂古道
当時は深坂越えと確か云ってましたし、歴史上
ではともかく、
幼心にはお地蔵さんが主役でした。

 
   北陸本線JR近江塩津駅から探索開始です。今日は約15km歩きます

でもね・・

その深坂地蔵さんのある所は、 塩津(と発音してくださいね
(近江)と敦賀(越前)
の県境で山の中、奥深い深坂峠にあり
ます。山道は不気味で田畑、林業、また炭焼き等に従事され
ている方が使う道だったのでしょうな。 兎に角そこへ行きたい
とは当時思ったこともありませんでした。


                 深坂地蔵さん  今は、立派なお堂と立派な境内が

ところが連れていかれたんです
小学校3年生位だったと思います、先生が野外授業でもと思
われたのか当時はまだ純真で文句も言わない私達をそこに連
れて行って下さったんですな。 本当にもう!迷惑なことです。
小さなお堂に入った大きな岩があったとしか記憶がないです。

そして半世紀経った現在、この度の催し物、「深阪古道ハイキ
ング」、奥びわ湖観光ボランテアガイド協
のツアーは待ちに
まったチャンスでした。


               JR近江塩津駅前に午前10時集合です

丁寧な案内、クマ出没も気になる
その深坂越(古道)の入口までは傍を通った時に偵察はしまし
たが、やはり大勢でまた案内があれば鬼に金棒、と機会を待っ
ていました。 春、秋は特に湖北、そこは熊の餌場ですしね。

 
                     国道8号線から古道に入ります

さて道中、興味を持って歩いた今回は

そこには深坂問屋跡(石垣)があり、立派なお堂
中にお地蔵
さんは納まっておられました。 コースは地元の方々や
当協会、
その他の皆さんのご努力ですっかり整備
されていました。地蔵
さんのある峠も幼かった過去の記
憶とは見違えるものでした。


                問屋跡の石垣 役目を終えて以後、風雪に耐えて

こんな石垣(遺跡)、全く記憶にございません。もっともここが
交通、輸送の重要な拠点であった、なんて、先生がご説明に
なっても理解も出来ない、洟垂れ小僧の頃のお話しです。


             

秀吉さんが
新しい道を作った、なるほど
その深坂越、とっても急な坂道です(特に敦賀側)。これでは荷
物を背負わされたお馬さんも、請負人もクタクタになるだけでは
なく、効率も明らかに悪いです。秀吉はこの深坂峠を避けて新
しい道、新道野越
を作りました。この開通を機に深坂越(古道)
は廃れて行ったのですね。


              急な坂道、正に登山道の古道です(敦賀側)
 写真仲間へ:過日教わった方法で撮影、ちょうどよい坂道のイメージ
       
が出ましたよ!(Kenny)

深坂古道とは:
塩津街道から福井県敦賀市へ抜ける古道。「塩の道」ともいい、
敦賀に陸揚げされた海の幸や塩・米など を畿内へ運ぶ重要な
海道で、万葉集の歌人・笠金村や紫式部が父に同行して 越前
へ行く際に通った道としても知られており、昔は人の往来が絶
えませんでした。  (奥びわ湖観光協会のHPより引用)


                       標識も完備です (写真: 塩津側) 

お地蔵さん、運河計画と疋田舟川
平安末期、平清盛は息子、重盛に琵琶湖・敦賀間の運河の開
を命じました。石工が岩を割ろうとしたところ、激しい腹痛に
見舞われ、掘り起こすとお地蔵さまが出てきたといわれていま
す。これが今も残る深坂地蔵(別名、堀止め地蔵)です
(奥びわ湖観光協会のHPより引用)

その後何度も計画が持ち上がり挫折したとのことです。その一
部として開通したのが敦賀側の在所、疋田(ひきだ)
に残って
疋田舟川です。


                   元々の川幅は2.8mだったとか

左に見える石垣は当時の物です。今は右の部分は埋め立て
られましたが、その石垣と伝えられる急流は今もしっかりと残
っています。



                       舟を引っ張る作業者  (現地の案内板)

急流のあまり、川底に丸太を敷き、滑らせて舟を引っ張る
という事もされていたんですね





塩津街道
北前船
などで敦賀に荷揚げされた北国の物資を畿内へ(その
逆方向も)送るために先ずはを塩津港
琵琶湖を丸子船で大
津へ)
へ運ぶ、近江と越前を結ぶ主要交通路でした。 唯一の
難所が深坂越で敦賀側からの標高差が250m、塩津側から
120mもあります。

しかしこの古道も・・
近世(江戸時代)中期に入り、西回り航路の成立で陰りが見
えて来ます。ただ北前船の幅広い物流により港(蝦夷地への
物資)としての機能
は果たします。ところが今度は明治に入
り鉄道の(現JR)開通で新道野峠も丸子船もその役目を終
えます。

 西回り航路:日本海・瀬戸内海から大坂(現大阪)に
         入るルートが出来、敦賀は素通り。北前船
                 は帰り便で敦賀から周辺の特産物資を蝦夷
                    地に運びました。

この項:過去の歴史講座での記憶と「北前船と日本海の時代」
      (福井県河野村発行)を参考に、私の理解で ”講釈”
      しました。 端折り過ぎかも・・・。

塩津街道の地図は?
下の関連情報、深坂古道に地図があります。ご参照ください。

関連情報:下のここををクリックしてください

         深坂地蔵 ここをクリック 
         深坂古道 ここをクリック 
         疋田舟川 ここをクリック 
          丸子船  ここをクリック 


        
  歴史探索ハイキングを終えてJR新疋田駅で解散です

JR近江塩津駅を10時30分に出発。国道8号線を北上して1時
間程で古道入り口に到着。 古道を深坂峠ー疋田集落と
探索の
後、16時前にJR新疋田駅で解散しました。

        
                        深坂古道コースマップ           拡大します
                                              (写真をクリックしてください)


 奥びわ湖観光ボランテアガイド協会の皆様、関係者の皆様
 ありがとうございました。


     今日もご覧くださいましてありがとうございました。

コメント (2)
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