佐和山城遺跡現地見学会がありました
=またまた目からウロコの一日でした=
*今日(30日)彦根城のことを付け加えました
JR東海道線の車窓から見える佐和山城址
以下は見学会に参加して初めて知った史実を書いています
滋賀県文化財保護協会の主催です。県外からの参加者も多くて大賑いでした。
今回参加して、そうやったんやー! と学んだ事を日記にしました。でも一緒に
読んでいただくことでそれって何処にあるの? 誰の城?から書かせて頂きます。
佐和山城址ってどこに?
JR東海道線で彦根駅を米原駅方向に進むと右側に小高い山が車窓から
見えてきます。その山の裾に佐和山城跡と書いた大きな看板が見えます。
その山(232.9M)全体がお城址です(TOPの写真)。
学芸員さんから歴史的背景のお話しです(本丸跡)
佐和山城とは
以下は当日戴いた当協会発行の「佐和山城跡」と同資料を横に置いて、
当日教えていただいた内容を確認しながら書いています。ただ、ここに
私が書いているすべての事が当冊子に書かれている訳ではありません。
素人の私が好き勝手に書いておりますので、間違いの多々については
大目にみてくさいね。
さて、関が原の合戦で徳川勢に破れて非業の死を遂げた石田三成が
最後の城主(この冊子では最後の城主は井伊直政になっていますが
直政は新築の彦根城へ移るまでの仮住まいなんでしょう? なので
私はこのように理解しておりますし、そのように仰る方もおられます)
であり、当時では小谷城や横山城など、それ以上に重要な城です。
佐和山山頂から彦根市内を望む (彦根城はこの写真のさらに右方向)
それは現存する彦根城が幕府の天下普請(今で言えば国家事業)であること
を思えば頷けます。東山道、北陸道。さらには琵琶湖と守りの最重要地点だっ
たからです。 しかし拠点を彦根城に移してこの城は破城となります。 つまり、
跡形もないように叩き潰されます。 徳川軍の保身です。
佐和山城は破城され彦根城に役目が移ります。
=ここから目からウロコのご紹介です=
井伊家による破城(城破り)によって
天主や櫓などの建物や石垣なども殆んど残っていないのです。ただ最近の
発掘調査で遺構や石垣の底部などが確認されているようです。でもそれだ
けで、まだ小谷城址の方が(この城も破城に)石垣などが残っていますよね。
もっとも石垣は新しい城を造る時に再利用されるので抜き石される事が普通
で、事実彦根城築城の時には石垣などの部材がすっかり持ち去られ、全くと
いっていい程見当たりません。そこで学芸員さんが土に埋まり頭を少しだけ
出したわずかな石垣の場所に案内してくれました。算木積みという技法の
石垣だそうです。
僅かに残る石垣
土塁や堀切(共に敵の侵入を防ぐ)、井戸も
山に城を築くには水の確保が重要で、千貫井(千貫の価値がある)と名づけ
られた井戸が今も当時を物語っています。
佐和山城山頂付近にある千貫井(井戸)
女郎ケ谷という谷底
関が原合戦後の徳川軍の佐和山城攻撃で城内にいた女性達が身を投げたと
伝える谷がありました。 当時は敵の侵入を防ぐ為にも断崖絶壁だったので
しょうが、今は斜面にもなり樹木が生い茂っておりました。
女郎ケ谷
三成の屋敷跡、武家屋敷跡や堀も
佐和山の南西麓「モチノ木谷」には屋敷跡などが発掘調査で確認されて
います。また琵琶湖側にも屋敷跡があったとされています。
今も残るお堀
武家屋敷のあった谷間
ボランティアガイドさんにくっついて
当日、10人位の団体さんをガイドしておられた方に許しを得て同行し多くの
ことを学びました。
1.井伊直弼の母のお墓が麓にあります。
私の疑問は、井伊家によって潰された城山の麓になぜ生母のお墓が?
聞き漏らしました・・・。
井伊直弼生母の墓
2.天主閣と閣をつけるのは間違いで天主が正しい。閣は通天閣などの
出現でこの100年位の間に天主を天守閣と呼ばれるようになったと。
3.淀君の君は間違いでありNHKでは淀殿と呼んでいる。 君は一つには
遊女の異称でもあり相応しくないそうです。
4.*なぜ佐和山城を使うことを止めて新しい城を(彦根城)
それは合戦が鉄砲の時代に入ったことが主要因らしいですよ。つまり
もう高い山の上の城(山城)は必要がない。平地での足軽を主体とする
集団戦になり近代的な平山城の築城が必要だったと。
国宝彦根城(2010年10月30日撮影)
石田三成のこのシンボルマーク
一人の偉大な為政者が万人を幸せにするという意味だそうです。
三成の昇り旗
佐和山城址を学芸員さん、ボランティアガイドさんに案内して頂き
今回のように解説付きで案内していただくと足を運んで数倍の値打ちが
あります。本当にありがたいことです。数年前に一度一人でこの本丸に
立ちましたがおおここがそうか、とただそれだけです。
今回は他にも城の裏表が一度交代(変えている)しているとか、鳥居本の
侍屋敷跡、佐和山城の大手門がどこそこに移築されたなどなど、嬉しい
限りの一日でした。結構このような企画に参加しますので、学芸員さんに
顔見知りが居られます。皆さん、回数が増えるにつれ企画内容に苦労す
るとふと漏らされるのも、見学者がどんどん知識を見につけるからでは
ないでしょうか。
皆様、これからもよろしくお願いします。
今日もご覧くださいましてありがとうございました。
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ギターもほどほどのFこと
「しょうめいさん」です。
私も佐和山城に某博物館学芸員さんと2人で登ったことがありますよ。
その時は歴史ウォーキングのルートの下見だったので、
石垣やお堀の跡は全然見ませんでしたが…
ほんとにお城があったのですね!!!!
私はてっきり戦いの砦の意味での
「お城」があったのかと思っておりました。
ほんと、目からウロコです。
また行かないと。
佐和山の城跡には登りましたが、井戸の存在は知りませんでした。
写真を拝見してから、手許の『探訪』を確認すると、確かに井戸のことが記述され、地図にも場所が載っていました。(この本を入手する前に行ってたからなあ・・・残念)
改めてまた、登ってみます。
淀どのの件、ウイキペディアで「淀殿」で検索して見たら、「名称について」としてかなり具体的に解説がありました。
今まであまり気にしていなかったことでしたので、参考になりました。
こんな説明が載っています。
「淀君」という呼称が広く普及して一般に定着するのは、明治時代に坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演された以降のことである。「淀君」の呼称については、悪女、淫婦というイメージとともに売春婦の呼称(「遊君」、「辻君」など)と結びつけて定着したと小和田哲男が主張し、田中貴子が追随した[12]。 ただし、幕末に編纂された「徳川幕府家譜」で徳川家康の継室朝日姫が「朝日君」、秀忠の継室崇源院が「於江与君」とされているなど、「君」がすぐさま蔑称だと断定するには一定の留保が必要である。
ウイキペディアには、さらに補足的な解説が前後にありました。知らないことばかり。
そうでしたか! 行ってこられましたか。そうなんですよ、私も最近まで砦くらいにしか思っていませんでした。ところがそれも東山道(中山道)、北陸道、琵琶湖の各ルートをにらむ重要なお城でした。コメントありがとうございました。
井伊直正⇒直政
佐和山城の落城時・・・家康と直政が平田山城から見ていた様です。
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/7cf6a6f100bfeffa7e060111c5e2f34f
平田山城から、そうですか・・。 大河ドラマもいよいよ近江に舞台を移します。 正に生死を掛けた戦い、選挙や企業戦争とは訳が違います。現在に生を受けて有難いことです(笑)